藤原文正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/22 13:32 UTC 版)
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| 時代 | 平安時代中期 |
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 不詳 |
| 官位 | 従五位下、加賀守 |
| 主君 | 村上天皇 |
| 氏族 | 藤原式家 |
| 父母 | 父:藤原忠紀、母:三河守宗季の娘 |
| 妻 | 藤原祐之の娘 |
| 子 | 光輔 |
藤原 文正(ふじわら の ふみまさ)は、平安時代中期の貴族・能書家。藤原式家、周防守・藤原安継の後裔、下野守・藤原忠紀の子。官位は従五位下・加賀守。
経歴
村上朝中期に大内記・六位蔵人を務め、天徳3年(959年)ごろに従五位下・尾張守叙任された。のち、加賀守と受領を歴任した。
書画を能くし、紀時文・小野奉時・菅原文時とともに「四輩」の一人として名が見える(『尺素往来』)。能書家として、以下の逸話がある。
- 乾元大宝の鋳銭に際して、貨幣の文字の下書きが小野道風に下命されるも、眼が悪く細字の揮毫に支障を来したため、代役として文正が推挙された(『九暦』『日本紀略』[1])。
- 文正が揮毫した『後撰和歌集』を藤原道長が紫檀地螺鈿の箱に収めた(『御堂関白記』[2])。
官歴
注記のないものは『夜鶴庭訓抄』による。
- 天暦10年(956年) 2月10日:六位蔵人
- 天暦11年(957年) 正月3日:見六位蔵人大内記[3]
- 天徳2年(958年) 正月:内記
- 時期不詳:従五位下
- 天徳3年(959年)正月:尾張守
- 時期不詳:加賀守[4]
系譜
『尊卑分脈』による。
- 父:藤原忠紀
- 母:三河守宗季の娘
- 妻:藤原祐之の娘
- 男子:藤原光輔
大膳大夫・紀時文の三男である紀文正と同人であるともいう(『扶桑名画伝』)。
脚注
出典
- 永由徳夫「日本能書列伝(一) ─ 日本古書論を典拠として ─」『群馬大学教育学部紀要 人文・社会科学編』第66巻、群馬大学教育学部、2017年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
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