朝日新聞特派員
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1942年頃より朝日新聞特派員としての記事を送り始めたが、ハッキリした形では公使館を追われた後の1943年6月からである。マケドニアからポーランドに輸送されたユダヤ人絶滅政策についても発信しようとしていた。彼はテヘラン会談でヨシフ・スターリンが日本へ参戦するというスクープ記事を送電したが、彼の信用がなかったので日本では受け入れられなかった。1944年11月15日山路章ブルガリア公使ら公使館員と梅田ら9名はイスタンブールに向けブルガリアを退去する。1945年2月トルコが対日宣戦布告してソ連通過のビザが出て、モスクワ経由で帰国できた。
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