映画人
(シネアスト から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/24 05:48 UTC 版)
Jump to navigation Jump to search映画人(えいがじん、シネアスト、仏語cinéaste)は、映画を実践する芸術家をいう。この語は、ルイ・デリュック(1890年生 - 1924年没)によって1920年ころに発明されたもの。
概要
- ルイ・デリュック賞に名を残すデリュックは、「映画人(シネアスト)」という単語を発することによって、「商業」映画と「芸術」映画(つまり後者のみが研究対象)の間に横たわる差別構造に、異議を唱えようとしたのである。
- フランスの一部の映画の演出家たちは、「映画人(シネアスト)」の呼称を好む。というのも、「映画人」は、たったひとりの同一人物がつくりだすフィルム(映画作品)とその創造行為に対してより多くの言及をされるが、一方「演出家」というタームにあっては、むしろ仕事を共有しているということを喚起するからである。ひとりの「映画人」とは、いくぶん、作家であり演出家であり編集技師を兼ねた人物である、といえる。
日本での語の受容
- 「シネアスト」という響きはかなりスノッブなものであり、また「映画人」という語は、もともとの仏語の訳語から離れ、俳優を含めた、テレビと対比して、映画の世界に軸足を置いた活動をする表現者を呼ぶ傾向がある。
- 1980年代の一時期、青土社から『シネアスト 映画の手帳』というハイブラウな雑誌が編集・発行されていた。蓮實重彦責任編集の『季刊リュミエール』(筑摩書房刊)の創刊のころには休刊していた。
外部リンク
シネアスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/10 17:14 UTC 版)
1963年には自身の制作会社を設立し、50本以上の映画を制作した。フェルナンド・レオン・デ・アラノア(スペイン語版)監督の『カット!』(1996年)や『Barrio』(1998年)、実娘のグラシア・ケレヘタ(スペイン語版)監督の『Una estación de paso』(1992年)や『El viaje de Robert Rylands』(1996年)や『Cuando vuelvas a mi lado』(1999年)を制作している。しかし、ケレヘタがスペイン映画に果たしたもっとも重要な貢献は、カルロス・サウラ、ビクトル・エリセ、マヌエル・グティエレス・アラゴン(スペイン語版)、モンチョ・アルメンダリスらの偉大な監督の作品を制作したことである。 サウラ監督と初めて組んだ1966年の『狩り』はベルリン国際映画祭で監督賞を受賞し、1967年の『ペパーミント・フラッペ』でも同賞を受賞した。『Stress es tres, tres』(1968年)、『La madriguera』(1969年)、『El jardín de las delicias』(1970年)でもサウラ監督の作品を制作。1970年代前半のサウラ監督作では『Ana y los lobos』(1972年)、『従妹アンヘリカ』(1973年)、『カラスの飼育』(1975年)などを制作し、後者の2作品はカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した。1970年代後半には『Elisa, vida mía』(1977年)、『Los ojos vendados』(1978年)、『ママは百歳』(1979年)、『急げ、急げ』(1980年)などでサウラ作品を手掛け、『急げ、急げ』はベルリン国際映画祭で作品賞を受賞した。 1973年にはエリセ監督の『ミツバチのささやき』を制作し、この作品は1973年のサン・セバスティアン国際映画祭で作品賞を受賞している。約10年後の1983年にはエリセ監督の次作『エル・スール』を制作し、シカゴ国際映画祭やサンパウロ国際映画祭で作品賞を受賞した。レオン・デ・アラノア監督作品も3作品手掛けており、2002年の『月曜日にひなたぼっこ』はゴヤ賞で作品賞を受賞した。 1998年にはスペイン映画芸術科学アカデミー(AACCE)によるゴヤ賞功労賞を受賞した。2005年にはスペイン映画批評家協会の功労賞を受賞し、2012年にはフォトグラマス・デ・プラータの功労賞を受賞。2007年にはスペイン内戦の歴史を国外内の立場から語る映像作品『Noticias de una guerra』を制作した。2013年6月9日、肺癌のためにマドリードの自宅で死去した。78歳だった。
※この「シネアスト」の解説は、「エリアス・ケレヘタ」の解説の一部です。
「シネアスト」を含む「エリアス・ケレヘタ」の記事については、「エリアス・ケレヘタ」の概要を参照ください。
- シネアストのページへのリンク