前田家時代
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1900年(明治33年)、旧金沢藩前田侯爵家前田朗子より、嫡子前田利為の教育輔導を任せられた。1909年(明治42年)6月25日、嘉仁親王行啓のため蔵品陳列を監督し、1910年(明治43年)1月16日、行幸行啓の準備委員を務めた、 1913年(大正2年)2月8日、胃潰瘍を発症した。 1915年(大正4年)4月、平沼騏一郎等と隣地に無窮会を立ち上げ、調査主任に就任した。また、前田家が編纂した『皇華随班録』、『淳正公家伝』、『天徳夫人小伝』の校閲に当たった。1934年(昭和9年)10月28日脳溢血を発し、半身不随となった。1936年(昭和11年)10月6日午前6時30分死去、谷中天眼寺に葬られた。法号は黙照院徹心確斎居士。蔵書は1937年(昭和12年)定吉を通じて無窮会に寄贈された。
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