発掘調査の沿革とは? わかりやすく解説

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発掘調査の沿革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 08:45 UTC 版)

城輪柵」の記事における「発掘調査の沿革」の解説

初め発掘調査が行われた1931年以前にも、「城輪」という地名から遺跡存在推測されている。 『往古此辺官人居城ありて、城外に祭れる神を城輪称し城地の内を城の内(きのうち)と称せしを後世城を木に改けるにや』(進藤重記「出羽風土略記1762年)「木の内」は遺跡北西部集落。 『柵戸遺跡とも疑はるる節あり』(吉田東伍大日本地名辞書1907年城輪、木の内という名称から柵戸存在推測。 他にも、歴史学者喜田貞吉は「城輪・木の内」以外にも「本楯遺跡中心部から北西2.5キロメートル)・新田目北西2.0キロメートル)・政所南東0.8キロメートル)・門田」といった地名近隣存在することから、飽海郡衙の存在推測している。また、須恵器や瓦、礎石思われる石が出土したことから、阿部正巳によって出羽国国分寺説も提唱された。 1931年昭和6年) - 文部省嘱託の上三平らによる発掘調査により、25センチメートル角の角材密接して並ぶ遺構検出される。ほぼ正方位による一辺720メートル方形成しており、外郭には門や存在していたことが判明した1932年昭和7年) - 国の史跡指定 1964年昭和39年) - 酒田市教育委員会による予備調査遺跡中心部の「オ(大)畑」と呼ばれる周辺水田よりも1メートルほど高い台地部分から掘立柱建物跡礎石建物跡、二つ異な時代遺構検出される1965年昭和40年) - 文化財保護委員会文化庁前身)による発掘調査正殿西脇殿、南門など主要な遺構配置判明1971年昭和46年) - 酒田市教育委員会による継続調査 1981年昭和56年) - 国指定史跡追加指定 1984年昭和59年) - 保存整備事業開始

※この「発掘調査の沿革」の解説は、「城輪柵」の解説の一部です。
「発掘調査の沿革」を含む「城輪柵」の記事については、「城輪柵」の概要を参照ください。

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