発掘調査結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 08:03 UTC 版)
石岡小学校敷地における国衙の発掘調査では、7世紀末から11世紀までの建物の変遷が確認されているが、その中で大きく分けて5回の建て替えがあったとされる。最初の7世紀末の建立では、国庁の正殿として桁行6間の身舎の東に廂を有する南北棟が、さらに脇殿として東西棟、前殿として南北棟が配置されていた。 その後、8世紀前半の建て替えにおいて建物の配置は大きく変化する。一辺100メートルの領域が国庁として区画されて塀で囲まれ、その内に正殿として東西棟、脇殿として南北棟が「コ」の字の形に配置された(この区画・建物配置は9世紀後半までは基本的に存続する)。この時期の正殿は桁行6間・梁行3間の身舎の南に廂を有する建物で、脇殿はその南寄りに南北棟2棟が並んでいた。 8世紀中頃から9世紀後半の間は建物配置に変化はないものの、正殿は桁行7間と大型化し、さらに楼閣建物や前殿等の建物が新たに配置された。また、この時期になると一部の建物には礎石が使用されるようになるほか、区画西側に曹司として掘立柱建物の東西棟3棟の造営が確認される。これらのうち、特に北側の建物は桁行11間・梁行2間の身舎に南北廂を持つ有する大規模なもので、国庁正殿の規模を大きく上回っていた。 10世紀以降には塀で囲まれた区画は無くなり、それまでの正殿中軸線を踏襲する位置には掘立柱建物の東西棟が存在した。 出土遺物としては、国分寺・国分尼寺出土と同笵になる軒瓦や磚のほか、「国」の墨書銘を有する土器、円面硯等がある。
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