前田家の客将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:03 UTC 版)
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。 天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍し小田原征伐の中で最も悲惨だったと云われる八王子城の戦いにも参加している。慶長4年(1599年)12月から、徳川との戦いが想定される中、右近は金沢城下に内惣構と呼ばれる堀の掘削を指揮し、わずか27日で3キロを完成させたが、小田原征伐の際に学んだ小田原城の外堀に倣ったものと言われている。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。
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