かぶしき‐こうかい【株式公開】
株式公開
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/24 08:32 UTC 版)
株式公開(かぶしきこうかい)とは、株式会社が自社の発行する株式を自由に譲渡できるようにすること。会社関係者など制限的に所有されていた株式の一部を新たな出資者に譲渡できるようにすることなどをいう[1]。
- ^ a b c d e 杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、69頁
- ^ a b 杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、79頁
- ^ 杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、82頁
- ^ ロバート・W・ハミルトン『アメリカ会社法』木鐸社、1999年、242頁
- ^ ロバート・W・ハミルトン『アメリカ会社法』木鐸社、1999年、262-263頁
- ^ “日本のホテル、「脱インバウンド」で再生なるか”. 産経ニュース (2021年12月16日). 2021年12月16日閲覧。
- ^ a b c d “証券用語解説集 IPO”. 野村證券. 2018年9月19日閲覧。
- ^ a b c d “株式公開(IPO)(かぶしきこうかい)”. 日本取引所グループ. 2018年9月19日閲覧。
- ^ “IPOとは?買い方・デメリットなど【読むだけでIPO株がまるっと分かる】”. 2020年8月24日閲覧。
- ^ a b c d e f 杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、70頁
- ^ a b c d e 杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、71頁
- ^ 最近目立つ「上場ゴール」IPOは投資家を舐めている
- ^ 株初心者のIPO投資「高確率で勝つ」ための4つポイント(ZUUオンライン 2017年1月2日配信 2017年2月5日確認)
- ^ 勝率10割のIPO、初値高くプラチナ券に-12月件数は07年来 (ブルームバーグ 2013年11月20日16:07配信 2017年2月1日確認)
- ^ 何を持って「IPOの成功」を定義するのか BLOGOS 梅木雄平執筆 2015年11月22日16:32配信 2017年2月2日確認
- ^ “新規上場、過小値付けは「独禁法違反」 公取委報告書”. 日本経済新聞 (2022年1月26日). 2022年2月21日閲覧。
- ^ “証券会社の「一方的に低い価格設定、独禁法違反の恐れ」…公取委が報告書”. 読売新聞 (2022年1月28日). 2022年2月21日閲覧。
- ^ a b 横山淳. “大和総研調査季報 2012年春季号 Vol.6「上場廃止について」”. 大和総研. 2018年9月19日閲覧。
- ^ “公開会社の株式に譲渡制限を付す方法”. BUSINESS LAWYERS. 2018年9月19日閲覧。
株式公開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 06:13 UTC 版)
三井報恩会の巨額な資金を調達するためと、三井財閥による事業独占の印象を薄めるために、池田成彬は株式公開を行った。1933年から翌年にかけて、大量の株式を放出した。三井合名は、王子製紙の旧株5万株と新株5万5千株を公開して持株比率を7.1%に下げ、北海道炭鉱汽船の旧株2万株と新株7万株を売出して持株比率を13.3%に下げた(三井信託・三井鉱山の分を加えると37.6%)。三井鉱山は、三池窒素工業の2万5千株あるいは約10万株を売出して持株比率を87.5%に下げ、東洋高圧工業の7万5千株あるいは約20万株を公開して持株比率を81.2%に下げた。三井物産は東洋レーヨンの約33万株を売出して持株比率を45%に下げた(非公開的に財閥内部で所有されていた株式を一般に売り出したり、増資で新株を公募するのが「公開」で、すでに一般に公開されて株式市場で売買されているが、財閥資本が保有して市場から引き上げていた株式の一部を一般に売り出すのが「売出」である)。その他に三井銀行、東京電灯、小野田セメント、台湾電力、北樺太鉱業等の株式を売却した。 さらに、1940年に三井物産が財閥本社の三井合名を吸収合併して、新しい財閥本社になり、株式会社になった。1942年には、その三井物産が総株数の四分の一である15万株を株式公開して、14万株を三井系企業と社員に分譲し、1万株を取引所関係に公開した。一方では、転向による大規模な寄付と戦時の重い税負担によって、財閥同族の資本蓄積が大幅に減少した。他方では、重化学工業を拡充するために莫大な増資資金が必要になった。それで閉鎖的な支配を犠牲にして、一般大衆から社会的資金を動員せざるを得なくなった。そこで、まず事業会社の株式を公開し、次に財閥本社を株式会社にして、株式を公開したのである。但し、公開・売出したのは傍系会社と直系子会社の株式だけであり、しかも直接、生命保険会社に売りに出すケースが多かった。
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株式公開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/22 01:34 UTC 版)
「シトリックス・システムズ」の記事における「株式公開」の解説
1995年12月にシトリックスは株式公開を行った。株式価格は公開後一日で倍になった。 株式公開当時の製品WinFrameは、Microsoft Windows NT 3.51をベースにしており、ちょうどWindows NTが企業でのソフトウェアマーケットでシェアを拡大し始めたタイミングと重なったことで、WinFrameも大いに市場に受け入れられ、これが株式価格の上昇に繋がった。これは、シトリックス創立直後の製品MULTIUSERが、それ自体がマーケットに受け入れられなかったOS/2をベースにしていたことで失敗したことと対照的である。 公開の時点で、株式の30%は従業員によって保持されていた。株式を保持していた多くの従業員達は、保有株を売却することで多額の利益を得ることとなった。
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株式公開(2004年)
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「Google」の記事における「株式公開(2004年)」の解説
2004年8月19日、Googleの株式公開(IPO)が行われた。IPOの直前、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、エリック・シュミットの3人は、2004年から2024年までの20年間、Googleでともに働くことで合意していた。 GoogleのIPOでは、1,960万5,052株が1株あたりの価格85ドルで売り出された。GoogleのIPOは、引受会社であるモルガン・スタンレーとクレディ・スイスが用意したシステムのもと、オンラインのオークション方式で実施された。IPOによりGoogleは約16億7,000万ドルの資金を調達し、その株式時価総額は230億ドル以上となった。Googleのライバル企業であるYahoo!もまた、このIPOにより大きな利益を得た。Yahoo!はIPO以前にGoogleの株式を840万株保有していた。 他方、IPOがGoogleの企業文化の変質につながるのではという懸念が存在した。懸念の根拠として、IPOによって従業員の福利厚生の削減を求める株主からのプレッシャーが生じること、多くの会社幹部がIPOと同時に(保有する株式上の)億万長者となることなど、種々の要因が指摘された。こうした懸念への返答として、ブリンとペイジは潜在的な投資家に向けた報告書の中で、IPOがGoogleの企業文化を変えることはないと保証した。 2005年の『ニューヨーク・タイムズ』の記事ならびに他の媒体においては、Googleが、自社利益の優先に反対する「邪悪になるな (Don't be evil.)」との企業理念を失っていることが示唆された。ユニークな社内文化を維持するための努力として、 Googleは「チーフ・カルチャー・オフィサー」という役職を設けた。チーフ・カルチャー・オフィサーは人事部長を兼任し、その役割は企業文化の開発・維持すること、そしてGoogleの核となる価値観(協力的な環境を持つフラットな組織であること)に忠実であるための方法を編み出すこととされた。2005年と2007年には、Googleが性差別・年齢差別を行ったとの申し立てが元従業員によってなされた。 2005年、『ワシントン・ポスト』は、Googleの2005年度第3四半期の利益が対前年比で700%増加したことについて報道し、その主な要因として、大企業の広告戦略が新聞や雑誌、TVからインターネットにシフトしていることを指摘した。 2006年以来、Googleは毎年9月27日を同社の創立記念日としている。創立記念日には検索ページトップに専用の「Google Doodle」が表示されるのが通例となっている。過去には9月27日以外の日付がGoogle創立記念日として扱われたケースもあり、2006年以降9月27日が創立記念日と定められている理由はいまだに明らかになっていないが、2005年にライバルの検索エンジン「Yahoo! Search」との間で行われた論争がその由来として示唆されている。 IPO後、Googleの株価は順調に上昇し、2007年10月31日には株価が初めて350ドルに達した。株価上昇の主な背景は、インターネット広告市場における好調な売上高・利益だった。Google株の高騰は大手機関投資家やミューチュアル・ファンドではなく、主として個人投資家によって支えられたものだった。NASDAQでGoogleに与えられたティッカーシンボルは”GOOGL”および”GOOG”であった(フランクフルト証券取引所でのティッカーシンボルは”GGQ1”)。当初は1つのティッカーシンボル”GOOG”のもとで扱われていたGoogleの株式は、2014年にクラスC株式(無議決権株)である”GOOG”と、クラスA株式である”GOOGL”へと分割されていた。2015年の第4四半期以来、”GOOGL”および”GOOG”のティッカーシンボルはGoogleの持株会社「Alphabet」を指している。 2008年1月、1日にGoogleのソフトウェアコンポーネント「MapReduce」を通過する全データ量は合計で20PBだった。2009年、CNNは「2009年にもっとも検索された政治的キーワード」についての記事の中で、人々が1日にGoogleで検索する回数は「10億回以上」であると述べた。
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株式公開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:36 UTC 版)
1995年に、ガーミンは1億500万ドルの売上高に達して、2300万ドルの利益を成し遂げた。1999年には、2億3300万ドルの売上高、利益6400万ドルを計上した。 1999年にフロスト&サリバン (Frost and Sullivan) が実施した市場調査によると、ガーミンの製品は北アメリカにおけるアウトドア市場においてGPSレシーバーを購入したいと考えている市場占有率の約50%を獲得した。同社自身の見積もりでは航空改造製品は59%、携帯用の航空GPS製品の市場占有率でそれぞれ76%の市場占有率であった。 2000年までにガーミンは300万台のGPS機器を販売し、50種ものモデルを生産していた。それらの製品は100か国で販売され2,500の販売代理店で扱われた。2000年8月22日の時点で、同社はGPS技術に関する35の特許を保持していた。2000年6月末までに同社は1,205人を雇用した(アメリカ合衆国541人、台湾635人、イギリス29人)。 2000年12月8日に同社は公式にNASDAQ市場で取引を開始した。当時バレルは19,911,155株を、高は20,352,803株を所有していた。彼らの持ち株を合わせるとガーミン株全体の45%になった。台北で弁護士をしている高の兄弟はそれとは別に7,984,109株を所有していた。合わせると54.22%にもなった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 14:19 UTC 版)
1998年7月、オネックスはEMSの分野で最大のIPOである4億1400万ドルまで成長させ、株式公開を行った。この資本注入によりさらなる成長をとげ、同年、アジアのInternational Manufacturing Servicesを買収し、北カリフォルニア、メキシコ、アイルランドに工場を増設した。年の終わりには、毎年32億ドル以上の資金調達を行った。 1998年までに世界のEMSの市場は約600億ドルと推定され、2003年には1500億ドル以上になると予測されていた。Polistukはこの予測を控えめであるとみなし、「2001年までにこの事業で最大の協力会社になるためには、年間収益を100億ドル上げる必要があるだろう。わずか5年前までには誰もEMSに100億ドルの価値があると思わなかったでしょうが、すぐに一次請けの企業は最小限の数になるだろう」と発言している。 元のオネックスより何回か株式公開が行われた(1999年3月に2億5100万ドル、5月に2億2500万ドル)。11月の2度目の株式公開では4億8800万ドル追加された。この資金は、チェコに5つ、イタリアに2つ、アイルランド、アメリカ、ブラジル、マレーシアに1つの工場を増設するのに使われた。その年の終わりには53億ドルの売上高を記録し、世界で3番目に大きいEMSとなった。2001年6月6日、Polistukは会長に指名された。
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株式公開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 23:43 UTC 版)
1999年12月9日、VA Linux Systemsとして新規株式公開のためにNASDAQへの上場を果たした。IPOの公開価格は30ドルで設定されたが、最初の取り引きが成立したのは公開価格を大幅に上まわる299ドルであり、驚異的な初値を記録した。その後も上昇を続け最高320ドルの取引価格を記録した後、急激な下落が起き、公開初日は239.25ドル(698%の上昇)で取引を終了した。この初日の上昇率の記録は、現在も最も成功したIPOとして知られている。しかし、このIPOの成功は短命に終わり、公開後1年以内に、最初の申し込み価格である30ドルを株価が下まわるようになり、2002年7月24日には54セントの最低値を記録することになった。IPO公募価格と寄り付き値の間の莫大な差のため、VA Linuxは見掛けより非常に小さな資本しか集めることができず、また会社の収益性が株価を正当化しそうもないことが理解され始めると、逆に急激な下落を招いたと言える。 このVA Linux SystemsのIPOには、LinuxカーネルおよびDebian Project関係を中心とした多くのオープンソース開発者に対して、公募価格での購入権が付与され、短期的に大きな富を開発者に与えることになった。
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「株式公開」の例文・使い方・用例・文例
- 彼らは株式公開買い付け制度を利用して、企業の買収に成功した。
- 公認会計士が株式公開支援をしてくれた。
- 企業は株式公開に関する問題を明らかにするために予備調査を行う。
- 敵対的な株式公開買付
- 買収者がすべての発行済み株式の購入を申し出る株式公開買い付け
- M&Aコンサルティングによる株式公開買い付け(TOB)を経験した会社社長が同講座で話す予定である。
- フェイスブックが株式公開へ
- グーグルは2004年に新規株式公開(IPO)で19億ドルを調達したが,フェイスブックは50億ドル(3800億円)を調達する見込みだ。
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