野田城 (陸奥国)とは? わかりやすく解説

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野田城 (陸奥国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 05:04 UTC 版)

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野田城
岩手県
城郭構造 丘城
天守構造 なし
築城主 南部信継?
築城年 不明(古城)・1591年(新城)
主な城主 野田氏
廃城年 不明
遺構 曲輪、堀
指定文化財 未指定
位置 北緯40度6分44.74秒 東経141度48分53.84秒 / 北緯40.1124278度 東経141.8149556度 / 40.1124278; 141.8149556
地図
野田城
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野田城(のだじょう)は、岩手県九戸郡野田村に所在した日本の城

概要

野田城は陸奥国糠部郡野田村に所在し、野田村の平野部丘陵地に位置した。

野田城(新城)は野田村城内[1]の海蔵院の西側の台地にあり、東側の丘陵基部に空濠の跡が残る。

歴史・沿革

中世の城郭。三戸南部11代伊豫守信長の子信継が一戸実朝の跡を継ぎ、康暦年間(1379-1381年)に九戸郡野田村に移り[2]、十府の「古館」[3][4]三日市場)を居城にしたと伝えられており、古館の築城年代などは詳細不明である。天正10年(1582年)一戸政義の代に野田氏と称した。

天正19年(1591年)、野田掃部助政親は南部信直について九戸政実の乱に参戦した。天正20年(1592年)の諸城破却書上には、「乙部 山城 破 一戸 掃部助 持分」とあり、野田氏累代の持城が破却されたあとに妻子を三戸に移住させ、野田の愛宕山の北方に館を築造し「新館」と称し、館の下に家士を配してこの地域を城内と称した。

脚注

  1. ^ 国土地理院 地図情報閲覧サービス
  2. ^ (岩手県史 第3巻 中世篇)岩手県
  3. ^ 「十府ヶ森正吉祖」の居住とされ、「正吉祖」とは「政義祖」すなわち南部薩摩守政義を指し、「十府ヶ森」は地名と思われる。
  4. ^ (日本地名大辞典 岩手県)角川書店

参考資料

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年。ISBN 4-040-01030-2 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。 ISBN 4-582-91022-X 
  • 菅英志『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 

関連項目

外部リンク




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