遠野阿曽沼氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 17:44 UTC 版)
広綱の子で朝綱の弟の親綱は、陸奥の遠野保を継承した。遠野保は遠野十二郷とも称される。親綱が下向したと伝えるが実際は代官統治とみられる。のちその子孫が奥州遠野へ土着し、建保年間(1213~19年)には広綱の次男親綱が護摩堂山に横田城を築き、そこを統治の中心とした。建武元年(1334年)親綱の4世孫の朝綱の代には南朝に属している陸奧国司北畠顕家によって「遠野保」所有を安堵された。天正年間(1573~92年)のはじめ、広郷のときに横田鎌倉城に拠って最盛期を迎えたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、仕置を免れて独立大名から南部氏配下となった。
※この「遠野阿曽沼氏」の解説は、「阿曽沼氏」の解説の一部です。
「遠野阿曽沼氏」を含む「阿曽沼氏」の記事については、「阿曽沼氏」の概要を参照ください。
- 遠野阿曽沼氏のページへのリンク