八王子城合戦とは? わかりやすく解説

八王子城合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:28 UTC 版)

八王子城」の記事における「八王子城合戦」の解説

小田原征伐一環として1590年7月24日天正18年6月23日)、八王子城天下統一進め豊臣秀吉軍勢加わった上杉景勝前田利家真田昌幸らの部隊1万5千人攻められた。当時城主の氏照以下家臣は小田原本城駆けつけており、八王子城内には城代横地監物吉信家臣狩野善一庵、中山勘解由家範近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民婦女子主とする領民加えた3000人が立て籠った。 豊臣側前夜のうちをぬって主力が東正面大手口元八王子町)と北側絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊追いやった。その後激戦となり1000人以上の死傷者出し一時攻撃の足が止まったが、搦め手別働隊奇襲成功し総崩れの状態となり、その日のうちに城は陥落した。氏照正室比左初めとする城内婦女子自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。こう言われるほど、小田原攻めで他に例を見ない殲滅戦となった城代横地監物落城前に檜原村脱出したが、小河内村付近に切腹している。落城時に御主殿にいた北条方の婦女子武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。麓のでは城山川で米を炊け赤く米が染まるほどであった伝えられ現代でも受け継がれている風習として、先祖供養あずきの汁で米を炊いたあかまんま」(すなわち赤飯)を炊くことは、この逸話がもとになっているといわれている。寳生寺受難者法要続けている。 この八王子城攻防戦を含む小田原征伐において北条氏敗北し城主北条氏照は兄、氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって八王子城廃城となった

※この「八王子城合戦」の解説は、「八王子城」の解説の一部です。
「八王子城合戦」を含む「八王子城」の記事については、「八王子城」の概要を参照ください。

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