今井田勲とは? わかりやすく解説

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今井田勲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/01 07:28 UTC 版)

今井田 勲(いまいだ いさお 1915年8月1日1989年6月24日)は鹿児島県出身の編集者

経歴

鹿児島県種子島に生まれ育つ。旧制中学校時代、今井田榕舟(ようしゅう)の名で自由律短歌を制作し、雑誌にたびたび入選。

上京後、1938年、400倍以上の競争率を突破して主婦之友社(現在の主婦の友社)に入社。初代社長石川武美と『主婦の友』編集長本郷保雄に鍛えられる。『主婦之友花嫁講座』全12巻や『続主婦之友花嫁講座』全8巻、『世界名作家庭文庫』全50巻で成功を収める。

数年後に、主婦の友社・講談社新潮社などの出資で設立された大東亜出版に出向、内閣情報局大東亜共栄圏のための青年向けに発行した雑誌『ヒカリ』の編集長となる。『ヒカリ』の実物は残っていないが、当時同じような国策雑誌として発行された『FRONT』に似た誌面・内容だったと思われる。

第二次世界大戦1943年二等兵として召集された折、太平洋上で輸送船が敵魚雷に撃沈され、九死に一生を得る。ラバウルで敗戦を迎えた後、オーストラリア軍の捕虜となり、収容所で暮らす。このとき、暴動寸前にまで荒んでいた収容兵たちの心を和ませるために、謄写版刷りの『かがみ新聞』と『かがみ』誌を発行。このことは、戦後、美談として讀賣新聞に大きく取り上げられた。

復員後は主婦の友社を去り、旧知の草月流勅使河原蒼風に依頼して『草月流いけばな』全3巻を予約出版形式で刊行、当時の貨幣価値で100万円(2006年現在の数億円)にのぼる売上を達成。これを基に婦人書房を設立し、1951年(昭和26年)に倒産するまで女性向けの単行本を専門に刊行。

1952年文化服装学院創立者遠藤政次郎の頼みで『装苑』編集長に就任。文化出版局の最高責任者を仰せ付けられ、『ハイファッション』『ミセス』『銀花』を創刊する。女性誌の四種の神器と呼ばれる皇室記事・ゴシップ記事・セックス記事・実用記事を一切扱わなかったにも拘らず成功を収めた。

1952年、熊井戸立雄(婦人画報社)、瀬戸忠信(日本繊維出版社)、長谷川映太郎(鎌倉書房)と共に日本ファッションエディターズクラブ (NFEC) を立ち上げ、1956年にはFEC賞を制定[1]。日本のファッションデザイナー・ジャーナリストなどをまとめ、日本のファッションを世界にアピールするためにも活動した。

1989年6月24日死去。7月10日文化学園葬が文化学園大ホールで行われた。

豆本蒐集家として

豆本の蒐集や研究でも知られ、「私の稀覯本 豆本とその周辺」などの著書もある。

著書

  • 編集長から読者へ―婦人雑誌の世界(いるか叢書5)(1967年、現代ジャーナリズム出版会 ) *三枝佐枝子との共著。
  • 私の稀覯本―豆本とその周辺(1976年、丸の内出版)
  • 鶏留啼記(1978年、湯川書房)
  • 編集中記(1981年、書肆季節社)
  • 当世豆本版元銘々伝 (こつう豆本〈65,66〉)(1984年、日本古書通信社
  • 現代日本の豆本と蒐集家 豆本(1987年、未来工房)

参考文献

脚注

  1. ^ 椎根和『49冊のアンアン』フリースタイル、2023年4月25日、64頁。ISBN 9784867310052 



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