早稲田全線座とは? わかりやすく解説

早稲田全線座

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 16:54 UTC 版)

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早稲田全線座
Waseda Zensen-za
種類 事業場
市場情報 消滅
略称 全線座
本社所在地 日本
162-0045
東京市牛込区馬場下町
(現在の東京都新宿区馬場下町)
設立 1933年12月
業種 サービス業
事業内容 映画演劇の興行
代表者 樋口大祐
主要株主 樋口大祐
主要子会社 中野映画劇場
目黒キネマ
銀座全線座
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早稲田全線座(わせだぜんせんざ、1933年12月 開業 - 1960年代 閉館廃業)は、かつて存在した日本の映画館である。銀座全線座ができるまでは、たんに全線座という名であった。

沿革

  • 1933年12月 開業
  • 1960年代 閉館廃業

歴史

1933年(昭和8年)12月[1]浅草公園六区帝国館出身の活動弁士・樋口旭浪こと樋口大祐が、東京市牛込区馬場下町(現在の東京都新宿区馬場下町)に洋画興行を専門とする映画館「全線座」を開業して、樋口の個人商店全線座を創立した[2]。ちなみに当館が開業するまでの牛込区内の映画館は、牛込館、神楽坂日活館、羽衣館、早稲田キネマの計4館しかなかった[3]

開業時に発行されたプログラム『ZENSEN-ZA No.1』には、樋口が「樋口旭浪」名義で「会館御挨拶」を述べており、アメリカ合衆国から輸入したRCA製の最新式発声装置を使用し、開館当初からトーキー専門館であることが強調されていた[2]。最初のプログラムには、レオ・マッケリー監督の『カンターの闘牛士』、極彩色発声映画『人魚と海賊』、7幕のライヴ『ステージ・ショオ』、毎日映画社の記録映画『海の生命線』が上映・上演された[2]

1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結後には再開業した。

1952年(昭和27年)4月2日、全線座が株式会社に改組した[2]。この前年の1951年(昭和26年)には高田馬場早稲田松竹と高田馬場パール座[4]が開業している。

名画座として親しまれたが、1960年代には閉鎖、廃業した。

ギャラリー

関連事項

  1. ^ 神田川人「東中野のまちづくり」サイト内の岸恒夫の記事「東中野今昔ものがたり 第五回早稲田通りその2」の記述を参照。
  2. ^ a b c d e f #外部リンク欄の公式サイト内の「沿革」「会社概要」「全線座ギャラリー」の各項の記述を参照。二重リンクは省く。
  3. ^ 昭和7年の東京市の映画館”. 中原行夫の部屋(原資料「キネマ旬報」). 2013年8月20日閲覧。
  4. ^ 高田馬場パール座”. 街の映画館チラシ. みつ豆CINEMA. 2013年8月20日閲覧。

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