大生部多とは? わかりやすく解説

おおふべのおお 【大生部多】

上代駿河富士川辺に住んだ人。六四四(皇極三)年七月村人祀ることを勧め、これは常世の神で富と長寿を招くと教えたので、散財してまでこれを行う人が出たため、多は官人打たれ、その祭り止んだという。

大生部多

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/16 08:15 UTC 版)

大生部 多(おおうべ の おお、生年不明〜644年?)は、飛鳥時代宗教家である。はなし。

経歴

大生部は職業部の内の壬生部皇子皇女の養育に携わる人々とその封民)の一つであり[1]平城京木簡によるとその殆どが伊豆国田方郡吉妾郷を拠点としている。

多は東国の不尽河(富士川)辺の人。皇極天皇3年(644年)にタチバナイヌザンショウにつくカイコに似た虫(アゲハチョウ、一説にはシンジュサン幼虫)を「常世神である」と称し、「それを祀れば貧しい者は富み、老いた人は若返る」と吹聴した。そのため、人々は虫を台座に安置し、舞い踊り家財を喜捨して崇め、往来で馳走を振る舞い、歌い踊り恍惚となり富が訪れるのを待った。

やがてこの騒動はのみならず周辺の地方にも波及し、私財を投じて財産を失う者が続出したという。渡来系の重臣であった秦河勝はこの騒動を懸念して鎮圧にあたり、騒乱を起こし民衆を惑わす者として大生部多を討伐した[2]

大生部多の討伐に河勝が選ばれたのは、秦氏が上宮王家の所有した乳部の管理者だったからであると考えられる[3]

余説 

常世の虫に関しては、道教の「庚申待」と「三尸」説の影響とする指摘がある[4]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 太田[1963: 1306]
  2. ^ 日本書紀』皇極天皇3年7月条
  3. ^ 加藤謙吉『秦氏とその民 渡来氏族の実像』(白水社、 1998年)
  4. ^ 飯田道夫『庚申信仰 庶民宗教の実像』(人文書院 2刷、1990年) p.190

参考文献

関連項目




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大生部多」の関連用語

大生部多のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大生部多のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大生部多 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS