普寛行者
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普寛行者(ふかんぎょうじゃ)は、1731年(享保16年)に武蔵国秩父郡大滝村落合で生まれ(本名が本明院普寛)、青年期に江戸へ出て剣術を学び、酒井雅楽頭家に仕えたと伝えられている。1764年(明和元年)三峯神社に入門した本山派の修験者となった。1792年(寛政4年)5月に江戸などの信者を引き連れて開山のために旅立ち、6月8日から山に入り各地で御座(おざ)を行いながら6月10日に登拝し王滝口を開いた。その後江戸方面での御嶽講を組織し御嶽信仰を普及させた。1794年(寛政6年)には上州の武尊山、1795年(寛政7年)には八海山の開山を行い霊山の開山活動を続けた後、1801年(享和元年)9月、巡錫中に武州本庄宿で病に倒れた。普寛行者は なきがらは いつくの里に埋むとも 心御嶽に 有明の月 — 普寛行者の辞世の句 の辞世の句を残している。王滝口3合目の清滝上の花戸には普寛行者の墓塔がある。1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。1890年(明治23年)王滝村で普寛行者百年祭が開催され記念碑が建立された。普寛行者の直弟子として広山行者、泰賢行者、順明行者などがいて、その後次々に有力な行者が現れて御嶽講が広まった。
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