八王子城の戦いとは? わかりやすく解説

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八王子城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)

小田原征伐」の記事における「八王子城の戦い」の解説

八王子城 八王子城位置 天正18年1590年6月23日八王子城攻撃軍の編成 総勢15,000上杉景勝藤田信吉など) 前田利家前田利長 木村重茲 真田昌幸 山崎片家 元・北条降将大道寺政繁 松山城降将上田氏山田直安、難波田憲次金子家基、木呂子友則、若林直盛など) 小幡衆(当主小田原城籠城中) 八王子城守備軍(北条氏照配下)および領民 総勢3,000八王子城攻めには、上杉景勝前田利家らの部隊1万5,000人が動員された。当時八王子城城主・氏照が不在で、場内には城代横地吉信家臣狩野一庵中山家範近藤綱秀設楽能久および近隣農民婦女子ら約3,000人が立てこもっていたとされる先に松井田城降伏開城した大道寺政繁の手勢も攻撃軍に加わり、城の搦手の口を教えたり正面から自身軍勢猛烈に突入させたりなど、攻城戦際し働いたとされている。金子氏城内にも、攻め手にも金子氏がいたため、同族が戦うこととなった豊臣方前夜のうちから城の大手搦手双方から侵攻し力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊追いやった。その後激戦となり攻め手1000人以上の死傷者出し一時攻撃の足が止まったが、上杉景勝の下にいた藤田信吉家臣平井無心この周辺地理詳しく抜け道案内した。この絡め手側別働隊奇襲成功してその日のうちに城は陥落した。氏照正室比左初めとする城内婦女子自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。獲られた将兵大量の首は、本来の城主である氏照も籠る小田原運ばれ船に並べて堀に浮かべられ、または捕虜にした者を小田原城城門近く晒すなどして、八王子落城現実小田原城守備兵見せ付けることで、豊臣方小田原城早期開城迫った、と伝わる。 城代横地監物以下の残兵脱出し多摩のさらに奥地であり平山氏重の守る檜原村檜原城目指した。山間部にある檜原城にて平山氏重以下は奮戦したが、前田利家上杉景勝らの大軍勢には敵わず7月12日落城し、氏重ら平山一族城下自刃した。城には情報伝わっていなかったが、この落城時、小田原城は既に降伏開城となっていた。 八王子城には開城以降前田軍上杉軍が在陣した詳細は「八王子城」を参照

※この「八王子城の戦い」の解説は、「小田原征伐」の解説の一部です。
「八王子城の戦い」を含む「小田原征伐」の記事については、「小田原征伐」の概要を参照ください。

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