日暮里撮影所とは? わかりやすく解説

日暮里撮影所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/26 06:01 UTC 版)

東洋商会」の記事における「日暮里撮影所」の解説

大阪初の映画製作興行会社三友倶楽部」を設立大阪千日前京都新京極活動写真館経営、「撮影所」を持たずに独自の映画製作連鎖劇)を行う一方で東京映画会社福宝堂」の大阪支店長を任されていた山川吉太郎が、1913年大正2年)秋、新たに大阪設立したのがこの「東洋商会」である。 その前年1912年10月、「福宝堂」は、吉沢商会M・パテー商会横田商会との4社合併で「日活」になり、山川は「日活大阪支社」を任されたが、同年12月、元福宝堂本社営業部長小林喜三郎日活退社し常盤商会」を設立したのに合わせ山川日活退社した日活は、福宝堂所有していた「福宝堂日暮里撮影所」を閉鎖、これを「東洋商会」が引継ぎ、「東洋商会東京日暮里撮影所」とし、山川念願撮影所使って映画製作開始した1913年10月には、設立第一作公開年内16本の映画製作配給した。カメラマンには「吉沢商店目黒行人坂撮影所」で先駆者千葉吉蔵師事しその後日暮里撮影所福宝堂にいた枝正義郎カメラマン起用した福宝堂吉野二郎監督した泉鏡花原作の『通夜物語』に出演合併後そのまま日活残って日活向島撮影所役者をやっていた山崎長之輔引き抜き、『べに筆』や『枯尾花』といった劇映画を撮る一方10月10日亡くなった元総理・桂太郎公爵葬儀模様11月に(『閣下葬儀実況』、1913年)、11月22日亡くなった第15代征夷大将軍徳川慶喜公爵葬儀模様11月に(『故徳川慶喜公の御葬儀』、1913年)、そしてその年の消防出初式模様1月に即公開する(『大正三年消防出初式』、1914年)といった実況ドキュメンタリー映画タイムリーにリリースしていった。 翌1914年1月3本作品最後に新作リリース停止し山川早くも次の段階入った

※この「日暮里撮影所」の解説は、「東洋商会」の解説の一部です。
「日暮里撮影所」を含む「東洋商会」の記事については、「東洋商会」の概要を参照ください。

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