原阿佐緒
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原 阿佐緒 | |
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誕生 | 原 あさを(戸籍表記) 1888年6月1日 宮城県黒川郡宮床村 (現在の同県同郡大和町大字宮床) |
死没 | 1969年2月21日(80歳没) 東京都杉並区永福町 |
墓地 | 宮城県大和町竜厳寺 |
職業 | 歌人 |
言語 | ![]() |
最終学歴 | 宮城県立高等女学校(現在の宮城県宮城第一高等学校)中途退学、 日本女子美術学校(現在の東京都立忍岡高等学校)転校し、 奎文女子美術学校卒業 |
活動期間 | 1909年 - 1934年頃 |
ジャンル | 短歌、作詞、短編小説、随筆 |
配偶者 | 庄子勇 |
パートナー | 小原要逸 古泉千樫 石原純 |
子供 | 2 原千秋(長男) 原保美(次男) |
影響を与えたもの
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公式サイト | haraasao.jp |
原 阿佐緒(はら あさお、1888年(明治21年)6月1日 - 1969年(昭和44年)2月21日)は、日本の歌人である。阿佐緒と東北帝国大学教授であった石原純との恋愛問題は大正時代を代表する恋愛スキャンダルのひとつとされていて、短歌とともに恋愛問題が著名であり、多くの短歌作品も恋愛体験がテーマとなっている。
阿佐緒は宮城県黒川郡宮床村(現大和町)で塩や麹、酒などを商い、多くの田畑や山林を所有していた原家の一人娘として生まれた。東京の日本女子美術学校入学後、国文学教師であった下中弥三郎から短歌の手ほどきを受ける。また日本女子美術学校では美術と英語を教えていた小原要逸と親密になったが、二人の仲が問題となる中で阿佐緒は奎文女子美術学校に転校し、小原要逸から性暴力を受け、妊娠して長男原千秋を出産する。傷心の中で短歌に生きがいを見つけた阿佐緒は与謝野晶子に才能を見いだされ、歌人への道を歩みだす。当初は主に浪漫性が感じられる短歌を詠んでいたが、『アララギ』で写生の技法を身に着けていき、短歌の制作に磨きをかけていく。私生活ではアララギ派歌人の古泉千樫と仙台の女学校時代からの知人である庄子勇との間で板挟みとなり、結局、庄子勇を婿とした。しかし阿佐緒の才能に嫉妬した勇は、阿佐緒に対してドメスティックバイオレンスを行うようになり、二男原保美を儲けるも結婚生活は破綻する。
その後、東北帝国大学の物理学の教授であり、アララギ派の歌人でもあった石原純が阿佐緒に対して一方的な好意を抱き、ストーカーとなっていく。石原は阿佐緒の前で自殺未遂まで行い、阿佐緒の親友であった三ヶ島葭子のアドバイスもあって阿佐緒と石原は交際をするようになる。阿佐緒と石原の関係は1921年(大正10年)、マスコミによってスキャンダルとして大々的に報道され、阿佐緒は色仕掛けで石原を誘惑した妖女として激しいバッシングに直面した。結局阿佐緒と石原は南房総の保田で約7年間ともに生活をするが、石原は阿佐緒に自由を与えず、故郷に残してきた子どもたちへの思いもあり、二人の関係は破綻する。石原と別れた後、阿佐緒は東京、大阪で水商売に従事し、映画出演や舞台にも立った。1934年(昭和9年)9月、大阪で室戸台風の被害に遭って読み溜めていた歌の原稿を失い、また恋愛遍歴と水商売に従事したことが歌壇から強く非難されて短歌の世界から遠ざかり、故郷の宮床で生活するようになる。
戦後、アララギ派歌人の扇畑利枝が阿佐緒のサポートと顕彰に努め、また1954年(昭和29年)からは二男原保美夫婦と同居生活となる。原阿佐緒は1969年(昭和44年)2月21日に杉並区永福町の原保美宅で亡くなるが、1988年(昭和63年)には原阿佐緒生誕百年事業が行われ、1990年(平成2年)には生家が原阿佐緒記念館として開館し、2000年(平成12年)には原阿佐緒の功績を顕彰して優れた短歌作品を表彰する原阿佐緒賞が制定された。
生涯
塩屋のおごさん
原阿佐緒は1888年(明治21年)6月1日に、宮城県黒川郡宮床村(現大和町)に生まれた。阿佐緒の名は両親が丈夫に育つよう男っぽい名前にしたとされ、戸籍名はひらがなのあさをであり、浅尾と表記されることもあるが阿佐緒という表記が一般化している[1]。
阿佐緒が生まれた宮床村は仙台から約20キロメートル北方にあって、山岳信仰の場として知られた七ツ森に囲まれるような場所に位置していて豊かな自然に恵まれていた[2]。また宮床は1660年(万治3年)に伊達宗房が伊達宗家から宮床の地を賜い、1666年(寛文6年)には実際に宮床に居住するようになった後、仙台藩主の伊達氏の一門である宮床伊達家の本拠地であった[3]。宮床伊達家には文武の鍛錬に熱心な家臣が多く、幕末期には西洋の軍事学を学び、明治維新後には近代的な教育や農業を学んでいく気風が引き継がれていた[4]。
原阿佐緒の実家である原家は、仙台藩の家臣であった原本家の分家に当たり、宮床で塩や麹の販売の免許を受けていて、塩屋の屋号で塩、麴の他に酒などを手広く商っていた。また田畑山林を多く所有し、家屋敷には小作人が納める米を収納する蔵が3つ立っている素封家であった[5][6]。原阿佐緒の父、原幸松は富裕な原家の財産を引き継ぎ、また前述の明治維新後の宮床の気風に影響を受け、明治10年代には擬洋風建築の二階建ての家を新築し、絨毯を敷いた部屋で英語やバイオリンを学び、アメリカ人の牧師と交際してキリスト教を信仰するようになった[7][8][9]。また阿佐緒の母、しげは宮床の隣村であった今村の商家出身で、華道、茶道、三味線、琴などを学んでいた[10]。阿佐緒はそのような父母の一人娘として、自然豊かな宮床の地で大勢の使用人たちに囲まれ、「塩屋のおごさん(塩屋のお嬢さん)」と呼ばれ、成長していく[10]。
父の死
1895年(明治28年)に、阿佐緒は地元宮床の宮床尋常高等小学校に入学する。しかし2年生の秋にはより恵まれた教育環境で学ばせたいとの両親の方針により、隣町の吉岡尋常高等小学校に転校する。転校に際し両親は黒川郡の郡視学を務めていた土屋鑛蔵に阿佐緒の教育を委ね、まだ幼い阿佐緒は実家を離れ、土屋鑛蔵宅から小学校に通うようになった[11][12]。その後阿佐緒は土屋鑛蔵の転勤に伴って角田尋常高等小学校に転校し、土屋が県外に異動になった後も宮床に戻らず、母親の実家に下宿して、再び吉岡尋常高等小学校に通学した[13][12]。小学校に通学するようになる頃、阿佐緒の父、幸松は眼の病気が悪化しており、酒浸りの生活になって阿佐緒の母、しげに暴力を振るうようになっていた。この父の酒乱と暴力が幼くして実家を離れることになった要因とも推測されている[14]。
1898年(明治31年)、阿佐緒の祖母のきわが亡くなった。そして1900年(明治33年)4月には阿佐緒の父、幸松が「阿佐緒に全財産を使うよう」遺言し、35歳の若さで世を去る。同年には続いて祖父の忠見が亡くなった。まだ小学校在学中に相次いだ肉親の死は、阿佐緒の心に拭い難い不安感、喪失感、そして漂泊感を植え付けることになった[12][15]。なお男子がいない原家では1896年(明治29年)に、遠縁の真剣を養嗣子として迎え、将来的には当主の原幸松の一人娘である阿佐緒と娶わせる予定となった。真剣のことを阿佐緒は実の兄のように慕っていた[16][17]。しかし真剣は1905年(明治38年)に、結核で18歳の若さで世を去る。阿佐緒の母、しげは、真剣亡き後、阿佐緒を原家の戸主とした[18][19]。しっかり者であった阿佐緒の母、しげは原家の屋台骨を支え続けたが、阿佐緒に対して支配的にふるまい続け、阿佐緒を苦しめることになった[20][21]。
阿佐緒に大きな影響を与えた人物のひとりが、父方の叔父にあたる佐藤寅松であった。佐藤寅松は貧しい農家であったが読書好きであり、漢学の素養があり欧米の文化にも興味を示す幅の広さを持った人物であった。父を亡くした阿佐緒は寅松のところに出入りすることが多くなり、寅松は阿佐緒に漢詩文を教えたりした。後に様々な精神的苦痛を重ね、故郷宮床に戻った阿佐緒を支えたのは寅松であった[22][23]。阿佐緒は叔父寅松のことを自伝の中で「たった一人の無上の理解者」と書いている[24]。
恋の行方
1901年(明治34年)、阿佐緒は仙台にある宮城県立高等女学校に進学する。阿佐緒が入学した当初、寄宿舎は未設であったため、高等女学校の教師宅に数名の同級生とともに寄宿生活をしながら学校に通った。高等女学校での阿佐緒の成績は優秀であり、中でも叔父の寅松から手ほどきを受けていた漢詩文の成績は抜群であった[23]。しかし阿佐緒は学校生活に不適応を起こす。問題となったのは同級生たちとの人間関係であった。勉強に熱中して明かりをつけて夜中まで起き、同室の同級生たちの睡眠を妨げ、お休みの日に町に繰り出せばお嬢様育ちの阿佐緒は他の同級生たちが一か月で使うような大金を平気で散財し、反感を買ってしまったりした。そして一人娘であった阿佐緒にとって同級生たちとの何気ない日常会話そのものが苦手であった。やがて阿佐緒は体調を崩し、高等女学校を3年中途で退学し、地元宮床に戻ることになった[25]。なお宮城県立高等女学校の同級生の兄に、原阿佐緒の初恋の人であり、二番目の夫となる庄子勇がいた[26]。
約1年間、宮床で静養して健康を取り戻した阿佐緒は、1904年(明治37年)に上京して跡見女学校への入学を考えたが、好きな日本画を学ぶことが出来ないことを知り、跡見女学校への入学意欲が無くなってしまった[27][28]。結局、庄子勇の助力もあって夏には日本女子美術学校に入学が決まった。この当時、庄子勇は東京美術学校に入学していた[29][30]。東京の学園生活を阿佐緒は満喫する。学校では新たに国文学や英文学を学び、その中で阿佐緒は文学の楽しさに目覚めていく。また東京暮らしはおしゃれであった阿佐緒の美意識に磨きをかけた[31]。
ともに東京暮らしとなった阿佐緒と庄子勇は、ほどなく交際を始めた。しかし交際は長続きせずに自然消滅した[32]。そして生来の美貌に恵まれた10代後半の阿佐緒は、日本女子美術学校で美術と英語を教えていた小原要逸のことを虜にしていく[33]。小原は当時すでに妻帯しており子どももいたが、絵や詩の話をしながら阿佐緒との仲を深めていき、阿佐緒に和訳した詩を送ったり下宿に出入りするようになった[34][35]。阿佐緒と小原要逸との関係は学校内の噂になり、日本女子美術学校に居づらくなった阿佐緒は1906年(明治39年)に奎文女子美術学校に転校し、翌1907年(明治40年)、卒業した[36][37]。そのようなある日、阿佐緒は小原要逸から性暴力を受ける[38][21]。自伝、『黒い絵具』の中で阿佐緒は
要達(要逸)の無耻な行為が彼女(阿佐緒)の処女性を真黒に塗り潰してしまった。彼女は男性の醜さをあまりにも深刻に知った。そうして男性を呪う心が彼女の全部であるかのようにさえなった。
と述べている[20]。阿佐緒の次男、原保美の妻、桃子は、この事件のショックは阿佐緒にとって終生取り返しがつかないものとなり、性に対して深い嫌悪感を持つようになったと述べている[39]。
阿佐緒は小原要逸の子を身ごもっていた。前述のように小原は既婚者で子どももいた。そのことを知った阿佐緒は大きなショックを受ける。阿佐緒は1907年(明治40年)7月16日に短刀を胸に刺して自殺を図ったが、妊娠中の阿佐緒の世話のために同居していた小原要逸の母、タミに止められ、傷は近所の女医、竹内茂代によって縫合され一命をとりとめた[40][41]。12月15日、阿佐緒は原千秋を生む[注釈 1][43]。阿佐緒の母、しげとしては原家と娘の阿佐緒の世間体を保つために小原と阿佐緒の結婚式を行うことを強く求めた[44]。しげの願い通り、1908年(明治41年)4月、故郷宮床で阿佐緒と小原要逸の結婚式が行われた[45]。しかし小原は結婚式後まもなく帰京し、その後、小原が宮床に来ることは無く、阿佐緒も息子千秋とともに上京しようとはしなかったため、二人の関係はここで途切れた[注釈 2][注釈 3][45]。阿佐緒は周囲からの冷たい視線に晒され、また、母、しげも阿佐緒の理解者ではなく、短歌に己の思いを託していくようになった[49][50][51]。
歌人デビュー
阿佐緒に短歌の手ほどきをしたのは、日本女子美術学校の国文学教師であった下中弥三郎であった[29][52]。阿佐緒の描く絵画は決して凡作ではなく、優れた素質を持っていた[53]。しかし幼い千秋の養育をしながら、山村の宮床で日本画を制作することは難しかった。また絵画で自分の思いを表現していくことに限界を感じてもいた。そのような中で阿佐緒は短歌の制作に没頭していくことになる[53][54]。
阿佐緒の母、しげはつてを頼り、1909年(明治42年)4月から翌1910年(明治43年)6月まで、阿佐緒は宮城女学校の美術教師として勤務する[55][56]。教師としての阿佐緒は病気で休みがちであり、評価としては高くなかったが[57]、在勤中に宮城学院の校章をデザインした。校章のデザインのコンセプトは当時校長を勤めていたサディー・ワイドナーら、職員一同が決めていき、阿佐緒が全体をデザインした[58][59]。
1907年(明治40年)頃から、阿佐緒は仙台の同人誌に短歌を発表していた[60]。そして宮城女学校に勤務を開始した1909年(明治42年)4月、 阿佐緒が雑誌『女子文壇』に投稿した短歌
この涙 つひに我が身を 沈むべき 海とならむを 思ひぬはじめ
が、与謝野晶子選で、第一位の天賞を獲得した。この入賞は阿佐緒の作歌意欲を掻き立て、歌人原阿佐緒誕生のきっかけとなった[55][61]。
短歌への精進
『女子文壇』に投稿した短歌が天賞を獲得した後、阿佐緒は新詩社に加入する[62][63]。阿佐緒が新詩社に加入した時点で、『明星』は廃刊になっており、阿佐緒の活躍の場は『明星』の後継誌にあたる『スバル』となった[63][64]。『スバル』では森鴎外、高村光太郎、北原白秋、与謝野晶子らが活躍しており[65][66]、『女子文壇』、『スバル』誌上で阿佐緒は親友となる三ヶ島葭子のことを知るようになる[67][68]。吉井勇の推薦により、74首が一気に掲載された『スバル』1912年(大正元年)9月号に掲載された作品の中に、阿佐緒の代表作のひとつとされている
生きながら 針に貫(ぬ)かれし 蝶のごと 悶えつつなほ 飛ばむとぞする
がある[69]。
阿佐緒は地元仙台の文芸界でも大活躍し、仙台で発行された文芸同人誌、『東北文芸』、『シャルル』、『玄土』などにおいて、中核メンバーの一人として指導的役割を果たしていた[70]。仙台の文芸界で活躍する阿佐緒に多くの男性が憧れを抱いた、阿佐緒の周囲には常に男性の姿があり、日記にはそのような男性たちと阿佐緒とのやり取りが遺されている[71][72]。
短歌に自信をつけつつあった阿佐緒は、吉井勇と与謝野晶子に歌集の出版について相談した。両者とも歌集出版に賛意を示し、与謝野はまずは作品発表の場を広げるためにも、阿佐緒に『青鞜』への参加を勧めた[73]。阿佐緒は与謝野が勧めた『青鞜』に入社したが、同時期に仙台の文芸同人誌『シャルル』に掲載された短歌に熱心な感想を寄せた『アララギ』の古泉千樫に、『アララギ』入会について相談した[73]。阿佐緒としてはこれまで主観的な叙情歌を詠んでいた自らの短歌の幅を広げるべく、『アララギ』への入会を望むようになっていた[74]。古泉千樫は阿佐緒の『アララギ』入社を歓迎し、『青鞜』は1913年(大正2年)1月号、『アララギ』では同年の3月号から阿佐緒の短歌が掲載されるようになった[75][76]。
第一歌集『涙痕』の刊行

歌集の発行を願うようになった阿佐緒であったが、その願いは思いの外早くかなえられることになった[77]。阿佐緒の短歌の熱烈なファンであった広島県在住の青年、西野義雄が出版費用を負担した上、事実上自力で歌集を編集、発行にこぎつけたのである[78]。西野は文学青年であり、『スバル』、『青鞜』に掲載された阿佐緒の短歌の熱心なファンとなった。また製網業を営む父親を手伝っていて、経済的に比較的余裕があったと考えられる[79]。もともと西野は地元の文学仲間とともに1913年(大正2年)2月に、『スター』という同人誌を発行し、続く臨時増刊号として原阿佐緒特集を組もうと考え、阿佐緒に相談を持ち掛けてもいたが、『スター』の刊行が続かなかったため、そのかわりとして歌集の刊行を決意した[80]。
西野から歌集出版の話を持ち掛けられた阿佐緒は困惑した。出版関係者ではない西野の歌集出版の計画に危うさを感じながらも、その熱意と費用は全額西野が負担するという条件を持ち掛けられ、阿佐緒は承諾した[80]。実のところ西野は日本を離れる決意を固めていて、日本を離れるにあたり、一生の記念となるものを作りたいという願いがあった[81]。海外渡航のための船便の予約まで進めていた西野は歌集の発行を急いだ[82]。歌集の序文は与謝野晶子、序歌は吉井勇に依頼し、5月15日に歌集『涙痕』刊行に漕ぎつけたものの、拙速な作業が祟り、不備が目立つものになってしまった[83][84]。そこですぐに改定に取り掛かり、6月20日に改訂版が出版されたものの、それもやはり誤植が目立つものであった[注釈 4][87]。
発表後の『涙痕』には比較的好意的な書評がなされた[88][89]。作者阿佐緒の愛の情念のうねりとともに、生命の激しい燃焼が感じられ、その後、数奇な人生を歩むことになる阿佐緒の生涯を象徴するような歌集となっているとの評価がある[90]。後年、阿佐緒は『涙痕』について、あくまで純情がにじみ出ている歌集であり、懐かしく、涙ぐまれ、ほほえましい感じがすると述べている[91]。
夢破れた結婚
古泉千樫との関係
前述のように阿佐緒の『アララギ』入会に口利きしたのは古泉千樫であった。古泉は雑誌に短歌の投稿をする中で伊藤左千夫の知遇を得て、伊藤の下で短歌の腕を磨くようになった[92]。伊藤左千夫は1908年(明治41年)に『アララギ』を創刊するが、古泉は斎藤茂吉、島木赤彦らとともに『アララギ』の中核メンバーの一人として活躍する[93]。古泉千樫と原阿佐緒は1912年(大正元年)12月頃から文通をするようになったと考えられている[94]。
古泉千樫と原阿佐緒は頻繁に手紙のやり取りを行うようになっていく[95]。歌人として、阿佐緒は古泉千樫の実力を見抜いていた[96]。一方、『アララギ』の中心メンバーであった古泉は当時編集発行人を担っていたが、編集作業が不得手であり多大なストレスを抱えていた。ストレスフルな生活下、古泉もまた歌人仲間である阿佐緒に対する親近感を高め、心のよりどころにしていった。阿佐緒と古泉は頻繁なやり取りの中でお互いの好意が高まっていった[95]。しかし古泉には内縁の妻と子どもがいたが、阿佐緒に対して妻帯者であることを伝えていなかった[注釈 5][95]。
1913年(大正2年)12月、阿佐緒は上京した。上京時、阿佐緒は在京の叔父に恋人に会いに行く旨を伝えている[99]。12月18日、古泉千樫の隣家から出火し、4軒が全焼する火災となった。風上側の古泉宅は延焼を免れたが、古泉と内縁の妻は火事後の後片付けに追われることになった。ちょうどそんなときに阿佐緒が古泉宅を訪れることになった[100][101]。独身と思っていた古泉が妻子持ちであったことに阿佐緒は衝撃を受けた。一方、古泉は宮城から自分に会いに上京してきた阿佐緒のことをより深く思うようになった[102]。
推定では12月24日、古泉千樫と原阿佐緒は千葉の稲毛海岸にあった旅館に泊まり、一夜をともにした。一夜の後、古泉はより深く阿佐緒の虜になった[103]。阿佐緒は12月28日、宮城の宮床への帰途につき、古泉は阿佐緒のことを新橋駅に見送った[103]。新橋駅には阿佐緒の初恋の人、庄子勇がいた。これは阿佐緒が意図的に庄子を新橋駅に呼んだのではとの推測もある[104]。対阿佐緒との関係性で古泉千樫はコントロールを失った。立て続けに阿佐緒に激しい恋情を告げる手紙を送り、内縁の妻と子を捨てることも考えた[105]。一方、阿佐緒としても古泉千樫と庄子勇との間の板挟み状態に陥ってしまい、深く悩んでしまっていた[106]。阿佐緒からは古泉と庄子との間で揺れ動く連絡が届き、なおさら古泉の動揺は激しくなって『アララギ』の発行業務は滞り、斎藤茂吉らの怒りを買うようになった。結局古泉千樫は『アララギ』の編集発行業務をこなすことが出来なくなり、斎藤茂吉が編集発行人を務めることになった[107][108]。
夫の変調に気づいた古泉の妻も激しく動揺していた。10月に二女が生まれたばかりであったが、ストレスのため乳が出なくなり、二女は1914年(大正3年)1月20日に亡くなる[109][110]。二女の死は古泉千樫に深刻な打撃を与えた。古泉は阿佐緒への恋愛感情を断ち切る決意を固め、2月に阿佐緒から送られてきた会いたいとの内容の手紙に対し、断りの手紙を書いた[109][111]。しかし古泉千樫は阿佐緒への思いを断ち切ることが出来ず、その後もことあるごとに阿佐緒のことを詠んだ短歌を制作し、逢引きの舞台となった稲毛海岸の旅館に泊まりに行ったりするなど、阿佐緒への思いに翻弄され続けた[107][112]。また古泉と阿佐緒との関係は『アララギ』の歌人間に知れ渡り、『アララギ』内の人間関係に亀裂を生じさせるようになる[113]。結果として阿佐緒は歌人古泉千樫の人生を大きく変えることになった[107][114]。
庄子勇との結婚

阿佐緒の初恋の人であった庄子勇は、1907年(明治40年)に東京美術学校を卒業し、山口県内の中学校の美術教師となっていた[115]。1913年(大正2年)夏、庄子が実家の仙台に帰省した際、阿佐緒と再会して交際が復活していた[115]。阿佐緒としてもやはり好きな人と結婚したいという願望があり、前述のように阿佐緒は古泉千樫と庄子勇との間で板挟み状態となって深く悩んだ[116][106]。結局阿佐緒は庄子勇を選ぼうと心に決めた。しかし阿佐緒の母、しげは庄子勇との結婚に反対であった。また原家の戸主であるという立場が、母親の反対を押し切って庄子勇と結婚に踏み切ることをためらわせた[116]。しげは夫の幸松の没後、素封家である原家を支えてきたが、阿佐緒に婿養子を迎えて原家を安定させたいと考えていた[117]。阿佐緒は庄子勇に対し、原家の婿養子となって阿佐緒の子の千秋を実子のように育てていくことを要求した[118]。
庄子勇は阿佐緒の要求を受け入れ、1913年(大正2年)4月、婿養子として阿佐緒と結婚する[119]。ほどなく阿佐緒は妊娠した。そして9月初めには阿佐緒夫婦は千秋を阿佐緒の母、しげに任せて上京した。10月2日には阿佐緒夫婦はやはり妊娠中の三ヶ島葭子を尋ねている[120]。しかしこの頃から夫婦仲に亀裂が入りだす。勇は上京して画家として身を立てようと考えた。しかし実際には絵もろくに描かず、定職にも就かず、宮床の原家からの仕送りを頼りにして映画館通いを続ける生活となった[121][122]。勇は画家としての才能に乏しかったとの証言もある[123]。一方、妻の阿佐緒は名が知られた歌人であり、しばしば文学青年が尋ねてきたりした[122]。夫の勇はプライドを傷つけられて阿佐緒が雑誌等の購入することを禁じ、短歌を詠むことを妨害し、阿佐緒を殴る蹴るドメスティックバイオレンスを起こすようになった[124][125][126][127]。
人妻は かなし歌よむ ことをさへ みそかごとする ごとく恐るる

1915年(大正4年)1月28日、阿佐緒は二男原保美を出産する。保美の名は1か月前に出産した親友の三ヶ島葭子の長女の名前、みなみにちなんで名づけたと言われている[128]。そのような時、宮床の母、しげから長男の千秋が病気となったのですぐ帰れとの電報が届いた。これは仕事もせずお金の無心ばかり続ける婿の勇にたまりかねたしげが、阿佐緒と勇を切り離すためにしくんだことであった[129][130]。帰郷した阿佐緒は元気いっぱいの千秋の姿をみて、母、しげの策略に乗せられたことを知った[131]。阿佐緒は支配的な母親に対しても強い反発心を抱き、母親の犠牲になってしまっていると感じた[20][132]。阿佐緒は夫、勇との関係性の修復を願った。しかし母しげは勇との復縁に反対した[133]。1916年(大正5年)6月、短歌の師匠であり親交があった与謝野晶子は阿佐緒への手紙の中で、親のためでも、子のためでも、夫のためでもなく、自分自身のために進むことが、そのまま誰にとっても良い道が開けることになると思うと助言した[134]。
第二歌集『白木槿』の刊行
阿佐緒は1914年(大正3年)4月号以降、『アララギ』への出稿を止めていた。『青鞜』には出詠していたが、1916年(大正5年)2月に『青鞜』が休刊したこともあって、阿佐緒は斎藤茂吉に師事を願い、認められて1916年(大正5年)8月号から『アララギ』に復帰する[135]。1916年(大正5年)11月、阿佐緒の第二歌集である『白木槿』が刊行された[136]。『白木槿』は第一歌集の『涙痕』刊行後に詠まれた444首を収録しており[137]、『涙痕』の流れを引きついだ『明星』風の歌と、『アララギ』の活動の中で培ってきた写生を基本とした歌の、異なった作風が共存した歌集となった[138]。阿佐緒自身が「『白木槿』を分水嶺として新しい道程にのぼりたい」と述べているように、『白木槿』は阿佐緒の転換点となった歌集であり[139][140]、歌壇からの評価もおおむね好意的であり[141][142]、阿佐緒の歌人としての立場はより確かなものとなった[143]。
離婚
夫、勇との関係修復を願っていた阿佐緒は、勇に連絡を取り続けるもののなかなか連絡は来ず、二人の間の子どもである保美が高熱を出した際も、自分を宮床におびき寄せるための策略であると邪推した電報が届くありさまであった[144]。しかし阿佐緒は家の財産問題ばかりに執着する母の態度にも愛想をつかしていた。結局阿佐緒は1917年(大正6年)春に実家を飛び出し上京して、書店の事務員を始めた[145][146]。母、しげは勇に対して養子でありながら養母のしげを侮辱したとして離婚訴訟を提起した[145]。そのような中で阿佐緒と勇はよりを戻し、同居を始めていた。勇がろくに仕事もせず、阿佐緒の短歌制作に理解を示さずに暴力を振るっていたことは親友の三ヶ島葭子は知っていて、同居を危ぶんだ。今回の同居時にはさすがの勇も生活のために絵は描いていたが、やはり二人の生活は荒んだものであった[146][147]。
夫、勇との再度の同居時、阿佐緒は妊娠した。しかし妊娠の経過が思わしくなく、やむを得ず阿佐緒は実家を頼り、仙台の東北帝国大学病院に入院した。結局異常妊娠のため手術となり、阿佐緒は命はとりとめたものの、二度と妊娠が出来ない体となった[148]。しかし阿佐緒の入院時、夫の勇は一度も見舞わないどころか、手紙ひとつ寄こさなかった[149]。今回は阿佐緒も夫、勇に愛相をつかし、1918年(大正7年)夏、正式に離婚が成立する[150]。しかし勇に対して阿佐緒が書いた「服従しないときには全財産を提供する」旨の念書があったため、母、しげが強要によって書かされたものであると主張したものの、結局、勇に多額の財産分与が行われた上での離婚となった[151][152]。この頃になると弱体化してきた原家の財産を狙う親族たちの動きも表面化してきており、勇に財産を引き渡す役割は叔父の寅松が担った。前述のように寅松は阿佐緒から深く信頼されており、実際、小原要逸との一件や夫となった勇との問題が起きた後も、以前と全く変わらない態度で阿佐緒に接していた[22][152]。
妖婦の汚名
石原純の求愛

異常妊娠により東北帝国大学病院に入院した阿佐緒であったが、退院が近くなった1917年(大正6年)末、阿佐緒のことを見舞う紳士がいた。『アララギ』の重要メンバーの一人であり、東北帝国大学教授で理学博士の石原純であった。石原は新年に『アララギ』の仙台歌会を開く計画を立てていて、阿佐緒を歌会に誘うことが目的の来訪であった。阿佐緒は石原の誘いを快諾し、その後、石原はしばしば阿佐緒を病室に見舞うようになった[153]。
石原純は1881年(明治14年)1月15日に東京で生まれ、阿佐緒よりも7つ年上であった[154]。石原は極めて学業優秀であったが、家は貧しく、苦学の中で東京帝国大学に入学し、物理学を専攻する。その一方で短歌を愛好し、伊藤左千夫に師事するようになった。左千夫は石原のことをかわいがり、短歌を教える傍らで石原の専門である物理学や天文学のことを質問したりした[155][156]。『アララギ』創刊時から石原は主要メンバーの一人として活躍し、学業でも1910年(明治42年)からは当時最先端の相対性理論の研究に手をつけ、1911年(明治44年)、理科系の高等教育機関として仙台に東北帝国大学が開設されたことに伴い、助教授として赴任した。そして1912年(明治45年)からは2年間の国費海外留学を命じられ、スイスではアインシュタインから直接教えを受けたりした[157][158]。
石原は1910年(明治43年)に友人の姉であった橋元逸子と結婚した[157][159]。純と逸子は5人の子どもに恵まれ、学問の世界では1919年(大正8年)5月に「相対性原理、万有引力論及び量子論の研究」で帝国学士院の恩賜賞を受賞した[160]。純の妻、逸子は冷静沈着な常識人でありひたすら夫の立身出世を願うタイプの人物であり、文学や芸術には全く関心を持たなかった。多くの子どもに恵まれ、学問の世界では栄誉を手にした石原であったが、心中には満たされないものが溜まりつつあった[161][162]。
阿佐緒は夫の勇と正式に離婚となった後、これまで以上に多くの男性から言い寄られるようになっていた[163]。石原も阿佐緒に心奪われていき、頻繁にラブレターを送り付けたり、夜中に宮床村まで阿佐緒に会いに行くなど、ストーカーとなっていく[164][165]。阿佐緒のことを頻繁に尋ねる文芸愛好家の中に石原純の教え子である年下の青年がいて、阿佐緒はその青年と親密となり、そのことを知った石原は苦悩を深めた[注釈 6][163][169]。この阿佐緒と石原の教え子との交際は、石原に見せつける目的があったのではとの見方もある[167]。1919年(大正8年)4月に中学に進学した長男千秋とともに仙台住まいとなった阿佐緒のもとに、石原はさらに足しげく顔を出すようになった[170]。阿佐緒が石原を受け入れようとしない中、1920年(大正9年)3月には阿佐緒の前で首を吊る自殺未遂まで行った[注釈 7][165][172]。この石原の自殺未遂は阿佐緒に衝撃を与えた[173]。
執拗な石原からのアプローチに耐え切れなくなった阿佐緒は、長男千秋を友人に預けた上で、1920年(大正9年)10月21日に上京し、親友の三ヶ島葭子の家で三ケ島と同居するようになった。当時、三ヶ島葭子の夫である倉片寛一は大阪に単身赴任中であったため、阿佐緒との同居も可能な状態であった。またかねてから三ヶ島葭子と夫の倉片寛一は阿佐緒から石原純の問題について相談に乗っていた[170]。三ケ島葭子夫婦は阿佐緒に石原の思いを受け入れるように説得した。これは自殺未遂までして思いつめていた石原に同情したことと、やはり石原の教え子である青年よりも石原の方が良いのではないかとの考え方によるものであった[174]。
1920年(大正9年)11月、石原純は京都帝国大学からの招請により、約1か月の予定で相対性理論など物理学の講義のために京都で過ごすことになった。石原は阿佐緒に京都への同行を求めた。阿佐緒は京都行きを渋ったが、結局、三ケ島葭子夫婦の説得もあって三ケ島とともに京都に向かった[注釈 8][176][177]。京都で阿佐緒と石原は結ばれ、1921年(大正10年)2月末からは三ケ島葭子宅で事実上の同棲生活を営むようになった[178]。阿佐緒と石原との恋愛問題は、柳原白蓮が夫の伊藤伝右衛門から逃れ、若い愛人のもとに向かった白蓮事件とともに大正10年に起きた二大スキャンダル事件としてマスコミや世間を騒がせることになり[179]、大正年間の七大恋愛事件のひとつと呼ばれるようになった[180]。
妖婦原阿佐緒

1921年(大正10年)2月末から、三ケ島葭子宅で阿佐緒と石原が事実上の同棲生活に入ったことを知った『アララギ』幹部の斎藤茂吉、島木赤彦、平福百穂は、石原に対して世界的な学者となったのに、一婦人のために身を誤らないで欲しいと説得をした[181]。中でも斎藤茂吉は一週間説得を行ったが、石原は聞く耳を持たなかった[181][182]。『アララギ』幹部の中で古泉千樫のみは阿佐緒と石原の恋愛関係に好意的であった[183]。しかし阿佐緒の態度は石原に対して世話女房のように尽くしたかと思うと、一人の安らかさに戻りたいと言ってみたりするなどはっきりとしなかった[184][185]。たまりかねた古泉千樫は7月半ばの阿佐緒への手紙の中で、はっきりとしない阿佐緒の態度に苦言を呈し、石原と一緒になるならなる、別れるならきっぱりと別れるようにと忠告した[186][187]。
1921年(大正10年)7月26日、東京朝日新聞は石原純と原阿佐緒の恋愛問題について報道する。報知新聞が後に続き、7月28日には石原純は病気を理由に東北帝国大学教授の辞表を提出する[188]。7月30日の朝刊は各紙阿佐緒と石原の恋愛問題を一斉に報道した[189][190]。地元紙である河北新報では「多くの異性を弄んだ妖婦原阿佐緒、甘ったるい恋文と詩とが異性を蕩かす唯一の武器、見よ、妖婦原阿佐緒の犯罪史を」[注釈 9]という中見出しで報道するなど[190]、各紙ともセンセーショナルに阿佐緒に対する侮蔑と憎悪を煽り立てる内容であった[192][193]。河北新報はさらに9月半ばから阿佐緒をモデルとした連載小説『蘭双紙(あらくさそうし)』を約1年間にわたって連載した[194][195]。阿佐緒へのマスコミ、そして世間からのバッシングが続き、親族に対しても誹謗中傷が広まった[196]。絶望した阿佐緒は自殺を決意し「虚偽に満ちた社会に対する憤激と、非難に対する絶望とから、せめて肉親の汚辱を救うためにあらゆる謝罪の意をこめて」遺書を書いたものの母に見つかり、未遂に終わった[197][195]。
この石原純と原阿佐緒の恋愛問題の背景には、自由主義的、社会主義的な思想が育っていき、皆それぞれの自我を持つべきであるという考え方が広まった大正デモクラシーという時代背景があるのではとの意見がある[198][199]。これまでの「家」制度に縛られた個々人の在り方に対する抵抗感が広まる中で、女性の社会的地位獲得を目指す運動も広がりをみせるようになり、石原純と原阿佐緒の恋愛問題の他にも前述の白蓮事件を始め、大杉栄と伊藤野枝、神近市子の3者の間の恋愛問題がこじれた日陰茶屋事件、有島武郎と波多野秋子との情死事件など、マスコミと世間を騒がせた多くの恋愛スキャンダルが起きた[200]。これらの恋愛問題は、各個人の自由、自我を求める風潮の中で生まれた恋愛の成就を望みながら、確固とした規範として存在していた旧来の道徳感に基づく激しいバッシングに晒されることになった[201]。
アララギの破門
阿佐緒と石原純との関係は、『アララギ』の同人たちに深刻な危機感を与えていた[202]。前述のように『アララギ』幹部の斎藤茂吉、島木赤彦、平福百穂は1921年(大正10年)2月末からの阿佐緒と石原の事実上の同棲生活に入った際に、石原に止めるよう繰り返し忠告していた[181]。3月には島木赤彦は石原と阿佐緒の恋愛問題は重大事なので、然るべき措置を取らねばならないと明言していた[203]。斎藤茂吉、島木赤彦らは、古泉千樫との関係性を悪化させる要因となり、そのうえ石原純との間に問題を起こしたとして阿佐緒のことを危険視していた[注釈 10][113]。幹部たちは『アララギ』内部の同人、そして世間から不純な師弟関係が存在する組織であると見なされるのではと恐れており、『アララギ』存続の危機であると認識していた[注釈 11][206]。
7月末の新聞各紙による石原純と原阿佐緒の恋愛問題についての一斉報道後、島木赤彦は『アララギ』門人にかん口令を引いた[207]。阿佐緒は破門状を送られ『アララギ』から追放された[208]。また『アララギ』幹部たちは三ケ島葭子宅で阿佐緒と石原が事実上の同棲生活を営んでいたことなどから、二人の仲を取り持ったとして三ケ島葭子にも不信感を強めていた[209]。その上、三ケ島は婦人雑誌『新家庭』、『婦人公論』に、阿佐緒と石原との関係を取り持ったことの事情ならびに釈明とともに阿佐緒を弁護する記事を投稿し、ともに大正10年9月号に掲載された[210][211][212]。島木赤彦は9月11日に行われた正岡子規二十回忌に三ケ島葭子が出席したことに不快感を示し、9月16日には三ケ島から送られてきた『アララギ』10月号用の歌稿を送り返した。これは事実上の破門を意味した[213][214]。
その一方で、伊藤左千夫の直弟子であり『アララギ』の古参幹部であった古泉千樫は破門を免れたものの[215]、かつて阿佐緒と関係を持ち、また石原純と原阿佐緒の恋愛問題で二人に同情的であったため、他の『アララギ』同人との関係性は極めて悪くなった[216]。石原純も『アララギ』から破門されることは無く、むしろ大きな業績を挙げていくべき人物であるにも関わらず、阿佐緒に惑わされた被害者であるとして同情されていた[217]。実際、1922年(大正11年)には石原純の第一歌集『靉日(あいじつ)』をアララギ叢書第14篇として刊行している[218]。
第三歌集『死をみつめて』の刊行
1921年(大正10年)春頃の予定で、玄文社を出版社として阿佐緒の第三歌集出版の話が進められていた。当初、歌集は『睡蓮』ないし『合歓木の花』という題名で刊行される計画であったが、出版は遅れていた[219]。
9月、斎藤茂吉は静養先の長野県の富士見高原に石原純を招いた。茂吉としては石原を説得するつもりであったが、石原が阿佐緒同伴で富士見高原にやって来たため説得を諦めた[220][221]。富士見高原のホテルで阿佐緒は歌集の序文を執筆し、歌集は『死をみつめて』と改題された。序文で阿佐緒は激しいパッシングの的となった石原純と原阿佐緒の恋愛問題の渦中、一度は死を決意をしたが、この歌集を制作することで救われ、あらゆる苦痛に耐えうる力を得て、生きる信念と力を得たとして、自らの過去に別れを告げ、新たに生まれ変わったと思うようにしたいと述べている[222][223]。
玄文社としては世間での石原純と原阿佐緒の恋愛問題の記憶が生々しいうちに歌集の出版を行おうとした。『アララギ』の島木赤彦は、歌集の出版は無節操であり歌集そのものも際物であると批判した[224][225]。実際、『死をみつめて』は評判を呼び、10月3日の刊行直後に再版となっている[224]。島木赤彦は際物と批判したが、歌集そのものの評判は比較的良好であった[226]。『死をみつめて』は、『アララギ』の中で培われた写実により歌が洗練され、これまでの情念を直接的に詠んだ歌風から、様々な心情を情景の描写へと昇華させることによって現実感がある歌風となり[227][228]、
沢蟹を ここだ袂(たもと)に 入れもちて 耳によせきく 生きのさやぎを
のように、孤独感、ささやかな喜びのような感情を、自然の姿を見通すような描写や、心の内面を描き出すような心理描写で表現していると評価されている[229]。
親友の死と破局
房総保田の日々
1921年(大正10年)10月初旬、阿佐緒と石原は富士見高原を離れ、南房総の保田に向かった。1919年(大正8年)には現在の内房線が館山駅まで延伸しており、冬でも気候温暖な南房総には芸術家たちが別荘を建てるようになっていた[230][231]。二人の南房総行きは、南房総出身の古泉千樫による口利きがあったと言われている[231][232]。
保田で阿佐緒と石原は松音楼旅館に居を定めた。その後1922年(大正11年)7月末には靉日荘が落成したため、二人は靉日荘に移り住んだ。靉日荘は山裾の海と保田の町並みを見下ろす地に建てられた二階建ての洋館であった[232][233]。なお、靉日荘は石原の歌集『靉日』からその名を取って呼ばれるようになった名であるが、阿佐緒と石原は紫花山房と呼んでいた[234]。靉日荘での日々は、大学教授から科学ジャーナリストへと転向した石原は著作に勤しみ、1922年(大正11年)11月から約一か月の日程で日本を訪れたアインシュタインの通訳を務めたりした[235]。一方の阿佐緒は短歌や絵画を制作し、三味線を楽しみ、また保田の町に住む若い女性たちに阿佐緒が好きな編み物を教えたりした。当初、あでやかな着物姿で出歩く艶麗な阿佐緒から保田の若い女性たちが悪影響を受けることを懸念する声も上がったが、やがて阿佐緒は保田の地に受け入れられ、懸念の声も消えていった[236]。
阿佐緒と石原は地元房総の文化向上に貢献した。南房総の歌人たちは阿佐緒と石原を中心とした短歌会である保田短歌会を立ち上げ、また同じく房総を拠点として活動していた前田夕暮系列の短歌会、金鈴社に短歌に短歌の投稿などの交流を行った。また阿佐緒と石原が制作した絵画を地元の展覧会に出品したりした[237]。また靉日荘には親友の三ヶ島葭子や、古泉千樫、結城哀草果らが来訪した[238]。
1924年(大正13年)4月、歌壇で大きな力を持つようになった『アララギ』の歌風になじめなかった北原白秋、土岐善麿、木下利玄、前田夕暮、そして『アララギ』に違和感を持つようになって離れた釈迢空、阿佐緒とのいきさつがある古泉千樫、石原純らが短歌雑誌『日光』を立ち上げた。『日光』には三ヶ島葭子、そして阿佐緒も参加した[239][240]。阿佐緒は三ヶ島葭子と古泉千樫の勧めにより『日光』に参加することになったと考えられている[241]。『日光』は短歌のみならず詩や小説家の寄稿も載せ、『アララギ』の寡占状態となりつつあった歌壇に新風を吹き込んだ[242][243]。後述のように三ヶ島葭子は1924年(大正13年)8月に脳出血により右半身不随となりながらも、亡くなる1927年(昭和2年)3月まで多くの優れた短歌を『日光』で発表した。また石原も持論となった口語自由律短歌についての論説、作品を積極的に発表する[244][245]。しかし阿佐緒の『日光』での活動は質、量ともに低調であった[245][246]。
三ヶ島葭子の発病と死
阿佐緒の親友、三ヶ島葭子は1924年(大正13年)8月、脳出血により右半身不随となった。親友が倒れたことを知った阿佐緒は見舞いのために至急上京した。口がきけなくなった三ヶ島葭子の看病のため、阿佐緒はしばらく東京に滞在した。
うつそみの なやみの限り 堪へ来つる 友がいのちを ただに死なせがたし
約3か月間の闘病生活の後、三ヶ島葭子はある程度回復して再び短歌を詠めるようになった[247][248]。
1927年(昭和2年)3月25日、脳出血が再発して危篤状態となった三ヶ島葭子が発見された。その夜、阿佐緒のもとに三ヶ島葭子危篤の電報が届いたが、阿佐緒はすぐに上京することが出来なかった。これは石原純が阿佐緒のことを束縛し、行動に制限を加えていたからと言われている[249][250]。三ヶ島葭子は3月26日の午前11時に亡くなった。阿佐緒が三ケ島宅に到着したのは翌27日の午後7時過ぎのことであった。出棺にも間に合わず、阿佐緒は荼毘に付された親友と対面することになった。親友の死に目に会うことが出来ず、出棺にも間に合わなかった阿佐緒は三ケ島宅の玄関先で泣き崩れた[249][250]。
第四歌集『うす雲』の刊行と破局
阿佐緒と石原の房総保田での生活は、阿佐緒にとって当初から大きなストレスを抱えたものであった。ストレスの大きな原因のひとつは、故郷の宮床村に残してきた子どもたちのことであった。保田での生活が始まったばかりの1922年(大正11年)6月時点で、そもそも痩せ型で38キログラムくらいだった阿佐緒の体重が30キログラムまで瘦せてしまっており、これは阿佐緒を知る女医が前年の石原純と原阿佐緒の恋愛問題が尾を引いていたのに加え、会えない子どもたちのことで心労が重なり、衰弱したと指摘していた[251]。石原は阿佐緒が保田に子どもを連れてきて一緒に暮らすことを許さなかった[252]。また阿佐緒の母、しげが病気で倒れた際も石原は阿佐緒の帰省を許そうとはせず、阿佐緒の懇願の後にようやく帰省を認めた[253]。
石原は短歌や絵画制作に没頭する阿佐緒のことを見守る姿勢を見せていた[254]。しかしその反面、財布やタンスの中身は全て石原が管理するなど経済面は全面的に石原に握られていた。これは阿佐緒が経済観念に欠けていたという理由もあったが、前述のように親友である三ヶ島葭子の危篤連絡後、すぐに上京できなかったなど阿佐緒の行動を縛るものであった[249][254]。阿佐緒は「体も弱く役に立たない自分を、まるで廃物利用のように、花を植えさせ歌を作らせ畫(絵)をかかせて役立てようとしてくれる」と、石原に対する不満を露わにしていた[254]。また石原は阿佐緒が意に沿わないことを言うと押し黙り続ける「無言の制裁」を阿佐緒に対して行った[255]。二人の生活が長くなるにつれて、阿佐緒に対して石原がきつい言葉を投げつけることも多くなってきた。そして自由律短歌を推進していく石原に短歌制作の面でもついていけなくなっていた[注釈 12][257]。
精神的に追い詰められていった阿佐緒は、実現することは無かったが斎藤茂吉に精神鑑定依頼の電報を送るに至る[258]。このような精神的危機の中で阿佐緒の第四歌集である『うす雲』の出版は進められた。『うす雲』は、子どもと離れて石原とともに房総保田で暮らしながら、常に子どもたちのことを思い続ける阿佐緒のアンビバレンツな心情が映し出される作品や、石原との生活の破綻を感じさせる作品が多く収録された[259]。
心ひらきて 吾にあかさぬ 夫とゐて 七年を堪へし 寂しさはてなし
人にも そしられののしられ 遂げにたる われらと思ふに つひに寂しき
『アララギ』でいったん身につけた写生の技法が精神的な苦痛のために押し潰されるようにおろそかとなって、客観性を失う傾向がみられると評価され、『うす雲』の評価はあまり高くない[260][261][262]。その一方で、精神的葛藤がストレートに伝わってきて読みごたえがある[261]、そもそもの阿佐緒の短歌の原点ともいうべき自己表白が顕著な作品に作者阿佐緒の面目が感じられるとの評価もある[262]。
石原としても阿佐緒の精神的危機が見えていなかったわけではなく、『うす雲』の序文の中で阿佐緒に生活上の苦労をさせて精神的に苦しむようになったとして、自分の不徳を恥じると自己反省の姿勢を見せ、今後とも好きな歌の道に精進していくサポートをしていきたいと述べている[258][263]。しかし阿佐緒の心は限界を超えており、1928年(昭和3年)10月の『うす雲』刊行前の9月26日、石原の上京中に阿佐緒は靉日荘を飛び出し、故郷宮床村に戻った[264]。
酒場勤め

1928年(昭和3年)9月28日、阿佐緒は仙台駅で出迎えた長男千秋に付き添われ、故郷宮床村に戻った。実家に戻った阿佐緒は、家を守っていた使用人から「保田の海に入って死ねば、阿佐緒の名もきれいに残ったでしょう」と厳しく非難された。阿佐緒はうなだれて「子どもがあるもの……」と語り、子を思う母の気持ちを感じ取った使用人はその瞬間、阿佐緒に対して抱いていた憎悪、侮蔑感が消え去ったと述べている[265]。
しかしやはり故郷宮床で阿佐緒を見る村人たちの目は厳しかった。約一か月後の11月には上京して、かつて自殺未遂時に傷の縫合を行った四谷の竹内茂代の病院に一時的に療養入院した後、三ケ島葭子の妹である千代子の支援を受けつつ阿佐ヶ谷で生活を始めた。1929年(昭和4年)5月には、かつて日本女子美術学校時代、阿佐緒に短歌を教えた下中弥三郎が社長を務めていた平凡社からこれまでに阿佐緒が制作した短歌の秀作選である『阿佐緒抒情歌集』が出版される[266][267]。
1929年(昭和4年)6月、三ケ島千代子が結婚したことにより阿佐ヶ谷から高円寺に引っ越し、11月からは歌舞伎座近くのバー、ラパンで働き出す[268]。ラパンでは名の知れた阿佐緒は看板嬢扱いであり、給与も月額120円と、当時の水商売で働く女性の給与が高くても60円から70円程度であったことを考えると好待遇であった[269]。酒場勤めをするようになって阿佐緒の短歌は、接客する中で見えてきた社会を見据えた歌も詠むようになった。
女(をんなご)は 若くもあらねば 職業を 得られずといふ 社会に吾(あ)も老ゆ
ラパンで働き出した時点で阿佐緒は40歳を超えていた。実家を頼ることなく水商売で働いて自活する阿佐緒の短歌は、社会を見据え、経済的、精神的な自立を目指した姿が表現されているという意見がある[267][270]。昭和初期、歌壇ではプロレタリア運動の影響を受けたプロレタリア短歌を始め、モダニズム短歌など様々な新たな試みがなされ、また定型の枠を超えた自由律の短歌を制作する動きがあった。阿佐緒はプロレタリア運動に関心を持ったものの、イデオロギーが無ければ芸術として認められないとの主張や短歌の定型の枠を外れることには否定的であった。阿佐緒が追求したのは表現そのものの自由度と自然さであった[271][272]。水商売勤めの中での実感に根差した阿佐緒の短歌は当時の歌壇からは評価されなかったが、新たな短歌による表現を目指したとの評価がある[273]。
1930年(昭和5年)5月、阿佐緒は数寄屋橋に瀟々園阿佐緒の家を開業した。瀟々園阿佐緒の家の開業を支援したのは石原純であり、店の経理も担当することになった。しかし阿佐緒はすぐに瀟々園阿佐緒の家を辞めた。辞めた理由としては石原が店の女性に手を出したからとも言われている。ここで阿佐緒と石原との縁は完全に切れた[274][275][276]。瀟々園阿佐緒の家を辞めた阿佐緒は大阪に向かい、水商売勤めを続けた。大阪での水商売時代に阿佐緒が詠んだ短歌に
歌よみの 阿佐緒は遂に 忘られむか 酒場女とのみ 知らるるはかなし
がある[277]。

1931年(昭和6年)、阿佐緒は上京してまず市村座の舞台に立った。阿佐緒の役はマレーネ・ディートリヒ主演の映画、嘆きの天使の翻案ものであり、真面目な大学教授がサーカス団の妖艶な女性に誘惑され転落の人生を歩むという、露骨に阿佐緒のスキャンダルを利用して売り出そうとするものであった。また映画「佳人よいずこへ」にも主演した。この『佳人よいずこへ』も阿佐緒の半生を題材とした映画であり、舞台も映画も興行的には失敗に終わった[278][279]。しかし『佳人よいずこへ』の主題歌として阿佐緒が作詞し、古賀政男が作曲した『あけみの唄』は大ヒットとなった[280]。
1931年(昭和6年)11月、阿佐緒は再び大阪に向かい、バーで働くようになった[278]。1932年(昭和7年)、平塚らいてうは阿佐緒に会い、子どものために働き続けるという阿佐緒の姿に、生活と戦う力を自分の中に見出していると評価し、同じ母のひとりとしての共感を寄せている[281][282]。そして1933年(昭和8年)5月、梅田にカフェーあさをの家を開業する[283]。あさをの家は文化人やインテリが客として集まり繁盛した[284][285]。カフェー経営の傍ら、阿佐緒は第五歌集の出版を計画し、題名も『黒い扉』と決め、実際に編集作業も進められていた[286]。しかし1934年(昭和9年)9月21日、京阪神を室戸台風が通過し、大阪市は甚大な被害に見舞われた。室戸台風により阿佐緒の歌稿がすべて失われ、大きな打撃を受けた阿佐緒は短歌の世界から離れ、カフェーあさをの家も閉じて1935年(昭和10年)春に故郷宮床に戻った[287][288]。
『歌はぬ二十年』

1935年(昭和10年)に宮床に戻った後の阿佐緒は、ほとんど短歌を制作しなくなったとされているが、本人のノートには制作時期は不明であるものの、短歌が書き残されている[289]。故郷に帰った村人からの視線は厳しいものがあったが[290]、それでも地元の青年たちに文学や短歌を教えたりもしていた[291]。1943年(昭和18年)12月には阿佐緒の母、しげが亡くなり、翌1944年(昭和19年)には俳優となった次男の保美が、阿佐緒と親交があった洋画家の中川一政の長女、桃子と結婚した[注釈 13][293][289]。
次男の保美が結婚した翌年の1945年、仙台に住んでいたアララギ派の歌人、扇畑利枝が阿佐緒のことを尋ねてきた[294][295]。扇畑は古川の豪商の娘で、結婚時に阿佐緒が描いた屏風を母から譲り受けていた。屏風には阿佐緒の短歌
家ごとに すもも花咲く みちのくの 春辺をこもり 病みて久しも
の短冊がつけられていて、扇畑は阿佐緒作の絵と短歌に魅せられた[290][295]。故郷宮床に戻った阿佐緒がどのような暮らしをしているのか気になっていた扇畑は、阿佐緒を尋ねてその純粋な人柄に打たれ、その後、献身的に阿佐緒のサポートを行うようになった[295]。
戦後、1949年(昭和24年)、阿佐緒の長男の千秋は宮床の青年たちとユートピア農園を開いたものの、農地改革のため農園は閉鎖となった。農園閉鎖に際して千秋は映画『仔熊物語』を撮影した。1951年(昭和26年)3月、『仔熊物語』は封切されたが興行的に失敗して多額の負債を負い、支払いのために原家の財産を失うことになった[296][291]。原家の財産を失った阿佐緒は生活に困窮した[297][294]。阿佐緒の自宅は間貸しされて賃料を得るようになり[298]、扇畑利枝は阿佐緒筆の色紙、短冊の頒布会を開催するなど積極的に支援の手を差し伸べた[297][294]。
扇畑が阿佐緒の色紙、短冊の頒布会を行っていく中で、歌壇から阿佐緒はまだ生きているのかといった反応や、寝た子を起こすなといった声にも見舞われた[299]。また阿佐緒は『アララギ』への復帰を願っており、扇畑は土屋文明らに阿佐緒の『アララギ』復帰を働きかけたもののそれは実らなかった[300][301]。
1954年(昭和29年)3月、阿佐緒は神奈川県真鶴町にあった二男原保美の家に住むようになった。この真鶴の家はもともと保美の妻、桃子の父親である中川一政の別荘であった。阿佐緒は原保美夫婦の新居が1959年(昭和34年)に杉並区永福町に完成するまで真鶴で過ごした[302]。真鶴で生活し始めた阿佐緒は、短歌雑誌『短歌研究』昭和29年6月号に『歌はぬ二十年』を発表する[303]。『歌はぬ二十年』の中で、阿佐緒は歌を己の命のように思い生きてきたが、人生の現実に負け、「死んだつもりなら、歌ぐらひ捨てたつて何だ……」と思いもがきながらなんとか生きてきたと述懐し、恋愛トラブルや水商売に身を投じたことについて歌壇から受けた不当な侮蔑に苦しみ、書き溜めてきた歌稿を無くしたことが引き金となって短歌を止めたと述べている[304]。そして歌わなかった空白をこれから作る歌で埋めていこうという野心はないが、長い間の沈黙孤独が自分の中に何ものかを培ってきたと信じたいと結んでいる[305]。実際、阿佐緒は1954年(昭和29年)9月に女性の歌人たちにより結成され、扇畑利枝も東北の支部に参加した『女人短歌』に参加しなかった[306]。
再評価と死

実際のところ阿佐緒は短歌を詠み続けており、原阿佐緒記念館には1952年(昭和27年)から1963年(昭和38年)頃までの歌稿ノート47冊が保存されている[307]。また阿佐緒は1957年(昭和32年)頃から水原秋桜子に師事して俳句を詠むようにもなった[308][309]。阿佐緒作の俳句は700句近くあるが、やはり短歌の発想で句作を行っている傾向が強く、俳句の世界に馴染むことは無かった[310][311]。
1959年(昭和34年)12月、扇畑利枝らにより「原阿佐緒歌碑建設委員会」が結成された[312][313]。歌碑は阿佐緒が生まれ育った宮床の家の庭に建立する計画で、費用は寄付で賄うことになった[314]。寄付の目標金額は35万円であったが、全国の歌人、文化人からの寄付が予想以上に集まり、計画のほぼ倍額である60万円を超える金額が集まった[315][314]。「原阿佐緒歌碑建設委員会」では宮床に歌碑を立てたら宮床の阿佐緒になってしまうので、仙台に建てるべきだとの意見が強くなってきたが、やはり計画通り宮床に建てるべきとの意見の委員もいて、結局、予定の約倍額寄付が集まったこともあり、仙台と宮床の二か所に歌碑を建立することになった[316]。
仙台の歌碑は
家ごとに すもも花咲く みちのくの 春辺をこもり 病みて久しも
が選ばれ、1961年(昭和36年)6月2日、阿佐緒の二男、原保美、宮城県知事の三浦義男ら百数十人が参加して除幕式が行われた[317]。
第二歌碑は宮床の生家の庭に建立されることになり、
沢蟹を ここだ袂(たもと)に 入れもちて 耳によせきく 生きのさやぎを
が選ばれ、7月30日に阿佐緒本人の他、仙台市長の島野武ら200名近くの参加者を集めて除幕式が行われた[318]。
最晩年の阿佐緒は杉並区永福町の原保美宅で過ごしていたが、宮床に帰りたいと言い続けていた[287]。1969年(昭和44年)2月21日、原阿佐緒は永福町の原保美宅で亡くなった。荼毘に付された後、阿佐緒の遺骨は故郷宮床の竜厳寺に葬られることになり、墓石の題字は中川一政が揮ごうした[319]。
人物
阿佐緒本人によれば自分は山女であり、幼い頃の阿佐緒は木登りや泳ぎが上手く、率先して栗の木や柿の木に登って木をゆすり、下に待たせた男の子に実を拾わせていたと述懐している[320]。阿佐緒の父、幸松はたばこ好きであり、父の影響を受けた阿佐緒は幼い頃からたばこに親しみ、晩年まで愛煙家であった[321]。阿佐緒の晩年、同居していた二男保美の妻、桃子によれば、食事後の後片付けで鍋を洗い出したらピカピカになるまで2時間も磨き続け、他の食器はほったらかしにしたり、編み物好きであったが使えるものを作ることを考えず、縫い目をきれいに揃えることばかりに関心が向かい、見た目は美しいが履けない靴下が出来上がったりするなどおよそ実用的なことが出来ない人物であった。桃子はこれは家事全般を取り仕切って行った経験がなかったためであると考えていた[322]。そしていつもそこに無いものに憧れを抱き、現実を前に満ち足りない淋しさを抱えていたと述懐している[323]。また阿佐緒は若い頃から希死念慮を抱えていて、芥川龍之介の自殺後に公表された手記に自分と重なるものを見ていた[324]。
阿佐緒の娘婿である画家の中川一政は、阿佐緒は地主の一人娘として生まれ苦労知らずで人を疑うことを知らなかった人物であり、阿佐緒が現れると暗夜に灯がともり蝶が舞い降りた感じがして、近所の人たちが阿佐緒の姿を見るために集まるくらいであったとその美しさを称賛している[323]。三ヶ島葭子も阿佐緒との初対面時にその美貌と装いの美しさから日記に「まるで活き人形を見る」ようだったと書いている[325]。また阿佐緒と約7年間同居した石原純は、阿佐緒は子どものように純真で、打算でものを考えられない女性である反面[326]、石原から見てささいなことに強い執着を見せ、激しい興奮に身を任せがちであるとしている[327]。
阿佐緒の親友であった三ヶ島葭子は、阿佐緒について歌人としても人間としても非常に大切な純潔、熱情、真摯、率直、繊細といった美徳を持ち、不断の努力を怠らない人物であるとしている[324]。また前述のように阿佐緒の晩年にサポートに努め、生前から死後も顕彰に尽力した扇畑利枝は、美貌と才能に恵まれたものの現実社会の厳しさに適応しきれない人生ではあったが、自分の心の赴くままに正直に生き、酷薄な世間からの指弾にも耐えた強い意志を持った明治の女性であり、最期まで生まれたままの純粋さと気品を失わなかったと称賛している[328]。その一方で女性の『アララギ』同人の中には、阿佐緒について「天性として持って生まれたもので、野心や技巧を弄しているわけではないのかもしれないが、雰囲気的に相手を淫蕩的に誘惑する力を持っている」という評価や[329]、「性格がずいぶん複雑でご自分でも統一しきれない」との評価があり[330]、三ヶ島葭子も肉体的には無欲である反面、若い異性に対して子どもに見られるような本能を発揮していたとして、矛盾した性格であると指摘している[331]。
自伝の中で阿佐緒は小原要逸からの性暴力の後、男性を呪う心が自分の全部であるかのようになり、男性に復讐するには男性よりもすぐれたものになることだと決意し、短歌の制作に邁進するようになったと述べている。また性暴力の後遺症として性に対する嫌悪感を抱くようになり、一種の性的不具者となったと語っている[332]。また二男保美の妻、桃子によれば、阿佐緒が15歳か16歳の頃に見た錦絵の春画を見た経験がトラウマとなり、その後、前述のように小原要逸からの性暴力を受けた結果、性に対する強い嫌悪感を抱くようになったと指摘している[333]。
歌人、研究者らによる人物評価
歌人の沢口芙美は、原阿佐緒は短歌よりもその恋愛が著名であると指摘した上で、阿佐緒の生涯と短歌作品は男性との恋愛が重層的なテーマとなっており、異性関係は阿佐緒の本質を知るためには不可欠な視点であるとしている[334]。その上で沢口は幼くして兄を亡くし、兄とも慕った真剣も夭折したため、阿佐緒には父性願望があり、また育ちの良さゆえ人を疑うことがなかったと指摘している[334]。そのため妻子ある男性との恋愛を繰り返すことになり、育ちの良さゆえに人からの誤解も受けやすくなり[334]、最後まで現実の男性を見ることがなく、男とかみ合うことがなく終わったと考えている[335]。また作家の永畑道子は、阿佐緒は儒教的な思想を内在化させた古風な女性であり、受け身の姿勢を抜け出すことがなく[336]、多くの男性との恋愛を経験しても自分を偽れず、男性を弄ぶことが出来なかったと考えている[337]。そして阿佐緒と家族、男性との関係性は、一見阿佐緒が尽くしているように見えて依存していて、これは強い母親を意識し、頼り、強く依存している関係性が基礎となっていて、母との関係性が子どもや男性との関係性にまで広がっていたが、水商売による自立は阿佐緒なりの依存からの脱却の試みであったのではないかとの指摘もある[338]。
尾崎左永子は阿佐緒にはなよなよとしたいつも瞳に涙を溜めている「生きた人形」のイメージがあり、ただそこに居るだけで男性は庇護欲に駆りたてられ、距離が近づくとその魅力の虜になって収拾がつかなくなり、阿佐緒本人の主体性が感じられないはっきりとしない態度がさらに男性を引き寄せる悪循環を招いたと指摘している[339]。やはり歌人の松平盟子は阿佐緒は明治の女であり、それ以上に「かわいい女」であったことが常に阿佐緒の運命を決定づけていたとしている[229]。
阿佐緒の研究を続けている日本文学者の千野明日香は、男性遍歴の裏には男性全体に対する復讐心があったのではないかと分析している。阿佐緒は自らを美しく装い、言い寄ってくる男性を翻弄することにより復讐心を満たしていて、三ヶ島葭子は阿佐緒に対して血書の恋文を送った男性や阿佐緒の名を呼びながら死んだ青年もいたとの逸話を伝えており、このような男性全体に向けられた復讐心に突き動かされた言動が、阿佐緒に対する妖婦のイメージの元になったと考えている[注釈 14][341][342]。また性暴力の結果として性機能障害が起きたと考えられ、そして阿佐緒の男性遍歴には加害的な人物との関係性が深まっていく傾向が見られ、これは生存戦略の一環として愛を利用せざるを得ない、「生き残るために愛す」ストックホルム症候群の現れではないかとの分析もある[343]。
評価
原阿佐緒の伝記を執筆した歌人の小野勝美は、阿佐緒は最後まで自我というものを得ることがなく[344]、情感に頼り思想がなかったところに致命的な欠陥があったと指摘している[345]。歌人の武川忠一は、阿佐緒の短歌はその境遇から「歌わずにはいられない」衝動のままに詠んでおり、体験を柔軟かつ率直に詠んでいるものの、確固たる自己形成が伴わないものであり、自意識の芽生えを含みながらも混沌とした阿佐緒自身のあり方を詠み続け、自己が切り開いていったものではなくて、受け身的に巻き込まれた愛と母性の渦の中で制作を続けたと評価している[346]。阿佐緒の後半生、サポートをし続けた歌人の扇畑利枝は、阿佐緒の短歌の底流を流れるものは真実の流露であるとした上で、女性らしい優しさや粘り強さが感じられる反面、題材としては自分や子どもたち、親友や恋愛の対象者に限定されていて、師匠にあたる与謝野晶子と比べてスケールの大きさや表現技巧的に及ばなかったと指摘している[347]。歌人の河野裕子も、阿佐緒の恋の遍歴は基本的に受け身であり、作品も受け身の愛を詠むものばかりであり、障害が多かった愛を短歌で乗り越えていくような気概が見られず、愛の遍歴が短歌を強くし、育てることがなかったと指摘した[348]。米川千嘉子は、阿佐緒の短歌には中城ふみ子らにも繋がっていく、現代の女性歌人が詠む短歌に繋がるものがある反面、己の恋愛体験を越えた女性像を描き出すことが出来ず、
生きながら 針に貫(ぬ)かれし 蝶のごと 悶えつつなほ 飛ばむとぞする
で阿佐緒を刺し抜いた針とは、時代や因習であるとともに、彼女自身の恋愛であったと主張している[349]。
安永蕗子は、多くの葛藤に苦しめられていた阿佐緒にとって、写実に基づいた平明で基本を捉えた『アララギ』の作風を学ぶ中で、混沌とした状況から脱する道しるべになっていて、『アララギ』での日々は阿佐緒にとって幸福な日々であったと評価している[227]。来嶋靖生は、歌人歴当初から阿佐緒の短歌には『明星』歌人の浪漫性の中にも現実の厳しさを見据えた作品が見られ、『アララギ』入会後は写生の技法を見につけて対象把握に進歩を見せたと評価している。そして『アララギ』を追われた後の『うす雲』では、内面の苦しみの中で身に着けてきた写生の技法が崩れ、客観性が失われていきながらも、心中の葛藤が表出された読みごたえがある作品となっているとしている[350]。武川忠一もまた、『うす雲』の作品は石原純との関係性に生じた違和感の中から、生や人間存在そのものに横たわるものを主題としていく作歌の転換点にあったと指摘している[262]。
また来嶋靖生は、阿佐緒に対する批評で、男性の求愛を受け入れてしまう主体性のなさ、女性の自立に対する意識の低さを指摘する意見を批判し、男性の身勝手さと、歌壇がその典型であった男性優位の社会に踏みつぶされた女性の悲しみと抗議の声として作品を読み解くべきであると主張している[351]。また歌人の水野昌雄は、阿佐緒の短歌は思想性に欠けるとの指摘を認めつつも、人間らしく生きたいと願い、ひたむきに生きていた姿が現れている作品であると評価している[352]。原阿佐緒の伝記を執筆した秋山佐和子もまた、阿佐緒の短歌は家父長制に基づく家制度の中で生きたひとりの女性が、必死に訴えかけている短歌であると考えている[353]。
阿佐緒の短歌の母の視点を評価する意見もある。歌人の道浦母都子は、
黒髪も この両乳も うつし身の 人にはもはや 触れざるならむ
を引きつつ、原阿佐緒の歌集は母としての在り方、子を育ていく乳房を詠んだ母の歌集であると見ている[354]。そして歌歴の後半の作品に詠まれた乳房は、男性の愛の対象としての乳房ではなく、乳を与える母、子どもを育てる母の乳房を詠んでおり、石原純との関係性も、阿佐緒としては男女の関係というよりも世事に疎く、いわば大きな子どものような石原を、子どもに接する母親のような感覚で接していたのではないかと考えている[355]。さらに道浦は「男たちを惑わせる妖婦」といった、世間的に言われる阿佐緒の魔性の女イメージを一掃したいと主張している[356]。また河野裕子も2人の子どもを詠んだ短歌は真実味があり、心を打たれるものがあるとしている[348]。歌人の小島ゆかりは、原阿佐緒の短歌は、女としての情念とその情念に対する自己嫌悪、そして母としての自分との間で揺れ動いた姿を描いたと考えている[357]。松平盟子は、『アララギ』で写実を学んだことによって作品に実在感が反映されるようになったと指摘した上で、作品の中で最も注目すべきは子どもを詠んだ作品であり、
落ちのこる つぶつぶの栗を ちさき手に 満たせる吾子(あこ)を 促してかへる
などを引いて、儚げな女性像とおだやかな母性が感じられると評価している[358]。
『うす雲』以降の酒場や女優業の中で詠まれた作品を評価する意見もある。歌人の沖ななもは、『うす雲』以降の作品は生活に身近なものを取り上げていて、阿佐緒自身の必然性に従って詠んでいて、意志や自己が反映された興味深い作品であると評価している[359]。また様々な困難な中で都市で自立して生活していく女性の葛藤、苦悩を、当時注目されていたイデオロギー重視のプロレタリア短歌と異なった表現方式で詠んでおり、一見華やかな都市生活の裏面を描き出していて、再評価が求められているとの意見もある[360]。
阿佐緒の弱さを指摘する意見が多い中、強さ、したたかさを指摘する意見もある。歌人の今井恵子は、第一歌集の『涙痕』からは弱さではなく、根太さ、したたかさが感じられると指摘している[361]。秋山佐和子もまた阿佐緒には他者におもねらない強い自尊心と芯の強さがあり、阿佐緒と関係があった男性は皆、その強さを理解して受け入れることがなく、また一方ではそのような心情が理解され得なかったことが、短歌を生み出す原動力となったと考えている[362]。
死後の顕彰
原阿佐緒の生誕100周年に当たる1988年、原阿佐緒生誕百年事業が行われた。なお地元宮床では事業の実施に批判も起きたが、批判を押し切って事業は進められた[363]。まず5月31日から6月5日にかけて仙台三越で原阿佐緒関連資料の展示会である原阿佐緒生誕百年祭展が行われ、多くの観覧者を集めた[363][364]。続いて10月25日には宮床にある南川ダムの湖畔公園に、阿佐緒の第三歌碑が建立された[364]。また同じく10月25日には記念誌『原阿佐緒生誕百年記念』が刊行された[365]。
阿佐緒が生まれ育った宮床の生家は、明治初期に建てられた大和町内に唯一残る擬洋風建築であり、阿佐緒の生家でもあるため保存活用すべきとの意見が出された[366]。結局、生家は保存されることとなり、1990年(平成2年)6月1日に原阿佐緒記念館として開館した[367]。そして2000年(平成12年)には原阿佐緒の功績を顕彰し、地域文化の発信事業の一環として全国公募の中から優れた短歌作品を表彰する、原阿佐緒賞が制定された[368][369]。
作品
歌集
- 『涙痕』、東雲堂 、1913年[370]
- 『白木槿』、東雲堂書店 、1916年[370]
- 『死をみつめて』、玄文社、1921年[371]、 再版:短歌新聞社 (短歌新聞社文庫)1995.9
- 『うす雲』、 不二書房 、1928年[263]
- 『原阿佐緒抒情歌集』、 平凡社 、1929年[267]
- 『原阿佐緒全歌集』 小野勝美編 、至芸出版社 、1978年
自伝
作曲(作詞)
- 歌曲「かなしくも さやかに」、作曲 山田耕筰、歌集「阿佐緒抒情歌集」(平凡社)に楽譜掲載、1929年[373]
- 恋人形の唄 、作曲・編曲堀田公明、歌唱淡谷のり子、ポリドールレコード、1931年3月
- 佳人よ何処へ 、作曲・編曲古賀政男、歌唱淡谷のり子、日本コロムビア、1932年5月[280]
- あけみの唄 、作曲・編曲古賀政男、歌唱関種子、日本コロムビア、1932年5月[280]
- 浪花小唄 、作曲山野芳作、編曲奥山貞吉、歌唱かね本幾松、タイヘイレコード、1933年12月
- 山の娘 、 作曲・編曲・演奏高倉彰、歌唱三浦環、日本コロムビア、1940年7月
- 女声合唱曲「阿佐緒が歌によるコンポジション~家毎に~」、作曲 本間雅夫、無伴奏女声合唱曲集「日本の響き2」全音楽譜出版社、2003年10月
映画
テレビドラマ
脚注
注釈
- ^ 原千秋は当初、小原要逸と小原の正妻であるタチの四男として小原の戸籍に入籍し、その後1919年(大正8年)11月になって戸籍訂正によって母の記述が変更され、母が原あさをと明記されて庶子の扱いとなった[42]。
- ^ 阿佐緒との関係が深くなる頃、小原要逸と妻との関係性は悪化していて別居しており、1908年7月には離婚が成立している。歌人の秋山佐和子は、小原要逸としては阿佐緒との結婚生活を送ることも考慮のうちにあったのでと指摘しているが、小原の妻と子どもたちに対する罪悪感、そもそも既婚者でありながら性的関係を強要し自分を騙したとの嫌悪感から、阿佐緒が関係の修復を拒絶したとしている[46]。
- ^ 小原要逸は阿佐緒との関係性について一切書き残しておらず、証言も残していない。阿佐緒との子の千秋に対して、小原は頻繁に手紙を送って進路のアドバイスをしたり必要なものを尋ねたりするなど、主に教育面で父としての協力を惜しまなかった[47][48]。
- ^ 『涙痕』改訂版の出版後、西野義雄は宮城県宮床村の阿佐緒のところに出向き、その後いったん広島の実家に戻り、南米渡航の支度を整えて横浜へ向かい、8月25日にペルーへ向けて横浜港を出港した[85][86]。
- ^ 古泉と妻は千葉県の同郷の出身であった。妻は古泉よりも10歳年上で既婚者で子どももいたが、古泉からの熱烈なアプローチを受けいれて、上京した古泉を追って同棲するようになり、1913年末の段階で三歳の長女、10月に生まれたばかりの二女を儲けていた[97][98]。
- ^ 阿佐緒と親密になった石原純の教え子については、これまで特定の人物が想定されていたが[166][167]、秋山(2012)ではその人物ではなく別の人物であるとして、やはり具体名を挙げている[168]。当記事では具体名の記述を避け、単に青年と記述する。
- ^ 石原純の自殺未遂に関しては、1920年(大正9年)10月中旬との説もある[171]。
- ^ 三ケ島葭子は歌集『吾木香』(われもこう)の制作の最終段階となっていて、夫、倉片寛一の協力もあって大阪での出版の話も進んでおり、入稿のため関西に行かねばならない状況下にあった。なお、『吾木香』の序文は阿佐緒が書いている[175]。
- ^ 「見よ、妖婦原阿佐緒の犯罪史を」は、河北新報で連載された[191]。
- ^ 斎藤茂吉は息子の北杜夫に対して、阿佐緒と石原のいきさつを話しつつ、女はそれほどまでにこわいものだから決して近寄ってはならないとの忠告を繰り返していた[204][113]。
- ^ 実際には幹部たちの予想とは異なり、『アララギ』は社会的に地位がある人物や才能ある女性が集まっている短歌結社であるとの認識が広まり、石原純と原阿佐緒の恋愛問題の発覚後、会員はむしろ増加した[205]。
- ^ 房総保田での阿佐緒と石原の生活の末期、石原に新たな愛人が出来たことが二人の関係破綻の要因との説もある[256]。
- ^ 中川一政は三ケ島葭子を介して阿佐緒と知り合った。かつて中川の家に三ケ島のいとこが下宿していて、そのいとこは三ケ島の夫となる倉片寛一の友人でもあった。中川は三ケ島夫婦の友人となり、三ケ島宅によく遊びに来ていた阿佐緒と知り合うことになった[292]。
- ^ 三ヶ島葭子はその他にも阿佐緒の魅力にとりつかれた青年画家が、最後に欺かれたと立腹して自分の指を切り落としたうえで、血書の呪いの手紙を送ってきたとのエピソードを紹介している[340]。
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- 三ケ島葭子「生けるものの悲しみ」『婦人公論』第6巻第10号、中央公論新社、1921年、65-73頁。
- 水野昌雄「阿佐緒と葭子」『短歌』第35巻第9号、角川書店、1988年、110-113頁。
- 水野葉吉「大正年間の七大恋愛事件」『女性』第11巻第4号、プラトン社、1927年、188-216頁。
- 道浦母都子「乳房のうたの系譜(その八)原阿佐緒 ただに吾児を」『季刊銀花』第97号、文化出版局、1994年、117-124頁。
- 山田邦子「私見」『新家庭』第6巻第7号、玄文社、1921年、22-24頁。
- 道浦母都子『女歌の百年』岩波書店、2002年。 ISBN 4-00-430813-5。
- 安永蕗子「「アララギ」八年の至福」『短歌』第35巻第9号、角川書店、1988年、134-137頁。
- 大和町『大和町史 下巻』大和町、1977年。
- 吉田漱「ゆれやまぬ心の水脈」『短歌』第35巻第9号、角川書店、1988年、138-141頁。
- 米川千嘉子「蝶の歌」『短歌』第35巻第9号、角川書店、1988年、147頁。
外部リンク
- 原阿佐緒記念館 - 公式ウェブサイト
- 原阿佐緒 - 日本映画データベース
固有名詞の分類
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