舞台への復帰
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コリューシュの俳優として名声を確立したのは、クロード・ベリ監督の映画『fr:Tchao Pantin チャオ・パンタン』においてである。この映画で、彼は暗い過去を背負い酒と薬物に逃避するガソリンスタンドの夜間店員を演じた。それはコリューシュ自身の私生活に他ならなかった。彼はこの映画で1984年セザール賞主演男優賞を受賞する。 この成功の他にも、彼は多くの観客の心を捉え、さらなる名声を得ることになった。1982年、ジャン・ヤンヌ監督の『Deux heures moins le quart avant Jésus-Christ (紀元前2時間15分前)』でミシェル・セローと共演し、「ベン・ハー・マルセル」という役を演じた。またクロード・ジディ監督との3作目の共同作業となった『Banzaï (バンザイ)』に出演し、1984年ジェラール・ウーリー監督の『羽根の生えた蛇の逆襲』および1985年ディーノ・リージ監督の『戦争の狂人』では主演を務めた。後者ではベルトラン・ブリエの父親である俳優のベルナール・ブリエと共演した。 コリューシュはユーモリストだけでなくアジテーター的な役割も果たそうとし、ミシェル・ポラックの番組『反論権』に度々出演した。1983年6月18日にこの番組でコリューシュの特集が組まれたとき、彼の登場にゲストの一部が彼に嫌味な態度を示すと、銃で自殺するまねをして挑発した。 1981年にミッテランが大統領に就任してから数年間はあてどない生活を送っていたが、1984年9月15日に古巣であるパリのガザン通りの家に戻った。反人種差別運動の高まりを目の当たりにした彼は、ハーレム・デジールによる「人種差別 SOS」の立ち上げを支持した。 1985年3月にはエチオピアの飢餓救済のために、他のアーティストと共に「国境なきシンガー」を立ち上げ、4か月間の活動に参加。ダニエル・バラヴォワーヌ、ジャン=ジャック・ゴールドマンらとともにテーマソングの「SOSエチオピア」を歌った。 1985年6月15日にはコンコルド広場でギイ・ブドスと共に「人種差別 SOS」のコンサートを行った。1985年9月25日には「壮大な悪ふざけ」として、派手なメイクをしてウェディングドレスを着たコリューシュが、同じくユーモリストのティエリー・ル=リュロンとゲイバーで(同性愛)結婚式を挙げた。これは著名アナウンサーのイヴ・ムルーシがあまりにも豪勢な結婚式を挙げ、しかもメディアが大々的に取り上げたことを茶化したものである。 妹の夫でダカール・ラリーに参加したレーサーのルネ・メッジュの影響で、コリューシュはモータースポーツに興味を持ち続けていた。1985年9月29日、健康を取り戻した彼はヤマハ750(0W31)でイタリアのナルドのサーキットで252.087kmの2輪レース世界新記録を出す。彼は続けてレースに参加し、自己の世界新記録を更新するつもりだったが、数か月後の事故死のため叶わぬ夢となった。 何度かの単発出演の後、彼はこの時期ラジオにも復帰した。1985年7月8日から1986年3月19日まで(7月中は放送時間11:00-12:30、8月以降16:30-18:00)、マリーズ(・ジルダ)と共にEurope 1のラジオ番組『全ての人のためにある』に出演し、また1985年10月から1986年2月まで有料テレビ局Canal+の番組『Coluche 1 faux (コリューシュ・アンフォ)』(1 faux, info, 共にアンフォと読み、「コリューシュのニュース番組」と「偽コリューシュ1号」という意味とを掛けている。ニュースアナウンサーの体裁を取りながら短いギャグを連発するコント番組)にも出演した。この時期、彼は貧しい人への無料の給食プロジェクト『Les Restos du cœur(心のレストラン)』を計画する。 1985年9月26日、コリューシュはラジオEurope 1で「心のレストラン」の計画を発表し、賛同者とスポンサーを募った。最初のキャンペーンはパリで1985年12月14日から翌年3月26日まで行われた。 パリの「ゼニット」で予定されていた新シーズンの出し物の準備のために、コリューシュはアルプ=マリティム県オピオ近郊のシャトーヌフ=グラースに滞在した。そこで彼はプロデューサーのポール・レデルマンに約束していた一人漫才の準備のために、政治家やスポーツ選手などを演じた多くのスケッチをカセットテープに録音した。この公演は9月23日より40日間続いた。彼は怪傑ゾロの格好をした失業者を演じた。ポスターには「コリューシュの新たな公演、全ての人のためにある」と書かれていた。現在残る録音の一部は後に編集されたものである。これは観客の笑い声が、彼がいつも公演を行っていた大ホールに響く笑い声とは違うことからも明らかである。当時のパートナー、フレッド・ロマノが20年後に語ったところによると、録音の一部は彼の事故死から数週間後に既に紛失していたという。 コリューシュは映画に復帰することはなかった。1984年に撮影され1985年に公開された『戦争の狂人 (Le Fou de guerre)』は、コリューシュの遺作映画となった。ベルトラン・ブリエは次作を計画していたが、結局コリューシュを起用することはなかった。1982年の『La Femme de mon pote (友達の女)』での悲しい経験が、ブリエを迷わせていたのである。 彼はまたクロード・ベリ監督の映画『愛と宿命の泉 PART I/フロレット家のジャン (Jean de Florette)』も準備していたが、ベリはもっと個性の強い俳優を探していたため、コリューシュは役を降り、最終的にダニエル・オートゥイユが演じることとなった。だが、この間、コリューシュは「パペ」役を演じたイヴ・モンタンと知り合うことになった。それまでモンタンとはわずかにテレビ番組で顔を合わせたかすれ違っただけであったが、同じイタリアの家系出身であることがわかり、この機会に二人は親しくなった。モンタンは「心のレストラン」計画に賛同し、コリューシュを多くの政治家に引き合わせ、また1985年には4年前にかつての大統領選で戦ったフランソワ・ミッテラン大統領にも謁見した。
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舞台への復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 14:55 UTC 版)
1度は舞台から退いて踊りからも遠ざかっていたゲランだったが、背中を傷めたときにバー・レッスンを再開したところ体の具合が復調した。ゲランはもう一度舞台に立つことを願うようになったが、かつて踊っていた『白鳥の湖』や『ドン・キホーテ』のような作品ではなく「もっとエモーションを秘めた作品」を踊りたいというものであった。 その頃マニュエル・ルグリとパリで再会し、「舞台に復帰して一緒に踊ろう」という話が出た。ルグリはパリ・オペラ座でゲランと多く共演し、『マノン』、『ルビー』(ジョージ・バランシン振付)、『ノートルダム・ド・パリ』(ローラン・プティ振付)などの作品を踊っていた。ルグリはゲランが40歳(当時のパリ・オペラ座バレエ団の定年)でパリ・オペラ座の舞台から去ったのは早すぎたとずっと思っていた。 ゲラン自身によると、復帰の話は「最初は冗談みたいなもの」であった。振付家のパトリック・ド・バナが「何か特別な作品、演じられるような作品があるなら復帰したい」というゲランの要望を容れて、彼女とルグリのために『フェアウェル・ワルツ』という作品を振りつけてくれた。 『フェアウェル・ワルツ』はフレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの物語をベースにした作品で、2014年8月に上海で初演された。ゲランは当時のことを「長い年月の後、再び立った舞台は本当に素晴らしいものでした。(中略)自分が成熟したうえで戻ってきて、エモーショナルな作品を観客に差し出すことができる。本当に素晴らしいことです」と語っていた。 上海での舞台が終わった後、共演したダンサーたちが「この新しい舞台を日本に持っていくべきだ」と勧めてくれた。それを受けて、2015年夏に東京で開催された第14回世界バレエフェスティバル(Aプログラム)で、ゲランとルグリはこの作品を披露して好評を博した。文芸評論家の三浦雅士はゲランとの対談で『フェアウェル・ワルツ』について「とても悲しく、とても胸を打つ」との感想を伝えた。 将来についてゲランは「みんなから『踊るのを止めないで』と言われますが、先のことはわかりません。(中略)マニュエルはとても忙しいし、自分にふさわしいパートナーを見つけなければいけないわけですから。でも、私はいまこの瞬間を楽しんでいます」と語っている。
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