南アフリカ航空201便墜落事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 04:39 UTC 版)
![]() 事故機(G-ALYY) | |
出来事の概要 | |
---|---|
日付 | 1954年4月8日 |
概要 | 構造欠陥による空中分解 |
現場 |
![]() |
乗客数 | 14 |
乗員数 | 7 |
負傷者数 | 0 |
死者数 | 21(全員) |
生存者数 | 0 |
機種 | デハビランド コメット |
運用者 |
![]() |
機体記号 | G-ALYY |
出発地 |
![]() |
第1経由地 |
![]() |
最終経由地 |
![]() |
目的地 |
![]() |
南アフリカ航空201便墜落事故(South African Airways Flight 201)は、世界最初の商業用ジェット旅客機に起きた一連のコメット連続墜落事故最後の航空事故である。
事故の概要

1954年4月8日、南アフリカ航空201便は英国海外航空からリースされていたコメット1型機(機体記号G-ALYY、コールサイン:"ヨーク・ヨーク"「York York」)で運航されており、イギリスのロンドンを出発して南アフリカ共和国のヨハネスブルグに向かう飛行計画であった。
しかし当日の201便は、前日、経由地であったローマのチャンピーノ空港からの出発前点検で翼上パネルのボルト30本が緩んだうえに燃料系統にトラブルがあることが判明したため、出発見合わせとなっており、25時間遅れの18時32分(協定世界時、以下同じ)にチャンピーノ空港を離陸しカイロに向かっていた。
19時05分にカイロの航空管制塔に「カイロへの到着時間は21時02分」と送信した直後の19時07分ごろに、ナポリ南東のストロンボリ島付近50km沖合のティレニア海上空高度30000フィートを巡航中に空中爆発し墜落した。この事故で乗員(全て南アフリカ国籍)7名と乗客14名の21名全員が死亡した。空中爆発直後に航空管制官が201便に何度も通信を試みたが、返事が無いため遭難したと判明した。この時の無線通信を傍受していたドイツのラジオ局によって事故の速報が世界中に流された。
翌日に英国欧州航空のアンバサダー旅客機や、イギリス海軍所属の空母イーグルと駆逐艦ダーリンなどの船舶と空母艦載機アベンジャーによる空と海からの大捜索が行われたが、いくらかの漂流していた機体残骸と5名の遺体を収容しただけに終わった。その後、犠牲者1名の遺体が海岸に漂着した。
事故原因
事故機は1952年の製造から2年しか経過しておらず、飛行時間は2704時間で、飛行回数もわずか900回程度であった。しかし、コメットは当時の航空工学では判明していなかった与圧胴体の金属疲労によって、クラック(亀裂)が発生し、最終的には針を刺された風船が破裂するように、クラックから一気に噴出した与圧空気が胴体を引き裂く空中分解が発生したのが原因であったと判明した。 201便の墜落現場の水深は1000m近くもあり、当時の技術ではサルベージ出来ないとされ回収されなかったが、先に全く同じ状況で墜落した英国海外航空781便の機体検証や実機による実験によって、空中分解のメカニズムが判明した。詳細はコメット連続墜落事故を参照のこと。
関連項目
外部リンク
- ジェット旅客機コメットの空中分解 - 失敗知識データベース(日本語)
- 外山智士ホームページ(日本語)
- コメットの航空事故一覧(英語)
- Marc Schaeffer's Comet Website - ウェイバックマシン(1999年1月17日アーカイブ分)(英語)コメットの歴史、事故についての概略あり
南アフリカ航空201便墜落事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 03:34 UTC 版)
「コメット連続墜落事故」の記事における「南アフリカ航空201便墜落事故」の解説
詳細は「南アフリカ航空201便墜落事故」を参照 1954年4月8日、BOAC から南アフリカ航空にリースされていた Mk.I 9号機(G-ALYY、"ヨーク・ヨーク" (Yoke Yoke))は、ロンドン発ローマ・カイロ経由ヨハネスブルグ行き南アフリカ航空201便として運用されていた。 201便は前日にローマから出発する予定であったが、出発前点検で"G-ALYY"翼上パネルのボルト30本に緩みが見つかり、更に燃料系統にもトラブルを生じたため、修繕作業で出発を見合わせていたのである。 定刻から25時間遅れの18時32分 (UTC)、201便はローマのチャンピーノ空港を離陸しカイロに向かった。19時05分にカイロの航空管制塔に「カイロへの到着時間は21時02分」と報告したのが、201便の最後の通信になった。 G-ALYY はその直後の19時07分頃、ナポリ南東のストロンボリ島付近50km沖合のティレニア海上空高度 35,000 ft (10,700 m) を巡航中に空中爆発し、乗員(全て南アフリカ国籍)7名と乗客14名の21名全員が行方不明になった。通信途絶直後より航空管制官が201便に何度も連絡を試みたが、無応答が続いたため遭難したと見做された。この時の無線通信を傍受していたドイツのラジオ局によって、事故の速報が世界中に伝えられた。 事故機の飛行時間は2,704時間で、1952年の製造から2年しか経過しておらず、飛行回数も僅か900回程度であった。 翌日から BOAC のアンバサダー旅客機や、英海軍の空母イーグルと駆逐艦ダーリンなどの船舶、並びにアベンジャー哨戒機による捜索が行われたが、漂流中の幾許かの残骸と5名の遺体を収容しただけに終わった。その後、犠牲者1名の遺体が海岸に漂着した。また墜落現場の水深は1,000m近くもあり、サルベージは断念された。 G-ALYP と G-ALYY の連続事故で、コメット自体に重大な問題があることは最早明白になった。英政府は事故翌日の4月9日中にコメットの耐空証明を再び取り消した。世界中で運用されていたコメットは与圧システムを作動させずに再び本国へ召還回送され、二度と路線に復帰することはなかった。
※この「南アフリカ航空201便墜落事故」の解説は、「コメット連続墜落事故」の解説の一部です。
「南アフリカ航空201便墜落事故」を含む「コメット連続墜落事故」の記事については、「コメット連続墜落事故」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
機体設計の瑕疵による航空事故 |
英国海外航空781便墜落事故 ユナイテッド航空585便墜落事故 南アフリカ航空201便墜落事故 ブリティッシュミッドランド航空92便不時着事故 トルコ航空DC-10パリ墜落事故 |
イタリアで発生した航空事故 |
リナーテ空港事故 チュニインター1153便不時着水事故 南アフリカ航空201便墜落事故 スペルガの悲劇 イタビア航空870便事件 |
デハビランド コメットによる航空事故 |
英国海外航空781便墜落事故 英国欧州航空284便爆破事故 英国海外航空783便墜落事故 南アフリカ航空201便墜落事故 アラブ連合航空869便墜落事故 |
- 南アフリカ航空201便墜落事故のページへのリンク