歴史、沿革
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1968年、創立。当初は「井上博文によるバレエ劇場」という団体名だった。 1987年、「井上バレエ団」に名称変更。
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歴史、沿革
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1949年、谷桃子により設立。谷の没後は芸術監督に高部尚子を迎えている。また子どもたちに育成をする谷桃子バレエ団Academyも併設している。
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歴史、沿革
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橘秋子により1933年に設立された橘バレヱ研究所を前身として、1956年に設立。総監督は、1971年から1994年までが牧阿佐美、1994年からは三谷恭三が務めている。草刈民代、逸見智彦などの著名ダンサーを輩出した、国内有数のバレエ団の一つである。巨匠とのコラボレーションも多く、同バレエ団のためにローラン・プティが『デューク・エリントン・バレエ』を振り付けている。 1970年以来、海外公演を行っている。関連団体には、公益財団法人橘秋子記念財団、橘バレヱ学校、青山バレヱハウスなどがある。 2014年1月、東京都文京区と事業提携を締結。新たに文京シビックホールを拠点とした公演活動を行うこととなった。 2015年(平成27年)10月6日、一般財団法人牧阿佐美バレヱ団を設立。
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歴史・沿革
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15世紀前半ころ、朝倉氏3代当主朝倉正景が、一条家の荘園である東郷荘を預けられ、東郷下総守を称して居城したのが始まりと伝えられる。朝倉氏宗家が一乗谷に本拠地を移してから出城的位置づけとして整備された。 『古今類聚越前国誌』によると、正景の後は、鳥居兵庫助影近や虎牧弥三左衛門路知が居城したとされる。朝倉氏滅亡後、北庄城主柴田勝家の支配下となる。1584年(天正12年)に豊臣秀吉の配下長谷川秀一に東郷の地が与えられた。秀一は1585年(天正13年)に城郭を築城し、槇山城は全盛期をむかえ、城下町が形成された。 秀一の病死による除封後、北庄城主丹羽長秀の第2子・丹羽長正が槇山城主となって5万石を領有した。その後、長正は関ヶ原の戦いで西軍に属したため(浅井畷の戦いを参照)、関ヶ原の戦い後には領地は没収となり、1601年(慶長6年)結城秀康の越前入国とともに廃城となった。
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歴史・沿革
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築城年代は不明であるが、14世紀末頃に豊島氏が石神井城の支城として築いたものと考えられている。また、この城にはかつて「矢野将監」という者がいて(時期不明)、「矢野屋敷」「矢野山城」とも呼ばれていたという。そのほか、「海老名左近」という者がのちにこの地または北側の谷に居を構えた、との伝説も残されている。なお、『豊島名字之書立』(『米良文書』年月日不詳)には豊島一族の者として「ねりまひやうこ(=練馬兵庫)」「ねりま弥次郎」の名が記されているが、この人物と練馬城との関係は詳らかではない。2020年8月31日に閉園した遊園地「としまえん」は、当初遊具を備えた城址公園として開園されており、その名は豊島氏にちなんで付けられたものである。 豊島氏は文明8年(1476年)に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して山内・扇谷両上杉氏と戦った。この乱において、両上杉方の江戸城と河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である石神井城とともに、両城の連絡を遮断する役割を果たした。 翌文明9年(1477年)4月13日、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄・泰経(ただし「泰経」「泰明」の名に関しては、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)に連絡を取り全軍で出撃、道灌もこれを引き返して迎え撃ったため、両者は江古田原で合戦となった(江古田・沼袋原の戦い)。戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし、生き残った泰経と他の兵は石神井城へと敗走することになった。 この戦いについては、「道灌があらかじめ江古田原付近に伏兵を潜ませた上で、少数で挑発行為を行い、豊島方を平場におびき出した」とする説が有力である。練馬城がその後どのようになったかは明らかとなっていないが、城主の討ち死にや、従兵の石神井城への敗走により無人となり、そのまま廃城に至ったものとも考えられている。なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は「練馬城」とするのが新たな通説となっている。
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歴史・沿革
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宇陀松山城は宇陀郡を領分する有力国人宇陀三将(秋山氏、芳野氏、沢氏)の一人、秋山氏が居城として古城山に山城を築いたのに始まる。築城時期についてはわかっていないが、南北朝時代には構えられていたと思われる。また、城名は秋山氏が居城としていた頃は松山城とは呼ばれず、秋山城と呼ばれていた。 天正13年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去した。以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種らの居城となり、改修が行われ近世城郭へと移行した。この間の大規模な改修により、宇陀松山城が大和郡山城や高取城とともに大和国支配の要として豊臣政権に認識されていたことが窺える。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて多賀秀種は西軍に属したため改易され、福島正則の弟福島高晴が入城した。高晴は、豊臣政権下の大名の改修に加えてさらに大規模な改修を行った。近年の発掘調査により、本丸御殿をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、瓦・陶磁器類などが出土し、当時の大改修の様子が明らかになってきている。これらの大名の大改修を機に、城名が松山城と呼ばれるようになったと考えられる。 元和元年(1615年)、大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして、高晴は改易され城も小堀遠州らによって破却され廃城となった。破却の際の小堀遠州の書状が現存しており、城割(城を壊すこと)の内容が把握できる貴重な事例として注目される。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(166番)に選定された。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/26 02:18 UTC 版)
康平6年(1063年)に藤原宗円が築いたという伝承があるが、確証はない。古くは文明4年(1472年)に多気兵庫守の居城だったという記録が「宇都宮家臣記」にある。一方、その築城に関しては、「多気山城構築出陣人名」に天正4年12月2日(ユリウス暦:1576年12月21日)に着手し、12月25日(1577年1月13日)に完成した旨の記載がある。尚、同年に上高根沢城主高根沢信濃守、下高根沢城主平八郎、弥八郎、栗賀島城主直井淡路守、小和久保城主矢口筑前守、石居城主野沢若狭守らが入城している。いずれも明らかな記録ではなく、築城時期や築城者は不明とされている。 戦国時代末期、宇都宮氏は南に台頭する北条氏、北にこれに乗ずる日光山僧兵の侵略に晒されていた。本拠の宇都宮城は平城で防御に不向きだった為、宇都宮国綱は宇都宮城を玉生美濃守に託し多気城を改修して拠点とした。このほか、盟友・佐竹氏とともに下野国中央の覇権確立のために、壬生氏の鹿沼城の近くに拠点を持つ必要があったこと、多気山不動尊の加護を得て北条氏や壬生氏と対峙しようとしたことが、多気城を拠点とした理由と推定される。多気城下には上河原・下河原・粉川内(粉河寺)・清願寺(清巌寺)・裏町(池上裏町)・塙田・扇町・源石町(元石町)などの宇都宮城下と同じ地名が小字として残っており、宇都宮氏が一時的な拠点ではなく、恒久的な拠点にしようと整備していたことが分かる。城の建設資金は篠井金山の利益から捻出したという説がある。 本丸の規模は東西約140 m×南北約120 mで、その北・南・南西・南東に堀や土塁をめぐらした曲輪を配置するという堅牢な造りであった。 小田原征伐に続く宇都宮仕置で領土が安堵され、再び宇都宮城に本拠を戻している。宇都宮城が父祖伝来の地であること、交通の便が良いこと、領国経営に適していることがその理由である。慶長2年(1597年)に宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されると同時に廃城となった。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 08:48 UTC 版)
1180年(治承4年)宇都宮宗綱の次男・八田知家は源頼朝の蜂起に際の勲功によって、頼朝より茂木保の地頭職に補任される。 1192年(建久3年)に知家は三男・知基に地頭職を譲り茂木氏を名乗らせた。その茂木知基によって、建久年間(1190年 - 1199年)に築城される。 1556年に佐竹氏に攻められ茂木氏はこれに臣従、以後佐竹氏の影響下に入る[要出典]。 1585年(天正13年)には天谷場の合戦で北条氏・結城氏らの連合軍によって1度は城を落とされているが、佐竹氏の援軍を得て奪回している。 1594年(文禄3年)に佐竹義重の命によって茂木氏16代・茂木治良は小川城へと移り、茂木氏の支配が終わる。 1595年(文禄4年)に佐竹氏に属する須田治則が城主となる。 1610年(慶長15年)に佐竹氏が秋田に移封となり、代わって細川興元が茂木に入り、城下に陣屋を設けたため廃城となった。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 01:36 UTC 版)
1887年(明治20年) 福岡県大牟田市にて、創業者の陣内龍一が前身となる「陣内三省堂薬局」を創業。薬品の卸売り、家伝の漢方薬・塗り薬などを製造販売。 1960年(昭和35年) 3月、製薬部門を独立させ「三省製薬株式会社」を創業。注射剤として使用していた「プラセンタ」を、経皮吸収が可能な「プラセンタエキス」へ応用。 1964年(昭和39年) 薬事法改正後、医薬部外品としてプラセンタエキス配合の美白クリームを開発。 1971年(昭和46年) 福岡県大野城市に本社および本社工場設立。 1975年(昭和50年) 麹菌の発酵代謝物質「コウジ酸」にメラニン生成抑制作用を発見。 1988年(昭和63年) メラニン生成抑制効果がある「コウジ酸」を世界で初めて開発。1980年の薬事法改正後、美白有効成分として厚生省(当時)から国内初の承認を得る。 1989年(平成元年) 九州・山口地区「経営者賞」受賞。 1990年(平成2年) 福岡県薬事功労賞受賞。 1993年(平成5年) 通信販売事業「DERMED(デルメッド)」開始。 1995年(平成7年) 佐賀県鳥栖市に新工場を設立。発毛促進効果がある「CTP(6-ベンジルアミノプリン)」を開発、育毛有効成分として厚生省(当時)から承認を得る。 1999年(平成11年) ISO9001認証登録。 2002年(平成14年) ISO9001・2000年版に移行認証。 2002年(平成14年) 日本通信販売協会会員となる。 2006年(平成18年) プライバシーマーク取得。 2008年(平成20年) ローズマリーからシワ改善作用がある成分「セラムバイタル」を開発。 2008年(平成20年) 子育て応援宣言マーク取得。 2010年(平成22年) 複合成分「ピュールブラン」を開発。 2011年(平成23年) みちのく未来基金の支援活動に参加。 2015年(平成27年) 本格エイジングケアのための複合成分「ピュールブランW」を開発。ハリ・弾力の改善に効果がある「STミロバラン」を開発。 2017年(平成29年) ISO9001・2015年版に移行認証。 2017年(平成29年) 仕事・子育て両立支援事業を強化。「大池さんしょう保育園」開設。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 14:41 UTC 版)
1498年(明応7年) - 南部信時の四男、南部光康、横内城を築城する。ただし、弘前藩の資料に最初に本拠を置いたのは堤ヶ浦とあるため、いつ城に住むようになったのかは不詳。 1585年(天正13年) - 大浦為信、横内城を陥落させる。その後、外ヶ浜横内城番十人衆を置いた。 1861年(万延2年) - 常福院に百万遍の石塔が建てられる。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 03:40 UTC 版)
「スイッチエデュケーション」の記事における「歴史・沿革」の解説
2017年5月2日 - 株式会社スイッチエデュケーション設立 2017年5月17日~19日 - 第8回教育ITソリューションEXPO(EDIX)に出展 以後、スイッチエデュケーションは毎年EDIXにブースを出展し、micro:bitを用いた小中高校向けの教材や、プログラミング教室向けのカリキュラムについて展示している。 (2021年8月現在) 2017年7月27日 - スイッチエデュケーションが、「micro:bit」の日本販売代理店となった。 2017年7月31日 - 子供向けプログラミング言語「Scratch」につないで遊べるセンサーボード「いぬボード」販売開始 2017年8月5日 - スイッチサイエンスウェブショップにて「micro:bit」販売開始 2017年8月5日、6日 - Maker Faire Tokyo 2017に出展(スイッチサイエンスブース) micro:bitの販売やデモ展示を行った。 2017年11月25日 - 日本で最初のmicro:bit関連書籍『micro:bitではじめるプログラミング-親子で学べるプログラミングとエレクトロニクス』(スイッチエデュケーション編集部著 、オライリージャパン、2017年)を販売開始 2018年4月27日~6月10日 - 株式会社オライリー・ジャパン、株式会社プロキッズと共同で「micro:bitでつくってみよう!コンテスト」を開催 2018年5月26日 - 「micro:bitでロボットサッカーをしよう」ワークショップ開催 2018年8月4日、8月5日に行われたMaker Faire Tokyo 2018のスイッチサイエンスブースで、「micro:bitでつくってみよう!コンテスト」の受賞作品の展示と、8月5日に授賞式が行われた。 以後、スイッチエデュケーションは、「たのしいmicro:bitコンテスト」の名称で毎年micro:bitを使った作品のコンテストを行っている。(2021年8月現在) 2019年3月23日 - 丸善お茶の水店、誠文堂新光社、日本出版販売と共にロボットサッカーワークショップを開催 2019年10月14日 - 「ハロウィンな貯金箱を作るワークショップ@神楽坂」開催 以後、スイッチエデュケーションは「神楽坂プログラミング教室」として、micro:bitとmicro:bit用ワークショップモジュールを使ったさまざまなワークショップを、神楽坂にある書店「BOOK&OFFICE 文悠」、または神楽坂オフィスにおいて定期的に開催している。 2019年10月17日「micro:bit用ワークショップモジュール」販売開始 2019年12月3日 - micro:bitで動く6足歩行ロボット「プログラミング・フォロ for micro:bit」を販売開始 2020年3月31日 - 『micro:bitで楽しむワークショップレシピ集 プログラミングも!工作も!』(スイッチエデュケーション編集部著、株式会社ジャムハウス、2020年)を販売開始 2020年11月 プログラミング学習を始める子供向けウェブショップ「LABO KIDS(ラボキッズ)」を新設 2020年11月25日 - マイクやスピーカーを搭載したmicro:bitの新バージョン「micro:bit v2.0」を販売開始 2021年4月1日 - 株式会社スイッチサイエンスが親会社株式会社144Labから、STEM教材事業を取得し、株式会社スイッチエデュケーションは株式会社スイッチサイエンスの子会社となった。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 14:32 UTC 版)
享徳の乱の折、文明10年(1478年)12月10日の境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城した。7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11年(1479年)7月15日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられる(鎌倉大草紙)。その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されている。 その後、足利政氏の次男足利義明が小弓城を征圧し小弓公方を自称した際には、臼井城主の臼井景胤は小弓公方側に立ち、千葉孝胤の嫡男勝胤とは立場を異にした。だが天文7年(1538年)10月第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にした後は千葉氏の影響下に復した。 永禄4年(1561年)臼井久胤の時、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主正木信茂に攻められ臼井城は落城し、久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡した。なお一説によれば、その時城は後見していた久胤の母方の祖父に当たるとされる原胤貞に乗っ取られた状態で、まだ10代だった久胤は軟禁状態にあったともされ、正木信茂の攻撃による混乱を好機ととらえ、原胤貞の娘とされる母とともに城を脱出し結城氏に臣従したとも言われており、結局、臼井城は原氏の手中に収まったとのことである。 永禄9年(1566年)には、上杉謙信と里見義弘に攻められ原胤貞らが臼井城に立て籠り、3月20日には落城寸前となったものの、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井浄三の知謀とその指示に基づいた北条氏側の松田康郷らの戦ばたらきにより謙信を大敗させている(詳細は「臼井城の戦い」参照)。 天正2年(1574年)に原胤栄(胤貞の子)は里見勢に生実城を追われたため、その後原氏が臼井城を本拠とする。 戦国時代末期には原氏が城主であったが、天正18年(1590年)の小田原征伐で徳川氏に敗れ、酒井家次が3万石で入封する(臼井藩)。文禄2年(1593年)に城内より出火し灰燼に帰し、その後酒井家次は慶長9年(1604年)12月、上野国高崎藩に加増移封、臼井藩は廃藩となり、臼井城も廃城となった。 室町時代後期以降の戦乱の時代において、後期千葉氏の拠る本佐倉城と比べて歴史的により重要な役割を果たしたが、戦乱の時代が終わり、土井利勝により慶長15年(1610年)に佐倉城が完成するに至ってその役目を終えた。 現在は臼井城址公園として整備されている。
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歴史・沿革
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鎌倉時代に三浦党の筑井氏が築城したと言われている。大江(毛利)氏の津久井三郎の居館として現在地の詰めの城と、同八幡社の行政舎が整備されたと言われる。本格的に城と使われ始めたのは戦国時代の後北条氏の時であった。この地は甲斐と小田原を結ぶ要所であるため武田軍と後北条軍が鎬を削ったところである。後北条氏は武田軍にそなえて、津久井城主の内藤氏らを中心に津久井衆と呼び守らせたが実際は「敵半地」と呼ばれ、半分は奥三保(現在の裏丹沢)などの武田氏の勢力下(小山田氏を盟主とする郡内衆)だった。 1569年(永禄12年)の三増峠の戦いの時は、武田側の小幡信貞、加藤景忠ら上野原衆によって押さえられて出陣できなかった。 1590年(天正18年)の小田原征伐の時には城主内藤景豊は小田原城にいたので、老臣等が守っていたが、徳川家康の武将平岩親吉らによる攻撃により6月25日に開城した。その後城は廃城となり徳川直轄領。近くに陣屋を置き八木家などの代官がこの地を統括した。 城山の中心部分は相模原市緑区根小屋に存在するが、津久井郡に属していた城山町(現・相模原市緑区)の名は城山の東の麓にあることに由来する。
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歴史・沿革
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1583年(天正11年) 上杉氏に対する徳川氏の最前線の基地として、徳川家康の命で築城。 1585年(天正13年) 上杉氏により徳川氏に対する基地として増築普請。第一次上田合戦。真田氏が徳川氏の軍を撃退。 1590年(天正18年) 大規模な改修が行われる。後に金箔瓦が出土していることから、織豊城郭を意識していたことが窺われる。 1600年(慶長5年) 第二次上田合戦。真田昌幸および昌幸の次男の信繁の軍が徳川秀忠率いる東軍を撃退。 1601年(慶長6年) 昌幸・信繁父子が紀伊国九度山に配流になり、上田城は徳川氏により破却。東軍についた昌幸の長男の信之は昌幸の旧領(上田領)を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構えた。 1616年(元和2年) 真田氏は城下に7か条の領内法度を出した。 1622年(元和8年) 真田氏が同国松代に移された。 1626年(寛永3年) 上田に移封された仙石忠政により再建が開始されたが、2年後の1628年(寛永5年)忠政の死により城普請は中断され、以降江戸時代で本格的な再建は行われなかった。 1871年(明治4年)廃藩置県、東京鎮台第二分営が上田城に設置され、上田城は明治政府に接収された。 1873年(明治6年)分営が廃止。 1874年(明治7年) 廃藩置県により廃城となった上田城の土地、建物が民間へ払い下げられ、本丸に7棟あった櫓は、一つ(現・西櫓)を残して解体、売却された。このうち2棟は上田市常磐城(新地)にあった遊廓に6円で払い下げられ、一つの建物に連結されて金秋楼と万豊楼として使用された。 1929年(昭和4年)西櫓内に「徴古館」(上田市立博物館の前身)開館。 1934年(昭和9年)本丸と二の丸の大部分が国の史跡に指定される。 1941年(昭和16年)移築されていた2棟の櫓が目黒雅叙園に転売されるという話が持ち上がったが、市民の運動によって、翌年、1,800円で買い戻された。 1949年(昭和24年)市民によって買い取られた櫓は、現在の北櫓と南櫓の場所に移築復元された。 1953年(昭和28年)西櫓「徴古館」を上田市立博物館に改称。 1959年(昭和34年)本丸の櫓3基が長野県宝に指定される。 1963年(昭和38年)二の丸に上田市民会館が開館。 1965年(昭和40年)上田市立博物館の新館(現・本館)が開館、西櫓は閉鎖。 1994年(平成6年) 南櫓と北櫓の間を結ぶ東虎口櫓門と袖塀が古写真を基に復元され、いずれも上田市立博物館の施設の一部となる。南櫓と北櫓の内部公開開始。 2006年(平成18年)4月6日 日本100名城(27番)に選定された。 2016年(平成28年)1月4日 西櫓の内部公開再開(12月28日まで)。 2016年(平成28年)8月-9月 上田市教育委員会により二の丸の発掘調査が行われる。 2020年度から 旧上田市民会館建物を解体し、二の丸の復元工事が行われる予定。
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歴史・沿革
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天文23年(1554年)に竣工する。小諸城主は武田家の親族衆である武田信豊であるとする説があるが、黒田基樹は信豊が小諸城主であったことを示す確実な記録はないことを指摘している。勝頼期には御一門衆の下曾根浄喜が城代を務めており、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際しては小諸城に逃れてきた信豊を浄喜が打ち取り首を織田信長に進上したが、浄喜も誅殺されたという。 武田氏が滅んだ後に上野国と信濃佐久郡・小県郡は織田家臣の滝川一益が領し、城代は道家正栄が務める。天正10年6月2日の本能寺の変により相模国の後北条氏が上野へ侵攻し、6月19日に一益は後北条氏との神流川の戦いで敗退する。敗走した一益は箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)を経て碓氷峠を越え、6月21日に小諸城へ入城する。6月21日には佐久郡の国衆・依田信蕃が小諸城において一益と面会し、一益は木曽郡の木曾義昌とも交渉し、6月27日に小諸城を退去して佐久・木曽両郡を通過して本国の伊勢国長島へ帰還した。これにより小諸城主は依田信蕃となる。 後に徳川氏に引き渡された。その後小田原征伐後に依田氏が徳川氏に従って関東地方に移ると、代わって小田原征伐での功労が認められ5万石で再び大名に列せられた仙石秀久が天正18年(1590年)に入城した。秀久は関ヶ原の戦いでは東軍についたが、その後も元和8年(1622年)に2代忠政が上田城へ転封となるまで居城した。 江戸時代には小諸藩の藩庁が置かれ、その後は松平氏、青山氏、酒井氏などが封じられたが、元禄15年(1702年)に牧野康重が移封された後は国替えは行われず、牧野氏10代康済の時に明治を迎えた。 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(28番)に選定された。
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歴史・沿革
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陸奥国(後の岩代国)に新宮城を築城したとされる新宮時連は佐原盛連の6男で、新宮氏を名乗った。なお、時連の長兄・経連は猪苗代氏、次兄・広盛は北田氏、三兄・盛義は金上氏、四兄・光盛は蘆名氏、五兄・盛時は加納氏の祖である。 時連は宝治合戦の際は三浦氏一族にも関わらず北条時頼に味方し、その功として新宮庄(現・福島県喜多方市)地頭職を与えられたともいわれている。以後、新宮氏は約200年にわたり新宮城に拠って新宮庄一帯を支配することとなった。 室町時代になると、新宮氏は同族の蘆名氏や加納氏と争うようになり、応永9年(1402年)には加納氏を滅ぼし、北田城の北田氏と同盟を結んで蘆名氏に対抗した。応永22年(1415年)には蘆名氏は新宮城を攻めており、応永25年(1418年)から27年(1420年)にかけて会津各地で新宮氏と蘆名氏の戦いが繰り広げられている。そして応永27年(1420年)7月に新宮城は落城し、新宮氏は越後国に逃れた。新宮氏はその後永享5年(1433年)に越後国小川庄において蘆名氏によって滅ぼされた。
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歴史・沿革
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1532年 - 沼田顕泰により築城され、沼田氏の拠点となる。 1560年以前 - 山内上杉氏没落と後北条氏による上野進攻のなかで、どちらに属すかを巡り沼田氏がお家騒動を起こす。後北条方側が勝ち後北条氏出身の沼田康元が城主となる。 1560年 - 長尾景虎(上杉謙信)が越山し沼田城を落とす。沼田顕泰は沼田の国人(沼田衆)を率いる立場になったが城は景虎の直属(上杉家の「沼田三人衆」と呼ばれる上野家成、河田重親、松本景繁による城代支配)となる。 1569年 - 『加沢記』ではこの年に沼田氏のお家騒動が起こり、隙をついて上杉氏が沼田城を支配し、本庄秀綱による城代支配になる。後北条氏との関連は記述されない。ただし後世史料のため年代などが疑問視される。 1578年 - 謙信死後に起こった御館の乱により沼田城を後北条氏が制圧。城代に猪俣邦憲、金子泰清らを置く。同年、甲越同盟の成立で上杉景勝が武田氏の沼田攻略を承認し、真田昌幸が攻略の命を受ける。 1580年 - 昌幸が城代の泰清に調略を仕掛け、また昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田に攻め入ってこれを無血開城させ、武田氏が沼田を支配下におく。同年、後北条方と由良氏の支援を得た、顕泰の子・沼田景義が沼田城奪還を目指して挙兵するが、昌幸の謀略により、泰清に殺害される。これによって沼田氏は滅亡する。 天正10年(1582年) - 3月、織田氏・徳川氏連合軍の武田領侵攻により武田氏が滅亡し、その功により、織田家臣・滝川一益が武田遺領のうち上野国一国と信濃佐久郡・小県郡を与えられる。これにより、沼田城は滝川家臣・滝川益重の城となる。同年6月の本能寺の変を経て、武田遺領をめぐる「天正壬午の乱」が発生する。天正壬午の乱において沼田城は後北条家に降った真田昌幸の支配となり、徳川氏と後北条氏の間で沼田領帰属問題が持ち上がるが、昌幸はいずれの提案も拒否し、上杉氏の傘下に入る。これは後年の徳川氏との上田合戦や後北条氏による度重なる侵攻を招くことになるが、いずれも退ける。 1589年 - 豊臣秀吉の裁定により後北条氏の支配となり、秀吉家臣の津田盛月と富田一白、徳川家康家臣の榊原康政の立ち合いの下、真田氏から北条氏に引き渡され、猪俣邦憲が再び城代となる。しかし、同年に邦憲が昌幸の名胡桃城を略奪したことで、豊臣氏による小田原征伐が起こる。 1590年 - 北条征伐の戦後処理において、沼田城は真田氏に返還され、家康養女の婿である真田信幸(昌幸長男)が支配する。 1597年 - 信幸が城郭整備をする。 1600年 - 関ヶ原の戦いにて、東軍についた信幸(以降信之に改名)が改易となった昌幸の上田領も合わせて継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩する(信之は引き続き沼田城を本拠とする)。この頃、五層の大天守を築く。 1615年 - 大坂夏の陣を期に、信之は上田に本拠を移す。沼田城は、長男・信吉が城主となる。 1622年 - 信之が松代藩13万石へ加増移封。沼田領は引き続き真田領とし、松代藩の分領として継続。 1638年 - 信吉の死後、その嫡子である熊之助が跡を継ぐが早世し、信之の次男・信政(信澄)が沼田領を継承する。 1656年 - 信之が隠居し、信政が松代藩藩主となる。沼田領は、信吉の子・信利が継承。 1658年 - 信政が死去し、その相続を巡って真田本家と真田信利との間でお家騒動が起こる。これを期に沼田領は沼田藩として独立した。信利が初代藩主となる。 1658年 - 松代藩への対抗意識から再検地を行い、元来は表高3万石だったところを松代藩より多い14万4千石(実質は6万石余)として届ける。のち、同じく対抗意識から江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装した。 1681年 - 信利の暴政と、10月納期の江戸両国橋架け替えの用材調達の遅延を理由に改易され、沼田藩は廃藩にされる。以降1703年まで天領となる。 1682年 - 沼田城は破却され、堀も埋められる。 1703年 - 本多正永が入封し、沼田藩2万石として再興される。以降、黒田氏、土岐氏と沼田藩の藩庁として存続するが、城の本格的な復興はなされないまま、明治の廃藩置県に至る。 1916年 - 旧沼田藩士の家の久米民之助が城地を購入し、公園として整備。1926年に沼田市へ寄贈され、現在は沼田公園となっている。 1976年 - 沼田市指定文化財(史跡)に指定された。 2017年 - 続日本100名城(116番)に選定された。
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歴史・沿革
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明応末期(1500年代)初頭 - 越後小泉庄領主、本庄時長によって築城される。 慶長3年(1598年) - 村上頼勝が入城、櫓や堀などの改築を始める。 元和5年(1619年) - 堀直寄が入城。改築を完成させる。 寛永19年(1642年) - 村上堀家断絶。幕領出雲崎代官の管轄となる。 正保元年(1644年) - 本多忠義が入城。 慶安2年(1649年) - 姫路から松平直矩が移封。 寛文3年(1663年)より、松平家による大改修が行われる。 寛文7年(1667年) - 天守・本丸櫓が落雷で焼失。以後、天守・櫓は再建されず。 享保5年(1729年) - 内藤弌信入城。以降、明治まで、内藤家が藩主となる 安永7年(1778年) - 火災により三重櫓、月見櫓が焼失。 明治元年(1868年) - 北越戊辰戦争で村上藩士撤兵の折に全城焼失。 明治8年(1875年) - 残存する建物遺構の解体撤去が終了。 昭和35年(1960年) - 新潟県指定の史跡となる。 平成5年(1993年)6月8日 - 国の史跡に指定される。 平成29年(2017年)4月6日 - 続日本100名城(131番)に選定された。
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歴史・沿革
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1889年(明治22年)町制施行により誕生した多治見町は街の開発に力を入れていた。同時期に岐阜市では金津遊廓設立による都市開発が行われており、多治見町も開発事業の一環として新田地域(現在の多治見市坂上町付近)「字西ノ原」に遊廓の設立を決定した。当時、町民約800名が遊廓の設立に反対して署名活動を行い、県に聴許取り消しを申請する等の動きもあったが、遊廓の設立に踏み切った。 しかし、開業したものの多治見の主要産業であった陶器業の不況もあり繁栄はしなかった。1893年(明治26年)多治見西部、現在の新羅神社北側辺りに遊廓が移転された。 この際、従来遊廓があった新田地域の「西ノ原」をとって西ヶ原遊廓と呼ばれるようになった。遊廓を中心に道路や町の開発が進み、町の賑わいが東部から西部にある遊廓周辺へと移り行き、当時は「西盛東弱」と呼ばれたという。 1904年(明治37年)7月9日から11日までの大雨で土岐川・笠原川合流地点が決壊し、多治見西部が浸水し遊廓一帯も床上3、4尺(約0.9m~1.2m)浸水した。 昭和初期には遊廓も最盛期を迎え、遊女の数も100人を超えた。 戦時中、多治見周辺は空襲の被害が少なかったが、西ヶ原の遊女たちは「弥生連国防婦人会」を結成し、慰問袋などを戦地に送り続けたという。 1958年(昭和33年)、売春防止法施行により全軒廃業した。その後、何軒かは公衆浴場として残っていたが、現在は廃墟と化している。
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歴史・沿革
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モンゴル帝国の首都は、アイマクの北西部のカラコルムにあった。
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歴史・沿革
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中久喜城は、1155年(久寿2年)に小山政光が築いたものとされる。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。 中久喜城は江川と西仁連川に挟まれた舌状台地の南端に位置している。両河川は中久喜城の南で合流しており、西仁連川がもたらす氾濫原が南方に広がる要害の地であった。 小山氏にとっては下総国結城方面への備えの城であり、鎌倉時代には下野国守護を務めた小山氏の拠点のひとつとなった。しかし室町時代に入ると下野守護の座は高氏や下野宇都宮氏、関東管領上杉氏に移り、こうした流れに抵抗した小山義政は1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて小山で反乱を起こし、この時に小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城の5城のうち、岩壺城に相当するのが中久喜城と考えられている。 小山氏は義政の乱で鎌倉府の追討を受けて断絶するが、同族の結城家から養子を迎えることで再興している。そののち安土桃山時代の1590年(天正18年)に小山高朝の子で、結城政勝の養子となった結城城主結城晴朝がこの城に隠居したという記録がある。 また、中久喜城がある舌状台地を古くは「北山」と称したが、天正年間に小山氏と同族の結城氏の和解の際、「中久喜」と改めたという伝承が残る(付近には和談坂と呼ばれる坂があり、この和解にちなむものであるという)。 以上のように、中久喜城は祇園城、鷲城と並んで小山氏の主要な居城であったと考えられている。 1601年(慶長6年)に結城氏が越前国へ転封となったとともに、廃城になったと考えられている。
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歴史・沿革
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永享10年(1438年)、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の間に確執が生じ、身の危険を感じた上杉憲実は平井城に逃れた。通説ではこの時に憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。この後、持氏と憲実+幕府の連合軍の間で永享の乱が起きたが、憲実方が勝利した。 文正元年(1466年)に関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという。 古くから、平井城が関東管領であった山内上杉氏の拠点であったかのように記す史料もあるが、実際には永正9年(1512年)の永正の乱もしくは大永年間(1520年代)以降の拠点で、16世紀前半の短期間のものであったとみられている。 天文21年(1552年)、北条氏康に攻め落とされ、時の平井城主の関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃れた。既に周辺の上野国人勢力や憲政の馬廻まで北条に寝返っていたためである。 永禄3年(1560年)に長尾景虎によって奪回されたが、同年に景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城になった。奪回されて再び上杉本拠地となることを恐れた北条氏が、落城前に城郭を破却していたのではないかとも指摘されている。
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歴史・沿革
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北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。ただし、近年の研究では古文書などの分析により、元亀段階には小規模な城砦みたいなものが存在した可能性はあるものの、本格的な築城は1578年(天正6年)頃とみる説が有力である。なお、かつては古文書を根拠とした1560年(永禄3年)説・1562年(永禄5年)説もあったが、1569年(永禄12年)に武田氏との間で滝山城の籠城戦が行われているため、今日では否定的である。また、近年滝山城の築城を1563年(永禄6年)以降とする有力説があり、この説を採用した場合には永禄年間初頭説では、滝山城より八王子城の方が先に築城されてしまうことになる矛盾が生じるため、その意味でも成立しないとみられる。 氏照は当初、大石氏の由井城、後に滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄軍に攻められた際、(廿里古戦場、三増峠の戦い)に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移した。また、北条氏と武田氏はその後一旦和睦したものの、1578年(天正6年)に始まった御館の乱の対応を巡って甲相同盟が破綻しており、甲斐方面からの軍事的圧力に対抗するために築城した可能性も指摘されている。 このとき、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行った。滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較すると、より近世的な戦術を志向している。しかし、氏照が入った時は、御主殿など含む主郭部と一部の主要な要所部分のみ完成しており、氏照が小田原へ援軍へ向かったとしても八王子城は、増築を何度も八王子城合戦の日まで繰り返された。
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歴史・沿革
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鎌倉時代に桓武平氏の流れをくむ葛西氏が城館として築いたという伝承もあるが、その詳細は不明である。確実なところでは、関東地方における享徳の乱において旧利根川筋をはさんで西側に上杉・幕府方、東側に古河公方の勢力が対峙する情勢のなか、15世紀中葉に関東管領家の上杉方の城として築城されたと考えられている。青戸は当時にあっては上杉方の最前線で、最初の葛西城主は武蔵国守護代大石氏の一族大石石見守であり、江戸城を居城とする扇谷上杉家の家宰、太田道灌と連携して古河公方足利成氏の動きを牽制していた。寛正2年(1461年)に足利成氏が葛西城を攻撃したという記録が残っている。寛正3年(1462年)から文明10年(1485年)にかけての一時期、上杉方の武将千葉実胤が入城したといわれるが、その後、再び大石氏が葛西城に入った。 葛西城は、中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城で、戦国期には下総国への重要な進出拠点として、扇谷上杉氏や後北条氏の支配下に置かれた。 特に国府台合戦時には後北条氏側の最前線として重用され、中川・太日川を挟んで国府台城に陣取る小弓公方足利義明や里見氏らと激戦を繰り広げた。2度の国府台の戦いで先鋒を務め、2度目の戦いで戦死した遠山綱景は葛西城の城主であった。 また、後北条氏によって擁立された古河公方足利義氏の元服式が行われたのも葛西城であった。なお、近年の研究では足利晴氏の公方末期であった天文20年(1551年)12月以降に古河にあった公方府が葛西に移され、弘治4年(1558年)の新しく公方に就任した義氏の鶴岡八幡宮参詣直後に北条氏康の提案で公方府が関宿に移されるまで、古河公方の本拠地となっていたことが明らかになっている、 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に戸田忠次らによって攻められ落城。廃城となるが、徳川家康が江戸に入府後は城跡に「青戸御殿(葛西御殿とも)」と呼ばれる陣屋が建てられ、3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたが、明暦3年(1657年)頃、明暦の大火で焼失した江戸城再建の資材のために破却されたという。
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歴史・沿革
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2009年(平成21年)6月25日 - オープン。 7月12日 - 「第24回国民文化祭しずおか2009」100日前イベントを開催。 7月23日 - TOHOシネマズららぽーと磐田がオープン。(初コロナワールドの予定で、実際に同年2月までコロナ仕様の内装工事をしていた。) 2015年(平成27年)9月19日 - 大規模リニューアル第1期目がオープン。 10月24日 - 大規模リニューアル第2期目がオープン。
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歴史・沿革
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1922年(大正11年)、大阪で松竹楽劇部生徒養成所として設立された。大阪松竹歌劇団付属学校への改称を経て、1956年(昭和31年)4月より学校組織に改組。1958年(昭和33年)4月に奈良市菅原町(現・あやめ池南1丁目)のあやめ池温泉場へ移転。1977年(昭和52年)12月に近鉄あやめ池遊園地内に新校舎が完成したため1978年(昭和53年)4月に新校舎へ移転。 劇団の経営悪化による合理化のため、歌劇学校は2000年(平成12年)より募集を停止し、2001年(平成13年)3月21日に74期生14名の卒業をもって休校している。なお劇団も親会社(近鉄)の支援打ち切りのため2003年(平成15年)に一度解散した。 その後再結成されたOSK日本歌劇団は、現在では歌劇学校の代わりに研修所を設け、劇団員の養成を再開・継続している。制度の一部は歌劇学校を踏襲している。
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建久年間、稲毛三郎重成により築かれる。 永正元年(1504年)、立河原の戦いの際には、扇谷上杉方の援軍として出陣した北条早雲(伊勢宗瑞)、今川氏親が入る。 永禄12年(1569年)、武田信玄の小田原攻め(三増峠の戦い)に際し、防衛のため横山式部少輔弘成が土塁を築く。
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平安時代末期に武蔵七党村山党の山口家継によって築城された。以来代々山口氏の居城となる。 南北朝時代の応安元年(1368年)新田義宗、脇屋義治の挙兵に呼応した武蔵平一揆のおり、山口高清は一揆の中心・河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城。永徳3年(1383年)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。高治の子山口高忠は上杉氏家臣で武蔵国守護代の大石氏に従い、山口城の大改修を行ったが、もともと館であったため別個に勝楽寺村に根古屋城を築き、山口城の城郭としての機能を根古屋城に移した。 その後山口氏は上杉氏が没落すると、後北条氏に仕え武蔵国入間郡山口(所沢市山口)に40貫を知行していたが、1590年、小田原征伐で敗戦。廃城になった。
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築城年代は詳らかでないが、三田氏により築かれたとされる。 永禄3年(1560年)の上杉謙信関東出兵後、城主の三田綱秀は後北条氏を離れ上杉方についた。 永禄4年(1561年)の上杉氏撤兵後、後北条氏と対立した三田綱秀が勝沼城より辛垣城を築き居を移した。 永禄4年(1561年)〜永禄6年(1563年)頃、北条氏照により三田氏が滅ぼされ、勝沼城も落城した。
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1948年3月7日:旧警察法の施行に伴い、埼玉県警察部が解体され、自治体警察川越市警察署として開設。 1954年7月1日:新警察法施行に伴い、自治体警察、および国家地方警察が廃止。川越市新宿町にて、埼玉県川越警察署として業務開始。 1965年:旧庁舎完成。業務開始。 1970年6月16日:空巣の通報を受けて出動した巡査が頸動脈付近を刺されて重体。 1972年:東入間警察署開設に伴い、富士見市と上福岡市、大井町(いずれも現ふじみ野市)が管轄地域から分離。 1998年7月1日:現庁舎完成。新宿町から小仙波に移転。 2021年4月1日:管内の交番再編成に伴い、川鶴交番が霞ヶ関駅前交番川鶴派遣所に、福原交番が南大塚駅前交番福原派遣所に、南古谷駅前交番古谷派遣所が古谷連絡派出所に改称する。
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歴史・沿革
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1456年(康正2年)当時上総国は上杉政憲の支配地であったとされ、これを敵視する古河公方足利成氏の命を受けた武田信長が上総国に進出する。信長は上総国進出の足がかりとして真里谷城と庁南城と併せて築城する。上総武田氏は真里谷城と庁南城を本拠地とし、下総国に対する備えとして椎津城、佐是城を、小櫃川流域支配のために中尾城、笹子城、久留里城、南部の里見氏に対する備えとして佐貫城、造海城といった支城を拡げていき、上総経営に着手していく。 その後、武田信長の孫の中でも真里谷城に本拠地を構える武田信興から姓を「真里谷」に改める。真里谷氏は真里谷信興から信勝、信清の3代の間に最盛期を迎え、真里谷信清(入道恕鑑)の代には対立する原氏が拠る小弓城を攻略し、足利義明を迎えて(小弓公方)、信清自身は「房総管領」を称するようになる。 真里谷信興から数えて4代目真里谷信隆の代に異母弟真里谷信応との間で内争が発生する。信隆の父である信清から家督を継いだのは庶子の信隆であったのだが、それからまもなく信清の正室が信応を生んだことにより家臣を巻き込んだ後継者問題が発生する。「嫡子である信応が家督を継ぐのが正当である」と考えた信応派の家臣は足利義明、一族の有力者である真里谷全方の支持を得て、信隆から家督を奪う事に成功し、真里谷城に入城する。家督を奪われた信隆は北条氏綱庇護の下、椎津城に逃れた後、武蔵国金沢に逃れる。1538年(天文7年)の第一次国府台合戦の結果、小弓公方方は敗北したことにより信応は失脚し信隆がふたたび真里谷氏当主に返り咲くが、一族の争乱を収める事が出来ず北条氏に臣従するような状況となり、真里谷氏は上総地方の支配力を失う。この一連の事件を契機に真里谷氏の拠点が真里谷城から椎津城に移ったとされている。以降、上総国は後北条氏と里見氏の係争地となる。 1590年(天正18年)小田原征伐にて真里谷城は豊臣勢に攻められ落城し、廃城となる。
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歴史・沿革
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樋爪館は、奥州藤原氏の一族の樋爪太郎俊衡・五郎季衡兄弟の居館であった。出土遺物の年代から、12世紀初めから後半まで存続したとされる。 文治5年(1189年)に奥州藤原攻めが開始され、源頼朝の軍勢が攻め寄せると、樋爪一族は館を自焼して北走した後に投降した(『吾妻鏡』)。 大正15年(1926年)には南接する五郎沼の浚渫の際に12世紀の土器(かわらけなど)や建材が出土し、1965年(昭和40年)から最近まで、紫波町教育委員会により32次にわたり調査が行われた。 従来の通説では、平泉から樋爪に移ったのは俊衡の代とされてきたが、最新の発掘調査による研究(未報告)では、1100年代前半(父の藤原清綱)の時期のかわらけが出土していることから、平泉初代の清衡の頃から同地に居を構えていた可能性が高くなった。
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歴史・沿革
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1886年(明治19年)10月1日 - 尋常科永原小学校が開校する。この日を開校記念日とする 1953年(昭和28年) - 教員の手により副読本『ひらけていくわが村』が製作される。翌年、大阪書籍の教科書『小学社会四年生上』に転載 2004年(平成16年)10月1日 - 野洲町の市制施行に伴い、野洲市立祇王小学校に改称する
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歴史・沿革
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宝治元年(1247年) 築城 遠山三郎兵衛景重が築城した。遠山景重の先祖は加藤景廉(源頼朝の重臣)が遠山荘の地頭になり、その子岩村城主景朝はこの地名をとって遠山と姓を改めた。遠山景重は加藤景廉の孫にあたる。 戦国時代前の状況( - 1570年) 戦国時代には美濃国東濃地方は信濃国・三河国との国境界に位置するため、美濃攻略を狙う武田と織田の争奪戦が繰り広げられた。始めは武田信玄に従っていた遠山家だが、明知城主遠山景行も織田信長の婚姻政策によって織田勢についた。 元亀元年(1570年) 12月28日 上村合戦で遠山景行戦死 秋山信友は、西に兵を進め、上村(現在の恵那市上矢作町)で明知・苗木・飯羽間・串原・足助の諸将の遠山連合軍と東三河の徳川の援兵合わせて五千と戦い、これを攻略した。この上村合戦において、明知城主遠山景行は5・6騎の兵とともに落ちのびたが自刃した。また、景行の甥で娘婿にあたる小里光次も戦死している。新しく明知城当主になった遠山一行(景行の長男景玄の子)が幼少のため、馬場山田村の飯高山満昌寺に出家していた景玄の弟が還俗し名を遠山利景と改め、一行を補佐し明知遠山氏を守った。 元亀元年(1570年)12月29日 明知城奪還 明知遠山氏は秋山勢に歯が立たず織田信長に救援を求めた。信長は時を移さず明智光廉を急派し、秋山勢を美濃領から駆逐するように命じた。両軍は美濃と三河の国境にある小田子村で対陣、(小田子合戦)三日間に渡る激戦の末、秋山勢は敗れて信濃に撤退した。 元亀3年(1572年) 武田信玄は足利義昭の要請で上洛を決意。高遠城主秋山信友に三千の兵を率いさせ美濃に侵攻。その11月、包囲された岩村城は当主の遠山景任が、3年前の元亀元年の武田勢との戦いで負傷、その翌年に亡くなっていたため秋山虎繁(信友)は女城主となっていた一人身のおつやの方を籠絡し結婚を条件に和議の申し入れを受け開城させ岩村城を手に入れた。 天正2年(1574年) 2月 明知城落城 武田信玄の遺志にて武田勝頼は美濃、尾張、三河、遠江、駿河攻略の拠点となる明知城を、一万五千の大軍をもって襲撃する。明知城主遠山一行・叔父利景らは兵五百でこれを防ぎ、織田信長に急を報じた。信長は明知城を失う重大さを思い、奈良多聞山城から呼び寄せた子信忠と明智光秀とともに、三万の兵にて明知城西八丁の鶴岡山に布陣し、包囲された明知勢と連絡して武田勢を挟撃しようとした。 しかし城内では飯羽間右衛門による謀反が起こり、援軍として在城する坂井越中守を滅ぼし、また搦手水の口曲輪が破られ城郭・城下は火の海となり、城は武田方の手に渡った。戦死者五百を数えた。この戦いで遠山十八城のうち明知城は17番目に落城した。当主一行は利景とともに城を脱出し、妻の実家である足助の鈴木氏を頼った。 天正3年(1575年) 5月 明知城奪還 織田信長は長篠の戦いで武田勝頼を破ったのに続いて、嫡男信忠を総大将とする武田征伐軍が武田方に占拠された諸城を次々に奪回し、明知城も再び織田方の城となる。足助の鈴木氏を頼っていた遠山利景と一行は、明知城に帰還した。 天正11年(1583年)利景、家康を頼る 美濃の領主であった信長の三男信孝を追い出し自害させた秀吉のもと、池田恒興が岐阜城主となり、その娘婿で東美濃を任された森長可が支配権を行使するなか、圧迫された遠山利景は従兄の小里光明(和田助右衛門)とともに、足助の鈴木氏を頼った。利景の妻は鈴木重直の娘、小里光明の姉妹が鈴木重直の嫡男で現当主の鈴木信重の妻という関係である。鈴木は徳川と縁戚関係にあり、家康の大叔母で育ての母松平久子が鈴木重直の妻となっていたので、家康の配下にあった。 一行は本能寺の変の際に利景とともに甲斐に在番していた。変の混乱の後、一行を甲斐に残し、利景のみ明知城に戻った。その帰路、家康の家臣本多重次に会い、徳川に味方することを誓っている。一行はそのまま甲斐に残り、その後松平頼国(依田頼国)に従って信州を転戦した。 天正12年(1584年)4月 再び奪還するが剥奪される 小牧・長久手の戦いにおいて、遠山勢は菅沼定利の部隊に組み込まれた。長久手の戦いで岩村城主森長可が没したその隙に、家康の命により明知城を奪還する。しかし、家康が和睦し、天下人豊臣秀吉に城を長可の弟森忠政に返すよう命じられ、森左近が明知城城代となる。再び足助の鈴木氏を頼った。 慶長5年(1600年)2月 原土佐守が明知城城代となる 秀吉死後、さまざまな確執がある中、家康は森忠政を川中島に移封、代わりに田丸直昌を岩村城主とした。その際明知城城代として原土佐守を置いた。 慶長5年(1600年)9月 関ヶ原合戦 故城奪還 関ヶ原の戦いの際、小山の陣から真田氏とともに田丸氏は家康から離れ西軍に属することとした。家康は秀忠軍が通ると想定されたことから、利景に東美濃奪還を命じた。利景の子の方景や小里光明とともに、また妻木城主の妻木氏などと協力して田丸勢を追い出し、明知城を奪取し東美濃を平定、岩村城も開城させた。 慶長8年(1603年)9月 旗本になる 東濃平定の戦功により遠山利景は、恵那・土岐郡内で6,700石を与えられ旗本(交代寄合)となった。 旗本五千騎のうち、6,000石以上の旗本は50指に満たない。岩村には、(大給)松平家乗が入城するが、家乗は利景の妻の親戚筋(松平久子の曾孫)となる。 元和元年(1615年)一国一城令により廃城 一国一城令により旗本二代領主遠山方景に江戸邸が与えられ、明知城は廃城となり、城下大手門近く(北西側麓)に明知陣屋を構える。この陣屋は代官の村上氏が江戸時代から明治の大政奉還まで行政を行った。
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歴史・沿革
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Hodinkeeの設立は、創業者Benjamin Clymer(ベンジャミン・クライマー)が2008年に開設した時計に関するWebサイトとして始まった。UBSに勤めていた同氏は、2008年のリーマン・ショックが起きたことにより時間を持て余すようになる。HODINKEEを立ち上げたきっかけは、当時の上司に「毎日出社する必要はあるが、その時にするべき仕事がまったくないのであれば、好きなことをやって構わない」と言われたことで腕時計に関する内容を自身の文章で投稿するようになったことである。サービスを開始した当初は、Tumblr上で運営をしていたが、その後にSquarespaceでの運営へと変更された。 サービス名は、チェコ語で腕時計を意味する"Hodinky"に基づく。翻訳サイトBabel Fishを使って検索された。 2012年には、ECサイト「HODINKEE Shop」を開設し、腕時計のベルトをの販売を開始する。現在は、時計ベルトだけでなく時計を収納するためのケースや時計関連の書籍のほか、提携ブランドの腕時計やヴィンテージウォッチなども販売している。 2013年には、著名人や時計コレクターのコレクションをインタビューするTalking Watchesと呼ばれるコーナーを新設し、YouTubeに動画をアップロードしている。初回は、歌手のジョン・メイヤーをインタビューした。 2015年には、時計サイトのコンテンツのキュレーションアプリWatchvilleを運営していたNorth Technologies社と合併し、同社のKevin RoseがCEOとして経営に参画する。 2017年にKevin RoseがHODINKEEを離れ、True Venturesに参画しHODINKEEを投資面から支援することとなった。この機に設立者のベン・クライマーが再びCEOに就任した。 2018年に、10周年を記念して限定のオメガ・スピードマスターが販売される。これは、ベン・クライマーがHODINKEEをはじめるきっかけの一つとなった同氏の祖父から譲り受けたスピードマスターMK40をベースにした時計である。 2019年には、初の海外展開として日本でサービス開始されることが発表された。日本版は、ハースト婦人画報社との提携によるもので、本国の翻訳コンテンツのほか、日本の読者に向けた独自のコンテンツも提供される。
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歴史・沿革
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寛正2年(1461年)、真里谷信興(あるいは武田信長)により築城された。 天文3年(1534年)、真里谷信隆と信応の間に家督争いが起こると、信隆の子信政が拠った。 天文6年(1537年)、信応に付いた里見義堯に攻められ開城し、里見氏方の正木氏が入った。 天正18年(1590年)、小田原征伐の後、里見氏が安房一国に減封され廃城となった。 江戸時代末期、城内の北端及び南西端二箇所に台場が設けられた。
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歴史・沿革
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土佐は往古より交通としての海路が大きな役割を果たしてきた。仁井田・種崎方面に土佐藩の船蔵が造営されるに至ったのは、旧領主である長宗我部元親が浦戸城を造営して、浦戸の城下一帯であった当地に防衛上の水軍基地を置いたからといわれている。天正5年、関白・近衛前久が薩摩からの帰路に浦戸城に立ち寄り、長宗我部元親と対面し元親は乗船と警護船を前久に手配したという逸話あり、文禄5年にはイスパニアの商船であったサンフェリペ号が楫柱を損傷して浦戸に漂着するという記録も残っている。 慶長6年、山内一豊が海路・入城してくると、旧領主の配下のあった池水軍の解体をおこなった。和泉流軍法で山内家の土佐藩水軍を作り上げようとしたものと思われる。また、土佐藩の船大工の棟梁は種崎浦の岡家でその師匠は大坂の船匠・境井家であった。船の製造方法は秘伝として木割(和船の製法)を一国一人しか伝えず秘密を守るため起請文をとっていた。 慶長6年、海事入城した山内一豊は旧領主であった長宗我部元親の海事法制を継受することを明らかにするとともに、入国後、『五箇条の掟』や『十四ヶ条の掟』という法令を定め、藩政時代の土佐の海事法制の基本を明らかにした。 改易後、山内家は造船に力を入れ、浦戸湾の仁井田村・種崎浦の地域に限って造船所を設営した。船蔵とはたんに船を入れる倉庫ではなく造船所であり、また軍船が集中した港で非常のときは直ちに出勤できる性格をもった軍港でもありいわば藩の海軍省のような性格を兼備していたのである。前述のとおり、船蔵は仁井田の西埠頭からすすんで桑野神社までの東西五町(550メートル)南北一丁(110メートル)余りで四方は大竹の菱垣で覆った。 作事場と道をはさんで1.000石以下の船舶を作る所があり、それを進水するため数丁海を掘りこみ埠頭は石材を楕円形に築き中央に小船を収容する建物があった。当時・高知は出水に水びたしになったので水伝馬船数席を停泊させ不時の用にあてた。ここから西の方角へ進むと藩主座乗の十五端帆、朱塗りの御座船を置きこれと合わせて五隻の関船を置いたとされる。
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歴史・沿革
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「ボウマン (模型メーカー)」の記事における「歴史・沿革」の解説
1923年、イギリス南東部ノーフォークのディアラムでジェフリー・ボウマン・ジェンキンスが創業した。 産業革命の申し子ともいえる存在で、特に蒸気機関を原動力とする模型に力を入れていた。しかし、過度の蒸気機関へのこだわりが事業の転換を難しくする。同時期、他社が当時先端技術だった電動機を動力として採用を進めていたのに対して、時代の流れに乗り遅れ1935年に廃業した。
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歴史・沿革
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建武2年(1335年)前後、伊予国の守護であった河野通盛の代に築城され、一族本貫の地である風早郡河野郷(現松山市河野)より移住した。 天文4年(1535年)頃、通直(弾正少弼通直)によって外堀が造られたとされる。 天正9年(1581年)以後、四国征圧を狙う土佐国の長宗我部元親が伊予国に侵入し、通直(牛福丸通直)は元親と交戦した。 天正13年(1585年)、四国征伐をめざす羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が侵攻して金子城主の金子元宅を攻撃の末滅ぼし、湯築城の河野氏も約1ヶ月の篭城の後に降伏した。城に留まっていた通直は命は助けられたが、2年後に病没した。城は隆景に与えられたが、彼の所領は筑前に移された。 天正15年(1587年)、福島正則が城主となるが、程なく国分山城に居城を移したため、廃城となった。 慶長7年(1602年)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となる。建築にあたっては、湯築城の瓦等の建材が流用されたことが発掘調査により判明している。 明治21年(1888年)、県立道後公園として整備される。 平成14年(2002年)9月20日、国の史跡に指定される。 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(80番)に選定された。
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歴史・沿革
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スロットカーは1950年代にイギリスで登場し、1963年頃にアメリカ経由で日本へ渡ってきた。日本に初めて入ってきたのはレベル、モノグラム、COXなどの製品であった。1960年代当時は「走るプラモデル」と呼ばれた。 1/24モデル用スロットレーシングのコース SCX社製デジタルスロット 1/32モデル用のコース ヨコハマ スロット レーシング1/32
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鹿沼城の起源は、1292年(正応5年)に二荒山神社に化灯籠を奉献した佐野氏の支族・鹿沼権三郎が、この城から西に500mほどの所にある坂田山に本拠を構えた事から始まる。坂田山の城がいつ頃築城されたのかは不明。 その後の200年間は、鹿沼氏がどのように経過したのかは分かっていない。 戦国時代に入ると、鹿沼氏は東隣の宇都宮氏から圧迫を受け、大永年間の頃、宇都宮忠綱に攻め滅ぼされる。 鹿沼氏を滅ぼした宇都宮氏は、この周辺の支配を壬生綱重に任せる。壬生綱重は坂田山館を改築して居城としたが、1532年(天文元年)に嫡子の壬生綱房が御殿山を中心に城を築き鹿沼城とし、以後は壬生氏の居城となる。 その後、関東で小田原北条氏が台頭してくると壬生義雄は宇都宮氏から離反し、北条氏に従属するようになる。 1590年(天正18年)、小田原征伐で壬生氏が北条方に加担し、義雄が戦後急死したため壬生氏は断絶。鹿沼城も廃城となった。 現在は、御殿山公園となっている。
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城主本山氏の先祖は、清和源氏の流れをくむ吉良氏の傍流の八木伊与典とも平氏であるとも但馬国造八木氏であるとも伝わる。正確なことはわかっていない。八木氏が地名にちなんで本山氏を名乗ったとされる。その子孫、本山宗茂は、応安3年(1369年)に五橋荘内惣職という役をもらい土佐の土佐郡・吾川郡の2郡と高岡郡の東部、計5千貫という領地を獲得した。その子が本山清茂(梅慶)で全盛期を迎える。 勢力の拡大により拠点は本山城から朝倉城へと移され、本山城は清茂の子、本山茂辰へと譲渡された。天文24年(1555年)清茂の死後、茂辰は朝倉城に移ったが、永禄3年(1560年)茂辰の家臣が長宗我部氏の兵糧を盗んだために、長宗我部氏は本山城に攻撃した。本山氏は朝倉城を焼いて本山城へ帰ったといわれている。茂辰の死後は、その甥の本山親茂が本山城の城主となった。長宗我部の勢力は増し、本山氏は太刀打ち出来るものではなかった。本山城へ退いたが、ある夜、森城主森孝頼の攻撃を受けた。本山城と森城は宿敵関係にあり、森城は本山城を討つことに怠りはなかった。親茂は城を打って出ようとしたが、家臣に押しとどめられ開城し、瓜生野城に篭ったが、元亀年間に本山氏は長宗我部氏の軍門に降った。 なお、江戸時代には既に城は廃れており、山内一豊は家老の山内刑部(永原一照)に本山一帯の支配を任せ、本山市街の西側の丘に邸(土居)を作りこれを支配した。これが現在の上街公園であり、本山城とは別の場所である。ここには奉行職野中兼山も住んだと言われている。
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1960年、ハインツ・レスラー (Heinz Rössler) によって、ロコ模型玩具 有限責任会社 (Roco Modellspielwaren GmbH) が設立された。社名の「Roco」は「ROessler COrporation」を略したもの。 創業は1959年で、当初は「ドイツ・オーストリア プラスチック加工 有限責任会社」 (DOK Modelle、Deutsch-Österreichische Kunststoffverarbeitungs GmbH) と名乗り、HOスケール (1/90スケール) で軍用車両のミニカー・自動車模型を製造していた。ロコが設立された1960年頃に「DOK Modelle」に代わって「Roco-Peetzy」のブランドで発売されるようになった。後に「Minitanks」とブランドを変更し展開された。当時の自動車模型は亜鉛合金製ダイカスト成形のミニカーが主流であったが、ロコでは射出成形による細密プラスチック製であったため、売り上げが伸びた。 1967年から鉄道模型に参入し、ドイツのトリックスの下請けでHOゲージを、アメリカのアトラス(英語版)の下請けでOゲージを製造した。1973年には自社製品として「ロコ・インターナショナル」 (Roco-Internatioal) のブランド名で、西ドイツ国鉄V215ディーゼル機関車をHOスケールで製品化した。 1975年、倒産した西ドイツのレーヴァから金型と技術者を引き継ぎ、1976年にはNゲージとHOゲージの短縮連結器「ロコ・クルツカプラー」 (Roco Kurzkupplung) の特許を取得した。 1977年、創業者のハインツ・レスラーが死去し、従業員であったヴァルター・チンケル (Walter Tschinkel) が後を継いだ。旧レーヴァのHOゲージ製品では取り付け済みとなっていた細かい部品を、購入者が自ら取り付ける仕様に変更し製造コストを抑え、従来価格の60%に抑えて発売をしたところ、非常に売り上げが伸びた。その後は旧レーヴァ製品を中心にTEE客車や、Sバーン用客車、コラーユ客車など、主に西ドイツ国鉄の車両を矢継ぎ早に発売した。これらは大きさは1/87スケール (HOスケール) ではあったものの、長さを1/100スケールに抑えたショーティーモデルであった。これら旧レーヴァ製品を改良した製品は成功をおさめ、さらに多くの旧製品が改良され発売された。また、これらの成功により、自社開発によるオーストリア国鉄の車両も製造され始めた。 1989年には道床つき・組み立て式の線路システム「ロコライン」 (Roco Line) が開発された。ロコラインは柔らかいゴム製の道床 (土台) をもつ線路で、従来のHOゲージで主流であった2.5mm高のレールを採用せず、新たに2.1mm高のレールを採用したため実感的であった。2004年の倒産以後、特許の関係でロコラインは製造中止となり、新たな道床つき・組み立て式の線路システムとして2005年に「ジオライン」 (Geo Line) が開発された。ジオラインは、メルクリンやトリックスで展開されている、道床つき・組み立て式の線路システムである「Cトラック」に良く似ており、硬いプラスチック製の道床 (土台) をもつ線路となっている。 1993年には、メルクリンの新型短縮連結器である「クルツ・カプラー」(Kurzkupplung、先述のロコ・クルツカプラーとは別のもの) と互換性を持たせた「ユニバーサルカプラー」 (Universalkupplung) が開発された。このユニバーサルカプラーも倒産に際し特許の関係で製造中止となったが、2007年に製造が再開された。 2004年、本社を移転した直後に倒産した。2005年にライファイゼン銀行(英語版)の管理下に入り、2007年にモデルアイゼンバーン・ホールディングに買収され「ロコ 模型鉄道 有限責任会社」(Roco Modelleisenbahn GmbH) となった。同年、Minitanksシリーズはヘルパに売却された。
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歴史・沿革
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1859年 - ドイツ連邦ヴュルテンベルクのゲッピンゲンで1840年からブリキ職人をしていたテオドール・フリードリッヒ・ヴィルヘルム・メルクリン (Theodor Friedrich Wilhelm Märklin) によって創業された。当初はドールハウス用の台所セットを生産していた。テオドールは1859年にキャロリン・ヘティヒ (Caroline Hettich ) と結婚した。キャロリンはドイツ国内はもとよりスイス、オーストリアまで行商した。 1866年 - テオドールが死去し、キャロリンが引き継いだ。 1888年 - 息子のオイゲン・メルクリン (Eugen Märklin ) とカール・メルクリン (Karl Märklin ) がメルクリン兄弟社 (Gebr. Märklin ) を設立。模型の船やメリーゴーランドやこま等の玩具を生産した。 1891年 - ヴュルテンベルクのエルワンゲン (Ellwangen ) でブリキ製玩具を製造していたルートヴィッヒ・ルッツ (Ludwig Lutz ) を買収し、1909年にはドールハウスやままごとセット、自動車、飛行機、船、こま、メタルキットなど90以上の製品を扱うまでに拡大した。1891年春のライプツィヒ・メッセにぜんまい仕掛けの鉄道玩具を出品。世界規模ではまだ鉄道模型の軌間は標準化されていなかったが、メルクリンでは独自に1番 - 5番ゲージを展示した。まもなくそれらは国際的な鉄道模型の規格になった。メルクリンは1895年に0番ゲージ (Oゲージ) を送り出した。 1926年 - 交流20ボルトによる電動式の鉄道模型を発売した。 1929年 - 黒と真鍮の金属製の組み立てブロックに色を加えた。 1935年 - オイゲンの息子のフリッツ・メルクリン (Fritz Märklin ) が経営に加わり、秋のライプツィヒ・メッセで当時最小の縮尺1/87のOOゲージを発表した。 1950年 - 縮尺1/87のOOゲージをHOゲージに改名、1950年代から1960年代にかけて世界最大の鉄道模型会社になった。 1972年 - 縮尺1/220のZゲージを発売。 1984年 - 一番ゲージの機関車などがきかんしゃトーマスの撮影用モデルとして改造され、TVシリーズが撮影される。。 1997年 - ニュルンベルクの模型メーカーであるトリックスを傘下に収めた。 2006年5月11日 - メルクリン、フリッツ、ザフトの3家族が所有してきたが、売上高が低迷して約7,050万ドルの借金を抱え、イギリスの投資会社キングスブリッジキャピタルに雇用の維持を条件に約3,800万ドルで売却された。新しい株主の計画ではリストラして収益をもたらす体質にする狙いであった。 2006年 - ゾンネベルクとテューリンゲンの工場を閉鎖し従業員400名を削減。 2007年 - LGBのブランドでGゲージを生産するレーマンを傘下に収めた。 2009年2月4日 - 資金繰りに行き詰まって裁判所に破産手続きを申請した。 2010年10月 - 自己再生をはたした。
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歴史・沿革
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警監ミッションは19世紀末にイギリスでキャサリン・ガーネー (Catherine Gurney ) により開始された。ガーネーが来日し活動を開始したいとのことで赤坂病院のホイットニーの紹介で木田文治がその責任を任され、芝区田村町22番地に事務所を設けた。日本での活動の初期には木田の他に御牧碩太郎がいた。また、1898年頃からは土肥修平も協力した。 ガーネーが日本伝道隊の関係者であったことから、日本伝道隊との関係が次第に整い、日本支部の組織化は日本伝道隊のテイラー(J Taylor )によって1907年に始められた。テイラーは1910年に健康を害して帰国することになり、1910年春からカスバートソン (James Cuthbertson ) が引き継いだ。当初メンバーは4人で、東京に限定し、様々な階級の英語を解する者に限られていたが、やがて人数も増え、拠点も東京だけではなく横浜、大阪、神戸、千葉にも広がった。カスバートソンが第一次世界大戦で出征するため帰国すると、三谷種吉が日本支部の責任者となった。なお、鋤柄熊太郎もメンバーの一人であった。
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歴史・沿革
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久川城のある会津郡伊南郷(伊南川流域一帯)は文治5年(1189年)の奥州合戦の戦功によって下野国住人の河原田盛光に与えられ、以来河原田氏が治めていた。天文12年(1543年)頃に蘆名盛氏に攻められ、このころから河原田氏は蘆名氏に臣従したものと思われる。天正19年(1589年)、摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡し、伊達政宗が黒川城へ入ったが、当時の河原田氏当主・河原田盛次は政宗への臣従を拒否した。政宗は家臣の柴田但馬や降伏した鴫山城主・長沼盛秀を伊南郷に攻め入らせる。天正17年(1589年)、盛次は戦闘に備えて新たに久川城を築き、そこに立て籠もって伊達勢を迎え討った。伊達勢は城を攻撃したが、結局攻め落とすことはできずに撤退した。しかし盛次は翌年の秀吉の小田原征伐に参陣しなかったためにその後の奥州仕置によって領地は没収されてしまった。その後、会津は蒲生氏、上杉氏、そして再び蒲生氏が入部し、この再蒲生時代に久川城は現在残されている縄張りの城に改築された。その後、慶長16年(1611年)に廃城となった。
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歴史・沿革
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1838年から1841年にかけて、ザクセン王国の首都ドレスデンの旧市街にオペラ劇場(宮廷歌劇場)として、新古典主義の建築家ゴットフリート・ゼンパー(1803年 - 1879年)の設計により建設された。王の命により、時計師ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・グートケス(ドイツ語版)による5分表示のデジタル時計が設置された。この劇場ではリヒャルト・ワーグナーが1843年から1849年まで指揮者を務めており、『リエンツィ』『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』の初演の地としても知られる。リヒャルト・シュトラウスのオペラも大部分が当地で初演されており、有名オペラを多く初演した劇場としてはミラノ・スカラ座、ヴェネチア・フェニーチェ劇場などと並ぶ名門である。 1848年革命がドレスデンに波及した際、ゼンパーは革命側を支持し、ロンドンへの亡命を余儀なくされた。 1869年、劇場が火災で焼失すると、特赦を受けたゼンパーが改めて基本設計を行い、再建開始。 1878年、息子のマンフレート・ゼンパーによって完成。デジタル時計も復元された。 1945年、英米軍のドレスデン爆撃により大きな被害を受け、瓦礫の山となった。 1977年、復興が始まる。 1985年、復興完成。再びデジタル時計も復元された。 1990年、ドイツ再統一に伴い州立の歌劇場になった。 2002年、欧州を見舞った大洪水で大きな被害を受けたが、再開。
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歴史・沿革
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田部原館を記載した資料は少なく、『新編会津風土記』や『会津鑑』には登場しない。そのため、この城の詳細は不明である。『田島村古絵図』に記されているのが最も古いものである。 この地方の国人領主であった長沼氏は鴫山城に移る以前、古町に居り、さらにその前は田部にいたということが、「長沼系図」(『田島町史』第5巻所収)に記されている[要ページ番号]。このことから田部原館は長沼氏によって築かれたのではないかと考えられるが、伝承が一切無いため詳細は不明である。
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歴史・沿革
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享徳4年(1455年)6月、足利成氏が室町幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉より古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述があり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説も有力。城主の金田氏は菖蒲佐々木氏ともいわれ、近江国佐々木氏の末裔されるが詳細は不明。初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城主成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。その後子孫は帰農し大塚姓を称した。金田氏の墓所は曹洞宗久林山永昌寺にある。
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歴史・沿革
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板倉氏が築いたとされる。同じ大網白里市にある本國寺の裏手の墓地に、現在も続く板倉氏歴代の墓所がある。
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歴史・沿革
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「三田市立ゆりのき台小学校」の記事における「歴史・沿革」の解説
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歴史・沿革
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「グランシップ トレインフェスタ」の記事における「歴史・沿革」の解説
2014年4月26・27日 トレインフェスタ2014開催、この年はグランシップの設備等改修工事の為、静岡ホビーショーと異なる時期に開催された。 2016年5月14・15日 トレインフェスタ2016開催 2017年5月21・22日 トレインフェスタ2017開催、この年は初の試みとして、鉄道トークショーが開催。また会場などのスケジュールの関係で静岡ホビーショーと異なる時期に開催された。
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歴史・沿革
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石神井城の築城時期は定かではないが、一般的には室町中期頃であったと考えられている。鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、以後この地は豊島一族の本拠地にもなった。豊島氏は貞和5年(1349年)に石神井郷の一円支配を開始したものの、応安元年(1368年)の「平一揆の乱」に敗れて関東管領・上杉氏に所領を没収されており、その後応永2年(1395年)になってようやく同郷を還補(げんぽ=所領返却)されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれもが「応永年間の建立」と伝えられていることから、城もこの還補直後(応永年間)に築かれたとする説が有力である。 平安期以来、武蔵の名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められ没落した。文明9年(1477年)のこの戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明(ただし、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り道灌と対峙したが、同年4月13日練馬城を攻撃された後の江古田原の戦い(『鎌倉大草紙』では「江古田原・沼袋」)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走している(なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持[要出典]により「練馬城」が新たな通説となっている)。 その後、4月14日に道灌は石神井城近くの愛宕山(現:早稲田大学高等学院周辺)に陣を張り石神井城と対峙、18日になって一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日に道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。泰経は翌年1月平塚城で再起を図るが、再び道灌が攻撃に向かったため、またしても戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家によりほぼこれは否定されている)。なお、「落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29年(1896年)に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。
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歴史・沿革
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平安時代後期に石川有光がこの地に館を築いたのが城の始まりであるといわれる。有光は清和源氏の出で、源頼光の弟頼親の孫にあたり、はじめ摂津国に居住していたが、後に陸奥国石川庄に移り、三芦城を築いたという。三芦城はその後石川氏代々の居城となり、天正18年(1590年)の奥州仕置で小田原征伐への不参を理由に石川氏が豊臣秀吉の命で改易処分となった際に廃城になった。当時の石川氏当主の昭光は伊達政宗の叔父にあたるため、その後に石川氏は伊達氏家臣となり、伊具郡角田城主(2万1千石)及び伊達一門筆頭としての地位を全うした。
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歴史・沿革
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河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。 建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。 その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。 戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570年(元亀元年) - 1573年(天正元年))には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、この城は落城し廃城となった。
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歴史・沿革
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直鳥城跡は、南流する城原川と国道264号が交わる直鳥橋の南西200mの右岸にある平城(水城)で、規模は東西330m、南北330mである。 弥生時代、有明海岸が後退した頃からこの地に人々が定住を始め、中世にはほぼ現在に近い形の集落が形成された。初めは小規模だったが、16世紀に犬塚氏の支配下に入ってから徐々に要塞的な環濠集落として発展を遂げていったと考えられている。 江戸時代に編纂された歴史書や軍記物(「北肥戦誌」など)に、城の沿革が書かれている。築城は、犬塚家貞の四男家久で永正年間とされる。2代目城主犬塚家清は、大友宗麟の命により、筑後の諸将と共に筑前侍島の筑紫惟門を攻めた敗走し、家清とその嫡男尚家は宝満岳で戦死した。3代目城主犬塚鎮家は、西犬塚(鎌田江)の所領を相続して、鎌田江城に居住し、大友方として龍造寺氏と対峙した。元亀元年(1570年)、大友親真を主将とした3万の軍勢が佐賀城を攻めたが、龍造寺氏の家臣鍋島直茂の奇襲戦法「今山の戦い」により大敗した。翌年(1571年)の春、佐賀城の龍造寺隆信は鎌田江城を攻め、鎮家はこれに敗れて筑後に落ち延び、直鳥城に戻ることはなかった。 直鳥城の周囲に発生していた「城下町」に相当する集落は、城跡を取り込んで環濠集落の郷村として継続し、江戸時代を通して現在まで残っている。 直鳥城は、崎村城、姉川城と同様に、佐賀平野特有の濠(クリーク)を防御線として利用している。現在、クリーク内の各島々の竹藪となっているところは、防御のための土塁が設けられていたと考えられている。直鳥城は、この地方で独自に発達を遂げた中世の低平地城館の典型であり、貢重な文化財として保護されている。
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歴史・沿革
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以下のように伝承されている。 築城は平安時代の延長5年(927年)に、藤原秀郷が従五位下・下野国押領使を叙任、関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。天慶3年(940年)平将門による天慶の乱が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧した。この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領した。また、一説にはこの乱を鎮圧した天慶3年から築城が開始され天慶5年(942年)に完成したと伝えられる。その後、5代にわたりここに居城した後、6代成行は足利荘に移り一時廃城となった。 平安時代末期の治承4年(1180年)9代俊綱の弟成俊は再びここに城を再興し、佐野氏を名乗った。鎌倉時代に入った建保元年(1213年)成俊は30余年の歳月をかけて城を完成させた。 以上のような伝承がある一方で、最近の研究では唐沢山城の起源は15世紀後半までしか遡らないことが明らかにされている。秀郷築城が伝承された背景には、唐沢山城主の佐野氏の先祖が藤原秀郷であるからであるといわれる。 室町時代中期の延徳3年(1491年)には佐野盛綱が城の修築を行った。 戦国時代の佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。当初、越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は、永禄2年(1559年)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。 唐沢山城(佐野)は謙信においては関東における勢力圏の東端であり、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、特に重要視されたと考えられている。 昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、一族間で「唐沢山天正の乱」と呼ばれる争いが起こった。これにより佐野氏は上杉氏と決別するに至った。天正4年(1576年)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵をもってこの城を攻めたが、一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により上杉軍を撤退させた[要出典]。それまでも9度にわたり上杉軍の攻城を受け、城主・昌綱は何度も降伏したものの、謙信を大いに手間取らせた。この堅固さは評判となり関東一の山城と賞賛された。 上杉氏と決別し孤立化した佐野氏は、天正15年(1587年)に北条氏康の五男・氏忠を養子に迎え北条氏と和議を結んだ。 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、当主の佐野房綱は豊臣方に付き城内の北条勢を一掃した。文禄2年(1593年)豊臣氏家臣富田一白の二男・信種を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り佐野信吉と名乗った。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信吉は徳川家康方に付き3万5千石の旧領を安堵され佐野藩が成立した。慶長7年(1602年)麓に佐野城が築かれ平安時代より続いた唐沢山城はその歴史に幕を閉じた。廃城に至った説として、江戸に火災があったとき、山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買ったと言う話がある。また、江戸から20里(80キロメートル)以内の山城は禁令されていたとの説もある。 明治16年(1883年)有志により本丸跡に唐沢山神社が建立された。 昭和30年(1965年)栃木県立自然公園開設。昭和38年(1963年)栃木県唐沢青年自然の家開所。 平成26年(2014年)3月18日、城跡が国の史跡に指定された。 平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(114番)に選定された。
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歴史・沿革
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野川本『藤葉栄衰記』によると、1399年(応永6年)足利満兼が奥羽支配のため遣わした満貞・満直の配下であった二階堂行続(二階堂治部大輔)が築城した。また、『中古日本治乱記』には、須賀川城主・二階堂信濃守(二階堂行続?)が1413年(応永20年)の伊達持宗らによる挙兵を関東公方・足利持氏に伝えたという記述がある。行続が反抗したため文安年間には二階堂為氏が下向してこれを破り、城主となって当地一帯を支配した。なお、『鎌倉管領所領役考応仁武鑑』では、行続の遺子・二階堂盛重を当城主としている。 元亀3年7月27日(1572年9月14日)に那須資胤の軍勢が攻めてきたが、当時の城主・高瀬伊勢守に敗れている。 天正9年(1581年)に城主の二階堂盛義が死去すると、後室の大乗院が城主となり、城代の須田盛秀が実務を代行した。 この頃から伊達氏との対立が深まり、『政宗記』によると1585年(天正13年)に伊達政宗は当地を攻撃するつもりであったが、逆に佐竹義重らが出陣して伊達側の城を攻撃している。また、1587年(天正15年)には会津衆と二階堂氏が共同で伊達氏を攻撃した。 天正17年8月19日(1589年9月28日)の那須資晴の書状によれば、須賀川城には当時、佐竹某が在番していた。二階堂家臣団では、佐竹氏との同盟を進める須賀川城代・須田盛秀と伊達氏との連携を主張する保土原行藤が当時それぞれ派閥を形成し、分裂していた。そして岩瀬郡西域の行藤派は伊達政宗に内応し、同17年10月26日(1589年12月3日)に政宗が西方から接近して山王山城に陣すると、これを先導して須田氏、佐竹氏らの兵・約600人の守る当城は攻め落とされた。 この際に釈迦堂川南岸で激戦があり、長禄寺が放火されて本丸まで延焼している。城主の大乗院は佐竹家へ落ち延び、政宗は一族の石川昭光に須賀川城を与えた。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置によって須賀川近辺は蒲生氏郷領となり、配下の田丸具直が須賀川城主となった。 慶長3年(1598年)、上杉景勝が会津に入り、部下の栗田国時が愛宕山の城から一帯を統治した。 慶長6年(1601年)に蒲生秀行が会津藩主となると、家臣の蒲生郷成が須賀川城に入った。 寛永4年(1627年)、加藤嘉明が会津藩主となった後、まもなく廃城となった。廃城後は、跡地に在郷町が繁栄している。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/10 17:29 UTC 版)
文応元年(1260年)長沼隆時が築城したといわれているが、詳細は不明。 永禄9年(1566年)、二階堂盛義が蘆名盛氏に敗れたことにより、長沼城は蘆名氏の支配下に置かれ、新国貞道が城主となった。 蘆名氏が天正17年(1589年)に滅亡した後、新国氏は伊達氏に仕えた。 天正18年(1590年)には豊臣秀吉の命により奥州に国替となった蒲生氏郷の支配下に移り、蒲生郷安が城主となった。 慶長3年(1598年)に上杉景勝の領地となり、信濃国の長沼城より島津忠直が移った。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは長沼城が白河後方の拠点の城として重要な位置にあったことから上杉氏による改修が行われている。慶長6年(1601年)には蒲生秀行の領地となり、蒲生郷治、玉井数馬介が城主となったが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城とされた。
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歴史・沿革
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応永25年(1418年)、下那須家初代の那須資重によって築かれ、永正11年(1514年)の下那須家滅亡まで下那須家の居城、那須氏統一後は、那須氏の居城として使われた。 戦国時代には、常陸国の佐竹氏により度々攻撃対象とされ、永禄6年(1563年)の大海の戦い、永禄9年(1566年)の治部内山の戦い、永禄10年(1567年)の大崖山の戦い、霧ヶ沢の戦いなど、何度か城下まで攻め込まれているがいずれも退けている。天正18年(1590年)の那須資晴の代に、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏側に立った那須氏は一旦改易された。後に同じく小田原征伐後に100万石を没収され改易された織田信長の次男の織田信雄が入城(配流・蟄居処分とも)し、2カ月間城主を務めた。その後は文禄4年(1591年)に成田氏長が2万石で封じられるが、1596年に死去。跡を弟の成田長忠(泰親)が継いだ。成田氏の下で江戸時代の開始を迎え、当城が烏山藩の政庁となるが、元和2年(1617年)に長忠が死んだのち、数年ほどの間に後継を巡る御家騒動が二度起こり、数代続いた成田氏は改易された。 次に松下重綱が入るが、4年後に転封。堀親良が入り、45年後の次代堀親昌の時に転封。代わって寛文12年(1672年)に幕閣の重鎮であった板倉重矩が入封し、城下町の改良を始めるが翌年に死去。次代の板倉重種が事業を継続するが、計9年後の延宝9年(1681年)に転封。 代わって下野国那須藩から入ったのが那須資弥。90年ぶりに那須氏が城主に復帰した。ただし彼は那須氏の血縁ではなく、徳川4代将軍徳川家綱の生母宝樹院の弟、すなわち将軍の叔父にあたる事から取り立てられ、名族の那須家に養子に入れられた、出世の人である。しかし6年後の貞享4年(1687年)、養子の那須資徳の時、お家騒動(「烏山騒動」)で改易された。あとに永井直敬が入るが15年後に転封、稲垣重富が入り、15年後の次代の稲垣昭賢の時に転封、と、藩主家の交代が繰り返された。 享保10年(1725年)、大久保常春の入封後はもう転封は起こらず、大久保氏が代々城主を務めた。 明治2年(1869年)、版籍奉還と共に廃城となった。明治5年(1872年)には、積雪によって三ノ丸御殿が倒壊、明治6年(1873年)には、失火によって、古本丸、二ノ丸、中城、北城の建物を焼失した。
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歴史・沿革
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1836年 - 天保の飢饉がピークを迎える。戸河内村の当時の人口約5,000人のうち約1,300人(約28%)が死亡。 1889年4月1日 - 市町村制施行。当時の町域にはいずれも山県郡に属する上殿村と戸河内村が存在した。 1933年8月1日 - 戸河内村が町制施行して戸河内町(初代)が成立する。 1956年9月1日 - 戸河内町(初代)と上殿村が対等合併して戸河内町(2代)が成立する。 2004年10月1日 - 加計・戸河内両町および筒賀村が対等合併して安芸太田町に移行し、消滅する。
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歴史・沿革
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戦国期には三戸南部氏の支配下にあり、中市館には中市氏が居たという。 中市氏は、小笠原常西を祖とする櫛引兵庫の次男・武常が中市村を領し、在名により氏とした。 天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「中市 平城 破 小笠原 弥九郎 持分」とあり城は破却された。
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歴史・沿革
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結城合戦で敗れた結城持朝の息子の持光(後の富岡主税介直光)が、後に足利成氏から邑楽郡に所領を与えられて延徳元年(1489年)に築城した富岡城が後に小泉城と呼ばれるようになったと言われている。 その後、富岡一族は古河公方や上杉謙信、後北条氏などの勢力下で活躍し、富岡氏から小泉氏が分かれる。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の関東攻めの際、家臣浅野長政らに攻められて落城し、廃城になった。なお、残っている外堀と内堀の間には「庚申」と彫られた楕円形の石柱を数十基以上見ることができるが、これは庚申信仰が盛んだった江戸時代のものと考えられている。 現在では、残っている内堀・外堀ともに、堀はすべて護岸工事されている。「庚申」と彫られた楕円形の石柱が多数存在するのは、忠霊塔の西側である。内堀の東側には公園が配置されており、城之内公園と呼ばれている。 また、城内には、古墳時代の古墳(城之内古墳)が移築復元されており、城跡はこの古墳を含めて「小泉城跡(富岡城跡)附、城之内古墳(復元)」の名称で大泉町指定史跡に指定されている。
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歴史・沿革
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1960年代から1970年代にかけて、欧米においては大量生産では採算の取れないマイナーな物をバキュームフォームキットとして生産・販売するメーカーが存在した。高額な金型が必要となる射出成型と比較し、家庭用の掃除機でも製作が可能なバキュームフォームは少数生産に向いた製法であった。また、ペーパークラフトをプラスチック板に転写したものも一般的であった。模型市場が拡大してくると、大手模型メーカーによって生産・販売される製品に対して不満を感じはじめた愛好者により、個人で製作したガレージキットが生産されるようになってきた。 日本においては、射出成型技術がある程度普及・成熟してからプラモデルが登場したため、中小の模型メーカー製品であっても射出成型キットが一般的であった。日本におけるガレージキットは「キャラクターモデル」に端を発している。1970年代以前では、玩具メーカーによって子供向けに作られる「おもちゃ」しかキャラクター造形物が無かった。後年になり当時の映像作品を見て成長した世代の一部の愛好者・モデラーが、劇中のイメージを忠実に再現したいわゆる鑑賞に耐える模型を欲するようになったものの、市販品がない、という理想と現実の乖離を埋めようとして自主製作を始めた。当初は素材や製作ノウハウもなく、製作方法もバキュームフォームなど一部の方法に限られていたため、製品も大まかな形だけを成型したものが多く、精密さや再現度は組み立てるモデラーの技術に大きく依存していた。また細かな部品は「メタルキャスト」といった技術が使われており、異なる素材の接着など完成させるにはかなりの技術を要した。 「ホビージャパン」誌1979年8月号において歯科用レジンを用いて製作された、FFG 製 1/35 スケールの「ロビー・ザ・ロボット」が発表されたのが日本における個人製作ガレージキットの走りとされる。 1970年代末、土筆レジンクラフト研究所の「レジン」やニッシリの「プラキャスト」などの、二液混合型の無発泡ウレタン樹脂が一般向けに発売され、これらを用いて油粘土やシリコーンゴムを使って型取りした既成の部品や絶版の模型キットなどを複製する事が一部のモデラーにより行われるようになった。その方法や技術が徐々に模型誌上で紹介され始め、この技術の延長として、既成の模型キットや満足の行く造形物が存在しないアイテム、特にSF 作品などに登場するキャラクターやメカニックのアイテムを全自作 (スクラッチビルド) した者達が、同じような立体物を欲している人たちのために、自分たちの作ったモデルを複製して頒布するようになった。日本SF大会などのイベントにおいて、ディーラーズルームの片隅で同人誌などと並んで売られはじめた。 無発泡ウレタン樹脂は接着が難しいなどの難点はあったものの、表面のディテールや細かなモールドも再現可能であったため、完全な自作の原型を無発泡ウレタン樹脂で複製したガレージキットが登場するにいたった。 こうした動きの中で1980年代初頭には大阪の海洋堂やボークスなどの模型店が、怪獣や特撮メカニックの無発泡ウレタン樹脂製キットを自社商品として販売しはじめた。時期を同じくして大阪でゼネラルプロダクツ (現ガイナックス) が創業し、独自に製作したT シャツやマグカップなどのSF 関連商品とともにレジンキャストやバキュームフォーム、ホワイトメタル製のガレージキットを数多く販売しはじめた。 こうして、限られた同好の士のためだけに分け与えるアマチュアの行為という形で誕生したガレージキットは次第に本来の意味を飛び出し、模型店や中小模型メーカーによって、大手模型メーカーの出さない市場性が低いとされるアイテムを自社商品として流通させる商業量産品としての性格も併せ持つようになって行く。さらにその流れと歩調を合わせるように、かつては扱いにくく、満足な複製品を作るのが難しかった素材もメーカーの努力により技術開発が急速に進化して行き、成型技術の発達とあいまってキット製作者は原型のままに近い質の高い成型品が提供できるようになって行った。 1985年には、ゼネラルプロダクツによってガレージキットの頒布会として「ワンダーフェスティバル」 (ワンフェス) が開催されるようになり、愛好者の間で自作ガレージキットの取引が盛んに行われるようになった。その後は市場も拡大し、少量多品種のガレージキットを専門に製造するメーカーも登場した。また、大手模型メーカーが大量生産・大量販売をするほどの市場性がないと判断した場合に、ガレージキットと同様の生産手法で生産される事も始まった。従って、なにをもってガレージキットと呼ぶのかという定義はかなり曖昧なものとなりつつある。
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歴史・沿革
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1947年にロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、そしてデヴィッド・シーモアの四人の写真家たちによって結成された。その後も多くの写真家が所属し、現在も活動中である。日本人としては、濱谷浩(寄稿写真家)と久保田博二が参加。 なお、創立者として、上記4人に加えて、ウィリアム・ヴァンディバート(英語版)、リタ・ヴァンディヴァート、マリア・アイスナー(英語版)の3人のうちの全部または一部を挙げる考え方もある(各種文献によりとらえ方が異なる)。例えば、英語の公式ページでは、マリア・アイスナーとリタ・ヴァンディヴァートを「co-founder(共同創立者)」とし、東京支社の公式ページでは、具体的な名前は挙がっていないが、4人以外の創立者の存在を示す記述がある。
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歴史・沿革
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12世紀半ば - 足利氏の祖・源義康が同地に居館(足利氏館)を構える。 1196年(建久7年) - 足利義兼(戒名:鑁阿)が理真を招聘し、自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立。 1234年(文暦元年) - 足利義氏が伽藍を整備、足利氏の氏寺となる。 南北朝時代 - 鶴岡八幡宮の支配下となる。 1908年(明治41年) - 鑁阿寺本堂が古社寺保存法に基づく特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定される。 1922年(大正11年)3月8日 - 「足利氏宅跡」として国の史跡に指定される。 1950年(昭和25年) - 文化財保護法の制定により、本堂は重要文化財となる。 1951年(昭和26年) - 真言宗豊山派から大日派として独立。 2006年(平成18年)4月6日 - 「足利氏館」として日本100名城(15番)に選定される。 2013年(平成25年) - 本堂が国宝に指定される。
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歴史・沿革
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「東京都立玉川高等学校」の記事における「歴史・沿革」の解説
1955年 - 開校 1969年 - 学生運動が活発になり、学生の一部により教室が占拠、封鎖が行われた。 1978年 - 新校舎に移転 1995年 - 標準服導入 1999年 - 入学選抜方法の改善実施 2001年 - 入試改革実施(前後期分割募集・男女定員制緩和・他学区枠緩和・面接の導入) 2004年 - 創立50周年 2008年 - 閉校(3月1日)
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歴史・沿革
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2008年 - 創業者兼現社長である金本茂が、Arduinoを個人的に輸入した所から始まる。 2008年5月18日 - ECサイト「スイッチサイエンス」オープン 2008年9月10日 - 東京都千代田区二番町のマンションの一室に事務所移設 2008年11月8日 - Make: Tokyo Meeting 02にスポンサーとして初出展、ブースで出張販売 スイッチサイエンスは以後のMake: Tokyo Meeting 02~07、2012年から2021年現在までのMaker Faire Tokyoに毎年スポンサーとしてブースを出展している。 2009年6月10日 - 東京都千代田区麹町のマンションの一室に事務所移設 2010年1月22日 - 株式会社パニーニ計画からスイッチサイエンス事業を会社分割手法により分離し、100%子会社株式会社スイッチサイエンスを設立 2010年3月6日 - 3331 Arts Chiyodaに事務所移設 2010年5月9日 - 「はんだづけカフェ」オープン 2010年6月 - 販売受託プログラム(後のスイッチサイエンスマーケットプレイス)開始 2013年12月24日 - 東京都新宿区箪笥町35番地に本社移転 2014年9月15日 - 神楽坂オフィス公開イベント「オープンハウス」第1回開催 オープンハウスは、2016年6月4日の第4回まで行われた。(2021年8月現在) 2015年10月30日 - スイッチサイエンスPCBサービス開始 2016年1月15日 - ハッカソン向けサービス「スイッチサイエンスエイドステーション」を開始 2016年10月10日 - 「はんだづけカフェ」閉店 2017年5月2日 - 広報担当社員であった小室真紀がグループ企業スイッチエデュケーションの代表取締役に就任 2019年1月 - 九頭龍雄一郎がスイッチサイエンスの親会社(当時)株式会社144Labの役員に就任 2019年5月 - 菊池仁が親会社(当時)株式会社144Labの役員に就任 2019年5月31日 - スイッチサイエンスPCBサービス休止 2019年11月5日 - 個性的な海外製品を試験販売するプログラム「SSX(Switch Science eXperiment)」を開始 2020年11月 - プログラミング学習を始める子供向けウェブショップ「LABO KIDS(ラボキッズ)」を新設 2021年4月1日 - スイッチサイエンスは親会社株式会社144Labから、STEM教材事業、IoT開発協力事業を取得。株式会社スイッチエデュケーションを子会社とする 2022年6月30日 - Switch Science International Store閉鎖
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歴史・沿革
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1951年3月15日 - 三木町に編入する。 1954年6月1日 - 別所村・細川村・口吉川村と合併し、三木市が誕生する。
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歴史・沿革
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2006年(平成18年)12月2日で創立131周年を迎える警視庁管内でも日本全国でも指折りの長い歴史ある警察署であり、東京水上警察署とともに日本の近代警察制度草創期から存在する。 1874年(明治7年)1月15日に東京警視庁が設立され、1875年(明治8年)12月2日、警視庁第5方面第4署が田原町二丁目22番地に設けられ警察署としての形態を整え、ここに浅草警察署の前身が誕生。 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲により、当署の庁舎が被害を受け一時的に仮庁舎に移転。 1948年(昭和23年)1月8日 署内の留置場から5人が脱走。風呂場の鉄柵をヤスリで削って切断して逃げたもの。 1979年(昭和54年)6月9日 山谷地区交番(現存しない)で立ち番をしていた警察官が男に包丁で刺殺される。 1980年(昭和55年)3月末に同所に鉄筋コンクリート造り、地上6階、地下1階の庁舎が完成。
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歴史・沿革
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南部氏が建久2年(1191年)の糠部入部の際、三戸相内の観音堂で年を越えたが手狭な相内館に長くとどまらず、翌、建久3年(1192年)、初代南部三郎光行により築城し移って政庁が置かれた。
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歴史・沿革
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「東京都立文京高等学校」の記事における「歴史・沿革」の解説
1940年4月18日 - 第三東京市立中学校として設立。校地は現在地(真宗中学→養育院巣鴨分院の跡地)。 1943年 - 都制実施により、東京都立豊島中学校となる。 1945年 - 2度の空襲により校舎全焼。一時は都立九中(現在の東京都立北園高等学校)に移転。仮設校舎や小石川区関口台町小学校に生徒の一部を収容した。 1946年 - 本郷区(1947年より文京区)の元町小学校に移転、全校生徒が合流。なお、元町小にはほかに文京四中も同居した。 1948年 - 学制改革により、東京都立文京新制高等学校となる。 1950年 - 男女共学開始。 1950年 - 東京都立文京高等学校と改称。 1952年 - 学区合同選抜制度導入。 1953年 - 豊島区西巣鴨の旧校地(現在地)に移転。 1967年 - 学校群制度実施。同校は向丘・赤城台と共に92群(第二・第四学区から志願可)に属す。尚、当初は小石川高校と組む予定であった。 1969年 - 学生運動が活発になり、学生の一部により教室を占拠、封鎖が行われた 1982年 - 学校群制度が廃止され、グループ合同選抜制度に移行。41グループに所属する。 1987年- 校舎の老朽化に伴い、改築工事が決定。 1989年 - 新校舎第一期工事完了、新校舎の併用開始。 1993年 - 校庭等の第二期工事完了。 1994年 - 単独選抜に移行。 2008年3月 - 定時制閉課。
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歴史・沿革
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鎌倉時代に片倉城に在城していた高乗寺開祖の長井氏によって築城されたとも伝わるが、諸説ある。『新編武蔵風土記稿』によれば、鎌倉幕府初期の御家人で武蔵七党の横山党の一族・椚田氏の居城と推測されている。 長井氏は鎌倉幕府初期の重臣・大江広元を祖先に持ち、横山党が1213年(建暦3年)和田合戦で滅亡すると、同地は大江氏に与えられた。長井氏は扇谷上杉氏の傘下となる。1504年(永正元年)、扇谷上杉軍が山内上杉軍を破った立河原の戦いの際、落城した扇谷上杉方の椚田塁に比定される。後北条時代、八王子城の出城の一つとされ、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による八王子城攻めで、落城とともに初沢城も落城、廃城となった。 現在はハイキングコースとして整備され、東京都の指定史跡である。
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歴史・沿革
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八王子城(1587年(天正15年)頃築城)とほぼ同時期に、八王子城主・北条氏照の家臣である小田野源太左衛門が築城したと伝えられる。「武蔵名所図会」では小田野氏の居館跡であるという。1978年(昭和53年)に八王子市教育委員会の実施した「深沢遺跡及び小田野城遺跡予備調査」でその実在が確認された。1590年(天正18年)の八王子城攻撃の直前、小田野城は上杉景勝の軍勢と大激戦の末、攻め落とされたとも伝わる。その後、小田野源太左衛門は小田源左衛門と改姓して水戸徳川家に仕官した。1983年(昭和58年)八王子城の一部として国の指定史跡となる。
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歴史・沿革
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平安時代中期以降、武蔵七党の一つ、横山党の領地となった。 建保元年(1213年)、和田合戦により大江広元の領地となった。 室町時代、大江広元を祖先に持つ大江備中守師親あるいは長井時広が在城(築城)したと言われているが、諸説ある。 長井氏以降の片倉城に関しては詳らかでないが、その堅固な構造から、後北条氏の領地になってからも砦として戦国時代後期まで使用されたと考えられる。 永禄12年1569年、三増峠の戦いで北条氏照と北条氏邦が片倉城より出陣した。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の八王子城落城時に落城とされる。 昭和46年(1971年)、八王子市により片倉城跡公園として整備される。 平成11年(1999年)、東京都指定史跡となる。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:52 UTC 版)
築城年代は不明であるが、陸奥国稗貫郡十二丁目村に所在し、永禄(1558年-1570年)の頃に居住した稗貫氏の家臣伊藤氏が十二丁目氏を名乗った。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置によって稗貫氏とともに十二丁目氏も滅亡し、当城は仕置に際して、浅野弾正長政の一族が駐留したと伝えられる。 天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「十二丁目 平城 破 寺前縫殿助 持分」とあり、文禄元年(1592年)に城は破却された。慶長5年(1600年)、和賀・稗貫一揆では、和賀勢が立て籠り、南部勢の北十左衛門らに攻撃されている。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:48 UTC 版)
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 02:42 UTC 版)
天文年間、千葉親胤の命により、鹿島親幹が築城。千葉邦胤が改修を試みるも、邦胤自身の暗殺により中断。 1610年(慶長15年) - 土井利勝が普請を開始。 1813年(文化10年) - 盗賊の失火により天守焼失。 1873年(明治6年) - 第一軍管東京鎮台佐倉分管が置かれ、存城処分とされ、兵営設置のため旧城の建物を払い下げ、撤去する。 1884年(明治17年) - 宇都宮から歩兵第2連隊本部が転営してくる。 1908年(明治41年)4月 - 歩兵第2連隊本部が佐倉から水戸へ転営。 1909年(明治42年)3月 - 歩兵第57連隊が習志野から転営してくる。 1962年(昭和37年) - 市の史跡に指定。 1981年(昭和56年)4月14日 - 椎木曲輪跡に国立歴史民俗博物館が開館。 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(20番)に選定された。 2015年(平成27年)6月30日 - 佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)が城郭風建物に改装され、内部の展示が変更される。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 09:47 UTC 版)
天文6年(1537年)に尾張国侵攻のため斎藤道三の命令で近辺の14諸将の協力を得て猶子の斎藤正義が築城し、烏峰城と名付けられた。しかし正義は天文17年(1548年)に近隣の久々利城主土岐悪五郎に久々利城へ招待された際に討たれ、城主が一時不在となった。 その後織田信長が美濃国を領地としたことにともない、永禄8年(1565年)に家臣の森可成が城主となり兼山城と改称した。 元亀元年(1570年)に近江宇佐山城の戦いで可成が戦死し、その直前に長男の可隆も天筒山城で討ち死にしたため、次男の長可が跡を継ぎ城主となった。 天正10年(1582年)長可が信濃国川中島に転封されると弟の森成利が入るが成利は同年中に本能寺の変により討死し、また長可も情勢不安の川中島を捨てて戻って来たため、再び長可の領地となる。天正12年(1584年)に長可が小牧・長久手の戦いで戦死すると、可成の六男の忠政が城主となる。 慶長5年(1600年)に森氏が川中島藩に転封されると城は石川貞清の所有となり、建物は解体され石川氏の居城である犬山城の改修に使われたという。 兼山城の天守が犬山城の天守として移築されたという伝承があったが、1961年(昭和36年)の犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。 2006年(平成18年)可児市が約5年かけて兼山城の発掘調査を行った。当時の茶碗や瓦等の多くの遺物が出土した。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(143番)に選定された。
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歴史・沿革
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(日本 > 大阪府 > 中河内郡 > 曙川村) 河内国若江郡の最南端に位置し、八尾木村、東弓削村、都塚村、刑部村、柏村新田村、中田村の各村があった。旧大和川(現在の長瀬川と玉串川)分岐点(二俣)の北側に位置し、稲作を中心とした農業が盛んであった。しかしたびたび水害にも悩まされてきた地域でもある。 古墳時代初めごろには既に当地にて生活が営まれていたことがわかっており、「中田遺跡」として発掘・確認されている。 奈良時代後期に高僧道鏡が当地に西京(由義宮)を造築したが、彼の失脚とともに忘れ去られてしまい、現在でも遺構は発見されていない。 1889年4月1日の市町村制施行に伴い、上記各村は「曙川村」に再編される。なお、曙川とは、この地を流れる川(下流では「楠根川」と呼ばれる)の名称であり、それにちなんで名付けられた。1896年に中河内郡の村となる。 1955年4月3日に八尾市に合併し、中河内郡を離脱。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:01 UTC 版)
戦後、いわゆる労働三法が制定され、労働者の権利が法的権利となった。さらに経済成長と相まって、急速に労使間の対立やストライキが頻発した。また、特に1960年代における日本経済の急激な成長により、税収や企業からの社会保険料が増加し、厚生年金・健康保険・労災保険・雇用保険も発展した。しかし、補償額の高度化・制度の複雑化に伴い、煩雑な社会保険の仕組みと申請・給付に係る事務手続により中小企業等では対応が困難となった。これらに対応する専門家の必要性から、人事・労務・総務部門の業務を行う職業が発生した。 当初、これらの請負業務を合法的に行いうる有資格者は行政書士であったが、狭義の総務を除く人事・労務分野のより専門的な知識を持った人材が必要とされた。そこで1968年、社会保険労務士法が議員立法により制定された。制度発足時の経過措置として、引き続き6ヵ月以上行政書士会に入会している行政書士は試験なく特認として社会保険労務士資格を取得し、およそ9,000名が社会保険労務士となった。2007年4月の司法制度改革で、裁判外紛争解決手続制度の代理権が認められた。 1968年 - 社会保険労務士法(昭和43年法律第89号)制定 1980年 - 行政書士法改正により、行政書士と社会保険労務士との業務を完全に分離 1986年 - 書類作成基礎事項表示権・他人作成書類審査権付与 1998年 - 審査請求代理権付与 2000年 - 社会保険労務士試験事務を連合会へ委嘱 2003年 - 社会保険労務士法人発足、ADRあっせん代理権付与、(開業社会保険労務士の)労働争議不介入条項(旧社会保険労務士法第23条)の削除 2007年 - 裁判外紛争解決手続制度の代理権付与、特定社会保険労務士制度発足 2016年 - 裁判所における補佐人としての陳述権付与
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/19 06:35 UTC 版)
足柄城は大森氏により築かれたとみられ、その後天文5年(1536年)頃に北条氏綱により改修された見られるが、正確なところはわかっていない。天文24年(1555年)に北条氏康がこの城に改修をおこなったとされ、これは氏康が三田郷(神奈川県厚木市)の百姓に足柄城普請の人足を出させることを命じた記録からわかっている。 永禄11年(1568年)に甲相駿三国同盟が武田信玄の駿河侵攻により破棄されると、この城の防衛上の重要性が増したことから、永禄12年から元亀2年(1569年~1571年)にかけて、大幅な改修を行っている。 武田氏滅亡後は、豊臣秀吉と対峙するようになり、天正15年(1587年)には北条氏光を城番とし大規模な改修を施し、天正18年(1590年)に小田原征伐が勃発すると、北条氏光をこの城の守将として配置した。氏光は山中城(静岡県三島市)が落城するを聞くと小田原城に退却し、残された守備隊は豊臣方の井伊直政の攻撃をうけ、本格的な戦闘が行われること無く、この城は落城している。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 13:57 UTC 版)
閉伊一族の田鎖氏(多久佐利氏)を名乗るようになったされる南北朝期の永和年間(1375年-1379年)といわれ、中根城から移ってきて居城となった。 室町・戦国期の閉伊一族・家臣は閉伊川沿岸地域に分散して、閉伊源氏と称され、室町末期にその一族の本宗と称するのは田鎖城に在城しているが、その本末は判明しない。 閉伊氏の後流と称するものには、田鎖・刈屋・和井内・茂市・長沢・花輪・高浜・箱石・ 根市・中村・赤前・重茂・大沢・蟇目・田代・山崎・荒川・近内・小山田・江刈内・今岸・箱石・大川等の諸氏があり、それぞれ閉伊郡内の地名を名字とするものが多く、一族的な結束を保ち田鎖党・田鎖十三家などと称されていたが、南部氏の圧力が次第に強まり、その傘下に属するに至った。 天正19年(1591年)、九戸政実の乱のときに桜庭安房の説得にもかかわらず、対岸の千徳氏などと共にいずれの味方もせずに静観の態度をとり続けたが、朝鮮の役で千徳氏などと九州名護屋へ出陣の留守の間に南部氏によって田鎖城は千徳城とともに取り壊され、天正20年(1592年)の「諸城破却令」書上には「田鎖 山城破 佐々木十郎左衛門 持分 唐之供 留守兵庫」とのみ記されている。
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歴史・沿革
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文治5年(1189年)あるいは建保年間(1213~19年)には阿曽沼広綱の次男親綱が護摩堂山に創建したと伝えられている。築城年代は不明である。 全面を流れている猿ヶ石川がたびたび洪水を起こし、対岸に居住する諸士の往来の被害を避けるため鍋倉山に新城を築いて移り、天正年間(1573年-1593年)に放棄されるまでの数百年、遠野地区の政治的中心であった。 護摩堂城が鍋倉山に移ったさい、鍋倉城、あるいは旧居城の名前を受けて横田城とも呼ばれた。 詳細は「鍋倉城」を参照
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歴史・沿革
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築城年代は不明。室町~戦国期の遠野阿曽沼氏の一族鱒沢氏の本拠。かつての陸奥国閉伊郡上鱒沢村に所在する。 城跡は、猿ヶ石川の流域で、長泉寺裏から伸びた笠通山の尾根筋端部にあり、斜面を7-8段の階段状の平坦地で重ね、その周囲を空堀で囲む山城である。 「阿曽沼氏略系」によると、遠野横田城城主阿曽沼光綱の次男(鱒沢)守綱が遠野保のうち鱒沢と小友村の半分を領知し、上町に館を築いたことに始まるといわれ、鱒沢は遠野と北上川流域、または三陸と結ぶ交通の要所であり、三男守儀も隣郷綾織の宇夫方氏を継いでおり、一族を五輪峠を挟んだ江刺と遠野とを結ぶ要衝の地に配した。 天正18年(1590年)、小田原不参によって阿曽沼氏は領主権を没収され南部氏配下となったが、天正20年(1592年)、「諸城破却書上」には「閉伊郡之内 増沢 山城 浅沼忠次郎 持分」とあり、破却は免れた。 慶長5年(1600年)、鱒沢佐馬助広勝らは南部氏と結んで、阿曽沼一族内訌によって主家阿曽沼広長に叛逆し、気仙方向に追放したが、広勝は遠野奪還を企てて来攻した阿曽沼広長の軍勢との戦いで討死した。 南部家の家臣として遠野の所領を安堵された鱒沢氏だったが、鱒沢広勝の子・忠右衛門が謀反の疑いによって誅殺されて滅んだ。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 03:24 UTC 版)
1883年、プラハのドイツ系住民がドイツ語の上演を求めて結成したドイツ劇場組合(Deutsche Theaterverein)により、1888年、歴史主義建築様式の劇場、新ドイツ劇場(Neues Deutsches Theater)が創立された。 初めの芸術監督ノイマン(Angelo Neumann)の後任にツェムリンスキーが、1925年から1929年の間には、後のウィリアム・スタインバーグ、ハンス=ヴィルヘルム・シュタインベルクが、後任としてジョージ・セル(音楽監督も兼任)もこの職に就き、それぞれがこの劇場で活躍した。歴代の楽長及び音楽監督には、グスタフ・マーラー、カール・ムック、レオ・ブレッヒ、オットー・クレンペラー、ジョージ・セルなど錚々たる顔ぶれが並ぶ。なお、建物としてではなく、当時の関係者の所属先として劇場を指す場合は、新が取れてドイツ劇場、プラハ・ドイツ劇場、または歌劇場と表記されるのが一般的である。 1938年9月25日、組合が撤退、この建物はチェコスロバキア国の所有となる。しかし1939年3月15日のドイツ軍のチェコスロバキアの占領、翌16日のヒトラーの布告によりプラハは保護領(ベーメン・メーレン保護領)となった。ドイツ・オペラハウス(Deutsches Opernhaus)と名付けられ、ナチ党の催しや国(ライヒ)の団体が客演した。 プラハ蜂起(英語版)を記念した催しで演劇団体が上演-1945年5月5日『5月5日の劇場』。1947年から48年には劇場にオペラが戻る。1948年、『5月5日の大歌劇場』と名付けられ、この劇場は国民劇場の傘下となる。1949年に『スメタナ劇場』と改名し、1992年に現在の『プラハ国立歌劇場』となった。 2017年から2019年にかけて行われた改装工事は、1888年のオープン当時の姿に近づけことに主眼を置きつつも、約1000席の座席にタッチスクリーンを設置するという近代化も行われた。1945年に失われた18m*11mのオリジナル緞帳も写真を基に再制作された。
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歴史・沿革
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チンギス・カンが大西征の兵站基地をこの地に造営し、第2代カアンであるオゴデイが1235年に宮殿・城壁を築いてモンゴル帝国の首都に定めた。オゴデイの時代にジャムチ(駅伝制)が整備され、モンゴル帝国各地との結びつきが強められた。 第5代カアンであるクビライが首都を大都(現在の中華人民共和国北京)に定めた後もモンゴル本土の拠点都市として重んじられる。明を建国した朱元璋による北伐を受け、モンゴル族が北方に追われた後は北元の首都となった。 16世紀末、チベット仏教の寺院エルデネ・ゾー建設の資材調達のためカラコルムは荒廃した。その後、しばらく歴史上から姿を消すが、19世紀末にロシアの研究者ニコライ・ヤドリンツェフが遺跡を発見し、最初の発掘調査は1933年から1934年までソビエト連邦とモンゴル人民共和国が合同で行うも調査隊長のドミトリー・ブキニチが宮殿の存在に懐疑的な結果となったが、1948年から1949年にかけてソ連の考古学者セルゲイ・キセリョフらがモンゴルと合同で行った本格的な調査では宮殿の存在が結論され、同年にキセリョフはその業績からスターリン賞を受賞して1953年にはソ連科学アカデミー会員となった。その後は1976年から1985年までモンゴル科学アカデミー歴史研究所が調査を行い、モンゴルの民主化後は1995年からは日本や1999年からはドイツなどがモンゴルとの共同調査を行っている。
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歴史・沿革
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1973年 - 株式会社ツクダがオセロを発売。累計2千万個販売。 1974年 - ツクダが製造部門を独立させ、株式会社ツクダオリジナルを設立。創業者は佃光雄、資本金500万円。 1977年 - オセロ世界大会を開催。 1978年 - スライムが大ヒットする。累計1200万個販売。 1980年 - 世界でヒットしたルービックキューブを発売。累計800万個販売。 1981年 - 東京都台東区のツクダグループビル内に「日本玩具資料館」を開設。2004年に閉館。 1983年 - セガのSC・SGシリーズ互換機「オセロマルチビジョン」を発売。 1991年 - 「ファーストママ」シリーズ、「エアーウォーターガン」シリーズを発売。 2001年 - 二足歩行ロボット「PINO」、ワンダーシャボンを発売。 2002年7月16日 - ツクダの経営不振を受け、株式会社バンダイの完全子会社になる。 ツクダは2003年4月3日、民事再生手続開始を申し立て倒産。会社は後に清算された。 2003年3月31日 - 玩具メーカーの株式会社ワクイコーポレーション(※なお、同社の創業者、和久井威は当社出身)からの営業譲渡を受け、株式会社パルボックスに改称。 (以後の歴史は「パルボックス」及び「メガハウス」の記事を参照のこと)
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 14:11 UTC 版)
「屯田 (札幌市北区)」の記事における「歴史・沿革」の解説
1889年(明治22年) 屯田兵とその家族(220戸・1056人)の入植によって開拓の鍬が下ろされる。札幌郡篠路村に属す 1890年(明治23年) 公立長永簡易小学校(現在の札幌市立屯田小学校)が開校。 1898年(明治31年) 大洪水により村の大半が水没。その後も水害・凶作が続き、離農者が相次ぐ 1906年(明治39年) 札幌郡琴似村の大字屯田村となる 1915年(大正4年) 造田計画を実施。事業は成功し、水田地帯として発展する。 1922年(大正11年) 屯田防風林ができる 1942年(昭和17年) 琴似村が琴似町となり、翌年同町の字となる 1955年(昭和30年) 琴似町が札幌市に合併され、札幌市屯田町となる 1969年(昭和44年) 北海道住宅供給公社よって屯田団地が造成される。 1970年(昭和45年) 水田の減反政策が実施。小麦などの畑作へ転換。 1972年(昭和47年) 札幌市が政令指定都市となり、北区屯田町となる。北海道立札幌北陵高等学校が開校。 1980年(昭和55年) 札幌市立屯田南小学校が開校。 1981年(昭和56年) 札幌市立屯田中央中学校が開校。 1983年(昭和58年) 札幌市による屯田土地区画整理事業がスタート。以降、急速に市街化が進む。 1995年(平成7年) 札幌市立屯田西小学校が開校。 2004年(平成16年) 屯田の急速な人口の増加に伴い、屯田小学校の児童数が札幌一となる。 2005年(平成17年) 札幌市立屯田北小学校と札幌市立屯田北中学校が開校。屯田北小・中の開校に伴い、屯田北児童会館(愛称:屯珍館)開館。子どもたちの意見を取り入れた開館として注目される。 2007年(平成19年) 北海道有朋高等学校が中央区から屯田新校舎に移転。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 14:16 UTC 版)
この城の起源は明らかではないが、天仁2年(1109年)に藤原通延(藤原秀郷の四世)が、下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりであるという。 新羅三郎義光の孫・源昌義が、後三年の役(1051年から1062年)の功により領有することになった地名をとって「佐竹氏」を称した。二代佐竹隆義は当時の太田城主藤原通盛(通延の孫)を服属させたのち、通盛を小野台地(瑞竜中学校周辺)に移して「小野崎氏」を名乗らせ、自らが太田城に入った。入城の日、太田城の上空を鶴が舞いながら飛んだので「舞鶴城」と名づけたと伝わる。 以降、佐竹氏代々の居城であったが、戦国最末期の当主佐竹義宣が水戸城に本拠を移した。 その後、江戸幕府(徳川家康)の一国一城令により廃城となったが、城の機能は一部残され「太田御殿」と呼ばれ、水戸藩の附家老の中山氏が管理することとなった。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 00:50 UTC 版)
「ニイガタ」の地名は永禄年間の史料に見られ、この当時すでに町があったことが窺える。上杉謙信は信濃川と阿賀野川の合流地点である沼垂湊・蒲原津・新潟津の三か津に代官を置いて物流と軍事を掌握したといわれている。 謙信が春日山城で死去(1578年)した後に始まった御館の乱での論功行賞の不満から、新発田重家の乱が勃発(1581年)。新発田軍勢は新潟津を奪取、このとき砂州を改修して同年に築城したといわれている。 重家の乱を鎮圧するためとして天正11年(1583年)に出陣した上杉景勝の軍勢は火矢により城を炎上させるも落城せず持ちこたえた。しかし天正13年(1585年)11月20日、上杉景勝家臣の宮島三河守の計略によって落城した。 現在遺構は見つかっていないものの、岡山大学の『池田家文庫』に絵図が残されている。それに従えば、河川に接した縄張りを城壁で囲み、3層の楼閣2棟・平屋の屋敷2棟・水辺の3層の櫓1棟を備えていたことになる。舟岡城ともいう、その所在は白山神社および白山公園にあったと比定されているが確かではない。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 22:34 UTC 版)
設立母体は、1696年フランスで誕生したシャルトル聖パウロ修道女会である。同会は現在総本部をローマに移し、5大陸34カ国にて、キリスト教精神に基づく奉仕と教育、福祉事業を展開している。日本においては1878年、3人のフランス人修道女が函館の地にて活動を始め、3年後には東京に学校が新設された。これが白百合学園のはじまりである。 仙台では、1893年(明治26年)に仙台女学校を開校し、1907年には文部省所管の仙台高等女学校となった。その後、仙台白百合学園と改称し、仙台市青葉区本町にて幼稚園から高等学校までの教育事業を展開した。仙台白百合学園(幼稚園・小学校・中学校・高校)は1998年に仙台市泉区紫山に移転した。旧学園跡地は現在エナジースクエアとなっている。 1966年になって現在の仙台市泉区本田町に仙台白百合短期大学を創立、これが母体となって1996年仙台白百合女子大学が開学して現在に至る(短期大学は2003年4月に廃止)。2016年に創立50周年を迎える。 哲学者で文化功労者の岩田靖夫は、仙台白百合女子大学名誉教授。2015年歿。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/04/15 15:50 UTC 版)
1999年2月に「第1回ドールズパーティin 99」が東京にて開催された。その後は、毎年5月のゴールデンウィーク連休中と12月の年2回を東京で、3月には京都で開催される。 東京では、第4回までは池袋のサンシャインシティで開催されたが、収容人数が足りなくなり、第5回以降は東京ビッグサイトで開催されている。京都では、みやこめっせ、または京都府総合見本市会館 (パルスプラザ) で開催されている。イベント開催ごとにボークスがスーパードルフィーなどのドールおよびドール用品の限定品発売を行うことがあり、参加者は年々増加している。 また、不定期に名古屋、大阪、福岡でも開催され、「ホームタウンドルパ」として地元のドールファンの人気を呼んでいる。東京でも規模の小さな「ホームタウンドルパ東京」が開催されたことがある。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 01:40 UTC 版)
天塩川河口は、サロベツ原野にかけて長く発達した砂嘴(浜堤)によって形成された天然の防波堤(この部分は幌延町に属する)により非常に良港であったこと、海山の豊富な天然資源に恵まれていたことから、古くからアイヌ人等によってコタン(集落)が築かれ、泊地及び交易の要衝地となった。江戸時代初期に和人(松前藩)が進出してくると、アイヌ人と和人との交易地となり、後に和人によってテシホ場所(番所)が置かれた。 明治期には北方警護を兼ねた農業地開拓事業が実施され、東北・北陸地方などから多くの開拓民が入植した。また、天塩川の流域の森林や、開拓地から切り出して舟運等によって運搬された木材等の集積地となり、材木問屋の支店が居並び木材産業が栄え、江戸期以来伝統のニシン、サケマスなどの漁業を営む者、海運業者・各種商工業者が進出し人口が増加、郡役場、警察、営林署などの各行政施設も置かれ、道北における中核都市の一つとして大いに栄えた。 大正期に入り、現・宗谷本線が敷設されると、舟運による木材の集積地としての役目を終えることになり、また、開拓が進み森林資源が減少したことと、海外の値段の安い輸入木材の需要増加によって林業は次第に衰退していくことになった。 昭和期になり、町民悲願の鉄道が1935年(昭和10年)に開通。鉄道の開通は天塩の文化水準・町勢向上に寄与することになったが、戦争勃発により青壮年世代が兵役により削がれ生産人口が減少し、また、昭和中期のニシンの水揚量の激減により漁業が次第に衰退していった。そして、道北各町村と同様、戦後高度経済成長期以降の大都市への人口流出による過疎が進行し現在に至っている。 中心市街地には、木材の集積地として、また、ニシン漁等の漁業基地だったこと等の各種産業がかつて栄えていた頃の面影を残している。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 09:37 UTC 版)
当センターのこれまでの歴史・沿革を、下記に「前身時代」、「京葉電車区時代」、「現名称後」の3項目に分けて示す。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:03 UTC 版)
プラハ音楽院は、1808年、地元貴族や市民階級によって創設された。ナポレオン戦争の影響で開学は遅れ、授業が開始されたのは1811年になってからだった。初代学長に指名されたのは ベドルジフ・ディヴィシュ・ヴェベルだった。 1891年、ドヴォルザーク が作曲科の学科長に就任、1901年から1904年までは学長をつとめた。ドヴォルザークの指導を受けた学生には、 ヴィーチェスラフ・ノヴァーク、ヨセフ・スク(のちに学長となる)、ルドルフ・フリムル、オスカル・ネドバル、フランツ・レハールらがいる。また、この音楽院で教壇に立った指導者のなかには、のちに学長にもなったピアニストのヴィレーム・クルツらがいる。 1918年のチェコスロバキア独立後、演劇学科とバレエ学科が設立された。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 14:12 UTC 版)
「ローソンストア100」の記事における「歴史・沿革」の解説
2009年(平成21年)5月1日にローソンストア100を営業していた株式会社バリューローソンが株式会社九九プラス(きゅうじゅうきゅうプラス)に吸収合併(この時点で共にローソングループ)され、ローソンストア100は九九プラスの下で暫く営業されてきたが、2014年(平成26年)2月1日には同社のオペレーション(直営店舗運営・商品開発)機能が当社(2013年11月設立、当時は株式会社ローソンマート)に承継されることとなった。なお、九九プラスは同日付けで株式会社ローソンに吸収合併され解散している。 新業態「ローソンマート」の誕生と1年余りでの撤退 同年2月20日には新業態となるローソンマートの一号店が神奈川県横浜市にオープン。ローソンマートはローソンストア100の進化型店舗で、コンビニとスーパーマーケットの中間の品揃えを目指し、野菜に加えて精肉や水産加工品などを扱い生鮮食品の充実を図るほか、ATMやロッピーの設置、電子マネーや公共料金の支払いにも対応するなど本家のローソンと同様にサービスの充実も図るとしており、売り場面積は従来のローソンストア100の平均的な店舗と比較して約1.5〜2倍に拡大する方針を掲げていた。また、2016年度末までに関東・東海・近畿地方を中心として500店舗の新規出店を目指していた。 しかし、安価な商品を販売し首都圏への出店を加速するイオンの「まいばすけっと」やマルエツの「マルエツプチ」、ユニーの「Miniピアゴ」などと比して価格が割高なことから苦戦しており、集客力にも限界があることから2015年1月には同年度中に全店舗(1月時点で39店舗を展開していた)を閉店し、通常のコンビニ(ローソンストア100・ローソン・またはローソンプラス)や医薬品を強化したドラッグストア型店舗へ業態転換することが発表されている。全店舗の業態転換が同年10月時点で既に完了しており、これにより同業態からは1年余りで完全撤退することとなった。 一方、ローソンストア100も同時期までに低採算店など全体の2割以上の店舗(2015年1月時点で約1100店舗を展開、そのうちの約260店舗にあたる)を閉店し、うち約60店舗は通常のコンビニやドラッグストア型店舗へ業態転換、約200店舗については完全閉鎖することとなった。これらの整理が一段落し当社の事業がローソンストア100専業となったことから、2016年(平成28年)3月1日付けで企業名も株式会社ローソンストア100に変更している。 1996年(平成8年)4月 - スーパーマーケットを運営していた株式会社ベスト(家電量販店のベスト電器とは無関係、テスコグループを経て後のイオンエブリ株式会社。現在はマックスバリュエクスプレスやアコレ、まいばすけっとなどグループ内で業態転換により消滅)内に事業部を発足。東京都立川市若葉町に「99エンオンリーストア」の店名で1号店を開店。 2000年(平成12年)10月 - 株式会社九九プラスを設立。株式会社ベストから独立。同月、フランチャイズ展開を開始。 2001年(平成13年)1月 - 新CIを導入。以降、新店舗における店名を「SHOP99」に統一。 7月 - 株式会社キョウデンの出資を受け、傘下に入る。 2002年(平成14年)6月 - 当時、同じキョウデングループの関西チコマート株式会社を、株式会社チコマートから買収。 2003年(平成15年)4月1日 - 子会社の関西チコマート株式会社を株式会社九九プラス関西に社名変更。 2004年(平成16年)9月9日 - ジャスダックに上場。 2007年(平成19年)2月28日 - 株式会社ローソンと業務資本提携を発表。 3月16日 - ローソンが第三者割当増資を引き受け、第2位の大株主(20%)となる。 12月28日 - ローソンがキョウデンから株式の4.8%を買取り、所有割合25.6%となる。 2008年(平成20年)1月10日 - ローソンが第三者割当増資を引き受け、筆頭株主(34.2%)となる。 7月15日 - ローソンが、連結子会社化を目指してTOBを発表。 9月5日 - TOB成立により、ローソンは株式77.67%(これまでの保有分を含む)を取得し、連結子会社化。 2009年(平成21年)5月1日 - 株式会社バリューローソンを簡易吸収合併。 6月25日 - 株主総会において、登記簿上の本店所在地が東京都小平市学園東町一丁目4番39号から本社所在地(西新宿)に移転。 11月19日 - ローソンとの間で株式交換契約を締結。 12月1日 - 株式会社九九プラス関西を簡易吸収合併。 2010年(平成22年)1月21日 - 臨時株主総会で、ローソンとの株式交換契約を承認。 2月9日 - 株式交換契約を合意解除し、親会社のローソンによる完全子会社化が一時中止。 4月14日 - ローソンとの間で二度目の株式交換契約を締結。 5月21日 - 定時株主総会で、ローソンとの株式交換契約を再承認。 6月25日 - JASDAQ取引終了。 6月28日 - JASDAQ上場廃止。 7月1日 - 株式交換によりローソンの完全子会社となる。 2011年(平成23年)7月20日 - SHOP99が、全店「ローソンストア100」となる。 2013年(平成25年)11月14日 - 株式会社ローソンマート設立。 2014年(平成26年)2月1日 - オペレーション(直営店舗運営・商品開発)機能を完全子会社の株式会社ローソンマートに吸収分割方式で承継の上、ローソンが吸収合併し、九九プラスは解散した。 2月20日 - 新業態のコンビニチェーン「ローソンマート」の一号店が神奈川県横浜市(西横浜店)にオープン。 2015年(平成27年)「ローソンマート」が誕生から、わずか1年余りで全店舗閉店(業態転換)することとなり、同業態からは完全撤退。さらに「ローソンストア100」も低採算店など約260店舗が閉店し、多くは通常のコンビニ(ローソンストア100、ローソン)やドラッグストア型店舗に業態転換する。 2016年(平成28年)3月1日 - 株式会社ローソンストア100に商号変更。
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歴史・沿革
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松永久秀は当初三好長慶の右筆として仕えていた。三好長慶は畿内をはじめ最大時には8カ国を領有し、南北朝時代以降、信長の上洛以前は最大の勢力であった。そのような中、大和も支配に治めるべく久秀に命じ、永禄2年(1559年)8月、当時実質的な大和の支配者であった筒井順慶を圧倒して対峙するとともに国人衆を支配した。信貴山城を改修し、以後久秀は大和の実力者として台頭する。事実上の大和国守護だった興福寺を抑え、大和国支配と南都への強権性を伴った領地支配の拠点として、多聞山城は築城された。 築城前は発掘調査によって中世の墓地があったことが明確になっている。瓦、骨壺、石塔、墓石等が出土しており、特に現在の若草中学校の体育館前辺りから多数出土した。築城前には眉間寺がありその関係も指摘されている。多聞山城の築城時期は、「彼(松永久秀)は最も信任せる家臣と最も富たる大身達を招き、圍の中に敷地を分与し、家を造らしめたり。着手以来五ヶ年になるが皆競うて、他よりも良く高価なる家を造りたり」(『日本耶蘇会士日本通信』)とあり、信貴山城の改修時期と同時期に、側近と重臣の屋敷から建設が始まったようである。多聞山城は築城途中であったが永禄4年(1561年)より重臣と大身たちの屋敷はすでに使用されていた。 永禄7年(1564年)7月、飯盛山城で三好長慶が病死すると三好政権は三好三人衆と久秀の連立政権という形で運営されるようになる。しかし永禄8年(1565年)5月の永禄の変以降、三人衆との関係は次第に悪化していく。同年11月には三好政権は分裂して、三人衆は筒井順慶と連合軍を組み、永禄9年(1566年)6月筒井城を奪還(筒井城の戦い)、ついで久秀へ進軍を開始し、永禄10年(1567年)4月には東大寺に布陣し大仏殿を要塞化して多聞城に対峙し南都(奈良)を制圧しようとした。だが、多聞山城から東大寺周辺の屋敷地を破却しつつ布陣し、同年10月10日、東大寺に襲いかかり東大寺大仏殿の戦いとなる。これに勝利した久秀ではあるが、その後も争いは続き、永禄11年(1568年)6月の信貴山城の戦いでは信貴山城を失った。 その中、同年9月織田信長は足利義昭を奉じて上洛し義昭を将軍位に就けた。窮地に陥っていた久秀は義昭配下となり、芥川山城で信長と手を結ぶ。織田軍の2万の援軍を引き連れ、信貴山城を逆に攻城して、信貴山城の戦いでの落城から4ヵ月で順慶と三人衆連合軍から再奪取に成功する。その後、何度かの合戦を経ていくことになる。だが、元亀2年(1571年)8月辰市城の合戦では筒井軍が大勝し、筒井順慶は明智光秀の仲介により織田軍に降伏した。すると義昭も、順慶を認めて久秀は同格となり、これ以降順慶は順調に勢力を伸ばしていき、久秀と分立状態となる。これに久秀は武田信玄の西上作戦に伴い、足利義昭が画策した信長包囲網に加わり三好義継と共に信長に謀反を起こし信貴山城に立て篭るが、天正元年(1573年)4月に武田信玄が病死、7月に義昭が信長に追放され、11月に三好義継も若江城の戦いで討たれると、佐久間信盛の軍に多聞山城を囲まれたが和議を申し込み、12月に降伏した。重ねての反逆に対して多聞山城を明け渡す条件で許されたが、信長はすでに11月29日の初戦の段階で攻撃軍司令官の佐久間信盛に「多聞山城を没収して赦免するよう」指示しており、信長が久秀の影響力とともに同城の様々の宝物や御殿など建物を惜しんだため、と言われる。12月26日多聞山城は開城され信盛と福富秀勝と毛利長秀が受け取りの奉行となった。信長はすぐに山岡景佐を定番に置き、信長家臣の武将が留守番役として順に入り、天正2年(1574年)1月11日、明智光秀が訴訟採決と行政処理をして24日と26日は城内で連歌会を開催し2月5日に美濃へ出陣し、その後は、細川藤孝、3月9日柴田勝家が入り、翌日興福寺と春日大社に保護を通知し、神鹿と猿沢池魚殺しの密告に百両報償を与える触れを出した。 翌天正2年(1574年)3月27日、信長が多聞山城に入城し検分してから、翌日には正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を長持ごと多聞山城に運ばせ、同城の舞台で蘭奢待を一尺八寸切り取り配下に観賞させた(『信長公記』)。天正3年(1575年)3月23日塙直政が南山城に続き大和守護に任じられ多聞山城の城主となったが、天正4年(1576年)5月3日、石山合戦の天王寺砦の戦いで織田軍の司令官として指揮をとっていたが本願寺の鉄砲隊に打ち取られる。その後、大和の守護に筒井順慶が任命される。織田信長は郡山城以外の、多聞山を含めた城の破却を命じ順慶は同年7月から京都所司代の村井貞勝の監督のもと、破城工事が始まり、天正5年(1577年)6月頃には建物は破壊され城があった期間はわずか16年間だった。建材は、村井貞勝が差配して京都に運ばれ旧・二条城に活用された。他の国衆の諸城も破却された。久秀は、天正5年(1577年)8月に再び信長に謀反をおこし信貴山城の戦いで自害する。なお、旧・二条城は、本能寺の変で織田信忠とともに焼失した。 同8月頃、多聞山城の破壊はほぼ完了していたが、城内には諸石類が残っており、これらを筒井城の石垣に、後に郡山城に転用された。豊臣秀吉の時代に郡山城に代わる大和の拠点として整備する計画があり普請担当大名たちの配置も決定したが中止となり、その後は廃城と認識される。江戸時代に入ると城の跡地には南麓には南都奉行所の与力や同心の屋敷が立ち並び、幕末には丘上が練兵場となり、廃城後も跡地は活用されていたが、昭和中期まで地形は築城当時のまま残されていた。しかし、昭和23年(1948年)に若草中学校が建設され、昭和53年(1978年)には校舎新築のため、北側にわずかに残っていた土塁跡も破壊された。
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歴史・沿革(デンマーク)
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「イルムス」の記事における「歴史・沿革(デンマーク)」の解説
1925年 - ブリタ・ドールセンとカイ・デッソーが設立。当初の店名はデンマーク語で「暮らし」を意味する“BO”(ボー)。 1941年 - A.C.Illum A/S百貨店の経営者でもあるイルム家、ボルグ家、トロック・ヤンセン家に吸収され、「イルムスの家」を意味する現在のイルムスボリフスに改名した。 1961年 - 店舗の大幅な改修工事がケイ・コルビンの設計で行われ、中央吹き抜けの高い天井、エスカレーター、灯り取りなどがある個性的な現在の造りに。現在、イルムスボリフスは4000m2の敷地に建つ4階建て店舗である。 1985年 - ロイヤルコペンハーゲングループ(現:ロイヤルスカンジナビアグループ,1997年にコスダ.ボダなど5社で合併し設立)に入る。ロイヤル・コペンハーゲンやジョージ・ジェンセンと連結されたことで、デンマークのホームファニシング文化を代表する3店舗が、同時に見られるようになった。現在では、ロイヤルスカンジナビアグループの「イルムスボリフス」、「ホルムガード」、「ロイヤルコペンハーゲンポーセリン」、「ロイヤル コペンハーゲンアンティーク」、「ジョージ ジェンセン」の各店がストロイエ通りのアマートゥ広場近くに隣接している。
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歴史・沿革
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花巻城の地は、「内史略」や「奥羽永慶軍記」等には、前九年の役の安倍頼時の城柵と伝えられている。稗貫氏は室町時代には十八ヶ城(稗貫郡宮野目村)を本城としていたが、戦国期の享禄年間に本城を鳥谷ヶ崎(稗貫郡花巻村)に移した。周辺には八重畑館や大瀬川館など同じ稗貫一族の城郭が複数あった。
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歴史・沿革
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月居城のあった依上保一帯は後に佐竹氏の分家 山入氏の勢力下に入るが、山入一揆の乱の混乱に乗じて陸奥国の国人 白河結城氏の侵攻により同地は奪われ40年もの長きにわたり、白河領として過ごした。その後、永正元年(1504年)に依上保は佐竹氏により奪還され、月居城は再び、佐竹領北方の要衝として再興、佐竹氏庶家の高柿氏らを在番衆として置いた。 その後、月居城は、鎌倉公方の主導権争いに巻き込まれ、佐竹氏の那須出兵に際しては、佐竹氏家臣の石井氏らが篭城して敵の侵攻を防いだ。その後、月居城は相川館にいた野内氏に与えられ、袋田・生瀬一帯の領有を認められ、佐竹氏の奥州攻略の軍役負担と前線基地の役割を果たした。 しかし、月居城は佐竹氏の秋田転封に伴い城主 野内氏もこれに随行したため、再び主を失った月居城は廃城となり、その後も一国一城令の施行もあって城として再建されることはなかった。なお、月居城主であった野内氏は秋田転封後に出羽国大館に移封されたが、主家に願い出て旧城の名である月居氏を称するようになったという。 その後廃城となる。
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歴史・沿革
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応永31年(1424年)、戸沢氏は北浦郡の門屋城から角館城へ移った。居城移転には諸説があり、『戸沢家譜』には、戸沢氏重臣で小松山城主の角館能登守が上浦郡の小野寺氏と通じて謀叛を起こしたので、戸沢家盛がこれを討って小松山城を開城させ、後に居城を移転したとある。その後、戸沢氏は北浦郡内の国人領主の仙北前田氏、本堂氏、楢岡氏を傘下に組み込んだ。天正年間に活躍した当主戸沢盛安は、「鬼九郎」(夜叉九郎)の異名で呼ばれた。 関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602年)、北浦郡を去った戸沢氏に代わり入部した蘆名義広(盛重)が角館城主(城趾は古城山(ふるしろやま))となり、現在の角館の元となる町割を行った。元和元年(1615年)の一国一城令発令に伴い元和6年(1620年)に廃城となった。のちに城主は麓の屋敷に居住し、防衛のための町割りを行ったとされている。明暦2年(1656年)、蘆名氏が断絶すると佐竹義隣が出羽長野紫島城から角館へ入部し、以後明治まで続いた。 現在、角館城南側一帯は蘆名氏や佐竹氏家臣たちによって造られた侍屋敷が建ち並び、「みちのくの小京都」と呼ばれている。
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歴史・沿革
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築城年代は不明であるが、陸奥国志和郡日詰村に所在した、館主は樋爪氏の一族とも、北条氏の末裔とも言われているが、戦国期の郡主斯波氏の家臣日詰氏の比爪城が当館とする説もあり、天正20年(1592年)の諸城破却書上には、「肥爪 平城 破 信直抱 代官 川村 中務」と書かれ破却された。 2018年(平成30年)4月から岩手県埋蔵文化財センターによる発掘調査が行われており、堀、土塁、掘立柱建物跡などが検出されている。
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歴史・沿革
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朝日ソノラマが1978年に発売した『ファンタスティックTVコレクション 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン ウルトラセブン ウルトラQ』のヒットを受け、前身となる『マンガ少年別冊 すばらしき特撮映像の世界』を経て、1980年に定期刊行物として創刊された。 創刊からしばらくは売れ行きが悪くVol.7(1981年夏号)で休刊とする予定であったが、「特撮ヒロイン」「改造プラモデル」「名作特撮映画(『地球防衛軍』)」などを特集したVol.7が好評を得て売り上げが伸び、続刊となった。 Vol.14(1983年春号)では『大戦隊ゴーグルファイブ』(1982年)で桃園ミキ / ゴーグルピンクを演じた大川めぐみが表紙モデルを務め、以後Vol.31(1986年8月号)まで女性モデルによるコスプレグラビアが表紙となった。1983年には特撮ヒロインを特集した別冊『スーパーギャルズコレクション』も発売された。 1984年にノベライズやシナリオ集、資料集などを文庫化した『宇宙船文庫』が刊行された。 1984年8月号(Vol.19)から隔月刊となり、1989年6月号(Vol.48)まで続いた。 2005年6月1日発売の7月号(Vol.119)をもって一旦休刊。休刊後も編集部は存続し、イヤーブックやファンタスティックコレクションなどの関連書籍が発売されていた。 2007年に朝日ソノラマ自体が解散することとなり、同年6月に発売された『ファンタスティックコレクションNo.∞ ウルトラマンメビウス アーカイブ・ドキュメント』を最後に編集部も解散した。 2007年8月12日に開催されたワンダーフェスティバルにおいてホビージャパンが『宇宙船』の商標と編集権を朝日ソノラマより譲り受け復刊することを発表。『月刊ホビージャパン』2007年10月号からの「宇宙船復刊準備号」連載を経て2008年4月1日より季刊誌として復刊した。 2012年発売のvol.137から全ページカラー化となった。
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歴史・沿革
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「ミハイロフスキー劇場」の記事における「歴史・沿革」の解説
1833年、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに「帝室ミハイロフスキー劇場」として創設される。1859年に建て替えが行われる。ロシア革命(1917年)までは専属のオペラ、バレエ団をもたず、主に演劇を上演。革命直後の1918年、ロッシーニの「セビリアの理髪師」でオペラ劇場として再出発。創立100周年の1933年、バレエ団を創設した。
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歴史・沿革
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岩切は陸奥国府・多賀城から西に約1里(約4km)に位置し、七北田川と奥大道とが交差する陸奥国の交通の要衝である。古代の岩切には多数の市場ができ、東北地方最大の商業地域となった。 南北朝時代の初期、後醍醐天皇が皇子・義良親王(後の後村上天皇)を陸奥守、北畠顕家らとともに陸奥国府・多賀城へ派遣すると、多賀城に陸奥将軍府が樹立された。現地、東北武士の代表者は伊達行朝と結城宗広である。奥羽軍は京都で北朝方の足利尊氏らと戦い、尊氏を九州へ敗走させた。さらに奥羽軍は、二度目の畿内遠征を敢行した。しかし、このとき、奥州管領の岩切城主・畠山国氏、同じく奥州管領・吉良貞家は、北朝方として多賀城を攻撃し、義良親王一向を多賀城から福島県伊達郡霊山へ追いやった。 ところが、北朝では足利尊氏と弟・足利直義が仲間割れをし、観応の擾乱となった。尊氏方の畠山国氏は直義方の吉良貞家と岩切城合戦を行った。畠山国氏は吉良貞家に敗れ岩切城は落城。畠山国氏は自害して果てた。 一方、弟・足利直義を殺して観応の擾乱に勝利を収めた足利尊氏は、霊山から出撃した奥羽軍の畿内遠征を白河で食い止めると、多賀城を再び攻略した。尊氏は京都を奪回し、後醍醐天皇は吉野へ逃れた。こうして、多賀国府を舞台とした奥羽地方政権は、完全に崩壊した。なお、後醍醐天皇は死に際し、義良親王に皇位を譲っている。 南北朝時代から室町時代を経て戦国時代にかけての岩切城は、留守氏の居城として知られ、その所領は現在の岩切、利府、多賀城の一帯である。岩切城はその間、留守氏によって少しずつ整備が進められたものと考えられる。 元亀年間(1570年~1573年)、留守政景(伊達政景)は居城を利府城に移し、岩切城は廃城となった。 1982年(昭和57年)8月、岩切城跡は国の史跡に指定され、現在は県民の森の一画をしめ、仙台市有数の桜の名所となっている。
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歴史・沿革
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横手城の築城時期は、諸説ある。戦国時代には、小野寺配下の横手氏・大和田氏・金沢氏が横手城を拠点にして反抗したが、これは鎮圧されている。その後、小野寺氏は横手に本拠を移した。 土砂崩れの防止と斜面に敵兵が滑ってよじ登れないようにするために韮(ニラ)を植えたことにちなみ、韮城(にらじょう)とも呼ばれた。 関ヶ原の戦いの時、当時の城主であった小野寺義道は、上杉景勝に通じたことから徳川家康に西軍方とみなされたため、慶長6年(1601年)に改易され、一時的に最上氏の手に渡る。慶長7年(1602年)、久保田城に佐竹義宣が転封されてくると横手城も佐竹氏の所有となり、城代が入れられた。城代には伊達盛重、伊達宣宗に続いて須田盛秀が入り、寛文12年(1672年)に佐竹氏一門の戸村義連(戸村義国の嫡孫)が入城して以降、代々「十太夫」を称す戸村氏の宗家(戸村十太夫家)が明治まで務めた。元和6年(1620年)、一国一城令によって久保田藩領でも支城が破却されたが、横手城を重要な拠点と考えた佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れた。 元和8年(1622年)、当時の江戸幕府年寄で下野宇都宮藩主の本多正純が宇都宮城釣天井事件でこの地に流罪され、寛永14年3月10日(1637年4月5日)に亡くなるまで過ごした。 江戸時代末期、戊辰戦争の際には、東北地方で佐竹氏は孤軍官軍側につく。陸奥仙台藩と出羽庄内藩の軍勢が戸村義得(大学)の籠城する横手城を攻撃し、慶応4年8月11日(1868年9月26日)の夕方に落城した(横手の戦い)。 明治4年(1871年)に廃城となり、明治12年(1879年)には戊辰戦争で戦死した22人の霊を慰めるため、焼け残った城の資材を再利用して本丸跡に秋田神社が建立された。 本来の横手城に天守はなかったが、太平洋戦争後の昭和40年(1965年)には郷土資料館と展望台を兼ねて二の丸跡に岡崎城をモデルに模擬天守が建設された。この天守は、東北地方における模擬天守の初見である[要ページ番号]。
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歴史・沿革
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1972年(昭和47年)12月3日、創業者の重田英行が京都市上京区新町通り今出川上ル東側において、航空機プラモデル専門店として創業・開店。数年後に鉄道模型専門店としてレイルランド店を隣接して開設した。また、京都府内の長岡京市 (長岡店、後の本店) と宇治市 (小倉店) 、大阪府内の枚方市 (くずは店) にも支店を開設した。 1980年代半ばより、同店オリジナルの怪獣やキャラクターフィギュアなどのレジン製ガレージキットの展開を開始した。その後、各地の店舗を閉鎖するなど、小売を縮小した。1992年(平成4年)にはオリジナル製品の原型製作などを行う「造型村」を設立。 1997年(平成19年)、長岡京ショールームが開店。 1998年(平成10年)より球体関節人形に参入し、スーパードルフィーの展開を開始した。スーパードルフィーなどのドール・フィギュア関連の商品を扱う店舗として、日本各地にショールームを展開を始める。 2003年(平成15年)には京都府京都市右京区にある美術館「霞中庵 竹内栖鳳記念館」が前管財人より売却に出されていたところ、霞中庵や同じ敷地内にある竹内栖鳳記念館の保存を条件に購入し、以降スーパードルフィーの展示・販売施設「天使の里」として運営。千葉県船橋市に船橋ららぽーとショールームをオープン。 2010年(平成22年)より"SUPER WING SERIES"と称し、航空機のスケールモデルを発売しているほか、2011年(平成23年)には"SUPER RAIL SERIES"と称して、HOゲージ鉄道模型の発売を開始するなど、スケールモデルも積極的に展開している。 2015年(平成27年)10月18日、長岡京ショールームが閉店。 2020年(令和2年)、八王子市にある石粉粘土のメーカー「アートクレイ株式会社」が廃業解散することに伴い、当該会社の全事業を譲受し製品の製造販売を引き継ぐ。船橋ららぽーとショールームが閉店。
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歴史・沿革
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1707年(宝永3年) 松前藩によって益毛場所が開かれ、その後「浜益毛」から「浜益」となった。 1830年 - 1843年(天保年間) 浜益神社が創建される。 1858年(安政5年) 浜益に荘内藩の陣屋が築かれた。 1869年 北海道11国86郡が置かれ、石狩国浜益郡が置かれた。 1902年4月1日 浜益郡茂生村(もい)、群別村(くんべつ)が合併、二級町村制、浜益郡浜益村。 1907年4月1日 浜益郡黄金村(こがね)と新設合併し、一級町村制施行。 2005年 石狩市に編入合併、浜益郡消滅。
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歴史・沿革
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「国際鉄道模型コンベンション」の記事における「歴史・沿革」の解説
2000年(平成12年)、日本鉄道模型の会によって、第1回を東京の新宿NSビルにて開催。2001年より2005年の第2回 - 6回は東京の東京ビッグサイトで開催。2006年の第7回は大阪のインテックス大阪で開催。2007年の第8回以降は再び東京ビッグサイトで開催されている。 2009年からは「全国高等学校鉄道模型コンテスト」を会場内で行っていたが、2012年よりJAMコンベンションから独立し、同じビッグサイト内で別途開催されている。 2014年の第15回開催後、運営権を日本鉄道模型の会から井門コーポレーションに無償譲渡し、日本鉄道模型の会は後援という形で開催を継続することとなった。 2018年(平成30年)からは、日本モデル・オブ・ザ・イヤーを開始した。 2020年(令和2年)・2021年(令和3年)は、東京オリンピック・パラリンピックの関係で東京ビッグサイトが使用できず、代替会場の選定も困難であったことから開催中止となり、「鉄道模型コンテスト」についてはオンラインで開催された。 東京オリンピックの開催が終了した2022年(令和4年)から開催を再開する予定である。
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歴史・沿革
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「音楽学校メーザー・ハウス」の記事における「歴史・沿革」の解説
1983年4月 - 確かな技術を持ったプロフェッショナル・アーティストの育成を目的として、日本を代表するピアニスト/アレンジャーの佐藤允彦を中心に開校。創設当時の所在地は東京都目黒区大橋2-16-23。 2003年 - 目黒区大橋1-6-13に移転。 2020年 - 3月31日に閉校。
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歴史・沿革
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1836年(天保7年) - 天保の飢饉がピークを迎える。中筒賀村、上筒賀村の当時の人口約2,700人のうち約600人が死亡。 1889年(明治22年)4月1日 - 市町村制施行の際、上筒賀村と中筒賀村が合併し発足。 2004年(平成16年)10月1日 - 隣接する山県郡加計・戸河内両町と対等合併して安芸太田町に移行したことに伴い廃止。
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歴史・沿革
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1719年(享保4年) - 鳥取藩が藩の倉庫と船着き場を設け、年貢米等の番所として開発し由良宿として栄えた。 1863年(文久3年) - 由良川河口部に由良台場(国の史跡)が築造され、計8門の大砲が設けられた。 2005年(平成17年)10月1日 - 北条町・大栄町が合併して北栄町が発足。 2016年(平成28年)10月21日 - 鳥取県中部を震源とするM6.6の鳥取県中部地震が発生。北栄町では震度6弱を観測した。
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歴史・沿革
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1948年西ドイツ南部ヴュルテンベルク州 (Württemberg ) ヴァイブリンゲン (Waiblingen ) のアルツール・ブラウン (Artur Braun ) が、鉄道玩具メーカーのアルフレッド・レーマン遊具社 (Präzix-Erzeugnisse Alfred Löhmann & Co. ) を買収し、同社の模型の製造を引き継いだ。 1949年にレーマン社が倒産し、ヨーロッパ技術玩具 有限責任会社 (Europa Technische Spielwaren GmbH ) となった。レーマン社で技術者をしていたギュンター・エーハイム (Gunther Eheim ) が架線集電式のトロリーバスを開発し成功をおさめ、売り上げは好調であったが、1951年にヨーロッパ社は倒産した。同年、ブラウンはニコラウス玩具社 (Nikolaus-Spielwarenvertrieb ) を設立した。 1950年代は、ヨーロッパ社とレーマン社が製造していたHOゲージやTTゲージをニコラウス社の下で販売した。エーハイムは1955年にエスリンガー電気玩具社 (Esslinger Elektrospielwaren ) を設立し、独立した。 1963年にニコラウス社を引き継ぐ形で、「Braun Waiblingen」から社名を採り、ブラバ・アルツール・ブラウン模型玩具製造 有限責任会社 (BRAWA Artur Braun Modellspielwarenfabrik GmbH ) が設立された。当時はトロリーバス、ケーブルカー、ロープウェイなどのストラクチャー・アクセサリー類を製造していた。 1970年には鉄道模型用の信号機の製造を開始した。従来の工場では手狭になったためレムスハルデンの新工場に移転し、1971年にはエーハイムから模型部門を引き継いだ(模型部門を分離したエーハイムは観賞魚用品専業となって今に至る)。1972年に音響機器用ケーブルのメーカーとして、ブラウンケーブル 有限責任会社 (Braunkabel GmbH ) を設立した。1982年より鉄道模型用の街灯の製造を開始した。 1980年代よりHOゲージの小型機関車を製品化してきたが、1990年代以降、HOゲージ・Nゲージの鉄道車両を本格的に製品化しはじめた。HOゲージ・Nゲージのほか、OゲージやIImゲージ、TTゲージなども製造している。1996年には音響機器用ケーブルメーカーのインアクースティック合資会社 (In-akustik GmbH & Co. KG ) の業務を引き継いだ。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 00:09 UTC 版)
「東海旅客鉄道名古屋工場」の記事における「歴史・沿革」の解説
当工場・車両所のこれまでの歴史・沿革を、「旧・四日市工場→旧・国鉄名古屋工場」、「民営化後(JR東海 名古屋工場)」、「民営化後(JR貨物 名古屋車両所)」の3項目に分けて下記に記述する。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/17 16:24 UTC 版)
1965年 - 最初の授業がKing Edward CentreにてVancouver City College(現:Vancouver Community College)として行われる。 1970年 - 現在の所在地である100 West 49th Avenueに移転。 1994年4月1日 - スペイン人の提督 Juan de Lángaraの名前を取り、ランガラ・カレッジの名称で独立。 2007年9月3日 - 旧図書館の西側敷地に建設していた新図書館が落成。 2008年5月5日 - 前年の学生投票で決まったU-Passの使用が開始。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 05:18 UTC 版)
正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。 観応の擾乱の最中の観応2年(1352年)9月には近江国にて足利直義の兵が南朝と連合して、足利尊氏方にあった佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らを破り、敗れた道誉らが当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城している。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 05:33 UTC 版)
第1回(1997年) 「京都映画祭」の一部門として映画サークルに所属する学生スタッフにより学生映画を特集する上映会が行われる。ゲストに北野武を迎え、シンポジウム「北野武監督、学生と語る」を行った。 第2回(1999年) 京都映画祭の一部門として事務局も同映画祭に設置され開催される。ゲストに是枝裕和を迎え、シンポジウム「是枝裕和監督、学生と語る」を行った。 第3回(2000年) 「大学コンソーシアム京都」設立イベントの一環「京都学生映画祭」として、1999年の同スタッフが独自の単年企画として開催する。ゲストに黒沢清、蓮實重彦を迎え、特別シンポジウム「自主制作映画の可能性」を行った。 第4回(2001年) 海外の学生作品の募集を始める。名称が「京都国際学生映画祭」となる。デジタル編集講座、佐藤真特別講座 他 第5回(2002年) 大学コンソーシアム京都の主催事業となる。シネマカフェ「アンデパンダン」、トークセッション 他 第6回(2003年) 文化庁の支援を受ける。新京極映画祭、京都学生祭典との連携スタート。特別講義〜映画と音楽との関係性〜、ワークショップ〜映画はどこで物語を発見するのか〜、ワールドプログラム 他 第7回(2004年) 海外からの応募が200本を超える。アニメーション特集、『蒼ざめたる馬』上映、京都シネック特集 他 第8回(2005年) コンペティション部門作品総応募数が400本を超える。 2004年度入選監督特集、新京極映画祭連携企画、京都学生祭典連携企画 他 第9回(2006年) Milan Balog(前年度グランプリ作品監督)のスロバキア作品上映、『天使の卵』上映、高林陽一初期作品特集 他 第10回(2007年) 会場はART COMPLEX1928、京都シネマ。特別招待作品、特別連携企画 他 第11回(2008年) 会場は京都シネマ、同志社大学寒梅館ハーディーホール。観客賞設置開始。山村浩二と山下敦弘を迎えたトークショー、著名映画監督の学生時代作品上映 他 第12回(2009年) 東京学生映画祭との連携開始。加藤久仁生トークショー「"つみきのいえ"に至るまで」、加藤久仁生×津堅信之トークショー、『落第はしたけれど』活弁映画上映、科学・芸術映画特集 他 第13回(2010年) 小林達夫監督(2007年度グランプリ作品監督)×渡辺あや脚本の『カントリーガール』オープニング上映、オーバーハウゼン国際短編映画祭特集、関西学生監督作品特集、高校生作品特集 他
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 03:10 UTC 版)
1963年4月 - 開校 1969年 - 学生運動が活発化。同年10月20日から26日には学生により教室が占拠、封鎖が行われて授業が行われなくなった。同年12月1日に授業が再開。その後、学校群制度時代(第13群/雪谷、大崎、南)の合格偏差値は業者によりけりだが54〜58程度であった。 1996年4月 - コース制に移行(国際文化、保健体育、生活・科学コース) 2005年3月31日 - 閉校
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歴史・沿革
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1874年(明治7年)- 中村に広島警察署第三邏卒分屯所、郵便取扱所が設置される。 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により佐伯郡鹿川村・高田村・中村が成立する。 1890年(明治23年) - 廿日市、中村間に郵便船が就航。 1900年(明治33年) - がんね砲台が設置される。 1902年(明治35年) - 鹿川、中村、高田の漁民により各漁業組合が結成される。 1905年(明治38年) - 芸予地震発生。 1905年(明治38年) - 大原、中村、江田島、宇品を結ぶ航路が開設。蒸気船「海勝丸」が就航。 1915年(大正4年) - 各地区に電気が通じ、電灯が灯る。 1925年(大正14年) - 高田、柿浦間に乗り合いバス(馬車)が通じる。 1945年(昭和20年) - 8月15日終戦、9月枕崎台風による大被害。 1951年(昭和26年)1月1日 - 鹿川村が町制を施行して鹿川町になる。 1955年(昭和30年)4月1日 - 鹿川町・高田村・中村が合併(新設合併)し、能美町となる。 1965年(昭和40年) - 太田川の水道用水が江能地区にパイプラインで供給されるようになる。 1967年(昭和42年) - 高田にフェリー接岸施設が完成。 1973年(昭和48年) - 早瀬大橋完成。 1974年(昭和49年) - 真道山で山火事、120ha消失。 2004年(平成16年)11月1日 - 安芸郡江田島町及び佐伯郡大柿町・沖美町と合併(新設合併)、市制施行により江田島市となる。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 13:37 UTC 版)
この他、新砥・井倉・上市・唐松・草間・熊谷・菅生・千屋・豊永・新郷・萬歳の各市民センターが置かれている。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 01:27 UTC 版)
築城時期は、伝承によれば室町時代の明応元年(1492年)に沼田城の支城として沼田氏によって名胡桃館が築かれたのが最初とされている。史料上では、上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、天正7年(1579年)に家臣の真田昌幸に命じて、敵対関係となった後北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として築いた城である。昌幸は小川城の小川可遊斎と共に名胡桃館を攻略して隣接地に築城、ここを足がかりとして昌幸は沼田城攻略を企図し、調略の結果、沼田城を手に入れることに成功した。 1582年の武田氏の滅亡後、天正壬午の乱を経て独立した真田氏と後北条氏が沼田・吾妻領をめぐって争った。名胡桃城は沼田城の有力な支城として、沼田領に攻め入ってきた北条の軍を退けた。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 19:12 UTC 版)
1888年(明治21年)8月1日 - 海軍兵学校(現:海上自衛隊第1術科学校及び幹部候補生学校)が東京・築地から江田島に移転。同月13日開校。 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、安芸郡江田島村、佐伯郡津久茂村が成立する。 1890年(明治23年)4月22日 - 明治天皇、海軍兵学校に行幸。 1899年(明治32年) - 秋月火薬庫(当時は秋付火薬庫)の建設始まる。 1905年(明治38年)6月2日 - 芸予地震発生。兵学校にも被害。 1908年(明治41年)8月 - 秋月火薬庫爆発事故発生。 1925年(大正14年)2月1日 - 安芸郡江田島村が佐伯郡津久茂村を編入する。 1930年(昭和5年)10月23日 - 昭和天皇海軍兵学校に行幸。さらに1936年にも行幸。 1932年(昭和7年) - 県道(小用峠)改修工事起工式。 1938年(昭和13年)1月2日 - 宇品、大君間を結ぶ旅客船「緑丸」が元宇品沖で転覆。43人死亡。 1943年(昭和18年)5月 - 奥小路トンネル着工。 8月5日 - 呉海軍工廠火工部第二装填工場小用作業場化薬爆発事故。 1945年(昭和20年)7月28日 - 江田島周辺の艦船に空襲。榛名、利根、摂津の各艦が擱座、大淀、出雲横転。 8月15日 - 終戦。 9月17日 - 枕崎台風により死者252人、流失家屋約200戸。秋月火薬庫崩壊(12月以降に残存火薬の爆破作業)。 1950年(昭和25年)8月23日 - 警察予備隊教育施設「江田島学校」設立。 1951年(昭和26年)10月1日 - 町制施行して江田島町になる。 1973年(昭和48年)10月27日 - 早瀬大橋が開通し、音戸大橋・倉橋島・能美島を介して本土と陸続きになる。 1978年(昭和53年)6月1日 - 江田島町林野火災発生。 2004年(平成16年)11月1日 - 佐伯郡大柿町・沖美町・能美町と合併(新設合併)、市制施行し、江田島市となる。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 22:37 UTC 版)
天文 - 永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。 天正18年(1590年)、小田原征伐の後廃城となった。 延宝6年(1678年)、珂碩により九品仏浄真寺が開かれた。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:36 UTC 版)
創業者山崎嘉太郎が1888年(明治21年)に、現在は秋葉原と呼ばれる東京府東京市神田区神田花房町に売薬化粧品商の山崎帝國堂薬房を創業する。その後、東京の支舗山崎太陽堂、大阪の支舗山崎兄弟商会や九州支舗を設立するなど次々に業容を拡張し、全国展開を進めた。現在の複方毒掃丸の前身である「腹内毒掃丸」を主力製品に、新聞などで大々的に広告をする手法で売上を伸ばした。1921年(大正10年)に、後に国民的作家となる吉川英治が広告文案係として一時在籍していたことも知られている。 1922年(大正11年)に株式会社山崎帝國堂に改組したあとも便秘薬を中心に事業を続け、現在では水虫薬や殺鼠剤なども販売している。2017年(平成29年)まではカルシウム剤タチカワ電解カルシウムの製造販売元で、関連会社の森田薬品工業株式会社が販売していた。会社発祥の地である秋葉原で105年間生産を続けていたが、1993年(平成5年)に本社を東京都中央区日本橋1丁目にある日本橋朝日生命館に、研究所と工場を千葉県柏市豊四季に新設して移転している。日本橋朝日生命館の再開発に伴い、2012年(平成24年)に日本橋室町4丁目のさくら室町ビルへ本社を移転。2017年(平成29年)に工場へ本社機能を集約する。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 08:08 UTC 版)
昭和40年 団地開発計画固まる 昭和42年 一般公募の中から団地の名称が「清和台」に決まる(対立案は「光風台」であった。) 昭和43年 宅地造成始まる 昭和44年 第1回宅地売り出し(西1丁目) 昭和45年 清和台小学校・清和台幼稚園・清和台交番開設、阪急バス運転開始 昭和46年 清和台自治会結成 昭和48年 川西清和台郵便局開局 昭和49年 川西消防署清和台出張所開設 昭和50年 清和台中学校開校 昭和52年 清和台南小学校開校 昭和59年 清和台公民館開所 平成8年 都市計画道路川西猪名川線(県道12号線新道)全線開通
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歴史・沿革
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秋田城の史料上の初出は、『続日本紀』において733年(天平5年)に出羽柵(いではのき)を秋田村高清水岡に遷置したと記述されたことにさかのぼる。7世紀の中葉から9世紀の初頭にかけて、当時の朝廷は東北地方の蝦夷を軍事的に制圧し服属させ、柵戸移民を扶植して積極的な支配域の拡大を図っており、日本海側では708年(和銅元年)に現在の山形県庄内地方を越後国出羽郡として建郡、712年(和銅5年)には越後国から分離して出羽国に昇格させ、陸奥国から移管された置賜郡・最上郡とあわせて初期の出羽国を形成した。前後して出羽郡内に出羽柵を設置したものと考えられている。 秋田城は朝廷の支配域の北上にともない出羽柵を移転したものと捉えられるのであるが、8世紀当時の秋田地方では大規模な集落の跡が確認されておらず、後城遺跡のような城柵の進出にともなって形成された集落が城柵の近傍に存在する程度であった。すなわち当時の秋田地方は人口が希薄で、移転当初の出羽柵は朝廷の支配域の北辺に突出しており、出羽柵(秋田城)の設置にともなって城柵周辺に蝦夷や柵戸移民が混在する集落が形成されたものと推測されている。 秋田に移った出羽柵は、760年(天平宝字4年)3月19日付の『丸部足人解』において「阿支太城」と表記されており、この頃秋田城に改称したものと考えられている。『続日本紀』、780年(宝亀11年)8月23日の条では、秋田城へ派遣された鎮狄将軍安倍家麻呂の具申に対して朝廷から「秋田城は、前将軍や宰相が建てたものであり、長い年月を経てきた」と回答したことが見え、760年頃に秋田城へ機構改編したことを裏付ける。 このときの安倍家麻呂と朝廷の応答において秋田城の停廃が検討されたが、朝廷は秋田城の放棄を認めず、かえって軍兵を遣わして鎮守とし、鎮狄使または国司1名を専当として秋田城の防護にあたらせるものとした。これにより、国司次官である出羽介が秋田城介(あきたじょうのすけ)として城に常置され、出羽国北部の統治にあたることとなった。 8世紀には、沿海州付近にあった渤海国からの使節がたびたび出羽国へ来着した。そもそも出羽柵の秋田移転には、なぜ庄内地方から一挙100kmも北進して人口希薄な秋田地方へ突出したのかという疑問が生じるのであるが、そこで秋田城の海上交流の拠点としての性格が着目され、秋田城が渤海使や北方民族との外交施設としての役割を担ったとする説が示されている。8世紀の渤海使は、日本の使節船に同乗している場合を除いてほとんどが出羽に来着しており、新野直吉、古畑徹らの研究は、渤海使が沿海州・サハリン・北海道の沿岸部伝いに航行して本州日本海側に達する北回り航路を取っていたことを唱え、さらに新野は出羽柵移転の背景に、渤海使の来航があった出羽国北部に中央政府と直結した出先機関を置いて、外国使節への対応を担わせたとする見方を示した。ただし、そのことは大和朝廷が積極的に外交に取り組んだということを意味せず、せいぜい新年朝賀への外交使節参列の便宜を図ろうという程度の意図であり、しかも、渤海国側の技術的な事情により、想定されたルートと頻度では使節が来訪しなかったので現実の有用性は限定的であった、との指摘もある。 発掘調査結果からは、城外南東側の鵜ノ木地区において規則的に配置された大規模な掘立柱建物群の遺構と、水洗トイレの遺構などが検出されており、これらは国営調査では城に附属した寺院の四天王寺跡とする見解が示されているが、8世紀から9世紀初までの遺構については、建物が礎石式を取らず瓦葺きでないなど、寺院建築とするには疑問も示されており、これら施設群は外交使節を饗応する迎賓館だったのではないかとの推測も示されている。なお、9世紀以降渤海使の出羽来航は途絶えており、鵜ノ木地区の遺構も、9世紀以降のものは木柵に囲われた寺院風の構成となっていく。 804年(延暦23年)、秋田城が停廃されて秋田郡が設置され、秋田城が担っていた機能は河辺府へ移されたとされる。先の802年(延暦21年)に朝廷はアテルイとの軍事的抗争に勝利し、これを受けて陸奥に胆沢城・紫波城を造営、出羽でも同時期に払田柵(第II期雄勝城)が造営されたとみられるなど、9世紀初は朝廷と蝦夷との関係が大転換した時期にあたる。停廃という文言と裏腹にこの時期秋田城は大改修を受けており、秋田城の停廃とは陸奥方面での朝廷の軍事的勝利を受けて、秋田城を取り巻く環境が孤立した状態から解消されたことにともなう、支配体制再編の一環として行われたものと考えられる。 733年の出羽柵移転以降、秋田郡が設置されるまでの約70年間、秋田地方では郡を置かず城が領域支配をも担う特殊な体制が取られていたが、秋田城の改修は郡制への移行と軌を一にするものであり、むしろ支配体制を強化する形で秋田城は出羽北部の軍事・行政拠点として存続することとなった。 830年(天長7年)には出羽大地震により城廓および官舎のことごとくが損傷する被害を受けた事が記されている。この時の被害報告から城に附属して四天王寺・四王堂といった宗教施設が存在した事実が示されている。 878年(元慶2年)に勃発した俘囚の大規模反乱(元慶の乱)では、俘囚側が秋田城を一時占拠するに至り、発掘調査からも乱によって城が焼かれたことを裏付ける焼土炭化物層が検出されている。この乱の背景に、長く軍事的緊張から遠ざかっていた秋田城では制度上常備すべきとされていた軍が実際には配備されておらず、少数の健児が守るのみで警備が手薄になっていたことが挙げられる。 また、出羽国統治が安定していた反面、それに乗じて国司による苛烈な収奪が横行しており、元慶の乱の時期を記した『日本三代実録』元慶三年三月二日壬辰の条では、国内の公民の3分の1が「奥地」に逃亡するという異常事態に陥っていたことが記されている。元慶の乱は、出羽権守として派遣された右中弁藤原保則が、主に上野国・下野国の兵で編成された軍を率いて乱の鎮圧にあたり、また鎮守将軍として派遣された小野春風による懐柔策も受けて、硬軟織り交ぜた対応により終結に向かい、秋田城は回復されて復興整備に向かっている。 その後939年(天慶2年)の天慶の乱の際にも、秋田城は攻撃を受けている。10世紀後半には秋田城の基本構造と機能が失われたと考えられており、鵜ノ木地区においては11世紀前半までの遺構が確認されているものの、城内では11世紀以降に該当する主要な遺構が確認されていないことから、この頃には衰退していたと考えられている。平安時代後期から中世にかけて、史料上はなおも秋田城の文字が継続して確認されており、鎌倉時代には秋田城介の官職は武門にとって名誉あるものであったとされるが、中世の秋田城として比定される有力な遺構は確認されておらず、古代の秋田城跡周辺が有力な擬定地として推測されるにとどまっている。
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歴史・沿革
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文明10年(1478年)、水谷勝氏が結城氏広から下館領を与えられ築城。 天文14年(1545年)、水谷正村(蟠龍斎)が宇都宮氏に備え、下館城の北に支城久下田城を築く。 天正18年(1590年)、水谷勝俊が豊臣秀吉から下館領と下野芳賀郡をあわせた水谷領4万7,000石を安堵される。 寛永16年(1639年)、水谷勝隆が備中成羽藩に転封。 寛永16年(1639年)、松平頼重が5万石で入封。 寛永19年(1642年)、松平頼重が讃岐国高松藩12万石を賜って転封。 寛文3年(1663年)、増山正弥が三河国西尾藩より入封。 元禄15年(1702年)、増山正弥が伊勢国長島藩に転封。 元禄15年(1702年)、井上正岑が丹波国亀山藩より入封。 元禄15年(1702年)、井上正岑が常陸国笠間藩へ転封。 元禄16年(1703年)、黒田直邦が入封。 享保17年(1732年)、黒田直邦が上野国沼田藩に転封。 享保17年(1732年)、石川総茂が伊勢国神戸藩より2万石で入封。 石川氏9代の石川総管に至り明治維新となり、下館藩は明治2年(1869年)に版籍奉還。下館城も廃城となる。その後、この地も市街地と化したが、この地の通称町名「本城町(もとしろちょう)」にその名残が窺える。
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歴史・沿革
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築城年代は不明だが、豊島氏一族の志村氏により築かれたとされる。 康正元年(1455年)、享徳の乱に乗じて挙兵した馬加氏に追われた千葉宗家が赤塚城に拠ることとなったが、この際、志村城には一族の千葉信胤が入った。 大永4年(1524年)、北条氏綱に攻められ落城、後北条氏の支配するところとなる。 その後の志村城については詳らかではないが、小田原征伐後廃城となったものと考えられている。
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室町時代以降、和賀郡惣領職として郡内を治めた和賀氏の居城跡で、築城年代は不明であるが、和賀氏の本拠地ははじめ北上川の対岸の更木(北上市更木町)に本拠地があったとされる(1797年刊『邦内郷村志』)。 二子城が和賀氏の本城となるのは、応永8年(1401年)4月28日に和賀時義が和賀郡惣領職に補せられた直後とする説もある。天正18年(1590年)の奥州仕置で和賀氏が所領没収、城地追放処分を受けると、二子城には浅野長政の家臣・後藤半七が駐留したが、旧領回復を目指す和賀氏・稗貫氏が旧臣を集めて挙兵(和賀・稗貫一揆)、二子城を奪還した。しかし翌年の再仕置で蒲生氏郷勢に攻略され、当主の和賀義忠は逃亡途中に殺害された。天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「二子 平城 破 信直抱 代官 川村左衛門四郎」とある。
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歴史は古く、最初の築城は鎌倉時代頃であり、滋野氏の流れを汲む滋野三家の望月氏が本拠地として天神城として築城された。中先代の乱(1335年)8月に、信濃守護の小笠原貞宗が経氏に命令し攻撃・落城したとあるが、望月氏は滅亡せず室町時代に新たに望月城をして築城された。 天文12年(1543年)に、武田信玄の猛攻によって陥落するが、望月氏が武田氏の支配下となることで城は存続した。武田氏滅亡後、後北条氏と一年も籠城戦を行い大軍を動員していた後北条方が兵糧等の戦費が負担になり望月氏と和睦をするも、天正10年(1582年)に徳川軍の依田信蕃によって佐久の諸城は攻略され、望月城も一ヶ月半の籠城戦の後に落城した。
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詳細は「三吉氏」を参照 築城年代は不明だが、承久の乱後に近江国から備後国三次郷へ下向してきた藤原兼範によって築かれた。その息子の兼定が三吉大夫と称して三吉氏を名乗り、以後、備後北部でも有力な国人として勢力を伸ばした。 鎌倉時代の初めに源氏の御家人である佐々木氏が三次の地頭として赴任して築城し、承久の乱後に三吉氏にとってかわられたという説もある。 鎌倉時代末期には後醍醐天皇、南北朝時代には足利尊氏、足利直冬に従い、その後、山名氏、戦国時代には尼子氏、大内氏と転々としてきた。 永正13年(1516年)には13代致高は尼子側の武将として、安芸五龍城主宍戸氏と共同して吉田郡山城主毛利興元と戦っている。同じ頃に、毛利氏と親戚関係にあった石見国南部の高橋氏とも争っている。 毛利元就が勃興すると三吉氏は毛利氏に従い、天文13年(1544年)には尼子国久を中心とした新宮党からなる尼子軍に攻撃されたが、毛利氏の援軍を得て尼子氏を敗走させた。 14代隆亮の代には、8万石もの所領を持つ勢力にまで成長した。天文22年(1553年)、江田氏の尼子側への裏切りがあり、このことが原因で三吉氏は真っ先に毛利に誓紙を出して忠節を誓ったが、さらに同年5月に人質を出している。この後、三吉氏は一族の娘などを元就の側室として差出し、毛利氏に従属していった。15代当主三吉広高の代になった天正19年(1591年)、比熊山城の築城が完成し、比叡尾山城は居城としての役割を終えた。
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歴史・沿革
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庄内と内陸部を結ぶ六十里越街道沿いの要地にある城で、鎌倉時代よりこの地方を支配する武藤氏の支城がおかれていた。 武藤氏のあと上杉氏、最上氏と領主が変わるが、元和元年(1615年)の一国一城令により取り壊された。のち最上氏が改易され、元和8年(1622年)に酒井氏の領地となった。 寛永九年(1632年)に熊本藩主加藤忠広が改易となり、酒井氏に預けられた際、酒井氏はこの城に忠広の居館などを造り居住させた。忠広没後は幕府直轄領となる。 現在は、南側の一部は宅地となり、他はほとんど畑になっている。
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歴史・沿革
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承元2年(1208年)、前森氏の築城とされる。 弘長元年(1261年)に本城氏が入り、応永十三年(1406年)に最上満直の四男、楯岡満国が入った。のちに最上義光の弟楯岡光直が城主となるが、光直は義光の死後最上家家臣と跡目相続で対立し、それが原因で元和8年(1622年)に最上氏は改易となり、楯岡城も廃城となった。 現在は、一部が東沢公園として整備され、ハイキングコースとなっている。
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歴史・沿革
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畠敷の比叡尾山城城主、三吉新兵衛広高が天正19年(1591年)に築城した。三吉氏は、三次盆地を根拠地とした有力国人で、比叡尾山城を本城とし、戦国時代には大内氏、のちに毛利元就に従った。本拠地を移設した理由として、畠敷の市が三次に移動したため、江の川流域に城下町の機能を整備し直す必要を感じたためと思われる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの西軍の敗退の責めを問われ、毛利氏が長門・周防二国に移封された。三吉氏は毛利氏の配下であったため、城は築城8年あまりで放棄された。広高は浪人して出家していたが、広島藩初代藩主の浅野長晟(ながあきら)に広島へ招かれて家臣となり、寛永11年(1634年)に没した。 長晟の息子で、初代三次藩藩主、浅野長治は、廃城後の礎石と城門の唐投戸を明鏡山照林坊に移築し、城門と陣鐘を三勝寺に寄進した。どちらも両寺に現存している。
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歴史・沿革
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「西郷派大東流合気武術」の記事における「歴史・沿革」の解説
初代宗家である山下芳衛(やましたほうえい)から二代宗家の曽川和翁(そがわかずおき)に受け継がれ、現在に至る。山下芳衛より以前の伝承経路や歴史については不明な部分も多い。が、曽川和翁の代になってからは、流派のルーツを研究する過程で様々な歴史考察を展開し、時期に応じて異なった歴史観・大東流史を定義している。 初代宗家の山下芳衛が自流を大東流と呼称していたため、武田惣角を中興の祖とする大東流合気柔術と同根であると思われがちであるが、実際は全く別の思想を有している。現在では、武田惣角系の大東流等の他派とは同名であるだけの別流派、という位置付けを堅持しているようである。ただし柔術の部分の基本的な技術体系や技法名称等は大東流とかなりの部分が共通しているようである。 なお時代に応じて下記のような歴史観を展開している。
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歴史・沿革
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南北朝時代、蔵王権現を奉る蔵王堂に北朝方の中条氏が本陣を構え、実質的な城(砦)となる。1352年(正平7年)には南朝方の風間信昭らに攻撃されている。 後に上杉謙信へと続く古志長尾家の長尾景晴が入るも、4代後の孝景の代に栖吉城に移る。 その後、長尾為重(謙信の叔父)が蔵王堂脇に本格的な城郭として縄張りし、会津移封までは上杉家及びその家臣が治める。 上杉家が会津へ移封された後は春日山城に入府した堀秀治の弟、堀親良が入り、蔵王堂藩の初代藩主となる。なお、蔵王堂藩は養子、堀鶴千代が坂戸藩の堀直寄の後見の元に継ぐのだが、9歳で亡くなった為に断絶。坂戸藩に編入される。 堀直寄は飯山藩へ転封され、松平忠輝臣下の山田隼人が入城。この時は藩としての復活はなく、福嶋藩(高田藩)の属領扱いだった。 忠輝が大坂夏の陣の不手際により改易されると堀直寄が蔵王堂城主として戻り、蔵王堂藩が復活する。 堀直寄は以前の統治時代に開始し転封により中断していた長岡城建築を進め、長岡城完成と共に移動した為に蔵王堂城は廃城となり、蔵王堂藩は長岡藩へと移行する。 長岡移転は蔵王堂城が信濃川のすぐ脇にあった為、水害により城の一部が侵食される程の被害を度々受け、城の維持が難しかった為である。
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1500年に毛利氏の当主毛利弘元は、家督を嫡男の毛利興元に譲り、次男の松寿丸(後の毛利元就)らを連れてこの多治比猿掛城に入城する。1506年(永正3年)に弘元が没すると、幼少の松寿丸が城主となる。松寿丸はこの城で成長し、元服後、多治比元就と名乗り、分家の多治比毛利氏として活動する(この時期元就は「多治比殿」と呼ばれている)。 この城で毛利隆元や五龍局が生まれている。 1523年(大永3年)に元就が宗家を継ぎ、多治比猿掛城は城主不在となる。その後についての詳細は不明だが、その重要性は変わらず、戦国末期まで維持されたと思われる。実際、1563年(永禄6年)に毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊。その際に息子の毛利輝元が来城し、面会している(その後、隆元は佐々部で急死)。廃城年は不明。
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1590年(天正18年)小田原城攻略後の豊臣秀吉は、奥州仕置を行う。これにより旧葛西・大崎領12郡は木村吉清・清久父子の領となるが、検地・刀狩りなどへの不満から一揆が発生する(葛西大崎一揆)。この一揆への関与を疑われた伊達政宗は秀吉により無罪とされるものの、翌1591年(天正19年)に、米沢から葛西・大崎旧領に移封されることとなる。移封に先立ち、当時奥州の検地を行っていた徳川家康は岩手沢城に約40日滞在し、その間に城の縄張りや改修修築を行った後に伊達政宗への引渡しを行ったと言われる。尚この時に「岩手沢」から「岩出山」へと改められた。以後仙台城築城までの12年間伊達政宗の居城となる(この時期、伊達政宗は「大崎少将」を名乗った)。 岩出山は奥大道の経路から外れており、1601年(慶長5年)より政宗は仙台城を築き、移った。その後、岩出山城は政宗の四男の宗泰を初代とする岩出山伊達家が居住する要害になり、明治維新までつづいた。 なお、岩出山城には仙台藩の藩校のひとつである有備館が置かれ、庭園とともに史跡に指定されている。有備館の建物は現存する最古の藩校とされる。 現在、城跡には有備館のほかに曲輪跡の平坦や土塁、大空堀、堀切、石垣を伴う虎口、が残るが、公園として手が加えられ過ぎている反面、城跡としての説明版などの整備は欠けている。また、城山公園、宮城県岩出山高等学校と大崎市立岩出山小学校として利用されている。 城山公園には伊達政宗のコンクリート像(平和像)がある。これはもともと第2次世界大戦における金属類回収令で銅像を失った仙台城跡に置かれていたものだが、1962年に移設されたものである。仙台城の騎馬像に対して、岩出山城の平和像は起立した形で、1954年に柳原義達が製作し、小野田セメントが材料を無償で提供した。
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養和元年(1181年)、志田義広の乱制圧の功により、結城朝光が結城郡地頭職に補任された。 寿永2年(1183年)、朝光により結城城が築城される。 永享12年(1440年)、結城氏朝が、敗死した足利持氏の遺児春王および安王を戴き、室町幕府に反旗を翻した。(結城合戦) 嘉吉元年(1441年)、結城氏方が拠った結城城が落城し、氏朝・持朝父子は討ち死にした。 文安4年(1447年)、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が成氏に取り立てられ、旧地に復した。 天正18年(1590年)、小田原征伐において晴朝は豊臣氏方に付き、所領を安堵された。同戦役後、晴朝は秀吉の養子となっていた家康の長男秀康を養嫡子として迎えた。 慶長6年(1601年)、秀康が越前に移封され、結城城は破却され、一時廃城となった。 元禄13年(1700年)、水野勝長が当地に移封された。 元禄16年(1703年)、水野氏が結城城の再興を幕府に願い出、結城城が再築城された。 慶応4年(1868年)、佐幕派が結城城を占拠し、このため新政府軍に攻められ落城し廃城となった。 昭和39年(1964年)、9月1日付で市指定文化財(史跡)に指定。
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歴史・沿革
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1849年(嘉永2年) - 御嶽山付近で民間薬「百草」の生産が開始される。「百草」は奈良時代から修験者によって伝えられた民間薬で、1782年(天明2年)に御嶽山を訪れた修験者が伝えて定着。御嶽山に自生する原料のキハダにて生産されたのはこの年からとされている。 (注)江戸時代の天明年間に尾張国の覚明行者(かくめいぎょうじゃ)と武蔵国の普寛行者(ふかんぎょうじゃ)が、御嶽山登山道をそれぞれ整備し開山、その時に普寛行者から登山道の開削を手伝った村人に製法を伝授したのが、百草の起源とされている。 1874年(明治7年) - 売薬取締法の公布により「百草」は官許による製造となった。 1926年〜1930年(昭和初期) - この頃から「百草」の生産が盛んになり、製造業者は木曽郡内の王滝村、三岳村、木曽福島町で27軒を数えた。 1936年(昭和11年) - 長野県製薬の前身、木曽製薬工業組合設立。現在の生産システム確立。 1938年(昭和13年) - 現在の主力製品、「御岳百草丸」の生産を開始。 1941年(昭和16年) - 国家総動員法に基づき医薬品が統制の対象になった。 1943年(昭和18年) - 長野県売薬製造統制株式会社設立。長野県製薬ではこの年を会社設立年としている。木曽製薬工業組合を吸収合併した。会社設立時の本社は長野県長野市。西筑摩郡福島町(現木曽郡木曽町)に福島支店を置き生産拠点とした。 1944年(昭和19年) - 長野県製薬株式会社に社名変更。 1949年(昭和24年) - 本社を福島町に移転。三岳村・王滝村に工場設立。 1977年(昭和52年) - 本社を王滝村(現住所)に移転。工場を本社のみとし木曽福島町・三岳村の工場廃止。 1982年(昭和57年) - 顆粒タイプの「百草」生産開始。 1984年(昭和59年) - 長野県西部地震で一時生産がストップ。 1992年(平成4年) - 新工場第一期工事完成。 2000年(平成12年) - 新工場第二期工事完成。 2012年(平成24年)- 株主総会により社長が交代、6代目の社長に古畑勝三が就任。
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歴史・沿革
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鎌倉時代初期に佐原盛連の次男・広盛が北田氏を名乗り、城を築いたのが始まりと言われている。なお、広盛の兄・経連は猪苗代氏の祖、弟・光盛は蘆名氏の祖である。 応永9年(1402年)、北田氏は同じ蘆名氏一族で、新宮庄(現在の喜多方市一帯)地頭の新宮城主・新宮盛俊と結んで黒川城の蘆名氏に反旗を翻し、そのため応永16年(1409年)6月、北田城は蘆名氏によって攻め落とされ、城主・大庭政泰(北田上総介)父子らは討死し、北田氏は滅亡した。
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歴史・沿革
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元々は鎌倉時代から長島を支配した長島氏の居城である。長島氏は大蔵氏の一族であり、中世肥後国天草地方で勢力があった天草八氏の一に数えられていた。 室町時代末期になると肥後人吉の相良氏が長島に勢力を伸ばし始め、天文23年(1554年)7月、圧力に耐えかねた城主長島鎮真は当城を放棄し、薩州島津家を頼って出水に逃れた。その後、相良氏は本渡城主である天草尚種の弟天草越前正を当城に入れた。 永禄8年(1565年)薩州島津家第6代当主島津義虎は、叔父の島津忠兼に長島攻略を命じ、島津忠兼の率いる軍勢は3月23日に渡海して翌3月24日に当城は落城した。以後、長島は薩州島津家の領有となった。 なお、落城後は島津忠兼が居城としたが、落城から約3か月後の7月8日、讒訴により島津義虎から誅殺された。城跡にある若宮神社は島津忠兼を祭っている。 明暦3年(1657年)に長島郷が出水郷から分かれ、地頭仮屋が鷹巣に移されるまで、当地が長島の中心地であった。
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歴史・沿革
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1973年、イーゴン・ボックホルト (Egon Bockholt ) によって創業した。最初の製品として1973年に西ドイツ国鉄のタンク機関車である86形蒸気機関車が生産された。 1974年にはフランス国鉄の141R形蒸気機関車を生産した。これはスイスのフルグレックスの下請け製造であった。ボックホルトでは1993年まで、いくつかの製品をフルグレックス向けに製造した。 1977年、ボックホルト初の電気機関車製品として、スイス国鉄のCe 6/8 II形電気機関車 (通称クロコダイル) が生産された。 1980年代に一度貨車を生産したが、しばらく間が開き、1990年代以降に数種類の貨車製品が生産された。 1993年にボックホルトは創業20年を迎えたが、これを記念し、ボックホルト初のディーゼル機関車製品として西ドイツ国鉄のV20形機関車が生産された。
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歴史・沿革
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「国立芸術センター管弦楽団」の記事における「歴史・沿革」の解説
1969年に新規開場した国立芸術センターのレジデント・オーケストラとして設立された。国立芸術センターでのコンサートやオペラ公演のほか、国内のツアーや教育プログラムの実施に力を入れている。 歴代の指揮者にジャン=マリー・ボーデ、マリオ・ベルナルディ(w:Mario Bernardi, 現桂冠指揮者)、ガブリエル・フムーラ(Gabriel Chmura)、トレヴァー・ピノックらがいる。1998年から現在まで音楽監督をピンカス・ズーカーマンが務めている。 主なレコーディングは、ベルナルディ指揮でベートーヴェンやモーツァルトの交響曲シリーズ、ズーカーマン指揮でシューベルトの交響曲シリーズやハイドンのヴァイオリン協奏曲集とモーツァルト作品シリーズなどがある。
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歴史・沿革
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西明寺城の起源は、西明寺のある高館山に京都から移住してきた紀氏(後の益子氏)が本拠を構えた事から始まった[要出典]。 南北朝時代には、『結城文書』に「伊佐中郡御城、西明寺城、当城候」と記されており、関城、大宝城、伊佐城、伊佐中郡御城などと並んで、関東六城の一つに数えられ南朝方の最北端の拠点であった。その後、北朝方の攻撃を何度か耐えたが、1352年(正平7年)に関東六城の中で最後に落城した。 戦国時代に入ると、益子氏は一族内で内紛が続発し、衰退への道を歩むことになる。また、主家の宇都宮氏から離反と帰順を繰り返すようになった[要出典]。 1590年(天正18年)、業を煮やした主君宇都宮国綱は大規模な討伐を実行し、益子家宗を誅殺して益子氏の領地を没収した。この際に廃城となる。
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歴史・沿革
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1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城される。四神相応の地(東に棈木川、西に出水筋、南に錦江湾、北に城山)として選定された。前年の関ヶ原の戦いで薩摩国の島津氏は西軍側に属して敗北し、責を負って引退した島津義弘に代わり、義弘の実子で義弘の兄の義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、東軍として勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、1604年(慶長9年)に完成する。 忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していた。家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。しかし、数百年後、幕末の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになる。しかし、簡素な造りだったためにイギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃している。 鹿児島は災害の多い地域でもあり、また南国でシロアリ被害が多く、幾度も倒壊、焼失したが、そのたびに建て替えが行われた。しかし、1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されることはなかった。 1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室などが置かれた。 1971年(昭和46年)に、南日本新聞で「鹿児島城物語」を連載。鹿児島城を中心にした地域史を述べている。 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(97番)に選定された。
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歴史・沿革
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黒羽城の起源は、1576年(天正4年)に大関高増が白旗城から本拠を遷した事から始まった。 1590年(天正18年)の小田原征伐の際、主家の那須氏の那須資晴は小田原へ参陣しなかった為に改易されたものの、大関氏の当主である高増は、弟である大田原氏の当主大田原綱清の息子大田原晴清と共にいち早く参陣して所領を安堵(1万3000石)された。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいて大関氏は東軍に与したので、戦後に徳川家康から加増されて1万9200石の大名となった。また、関ヶ原の戦いのとき、徳川家康が会津の上杉景勝に対する備えとして大規模な改修が行われた。 1664年(寛文4年)に江戸幕府4代将軍徳川家綱からの領知朱印状によって、大関氏の石高は1万8000石に確定となり幕末まで変更はなかった。 1689年(元禄2年)に、松尾芭蕉が奥の細道の旅行中に4月3日から4月16日まで最長の14日間、城下に滞在した。 江戸時代を通じ、関東では珍しく外様大名の大関氏の支配は続いた。 1871年(明治4年)、廃藩置県により廃城となった。
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歴史・沿革
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991年(正暦2年)に鎮守府将軍藤原秀郷の流れを汲む藤原通直後裔の川野辺通直により築城され、以来、野口城は通直の後裔川野辺氏が世襲にて領有した。別称を川野辺城ともいう。なお、通直の兄は太田城を築城して太田通延と名乗り、子孫は小野崎氏となっている。 平安時代以降、常陸国北部は那珂で武門として名高い清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む佐竹氏と藤原秀郷の流れを汲む藤姓の両武士団が勢力を誇り、野口城は藤姓川野辺氏の拠点の役割を果たした。 南北朝時代に入り、川野辺資鎮は川野辺氏の庶家ながら有力な武士として台頭した瓜連城主の那珂通辰に従い、南朝方として活躍し佐竹氏に対抗したが、那珂通辰が敗死すると、川野辺氏も衰退し、穴技の地に退き、野口城は佐竹氏に明け渡された。 以後、野口城は佐竹氏の庶家野口氏により領有された。しかし、1540年(天文9年)、野口幹成が常陸守護佐竹義篤に背き敗北すると、幹成旧臣たる野口四天王らは佐竹氏に帰順、野口城は廃城となった。 現在は城址のみ残る。
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歴史・沿革
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多功城は鎌倉時代後期にあたる宝治2年(1248年)に、宇都宮頼綱の四男多功宗朝によって築かれたといわれている。 小山、薬師寺から宇都宮に通じる要路にあり、多功氏と同じく宇都宮氏一門の横田氏の横田城と並び[要出典]、宇都宮城の防衛に大きな役割を果たした。 戦国時代になると宇都宮城を防衛する拠点として大いに機能し、上杉氏や北条氏の苛烈な侵攻を幾度も撃退している。弘治3年(1557年)に上杉謙信の軍勢が宇都宮城を攻略するために多功城、上三川城を攻撃するが、多功城主の多功長朝の采配のもと、一門の児山城主児山兼朝、簗城主簗朝光・吉朝父子、家臣の石崎通季、野澤保辰、高木道重、上野祐朝、伊澤遠江守、木田淡路守、援軍で駆け付けた祖母井吉胤、矢板長則などの2000余りの軍勢の活躍によって、先陣の佐野豊綱などを討ち取り、撃退している[要出典]。 元亀3年(1572年)1月には北条氏が2000の軍勢で多功城に攻めてきたが、多功城主で多功長朝の子多功房朝が迎え撃ち、撃退している。さらに同年12月に再び北条氏が攻めてきているが、こちらも撃退に成功している[要出典]。 天正13年(1585年)12月に北条氏が再び多功城に攻めてきた。多功城主で多功房朝の弟多功綱継による徹底抗戦により、またもや北条氏は多功城を攻略できなかった。また、宇都宮城も攻略できず、宇都宮城下町の民家や寺院などに火を放つのみで撤退している[要出典]。 天正17年(1589年)9月に、北条氏が再び宇都宮城を攻略するために侵攻してきた。綱継は多功城に攻めてきた北条氏邦・北条氏に寝返った宇都宮氏重臣芳賀高継と戦い、これを撃退している[要出典]。 このように多功城は、宇都宮氏にとって欠かせない城であったが、慶長2年 (1597年) に豊臣政権の内部争いに宇都宮氏が巻き込まれて改易されると、多功城は廃城になった。
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歴史・沿革
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山口高治の子、山口高忠によって明徳・応永年間(1390年~1428年)に築城された。元々の城名は竜谷城や勝楽寺城と呼ばれていたが、後に山麓にあった集落名にちなんで根古屋城と名付けられたという。根古屋とは寝小屋という意味で、日本の各地に存在する字でもある。城主やその家臣らが平常時はこの集落や、山口城に居住し、有事の際にはこの根古屋城に籠るようになっていた。城の周辺には築城者である高忠から付けられた「小太郎坂」という地名があったと伝えられているが、現在では不明である。 父である山口高治は祖父・山口高実らとともに1383年に南朝の協力の下、上杉氏と戦ったが敗れ、山口城に火を放ち自害。 その後、上杉氏家臣の守護代大石氏に仕えた高忠によって山口城は室町時代末期に修復されたが、山口城はもともと館であったため、山口城とは別に根古屋城を築城し、山口城の城郭として機能させていたようだ。 高忠から5代目の山口高種の時、北条氏康の攻撃により根古屋城が落城し山口氏は後北条氏の家臣となった。その後も根古屋城は改修されながらも山口氏の家臣である伏見小太郎(「新編武蔵風土記稿」による)や、後北条氏の家臣の山住彦三郎(「武蔵野話」「勝楽寺村地誌」「江戸名所図会」による)が城主として存続したとされる。現在の東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷(当時の村山村の一部)の瀧田谷津・尾引谷一帯に、戦国時代末期、北条氏照に仕えたという村山党金子氏の一派村山土佐守義光がこの辺り一帯を治め、居館を構えたという伝承が残っている。そのため、殿ケ谷と呼ばれる地名が残っている。
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歴史・沿革
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小山城は、1148年(久安4年)に小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。 小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった。1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて起こった小山義政の乱では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が小山城と考えられている。小山氏は義政の乱で鎌倉府により追討され断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した。 その後は、代々小山氏の居城であったが、天正4年(1576年)に小山秀綱が北条氏に降伏して開城し、北条氏の手によって改修され、北関東攻略の拠点となっている。 小田原征伐ののち、1602年(慶長12年)頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、正純は1619年(元和5年)に宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった。 明治時代には第二代衆議院議長であった星亨の別邸が建てられたが、現存してはおらず、発掘調査で礎石と思われるものが確認された。 別名である祇園城は小山氏の守護神である祇園社(現須賀神社)からとったものである。
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歴史・沿革
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文亀3年(1503年)に平賀氏当主の平賀弘保は、居城であった御薗宇城の防備に不安を感じ、白山城を築いて居城とした。しかし、この城も堅城とまではいかず、白市を眼下に望み経済的には有利な城であったが、近隣に滝山城、新開城等の支城を整備して、最終的には頭崎城を築くまでに至った。 平賀弘保の息子、平賀興貞は頭崎城に入ったが、後に大内氏と尼子氏との対応で意見が異なり、親子で度々争った。後に毛利氏の介入によって親子の争いに終止符を打ち、家督を平賀隆宗に継承させた。 城は頭崎城が完成後も維持された。廃城年は不明。
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歴史・沿革
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1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い上新川郡寺田極楽寺村、浦田村、浦田新村、竹鼻新村、寺田極楽寺新村、西若林村、二ツ塚村、若宮村、引越田添村、沢端新村、高木村が合併し、寺田村が発足。 1896年(明治29年)3月29日 - 上新川郡が分割され中新川郡に所属。 1941年(昭和16年)6月1日 - 中新川郡弓庄村と合併し、新川村となり消滅。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 18:30 UTC 版)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで功績があった京極高次が若狭国を拝領、後瀬山城を居城とする。詰城であった後瀬山城本丸は標高が高すぎ、麓の旧守護館は近世大名として政務を執るには狭すぎたため、慶長6年(1601年)北川と南川と小浜湾の三角州に新たな居城(小浜城)の築城に着手し始めた。 近世の城として、戦時の防御性よりも行政処理の利便性に重きがおかれ、平坦な平野の中央部に築かれた。京極家2代京極忠高は越前敦賀郡を寛永元年(1624年)に加増され、小浜藩の藩領が確定する。 その後、寛永11年(1634年)に京極家が出雲松江藩へ転封されると、徳川家譜代の重鎮である酒井家の酒井忠勝が12万3000石で小浜藩に封じられ入城、城の整備拡張が続いた。寛永12年(1635年)には、3重3階の天守が完成、寛永19年(1641年)に城が完成し、藩主が移った。 その後、酒井家のもと明治維新を迎えたが、明治4年(1871年)に城内で大阪鎮台第一分営を設置する工事中に出火し、天守を除く城の大部分を焼失した。残存した天守は1874年に売却撤去された。 1875年(明治8年)に本丸跡に藩祖である酒井忠勝を祀る小浜神社が建立された。 1956年(昭和31年)に福井県の指定文化財史跡に指定される。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 04:34 UTC 版)
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い礪波郡高儀新村、庄新村、五ケ村、古上野村、筏村、高野新村が合併し、種田村が発足。 1896年(明治29年)3月29日 - 礪波郡が分割され東礪波郡に所属。 1952年(昭和29年)6月1日 - 東礪波郡青島村・東山見村・雄神村と新設合併し、庄川町となり消滅。 2004年(平成16年)11月1日 - 庄川町が砺波市に編入され、砺波市の一地区となる。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/30 13:37 UTC 版)
築城の年代は現在不明であるが、『太田道灌状』には文明12年(1478年)に、扇谷上杉定正と太田道灌が青鳥に在陣したという記述があり、この頃には城(あるいは城の原型となるもの)はあったと推定されている。 1560年代前半の松山城の攻防戦では、北条氏康方の城として機能したと思われる。なお、永禄2年(1559年)に成立した『小田原衆所領役帳』には狩野介が比企郡青鳥に、久米新左衛門が松山筋石橋にいたとしており、この頃の城主はこの二人のうちのどちらかであると考えられている。 その後、廃城になる。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐において豊臣氏方の前田利家・上杉景勝らが後北条氏方の松山城を攻める際、前田利家は廃城となっていた青鳥城跡に陣を置いた。 近年、青鳥城が廃城になったのは16世紀後半ではなく、16世紀前半とする説が現れた。
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歴史・沿革
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もともとは旧小正月に行われ、明治維新直後「物乞いに似た行為」として当時の県より一時禁止令が発せられたが、明治14年(1881年)に当時の有力者(大澤多門ら)により八戸町内(当時)の長者山新羅神社の神事として復興された。 その後、明治30年(1897年)からは「えんぶり行列」として同神社の相殿神として祀られていた稲荷大神の神輿渡御式も行われるようになり、明治42年(1909年)には伊勢神宮の2月17日の祈年祭に合わせて現行日に改められた。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/04 06:00 UTC 版)
宇都宮家臣の小宅高国が築城し小宅氏の居城としていた。 戦国時代中期には宇都宮氏と小田氏の間でこの城を巡り激しい争いがあった。 天文18年(1549年)に喜連川五月女坂の戦いで主君の宇都宮尚綱が討死した際の混乱に乗じて小田氏に攻められ小田家臣の信太氏が城主となるが宇都宮勢に反撃され奪還されている。 永禄7年(1564年)に小田家臣の信太頼範が大将の軍勢が攻め込んで来ており城主の小宅尚時は主家の宇都宮広綱に救援を出し籠城するが、坂戸城は攻め落とされ小田氏の手に渡り、小宅尚時は小栗城へ逃れた。その後、その後再び宇都宮勢の反攻に遭い坂戸城は再び落城し信太頼範は討死。小宅氏は再び坂戸城の城主となった。
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歴史・沿革
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真岡城の起源には諸説あるが、鎌倉時代末期の貞治元年(1362年)に芳賀高貞が築城して御前城から移転し、戦国時代の天正5年(1577年)になって、芳賀高継が後北条氏の侵攻に備えて堅固な城郭としたとの説が有力とされる。1597年(慶長2年)に宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されると同時に廃城となった。江戸時代には遺構の一部が徳川幕府の代官所として利用された。
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歴史・沿革
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『鎌倉大草紙』 享徳四年(1455年)六月の条に「成氏は総州葛飾郡古河縣こうのすと云所に屋形を立、……」とあることから、享徳の乱において鎌倉から下総・古河に移座した初代古河公方・足利成氏により築かれたと考えられている。長禄元年十月には「下河辺古河の城ふしむ出来して古河へ御うつりありける」とあるので、成氏は2年間程度本館を御所としたのち、立崎の古河城へ移ったことになる。 その後は氏姫の時代まで史料が乏しい。当時は舟で往来可能だった古河城とあわせて、一つの広大な城域を形成していた等の見方も示されている。なお、足利義氏についても、葛西城・関宿城・小金城・佐貫城・鎌倉への移座を重ねた末の永禄12年(1569年)に古河帰座を実現し、本館を御所としたとする見解もあるが、根拠となった史料は異なる解釈も可能なあいまいなもので、検討の余地がある。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の「古河城破却」(立ち退きの意か)令により、氏姫は古河城から本館に移ってきた。父の義氏は天正10年(1582年)に没していたが、古河公方の後継者が定まらず、氏姫が古河足利氏を継承していた。 天正19年(1591年)3月、秀吉は氏姫に対して、足利頼純の子である国朝との縁組を指示した。頼純は、かつて古河公方と対立してきた小弓公方・足利義明の子であり、天文4年(1535年)の国府台合戦で小弓公方が滅びたのちは、安房国の里見氏に庇護されていた。この婚姻の結果、鎌倉公方以来の関東公方家は再び統一され、下野・喜連川の喜連川氏として江戸時代へ継承される。文禄2年(1593年)に国朝が病死した後は、引き続き弟の頼氏と氏姫との婚姻が成立し、二人の間に義親が生まれた。氏姫はその後も古河を離れず、義親夫妻とその子の尊信とともに、元和6年(1620年)に生涯を終えるまでを本館で過ごした。 寛永4年(1627年)に義親が死去したのちは尊信が残っていたが、寛永7年(1630年)に喜連川にいた祖父の頼氏が死去すると、後を継ぐために古河を離れた。残された本館は時宗十念寺の寺域となる。
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歴史・沿革
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払川館は、陸奥国閉伊郡津軽石村に所在した。津軽石を本拠地とした津軽石氏は、一戸南部氏の支族で千徳城主千徳氏の分流。 津軽石村は古くは渋溜村と称し、初め村の北方 沼里館に沼里氏がいたが、文明年間(1469~87年)の頃、千徳氏の一族に攻められて没落。その後、一戸氏は沼里館に拠て、勢力を伸ばし、津軽石氏の始祖一戸南部行政が享禄元年(1528年)に入部して、やがて、払川に新城を築いて沼里館から移った。 天正11年(1583年)正月、千徳城における饗応の席で、津軽石九郎勝富(鬼九郎行重)は謀殺されて、払川館は千徳勢に囲まれて落城し廃城となり、津軽石の地は千徳氏の支配下に入るが、南部氏が閉伊を統一してからは南部氏の所領となった。
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歴史・沿革
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城主は、後北条氏の重臣であった遠山光影とする説と松山城主上田氏とする説がある。 主郭の発掘調査では染付、天目片等が出土、基づく城跡の年代推定は16世紀である。
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歴史・沿革
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築城時期は不明であるが、千葉の中心部から本佐倉城に続く北年貢道と呼ばれる古道沿いに位置し、後期千葉氏の拠点を守る最前線の城として機能していたと考えられる。 千葉氏は本佐倉城に移った後も、千葉妙見宮(千葉神社)で元服を行うことを原則としており、千葉昌胤の元服のときには妙見宮に近い「高篠」に立ち寄って、命名のためのくじをひき、装束や隊列を整えたという記録が残っている。「高篠」は高品の旧名である。 このとき、重要な役割を担った安藤豊前守が城主、またはその一族と考えられている。 城跡の西側には、安藤勘解由が開基した等覚寺という寺院がある。本尊である千葉市指定文化財の薬師如来座像には銘文が残り、城主と思われる勘解由以下30人以上の協力によって1571年に作られたものであることがわかる。
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歴史・沿革
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1978年 - 沖縄大学沖縄学生文化協会により発見された。 1986年 - 国の史跡に指定される。
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淵辺義博は足利尊氏の弟である足利直義配下の武将であった。1335年に北条時行による中先代の乱が起こると戦況が悪いと見た足利直義は義博に後醍醐天皇の皇子護良親王を殺害するように命令する。義博は護良親王を殺害するとその首を藪のなかに捨てたと太平記には書かれている。その後義博は直義に従って駿河国で北条氏と戦うがそこで戦死してしまう。 だが、一方で護良親王暗殺については、義博が親王を匿ったために生存していたという伝承もある、鎌倉から奥州石巻港に落ち延びたとか、 洞穴の中にかくまって奥州に落ち延びさせたといろいろある。 また義博には境川にいた大蛇を退治して村の人々を救ったという伝説も残っており竜像寺には今も蛇の体の一部と退治した時の鏃が残っているという。 現在の淵野辺城は石碑が建っているのみである。
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歴史・沿革
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「中国鉄路鄭州局集団公司」の記事における「歴史・沿革」の解説
鄭州鉄路局の前身は1904年に設立された鄭県駅であり、盧溝橋から漢口に至る路線の業務駅であった。その後日中戦争と国共内戦を経て1948年10月22日に人民解放軍が鄭州を占領し「中原隴海、平漢鉄路鄭州連合管理委員会」が出来た。1949年2月に「中原隴海、平漢鉄路連合管理局」と改められ、同年3月に「中国人民革命軍事委員会鉄道部鄭州鉄路管理局」が設立された。 1958年9月に中華人民共和国鉄道部鄭州鉄路局が正式に設立された。その後の鉄路局再編期間中に鉄道部は武漢及び西安鉄路局を鄭州鉄路局に併合したり分離したりした。2005年の再構成により鄭州局から武漢局、西安局が、北京局から太原鉄路局が分離独立した。 鄭州鉄路局の管轄区域は中国内で最大の鉄道路線のジャンクションである。鄭州は中国の著名な鉄道の枢軸になり、中国の鉄道史上で重要な位置を占めている。文化大革命の最中には鉄道による正常な交通を維持するために、再度の軍事管制が行われた。 2006年の中国企業500強ランキングで125位となった。
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歴史・沿革
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飛鳥奈良時代、朝廷と伊勢神宮を結ぶ為に造られた奈良街道の途中にある峠。12代景行天皇の第七皇女五百野姫(斎王)は峠近くの五百野の地で都に帰る途中、若き生涯を閉じた。五百野の地名は五百野姫からきている。古くは馬野峠と呼ばれていたが、鎌倉時代後期長野工藤氏の勢力が増すにつれて長野峠と呼ぶようになった。 徳川家康は本能寺の変が起こった時、堺から長野峠を越えて(伊賀越え)岡崎に帰城したという説がある。 1608年、豊臣方の押さえとしてこの地に入府してきた藤堂高虎は津城と伊賀上野城を結ぶ重要街道として街道の整備を行ったが、長野峠は豊臣方の侵攻に備えて整備をしなかった。藤堂藩が長野峠の拡幅工事を行ったのは豊臣氏滅亡後である。それまで奈良街道と呼ばれていたが、藤堂藩が津と伊賀を結ぶ官道として整備したことによいり伊賀街道と呼ばれるようになった。伊賀地域からは伊勢街道と呼ばれることもある。 元禄2年(1689)、俳人松尾芭蕉は伊勢神宮参拝を終え伊賀に帰る途中、峠の茶屋に立ち寄り、俳句を読んでいる。「初しぐれ 猿も小蓑をほしげ也」この名句は峠から伊賀方向に500mぐらい下った猿蓑塚に芭蕉句碑として残っている。芭蕉の生れ故郷・伊賀では芭蕉句碑を句碑ではなく芭蕉塚と呼んでいる。 1876年(明治9年)12月19日この峠を越えて伊勢暴動の一揆隊が安濃郡から伊賀へ進入。 1993年4月、国道の区間変更により長野峠を通る伊賀街道は県道から国道163号線に昇格した。
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歴史・沿革
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1946年(昭和21年) - 京都人文学園 創立 1949年(昭和24年) - 夜間部を設置 1951年(昭和26年) - 赤字補填事業として賀茂川学園(予備校)を設立 1954年(昭和29年) - 学校法人賀茂川学園 認可 1957年(昭和32年) - 京都勤労者学園に発展 1979年(昭和54年) - 大学進学研究会発足 1983年(昭和58年) - 学校法人賀茂川学園から学校法人関西文理学園に改称、関西文理学院高校生コース 開設 1986年(昭和61年) - ビジネスカレッジ京都 開校 1993年(平成5年) - バイオカレッジ京都 開校 2000年(平成12年) - 大学受験科国際進学コース「国際進学教育学院」 開設 2002年(平成14年)12月 - 学校法人関西文理総合学園 認可 2003年(平成15年)4月 - 長浜バイオ大学 開校 2010年(平成22年)3月31日 - 閉校。 閉校後は長浜バイオ大学(関西文理総合学園が運営)の京都キャンパスの一部になる。学校法人関西文理学園を学校法人関西文理総合学園へ統合
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歴史・沿革
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天文14年(1545年)、下館城主の水谷正村が築城。 天文年間、宇都宮家臣の八木岡伊織を大将とする約200騎により攻められるも、水谷正村がこれを撃退。 天文年間、宇都宮家臣の武田治郎を大将とする約3,000騎により城められるも、結城氏の援軍を受けた水谷正村が撃退。 元和元年(1615年)、いわゆる一国一城令が出される(これを受け久下田城も廃城か)。 寛永16年(1639年)、下館藩主水谷勝隆が備中国成羽藩に転封。
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名称は安達郡と信夫郡の郡境である境川から八町の距離にあることに由来する。境川は二本松藩と福島藩、現在では二本松市と福島市の境界でもある。 八丁目城の築城時期及び築城者は定かでないが、天文の乱の頃は堀越興行(能登守)の居城であった。伊達稙宗が大森城の支城として設置したと言われており、天文の乱の際に一時期在城した。元亀元年(1570年)、時の城主堀越宗範が二本松城主・二本松義国に寝返ったため、八丁目城は二本松領となる。しかし、天正2年(1574年)、大森城主・伊達実元が八丁目城を奪い返し、再び伊達領となった。以後、八丁目城は南の二本松氏に対する押さえの城として伊達氏にとって重要な拠点となった。天正12年(1584年)頃に実元が成実に家督を譲って八丁目城へ隠居し、のちに同城で没した。天正14年(1586年)に成実が二本松城に移り、片倉景綱が大森城主となった後も八丁目城は成実の所領としてそのまま宛われた。天正18年(1590年)の奥州仕置の際、浅野長政が大崎氏領へ向かう途中に八丁目城に滞留している。八丁目城はこの奥州仕置の際に廃城になったと思われる。
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歴史・沿革
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1602年(慶長7年)佐竹氏秋田入封と同時に築城される。城主は後に佐竹北家となる佐竹義廉である。 1623年の武家諸法度(寛永令)で廃城となり、1656年に角館城に移り、佐竹北家となる。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 00:39 UTC 版)
鎌倉時代初期より阿曽沼氏の本拠であった横田城は洪水の被害に遭いやすかったため、天正年間(1573年-1593年)のはじめの頃、阿曽沼広郷が横田村(松崎町)の横田城から鍋倉山に新城を築いて移り、旧居城の名前を継承して横田城と称した。一日市町と多賀里にあった六日町を移転させて城下の町屋の中心にしたといわれる。 天正18年(1590年)、小田原不参によって阿曽沼氏は領主権を没収され南部氏配下となり、天正20年(1592年)、「諸城破却令」には「横田 破 信直抱 代官 九戸 左馬助」とあったが、慶長5年(1600年)の阿曽沼一族内訌によって、遠野は南部氏の領するところとなり、破却はまぬがれた。 阿曽沼氏の旧領の内、横田城代として内陸部を上野・平清水両氏を知行させ、海岸地帯を大槌氏、田瀬を江刺氏に分知させた。城代の平清水氏は元和元年(1615年)刑死し、ついで、上野氏が同7年(1621年)に病死すると、遠野奉行の毛馬内三左衛門を横田城代として赴任させたが、治安の乱れが続いたため、南部利直は、寛永4年(1627年)、治安維持と仙台領との境目警護を理由に、八戸直義を八戸根城から横田城へ陸奥国代として領内の独自の裁量権を認められて入部させて、横田城を修復して鍋倉城と改め、当城を領内統治の拠点とした。 城下町は横田村地内に形成され、通称「遠野城下」と呼ばれたが、一国一城令以降は城ではなく館の呼称が正式であり、1804年(文化元年)の『郷村古実見聞記』では「要害屋敷 閉伊郡横田村 遠野」とされていた。 明治2年(1872年)に廃城となった。現在は、鍋倉公園として整備されている。
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歴史・沿革
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創始は明らかではないが、14世紀後半頃迄に先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したようだ。 増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられている。また、裏門以外に一の郭の2つの城門がアーチ式門となっていることから、その時同時に殿舎のある一の郭の城門をアーチ式に改築したと考えられる。 そして、1458年に護佐丸は王府軍としてやって来た阿麻和利の策略(首里王府の策略という見方もある)に攻められ自害して滅びる。その後、「中城王子の居城」→琉球侵攻(1609年)後は「番所」→廃藩置県(1879年)後は「中城村役場」として戦前まで利用されてきた。 また、1609年以後の薩摩藩支配時代は、中国からの冊封使節団が来琉した際、薩摩の役人は自らの存在を中国に知られないためにここに隠れていたという伝承もある。 日本に開国を迫ったアメリカのマシュー・ペリー提督が1853年5月に沖縄本島を訪れ、ここも訪ねた彼の一行は城を見て、城壁、アーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆し、この城に関する詳細な報告文を書いている。 1945年(昭和20年)沖縄本島では太平洋戦争の沖縄戦により多くの文化財が消滅したが、中城城は戦争の被害が少なかったため、グスクの石積みが良好に残った城だと言われている(戦後に補修が行われた)。 1955年(昭和30年)には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝の指定が行われた。その後、当城の本丸にホテルを建設する計画が立てられ問題となった(中城高原ホテルを参照)。 1972年(昭和47年)5月15日(沖縄県の日本復帰の日)に国の史跡に指定された。指定面積は110,473平方メートル(約33,400坪)でそのうち14,473平方メートル(約4,300坪)が城郭の面積。現在は補修・復元工事がすすめられている。 2000年(平成12年)11月、首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は中城城跡)。 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(99番)に選定された。 2013年(平成24年)「美ら島おきなわ・花と緑の名所100選」(沖縄県)にツワブキの名所として選ばれる。
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歴史・沿革
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水久保城のある只見川一帯は、戦国時代は山内氏という豪族の支配する地域であった。 山内氏は蘆名氏に臣従しており、現在の金山町にあった中丸城を本拠としていた。天正17年(1589年)、摺上原の戦いにおいて、会津領主の蘆名義広は伊達政宗に敗れ、会津盆地は政宗の支配するところとなった。しかし、山内家の当主山内氏勝は政宗に反抗し、そのため、政宗は大軍を中丸城へ派遣し、中丸城は落城する。 氏勝は、水久保城へ逃れ、抵抗を続ける。氏勝には、豊臣秀吉の意を受けた隣国越後国の上杉景勝から援軍と武器・食料が送られ、そのため氏勝は伊達軍に対して頑強に抵抗することができ、翌年の奥州仕置までついに政宗に降伏することはなかった。この時、氏勝には石田三成から書状が送られており、その内容を要約すると、「北条氏を攻め滅ぼした後はすぐに黒川城に攻め入り、政宗の首を刎ねるのでもう少し待っていてください。大沼郡伊北(山内氏の本領。現在の只見川流域)の地が弟・大覚助殿の所領であるということは重々承知いたしました。その件については関白様へ言上して許可を得、御朱印をお送りいたします。そちらのご様子が心配ないので取り急ぎこの書状でもってお知らせいたします。」というものである。 しかし、天正18年(1590年)の奥州仕置では、会津は蒲生氏郷の所領となり、山内氏は上杉景勝被官と見なされて所領は没収されてしまった。水久保城はこの時に廃城となったと思われるが、城跡遺構には、この時代より後の技法もあり、蒲生氏・上杉氏時代に修築された可能性も否定できない。
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歴史・沿革
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和智氏は、鎌倉幕府成立後に、関東の御家人である広沢氏が地頭として備後国三谿郡和知庄へ移住し、在地名をとって称したもので、南天山城は、南北朝時代(室町時代初期)の応安年間(1368年 - 1374年)に吉舎に和智資実が拠点を移した後に築いた居城である。この史実によって、資実を和智氏の初代とする。戦国時代に毛利氏に滅ぼされるまで約200年に渡ってこの地域を支配したと伝えられる。和智誠春の誅殺後、息子の元郷はこの地を離れ、城は廃城になったと伝えられている。 なお、城下の「古市」・「七日市」・「四日市」などの地名は、和智氏の城下町として形成されてゆく中で、命名されたものと思われる。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 00:52 UTC 版)
大永5年(1525年)、越後国から来着した神蔵氏第24代当主甚左衛門盛清が、小田原の北条氏綱の許しを得て築いたと言われている。盛清は浄土野森において扇谷上杉勢と戦い勝利をし、その功により永30貫文(24万坪)の地を後北条氏より賜った。その後、当地を直ヶ谷(のうがや)と名付け、天文13年(1544年)に城内に瑞香殿館を建立した。江戸時代になると瑞香殿館は幕府によって一度破却されるが、元禄6年(1693年)に建て替えられ、現在の建物は明治39年(1906年)に建立されたものであるが、一部に元禄時代の柱、棟札、大戸が残る。戦国時代の遺構は残らないが、子孫により瑞香殿館と美しい日本庭園は守られ、香山園(かごやまえん)として一般公開されていたが、平成27年(2015年)3月29日に閉館した。なお、2019年までに町田市が買い取り、再び一般公開する予定である。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 05:06 UTC 版)
永禄年間初期、三田綱秀によって築かれた。ただし、永禄年間以前より存在したという説もある。 永禄3年(1560年)の上杉謙信関東出兵後、城主の綱秀は後北条氏を離れ上杉方に付いた。 永禄4年(1561年)の上杉氏撤兵後、後北条氏と対立した綱秀が勝沼城から居を移した。 永禄4年(1561年)〜永禄6年(1563年)頃、北条氏照に攻められ落城した。(辛垣の戦い)
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 07:26 UTC 版)
康正2年(1456年)に市川城から移った千葉自胤によって築城されたと伝えられる。但し、伝承によればそれ以前に源頼朝が挙兵後に徳丸を通過した際に立ち寄ったとも言われており、正確なところは不詳である。赤塚城は、真北にある荒川の早瀬の渡し場を一望し、また武蔵北部から武蔵南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道(埼玉道)を押さえる、陸運、水運を掌握する要衝であった。赤塚千葉氏は後北条氏の有力な家臣として活躍したが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、赤塚城は廃城になった。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 19:59 UTC 版)
応永3年(1396年)、奥州管領に任じられた宇都宮氏広が築城。当初はこの城を四本松城(しおのまつじょう)と称した。宮森城と名を改めたのは、文明3年(1471年)にこの城を修築して入った塩松石橋氏家臣・大河内修理である。 永禄11年(1568年)、塩松石橋氏最後の当主・石橋尚義が、田村氏に内応した小浜城主大内義綱らによって追放され石橋氏が亡ぶと、翌永禄12年(1569年)に義綱は石川有信・寺坂信濃と共に宮森城主・大河内備中を攻め滅ぼし(大河内・大内・石川・寺坂を石橋四天王と称した)、宮森城は大内領となる。義綱の子・定綱が家督を継ぐと、大内氏は田村氏からの独立を画策したため、天正13年(1585年)、田村清顕の娘婿・伊達政宗によって攻められ、定綱は小浜城を放棄して二本松城へと逃れ、宮森城もまた伊達領となった。政宗は引き続き二本松城主・二本松義継を攻めるため小浜城に入り、その後を追うようにして政宗の父・輝宗(伊達氏先代当主)が宮森城に入った。義継が政宗に降伏を申し入れると、政宗は二本松氏の所領のほとんどを召し上げるという条件を突き付けたが、輝宗の斡旋により条件が緩和されることになった。10月8日、義継は輝宗の尽力に謝意を表すため宮森城を訪れたが、その帰り際に突如輝宗を拉致した。政宗は阿武隈川河畔で義継に追いつくと、輝宗もろとも義継を銃撃して射殺した(粟之巣の変事)。この後、宮森城には白石宗実が入って塩松地方を押さえた。 天正19年(1591年)、葛西大崎一揆鎮圧後に政宗が岩出山城へ転封されて安達郡を没収されると、宮森城は蒲生氏郷の所領となる。江戸時代には二本松藩領となり城代が置かれたが、やがて廃城となった。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 09:25 UTC 版)
中世の城郭。三戸南部11代伊豫守信長の子信継が一戸実朝の跡を継ぎ、康暦年間(1379-1381年)に九戸郡野田村に移り、十府の「古館」(三日市場)を居城にしたと伝えられており、古館の築城年代などは詳細不明である。天正10年(1582年)一戸政義の代に野田氏と称した。 天正19年(1591年)、野田掃部助政親は南部信直について九戸政実の乱に参戦した。天正20年(1592年)の諸城破却書上には、「乙部 山城 破 一戸 掃部助 持分」とあり、野田氏累代の持城が破却されたあとに妻子を三戸に移住させ、野田の愛宕山の北方に館を築造し「新館」と称し、館の下に家士を配してこの地域を城内と称した。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 06:24 UTC 版)
1953年 (昭和28年) - 北海道札幌市琴似町八軒にて故沼田豊治により個人経営創業。 1959年 (昭和34年) - 株式会社沼田椅子製作所を設立する。 1963年 (昭和38年) - 札幌木工団地に工場を新築し移転。 1975年 (昭和50年) - 札幌市曙の手稲工業団地に手稲工場を新築。 1975年 (昭和50年) - 第18回全日本優良家具展にて内閣総理大臣賞を受賞する。 1979年 (昭和54年) - 代表取締役社長に沼田俊一が就任。 1993年 (平成5年) - 石狩市新港中央3丁目に工場新築し、札幌木工団地より移転する。 1997年 (平成9年) - 石狩工場第2期建設し、手稲工場を移転する。
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歴史・沿革
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1957年5月3日 - 別府食品株式会社(現在のマルショク →サンリブ)の3店目の店舗である丸食流川店として開業。生鮮3品、一般食品、雑貨を取り扱う木造2階建て、約400m2の食品スーパーであった。その後、数年ごとに増改築を重ねる。 1964年 - マルショク他店に先駆けてレジスターを導入。 1966年11月 - 増床、衣料品の取扱を開始、総合スーパーとなる。 1981年4月1日 - 大規模増床開店。7階建て、延べ面積11,000m2で、建物がほぼ現在の姿となる。立体駐車場も設置。増築部分にあった菊家本店は隣接地に移転。 1984年12月 - マルショク初のPOSシステム導入。 2007年8月26日 - 改築のために全館一時閉店。 2007年10月4日 - 1階のみ暫定再開店。レジの拡充などを実施。その後、各階順次改装再開店。 2007年12月 - 3階のベスト電器跡に大分カルチャー学院の文化教室がオープン。 2008年12月 - ダイソーが3階に移転後、4階に大ホール(催事場)が整備される。 2012年7月 - 2013年2月を目途に閉店することが明らかになった。 2013年2月28日 - 午後6時をもって閉店。 2013年12月 - 解体を開始。 2016年9月7日 - 流川通り店としてオープン。
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歴史・沿革
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関ヶ原の戦いにより、福島正則は安芸国へと移封され、広島城に入った。関ヶ原の戦いに敗れたとはいえ、毛利氏は長門国・周防国36万石を領し、徳川氏と豊臣氏の争いもまだ決着を見ていない不穏な状況であった。そのため毛利氏の上方への侵攻を防ぐために安芸国西部に城を造ることとなった。1603年(慶長8年)に山陽道を押さえる要地に築城が開始され、5年もの歳月をかけて、非常に巨大な堅城として完成した。城主になる予定だった福島正則の甥・福島正宣は前年に死去しており、山田小右衛門と森佐助の両名が城代として城に入った。 豊臣氏と徳川氏の軍事的衝突の危機が高まると豊臣恩顧の福島氏への徳川氏の圧力が非常に強くなり、正則は徳川氏の意向に従うこととなった。結局、亀居城は完成よりわずか3年後の1611年(慶長16年)に破却され、その役目を終えた。 天守や主要な建造物は撤去され、城地はそのまま荒れるに任され草木に埋もれていった。しかし1977年(昭和52年)に発掘調査がなされ、徐々に修復が進み亀居公園として整備された。1983年(昭和58年)11月4日に市の史跡となり、現在は桜の名所として市民に親しまれている。
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歴史・沿革
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「名古屋経済大学短期大学部」の記事における「歴史・沿革」の解説
1907年 名古屋女子商業学校を創設する。 1923年 名古屋第二女子商業学校を併設。 1945年 財団法人市邨学園が発足。 1951年 学校法人に組織変更。 1965年 市邨学園短期大学(いちむらがくえんたんきだいがく 英称:Ichimura Gakuen College)として開学。家政科 商経科 2005年にキャリアデザイン学科に改組。 1967年 保育科を増設家政科を専攻分離する。家政専攻 食物専攻 1970年11月24日 名古屋鉄道の電車が小牧駅-楽田駅間でショベルカーと衝突、脱線。乗車していた通学途中の生徒50人が重軽傷を負う。 1988年 英語科を増設 1990年 学科及び専攻名を変更。家政科→生活文化学科家政専攻→生活文化専攻 食物専攻→食物栄養専攻 2002年 名古屋経済大学短期大学部と改称。共学となる。英語科を現代コミュニケーション学科に改組。 2005年 生活文化学科・商経科・英語科を統合してキャリアデザイン学科を設ける。 2016年 学生受け入れを最終とする。 2018年 廃止認可された。
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歴史・沿革
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歴史上、最も当城が注目されたのは1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いとほぼ同時期に発生した慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)(西軍の上杉景勝が東軍の最上義光を侵攻したもの)の頃である。当時、福島県会津地方及び山形県庄内地方と置賜地方、合わせて150万石と言われた上杉勢は西軍に与しており、東軍に付いた最上氏(約24万石)を制圧するため、現在の山形県置賜地方(最上領の南方)と庄内地方(最上領の西北)から、上杉景勝配下の直江兼続を大将として最上領攻略を図った。そして、その支城をことごとく開城または落城させていき、山形城攻略のための最終的な足場確保のために長谷堂城を攻めた。それに対し、最上義光の幕下で智将と言われた 志村伊豆守光安は約1000の手勢を従えて篭城しその攻撃に耐えた。また、長谷堂城の山裾の足場のぬかるみとなっており、この天然の要害にとまどい前進できない上杉勢を攻め立て悩ませた。この合戦において上杉勢は溝口左馬之助、上泉主水等の猛将が討ち死にするなど、損害を出し(城を見上げる水田の中に主水塚がある)、戦が長引く中石田三成率いる西軍が関ヶ原で敗北したことで、上杉勢は撤退を余儀なくされる。 戦後、長谷堂城は坂光秀に与えられ、光秀没後は子の坂光重が継いだ。しかし、1622年(元和8年)に最上騒動により、山形藩主・最上義俊が改易されると、幕府は周辺諸藩に軍勢を出させ、各城の受け取りをさせた。長谷堂城の受け取りを担当したのは、皮肉にも景勝であった。長谷堂城は収公後、破却された。なおこの時には、兼続は既に死亡しており、景勝も収公の翌年に没した。
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歴史・沿革
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戦国時代後半、この安芸国西条の地にも大内氏と尼子氏の勢力が伸び、両者の争いが激化していった。大永3年(1523年)6月、大内方の鏡山城が落城した。平賀氏当主平賀弘保は居城であった白山城の防備に不安を感じ、近隣の頭崎山に築城。嫡男の平賀興貞を城主とした。ところが、興貞は父の意向を無視して尼子氏に属し、大内方に味方した弘保と孫の隆宗・広相で争いを繰り広げることとなった。 天文9年(1540年)、大内義隆の命を受けた毛利元就がこの高屋保へと進出、頭崎城を攻略した。敗れた興貞は出家して、平賀氏の家督は興貞の嫡子である隆宗が相続した。平賀隆宗は大内方として活躍するが、天文18年(1549年)に備後国神辺城を攻撃中に死去した。祖父の平賀弘保は家督を平賀広相に継がせようと考えたが、大内義隆の策謀によって平賀氏の家督は小早川氏庶流の義隆の寵童が改名して相続し、平賀隆保と名乗った。 天文20年(1551年)に大寧寺の変で大内義隆が陶隆房(陶晴賢)によって殺害されると、陶方に味方していた毛利元就は、大内方であった頭崎城の平賀隆保を攻めて落城させ、家督を平賀広相に継がせた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、平賀氏もそれに随行し、頭崎城も廃城となった。 昭和44年(1969年)4月28日、御薗宇城、白山城、平賀氏の墓地と共に「平賀氏の遺跡」として県指定史跡に指定された。
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歴史・沿革
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小山田氏が承安年間(1171年~1174年)に小山田城の支城として築城。のちに小山田地方は、扇谷上杉氏の版図となり、1476年(文明8年)長尾景春の乱が起きると小野路城は小山田城と共に扇谷・山内軍の拠点となった。翌1477年(文明9年)小山田城は長尾勢に攻め落とされ、このとき小野路城も落城したと考えられる。
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歴史・沿革
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戦前(1935年ころ)よりあった鉄道模型メーカーで、製造のみではなく東京都文京区に店舗も構えられた。カワイモデルと並び数々の真鍮製鉄道模型製品を送り出し、普及に貢献した。 1946年に創業者が復員して店を再開。他のメーカー同様アメリカ向けHOゲージの製造・輸出をしていたが、早い時期に日本型16番ゲージ製品の開発に着手。パイオニアとして16番ゲージの発展に貢献した。初期の代表的な製品としてはC61(16番で最初に製品化された国鉄制式蒸気1950年発売)・近鉄2200系・モハ20系こだまやアメリカ向け輸出製品としてBig Boyやキャブフォワードなど多種多彩な製品を送り出した。同じ形式でありながら、たびたび仕様変更を行ったため、生産時期の特定の難しい製品も存在する。さらに他社製品のOEMも行っていた (歌川模型のEF13凸など)。またマイクロキャスト水野をはじめ同社勤務を経て、後に独立しメーカーを起こした人物もあり、人材育成の面でも貢献していた。 1972年より卸売り部門CABを設け、鉄道模型社は小売部となる。従来の製品はブランド名CABで販売した。しかし1年でCABは消滅。量産製品の製造販売を停止した。その後真鍮板にエッチングを施した板状のキット (後述) を主に製造するようになったが、後に店舗にてそれらキットを組み立てた完成品も販売された。 1995年に経営者の死去に伴い廃業した。一部の製品は他店に引き継がれて製造・販売されている。
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歴史・沿革
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「スターダンサーズ・バレエ団」の記事における「歴史・沿革」の解説
1964年「スター・ダンサーの競演によるバレエ特別公演」(日比谷公会堂)関直人の「ワルツ・ノーブル・センチメンタル」「帯」「白の旋律」の3作品 太刀川瑠璃子の最後の舞台。以後、バレエ団経営の裏方に回る。 ニューヨークから帰国した小川亜矢子も参加する。 1965年「アントニー・チューダー・バレエ特別公演」「暗い悲歌」「火の柱」「底流」「リラの園」「小さな即興曲」アントニー・チューダー特別招聘 スターダンサーズ・バレエ・カンパニー発足服部・島田バレエ団のスタジオを借りた。 当初は、太刀川瑠璃子、小川亜矢子の2名代表体制。
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歴史・沿革
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「学校法人函嶺白百合学園」の記事における「歴史・沿革」の解説
設置校の戦時疎開から終戦後までの経緯については、函嶺白百合学園中学校・高等学校を参照。 1949年 - 戦後の学制改革(1947年)により、新制の函嶺白百合学園幼稚園、函嶺白百合学園小学校、函嶺白百合学園中学校・高等学校が発足。 同年12月15日 - 私立学校法が公布され(翌年3月15日施行)、学校法人制度ができた。 1951年 - すでに存在している函嶺白百合学園幼稚園、函嶺白百合学園小学校、函嶺白百合学園中学校・高等学校を設置校として、学校法人函嶺白百合学園設立。 1981年 - 函嶺白百合学園幼稚園を廃止。
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歴史・沿革
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「ジオラマ・京都・JAPAN」の記事における「歴史・沿革」の解説
2010年(平成22年)嵯峨野観光鉄道20周年記念事業の一環として、温室施設を改修し、日本最大級のHOゲージジオラマを作成することを決定。 国鉄EF66形電気機関車(EF66 45・49)の前頭部を搬入、本格的に設営が始まる。 2011年3月1日 - 開業。 2012年1月 - 施設のリニューアルおよび増築を実施。
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歴史・沿革
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館主は和賀一族の鬼柳氏で、東方にあった丸子館から南北朝時代に鬼柳義綱が移り住んだとされるが、遺物の年代から室町時代後期の館と考えられている。和賀川下流領域の各郷を支配し、応永8年(1401年)以降、宗家に変わって和賀郡一円の惣領頭となったが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置により所領没収、城地追放の処分がなされた。 天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「鬼柳 平城 破 南部主馬助持分 代官 鬼柳源四郎」とある。
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歴史・沿革
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築城年および築城者に関する詳細は不明であるが、15~16世紀に原氏や高城氏の支配下にあったことは間違いない。長禄・寛正年間には古河公方足利成氏と堀越公方足利政知や関東管領上杉房顕が関東の各地で闘争を起こしていて、この時に古河方の下総千葉氏家臣原信濃入道とその子息原八郎は将軍足利義政の命令で幕府方の上杉氏と応じ、松渡城(松戸城)に入った。この時の原信濃入道は原胤高の孫と考えられている。その後、第一次国府台合戦の時には後北条氏軍が天文7年(1538年)10月6日夜に江戸城を発した後、7日朝に松戸城に着き先勢を上げた。
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歴史・沿革
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1898年 - イギリス・リバプールのフランク・ホーンビィは、自分の子供の為に金属部品をボルトとナットで組み立てて形を作る玩具を作成した。ホーンビィは『メカニクス・メイド・イージー』(Meccanics Made Easy) という名称でこの玩具の特許を取得した。 1901年 - メカニクス・メイド・イージーの製造販売を行うメカノ社を創業し、1907年、『Meccanics Made Easy』の名称を『メカノ』 (Meccano) へと変更。1908年にリバプールに工場が建設され、メカノのセットが発売された。 1910年 - 「メカノ」が世界中へ輸出されはじめ、それによりメカノ社は成功し大きく発展をとげた。 1912年 - ホーンビィの息子のローランド・ホーンビィ (Roland Hprnby) によってフランスのパリ郊外に工場が建設されフランス向けの「メカノ」の製造が開始された。また同年ドイツのベルリンにも事務所が設けられ、メルクリン製品の下請け製造を開始した。メルクリンからはぜんまいを輸入していたものの、第一次大戦の影響で輸入できなくなり、1914年にメカノ社自らリバプールでぜんまいの製造を開始。そのころスペインとアルゼンチンでもメカノの工場が建設された。 1914年 - メカノの売れ行きが良く、それまでの工場が手狭になったため、新しくリバプールに大規模な玩具製造工場を建設し、そこを本社とした。 1916年 - 「メカノ誌」第一号発行。以後1981年まで発行される。 1920年 - ぜんまい式のOゲージ鉄道模型を発売。1922年にはアメリカに進出し、ニュージャージー州に工場を建設しOゲージの製造をはじめたが売れ行きが悪く、大恐慌の影響もあり1930年に撤退した。ニュージャージー州の工場は後年エレクターを製造することになるA.C.Gilbert社に売却された。 1934年 - Oゲージ鉄道模型のアクセサリーとして同スケール (縮尺1/43.5) のミニカーの「ディンキー」の製造が開始される。1938年にはOOゲージ鉄道模型の「ホーンビィ・デュブロ」(Hornby Dublo)を発売。 1942年 -第二次世界大戦の影響で製造が中断。1945年に再開するも、1950年には朝鮮戦争の影響で再度中断した。 1959年 - フランスのパリ郊外の工場をHOゲージ鉄道模型「ホーンビィ・アショオ」 (Hornby-acHO) 専用とし、フランス北部カレー近郊にメカノの新工場が建設される。 1960年 - ベークライト製ストラクチャーメーカーのBaykoを買収し、一部のプラスチック部品をベークライトに変更。 1964年 - 経営悪化により、ライバル会社であったラインズ・ブラザーズ社に買収された。 1965年 - Oゲージの汽車のえほん関連商品「Percy the Small Engine(ちびっこ機関車パーシー), brought to life by Meccano」を発売。売れ行きが悪かったのか、短期間しか製造されず、余った在庫は顔を取り、赤い部品で置き換えて販売された。この製品は、リバプールの工場で生産された最後のOゲージだった。 1970年 - ラインズ・ブラザーズは社名をMeccano Tri-angと改名した。 1971年 - ラインズ・ブラザーズ社が倒産し、メカノ部門はイギリスのエアフィックス社 (Airfix) に買収され社名はメカノに戻ったが、フランス工場はアメリカの食品メーカーであるジェネラルミルズ社 (General Mills) に買収され、メカノ (フランス) 社はジェネラルミルズ社傘下でかつてリスク (Risk) を発売していたゲーム会社のミロ社 (Miro) に併合され、ミロ・メカノ社 (Miro-Meccano) と改名された。鉄道模型部門はDunbee-Combex-Marx(DCM社) に買収された。 1979年 - テレビ等の影響で生活環境が変わり、売り上げが減少していたメカノを清算すべくエアフィックス社はリバプール工場を閉鎖したが、フランスでは製造が続けられた。 1981年 - エアフィックス社が倒産し、ジェネラルミルズ社によってイギリスのメカノ社も買収され、フランスのミロ・メカノ社に吸収された。その際にそれまでの製品を廃止し、新シリーズを投入した。 1985年 - フランス人会計士のマルク・レビボ (Marc Rebibo) によってミロ・メカノ社が買収され、社名はメカノ (フランス) 社に戻り、廃盤となったいくつかの製品が再発売された。 1989年 - フランスの金融会社であるFinamec社によってメカノ (フランス) 社が買収された。フランスにおいてメカノの製造は続けられた。1990年にはアメリカの「エレクター」の商標を買い取り、アメリカにて「エレクター・メカノ」として発売された。1994年からはそれまでの金属部品に代わってプラスチック部品を主に使った製品が登場した。 2000年 - 経営悪化により、日本の玩具メーカーであるニッコー (NIKKO) に買収された。その後はフランスと中国において製造されている。 2005年 - カレー工場に新しい生産設備を導入し、従業員を150人から80人に削減した。 2007年 - アレッサンドロ・ベネトン (Alessandro Benetton) が所有する「21 Capital Partners」と、アラン・アンベール (Alain Ingberg) が資本参加し、ニッコーから独立した。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 08:24 UTC 版)
1975年に創立され、2年後の1977年に京葉学院進学予備校と改称された。 1984年には、各校舎の名称を、教室から校に変更された。また、1997年に元の京葉学院に改称された。 京葉学院では生徒全員に8桁の学籍番号があるが、その番号には規則性がある。 小中部の卒業年下2桁+所属校舎の開校順の番号(下記年表参照:例、千葉校=01 姉崎校=02・・・)+所属校舎での入学順の番号 1975年 京葉学院創立 1977年 京葉学院進学予備校に改称、千葉教室(現千葉校)・市原教室(現姉崎校)開校 1981年 木更津教室(現木更津校)開校 1982年 稲毛教室(現稲毛校)開校 1984年 君津教室(現君津校)、八幡校開校 1986年 都賀校、成田校開校 1987年 五井校開校 1988年 誉田校、検見川校開校 1989年 佐倉校開校 1990年 西千葉校、四街道校開校 1991年 東金校、茂原校開校 1992年 土気校開校 1993年 新検見川校、蘇我校開校 1996年 八街校開校 1997年 京葉学院に改称 1998年 鎌取校開校 1999年 検見川校が移転、検見川浜校(現幕張ベイタウン校)に改称 2001年 高校部木更津校、高校部君津校開校 2002年 高校部茂原校、個別指導タクシス土気教室開校 2003年 個別指導タクシス茂原教室、個別指導タクシス木更津教室開校 2005年 高校部蘇我校、個別指導タクシス蘇我教室開校 2006年 個別指導タクシス検見川浜教室開校 2007年 八千代中央校、幕張本郷校開校 2009年 千葉みなと校開校 2010年 高校部西千葉校(現ネクサス西千葉校)開校 2011年 高校部成田校(現ネクサス成田校)、ネクサス千葉校(現高校部千葉校)開校 2012年 稲毛海岸校開校 2014年 個別指導タクシス稲毛海岸教室、新浦安校開校 2015年 津田沼校開校 2016年 船橋校、個別指導タクシス幕張ベイタウン教室開校 2017年 行徳校開校 2019年 おおたかの森校開校、新検見川校移転 2021年 四街道校移転
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 09:59 UTC 版)
金山川左岸に面し、東西に長く延びる標高260メートルの丘陵の西端部に立地しする。町立金山小学校の裏手にあたる。 天正9年(1581年)に、最上義光が小野寺義道を攻めるために、現在の山形県最上郡と秋田県雄勝郡を分ける有屋峠のふもとにある金山の地に、家臣の丹与惣左衛門に命じて城を築かせた。現在の金山町中心部の街割は、丹与惣左衛門の時代に作られたものである。しばしば仙北の小野寺氏と付近の有屋峠付近で小競り合いがあり、与惣左衛門は出陣を繰り返している。 丹氏の後は、鮭延秀綱の家臣・薗部彦右衛門が1000石で入城した。続いて慶長末年までには同じ鮭延氏の家臣・川田三右衛門が城代となっている。元和8年(1622年)、最上家が最上騒動により幕府に改易されると、伊達氏によって廃城になった。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/10 10:10 UTC 版)
「トレイン・トレイン (鉄道模型ウェブサイト)」の記事における「歴史・沿革」の解説
2008年3月21日 - 開設。 2009年4月17日 - 鉄道模型通信販売を開始。 2011年2月 - コミュニティを新設。 2015年12月18日-全サービス終了。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/10 05:36 UTC 版)
1971年からハンス・ベック (Hans Beck ) によって開発が始まったプレイモービルであったが、1973年のオイルショックの影響で、1974年から玩具に使用するプラスチックの原料である石油の価格が跳ね上がった。原料の値上げによって、大きなプラスチック製玩具は採算割れを起こすことから、小さなプラスチック製玩具へ移行することになった。 1974年のニュルンベルク国際玩具見本市の前までに、小さいプレイモービルが開発された。最初の製品では「工事中」「西部劇」「騎士」などのテーマに沿って20種類のアクセサリーが展開された。1976年には「女性」が加わり、「子供」「赤ちゃん」は1981年から1983年に発売された。毎年少しずつ製品は改良され、人形の髪型などが変更されていった。 アメリカでは、1982年からSchaper Toysが輸入し発売した。 日本においては、かつては現地法人の日本プレイモビル社、その後エポック社が輸入代理店となって発売されていた。一時期はテレビCMが放送されたり、明治製菓でお菓子のおまけに採用されたが、後に輸入が中止され、日本において正規販売店が存在しない状態が長年続いた。1990年代後半に入り増田屋コーポレーションが輸入を再開し、増田屋の後はアガツマが輸入していたが2010年末で代理店契約を終了。2019年、株式会社ホットトイズジャパンが国内正規代理店となり、日本公式オンラインストア「プレモストア」をオープン。11月には量販店での展開を開始した。
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歴史・沿革
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東禅寺の歴史は極めて古く、伊予国(愛媛県)の豪族、越智氏、河野氏、今治城主藤堂氏、松平(久松)氏の帰依厚く隆盛を極めた。 推古天皇10年(602)、夷狄鉄人が大陸より兵八千を率いて九州に進攻し京都を窺おうとした時、伊予国司小千(越智)益躬公勅命を受けて兵庫蟹坂の地にて激戦の末これらを討ち取ったが、多数の臣下を失いその菩提を弔う為に堂宇を建立し東禅寺と號したのが始まり。慶雲元年(704)10月、文武帝の詔により益躬公の勲功を賞し、太政大臣の位を贈られ、東禅寺に隣接する鴨部神社の祭神 鴨部大神として祀られた。 本尊の薬師瑠璃光如来(今治市指定文化財)は、越智玉澄公の命により天平元年(729)8月、行基律師が巡錫の際に霊樹の根幹にて等身の尊象を自作し安置されたと伝わる。 観音堂に祀られている観音像は、天智天皇2年(663)、百済の白村江の戦いにて日本の水軍が、唐、新羅の連合軍に大敗し、越智郡主越智直公が捕虜となった際に一体の仏様を見つけ、一心に無事の帰国を念じたところ、その願いが叶い帰国することができたため、堂宇を建立し丁重に安置されたと伝えられている。 延久5年(1073)伊予国司源頼義公、伊予介河野親経公と共に同志して七堂伽藍が再建される。 文治元年(1185)11月 伊予国守護河野伊豫守越智朝臣通信公により七堂伽藍が再建される。伊予国の守護職であった通信公は、東禅寺でご生誕、ご成人されたと伝えられている。承久の乱では鎌倉に赴き後鳥羽院方に参じたが敗軍となり奥州平泉に配流され、貞応2年(1223)5月19日、御年68歳で生涯を閉じる。戒名を東禪寺殿前豫州大守觀光西念大居士。通信公御孫、時宗開祖一遍上人により位牌奉納があり、また一族遺骨をわけて当山に埋葬し通信公の菩提寺となる。 元弘3年(1333)11月 河野備後守通綱公七堂伽藍を再建。 文中3年(1374)3月 法王覚理並びに聖尊王門脇中納言、小笠原勢との合戦にて伽藍灰燼し寺領を没収される。 文明3年(1471)河野通昭公により伽藍再建、寺領奉納。 永正15年(1518)河野通宣公により本堂(薬師堂・後に国宝)再建。 天正13年(1585)8月 秀吉四国征伐の時当山陣営となり、兵火の為宝物灰燼する。 慶長16年(1611)寛永9年(1632)に今治城主藤堂高吉公により本堂修膳。 寛文2年(1662)城主松平定房公により伽藍補修整備。 文化2年(1805)城主松平定剛公により本堂修膳。 慶応4年(1868)城主松平定剛公より本堂修膳費として銀十枚を被る。 明治26年(1893)内務省より建物保存資金として五拾円を受ける。 明治37年(1904)8月29日 通宣公により再建された本堂は、室町期の作として国宝の指定を受ける。 昭和9年(1934)本堂(薬師堂)の全解体修理が行われる。 昭和10年(1935)文部省より六千三百円、今治市より七百円を賜る。薬師堂の全解体修理が行われる。 昭和20年(1945)8月6日の大東亜戦争今治空襲により薬師堂焼失。ご本尊薬師瑠璃光如来は、空襲前に時の住職堅城和尚が疎開させ難を逃れる。 現薬師堂は、解体修理された際の文部技官による記録と、県庁に残されていた図面に基づき、昭和31年(1956)に再建されたものである。 空襲により松並木の参道を失い、また昭和28年(1953)戦後今治市都市計画法により境内の間に市道が通ることとなり、本来の境内地の姿を失いながらも法燈を護り現在に伝えている。
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歴史・沿革
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永禄3年(1560年)頃に、岩槻(岩付)太田氏の岩付城の支城として建設された。初代城主は、岩付城主太田資正(三楽斎)の四男(ないし五男)の潮田資忠(母方の姓を名乗った)である。 岩付から見て西方の、見沼の対岸に築城された。氷川神社を後ろにしており、大宮台地のほぼ中央に位置する。かつては北と南に、それぞれ見沼の入江があり、水に囲まれた城だった。大宮台地を挟み、入間川の対岸である河越城との中間に位置する。 太田資正の嫡男氏資が後北条氏方に属して岩付城主になると、寿能城も後北条方の城になる。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、北条に従って小田原に籠城した城主の潮田資忠・資勝父子は4月18日に小田原城にて戦死した。岩付城と寿能城も豊臣方の浅野長政軍に攻められて5月に落城し、家来やその妻子は見沼に身を投げたと言われる。このことから、大正から昭和初めに村人に供養を願って現れた蛍になった姫の話が伝わっている。 その後は廃城となり、徳川家康の治下に一帯の開発が命ぜられ、城址はほとんど失われたが、徳川に下った資忠の子孫である古河藩家老潮田資方が、元文3年(1738年)に、潮田家遺臣の北沢甚之丞(北沢家は中山道大宮宿の有力者となっていた)に、資忠の墓碑を城跡に建てさせた。 1926年(大正15年)3月21日に埼玉県史跡に指定されたが、太平洋戦争時には城址に高射砲が敷設され、遺構の破壊が更に進んだ。なお、この高射砲は当初大宮公園陸上競技場に設置の予定であったが、関係者の反対により城址に設置されることとなった。終戦後は城址の大半が市街化し、1958年(昭和33年)2月16日に城地の中心である墓碑の周囲(現在のさいたま市大宮区寿能町2丁目155番地)が広さ0.387ヘクタールの寿能公園として整備され、同年4月15日開園式が挙行されたが、城址の面影は残っていない。1962年(昭和37年)に、史跡から旧跡に指定変更された。
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歴史・沿革
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鴫山城の築城年代は不明であるが、『塔寺八幡宮長帳』には、長禄4年(1459年)に山内越中と白川氏が「南山しき山の城」を攻め落としたことが記載されており、この頃にはすでに存在していたことは確実である。鴫山城一帯(「南山」と称されている)は、長沼氏が支配しており、鴫山城を築城したのも長沼氏と推定できる。16世紀初頭、長沼氏は長沼政義の代に蘆名氏の蘆名盛高とともに下野国まで勢力を拡大し、最盛期を迎えたが、永正6年(1509年)、宇都宮城主・宇都宮成綱との争いに敗れ下野国の領土をすべて失った(片角軍萱の戦い)。永正18年(1521年)、長沼氏は黒川城主・蘆名氏と戦い、鴫山城を落とされたという。その後も長沼氏は蘆名氏と戦い、一時は南山を取り返すなど勢力を巻き返したが、16世紀半ばに長沼氏は蘆名盛氏に臣従することとなった。天正17年(1589年)の摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、鴫山城主・長沼盛秀は伊達政宗に臣従し、伊達勢とともに河原田盛次が守る久川城を攻撃している。天正18年(1590年)の奥州仕置によって長沼氏は伊達氏に従って南山を去り、鴫山城には蒲生氏郷家臣・小倉行春が6,300石で入城する。その後、上杉氏時代は直江兼続(上杉景勝の執政)の弟・大国実頼が城代となり、関ヶ原の戦い後に蒲生秀行が会津領主となると、再び小倉行春が城代となった。しかし、行春が岡重政と対立して出奔したため、岡に与した蒲生主計に与えられたが岡の失脚後に主計も自害したとされる。その後、寛永4年(1627年)に加藤嘉明が会津領主となった際に廃城となった。
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歴史・沿革
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鎌倉大草紙に長尾三家の一つ総州長尾家が見え、この総州長尾家が佐貫に拠ったとされる。佐貫城もこの長尾氏により築かれたとする説もある。 応仁年間、武田義広により築城された。 天文6年(1537年)、真里谷氏に跡目争いが生じ、真里谷信隆の拠った佐貫城は真里谷信応を支援する足利義明・里見義堯等により攻められ落城した。 天文14年(1545年)、北条氏康が一時佐貫城を占領(ただし、この時期まで後北条氏ー真里谷氏の支配下にあった可能性がある)。以後、里見氏と後北条氏の争奪の舞台となる。 弘治元年(1555年)、北条氏康が再度佐貫城を占領、同盟関係にあった結城晴朝に報じる。 弘治2年(1556年)、里見義弘が佐貫城を奪還して同城から水軍を率いて鎌倉を攻撃する。 永禄2年(1559年)、この頃は再び後北条氏が占拠しており、北条家臣が城代を務める。 永禄5年(1562年)、上杉謙信に古河御所を追われた古河公方足利義氏が、北条氏康の保護の下に佐貫城に仮の御所を置く。 永禄6年(1563年)、この頃、里見義弘が再度佐貫城を奪還、足利義氏は鎌倉へと退避する。 永禄10年(1567年)、後北条氏との間で三船山合戦が生起したが、この際、里見義弘は佐貫城より出陣した。 天正6年(1578年)、里見義弘が佐貫城で病死。安房国にいた里見義頼が、嫡男梅王丸と城代加藤信景を攻めて屈服させて家督を継承、以後里見氏の本拠は安房に移る。 天正18年(1590年)、小田原征伐後、里見氏は安房一国に減封され、関東を与えられた徳川家康の家臣である内藤家長が入城した。 元和8年(1622年)、内藤家長の子政長が陸奥国磐城平藩に加増転封。代わって武蔵深谷8000石の旗本松平忠重が加増の上で転封。1万5千石の大名として立藩した。 寛永10年(1633年)、忠重は駿河田中藩へ加増移封。代わって松平勝隆が入封。旗本であった勝隆は1万5千石で新規に大名となる。 貞享元年(1684年)11月10日、勝隆の子重治が改易処分となり、佐貫藩廃藩。佐貫城は廃城となり、(構造物が)破却された。 元禄元年(1688年)、江戸幕府第五代将軍徳川綱吉の側用人として重用され、旗本から新規に大名に取り立てられた柳沢保明(柳沢吉保)が1万5千石で新規立藩した。のち2万石。 元禄7年(1694年)、吉保が武蔵国川越藩へ加増転封となり、佐貫城は再度廃城となった。 宝永7年(1710年)、阿部正鎮が三河刈谷藩から移封され、佐貫城を再興した。1万6千石。 明治2年(1869年)、阿部正恒が版籍を奉還し、明治政府の管理下に入った。 明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い佐貫城は廃止された。
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歴史・沿革
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明治33年(1900年)、兵庫県明石郡岩岡村(現・神戸市西区)に日本で初めて黄色種の耕作が始まる。ベーハ小屋も黄色種とともに始まったと考えられる。その後、大正時代に入り喫煙の嗜好は口付たばこから両切りたばこへと急速に移行した。これを受けて昭和の初期から両切り原料である黄色種の新産地が中国、四国、九州地方に次々と開拓され、昭和14年(1939年)には、ついに黄色種の栽培面積が在来種のそれを上回った。黄色種の栽培拡大に伴いベーハ小屋も同時に全国へ広がりを見せる。 当初の黄色種乾燥法は米国方式によってなされたが、大正から昭和20年(1945年)の第二次世界大戦の終結頃までには、いわゆる大阪式、広島式などの4坪建を基準とした乾燥室、分流式および直流式の乾燥用器具、また乾燥方法としての蒸酵、黄変、固定および中骨乾燥各期の区分など、日本の気候風土に適した技術が次々と確立されてきた。ベーハ小屋のつくりもこの時期にほぼ確立したものと考えられる。第二次世界大戦後も昭和40年(1965年)頃までは戦前の技術が引き継がれてきた。昭和40年に循環バルク乾燥が実用化され、ベーハ小屋による従来の乾燥方法は徐々に姿を消していくことになる。昭和50年前後には、ほぼすべてが循環バルク乾燥の共同乾燥施設へと移行されていき、同時にベーハ小屋の歴史に幕を下ろすことになった。
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歴史・沿革
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大森城がいつ頃から存在するのかはよくわからない。ただ、城跡近辺には鎌倉時代から室町時代初期にかけての板碑が数多く残されており、この一帯が有力国人の拠点だったことは想像に難くない。鎌倉から室町初期にかけてこの一帯を支配していたのは二階堂氏と言われている。 史料から大森城の存在が明らかになるのは戦国時代からで、伊達稙宗の三男・伊達実元が城主となっている。伊達氏の内紛である天文の乱の際、実元は稙宗方につき、大森城は稙宗方の重要拠点の一つとなった。しかし、天文17年(1548年)に乱が終息し、稙宗の隠居と実元の兄・晴宗の家督相続が決まった。兄が桑折西山城から出羽米沢城へ移った後、兄と和解した実元は大森城主にとどまり、信夫郡南部の支配権を与えられた。その後、天正12年(1584年)に実元は大森城を嫡男・成実へ譲り、自身は八丁目城(福島市松川町)に隠居した。成実は伊達政宗の片腕として活躍し、天正14年(1586年)に政宗が二本松城を落城させると、成実に二本松城を与え、大森城は片倉景綱に与えた。この時期の大森城は、政宗による仙道地方(現在の福島県中通り)進出や相馬氏との戦いの際に中継拠点として用いられ、伊達氏の南奥制覇に非常に大きな役割を果たしている。 しかし、天正19年(1591年)の豊臣秀吉による奥州仕置(再仕置)によって信夫郡が伊達氏から没収され蒲生氏郷に与えられると、大森城主となった氏郷の客将・木村吉清は、杉妻城を改修して福島城と名を変え、そこに居城をうつし、大森城を廃した。現在の福島市が福島という名になったのはこのときである。しかし、氏郷の死後に蒲生氏が宇都宮城へ移され、上杉景勝が会津領主となると、大森城は再び取り立てられ、上杉氏家臣の栗田国時が城主となった。関ヶ原の戦いの直前に国時が徳川家康に通じたために殺害されると、芋川正親が城主となる。それ以降、大森城は芋川氏に代々受け継がれたが、寛文4年(1644年)の上杉綱勝急死・上杉綱憲相続に伴う一連の騒動によって上杉領が15万石に半減されるに及び、信夫郡は天領となり、大森城は廃城となった(福島城はのちに福島藩(板倉氏)が居城として使用した)。
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1473年(文明5年)6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。長尾景春はこれに怒り、1476年(文明8年)、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。これが鉢形城の始まりである。 1478年(文明10年) 扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻め、ようやく上杉顕定が入城した。 1488年(長享2年) 扇谷の上杉定正が鉢形城の上杉顕定を攻めるため兵をおこし、城の近くで両軍が遭遇して高見原の戦いが起こった。このとき、定正は戦闘には勝利したものの鉢形城は落とすことができず撤退した。 1494年(明応3年) 上杉定正は再度鉢形城の顕定を攻めようと伊勢盛時(北条早雲)とともに高見原に打って出たが、定正はこのとき荒川渡河中に落馬して死去した。以後、上杉顕定の存命中、鉢形城はその手にあり、顕定の後を継いだ養子の上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)も鉢形城を拠点とした。 1512年(永正9年) 上杉顕実は同じ顕定の養子であった上杉憲房の軍に包囲されて鉢形城は落城、顕実は命を助けられたものの山内上杉家当主の座を失った。 1515年(永正12年) 憲房は山内上杉氏の家督を継ぎ、同年に顕実が死ぬと関東管領職をも継いだ。しかし、家臣として仕えていた長尾景春が離反し、扇谷上杉家の上杉朝興、相模の後北条氏2代北条氏綱、甲斐の武田信虎などとの長年にわたる抗争のなか、1525年(大永5年)3月に病没した。後を養子の上杉憲寛が継いだが、のちに争いの末、実子の上杉憲政が継いだ。 1546年(天文15年) 北条氏3代北条氏康が川越城を包囲した上杉朝定・上杉憲政を打ち破る河越夜戦が起き、それに勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立した。 1564年(永禄7年)この地方の豪族であった藤田康邦に入婿した、北条氏康の四男北条氏邦が鉢形城へ入城した。以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となった。その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、1569年(永禄12年)には武田信玄による攻撃を受け、1574年(天正2年)には、上杉謙信が城下に火を放っている。 1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、鉢形城は前田利家・上杉景勝・真田昌幸、徳川家康麾下の浅野長政、本多忠勝、島田利正、鳥居元忠 らの連合軍 (35000) に包囲され、北条氏邦の老臣黒澤上野介ら (3000) が約1か月の籠城戦を戦ったのち、開城した。その後、徳川家康の関東討入にともない、成瀬正一、日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。
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茅ヶ崎城は治安年間(1021年~1023年)に多田行綱による築城とする言い伝えもあるが、正確な築城年代は分かっていない。発掘調査結果からは、15世紀後半に築城され、16世紀前半に改修があったと推定されている。現在は、おそらく後北条氏による築城だろうと考えられているが、出土遺物は扇谷上杉氏に関わりがあると見られる、器の底に渦巻き紋を入れた「ウズマキかわらけ」などが中心で、後北条の時代の遺物は発見されていない様である。 「小田原衆所領役帳」によれば、茅ヶ崎一帯は小机衆の一員である座間氏の所領だったことから、茅ヶ崎城は小机城の支城で、座間氏が城代もしくは城番を勤めていたものと思われる。1590年(天正18年)の後北条氏滅亡とともに廃城となった。
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当車両センターは、国鉄時代末期に開業した埼京線の開業前の1982年(昭和57年)7月1日に川越準備電車区として開設した車両基地で、同年11月に設置工事に着手し、1985年(昭和60年)9月1日に川越電車区が正式に発足(電略「北ハエ」)、同年9月30日に全面使用を開始した。使用開始時の配置車両は、品川電車区(→山手電車区→現・東京総合車両センター)に205系を180両投入し、103系180両(10両編成×18本)と池袋電車区(現・池袋運輸区)に配置されていた赤羽線用103系50両(10両編成×5本)を、さらに、陸前原ノ町電車区(現・仙台車両センター宮城野派出所)に配置されていた72系のアコモ改造車を103系の機器類に交換した上で、103系3000番台として転用した車両を15両(3両編成×5本)、松戸電車区(現・松戸車両センター)から牽引車クモヤ143形1両を、それぞれ川越電車区に転属させた。ただし、実際は103系0番台は10両編成×21本が配置された。これは、1986年(昭和61年)3月3日の埼京線池袋 - 新宿間開業分の20両を除いた転属で、他3000番台3両編成×5本、牽引車クモヤ143形1両の計226両が配置された。前述の1986年の開業時に、山手電車区から残り分の103系0番台10両編成×2本が転入した。また、浦和電車区(現・さいたま車両センター)から10両編成×1本、と予備車(クハ103)2両、計12両が転入した。 1987年(昭和62年)4月1日に国鉄分割民営化によりJR東日本が発足、略号は「東ハエ」となった。1989年(平成元年)に川越線大宮 - 川越間全列車10両化され、103系0番台10両編成と3000番台3両編成が同じ線路で運用することは無くなった。同年7月1日から埼京線に205系0番台10両編成の営業運転が開始された。1990年(平成2年)12月10日に埼京線用103系0番台10両編成の運用が終了し、205系0番台10両編成は、103系を置き換えた分と運転本数の増加分で250両となった。 1996年(平成8年)3月16日に埼京線新宿- 恵比寿間開業および八高線高麗川 - 八王子間電化に伴い、埼京線用205系0番台10両編成×4本が転入、103系3000番台は4両化され、3500番台4両編成×1本と、新製の209系3000番台4両編成×4本投入された。同年12月4日のダイヤ改正に伴い、205系0番台10両編成×1本が三鷹電車区(現・三鷹車両センター)から転入し、区所の配置車両は、103系24両、205系300両、209系16両、牽引車クモヤ143形1両の計341両となった。 2001年(平成13年)4月1日に大宮支社発足により同支社に移管され、略号を「宮ハエ」に改称し、武蔵浦和派出を松戸電車区から移管した。同年8月6日から山手線E231系500番台投入に伴い、6扉車サハ204形1両を試験的に205系0番台10両編成第8編成の2号車へ連結した。2002年(平成14年)6月10日から205系0番台10両編成の川越寄り2・3号車に6扉車サハ204形の連結が開始され、2008年(平成20年)2月8日までに、26本への組み込みが完了した。2003年(平成15年)11月10日には205系3000番台の運用が開始された。2004年(平成16年)6月1日に川越車両センターと改称。2005年(平成17年)3月に103系3500番台の運用終了、同年7月31日に埼京線・川越線で東京圏輸送管理システム 「ATOS」(アトス)の使用開始、同年10月2日には103系3000番台の運用が終了した。 2013年(平成25年)6月30日からE233系7000番台の運用が開始され、同年12月25日までにE233系7000番台10両編成×31本の投入が完了した。2014年(平成26年)2月に205系0番台10両編成は全車の運用が終了する予定だったが、2017年秋に予定される埼京線でのATACS導入に備え、車両の改造工事期間中の予備車を確保するため、その内の第28編成が予備車として残存した。2016年(平成28年)10月27日にE233系7000番台全編成ATACS設置完了に伴い、205系0番台第28編成の運用が終了、これをもって、205系0番台は1989年(平成元年)の営業運転を開始してから約27年の歴史に幕を閉じた。 2017年(平成29年)11月24日に、川越線・八高線の運用車両を置き換えるため、三鷹車両センター所属中央・総武緩行線用のE231系0番台を改造したE231系3000番台が新たに配属され、さらに、同センター所属同線用の209系500番台から改造された209系3500番台が、2018年(平成30年)1月15日に配属された。これに伴い、同年2月9日に205系3000番台の第82編成が廃車された。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 16:07 UTC 版)
永正年間(1504年 - 1521年)、武内治部と称する戸畑の郷士がここに居を構えていたというが、史実であるか判然としない。下って慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの論功行賞により筑前国のほぼ全域が黒田長政の領国となり、長政は福岡に本城を、豊前との国境に 6か所の端城を築いた。若松城はその端城の一つである。城は「塔屋を幾つももつ大きな」ものであり、多くの軍船を備えていたというが、慶長20年(1615年)、一国一城令により廃城となる。その後200年余の時を経て文久3年(1863年)6月、中ノ島に砲台が築かれ、再び城塞としての機能を持つに至った。
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歴史・沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 00:40 UTC 版)
貞治5年(1366年)、吉良治家が世田谷郷を与えられる。 応永年間(1394年 - 1426年)頃、居館として整備されたと考えられている。 吉良成高の頃、城郭として修築されたものと考えられている。 天正18年(1590年)、吉良氏朝の代に小田原征伐により豊臣氏勢に接収されたが、同戦役後廃止された。江戸城改修に石材を利用したという。
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歴史・沿革
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1601年(慶長6年)に小川光氏が丸山城と称して築城したという。このとき、城の東に十二町村(じゅうにちょうむら)より商家を移し、中津へ至る街道を伴う南北2筋の道を通し、街を開いたとされる。 1616年(元和2年)に譜代大名の石川忠総が美濃大垣城から移封。丸山城を改築し永山城と改め、城下であった丸山町を現在の位置に移し、豆田町に改名した。1633年(寛永10年)に中津藩の預かりとなる。 1639年(寛永16年)、小川正長(藤左衛門)・氏行(九左衛門)両人が初代代官となり、永山城を廃城して麓に日田陣屋(日田代官所)を築く。 1648年(慶安元年)、小川氏行が西下の途中で事故に遭い死亡。 1655年(明暦元年)、小川正長死亡。正長の子の行広(又左衛門)と正久(藤左衛門)が日田代官となる。 1665年(寛文5年)から1666年(寛文6年)までの間、肥後熊本藩主細川綱利の支配地となり、北西部の水堀(肥後殿堀。)を造成する。 1682年(天和2年)から1686年(貞享3年)まで松平直矩が7万石で入封する。陣屋の改築を行っている。 1686年(貞享3年)、代官小川正辰により藩が廃され幕府直轄領となる。 1767年(明和4年)、代官揖斐政俊の時、西国筋郡代役所となる。
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歴史・沿革
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1721年(享保6年) - 弘前藩5代藩主津軽信寿が、高照神社門前を屋敷割りして、現在の高岡の元をつくったのがはじまりとされている。 1961年(昭和36年) - 岩木町大字高岡になる。 2006年(平成18年) - 弘前市への合併とともに弘前市の大字になる。
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歴史沿革
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遼・金・元の時代は豊州と呼ばれていたが、16世紀にはアルタン・ハーンがトゥムド部を率いて、この地方に入り込み、「トゥムド川」と呼ばれるようになった。17世紀に清はトゥムド地方を左翼、右翼旗に分け、18世紀にはトゥムド地方を「旗と庁の並存で、蒙古人と漢人を別々に管理」という統治方法で支配していた。
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歴史沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/16 08:48 UTC 版)
ニェモはチベット語で「麦穂」の意。元代には「聶摩」、明代には「聶母」と音写され、「尼莫」、清代の文献には「尼穆」、「尼木」、「尼冒」の形で表れる。 中華人民共和国の統治以前、この地域は尼木宗と麻江宗に分かれていて、1959年に二宗を合わせて尼木県を設けた。
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