発掘調査史
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19世紀には、文献資料の乏しい古代マケドニアの古都アイガイの位置は全く不明であり、第一の候補地としてマケドニア地方の景勝地エデッサが有力視されていた。1861年にフランスの考古学者レオン・ユゼは、ヴェルギナで初となる遺跡の考古学調査を行い、以前から地元民の間で知られていた古代マケドニアの宮殿跡の一部を確認し、マケドニア式墳墓1基を発見した。発掘作業はマラリアの感染を恐れて中断された。 1937年にテッサロニキ・アリストテレス大学(英語版)のロメオスの指揮する発掘隊が調査を再開した。さらに多くの遺物が発見されたが、1939年にイタリア王国との戦争が始まると調査は中断された。第二次世界大戦とそれに続く内戦が終結すると発掘が再開され、1950年代、1960年代には宮殿跡の全貌が明らかとなった。発掘の成果から、1968年にイギリスの古代史家N. G. L. ハモンド(英語版)は、それまで主流だった「エデッサ=アイガイ説」に異を唱え、ヴェルギナこそがアイガイであるという説を主張した。 1977年とその翌年に、テッサロニキ大学のアンドロニコスはメガリ・トゥンバと呼ばれる墳丘の発掘作業を行い、マケドニア式墳墓を3基発見した。3つの墳墓の内2基は未盗掘であり、多くの副葬品とファサードや壁画といった墳墓の外周が無傷で残されていた。アンドドロニコスはこれらの内で、最も副葬品が豊かだった第2墳墓をピリッポス2世の墓であると発表し議論が巻き起こった。現在に至るまでピリッポス2世の墓の確定には至っていないが、3基の墳墓がマケドニア王家のものであり、ヴェルギナがアイガイであることはほぼ確定となっている。さらにいくつかの王家の墳墓が1980年に発見され、アイガイ都市内の遺構の発掘も続けられている。 これらの発掘物は一時的にテッサロニキ考古学博物館に展示されていたが、1997年より、ヴェルギナに建てられた地下博物館に収められている。
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発掘調査史
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1948年(昭和23年)に地元住民で旅館経営者の加藤松之助が、偶然ナウマンゾウの臼歯を発見した。発見当初は、凸凹の形状から「湯たんぽの化石」と呼ばれていた。 1953年(昭和28年)、地元住民の池田寅之助が杉久保遺跡で収集していた石器資料の中から芹沢長介・麻生優が旧石器時代遺物を見いだし「杉久保型ナイフ」と命名した。これらの事が契機となり、1962年(昭和37年)から湖底や湖畔での発掘調査が始まった。 発掘調査が行われるのは、野尻湖西岸の「立が鼻」という岬付近の湖底とその周辺に位置する立が鼻遺跡のエリアである。この遺跡は、狩猟した大型哺乳動物の解体場(キルサイト)と考えられている。 発掘調査を組織しているのは、民間学術団体の野尻湖発掘調査団(本部は野尻湖ナウマンゾウ博物館)である。湖底調査は3年に1回、3月に行われ、発電所の取水による水面の低下のため湖岸が沖合に後退する時期に合わせて、世界的にも珍しい「大衆発掘」という形態で行われている。全国23カ所に調査の参加者を募集し、そのための学習を行う「野尻湖友の会」という組織が作られ、会員になれば誰でも発掘調査に参加できる。発掘調査の運営は、参加者の参加費によって賄われている。 1962年(昭和37年)の70名が参加した第1次湖底調査では、ナウマンゾウとヤベオオツノジカ化石の発掘により、30000-50000年前の最後の氷河時代のものであることが確認された。1964年(昭和39年)の第3次湖底調査では、旧石器の剥片が発見され、ナウマンゾウと人類の関係が問題となった。 この第3次調査に並行して、杉久保遺跡A地点の湖底調査も開始され、およそ17000年前の泥炭層より下層から杉久保型ナイフを伴う石器が出土した。 1973年(昭和48年)の第5次湖底調査では、参加者が1000人を超えた。ナウマンゾウの牙(第2門歯)とオオツノジカの掌状角(手の平をひろげたような大型の角)をはじめ、ナイフ形石器、骨製基部加工剥片(ナイフ形骨器)などが発見され、ナウマンゾウと旧石器時代の人類が共存していたことが証明された。この調査で発見された三日月形のナウマンゾウの門歯とオオツノジカの掌状角は、隣り合って検出されたことで「月と星」の愛称で呼ばれ、野尻湖ナウマンゾウ博物館のシンボルマークになっている。 陸上にある遺跡での調査も開始され、1976年(昭和51年)、1977年(昭和52年)、1979年(昭和54年)に、仲町遺跡の発掘調査が行われた。 1984年(昭和59年)、野尻湖発掘調査団は立が鼻遺跡から出土する石器や骨器群に対し「骨器と小形剥片石器および縦長剥片によって特徴付けられるもの」として「野尻湖文化」という概念を提唱した。 1993年(平成5年)には、上信越自動車道建設に伴う発掘調査が開始され、貫ノ木遺跡・西岡A遺跡・裏ノ山遺跡・東浦遺跡・大久保南遺跡・上ノ原遺跡・日向林A遺跡・日向林B遺跡・七ッ栗遺跡など多くの陸上遺跡で調査が行われた。 1997年(平成9年)12月、野尻湖発掘調査団は、同年3月の第13次湖底発掘調査で約4万年前の土層から発見された「木葉型尖頭器(もくようがたせんとうき)」が偽物だったと公表した。調査の結果、1995年(平成7年)夏に、近くの別の遺跡で出土直後に盗まれたものだったと判明した。調査団長で信州大学教授の酒井潤一らは、再発防止策を2年半かけて検討した。その結果、2000年(平成12年)3月の第14次発掘調査から、遺物を掘り当てた時点で作業を止め、周辺の土層を複数の人間が入念に調査し、土層と遺物の関係を現場で確認する「確かめ掘り」を採用した。なお酒井は、偽物を見抜けなかった責任を取り、再発防止の道筋がついた1999年(平成11年)11月に団長を辞任した。 2018年(平成30年)までに22次の調査が実施されており、出土品のほとんどは湖畔の野尻湖ナウマンゾウ博物館に収蔵され、一部が展示されている。
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発掘調査史
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高瀬山周辺は明治時代のころから古墳や遺跡の存在が知られており、大正時代の調査で10数基の古墳群が確認された。しかし、それらの古墳群はその後の開墾によりほとんど失われてしまう。 1932年(昭和7年)にブドウ園の整備中に現れた石槨から鉄製の直刀が出土し、これを契機として発掘調査が行われることとなった。この時発見されたのが高瀬山古墳である。同古墳は1953年(昭和28年)2月20日に山形県指定史跡に指定された。 1980年(昭和55年)に高瀬山西側から温泉が湧出したことを発端として、周辺の開発が計画され、それに伴って遺跡の分布調査が行われた。それまで2地点のみが知られていたが12地点で遺構・遺物の集中箇所が確認された。 1982年(昭和57年)には高瀬山J遺跡が調査され、1984年~1986年(昭和59~61年)には、高瀬山B・K・L遺跡が調査された。1987年~1988年(昭和62~63年)には、山形県教育委員会が高瀬山K遺跡を調査した。 1989年(平成元年)、東北横断自動車道酒田線(現山形自動車道)建設が当地区に計画され、1989年~1992年(平成元年~4年)に分布調査が行われた。その結果1.6キロメートルに渡って遺構や遺物が発見され高瀬山遺跡の範囲が拡大されることとなった。
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