松竹退社後
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同年末にトーキー映画研究のためフランス、イギリス、アメリカと渡り、1932年(昭和7年)に帰国。1933年(昭和8年)、日活太秦撮影所に移籍し4本の監督作を発表するが、1934年(昭和9年)には新興キネマ京都撮影所に移籍。1942年(昭和17年)、戦時統合で新興キネマが他2社と合併して大映が創立されると同社専属となり、同社第1回作品の『維新の曲』を監督する。以後、モンゴルで長期ロケを行った『成吉思汗』などを発表するが、サイレント時代のような演出の清新さは見られなくなった。1949年(昭和24年)、特撮映画の先駆けといわれるパートカラー作品『虹男』が最後の監督作品となり、翌1950年(昭和25年)に大映を退社した。 同年1月、日本大学芸術学部映画学科客員教授に就任。1952年(昭和27年)、ポール・スローン監督が大映に招かれて撮った『いついつまでも』で協力監督を務める。1955年(昭和30年)4月、共立女子大学文芸学部講師に就任し、翌1956年(昭和31年)には日大芸術学部映画学科主任教授。1975年(昭和50年)からは日活芸術学院初代学院長を務める。日大芸術学部の教え子にはアニメーションの池田宏監督がおり、池田のそのまた教え子には片渕須直監督がいる。また、第17回ヴェネツィア国際映画祭、第1回・第3回モスクワ国際映画祭にそれぞれ審査員として出席している。1975年(昭和50年)、新藤兼人監督の長編記録映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』に出演した。 1985年(昭和60年)5月20日、脳血栓のため死去。88歳没。 2010年(平成22年)、第29回ポルデノーネ無声映画祭で「松竹の三巨匠」の特集が組まれ、島津保次郎・清水宏両監督作品とともに、牛原の『海浜の女王』『感激時代』『進軍』『若者よなぜ泣くか』が上映された。
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