フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:53 UTC 版)
「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー」の解説
ヒッチコックがまだヘンリー電信ケーブル社にいた頃、アメリカの映画会社フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー(英語版)(パラマウント・ピクチャーズの前身)はロンドン北部のイズリントンにスタジオを開設し、その第1作にマリー・コレリの小説が原作の『悪魔の嘆き(英語版)』を製作予定であると発表した。ヒッチコックはこのニュースを映画業界紙で知ると興味をそそられ、会社が募集していたサイレント映画の字幕デザイナーの仕事に応募し、原作小説に目を通したあと、会社の広告部門にいた同僚の助けを借りながらその字幕デザインのサンプルを何枚か描いた。しかし、プロデューサーにサンプルを提出した頃には『悪魔の嘆き』の製作は取りやめとなり、代わりに別の作品『最後の審判(英語版)』(1920年)と『青春の呼び声(英語版)』(1921年)の製作が決定していた。ヒッチコックは雇ってもらえるかもしれないという熱意から、この2本の字幕デザインを2日以内に作成し、それがプロデューサーに気に入られて採用された。 ヒッチコックは当初、パートタイムでフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーに雇われ、ヘンリー電信ケーブル社で働きながら字幕デザインを作成し、仕事の出来高に応じて報酬を受け取った。1921年4月にはフルタイムの従業員となり、それに伴いヘンリー電信ケーブル社を辞職した。それから約2年間、ヒッチコックは同社の11本の作品で字幕デザインを作成し、時には字幕をうまく使って内容が良くない映画のスクリプトを手直しして、映画そのものの内容を完全に変えたりもした。また、スタジオが人手不足だったことから、構図やセットの絵コンテを描くなど、担当以外の仕事をすることもあった。ヒッチコックはアメリカ人の従業員が多数を占めるこのスタジオで、自分の仕事をこなしながらアメリカ流の映画作りを学んだ。 しかし、1922年夏にフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーはイズリントンのスタジオでの映画製作を停止し、空いたスタジオは貸しスタジオとなった。ヒッチコックは低賃金で長時間労働をしていたため解雇を逃れ、他の数人のスタッフとスタジオに留まった。この頃、ヒッチコックはこのスタジオで自主製作による初監督作品『第十三番(英語版)』(1922年)の撮影を始めた。この作品はロンドンの低層階級を描いたコメディで、主演のクレア・グリート(英語版)が資金を工面したにもかかわらず製作費は底をつき、未完成のまま終わった。1923年初頭には俳優のシーモア・ヒックス(英語版)がイズリントンのスタジオを借りて『いつも奥さんに話しなさい(英語版)』(1923年)を製作兼主演したが、当初の監督のヒュー・クロイスがヒックスとの意見の対立で降板し、ヒックスが自ら監督を務めることになったため、ヒッチコックがその演出を手伝うことになり、2人で残りのシーンを撮影した。
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