阿曽沼一族内訌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 17:44 UTC 版)
そして広郷の子・孫三郎広長の代になって、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いのとき、南部利直に属して上杉景勝攻めの最上出陣中の留守の間に、一族の鱒沢城主 鱒沢広勝、横田城留守居役の上野広吉、平清水平右衛門の三人が首謀者となって主家に叛逆し、それに与しなかった上附馬火渡館主火渡玄浄を討った。一方、広長は岩崎での戦いを終え遠野に引き返したが、鍋倉城を占領され領地の遠野を奪われて城に入ることが出来ず、また、妻子は脱出の途中殺害された。 広長は妻の実家にあたる気仙郡世田米城に走り、伊達氏等の支援で気仙勢を借り受けて三度にわたり遠野に攻め込み奪回を図るも失敗、広長は伊達領に身を寄せて生涯を終え、遠野阿曽沼氏の嫡流は断絶した。 その後、遠野の所領を安堵された鱒沢氏らも、謀叛を企てたとされ、南部利直によって切腹を命じられ滅んだ。
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