1950年代、1960年代
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「ロンドンデリー」の記事における「1950年代、1960年代」の解説
第二次世界大戦後、失業や開発の停滞で衰退していった。デリー大学委員会(英語版)が市内に北アイルランドで2番目の大学を設立しようとしたが失敗に終わった。
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1950年代 - 1960年代
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「ジャズ」の記事における「1950年代 - 1960年代」の解説
1950年代にはチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー、セロニアス・モンクらによる「ビバップ」が誕生し、多くの録音を残した。ビバップのコンボは、サックス、トランペット、ピアノ、ドラムス、コントラバスで構成される小さなコンボだった。ビバップ・ミュージシャンは、編曲された音楽を演奏するのではなく、通常、リズムセクションの伴奏で作曲のメロディー(ヘッドと呼ばれる)を演奏し、その後、各演奏者がソロを即興で演奏し、最後にメロディーに戻る。 最も影響力のある、ビバップ・アーティストの作曲家や演奏家は次のとおり。アルトサックス奏者のチャーリーパーカー。テナーサックス奏者のデクスター・ゴードン、ソニー・ロリンズ。クラリネット奏者バディ・デフランコ、トランペット奏者のファッツ・ナヴァロ、クリフォード・ブラウン、マイルス・デイヴィス、ディジー・ガレスピー。ピアニストのバド・パウエル、セロニアス・モンク。ギタリスト、 チャーリークリスチャン、ジョーパス、ベーシストのカーリー・ラッセル、ドラマーのバディ・リッチ、ケニー・クラーク、マックス・ローチ、アート・ブレイキー。ジャズの全盛期であった1950年代には、クール・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、ハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。ナット・キング・コール、メル・トーメ、ペギー・リーらの歌手も、この時期活躍した。 1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックをジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』(監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』の映画音楽を担当した。1958年には、アメリカ映画『私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンやアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった。 1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、それまではある程度調性に従って演奏するスケールを緻密に変化させる必要があったところに、ドリアンなどの聴き馴染みのないモードに長居することで、演奏は楽になる割にファンシーなサウンドを得ることが可能になった。一方、オーネット・コールマンやアルバート・アイラー、サン・ラらは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名から「フリー・ジャズ」という言葉が広まっていった。また、ジャズ・ヴォーカルではビリー・ホリディ、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、エラ・フィッツジェラルド、ニーナ・シモン、アニタ・オディらも活躍した。白人歌手のヘレン・メリル、クリス・コナーらも人気を集めた。 1960年には、ジョン・コルトレーンによる『ジャイアント・ステップス』のアルバムが発売された。コルトレーンは翌1961年にも「ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」を発表した。また60年代前半には、ブラジル音楽のボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなった。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、ハンク・モブレーのカバーによる「リカード・ボサノヴァ」が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。カーティス・フラー、キャノンボール・アダレイやホレス・シルヴァー、ナット・アダレイ、ラムゼイ・ルイスらを中心としたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、50年代後半から60年代に人気となった。またリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」は大ヒットしすぎたために、ブルー・ノート・レコードが一度倒産状態になるという珍現象も見られた。 1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギター、ハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、エレクトリック・ジャズ・アルバム『ビッチェズ・ブリュー』をヒットさせた。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。
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1950年代 - 1960年代
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「八幡浜市」の記事における「1950年代 - 1960年代」の解説
第二次大戦後、水産業は飛躍的な発展を遂げ、トロール漁業の基地として、その名を全国に広めた。また温州みかんの生産が拡大した。九州と四国を結ぶフェリー航路が新設され、連絡港として発展した。 西暦年号略年譜1955年 昭和30年 川上村、真穴村、双岩村、日土村が八幡浜市に編入される川之石町と宮内村、喜須来村、磯津村が合併し、保内町となる 1960年 昭和35年 八幡浜市、重要港湾の指定を受ける 1964年 昭和39年 九州臼杵との間にフェリーボートが就航 1969年 昭和44年 九州別府との間にフェリーボートが就航
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1950年代 - 1960年代
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「サッカーイタリア代表」の記事における「1950年代 - 1960年代」の解説
1949年5月4日のスペルガの悲劇で大半のメンバーが死亡。その影響で翌年の1950年W杯ブラジル大会ではグループリーグ敗退に終わり、1950年代から60年代にかけて低迷期に入る。 1954年スイス大会はホスト国スイスとのプレーオフに敗れグループリーグ敗退。 1958年スウェーデン大会は、欧州予選第8グループで北アイルランドに競り負けて予選敗退となり、本戦出場を逃した。この時、アウェイでの北アイルランドとの最終戦で引き分け以上なら突破だったイタリアだが、濃霧のため第三国の審判団が乗った列車が到着せず、北アイルランドは急遽、自国の審判団を用意したものの、イタリアは「当事国の審判では公平性に欠ける」として、その日の試合は親善試合扱いとし、予選の試合は後日改める事を主張。その結果、親善試合には勝利したものの、後日行なわれた予選でまさかの不覚をとり、初の地域予選敗退となった。 1962年チリ大会には、前年度バロンドールのオマール・シボリや前回大会でブラジルFWとして活躍した「マゾーラ」ことジョゼ・アルタフィーニ、新鋭ジャンニ・リベラらを擁して臨んだ。グループリーグ初戦こそ西ドイツを相手にスコアレスドローだったが、第二戦はホスト国チリとの荒れに荒れた試合を露骨なホームタウンディシジョンもあって0-2で落とす。結局この敗戦が響いて1勝1敗1分のグループリーグ敗退に終わった。なお、パオロ・マルディーニの父チェーザレや、後に代表監督となるジョバンニ・トラパットーニが代表メンバーだったのもこの頃である。 1966年イングランド大会では、決勝トーナメント進出を懸けたグループリーグ最終戦で初出場の北朝鮮に0-1でまさかの敗北(この試合はW杯史上最大の番狂わせといわれている)を喫して3戦1勝2敗の成績で敗退。一行が帰国した際には空港で待ち構えていた怒りのサポーターから腐ったトマトや生卵を投げつけられるという出来事が起きた。 だが1968年、自国開催のUEFA EUROでは、サンドロ・マッツォーラ、ルイジ・リーヴァ、ジャチント・ファッケッティ、ジャコモ・ブルガレッリらを擁したチームで準決勝に進出。ソ連との試合は延長戦にもつれこんでも決着がつかなかったが、規定によって行われたコイントスの結果、勝利した。ユーゴスラビアとの決勝戦も互いに譲らず、延長戦を戦って1-1の同点となったため再試合が行われ、リーヴァのゴールなどで2-0で勝利。激闘の末、久々の国際タイトルを手にした。
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1950年代 - 1960年代
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「ゲイ・アイコン」の記事における「1950年代 - 1960年代」の解説
ゲイ・アイコンの元型の一つはジュディ・ガーランドである。"Culture Clash: The Making of Gay Sensibility"の著者Michael Bronskiは、「ストーンウォール時代直前のゲイ・アイコンの中心的な存在」とガーランドを評している。映画『オズの魔法使』で演じたドロシー役で知られるガーランドのゲイ・アイコンとしての敬愛度は高く、1950年代のゲイの間で隠語として使われるほどだった 。たとえば、"Is he a friend of Dorothy?"(彼はドロシーの友達?)という言い回しは、「彼はゲイ?」という意味で使われていた。 物語の中で、ブリキ男や臆病なライオン、カカシといった妙な仲間と出会うドロシーのキャラクターと、「ドロシーの友達」の意味していた「ありふれていない、奇妙さ」といったニュアンスが「クウィア」へと通じていった。ガーランドは映画で演じたキャンプな姿が有名だが、実際には正反対の性格で、「彼女の歴史は落胆と憂鬱」であったとBronskiは述べている。Bronskiが意見しているように、1950年代のハリウッドは「活気あふれる30年代と自立した40年代」から一転して淀んだ空気に包まれていた。ガーランドだけでなくラナ・ターナーやスーザン・ヘイワードも「苦悩する姿は魅力の一部…50年代の女性スターはゲイ達と同じく、苦悩し、美しかった」とBronskiは記している。。 ガーランドの娘ライザ・ミネリも母と同じくゲイ・アイコンであり、バーブラ・ストライサンドも同様である。ジョーン・クロフォードは、芸術に身を捧げた生き方で"究極のゲイ・アイコン"と呼ばれている。Lawrence J. Quirkは著書"Joan Crawford: The Essential Biography"にて、彼女の公私両方においてもがく姿に同情してくれるゲイ男性達にクロフォードはアピールしていた、と説明している。クロフォードは1930年代 - 40年代にかけて素晴らしい映画スターであったが、"joan crawford: Hollywood Martyr"の著者David Bretによると、完璧なゲイアイコンになったのは、彼女がカラーで撮影された最初の映画Torch Song(1953年)の後だったという。Bretはさらに、女優の赤い髪、濃い目の色、ビクトリーレッドの唇が、ゲイ界の他のセイレーン:ディートリッヒ、ガーランド、タルラー・バンクヘッド、エディット・ピアフ、そして若き日のマリリン・モンローやマリア・カラスに共通する項目であると述べている。ルシル・ボールもこの時代の卓越したアイコンである。リー・タネン(Lee Tannen)の著書"I Loved Lucy: My Friendship with Lucille Ball"で、彼は共通の友達からボールがはじめてゲイ・アイコンと言われたときの体験を述べている。ウェストハリウッドのバーでは彼女が出演していたテレビシリーズ『アイ・ラブ・ルーシー』を毎週末に見るのが恒例になっているのが知り、ボールはゲイ男性から熱烈な賞賛を受けたと話していた。米国のゲイ向け雑誌OUTのインタビューにて、タネンは「ボールの演じたキャラクター、ルーシー・リカードは何をしても失敗ばかりで、自分みたいだと思うゲイ男性は多かったと思う」と述べてルーシーは正にゲイアイコンだ、と自身の意見を説明している。この時代の他のアイコンには、リベラーチェ、ジュリー・アンドリュース、シャーリー・バッシー、デビー・レイノルズ、バーバラ・クック(英語版)、ロック・ハドソン、ファビュラス・ムーラ、ドリス・デイ、アーサー・キット、クララ・ウォード、マリリン・モンロー、グロリア・スワンソン、エリザベス・テイラーなどがいる。
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1950年代 - 1960年代
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「海外ドラマ」の記事における「1950年代 - 1960年代」の解説
この頃の日本の放送業界はまだコンテンツが非常に少なく、加えて劇映画をテレビに提供しないことを取り決めた大手映画会社による五社協定(六社協定)の影響で劇場用映画番組の放映も総放送時間の短縮や系列民放局のみの放映に絞られていたことから、映画番組を放映していた枠の穴埋め目的でアメリカで製作されたテレビドラマのフィルムを大量に輸入しており、当時は「外国テレビ映画」と呼ばれていた海外のドラマ作品が数多く放送されていた。故に日本における海外ドラマの全盛時代であり、視聴率も高く、当時の娯楽の中心であった。 主な作品 西部劇 - 『カウボーイGメン(英語版)』(日本で最初に放送された海外ドラマ)、『ローハイド』、『拳銃無宿』、『ララミー牧場』など 戦争ドラマ - 『コンバット!』、『ギャラント・メン』など ホーム・ドラマ - 『パパは何でも知っている』、『奥さまは魔女』、『ルーシー・ショー』、『名犬ラッシー』など SFドラマ - 『スーパーマン』、『宇宙大作戦』、『宇宙家族ロビンソン』、『ミステリー・ゾーン』など サスペンスドラマ - 『ヒッチコック劇場』、『逃亡者』など 探偵ドラマ - 『サンセット77』、『ペリー・メイスン』など 刑事ドラマ - 『ドラグネット(英語版)』、『アンタッチャブル』など ジャンルも上記のように多岐に及ぶ。この中でも『宇宙大作戦』はその後、原題の『スタートレック』と改題して現在まで続いている人気シリーズである。
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1950年代-1960年代
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「小学区制」の記事における「1950年代-1960年代」の解説
1950年度、新制中学校で3年学んだ生徒が初めて新制高等学校を受験する。高等学校志願者が増加した1950年度(この年の全日制高等学校進学率は42.5%)から、特定の学校への志願が集中するなど、高校入学者選抜をめぐる問題があらわれることになった。1951年9月、文部省は、各学校による学力検査を容認する方針を示した。 1952年に日本が独立を回復する頃から、産業界などを中心として戦後教育改革について多くの批判が出されるようになり、教育改革の修正が試みられていくことになる。学区制に関しては、文部省の「昭和二十七年度公立高等学校入学者選抜実施状況および学区制に関する調査報告書」によれば、中学区制に転換するなど、学区を拡大する方向へ修正をはかる都道府県もかなり多く見られるようになるという。 1956年に地教行法が制定されて教育委員会法が廃止されると、通学区域設定に関する条例の改正が相次ぎ、学区制の廃止や通学区域の広域化が行われるようになった。 1960年代、ベビーブーム世代(のちに団塊の世代と呼ばれる)が高校進学年齢に達する。経済成長とともに高校進学希望者も増加し(1965年に高校進学率は70%を越えた)、都市への人口流入が増大したことも、小学区の設定が困難になったことの背景として挙げられる。1963年の文部省初等中等教育局長通達「公立高等学校の入学者選抜について」では、「一つの学区域内に数校の高等学校が含まれるようにすることが適当である」と明言された。 一方で、1960年代には「四当五落」という表現も用いられるような高校入試の激化が問題視される状況が生じた。広域に設定された学区内に「序列」が生じたことや、「受験戦争」が過熱したことを問題視する見地から、通学区域の縮小による調整を図る地方もあった。東京都で行われていた学校群制度の波及や、総合選抜制度の導入など、都道府県ごとにかなり差異のある制度が採用されることとなった(同じ県内でも地域ごとに複数の制度を併用するケースもある)。
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1950年代-1960年代
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「4分33秒」の記事における「1950年代-1960年代」の解説
『4分33秒』を作っていた1950年代前半のケージは金銭的に苦境にあり、さらには住んでいたロウアー・イースト・サイドのアパートが都市計画で取り壊しが決まった。ケージは1955年にニューヨーク市を去り、郊外のストーニー・ポイント(英語版)に引っ越した。ストーニー・ポイントの森林でキノコ採集にいそしみ、キノコを見分けるときの沈黙で『4分33秒』を演奏した。 1962年にケージが初来日した際には、『4分33秒』の続編にあたる『0'00”』が作曲され、草月ホールでケージによって初演された(後述)。
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1950年代~1960年代
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「ソニック・ドライブイン」の記事における「1950年代~1960年代」の解説
ソニックの創業者・トロイ・N・スミスは、第二次世界大戦後にオクラホマ州で牛乳やパンの配達やダイナー経営をしていた。その後、ショーニーで「トロイズ・パン・フル・オブ・チキン」というファストフード店を開店した。1953年、スミスはビジネスパートナーと「トップハット」というビールスタンドとステーキレストランを開店した。レストランよりもスタンドのビールとファストフードの売り上げの方が高いことから、スタンドの方に集中し、後にビジネスパートナーを買収した。 ルイジアナ州でドライブインを見たスミスは、トップハットをドライブイン形式に改造し、売り上げはすぐに3倍になった。実業家のチャールズ・パッペはその様子に感銘を受け、1956年にパッペとスミスはフランチャイズ契約を結び、ウッドワードに最初のフランチャイズ店が開店した。1958年には、イーニドとスティルウォーターにもドライブインが開店した。「トップハット」がすでに商標登録されていることを知ったスミスとパッペは、1959年に「ソニック」に社名を変更した。パップが死去した1967年にはドライブインの数は41軒に増えていた。
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1950年代・1960年代
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「カネスエ」の記事における「1950年代・1960年代」の解説
戦後の1948年11月29日、牛田桂(1916年 - 2002年)により「旧カネ末岩部商店」から数十メートル離れた一宮市本町4丁目に丸井医院から15坪くらいの土地を借り従業員7名で再開。その2年後の1951年5月1日従業員11名、資本金45万円で「株式会社カネスエ岩部商店」を設立し、社長に牛田桂が就任。 株式会社として会社設立後、売上高は1952年に2,000万円、1953年に2,497万円と伸びていった。1955年には売上高が3,720万円に達し、会社設立当初15坪の本町店を40坪に増床した。1959年に売上高が1億1,638万円に達し、1億円の大台を初めて上回った。1962年には3階建ての木造店舗を増床し、1963年に前年増床した3階建ての木造店舗の東隣に、5階建てのビルを建設した。 1960年、牛田桂はアメリカのスーパーマーケットを視察しに行った。帰国後、レジスターを導入し卸売りと変わらない値段での小売を実行した。しかし、他の小売業者の怒りを買い関係が悪化して卸売で売掛金未回収が多発した。1961年に野菜、精肉およびインスタント食品の販売を始め、売上高は2億3,700万円、1坪あたりの売り上げが557万円、卸売りの売上高は1億1,500億円で小売が卸売りの売上げを初めて上回った。 1963年に売上高は5億2,766万円に達し、1953年に日本初のセルフサービス形式の小売店を東京の青山に開業した紀ノ国屋の代表取締役社長の増井徳男が日本全国の小売商店をまわり、セルフサービスの意義を説いたことがきっかけでセルフサービス方式を導入した。その直後、卸売からの撤退を牛田桂が決断するも1971年まで存続した。 1965年、1坪あたりの売上げが634万円に達し、小売業店舗単位面積当たりの売り上げが日本一となった。「どうしたらそんなに売れるか?」と日本全国の小売業者、食品会社の幹部が本町店へ視察に来るようになった。当時の本町店の来店客数は約1万人。どれほどの盛況ぶりかを例えるなら、バナナを補充するために箱を青果売り場へ持ち運んでいる間に箱が空になってしまうほどだったという。 1960年代前半、店頭でパンの販売を始めようとしたが、既存のルートは押さえられていて参入できなかった。しかし当時、中部・関西地方に進出を考えていた山崎製パンから仕入れを始め、当時のカネスエ本町店を訪れた創業者飯島藤十郎は感動し、当時懸案中のカエスエ駅西店の開店に、飯島延浩(現在の山崎製パン代表取締役社長)ら社員を研修のため派遣し、1967年7月31日、スーパーヤマザキ設立に活かされた。その後、山崎製パンと親交が続き、2002年の牛田桂の葬儀の席で飯島延浩は彼を「カネスエの大将」と弔辞をささげた 。 ドンブリ勘定が基本で正確な申告を税務署へしておらず、税務署の格好の標的となったが、経理処理を明確にし、1967年には「優良申告法人」として一宮税務署から表彰を受けた。 1967年に完全セルフサービスの駅西店の開店しチェーンストア化。売上高が11億8,231万円に達した。売り上げの増加とともに人手不足となり、縁故採用から一般応募へ変更し、それに伴い給与の支払いを会社管理の貯金型、手渡し型に変更、 就業規則の制定した。1969年12月100人収容、300坪の独立した女子寮の完成。1965年頃もともとはレジスターのキーに1字ずつ割り振られていた商品分類記号“よきみせ、さかえる”を紙袋に印刷、経営理念とした。
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1950年代・1960年代
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「阿南市」の記事における「1950年代・1960年代」の解説
1958年(昭和33年)5月1日 - 那賀郡富岡町と橘町が合併、市制施行し阿南市が発足。 9月 - 阿南の「あ」と「南」を図案化した市章が制定される。 1959年(昭和34年)8月 - 神崎製紙(現:王子製紙)富岡工場が操業を開始。 1960年(昭和35年)5月 - チリ地震が発生、市内海岸線で津波被害。 1962年(昭和37年)4月1日 - 徳島県立阿南工業高等学校が開校。阿南市立阿南第一中学校が開校。 1963年(昭和38年)4月1日 - 国立阿南工業高等専門学校が開校。 1964年(昭和39年)1月 - 新産業都市徳島地区に指定される。 6月 - 市内の一部地域が室戸阿南海岸国定公園に指定される。 10月 - 阿南市外二町衛生組合設立。 1965年(昭和40年)9月14日 - 台風第24号に刺激を受けた秋雨前線により集中豪雨。14日の時点で福井町大西が浸水により130人が孤立。 1966年(昭和41年)4月1日 - 市役所庁舎が完成。 11月 - 国鉄阿波富岡駅が阿南駅に駅名を改称。 1967年(昭和42年)3月31日 - 阿南市立富岡中学校、見能林中学校が閉校。 4月1日 - 阿南市立阿南中学校が開校。 1969年(昭和44年)1月 - 日本電工徳島工場が操業を開始。 6月25日 - 市民憲章を制定する。
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