『襤褸と宝石』初日の一件
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「加藤道夫」の記事における「『襤褸と宝石』初日の一件」の解説
劇作と演出に活躍する一方、加藤はラジオドラマや評論、翻訳を発表。西洋演劇の精神を現代日本の舞台に生かそうとした試みは高く評価されたが、1952年(昭和27年)10月1日に俳優座により初演された文部省芸術祭委嘱作品『襤褸と宝石』(演出・千田是也)への評価は、仲間内でもあまり芳しくなかった。 『襤褸と宝石』初演の観劇後、皆で有楽町の寿司屋横丁に行くことになったが、一軒の店に全員が入りきれず、路地を隔てた向い側のもう一軒の店と二手に分かれ、二階の座敷で窓を開け合っての宴となった。主賓の加藤のいる座敷には、親しい芥川比呂志、矢代静一、三島由紀夫ほか若い後輩の面々が入り、加藤のいない方の座敷は、福田恆存、中村光夫、堀田善衛、中村真一郎などの顔ぶれだった。最初はお互い交歓し合っていたが、祝杯が捧げられた後、向うの窓の賑わいが次第にヒソヒソ声になっていった。 やがて、向うの障子窓が閉められ、密かに戯曲の出来を批評しているのがありありとわかる雰囲気だった。加藤は青い顔になった。気まずい空気を解きほぐそうと誰かが、「畜生、悪口を言おうと思って、障子を閉めやがったな」と言ったことが、かえって座を沈ませた。冗談でおどけたりできない真面目な加藤は、眉間をぴくぴく震わせ俯いたきり、お寿司に全く手をつけず盃もふせたままだった。 矢代や芥川は親友なだけに、劇に感動したなどと空々しいことを言えず、お世辞は逆に不誠実だと思う歳頃でもあったため、戯曲の出来に触れない代わりに役者の演技を貶して元気づけようとしたが、座は盛り上がらなかった。三島は向う側の障子窓が閉められた時の気まずさを次のように語っている。 私はこんなことになるまでは、加藤氏に今夜の初日の素直な意見も言はうと思つてゐたのであるが、この瞬間から、言へなくなつてしまつた。不幸な初日の作者の心があまりにもありありとわかつたからである。そこまで氏自身がわかつてゐるものなら、誰がそれ以上、氏の傷口に手をつつこむやうな真似をする必要があるだらうか。 — 三島由紀夫「私の遍歴時代」 三島は、「岸輝子さんの乞食婆さんの、半間を外したセリフが面白かったね」と、戯曲の長所をいくつか拾い集めて加藤を励ましていたが、その後の渋谷のスナックバー「ボン」での合同二次会でも、加藤は懸命に自分を抑えようと努力しながらも浮かない表情を隠すことができなかった。
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