松竹退団以後とは? わかりやすく解説

松竹退団以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 02:33 UTC 版)

オリエ津阪」の記事における「松竹退団以後」の解説

過労により、かつて持病としていた喘息症状再発悪化したことから、1941年の『東京踊りをもって松竹退団その後地方慰問のため松竹歌劇後輩15人ほどを伴いオリエ座」を旗揚げし、全国各地巡業1948年頃まで続けたその後京都宮城千賀子主宰劇団にも2年ほど参加したまた、この前後の時期には国民的漫画『サザエさん』実写化第1・2弾作品である『サザエさん前後編』『サザエさん のど自慢歌合戦』などの映画にも出演している。1961年にはたけふ菊人形において「オリエ津坂ママ)と大阪少女歌劇団」名義で『新竜物語』の舞台立った ことが「たけふ菊人形歴史年表」に記載されている。おそらく、この時期舞台立った最終期考えられる東洋高女時代若柳三郎夫人若柳三津による舞踊娘道成寺」を観てから日本舞踊に特に関心抱き松竹歌劇時代橘左近抱舟)に師事し名取名「左門」を得ている。1948年頃には流の家元継ぎ宮城劇団離れてからは日舞師匠として過ごした以後内向的な性格加えて喘息持病、さらに白内障患ったこともあり、表舞台に出ることはなく、テレビ等で活動続けた水の江とは対照的に一般に忘れられ存在となった1978年取材受けた際には、日用雑事以外にはほとんど外出もせず隠棲している様子伝えられインタビューの中では活発に活動する水の江や宮城への憧憬の念吐露しつつも、松竹時代については「ああいうお仕事、私の性質としては無理だったんですね。神経疲れちゃったんです」と振り返り、「両親が、お前には無理だと言ったとき、素直にやめとけよかったんです。そう今では思います」との言葉を残している。 その後長らく消息不明であったが、2018年刊行された『大正昭和美人図鑑』(小針侑起・著)にて2003(平成15)年に死去していたことが明らかになっている。

※この「松竹退団以後」の解説は、「オリエ津阪」の解説の一部です。
「松竹退団以後」を含む「オリエ津阪」の記事については、「オリエ津阪」の概要を参照ください。

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