旧・四日市工場→旧・国鉄名古屋工場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 00:09 UTC 版)
「東海旅客鉄道名古屋工場」の記事における「旧・四日市工場→旧・国鉄名古屋工場」の解説
1890年(明治23年)7月に関西鉄道が建設した四日市工場から始まり、国有化後も四日市で操業し、四日市の鉄工業の発展大いに寄与した。その後、修繕車両は増加の一途を辿り、敷地が狭い上、立地上、業務拡大を進める為の用地拡大が困難であることなどから、名古屋に近い地域への移転が検討され、1924年(大正13年)8月に現地へ移転した。 移転後、1932年(昭和7年)に内燃動車(気動車)検修を開始し、両数が最高に達した1935年(昭和10年)には、それまで日数が43日かかっていた修繕が、他工場に派遣するなどして技術習得を図り、10日間で仕上げるまでに技術水準を急速に向上させた。その後、その気動車の修繕技術を活かして1940年(昭和15年)に省営自動車(後の国鉄バス)の修繕を始め、1943年(昭和18年)には年20両から年80両までに修繕実績を大幅に高め、自動車職場を創設するまで至った。終戦後の1950年(昭和25年)に作業量の減少と自動車修繕の集中専門化の方針により、省営自動車の修繕業務は終了した。 終戦後は、近代的な研修設備を進めた結果、名実と供に中部地区の内燃機関の集中修繕工場となり、さらに動力設備、車輪検修設備なども更新、路線の電化が進む中で、1978年(昭和53年)11月より新たに電車の検修も開始し、以来、中部地区の電車・気動車の検修工場として発展し続けた。 1963年(昭和38年)に、鉄道記念物の蒸気動車キハ6401を復元、国鉄末期には、12系客車のジョイフルトレイン改造を手がけ、1982年(昭和57年)3月の「いこい」、1983年(昭和58年)3月の「お座敷列車(通称:ナコ座)」、1985年(昭和60年)9月の「ユーロライナー」を担当、そのうち、「お座敷列車」と「ユーロライナー」では両端車の展望車化改造も行われた 。
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