在米時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 23:56 UTC 版)
スポーツトレーナーの勉強をするつもりで筑波大をスポーツ推薦で受験するが不合格となり、半年間英語を勉強した後アメリカ・カリフォルニア州のデザート短大の一般入試を受けて合格。学歴を得るための入学だったが、評価の足しになればと送った高校時代のプレーのビデオが関係者の興味を引き、野球部へ入ることになる。 同州南部の短大などが集まるリーグで4番・右翼手として4割近い打率を残したことで複数のメジャー球団から調査書が送られてくるようになり、2008年のドラフト会議でワシントン・ナショナルズより42巡目(全体で1261番目)で指名を受ける。「気持ちの準備ができていない」として指名を辞退したものの、この指名によって野球に対し真剣に取り組む気持ちになったという。 2年目も打率3割をキープし盗塁数も増えるなど活躍。2009年6月のドラフト会議で再びナショナルズから14巡目(全体で412番目)指名され、当初は4年制大学への編入を希望したが指名を許諾した。その理由について「オフに北海道に戻って多くの人が応援してくれていることを知りチャレンジを決めた」と語っている。日本人選手がドラフト指名を経て選手契約を結ぶのは、2002年にコロラド・ロッキーズが坂本充(当時アリゾナ・ウェスタン短大所属)を指名したのに続き2例目である。 短大は首席で卒業し、卒業式ではスピーチを行った。 2009年、ルーキークラスのガルフコーストリーグ・ナショナルズで40試合に出場し打率.246、14打点、12盗塁、左翼手で18試合、右翼手で12試合、中堅手で6試合に出場しチームのリーグ優勝に貢献した。2010年1月にはピッツバーグ・パイレーツに所属する岩村明憲の合同自主トレーニングに参加しハイA(1A)でのプレーを目指した。 春のキャンプでは有望選手のグループに入れなかったものの、ウエイトトレーニングなどの効果が表れ始めていた同年6月中旬、ルーキーリーグ開幕を前に同チームから解雇され、日本に帰国した。
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