発掘調査史とは? わかりやすく解説

発掘調査史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 04:22 UTC 版)

ヴェルギナ」の記事における「発掘調査史」の解説

19世紀には、文献資料乏し古代マケドニア古都アイガイ位置は全く不明であり、第一候補地としてマケドニア地方景勝地エデッサ有力視されていた。1861年フランス考古学者レオン・ユゼは、ヴェルギナで初となる遺跡考古学調査行い以前から地元民の間で知られていた古代マケドニア宮殿跡の一部確認しマケドニア墳墓1基を発見した発掘作業マラリア感染恐れて中断された。 1937年にテッサロニキ・アリストテレス大学英語版)のロメオスの指揮する発掘隊が調査再開した。さらに多く遺物発見されたが、1939年イタリア王国との戦争が始まると調査中断された。第二次世界大戦とそれに続く内戦終結する発掘再開され1950年代、1960年代には宮殿跡の全貌が明らかとなった発掘成果から、1968年イギリス古代史家N. G. L. ハモンド英語版)は、それまで主流だった「エデッサアイガイ説」に異を唱えヴェルギナこそがアイガイであるという説を主張した1977年とその翌年に、テッサロニキ大学のアンドロニコスはメガリ・トゥンバと呼ばれる墳丘発掘作業行いマケドニア墳墓を3基発見した3つの墳墓の内2基は未盗掘であり、多く副葬品ファサード壁画といった墳墓外周無傷残されていた。アンドドロニコスはこれらの内で、最も副葬品豊かだった第2墳墓ピリッポス2世の墓であると発表し議論巻き起こった現在に至るまでピリッポス2世の墓の確定には至っていないが、3基の墳墓マケドニア王家のものであり、ヴェルギナアイガイであることはほぼ確定となっている。さらにいくつかの王家墳墓1980年発見されアイガイ都市内遺構発掘続けられている。 これらの発掘物一時的にテッサロニキ考古学博物館展示されていたが、1997年より、ヴェルギナ建てられ地下博物館に収められている。

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発掘調査史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 20:50 UTC 版)

野尻湖遺跡群」の記事における「発掘調査史」の解説

1948年昭和23年)に地元住民旅館経営者加藤之助が、偶然ナウマンゾウ臼歯発見した発見当初は、凸凹形状から「湯たんぽ化石」と呼ばれていた。 1953年昭和28年)、地元住民池田寅之助が杉久保遺跡収集していた石器資料の中から芹沢長介麻生優が旧石器時代遺物を見いだし「杉久保ナイフ」と命名した。これらの事が契機となり、1962年昭和37年)から湖底湖畔での発掘調査始まった発掘調査が行われるのは、野尻湖西岸の「立が鼻」という岬付近湖底その周辺位置する立が鼻遺跡エリアである。この遺跡は、狩猟した大型哺乳動物解体場(キルサイト)と考えられている。 発掘調査組織しているのは、民間学術団体野尻湖発掘調査団(本部野尻湖ナウマンゾウ博物館)である。湖底調査3年1回3月行われ発電所取水による水面低下のため湖岸沖合後退する時期合わせて世界的にも珍しい「大衆発掘」という形態行われている。全国23カ所に調査参加者募集し、そのための学習を行う「野尻湖友の会」という組織作られ会員になれば誰でも発掘調査参加できる発掘調査運営は、参加者参加費によって賄われている。 1962年昭和37年)の70名が参加した第1次湖底調査では、ナウマンゾウヤベオオツノジカ化石発掘により、30000-50000年前最後氷河時代のものであることが確認された。1964年昭和39年)の第3次湖底調査では、旧石器剥片発見されナウマンゾウ人類の関係が問題となった。 この第3次調査並行して杉久保遺跡A地点湖底調査開始され、およそ17000年前泥炭層より下層から杉久保ナイフを伴う石器出土した1973年昭和48年)の第5次湖底調査では、参加者1000人を超えたナウマンゾウの牙(第2門歯)とオオツノジカ掌状角(手の平ひろげたような大型の角)をはじめ、ナイフ形石器、骨製基部加工剥片ナイフ骨器)などが発見されナウマンゾウ旧石器時代人類共存していたことが証明された。この調査発見され三日月形ナウマンゾウ門歯オオツノジカ掌状角は、隣り合って検出されたことで「月と星」の愛称呼ばれ野尻湖ナウマンゾウ博物館シンボルマークになっている陸上にある遺跡での調査開始され1976年昭和51年)、1977年昭和52年)、1979年昭和54年)に、仲町遺跡の発掘調査が行われた。 1984年昭和59年)、野尻湖発掘調査団は立が鼻遺跡から出土する石器骨器群に対し骨器小形剥片石器および縦長剥片によって特徴付けられるもの」として「野尻湖文化」という概念提唱した1993年平成5年)には、上信越自動車道建設に伴う発掘調査開始され、貫ノ木遺跡西岡A遺跡・裏ノ山遺跡東浦遺跡大久保南遺跡上ノ原遺跡日向A遺跡日向B遺跡・七ッ遺跡など多く陸上遺跡調査が行われた。 1997年平成9年12月野尻湖発掘調査団は、同年3月第13次湖底発掘調査で約4万年前の土層から発見された「木葉尖頭器もくようがたせんとうき)」が偽物だったと公表した調査結果1995年平成7年)夏に、近く別の遺跡出土直後盗まれたものだった判明した調査団長で信州大学教授酒井潤一らは、再発防止策2年半かけて検討したその結果2000年平成12年3月第14次発掘調査から、遺物掘り当てた時点作業止め周辺土層複数人間入念に調査し土層遺物の関係を現場で確認する確かめ掘り」を採用した。なお酒井は、偽物見抜けなかった責任取り再発防止道筋がついた1999年平成11年11月団長辞任した2018年平成30年)までに22次の調査実施されており、出土品のほとんどは湖畔野尻湖ナウマンゾウ博物館収蔵され一部展示されている。

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発掘調査史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 14:54 UTC 版)

高瀬山遺跡」の記事における「発掘調査史」の解説

高瀬周辺明治時代ころから古墳遺跡存在知られており、大正時代調査10数基の古墳群確認された。しかし、それらの古墳群その後開墾によりほとんど失われてしまう。 1932年昭和7年)にブドウ園整備中に現れ石槨から鉄製直刀出土しこれを契機として発掘調査が行われることとなった。この時発見されたのが高瀬山古墳である。同古墳1953年昭和28年2月20日山形県指定史跡指定された。 1980年昭和55年)に高瀬山西側から温泉湧出したことを発端として、周辺開発計画され、それに伴って遺跡分布調査が行われた。それまで2地点のみが知られていたが12地点遺構・遺物集中箇所確認された。 1982年昭和57年)には高瀬山J遺跡調査され1984年1986年昭和5961年)には、高瀬B・K・L遺跡調査された。1987年1988年昭和6263年)には、山形県教育委員会高瀬山K遺跡調査した1989年平成元年)、東北横断自動車道酒田線(現山形自動車道建設当地区に計画され1989年~1992年平成元年4年)に分布調査が行われた。その結果1.6キロメートル渡って遺構遺物発見され高瀬山遺跡範囲拡大されることとなった

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