旧国分寺の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 14:40 UTC 版)
史料では、天平13年(741年)の聖武天皇による国分寺建立の詔に続いて、尾張国分寺に関し『続日本紀』において天平勝宝元年(749年)5月15日条、神護景雲元年(767年)5月20日条、神護景雲3年(769年)9月8日条、宝亀6年(775年)8月22日条にそれぞれ記載が確認される。このうち神護景雲3年記事によると、当時の国府・国分寺・国分尼寺の位置は鵜沼川(現・木曽川)下流とされる。『日本紀略』元慶8年(884年)8月26日条では、尾張国分寺が焼失し、その機能を愛智郡定額寺の願興寺(現・名古屋市中区の尾張元興寺跡か)に移したと見える。発掘調査においても、この焼失後の存続は認められていない。なお、『空也誄』や『六波羅蜜寺縁起』には空也が20余歳の時(920年代)に尾張国分寺で剃髪したとあるため、その頃には尾張国内に国分寺を称する寺院が存在した(いずれの寺院かは不明)。その後中世期の記載は少なく、明徳2年(1391年)の『西大寺諸国末寺帳』において西大寺末寺として尾張国に国分寺の記載があるほか、『妙興寺文書』等において椎ノ木の寺院跡付近に「国分領」「国分寺地」の地名が認められる。 椎ノ木では、江戸時代以来の地誌などで国分寺の所在が伝承され、大正4年(1915年)に前述の石碑が建立された。昭和36年(1961年)から平成25年(2013年)までには、17次にわたる発掘調査が行われた。これらの発掘調査結果や、国府に近いという所在地、また上記の記録・伝承を基に遺構は尾張国分寺跡として認められ、平成24年(2012年)に国の史跡に指定された。
※この「旧国分寺の変遷」の解説は、「尾張国分寺」の解説の一部です。
「旧国分寺の変遷」を含む「尾張国分寺」の記事については、「尾張国分寺」の概要を参照ください。
- 旧国分寺の変遷のページへのリンク