松竹退社後とは? わかりやすく解説

松竹退社後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 03:56 UTC 版)

牛原虚彦」の記事における「松竹退社後」の解説

同年末にトーキー映画研究のためフランスイギリスアメリカ渡り1932年昭和7年)に帰国1933年昭和8年)、日活太秦撮影所移籍し4本の監督作発表するが、1934年昭和9年)には新興キネマ京都撮影所移籍1942年昭和17年)、戦時統合新興キネマが他2社と合併して大映創立されると同社専属となり、同社第1回作品の『維新の曲』を監督する以後モンゴル長期ロケ行った成吉思汗』などを発表するが、サイレント時代のような演出清新さ見られなくなった1949年昭和24年)、特撮映画先駆けといわれるパートカラー作品虹男』が最後監督作品となり、翌1950年昭和25年)に大映退社した同年1月日本大学芸術学部映画学客員教授就任1952年昭和27年)、ポール・スローン監督大映招かれ撮ったいついつまでも』で協力監督務める。1955年昭和30年4月共立女子大学文芸学部講師就任し、翌1956年昭和31年)には日大芸術学部映画学主任教授1975年昭和50年)からは日活芸術学院初代学院長務める。日大芸術学部教え子にはアニメーション池田宏監督がおり、池田のそのまた教え子には片渕須直監督がいる。また、第17回ヴェネツィア国際映画祭第1回・第3回モスクワ国際映画祭それぞれ審査員として出席している。1975年昭和50年)、新藤兼人監督長編記録映画ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』に出演した1985年昭和60年5月20日脳血栓のため死去88歳没。 2010年平成22年)、第29回ポルデノーネ無声映画祭で「松竹の三巨匠」の特集組まれ島津保次郎清水宏監督作品とともに、牛原の『海浜女王』『感激時代』『進軍』『若者よなぜ泣くか』が上映された。

※この「松竹退社後」の解説は、「牛原虚彦」の解説の一部です。
「松竹退社後」を含む「牛原虚彦」の記事については、「牛原虚彦」の概要を参照ください。

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