松竹退団以後
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過労により、かつて持病としていた喘息の症状が再発、悪化したことから、1941年の『東京踊り』をもって松竹を退団。その後、地方慰問のため松竹歌劇の後輩15人ほどを伴い「オリエ座」を旗揚げし、全国各地を巡業。1948年頃まで続けた。その後は京都で宮城千賀子主宰の劇団にも2年ほど参加した。また、この前後の時期には国民的漫画『サザエさん』の実写化第1・2弾作品である『サザエさん前後編』『サザエさん のど自慢歌合戦』などの映画にも出演している。1961年にはたけふ菊人形において「オリエ津坂(ママ)と大阪少女歌劇団」名義で『新竜宮物語』の舞台に立った ことが「たけふ菊人形の歴史年表」に記載されている。おそらく、この時期が舞台に立った最終期と考えられる。 東洋高女時代に若柳吉三郎夫人・若柳吉三津による舞踊「娘道成寺」を観てから日本舞踊に特に関心を抱き、松竹歌劇時代に橘左近(橘抱舟)に師事し名取名「橘左門」を得ている。1948年頃には橘流の家元を継ぎ、宮城の劇団を離れてからは日舞の師匠として過ごした。以後は内向的な性格に加えて、喘息の持病、さらに白内障を患ったこともあり、表舞台に出ることはなく、テレビ等で活動を続けた水の江とは対照的に一般には忘れられた存在となった。1978年に取材を受けた際には、日用の雑事以外にはほとんど外出もせず隠棲している様子が伝えられ、インタビューの中では活発に活動する水の江や宮城への憧憬の念を吐露しつつも、松竹時代については「ああいうお仕事、私の性質としては無理だったんですね。神経が疲れちゃったんです」と振り返り、「両親が、お前には無理だと言ったとき、素直にやめとけばよかったんです。そう今では思います」との言葉を残している。 その後長らく消息は不明であったが、2018年に刊行された『大正昭和美人図鑑』(小針侑起・著)にて2003(平成15)年に死去していたことが明らかになっている。
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