松竹蒲田時代
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「清水宏 (映画監督)」の記事における「松竹蒲田時代」の解説
1922年11月頃、父の在米時代の知人有島武郎の玄関番をつとめていた関係から、小山内薫に紹介され、栗島すみ子の口利きで松竹蒲田撮影所に入社。池田義信監督に助手として付くが、先輩の助監督に成瀬巳喜男がいた。翌1923年、小津安二郎が松竹に入社し、清水と小津は終生の親友となる。関東大震災のため、蒲田のスタッフは、1923年の下半期は京都に移る。 1924年6月、蔦見丈夫とともに監督に昇進、7月、入社して2年も経たずにまだ21歳の若さで『峠の彼方』で監督デビューを果たす。当時においても異例の若さであり、新人時代は、山村や田舎の田園風景を背景にして若者たちの失恋と恋の衝動を多く描いて、センチメンタルな作風だったと言われている。山の話ばかり撮るため、「山監」と呼ばれたこともあった。 1924年9月、前蒲田撮影所長の野村芳亭の京都行きに従って、柳さく子、大久保忠素らと下加茂撮影所に移った。下加茂に入社したばかりだった田中絹代が、清水の監督した『村の牧場』(1924年)で主演デビューを果たし、その後、田中絹代と恋に落ちて結婚しようとする。スター女優になりかけていた田中絹代と公に結婚という訳にいかず、城戸四郎撮影所長から「試験結婚」を勧められて1927年に同棲するが、喧嘩が絶えず、1929年に破局した。1930年、清水は伊豆下田の名妓と結婚するが、子どもはなく養女を迎えている。 仕事面においては、1925年7月に蒲田に復帰し、若きメロドラマ作者として将来を嘱望された。作品歴においては、メロドラマのほか、流行した新聞小説の映画化、旅芸人や放浪者など旅する人々を描いた小さな物語、ペーソスのあるコメディなど多様な作品を量産して精力的に働いた。松竹一の早撮りの多作家となり、デビュー10年目にして既に100作品近くの映画を監督した。撮影所入社以来、多忙をきわめ、当時、「急がされると良いものができる」とまで言われた。 元号が昭和となった頃、親友の小津安二郎とともに、1930年代のソフィスティケートされた松竹蒲田のモダニズムを担った。清水と小津は年齢が同じで、二人ともやんちゃでモダンボーイだった。この時期の清水のスマートで都会的なモダニズムの代表作に、北村小松脚本で岡田時彦と及川道子が主演した『恋愛第一課』(1930年)などがある。 1930年代初め、流行新聞小説を映画化したメロドラマで商業的に成功したため、若手監督として撮影所長の城戸四郎からフレッシュさを認められ、手際のいい商業映画の監督として重宝がられた。 特に、『大学の若旦那』(1933年)に始まる「大学の若旦那シリーズ」で明るく朗らかな笑いを提供し、清水は、このシリーズの成功によって松竹現代劇の娯楽映画を代表する監督となった。主演には、清水と体型が似た慶応ラグビー出身の藤井貢があたったが、このシリーズは、清水のオリジナルなアイデアであり、スポーツの花形選手でもある下町の老舗の若旦那が、恋とスポーツに活躍する朗らかでスマートなコメディである。シリーズ全般を通して、坂本武、吉川満子、武田春郎、三井秀男ら松竹の脇役俳優たちが、朗らかで暖かい笑いをみせて、非常に面白い映画として当時の観客を喜ばせたと言われている。 都会の若者たちの商業映画を撮る一方で、清水は、早くから伊豆など自然のロケーションを好んで、山村や港町を舞台に旅人たちへの共感や感傷、現世の倦怠感や無常を叙情的に描くオリジナルの小品を作っていった。特に、主人公は、モダンで粋な感じの流れ者の女が多く、その流転する人生のはかなさを見守るように描いた。
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