日暮里撮影所
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大阪初の映画製作・興行会社「三友倶楽部」を設立、大阪・千日前や京都・新京極で活動写真館を経営、「撮影所」を持たずに独自の映画製作(連鎖劇)を行う一方で、東京の映画会社「福宝堂」の大阪支店長を任されていた山川吉太郎が、1913年(大正2年)秋、新たに大阪に設立したのがこの「東洋商会」である。 その前年の1912年10月、「福宝堂」は、吉沢商会、M・パテー商会、横田商会との4社合併で「日活」になり、山川は「日活大阪支社」を任されたが、同年12月、元福宝堂本社営業部長・小林喜三郎が日活を退社し「常盤商会」を設立したのに合わせ、山川も日活を退社した。 日活は、福宝堂が所有していた「福宝堂日暮里撮影所」を閉鎖、これを「東洋商会」が引継ぎ、「東洋商会東京日暮里撮影所」とし、山川は念願の撮影所を使っての映画製作を開始した。1913年10月には、設立第一作を公開、年内に16本の映画を製作配給した。カメラマンには「吉沢商店目黒行人坂撮影所」で先駆者千葉吉蔵に師事し、その後日暮里撮影所福宝堂にいた枝正義郎をカメラマンに起用した。 福宝堂で吉野二郎が監督した泉鏡花原作の『通夜物語』に出演、合併後そのまま日活に残って日活向島撮影所で役者をやっていた山崎長之輔を引き抜き、『べに筆』や『枯尾花』といった劇映画を撮る一方、10月10日に亡くなった元総理・桂太郎公爵の葬儀の模様を11月に(『桂閣下の葬儀の実況』、1913年)、11月22日に亡くなった第15代征夷大将軍・徳川慶喜公爵の葬儀の模様を11月に(『故徳川慶喜公の御葬儀』、1913年)、そしてその年の消防出初式の模様を1月に即公開する(『大正三年消防出初式』、1914年)といった実況ドキュメンタリー映画もタイムリーにリリースしていった。 翌1914年1月、3本の作品を最後に新作のリリースを停止し、山川は早くも次の段階に入った。
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