他の神社とは? わかりやすく解説

他の神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 04:41 UTC 版)

長府」の記事における「他の神社」の解説

乃木神社 長府宮の内町にあり、大正9年1920年1月30日乃木希典の旧邸に建てられ神社祭神乃木希典とその妻乃木静子神紋市松四つ目目結紋乃木神社内の宝物館には乃木希典静子夫妻遺品など展示されている。 乃木神社宝物館前に乃木記念会が復元した旧邸がある。六畳と三畳の部屋および二坪の土間からなる質素な家である。また、この家の復元には長門尊攘堂設置尽力したことで知られる弥一家の構造担当した弥一乃木希典生前乃木本人の手紙から旧邸の間取り知っていた。旧邸内作られた希典と父母木像は希典の甥、長谷川栄作よるもので、希典が教訓受けている様子再現されている。 乃木記念会は大正2年1913年)に誕生した団体で、当初の目的である旧邸の復元の後に解散したが、その後同時期に誕生した乃木神社創建委員会大正6年1917年)に神社建てる許可得た大正8年1919年)には着工し翌年には1月30日竣工し2月9日近代社格制度における県社になった最初乃木希典のみを祀っていたが、昭和37年1962年)には静子合祀した乃木神社境内建造物 乃木神社鳥居道路1つ入口1つある。鳥居通り抜けると左(方角では南)に武道館、右(北)に社務所、奥(西)に拝殿見える。授与所は拝殿右に社務所連なるように位置している。拝殿の奥には幣殿本殿続き神饌所拝殿の左奥(南西)にある。宝物館拝殿を左(南)に曲がった場所にある。 行事 春祭4月11日例祭9月13日) 豊功(とよこと)神社 宮崎町にある神社近代社格制度においては県社明治16年1883年)に指定された。祭神応神天皇武内宿禰大国主穂井田元清長府藩主神紋一文字三つ星豊功神社にある他の神社としては串崎稲荷神社秋葉社がある。 天保5年1834年)に毛利秀元明神の号が許され慶応2年1866年)に忌宮神社境内に豊功社として建てられたのが始まりである。明治10年1877年)には現在と同じ豊功神社改名した。この時期豊功神社現在地にあったのは松崎八幡宮という神社古く八幡宮宮崎八幡宮ともいった。それを大正6年1917年)に合祀して豊功神社忌宮神社境内から宮崎町移された。昭和44年1969年6月30日全焼してしまい、仮の社殿建てられたが昭和52年1977年)には社務所全焼昭和57年1982年)に社務所復旧したものの昭和60年台風第13号で仮の社殿壊滅的な状態に陥った翌年再度社殿建てられたが土砂崩れ被害を受け、平成13年2001年11月10日現在の社殿建てられた。 行事 歳旦祭日の出太鼓1月1日報国隊祭(2月14日に近い日曜日例祭献茶式(4月第1または第2日曜日観月祭(中秋の名月前後秋季大祭11月7日四王神社 大字松小田標高が392mある四王司山山中にある神社仲哀天皇豊浦宮滞在中に四王司山大地主神おおとこぬしのかみ)と保食神うけもちのかみ)を仲哀天皇2年193年)に守護神として祀ったのが起源毘沙門天配祀神として祀られており、毘沙門天像は敵の降伏と国の安泰願って貞観9年867年)に清和天皇により安置されたものであるといわれている。神紋白鳥。 もとは四王毘沙門祠と呼ばれていて、神社として呼ばれたのは明治初期のことである。社殿昭和60年1985年)に一度全焼してしまったが2年後には復旧した四王神社建造物 四王神社には鳥居いくつかある。最後鳥居抜けると拝殿見え拝殿の奥には幣殿本殿へと繋がっている。幣殿左側方角としては南南西)には参集所がある。その手前からさらに左に行くと四王司城を拠点としていた厚東武村の墓がある(画像)。 行事 例祭一月初寅) 月寅祭(毎月初寅二番寅祭(1月2回目の寅の日) 桜祭4月第1か第2日曜日初寅毎年正月行われる行事で、1月1日のように日付で決まるわけではなく十二支初めて寅の日になるときに行われるご利益として3年参詣し続ければ武運長久開運勝利福徳円満があるといわれている。 四王司の毘沙門天像が王司の方へ移されていたときに、その地の「久兵衛」という男が夢で毘沙門天に「願いを叶える代わりに初寅のときだけでも四王司に移してくれ」と言われ久兵衛四王司に戻したために行われるようになったといわれている。久兵衛願い家族仲直りしたいというものであり、その願い叶えられたと伝えられている。 また、初寅の日には笹の葉が福飾りとして売られる。これは小月住んでいた「八重」という女の叔父初寅の日に笹の葉1枚四王司山からご利益があると思って持って帰った翌日笹の葉消えて小判が5現れたという話にちなむものである才川神社 大字才川にある神社鳥居前後に各1対、つまり計4体の狛犬設置されており、鳥居の奥には拝殿本殿と続く。どの時期建てられたかなどは不明だが、元の名前は河内神社で、寛永のときと宝暦10年1760年)に再建されたといわれている。一度明治42年1909年)に忌宮神社合祀となったが、昭和2年1927年)には才川神社として現在地移った祭神は弥都波能売命(みつはのめのみこと)、大穴牟遅神おおなむちのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)。例祭11月23日豊凶を占う粥占いという行事同時に行われる貴船神社 前田にある神社祭神高龗神たかおかみのかみ)、保食神。いつ建立されたかなどは不明例祭10月17日である。 惣社宮 - 画像 万延元年1860年)に建立された。昭和47年1972年3月ごろには解体されたが、その後昭和56年1981年5月26日には再建された。 守宮司(しゅぐうじ)神社 - 画像 惣社町にある神社。別名は尺氏社忌宮神社お斎祭のときには板をバチ打ち、笛を演奏する神楽という行事12月8日深夜2時ごろに行われる恵比寿社(廃) 満珠島・干珠島の遠い方の島にかつてあった社。文久3年1863年)には中浜町移転明治41年1908年)には八坂神社忌宮神社隣)に合祀となって廃社となった

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