ジャニーヌ・バザンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジャニーヌ・バザンの意味・解説 

ジャニーヌ・バザン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/21 05:10 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

ジャニーヌ・バザンJanine Bazin1923年1月29日 - 2003年5月31日 )は、フランス映画プロデューサーヌーヴェルヴァーグの精神的父親アンドレ・バザンの妻であり、テレビドキュメンタリーシリーズ『われらの時代のシネアストたち Cinéastes de notre temps』のプロデューサーとして知られる。

来歴・人物

  • 1923年1月29日、フランス・パリに生まれる。旧姓キルシュ(Kirsch)。
  • 1944年8月末以降のリヴェラシオンの時期には、「労働と文化 Travail et culture」で秘書を務めていた。そこで夫となるアンドレと出逢い、結婚。
  • 1947年 - 1948年ころ、学業を放棄してシネクラブを組織する少年フランソワ・トリュフォーと出逢う。
  • 1949年、長男フローランを出産。少年鑑別所に入れられた17歳のトリュフォー少年を引き取り、1957年の彼の結婚までの約8年間にわたる家族同然の生活が始まる。
  • 1958年11月11日、アンドレと死別。トリュフォーにとっては長編第一作『大人は判ってくれない』の撮影を開始したその日だった。
  • 1964年アンドレ・S・ラバルトともにテレビドキュメンタリーシリーズ『われらの時代のシネアストたち Cinéastes de notre temps』(製作ORTF)の製作を開始する。1972年まで全53本すべてプロデュースする。
  • 1984年10月21日、トリュフォー死去。
  • 1986年、アントル・ヴュ(Entre Vues、ベルフォール国際映画祭)を創始する。デビュー1-3本目の作品を集めた映画祭である。開催地はテリトワール=ド=ベルフォール県県庁所在地のベルフォール
  • 1988年、アンドレ・バザン没後30年、ラバルトとともにふたたび新たなテレビドキュメンタリーシリーズ『映画、われらの時代の Cinéma, de notre temps』(製作ARTE)の製作を開始。2003年までに35本をプロデュース。ライフワークとなる。
  • 1993年5月14日、出演したドキュメンタリー映画『フランソワ・トリュフォー 盗まれた肖像 François Truffaut: Portraits volés』(監督ミシェル・パスカル、セルジュ・トゥビアナ)がフランスで公開される。
  • 2003年5月31日、パリ郊外ヴァル=ド=マルヌ県ヴィルヌーヴ=サン=ジョルジュの病院で死去。彼女の意志を継ぎ、『映画、われらの時代の』の新作はラバルトが製作を続行している。遺児フローランは1975年に映画界入りして以来、撮影助手をつづけている。アントル・ヴュでの「ジャニーヌ・バザン賞」にその名が遺されている。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジャニーヌ・バザン」の関連用語

ジャニーヌ・バザンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジャニーヌ・バザンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジャニーヌ・バザン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS