『裸の島』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:20 UTC 版)
1960年(昭和35年)、経営が立ちゆかなくなった近代映画協会は、その解散記念作品として新藤が長年暖めていた無言の映画詩『裸の島』の制作に入る。広島県三原市の無人島である宿弥島を舞台に、その南にある佐木島でロケを敢行、制作費はわずか500万円、夫婦役の殿山・乙羽含めスタッフ13人に佐久島の小学生も加わり、撮影期間1ヶ月で作り上げた。新藤は後のインタビューで以下のことを語っている。 僕の映画人としての理念はね、映画は映像である、映像で押して、押しまくっていけば、必ず真実はつかめる。それでわざわざせりふを抜いた映画なんですよ。俳優が農民の演技をやるんじゃなくて、島に農民の夫婦が住んでいて、その記録映画を撮る、というように作りたかった。 — 新藤兼人、中国新聞2009年9月1日付 この映画が評価されたのは日本国内よりも海外で、1961年(昭和36年)モスクワ国際映画祭でグランプリを獲り、新藤監督は世界の映画作家として認められた。モスクワ国際映画祭の際には、各国の映画バイヤーから次々に買い入れの申し入れがあり、最終的に世界62ヶ国に作品の上映権を売ることで、それまでの借金を返済した。 このモスクワ国際映画祭ではその後の新藤作品の殆どを出品し、それらは当地で評価されており、新藤は「足を向けて寝れない」とこの映画祭を感謝している。 この成功は、限られた観客を相手に、極端に低い製作費で優れた作品を撮ることが可能であることを示し、大会社の資本制約から離れる事で自由な映画表現と制作ができる事を証明した。そして製作手法(オール地方ロケ。出演者及びスタッフがロケ地で合宿体制を組む。スタッフ全員参加のミーティングを行い、本来の持ち場を越えて意見を交換する。等)は、その後の邦画界におけるインディペンデント映画の製作に、多大な影響を与えた。 宿祢島のある三原市は『裸の島』の他に、『らくがき黒板』『かげろう』『三文役者』でロケ地として用いており、この縁で三原市名誉市民に顕彰されている。
※この「『裸の島』」の解説は、「新藤兼人」の解説の一部です。
「『裸の島』」を含む「新藤兼人」の記事については、「新藤兼人」の概要を参照ください。
- 『裸の島』のページへのリンク