イタリアの家系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 05:26 UTC 版)
エステ家のイタリアの家系は、アルベルト・アッツォ2世のもう一人の息子であるフォルコ1世に由来する。フォルコ1世の継承者、オビッツォ1世(Obizzo I, 1193年歿)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と戦った。孫、アッツォ6世(1170-1212年)は第一代フェッラーラ君主(signore)となり、マントヴァとヴェローナの執政長官を兼ねた。アルドブランディーノ1世(1190年 - 1215年)(アッツォ6世の息子)は、パドヴァ人の攻撃を受けて、1213年に敗北しエステを失い、アッツォ7世(1205年 - 1264年)は1240年にフェッラーラを失った。アッツォ・ノヴェッロ7世は、1242年にフェッラーラを再征服し、その地で400人のギベリン派(皇帝派)を殺害した。エッツェリーノ3世との戦い(1255年)に勝利したことから、教皇インノケンティウス4世により「教会の擁護者」と命名された。オビッツォ2世(1293年歿)は1264年に終身フェッラーラ候に、1288年にモデナ候に、1289年にレッジョ候に任命された。フェッラーラは教皇領であったことから、エステは1332年に教皇代理となった。リナルド2世は1333年に教皇特使ベルトランド・デル・ポッジェットにより包囲されるものの、4月14日にピナッラ・アリプランディが教皇軍を敗走させた。ニッコロ3世(1384年 - 1441年)の治世下でフェッラーラはルネサンス文化の重要拠点となり、その栄華はさらに後継者たちにより引き継がれ、開花された。なかでもレオネッロ・デステ(1407年 - 1450年)はとくに注目される。
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