いみのみやじんじゃ 【忌宮神社】
忌宮神社
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忌宮神社(いみのみやじんじゃ)は、山口県下関市にある神社。長府(城下町エリア)のほぼ中心に位置し、仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮である豊浦宮の跡とされる。
- ^ http://iminomiya-jinjya.com/events/43
- ^ https://www3.nhk.or.jp/lnews/yamaguchi/20220809/4060014364.html
- ^ 吉岡一生『山口伝説散歩 : 防長写伝』NCID BA78408512、2001年、p.20
忌宮神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 04:41 UTC 版)
長府宮の内町にある神社。中世社格制度における長門国の二宮である。祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇。神紋は白鳥。近代社格制度では明治6年(1873年)に県社、大正5年(1916年)に国幣小社になった。 忌宮神社は仲哀天皇の節で述べたように仲哀天皇がもともと滞在していた場所であり、2世紀末頃、神功皇后が仲哀天皇の霊を祀って豊浦宮に祀った。神亀5年(728年)には神功皇后の分霊を香椎宮(かしいぐう)から勧請して忌宮に祀った。その後、応神天皇を豊明宮(とよあけのみや)に祀ったが、豊浦宮と豊明宮は中世に全焼してしまい、どちらも忌宮に合祀した。 忌宮神社で行われる数方庭(すほうてい)祭は男は鬼石(下で説明)の周囲を幟(のぼり)を持って回り、女は切籠(きりこ)を持って舞う祭りである。「天下の奇祭」と呼ばれ、国学者の近藤芳樹は数方庭祭について以下のような歌を残している。 旗ささげ 我も踊らん 若かれば 神の御庭に 昔しのびて — 近藤芳樹 数方庭祭は昭和32年(1957年)4月には山口県指定の民俗資料に指定され、昭和34年(1959年)11月2日には山口県指定無形民俗文化財に指定された。 忌宮神社で12月7日~12月15日に行われるお斎(いみ)(忌)祭では普通の人は忌宮神社境内に入ってはいけないという風習がある。発端は神功皇后が仲哀天皇の死亡の後、新羅へ出兵するか否か神に判断を聞いたことである。さらに忌宮神社境内に入れないだけでなく、忌宮神社周辺地域では夜に外出禁止、洗濯禁止、音楽を鳴らさないなど厳しいもので、守らなければ病気になる・神の怒りにふれるといわれている。 忌宮神社境内の建造物 忌宮神社は東西南北のいずれの方角にも鳥居が設置されている。南鳥居から入ると左に大灯篭、前方に鬼石、右にさか松と数方庭由来碑がある。拝殿に入る前の門は大正15年(1926年)に設置された神門で、左に手水舎がある。神門を通ったあとに見えるのは拝殿で、奥に幣殿、本殿と連なる。本殿の東西にあるのは武内宿禰を祀る高良社と仁徳天皇を祀る若宮社である。忌宮神社境内には他の神社として素盞嗚神(すさのおのかみ)を祀った八坂神社、宇賀魂神(うかのみたまのかみ)を祀った荒熊稲荷神社が忌宮の左右にある。他にも高良社の東には参集殿、若宮社の西側には授与所、荒熊稲荷神社の鳥居西側には稲荷神社授与所、八坂神社の東には嘯風館(しょうふうかん)、西には宝物殿と倉庫と神輿庫がある。 境内には以下のような由緒ある事物がある。 鬼石 仲哀天皇7年(198年)に新羅の塵輪が攻めてきたときに仲哀天皇みずから塵輪を射殺し、その首を埋めるときに使われた石といわれている。鬼石の「鬼」とは塵輪の顔のことである。数方庭祭は塵輪を射殺したときにその死体の周辺を踊ったことに由来し、その後にこの鬼石で埋めたといわれている。 さか松 忌宮神社境内の一部に松の木が生えた場所があり、この起源は神功皇后が植えた「さか松」に由来するという伝承がある。さか松(逆松)は神功皇后が仲哀天皇を祀ったときに松を逆さにして植えたもので、明治4年(1871年)に枯れるまで約1670年間も生きていたと言われている。明治7年(1874年)には忌宮神社の火災のためその一部は焼けてしまったが、現在でも3代目の松が植えられて残っている。 宿禰の銀杏 忌宮神社の南側にあるイチョウ。武内宿禰が植えたイチョウの子孫であると伝えられている。 忌宮神社の所有物 忌宮神社の所有物は多くの物品が記念物に指定されている。 紙本墨書豊浦宮法楽和歌は明治43年(1910年)4月20日に国宝(ただし旧国宝)に指定され、昭和25年(1950年)8月29日に国指定重要文化財となった。この紙本には足利尊氏、足利直義、斯波高経、足利直冬によりそれぞれ2首ずつ和歌が奉納された。以下にその和歌を示す。 この御代は にしの海より をさまりて よもにはあらき 波風もなしいにしへの 二つのたまの 光こそ くもらぬ神の こころなりけれ — 足利尊氏 神がきは 八重の潮路を 隔つれど 心づくしぞ 今も忘れぬいにしへは 人の国まで なびきけり 神のめぐみも 今ぞ知らるる — 足利直義 日のもとの 七の道も をさまりぬ 三国なびかす 神の守りに岩清水 流れのすゑと 思ふにも この神がきを なほ仰ぐかな — 斯波高経 かはりつる 世々を思へば この神は 心づくしの のちをまほりきいにしへに かはらぬ神の ちかひならば 人の国まで をさめざらめや — 足利直冬 則宗作といわれる無銘の刀も忌宮神社が所有する物品の一つである。大正15年(1926年)4月19日に国宝(ただし旧国宝)に指定され、昭和25年(1950年)8月29日には国指定重要文化財となった。長さは72.3cmで、長府藩14代藩主毛利元敏によって寄進された。刀に添えられた折り紙(鑑定書のこと)は元禄5年(1692年)10月に本阿弥光忠によって添えられたものである。 備州長船盛光の銘が打たれた太刀も忌宮神社が所有している。銘によると応永23年(1416年)8月製作。長州藩14代藩主毛利元徳により寄進された。大正15年(1926年)4月19日に国宝指定(ただし旧国宝)、昭和25年(1950年)8月29日より国指定重要文化財となった。 太刀には備州住正廣の銘が打たれた太刀もあるが、こちらは市指定有形文化財である。長府藩の家老、田代大学により寄進されたもので、昭和45年(1970年)10月26日に文化財に指定された。 他にも所有物としては21面の能面と6面の狂言面が市指定有形文化財に指定されており、忌宮神社神事能規則書と旧長府藩能舞台桟敷割図がそれに伴って附指定されている。これらは昭和47年(1972年)5月11日に指定された。 忌宮神社の行事 骨董市(第2日曜日、ただし8月・12月は第3日曜日) 荒熊稲荷神社月次祭(毎月3日) 粥神供(かゆしんく)と奉射(ぶしゃ)祭粥神供は小正月に小豆粥を食べる風習があるのと似たもので、忌宮神社では小豆粥に更に餅を入れて神饌として供える。奉射祭は他の神社における歩射祭とほとんど同じもので、歩きながら的を射る神事である。忌宮神社の場合は仲哀天皇の塵輪退治が由来である。 蚕種祭(3月28日)蚕種祭は長府が蚕種渡来の地であることを祝う祭で、蠶種渡来之地の碑建立以来一時中断されることもあったが行われている。 船相撲(4月3日) 春季大祭(5月15日に近い日曜日) 数方庭祭(8月7~13日) 春季大祭(10月15日に近い日曜日) 荒熊稲荷神社例祭・三日相撲(11月3日) お斎祭(12月7~15日) 例祭(12月15日)
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