舞台への挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 02:46 UTC 版)
オーバジーヌ(英語版)で6年間裁縫を学んだ後、シャネルはある仕立て屋で職を見つけた。そして副業として騎兵将校の溜まり場となっていたキャバレーで歌を歌ってもいた。シャネルはムーランのパビリオンのカフェ・コンセール(当時人気の娯楽の場)「ラ・ロトンド(La Rotonde)」で舞台デビューとなる歌を歌った。彼女の仕事はposeuse(ポーズ嬢、スターたちが舞台で入れ替わる幕間の場を繋ぐパフォーマー)であった。給料は出なかったため、その収入源はテーブルを周ってチップを集めることであった:100。彼女が「ココ(Coco)」という名前を得たのはこの頃である。彼女が夜にこのキャバレーで歌う時、しばしば歌った歌が「ココを見たのは誰?(Qui qu'a vu Coco ?)」であった。彼女はココというニックネームを父親から与えられたものだと言うのを好んだが、「ココ(Coco)」は彼女のレパートリーの曲「ココリコ(Ko Ko Ri Ko)」(「コケコッコー」の意)及び「Qui qu'a vu Coco ?」、または囲い者を暗喩するフランス語の単語「cocotte」から来ていると考えられている。poseuseとしてのココは売れっ子であったが、田舎の舞台での脇役は彼女を満足させるものではなく、都会のより本格的な舞台の上で活躍することを目指すようになっていた:102。 1906年、シャネルは温泉リゾート地ヴィシーに向かった。ヴィシーは林立するコンサートホール、劇場、カフェを誇っており、彼女はそこで芸能人として成功することを夢見た。しかし、競争の激しいヴィシーで実績のない人間には機会はほとんどなかった。半ば素人の娘をposeuseとして舞台に置くという演出も、もはや時代遅れの田舎の習慣であり、ヴィシーでposeuseとしてデビューの糸口を掴む道はなかった:113。シャネルは幾度かのオーディションを受けたが、その容姿こそ評価されたものの歌声に対する評価は低く、舞台の仕事を得ることはできなかった:118。貸衣装やレッスン代がかさみ、何としても職を見つけなければならなかったシャネルはグランド・グリーユ(Grande Grille)でdonneuse d'eauとして勤務した。この仕事は、治癒効能があるとして有名なヴィシーのミネラルウォーターをグラスに注いで分けるというものであった:118。ヴィシーの行楽シーズンが終わると、シャネルはムーランの古巣「ラ・ロトンド」に戻った。この時には彼女は自分の将来において舞台での成功が見込めないことを認識していた:119。
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