発掘調査の沿革
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初めて発掘調査が行われた1931年以前にも、「城輪」という地名から遺跡の存在が推測されている。 『往古此辺に官人の居城ありて、城外に祭れる神を城輪と称し、城地の内を城の内(きのうち)と称せしを後世城を木に改けるにや』(進藤重記「出羽風土略記」1762年)「木の内」は遺跡北西部の集落。 『柵戸の遺跡とも疑はるる節あり』(吉田東伍「大日本地名辞書」1907年)城輪、木の内という名称から柵戸の存在を推測。 他にも、歴史学者の喜田貞吉は「城輪・木の内」以外にも「本楯(遺跡中心部から北西2.5キロメートル)・新田目(北西2.0キロメートル)・政所(南東0.8キロメートル)・門田」といった地名が近隣に存在することから、飽海郡衙の存在を推測している。また、須恵器や瓦、礎石と思われる石が出土したことから、阿部正巳によって出羽国国分寺説も提唱された。 1931年(昭和6年) - 文部省嘱託の上田三平らによる発掘調査により、25センチメートル角の角材が密接して並ぶ遺構が検出される。ほぼ正方位による一辺約720メートルの方形を成しており、外郭には門や櫓が存在していたことが判明した。 1932年(昭和7年) - 国の史跡に指定 1964年(昭和39年) - 酒田市教育委員会による予備調査。遺跡中心部の「オ(大)畑」と呼ばれる、周辺水田よりも1メートルほど高い台地部分から掘立柱建物跡と礎石建物跡、二つの異なる時代の遺構が検出される。 1965年(昭和40年) - 文化財保護委員会(文化庁の前身)による発掘調査。正殿、西脇殿、南門など主要な遺構配置が判明。 1971年(昭和46年) - 酒田市教育委員会による継続調査 1981年(昭和56年) - 国指定の史跡に追加指定 1984年(昭和59年) - 保存整備事業開始
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