マキノトーキー製作所
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マキノトーキー製作所(マキノトーキーせいさくしょ、1935年11月 設立 - 1937年4月 解散)は、かつて京都に存在した映画会社である[1]。当時27歳の映画監督・マキノ正博が、自ら開発した録音機材を投入して設立した初期のトーキー映画のプロダクションであり、1936年9月に組織変更しマキノトーキー株式会社となったが、短命に終わった[1]。
- ^ a b c d e f g h i j k l マキノ[1977], p.246、p.280、p.338-374.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 石割[2000], p.376-384.
- ^ Wikipedia甲陽映画の項の記述を参照。
- ^ 立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「マキノ映画活動史」の記述を参照。
- ^ 日本映画データベースの「今井理輔」を参照。
- ^ 日本映画データベースの「マキノ雅弘」の「製作」と「録音」のリストを参照。同リストの「マキノトーキー」と明記された68本が、すなわち同社の全作品リストである。
- ^ 無鉄砲選手、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 國定忠治 信州子守唄、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 松平外記、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 次郎長裸旅、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 加賀見山、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 黒蜻蛉、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 芝浜の革財布、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 修羅八荒 第二篇、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 修羅八荒 終篇、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ ごろんぼ街、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 忠治活殺剱、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 赤垣源蔵、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 喧嘩菩薩、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月30日閲覧。
- ^ 1936年 公開作品一覧 558作品、日本映画データベース、2012年11月30日閲覧。
- ^ 1937年 公開作品一覧 573作品、日本映画データベース、2012年11月30日閲覧。
- 1 マキノトーキー製作所とは
- 2 マキノトーキー製作所の概要
- 3 脚注
固有名詞の分類
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