鵜ノ木地区とは? わかりやすく解説

鵜ノ木地区

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 09:36 UTC 版)

秋田城」の記事における「鵜ノ木地区」の解説

その他城郭外の遺構については、鵜ノ木地区において規則的に配置され大規模な掘立柱建物群の遺構と、水洗トイレ遺構など検出されている。この地区I期からIV期までの変遷見られ、I, II期奈良時代III, IV期平安時代以降推定されている。出羽柵創建733年)から秋田城改称され760年頃までの遺構とみられるI期には、大規模な掘立柱建物跡検出されており、その規模政庁正殿をも上回っていた。これら鵜ノ木地区の遺構は、国営調査結果からは秋田城附属した四天王寺跡とする推定なされているが、I, II期のものについては都からの賓客渤海使迎えた迎賓館として使用されたのではないかとする見方示されている。平安時代以降III, IV期については、区画施設囲まれるなどの寺院らしい体裁整えられるようになっており、「寺」「玉寺」などの墨書残され土器などが出土していることから附属寺院である可能性が高いとみられている。 鵜ノ木地区における重要な遺構一つとして古代水洗厠舎跡の存在挙げられる施設掘立柱建物便槽沈殿槽木樋目隠し塀によって構成され、その構造から、庇側の入口から入るとまず待合室的な空間があり、その先3部屋の個室をもっていたと考えられている。仕組みとしては個室床下便槽溜まった汚物木樋通して沼に排水する水洗式だったと考えられており、その際、沼の汚染少なくするため沈殿槽設け汚れ少な上澄みだけを流すように工夫したものと思われる。なお、水洗に関しては、導水施設見られないことから個室内に用意された甕などの使用後に流す構造であった考えられ、その構造現代簡易水洗式便所に近いものであった寄生虫卵の分析からは、サケ・マスを常食しない西日本的な食生活うかがわれ現地の人ではなく、都から来た役人使用したものと考えられた。ただし、この建物外郭外側通称「鵜ノ木地区」から見つかったことから寄生虫卵の再検討おこなわれ、豚を常食する人々外国人)を迎え饗応した施設ではないかという見方あらわれている。

※この「鵜ノ木地区」の解説は、「秋田城」の解説の一部です。
「鵜ノ木地区」を含む「秋田城」の記事については、「秋田城」の概要を参照ください。

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