八王子城の戦い
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八王子城 八王子城の位置 天正18年(1590年)6月23日。 八王子城攻撃軍の編成 総勢15,000人上杉景勝(藤田信吉など) 前田利家前田利長 木村重茲 真田昌幸 山崎片家 元・北条降将大道寺政繁 松山城降将(上田氏、山田直安、難波田憲次、金子家基、木呂子友則、若林直盛など) 小幡衆(当主は小田原城籠城中) 八王子城守備軍(北条氏照の配下)および領民 総勢3,000人 八王子城攻めには、上杉景勝・前田利家らの部隊約1万5,000人が動員された。当時八王子城は城主・氏照が不在で、場内には城代の横地吉信、家臣の狩野一庵、中山家範、近藤綱秀、設楽能久および近隣の農民・婦女子ら約3,000人が立てこもっていたとされる。先に松井田城で降伏開城した大道寺政繁の手勢も攻撃軍に加わり、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し働いたとされている。金子氏は城内にも、攻め手にも金子氏がいたため、同族が戦うこととなった。 豊臣方は前夜のうちから城の大手と搦手の双方から侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり攻め手も1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、上杉景勝の下にいた藤田信吉の家臣の平井無心がこの周辺の地理に詳しく、抜け道を案内した。この絡め手側別働隊の奇襲が成功して、その日のうちに城は陥落した。氏照正室の比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。獲られた将兵の大量の首は、本来の城主である氏照も籠る小田原に運ばれ船に並べて堀に浮かべられ、または捕虜にした者を小田原城の城門近くに晒すなどして、八王子落城の現実を小田原城守備兵に見せ付けることで、豊臣方は小田原城の早期開城を迫った、と伝わる。 城代の横地監物以下の残兵は脱出し、多摩のさらに奥地であり平山氏重の守る檜原村の檜原城を目指した。山間部にある檜原城にて平山氏重以下は奮戦したが、前田利家や上杉景勝らの大軍勢には敵わず7月12日に落城し、氏重ら平山一族は城下で自刃した。城には情報が伝わっていなかったが、この落城時、小田原城は既に降伏開城となっていた。 八王子城には開城以降、前田軍と上杉軍が在陣した。 詳細は「八王子城」を参照
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