スペルガの悲劇とは? わかりやすく解説

スペルガの悲劇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/07 02:23 UTC 版)

アリタリア航空 チャーター便
事故機の残骸
出来事の概要
日付 1949年5月4日
概要 悪天候による視界不良
現場 イタリアトリノ郊外の丘陵地
乗客数 27
乗員数 4
負傷者数 0
死者数 31 (全員)
生存者数 0
機種 フィアットG.212
運用者 アリタリア航空
機体記号 I-ELCE
出発地 ウンベルト・デルガード空港
経由地 バルセロナ=エル・プラット空港
目的地 トリノ空港
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スペルガの悲劇(スペルガのひげき、伊:Tragedia di Superga)とは、1949年5月4日イタリアトリノ郊外の丘陵地、通称「スペルガの丘」で発生した航空事故である。乗員・乗客31名全員が犠牲となり、死亡者の中にはイタリアのプロサッカークラブ、ACトリノの選手18名と監督以下スタッフ5名が含まれていた。

背景・概要

事故機と同型機のフィアットG.212
ACトリノ

当時のACトリノはイタリアのトップリーグ、セリエAの強豪クラブとして名を馳せ、ファンからは "Grande Torino" (偉大なるトリノ)と称えられていた。1948年から始まったシーズンエースヴァレンティーノ・マッツォーラを中心に好調を維持し、リーグ5連覇も目の前という状況にあった。

1949年5月4日、クラブ一行はポルトガルリスボンで行なわれたベンフィカとの親善試合を終え、アリタリア航空フィアットG.212 型機(3発レシプロ機、機体記号 I-ELCE)でトリノへの帰路に就いた。この時トリノ周辺の天候は激しい雷雨で、視界不良の状態にあった。

ACトリノの面々を乗せた飛行機はコントロールを誤り、トリノ郊外にある丘陵地の上に建つスペルガ聖堂の外壁に激突し大破した。事故機で原形を留めていたのは尾翼附近だけであった。この事故でマッツォーラを含むACトリノの選手18名と、監督・コーチおよびクラブのフロントら5名、そして乗員ほか8名の計31名全員が死亡した。

ACトリノの主力メンバーであったサウロ・トマは負傷を理由に遠征に帯同しておらず、また当時イタリアに亡命していたハンガリー人FW、ラディスラオ・クバラが同じ親善試合に参加するため行動を共にする予定であったが、息子の病気を理由に急遽辞退し、それぞれ難を逃れている。

事故後

犠牲者を追悼した墓碑
事故後50周年を記念して作られたもの

この時のACトリノのメンバーの大半はイタリア代表にも名を連ねる選手達であり、彼らを失ったことはイタリアサッカー界全体にとって大きな損失であった。葬儀はイギリス人監督のレスリー・リーブスリー英語版と、元監督で当時テクニカル・ディレクターを務めていたユダヤ系ハンガリー人のエグリ・エルブステイン英語版を含む、クラブの犠牲者全員を悼む国葬として執り行われた。

優勝目前でトップチームを丸ごと失ったACトリノは、リーグ戦の残りの4試合をユースチームで戦うことになったが、"Grande Torino" に敬意を表した相手クラブも同様にユースチームで対抗。結局このシーズンはそのままACトリノがスクデットを獲得した。ACトリノはその後、クラブの建て直しが上手くいかずに成績も低迷。1959-60シーズンにセリエB降格も経験するなどした結果、次のスクデット獲得までに実に27年を要した。

また、事故の翌年に行なわれたワールドカップ・ブラジル大会に参加したイタリア代表は、チームの再建が間に合わずグループリーグで敗退した(事故の痛ましい記憶から、ブラジルまでの移動に海路を選択したこともチームの不調に少なからず影響したと思われる)。

30歳でこの世を去ったACトリノのエース、ヴァレンティーノ・マッツォーラには、事故当時まだ6歳の幼い愛息・アレッサンドロがいた。アレッサンドロはその後父と同じ道を歩み、ミラノの強豪クラブ・インテルに入団した。後に1960〜70年代のイタリアを代表するスタープレイヤーとなる、サンドロ・マッツォーラその人である。

関連項目

  • ミュンヘンの悲劇 - 1958年、マンチェスター・ユナイテッドを襲った航空事故。
  • グリーン・クロスの悲劇 - 1961年、コパ・チリ出場のチリ、アルゼンチンのサッカー関係者が巻き込まれた航空事故。
  • カラフル11の悲劇 - 1989年、カラフル・イレブンと呼ばれたスリナム系オランダ人のサッカー代表が巻き込まれた航空事故。
  • ガボン航空惨事 - 1993年にザンビア代表が巻き込まれた航空事故。
  • シャペコエンセの悲劇 - 2016年、ブラジル・セリエA所属のサッカークラブ、シャペコエンセが巻き込まれた航空事故。


座標: 北緯45度04分52.1秒 東経7度46分08.3秒 / 北緯45.081139度 東経7.768972度 / 45.081139; 7.768972


スペルガの悲劇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 18:44 UTC 版)

セリエA (サッカー) 1948-1949」の記事における「スペルガの悲劇」の解説

詳細は「スペルガの悲劇」を参照 1939年トリノ会長就任したフェルッチョ・ノーヴォによって、後にグランデ・トリノと呼ばれる偉大なチーム基盤作られた。トリノ1942-1943年シーズンから1947-1948年シーズンまでに4連覇達成し1942-1943年シーズンコッパ・イタリアでも優勝した1948-1949年シーズン敵地インテル引き分けた34終了時点インテル勝ち点差4の首位立っており、5連覇達成目前だと考えられていた。 1949年5月3日トリノ主将ヴァレンティーノ・マッツォーラ友人引退控えていたベンフィカのフランシスコ・フェレイラのためにリスボントリノベンフィカ親善試合が行われた。翌日トリノへ戻る途中飛行機墜落し選手やクラブスタッフ、同行記者乗務員など乗客全員死亡した事故後の臨時役員会で、トリノスクデット争いをしていたインテルを含む複数チームからの提案により、第34終了時点首位トリノスクデット与えることが決定された。トリノ残りの4節をユースチーム戦い対戦相手ユースチーム対抗したスクデット争いには関係なかったが、4連勝シーズン終えた。 すぐにノーヴォ会長チーム再建着手したが、グランデ・トリノ再建は容易ではなく1953年会長辞任したその後トリノはスペルガの悲劇以前のような輝き取り戻せず、1958-1959年シーズンにはクラブ初のセリエB降格決定した

※この「スペルガの悲劇」の解説は、「セリエA (サッカー) 1948-1949」の解説の一部です。
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