いみのみやじんじゃ 【忌宮神社】
忌宮神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/02 23:15 UTC 版)
忌宮神社 | |
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鳥居と拝殿 | |
所在地 | 山口県下関市長府宮の内1-18 |
位置 | 北緯33度59分56.3秒 東経130度59分15.2秒 / 北緯33.998972度 東経130.987556度座標: 北緯33度59分56.3秒 東経130度59分15.2秒 / 北緯33.998972度 東経130.987556度 |
主祭神 |
仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 |
社格等 |
式内社(小) 長門国二宮 旧国幣小社 別表神社 |
創建 | 仲哀天皇8年(199年) |
例祭 | 12月15日 |
主な神事 |
数方庭祭(8月7日 - 13日) 御斎神事(12月7日 - 15日) |
地図 |
忌宮神社(いみのみやじんじゃ)は、山口県下関市にある神社。長府(城下町エリア)のほぼ中心に位置し、仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮である豊浦宮の跡とされる。
概要

式内社で、旧社格は国幣小社。長門国二宮とされ、現在は神社本庁の別表神社である。飛地境内として国の天然記念物満珠島干珠島を有している。
また、魁傑將晃が現役時代、荒熊稲荷神社で九州場所の必勝祈願を行い優勝したことが縁となり、毎年11月3日の三日相撲に合わせて参拝する。荒熊稲荷神社脇には相撲資料館が併設され魁傑や大乃国康(現:芝田山)の化粧まわしや優勝杯、大銀杏などが展示されている。
祭神
別宮・摂末社
歴史
仲哀天皇元年(192年)に熊襲の征討に訪れ、仲哀天皇2年(193年)に行宮豊浦宮を建てられた。三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。
仲哀天皇8年(199年)に天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝える。聖武天皇の時代に神功皇后・応神天皇を奉斎して、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていた。中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。延喜式神名帳では「長門国豊浦郡 忌宮神社」と記載され、小社に列している。
延元元年(1336年)、足利尊氏が忌宮神社で戦勝祈願を行い延元2年(1337年)に法楽和歌を奉納する。長府毛利家の厚い庇護を受け、境内社として歴代藩主を祀る豊功神社も置かれた(現在は長府海岸近くの宮崎八幡宮と合祀され豊功神社として祀られている)。古来、文武の神・勝運の神として歴朝の尊崇厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきた。
年中行事
- 奉射祭 - 1月15日
- 蚕種祭 - 3月28日
- 島祭 - 4月2日
- 春季大祭 - 5月15日(最寄りの日曜日)
- 夏越祭 - 7月14日 - 16日
- 数方庭祭 - 8月7日 - 13日まで毎夜
- 秋季大祭 - 10月15日(最寄りの日曜日)
- 三日相撲 - 11月3日
- 御斎神事 - 12月7日夕 - 15日暁
- 例祭 - 12月15日
特殊神事
- 数方庭祭(すほうていさい)
- 8月7日から13日まで7夜に渡って行われる祭である。
- 数方庭の期間の毎夜男子は幟、女子は切籠と呼ぶ灯籠を吊した笹竹を持って、鉦・太鼓に和して鬼石のまわりを踊り舞う。このように一見変わった祭りのため「天下の奇祭」[1][2]と呼ばれる。
- 仲哀天皇7年、新羅の塵輪(じんりん)の扇動で熊襲が豊浦宮を襲撃したが、仲哀天皇自ら弓矢を取って塵輪を討ち、熊襲を撃退した。戦勝を祝い、塵輪の屍体を囲んで踊ったのが数方庭の起源であると伝える。石見神楽など、各地方に伝わる神楽舞には「塵輪」という演目があるが、本伝説が基といわれる。一説では塵倫は巨大な怪鳥であったともいわれ数方庭祭を斎行しなかった年に長府の空を大きな鳥の影が飛び疫病が流行った。
- 塵倫の祟りだと考えた神社、また長府の町民が7日間数方庭祭を続けたところ疫病が治まったことから一週間祭りを行うとも、神功皇后が7日7夜の間、忌籠りされて天地の神々に戦勝を祈願されたという伝説、仲哀天皇の追悼の為、7日間喪に服したことからなど諸説ある。この7日間は後述の御斎神事期間の由来と同様とされる。
- 「すほうてい」は他に「スホーデン」「スッポウディ」などと呼ばれ、「数方庭」の他にも「数宝庭」「数方勢」などの当て字がある。朝鮮半島の「ソッティ」「スサルティ」など音が似ている語との関連も研究されている[3]。
- 境内中心の鬼石のまわりを男は幟、女は切り籠と呼ばれる笹飾りを持って舞う、幟は最大30m、100kgにもなり修練が必要となる。もとは戦勝祈願と同時に敵の大将である塵倫や戦で命を落とした者への慰霊・供養の祭であったと言われるが数方庭が数宝庭と書かれたことや様々な信仰が混じり合い、現在は五穀豊穣、子孫繁栄、厄難退除、先祖供養などの祭となっている。
- 御斎神事(おいみしんじ)
- 例祭は12月15日である。その前の12月7日夕刻から15日暁までは「御斎祭(おいみさい)」として、境内に注連縄を張り巡らし、一般の人の参拝をできないようにし、神職も境内の外へ出ないという厳重な物忌みが行われる。御斎神事中は深夜に様々な秘祭が行われる。この間、神職は風呂に入れず、髭も剃れない。また、日々の食事も制限され粥と漬け物、お湯だけで過ごし、15日暁の忌明けと同時に身を清め、例祭に備える。神事の開始を告げる境外摂社守宮司神社での板神楽神事を始め、御衣・御神宝調製、三朝神事、全神職の海中潔斎、御衣・御神宝奉納の御祭が主な祭である。長門一の宮である住吉荒魂本宮でも概ね同様の神事が行われる。
- 16日の夕刻には御斎神事と例祭の無事終了の報告を守宮司神社で行い後烏神事と呼ばれ、忌宮神社を上位の神職から出立し、後烏神事後は下位の神職から忌宮神社へ帰社する。帰社の際、惣社町の町民が囃歌と共に見送る。
文化財
- 重要文化財
- 刀 無銘(伝則宗)折り紙付き
- 太刀 銘備州長船盛光 応永廿三年八月日
- 豊浦宮法楽和歌 (足利尊氏奉納)
- 忌宮神社文書 28巻3冊(372通)・忌宮神社境内絵図1幅(附:忌宮神社記録2巻12冊)
- 県指定文化財
- 狩野芳崖奉納の絵馬
- 市指定文化財
- 能面・狂言面
脚注
- ^ 忌宮神社
- ^ 「“天下の奇祭” 「数方庭祭」の由来は」 山口 NEWS WEB(NHK NEWS WEB) 2022年8月9日
- ^ 吉岡一生『山口伝説散歩 : 防長写伝』NCID BA78408512、2001年、p.20
関連図書
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、11頁
- 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、46頁
- 上山春平他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、248-249頁
外部リンク
忌宮神社
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長府宮の内町にある神社。中世社格制度における長門国の二宮である。祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇。神紋は白鳥。近代社格制度では明治6年(1873年)に県社、大正5年(1916年)に国幣小社になった。 忌宮神社は仲哀天皇の節で述べたように仲哀天皇がもともと滞在していた場所であり、2世紀末頃、神功皇后が仲哀天皇の霊を祀って豊浦宮に祀った。神亀5年(728年)には神功皇后の分霊を香椎宮(かしいぐう)から勧請して忌宮に祀った。その後、応神天皇を豊明宮(とよあけのみや)に祀ったが、豊浦宮と豊明宮は中世に全焼してしまい、どちらも忌宮に合祀した。 忌宮神社で行われる数方庭(すほうてい)祭は男は鬼石(下で説明)の周囲を幟(のぼり)を持って回り、女は切籠(きりこ)を持って舞う祭りである。「天下の奇祭」と呼ばれ、国学者の近藤芳樹は数方庭祭について以下のような歌を残している。 旗ささげ 我も踊らん 若かれば 神の御庭に 昔しのびて — 近藤芳樹 数方庭祭は昭和32年(1957年)4月には山口県指定の民俗資料に指定され、昭和34年(1959年)11月2日には山口県指定無形民俗文化財に指定された。 忌宮神社で12月7日~12月15日に行われるお斎(いみ)(忌)祭では普通の人は忌宮神社境内に入ってはいけないという風習がある。発端は神功皇后が仲哀天皇の死亡の後、新羅へ出兵するか否か神に判断を聞いたことである。さらに忌宮神社境内に入れないだけでなく、忌宮神社周辺地域では夜に外出禁止、洗濯禁止、音楽を鳴らさないなど厳しいもので、守らなければ病気になる・神の怒りにふれるといわれている。 忌宮神社境内の建造物 忌宮神社は東西南北のいずれの方角にも鳥居が設置されている。南鳥居から入ると左に大灯篭、前方に鬼石、右にさか松と数方庭由来碑がある。拝殿に入る前の門は大正15年(1926年)に設置された神門で、左に手水舎がある。神門を通ったあとに見えるのは拝殿で、奥に幣殿、本殿と連なる。本殿の東西にあるのは武内宿禰を祀る高良社と仁徳天皇を祀る若宮社である。忌宮神社境内には他の神社として素盞嗚神(すさのおのかみ)を祀った八坂神社、宇賀魂神(うかのみたまのかみ)を祀った荒熊稲荷神社が忌宮の左右にある。他にも高良社の東には参集殿、若宮社の西側には授与所、荒熊稲荷神社の鳥居西側には稲荷神社授与所、八坂神社の東には嘯風館(しょうふうかん)、西には宝物殿と倉庫と神輿庫がある。 境内には以下のような由緒ある事物がある。 鬼石 仲哀天皇7年(198年)に新羅の塵輪が攻めてきたときに仲哀天皇みずから塵輪を射殺し、その首を埋めるときに使われた石といわれている。鬼石の「鬼」とは塵輪の顔のことである。数方庭祭は塵輪を射殺したときにその死体の周辺を踊ったことに由来し、その後にこの鬼石で埋めたといわれている。 さか松 忌宮神社境内の一部に松の木が生えた場所があり、この起源は神功皇后が植えた「さか松」に由来するという伝承がある。さか松(逆松)は神功皇后が仲哀天皇を祀ったときに松を逆さにして植えたもので、明治4年(1871年)に枯れるまで約1670年間も生きていたと言われている。明治7年(1874年)には忌宮神社の火災のためその一部は焼けてしまったが、現在でも3代目の松が植えられて残っている。 宿禰の銀杏 忌宮神社の南側にあるイチョウ。武内宿禰が植えたイチョウの子孫であると伝えられている。 忌宮神社の所有物 忌宮神社の所有物は多くの物品が記念物に指定されている。 紙本墨書豊浦宮法楽和歌は明治43年(1910年)4月20日に国宝(ただし旧国宝)に指定され、昭和25年(1950年)8月29日に国指定重要文化財となった。この紙本には足利尊氏、足利直義、斯波高経、足利直冬によりそれぞれ2首ずつ和歌が奉納された。以下にその和歌を示す。 この御代は にしの海より をさまりて よもにはあらき 波風もなしいにしへの 二つのたまの 光こそ くもらぬ神の こころなりけれ — 足利尊氏 神がきは 八重の潮路を 隔つれど 心づくしぞ 今も忘れぬいにしへは 人の国まで なびきけり 神のめぐみも 今ぞ知らるる — 足利直義 日のもとの 七の道も をさまりぬ 三国なびかす 神の守りに岩清水 流れのすゑと 思ふにも この神がきを なほ仰ぐかな — 斯波高経 かはりつる 世々を思へば この神は 心づくしの のちをまほりきいにしへに かはらぬ神の ちかひならば 人の国まで をさめざらめや — 足利直冬 則宗作といわれる無銘の刀も忌宮神社が所有する物品の一つである。大正15年(1926年)4月19日に国宝(ただし旧国宝)に指定され、昭和25年(1950年)8月29日には国指定重要文化財となった。長さは72.3cmで、長府藩14代藩主毛利元敏によって寄進された。刀に添えられた折り紙(鑑定書のこと)は元禄5年(1692年)10月に本阿弥光忠によって添えられたものである。 備州長船盛光の銘が打たれた太刀も忌宮神社が所有している。銘によると応永23年(1416年)8月製作。長州藩14代藩主毛利元徳により寄進された。大正15年(1926年)4月19日に国宝指定(ただし旧国宝)、昭和25年(1950年)8月29日より国指定重要文化財となった。 太刀には備州住正廣の銘が打たれた太刀もあるが、こちらは市指定有形文化財である。長府藩の家老、田代大学により寄進されたもので、昭和45年(1970年)10月26日に文化財に指定された。 他にも所有物としては21面の能面と6面の狂言面が市指定有形文化財に指定されており、忌宮神社神事能規則書と旧長府藩能舞台桟敷割図がそれに伴って附指定されている。これらは昭和47年(1972年)5月11日に指定された。 忌宮神社の行事 骨董市(第2日曜日、ただし8月・12月は第3日曜日) 荒熊稲荷神社月次祭(毎月3日) 粥神供(かゆしんく)と奉射(ぶしゃ)祭粥神供は小正月に小豆粥を食べる風習があるのと似たもので、忌宮神社では小豆粥に更に餅を入れて神饌として供える。奉射祭は他の神社における歩射祭とほとんど同じもので、歩きながら的を射る神事である。忌宮神社の場合は仲哀天皇の塵輪退治が由来である。 蚕種祭(3月28日)蚕種祭は長府が蚕種渡来の地であることを祝う祭で、蠶種渡来之地の碑建立以来一時中断されることもあったが行われている。 船相撲(4月3日) 春季大祭(5月15日に近い日曜日) 数方庭祭(8月7~13日) 春季大祭(10月15日に近い日曜日) 荒熊稲荷神社例祭・三日相撲(11月3日) お斎祭(12月7~15日) 例祭(12月15日)
※この「忌宮神社」の解説は、「長府」の解説の一部です。
「忌宮神社」を含む「長府」の記事については、「長府」の概要を参照ください。
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