徳川正子とは? わかりやすく解説

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徳川正子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/27 09:39 UTC 版)

徳川 正子(とくがわ なおこ、1885年明治18年〉9月21日 - 1963年昭和38年〉8月17日)は、徳川家正の夫人。 

生涯

薩摩藩主の公爵・島津忠義とその側室山崎寿満子の九女として誕生した。父の死後、1898年(明治31年)4月12日、木曽川丸で姉・邦彦王妃俔子、弟・島津忠重と神戸へ、汽車にて同年4月18日、旧新橋駅に着く[1]1906年(明治39年)3月、華族女学校を卒業[2]。その後、徳川家正と結婚し、1男3女をもうける。

家族

徳川家正一家(左が家正、右が正子)

夫は徳川宗家第17代当主の徳川家正で、その結婚は2人が誕生する前に、13代将軍徳川家定の正室であった天璋院の遺言によって既に決められていた[3]

家督については、長男の家英(いえひで)が先立って死去したため、夫・家正は徳川宗家の断絶を恐れて長女の豊子と会津松平家松平一郎との間に生まれた次男の恒孝を養子とし、家正死後に恒孝が徳川宗家第18代当主となった。なお、恒孝の父方の祖父である松平恆雄第1回参議院議員通常選挙に当選し、第1回国会の議長選挙で初代参議院議長に選出されている。

エピソード

  • 嫁ぎ先の千駄ヶ谷の家の奥向きは、すべて義母(徳川泰子)が采配を振るっており、子供の世話に口を出すことができなかった。[6]
  • 無口な血筋であり、夫家正に帯同し外国へ行くも、英語等は上達しなかった。[6]
  • 家正との外国への渡航は3回で、①英国(1回目)②中国③英国(2回目)であった。以降はついて行かず、家に残ったという。[6]
  • ロンドンで覚えた編み物を趣味とし、娘たちのスウェーターなどを編んでいた。[6]

脚注

注釈

  1. ^ 東北帝国大学法文学部在学中の1936年(昭和11年)9月28日午前4時半、敗血症のため東京府東京市渋谷区(現在の東京都渋谷区)の日本赤十字社病院で死去[4]。24歳没。未婚であった。

出典

  1. ^ しらゆき. 島津出版会刊 
  2. ^ 女子学習院一覧. 昭和2年 乙”. 2020年1月7日閲覧。
  3. ^ 『花葵』ISBN 4620312347
  4. ^ 『読売新聞』1936年9月29日付夕刊。
  5. ^ 著書に『花葵 徳川邸おもいで話』(保科順子、毎日新聞社、1998年)がある。
  6. ^ a b c d 『春は昔 徳川宗家に生まれて』文藝春秋、2012年12月4日、35頁。 



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