4曲のオリジナル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:32 UTC 版)
10月14日KDAVのプロモートによりラッボクのフェア・パーク・コロシアムにおいてロックンロール・ショウ開催。ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツをメインアクトとしジミー・ロジャース・スノウ(ハンク・スノウの息子)が出演、バディ&ボブが前座を務めた。このショウに随行していたナッシュビルのブッキング・エージェント、エディ・クランデルはソロ・アーティストとしてのバディ・ホリーに強い興味を持つ。 12月7日午前7時21分クランデルがKDAVオーナー、デイブ・ストーン宛に送った電報。 「バディ・ホリーのオリジナル4曲分のアセテート盤を制作されたし。ただし彼本来の音楽スタイルであるものに限る。至急エアメール・スペシャルでの郵送願う」 クランデルは出来上がったデモ・ディスクをナッシュビルの音楽出版社シダーウッド・ミュージックの経営者ジム・デニーに聞かせ、これにデッカ・レコードのポール・コーエンが食指を伸ばす。しかしデッカから来たオファーはバディ・ホリーのみでボブは含まれていなかった。二人にとって受け入れがたい内容だったがボブの説得により翌1956年1月バディ・ホリーはレコーディング・アーティストとしでデッカ・レコードと12か月、ソング・ライターとしてシダーウッド・ミュージックと3年間の契約を結ぶ。この時契約書に「Holley」を「Holly」とするスペル・ミスがあったがバディは委細気にすることなく以降「Holly」で通す。「私とバディはいつも町に来るスターの乗る車を見ていました。皆テネシー州のナンバーを付けたキャディラックです。私達は考えました。成功への近道、それはレコード会社と契約する事だと」(ボブ・モンゴメリー)
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