映画スターに
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「ジャン=ポール・ベルモンド」の記事における「映画スターに」の解説
演技力を高く評価されたベルモンドを、映画界も無視していなかった。1957年に端役で映画出演するようになる。このうちギイ・ブドス監督の『黙って抱いて』には、やはり無名時代のアラン・ドロンも出演していた。1958年にはジャン=リュック・ゴダール監督の短篇映画『シャルロットと彼女のジュール』に出演。ちなみにこの映画撮影後ベルモンドが兵役に出てしまったので、ベルモンドの声はゴダール自身が吹き込んでいる。 パリに戻った1959年、ベルモンドはクロード・シャブロル監督『二重の鍵』に出演する。これまでの端役に比べると重要な役で、その存在感を示したベルモンドは映画でも注目された。 そして同年、ふたたびジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』に主演。ヌーヴェルヴァーグの代表作として大ヒットするとともに、ベルモンドを一躍映画スターの座に押し上げた。こうして、年に数本の映画に出演するようになる。それらはドラマ性の高いシリアスなものが多く、成功した作品ばかりではないが、ベルモンドは着実な演技力に支えられて、ヤクザから貴族に至るまでの幅広い役をこなした。
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映画スターに(サイレント映画時代)
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「田中絹代」の記事における「映画スターに(サイレント映画時代)」の解説
1924年(大正13年)7月、兄(三男)が松竹大阪支社で給仕係として働いていた関係で面接を行い、8月に松竹下加茂撮影所へ入社、母と2人で京都に移住した。10月に野村芳亭監督の時代劇『元禄女』で映画デビュー。同作では腰元役を演じたが、主演の柳さく子と姿恰好が似ていたため、同時に彼女の後姿の代役もこなした。続いて同年公開の清水宏監督『村の牧場』では早くも主役に抜擢された。 1925年(大正14年)は清水監督作品2作に助演後、6月の撮影所閉鎖によって松竹蒲田撮影所に移籍。島津保次郎監督の喜活劇『勇敢なる恋』で中浜一三の妹役に抜擢され、以来島津監督の『自然は裁く』『お坊ちゃん』、清水監督の『妖刀』、野村監督の『カラボタン』などに下町娘、村娘、お嬢さん、芸者など、うぶな娘役で出演、時に準主演級の役もついた。 1927年(昭和2年)、五所平之助監督の『恥しい夢』で芸者役で主演するとこれが出世作となり、同年7月に17歳で準幹部に昇格。同年、池田義信監督の映画『真珠夫人』で子供の頃からの憧れだった栗島すみ子と初共演を果たす。 翌1928年(昭和3年)からは牛原虚彦監督・鈴木傳明主演の『彼と田園』『陸の王者』などの青春映画で鈴木の相手役として出演。この年だけでも16本もの作品に出演し、早くも蒲田の大スター・栗島すみ子に迫る人気スターとなり、1929年(昭和4年)1月には幹部に昇進した。この年も牛原・伝明とのトリオで『彼と人生』『大都会 労働篇』に出演したほか、小津安二郎監督の初期作品である映画『大学は出たけれど』では可憐な娘を好演。「明るくあたたかく未来をみつめる」という蒲田映画のシンボル的イメージを確立し、栗島を抜いて松竹蒲田の看板スターとなった。
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映画スターに
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同年、横田商会の横田永之助から活動写真を撮らないかという話がきて、牧野と相談の上、それはおもしろそうだと、わけもなしに話がまとまる。牧野はこの前年に『本能寺合戦』など6本の活動写真を横田の依頼で撮り、1本30円では儲けもないと、一旦製作を停止していた。そこへ松之助の起用が決まり、製作再開となった。松之助の主演第1作『碁盤忠信 源氏礎』は、10月17日に千本座裏の大超寺境内で撮影され、午前8時から午後5時までに全2場を撮り上げ、この夜に同じ芝居を舞台で演じた。続けて『木村長門守』『石山軍記』の2本を撮り、後者では楠木正具に扮した松之助が櫓の上で御文章を読み上げながら敵の軍勢を睨みつけて、大きな目玉をギョロリとむいて見せた。観客は「よう、目玉!」「目玉の松ッチャン!」と掛け声をかけ、それ以来「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれるようになった。こうして松之助は牧野と共に横田商会の重要な一員となった。 1912年(大正元年)9月、横田商会が福宝堂、吉沢商店、M・パテー商会とトラスト合併して日活となると、松之助も牧野と共に日活関西撮影所へ移り、日活旧劇の代表スターとして人気を得る。講談でおなじみの英雄・豪傑・義人・侠客を片っ端から演じ尽くし、大正期のベストセラーである立川文庫のキャラクターも多く演じる。これまでに演じた役柄と演じた回数は大石内蔵助(20回)、水戸黄門(13回)、大久保彦左衛門(10回)、荒木又右衛門、岩見重太郎(9回)、佐倉惣五郎(8回)、堀部安兵衛(7回)、三日月次郎吉(6回)、国定忠治、塚原卜伝、児雷也(5回)、後藤又兵衛、清水次郎長、一心太助、猿飛佐助、柳生十兵衛、幡随院長兵衛(4回)……となる。当時、松之助映画の封切館は浅草だけでも富士館・千代田館・遊楽館と3館もあり、この3館に10日間替りで別々の新作を提供するため、毎月9本の作品を撮らなければならなかった。これは3日に1本の割合で作品を撮っていることになる。休む暇もなくハイペースで作品を撮り上げていったため、1914年(大正3年)の夏に『橋場の長吉』を撮った時には、直射日光を浴びて卒倒し、1時間も正気に戻らかったという。 やがて松之助と牧野との関係が悪化して、1920年(大正9年)に牧野は市川姉蔵を迎え入れて松之助に対抗、松之助映画を第一部、姉蔵映画を第二部とする二部製作制にして、自身は姉蔵映画の製作に専念したが、翌1921年(大正10年)に姉蔵が急死すると牧野は日活を去り独立する。同年に松之助は牧野の後任として日活大将軍撮影所長に就任し、1923年(大正12年)には取締役に就く。 松之助映画は、歌舞伎・講談の英雄豪傑を舞台そのままに演じ、殺陣は歌舞伎を踏襲したり、女役は女形が演じるなど、古風な製作を行っていたが、女優を起用したリアルな殺陣による革新的な時代劇映画に押され始め、人気も下り坂となっていた。1924年(大正13年)、池田富保監督の『渡し守と武士』では松之助映画で初めて女優を登用し、後に大衆小説の映画化にも乗り出している。1925年(大正14年)、主演1000本記念大作として製作した『荒木又右衛門』では、従来の歌舞伎調の立ちまわりを脱しリアルな殺陣を演じて大ヒットした。 晩年は、学校や福祉事業に巨額の寄付を投じ、京都府へ1万3千5百円を寄付して、その資金で出世長屋と呼ばれる府営住宅を建設した。ほか京都市へ1万円、京都府小学資金へ1万円、海員救済会に5千円、赤十字社へ3千円、二商プール建設費5千円、その他合わせて約5万円の寄付を行った。1924年(大正13年)、これらの功績で藍綬褒章と赤十字有功章を受章する。
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