人物 、逸話とは? わかりやすく解説

人物 、逸話

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乃木希次」の記事における「人物 、逸話」の解説

長府藩士の乃木家は、天和2年1682年)に先祖乃木傳庵毛利綱元侍医として仕えて以来代々江戸定府侍医であったが、希次は医学好まず幼少より文武の学を修め弓馬術流鏑馬)に長じていたという。 故実家小笠原流礼法大家である久留米藩松岡辰方門人となって、その高足となる。辰方死去後、その嗣子松岡明義を希次が指導したという。 帰藩を命じられた際に改易覚悟したが、結局、減禄と閉門済んだため、平素信仰していた王子稲荷神社加護であるとして感泣したという。 閉門刑期満了後、当時痔疾苦しんでいた希次は一時菅野清右衛門の家に僑居していたが、希次の回復後城下横枕小路にある江木傳右衛門邸宅25両で購入して、そこに移る。現在、この邸宅長府有志者によって保存されている。 性格剛毅厳格で、古武士風格備えていたという。また、長州藩士大組士で、分家筋である玉木家とは代々交流があったが、玉木文之進と希次とは5歳しか歳が離れていない上に、性格似ていたので平素互いに推服していたという。

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人物 、逸話

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ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハ」の記事における「人物 、逸話」の解説

先述のとおり、当時首長オスマン帝国寄り異母兄ムハンマドとの仲が悪く、その憂さ晴らし放蕩の末、父から与えられ財産使い切った後、母の形見宝石叩き売ってクウェート去りインドボンベイに移る。この地でイギリスと関係を持ち、その援助で生活をする。その援助で相変わらず博打のめり込んでいたが、ある人が金の出所について聞くと、ムバーラクは「アッラー偉大なり。その寛大さは無限である」と慎ましく答えてとぼけるのが常であったクウェート戻ってきた当時リヤドサウード家ラシード家のムハンマド・イブン・アブドゥッラー追われて、クウェートにいたが、サウード家当主の3男、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード才能目を付け彼に教育施し、のちに秘書としたという。また、ムバーラクサウード家好意的であったという。しかしながらリヤド奪還成功して以降次第アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード勢力拡大警戒するうになる。なお伝記によってはこの関係の変化を『ムバーラクアブドゥルアズィーズ成功嫉妬したため』とするものもある。 ムバーラクは、中央アラビア覇者になっていたラシードに取って代わることを夢想していたという。しかし、サウード家中央アラビアメソポタミア部族らと連合してラシード家と対決する大敗すると、中央アラビア覇者になることを諦めたその後弟分アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードリヤド奪回し中央アラビア覇者となっていく。これにより、ムバーラクアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードトルコからクウェート自治を守るためにイギリス保護のもとオスマン帝国及びラシード家やサウード家との綱渡り外交終始することとなる。

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人物 ・逸話

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北信愛」の記事における「人物 ・逸話」の解説

奥羽永慶軍記」の作者戸部一カン斎は、信愛を「鳥谷ケ崎の城主北入斎こそ、文は知らず武は奥羽にかくれなき」名将として讃えている(「復刻版」894頁)。 信心深い一面もあり、合戦の際には髻(もとどり)に観音像忍ばせ戦場向かったという。 現在でも行われている花巻まつりは、信愛出陣に際して行った観音祭りが起源であると言われる亡くなる前年に、自身経歴功績詳細に記した「北斎手控」という回顧録を著している。

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ニコライ・ヨルゲンセン」の記事における「人物、逸話」の解説

「少し高所恐怖症」と自分認めており、フェイエノールト新加入選手プレシーズンオープンダッハヘリコプター乗ることに当初から不安を見せていた。当日無事にヘリコプターから降りた後は「同乗していたジュスティン・バイローにほとんどしがみつく勢いだった。運良く生き延びたよ」とコメントしている。

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岩木秀之」の記事における「人物、逸話」の解説

2005年第2回空道世界選手権出場した際、パワフルな外国人選手組み伏せられる体勢となったが、数秒後、相手選手崩れ落ち岩木何事もなかったかのように立ち上がった。下からの絞め技小さな動作綺麗に入ったため、相手選手気絶していることに、すぐ側で見ていた審判も気がつかなかった。 同大会では、世界大会という最大規模公式戦ながら、カポエイラトリッキーなステップワークを巧みに使い相手幻惑し強靱筋力を誇る外国人勢や勢いのある若手選手下し34歳にして優勝をもぎ取った。 「指導員根性論だけではなく身体科学的に理解してなければいけない」という本人理念のもと、アディダスファンクショナルトレーナーの公認資格取得している。 新潟プロレス所属するプロレスラーシマ重野選手が、パンクラス設立者であり総合格闘家として有名な船木誠勝選手対戦するにあたり実戦的打撃技術の習得のために夢源会を訪れ岩木2018年07月11日から11月21日までの約四ヶ月間にわたってマンツーマン打撃技攻防両面指導励んだ道場での指導だけではなく頻発する犯罪から身を守るため、女性のための護身指導小中学校などへ出張しての、不審者からいかに迅速に逃げて身を守るかの指導など、女性子供達護身指導積極的に行っている。

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くろば・U」の記事における「人物・逸話」の解説

幼稚園の頃、職員室PCジャック自分の名前を入力したらしい。小学二年生時にHyperCard触れプログラミング目覚める中学一年生時にResEdit用いてフリーゲームドット絵差し替える中学生の頃よりドット絵作成し始める。高校一年生PSO遊び始める。大学一年生時に初め漫画を描くも、アナログ(での執筆)に向いていないと感じる。趣味DanceDanceRevolutionSOUND VOLTEX主な使用ペイントツールComicStudioAdobe Photoshop影響受けた作家として玄鉄絢、タカハシマコ、武田日向、なもり、介錯美水かがみ、すか、ヒライユキオ、春畑睦月挙げる

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アル=アーディル」の記事における「人物・逸話」の解説

第三回エジプト遠征の際、父アイユーブ遠征に使う財布借り行ったところ、アイユーブは「エジプト一財手に入れたら、これを金で一杯にして私に返してくれよ」と冗談めかして言った一年半の後、アイユーブエジプト到着してこの財布のことを訪ねたので、アーディルエジプト質の悪い貨幣詰めその上に良質金貨かぶせて下の質の悪い貨幣見えないようにして渡したアイユーブはこれを見て「お前はエジプト人からどうやって悪貨相手つかませる学んだのか」と言ったという。これはアーディル自身好んだ一種冗談のようである。 兄サラーフッディーンは、アーディルを特に信用しており、彼との相談なしに何ら重要な決定をすることはなかったと言われる前述のようにリチャード1世との外交交渉担当していたが、もとより戦場リチャード1世駿馬を贈るなど個人的に親交深く交渉中に更に気に入られリチャードの妹ジョーンを妻に娶るように提案された。サラーフッディーン同意示したが、結局はジョーン本人激怒反対実現しなかった。 大食らいで、焼いたまるまる一頭たいらげることができたという。 狡知長けエジプトの平和を守った一方マクリーズィーによれば即位後はかなり豪勢な生活をしていたようで、禁欲的評される兄とは逆の評価得ている。

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慕容曄」の記事における「人物・逸話」の解説

359年2月慕容儁群臣蒲池集めて宴を催した慕容儁が涙を流して群臣慕容曄の評について問うと、司徒長史李績が「太子慕容曄)は大徳八つありました至孝は天より授かり性質道理適っていました。これが一つ聡敏かつ慧悟であり、機思は流れるようでした。これが二つ沈毅決断早く、その理に暗いものはありませんでした。これが三つ諛言を嫌い、直言好んでいました。これが四つ学問賢人愛し目下の者に問うことを恥じることはありませんでした。これが五つ。その姿は古の英雄より勝り才芸時代超越していました。これが六つ。襟を正して謙虚に師の教え尊んでいました。これが七つ。財を惜しまず施し好み民衆苦しみ寄り添っていました。これが太子八つ大徳です」と評した慕容儁はこれを聞き慕容曄存命であれば死んで憂う事はなかったと嘆いた

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初風諄」の記事における「人物・逸話」の解説

宝塚時代親友一人初風緑のおばである・美濃ゆたか(男役)がいた。緑の芸名は諄にあやかり命名したのだという。 親類元プロ野球選手・元プロ野球監督野球解説者田淵幸一がいる。

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宇文顕和」の記事における「人物・逸話」の解説

孝武帝諸侯王時代に顕和と旧交があったため、即位後もたいへん厚遇した。顕和の居宅手狭だったため、役所引き払って、そこをかれのための寝室として賜った高歓北魏朝廷専権ふるっていたため、孝武帝はつねに不安におびえていた。孝武帝が「天下乱れているが、どうしたらよいだろうか」と訊ねると、顕和は「現在の方策は、善き者を選んで頼るよりほかありません」と答えた。詩をそらんじて「かの美人かな、西方の人かな」と言った孝武帝は「わたしの考え同じだと言って入関計画定めた孝武帝は顕和の母が老年係累も多いので、計画参加させようとした。しかし顕和は「現在の情勢では忠と孝をともに立てることはできません。秘密がもれれば身を失う計画であるのに、私情さしはさむことができましょうかといって拒絶した孝武帝顔色変えて「卿はわが王陵である」といった。 宇文泰は顕和が弓射を得意とすることを聞いていたので、溱おもむいたときに傍の小鳥射させると、顕和は見事射当ててみせた。宇文泰笑って「わたしは卿が上手であることを知ったぞ」といった。

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張子信」の記事における「人物・逸話」の解説

子信は清らか安定した性格であり、趣味として文学渉猟した。若くして医術で名を知られ白鹿山に隠れ住んだ。都の鄴に遊んで魏収崔季舒らの礼遇を受け、かれらによる「子信に贈答する詩」数篇があった。大寧年間尚薬典御として召された武平初年太中大夫として召し出されたが、おりふしに山に帰ることを許され、鄴に常住しなかった。 子信は占卜を得意とした。武衛の奚永洛が子信と対座したとき、が庭の鳴いていたことから、子信はこれを叩き落とした。子信は「の言は良くない兆しです。もし薄暮のころに西南からの風がやってきて、この巡り、堂の角をはらうようなことがあれば、口舌による事変あります今夜もし人が呼ぶことがあっても、決し行っていけません勅命であってもといって断りなさい」といった。子信が去った後、その言葉のような風が吹いた。この夜、琅邪王高儼が5回使者派遣して勅命といって奚永洛を召し出そうとした。奚永洛は行こうとしたが、その妻がこれを押しとどめて落馬して腰を折ったと言い訳して行かせなかった。このとき朝廷駆けつけた者は粛清禍難遭った北斉滅びると、子信は死去した

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田中丸善威」の記事における「人物・逸話」の解説

玉屋創業家である田中丸家の一族である。 高校時代部員70率いラグビー部キャプテンポジション右ウイング学生時代100m10秒9。 1992年大学在学時、樋口宗孝レイジー, ラウドネス, スライ)と出逢う1994年樋口スライ結成とともに師事、同バンドベーシスト寺沢功一の傍でローディーとして学ぶ。1997年樋口ソロアルバムFree World”を発表。そのアルバム制作プリプロ~※ガイドミュージシャンとして)に参加。同アルバムではビリー・シーンをはじめ、ジェフ・ピルソン、T.M.スティーブンススタンリー・クラーク等が参加。他にもスティーヴ・ヴァイスティーヴィー・サラステリー・ボジオドン・ドッケンロニー・ジェイムス・ディオタイ・テイバーマイケル・トンプソン等もこのアルバム参加している。 1998年春に樋口推薦もあり柏原崇柏原収史兄弟とともにバンド"ノーウェア"を結成1998年9月9日フォーライフ・レコード(現フォーライフミュージックエンタテイメント)よりファーストシングル"アナザーワールド"でメジャーデビューライヴ活動国内では渋谷CLUB QUATTRO下北沢シェルター 他。1999年8月14日当時台湾でも柏原崇人気絶大で、ノーウェア単独公演に約30,000人を動員。『No'Where(柏原崇) 台北市立體育場 演唱會』 2001年初頭ラウドネス高崎晃レーベルHEMP RECORDSより加藤剛志(Ds.)等と結成したミクスチャーバンド"アイオライト"でミニアルバムリリース高崎晃ソロプロジェクト"JI-ZO"メンバーとしても活動した2001年秋、クラウド・ナインリーダーSHU(Gt.)よりバンドへの誘いを受け、幾度セッションライヴ経て2002年初頭正式メンバーとして参加クラウド・ナインでのリリースは、フルアルバム2枚徳間ジャパン・コミュニケーションズミニアルバム3枚ポリスター)等、ライヴDVD2他、バンドコンピレーションアルバム等にも参加している。PV7本。2005年発表したアルバム疾風迅雷ではミキサー&プロデュースとして元マシーン・ヘッド、元ソウルフライのギタリストローガン・メイダーを起用。翌2006年9月発表され疾風迅雷外伝においても同氏起用2007年10月21日ライヴ最後に渡米目的の為バンド離脱後任ベーシストとして第一期メンバーでもある沢田泰司(元X, 元ラウドネス, D.T.R)が復帰2007年12月18年ぶりとなるラウドネスボーカリスト二井原実ソロライヴのメンバーとして東名阪ツアーRock'n Roll GYPSY TOUR 07』に参加2008年1月28日シャムシェイドボーカリスト栄喜SADSギタリストK-A-Zとのユニットデトロックス渋谷C.C.Lemonホールでの公演参加2008年3月4日よりロサンゼルス在住同年8月ハリウッド人気バンドLOVECHILD(ラブチャイルド)に加入2009年10月30日カリフォルニア州オレンジ・カウンティコーンヘッドライナー迎えて行われた"Halos N’ Horns Fest."にLOVECHILDで出演2010年5月、エレクトロニック・ポップメタル・バンド Otto's Daughter(オットーズ・ドウター)に加入した1ヶ月脱退2010年11月30日無期限音楽活動停止。 ※ガイドミュージシャンとは、リズム録りの際に、一堂ミュージシャン集合できない時に仮で演奏をするミュージシャンのことを言う。そのミュージシャン演奏で、曲の雰囲気捉えるため とても重要になってくる。

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伊佐二久」の記事における「人物・逸話」の解説

熊本大学には乗馬クラブ有り代々麻酔科教員がその部長務めていた。伊佐もまた教職時代に同部長務めている。 2002年発刊され著作ウソのようなホントの話 : 追想昭和初期史から現代医療事情まで』には、参議院議員務めた医師大浜方栄による推薦文掲載されている。 クライン孝子とはヴオイガート立子を介して多年に亘り親交があるという。 2017年発刊された『麻酔科医解決した殺人事件』は伊佐医療体験を基とした小説で、95才にして初めての推理小説作家となった

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謝挙」の記事における「人物・逸話」の解説

謝挙幼くして学問好み清談をよくし、兄の謝覧名声等しくした。 14歳のとき、謝挙沈約五言詩を贈って沈約賞賛受けた当時の人は「王氏には養(王筠)と炬(王泰)がおり、謝氏には覧と挙がいる」と語った江淹謝覧謝挙兄弟会って、「いわゆる『二龍を長塗に馭する』というものだ」といった。 謝挙東宮記録管掌して、昭明太子蕭統信任された。 秘書監任昉新安郡太守として出向するにあたって謝挙との別れを「詎念耋嗟人、方深老夫託」と詩に詠んだ謝挙林園の宴に参加したとき、武帝謝覧謝挙のことを訊ねると、謝覧は「弟の識芸は私を上回っていますが、ただ飲酒だけは私に及ばないようです」と答えたので、武帝大喜びした。 謝挙3回わたって吏部尚書の任についたのは前代未聞のことであった謝挙若くして博識で、とくに老荘仏教解釈長けていた。 謝挙晋陵郡にいたとき、義僧とともに経論講義し隠士何胤虎丘山からやってきた。 国子博士盧広謝挙見識感服した

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彭越 (前秦)」の記事における「人物・逸話」の解説

前秦の閻負・殊が前涼使者として赴いたとき、前涼涼州張瓘は彼らへ前秦人材について問うた。その際に「驍勇権略長け攻めれば必ず取り、戦に必ず勝つ。関張の流で、万人の敵となる者は、前将軍新興苻飛、建節将軍鄧羌、立忠将軍彭越安遠将軍倶難建武将軍徐成である」として、彭越の名も挙げられている。

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苻飛」の記事における「人物・逸話」の解説

前秦の閻負・殊が前涼使者として赴いたとき、前涼涼州張瓘は彼らへ前秦人材について問うた。その際に「驍勇権略長け攻めれば必ず取り、戦に必ず勝つ。関張の流で、万人の敵となる者は、前将軍新興苻飛、建節将軍鄧羌、立忠将軍彭越安遠将軍倶難建武将軍徐成である」として、苻飛の名も挙げられている。

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新見正興」の記事における「人物・逸話」の解説

領地現在の横浜市戸塚区品濃町千葉上総にあったつぶらな瞳美男子だったので「陰間侍」ともあだ名されていた。 第6代駐日アメリカ合衆国大使ローランド・モリス1920年大正9年)に帰国する際、新見の墓に詣で植樹している。この枯れてしまったが、石碑が現在でも残っている。 万延元年遣米使節乗せたポーハタン号士官だったジョンストン中尉新見のことを「寡黙だが温和慈愛の相があり極めて親しみやすい人」「平和な気質親切な心の持ち主」「非常に上品で万国共通の上社会特徴偲ばせる」と日記書き残した

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減敬」の記事における「人物・逸話」の解説

『三河物語』によると、徳川家康嫡男信康正妻徳姫実父織田信長十二箇条の文を送っているが、『三河後風土記』によれば、その中に築山殿家康正妻信康の母)が甲州浪人医師減敬密会し、これを使者として武田勝頼のもとへ送って信康甲州方に味方するとした旨の条がある。その他の条も合わせ、この十二箇条内容により、信長家康築山殿信康殺害命じたとされる。だが、『三河後風土記』には偽書説があり、近年では築山殿殺害信康切腹信長の命ではなく家康信康対立原因とする説も出されている。

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梶正道」の記事における「人物・逸話」の解説

寛政重修諸家譜によれば長篠の戦いの際、武田勢自軍の旗を捨てて敗走したが、徳川方の兵は武田勢の旗を拾って武田方の兵を嘲笑した。これに対して武田兵は「無用の旧物であるから捨てたのだ」と応じ新たな旗を掲げて見せた。これに対して正道進み出て、「山県昌景馬場信春甲斐老将たちの首もわが方にあるが、これも無用の旧物なのか」と笑い武田兵をやりこめた。のちにこのやり取り聞いた家康正道称賛した御感あり)という。 根岸鎮衛『耳嚢』巻之五金平辞世の事」によれば梶正道金平)は「死にともな あら死にともな 死ともな 御恩成し君を思へば」という辞世詠んだという。根岸鎮衛他人から聞いた話を書き留めたのであるが、豪傑として知られた「豪気武骨」の人物忠臣心情辞世とし、他人評価気にせず詠んだ歌として興味示している。『名将言行録』巻之五十四本多忠勝)では、これに似た歌「死にともな あら死にともな 去りとては 君の情の今は恨めし」を、本多忠勝殉死した大谷三平にさらに殉死した三平下僕辞世として掲げている。 これに似た歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深き御恩の君を思えば」が、本多忠勝辞世として流布している。

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湯浅常山」の記事における「人物・逸話」の解説

常山品位方正で身を忘れて岡山藩のために尽くした人格者だった。しかし身分に関係なく誰憚ることなく人の非を直言したため、讒言により遂に官を追われて門を閉じ、客にもほとんど会わず著作専念したという。 常山の著で有名な常山紀談』は戦国時代忠臣勇者事跡逸話描いたのであるが、彼はこの著において「武士全てにおいて武を尊び卑しくも武士たる者は文治排して武事廃するな」と述べている。 常山兵法明るく武芸長じており、老いても常に日に1度と刀を振るうことを欠かさなかった。 常山1つ善言聞き1つ善行を見るごとに必ず感極まって泣いた。そしてその見聞きした善行善言決し忘れなかった。 常山幕府代官であった野口直方親しく野口常山先生慕っていた。その野口備中倉敷から江戸転任することになったとき、藩侯常山野口送っていくように命じた常山息子の子と共に野口送ったが、あるとき「私は君を君命で送ることができないか息子連れて来たんだ」と言った野口が「何を言われます? 先生はこうして私を送ってくれているではありませんか」と返すと「私はあくまで君命で君を送っているんだ。私事息子頼んだんだよ」と答えたこのように常山はどんなときでも公私混同しなかったという。 父が死去したとき、非常に嘆き喪服下衣作って3年脱ごうとしなかった。毎朝、その墓に行って拝し慟哭した。母のときも同じで忌日には必ず生前好んだものを供物として儀礼言葉述べ号泣した井上蘭台と酒を酌み交わし文学論じていたとき、「我が藩で文章よくするのは湯元祥だけだ。なのにその名が天下顕われないのは残念なことだ」と述べた常山はいつもきびきびとして素早い行動をし、人の意見をよく聞いて帰ってからその意見を常に書き記したという。 松崎観海太宰春台弟子だったが、あるとき常山作った詩文見てこの人大器だ。その才も詩くらいで終わるものではないから、詩にうちこむのはこれくらいでやめておいた方がいい」と述べ、春台も「お主言うとおり最もだ」と述べたという。 母親と『枕草子』について話を交わしたのが文学の道を志すきっかけだったという。

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土倉一貞」の記事における「人物・逸話」の解説

佐伯ではコンニャク製造が盛んで、その販売商標土倉家家紋折れ松葉」の使用許可した

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袁紹」の記事における「人物・逸話」の解説

袁紹は『三国演義始め多く三国志創作では名門の出自によって出世した優柔不断な暗君として描かれているが、史書には以下のような人物像記録されている。 袁紹母親婢女であり、凡才であれば、もともと名が史書記録されるような立場にはなかった。 「容貌端正」「姿貌威容あり」「姿弘雅」とあり、秀麗な容姿であった。しかし、「体長婦人」とも記されており、小柄な人物であったことが分かる後漢末当時四つの州を支配した袁紹は最も強盛であるとされた。劉廙上奏文の中で「孫権劉備実績袁紹事業比較ならないと言っている。 おっとりとして上品で、喜怒哀楽感情を表さなかったと言われる魏郡軍勢謀叛起こし黒山于毒結んで鄴城を攻めたという一報入った時、その場にいた席上の客達は動揺し中には泣き叫ぶ者もいたが、袁紹顔色を変える事もなく泰然自若としていた。 公孫瓚配下騎兵二千余り突如来襲してきた時には田豊避難させようとしたが、袁紹は兜を地面叩きつけて「大丈夫たる者は突き進んで戦死するものだ」と言った。 漢末期王公の間で雅であるとされた幅巾という幅の広い絹の頭巾被っていた。 帰郷の際、人物評価名声の高い許劭の目を気にして、車一台だけで帰った敵対している立場から郭嘉が「袁紹人民蛮人に恩を施していたから、袁紹息子たち生きていられるのです」と発言し荀攸が「袁紹寛大さ厚情によって人々気持ち把握していました」と発言しており、袁紹の死を民百姓嘆き悲しんだ事から、仁政執り行った事が分かる

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人物・逸話

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永井尚志」の記事における「人物・逸話」の解説

幼い頃から利発読書が好きであったため師について経史学び独学蘭学修めた泰西事情通じていたという。その学才伝えきいた永井能登守尚徳が、永井家養子として迎えた長崎海軍伝習所では、勝麟太郎矢田堀鴻木下利義、榎本釜次郎肥田浜五郎、他数十人を教えた戊辰戦争幕府軍敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄栄進したのは、異例のことである。一方、『越前藩小倉滞陣日記』によると、第一次征長戦争においては後から交渉に関わったにもかかわらず毛利敬親捕縛しさらし者にすることを主張し交渉をまとめた征討総督徳川慶勝らの面目潰し参謀西郷隆盛矛盾指摘され論破されるという失態犯しているというところからみて、政治的に旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱しきれなかった人物と見ることもできる。しかし、このような観点表層的であり、永井行動長州藩過激派解体するプログラム沿っており、寛典論を尾張藩との交渉において発言しているのは蘇峰の『国民史』でも明らかである。言い換える役人らしく幕府強硬派への釈明から薩摩意見容れるポーズ見せたというのが実相である。 戊辰戦争では、息子養子)・岩之丞と共に品川脱出し函館五稜郭立て籠もり、共に戦った養子である永井岩之丞長女夏子内務官僚平岡定太郎嫁ぎ、その孫が平岡公威、すなわち作家三島由紀夫である。つまり尚志三島の養高祖父にあたる。 尚志の子孫の集まる「桜木会」があり、年一度親睦会開かれ昭和45年1970年時には270名の会員がいたという。三島由紀夫もその一員であり、親睦会出席したこともあったという。 孫の永井亨(経済学博士)は祖父尚志について、「監察となって長崎出張しましたときオランダ人雇い入れ長崎海軍伝習所つくったであります。(中略長崎奉行意見合わないのを独断オランダ人からいろいろの技術材料入れて長崎の飽ノ浦という所へ造船所作った。これがいまの三菱造船所前身であります。(中略そのうちだんだん用いられまして、海軍奉行あるいは軍艦奉行外国奉行などいたしまして後に京都参り京都若年寄格にまでなりまして、守護職松平容保会津藩主)の下ではたらき近藤勇土方歳三以下の新撰組面々にも人気があったと伝えられています」と語っている。また、尚志晩年については、「向島岩瀬肥後守という、若くして死にました偉い人物がおりましたその人別荘入り、その親友岩瀬を邸前に祭って死ぬまで祀をたたず、明治二十四年七月一日七十六歳で死んでおります。私は数え年十四の年でしじゅう遊び参っておりましたのでよく覚えております」と語っている。 孫の大屋敦(元住友本社理事日銀政策委員)は、「軍艦奉行として日本海軍創設者であったゆえをもって烏帽子直垂といったいでたち写真が、元の海軍記念館飾られていたことを記憶している。(中略そういう波乱富んだ一生送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」と語っている。 三島由紀夫映画人斬り』(監督五社英雄)に薩摩藩士・田中新兵衛の役で出演した際のことを、友人林房雄宛の書簡1969年6月13日付)の中で、「明後日大殺陣撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」と記している。 田中新兵衛姉小路公知暗殺嫌疑捕縛され時の京都町奉行は、永井尚志であったという。

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石勒」の記事における「人物・逸話」の解説

漢人士大夫登用して律令官制整えた。『趙書』などの史書編纂させたといわれる仏教崇拝し仏図澄信奉したことでも知られる石勒自らは字が読めなかったが、他人に書物を読ませて聞くのを好み様々に評論することがあった、酈食其六国の後を立つるを勧め、印を刻み将に之を授けんとせるを聞くに、大い驚き曰く此の法は當に失せんとす。云何ぞ遂にして天下を得る有らんや?」。張良諫むい至らば、迺ち曰く「頼いに此れ有るのみ」と。 また、過去群雄について、「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信彭越先陣競うだろう。光武会ったなら、互いに中原の鹿追い天下争い雌雄を決するだろう。大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月明るく輝くように物事を行うべきであって曹孟徳司馬仲達父子のように、孤児献帝)や寡婦明元皇后郭氏)を欺きのように媚びて天下を取るような真似絶対にできない」と評した若い頃流浪したこともあり、従子石虎を除くと親族がほとんどいなかったため、「異姓不要」の風潮が強い当時において他姓養子複数迎えて一族強化図ろうとした(直接関連性はないが、500年後五代十国時代仮子に近い)。更に勃海石璞石苞曾孫)を同姓のよしみで宗室待遇与えている。

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土井利勝」の記事における「人物・逸話」の解説

土井利勝同じく江戸時代初期幕僚として活躍した人物には優れた人物大勢いたが、なかんずく、利勝は公正さ重んじた評される秀忠家督家光に譲ることを利勝を経由して家臣達に申し渡したとき、井伊直孝一人不安な様子見せていた。利勝は直孝を白書院へと連れてゆき理由問いただした。直孝は、大坂の陣などで諸大名財政逼迫しているのにさらに将軍隠居すれば、祝儀などにより金を使うことになり、民を虐げることにもなると危惧していた。それを聞いた利勝は、直孝の懸念秀忠伝えた。直孝の強い直言もあって秀忠納得し翌年秀忠隠居取りやめとなった将軍・家光が増上寺参拝向かおうとしていた時、白壁欠損していることに気づいた。家光松平信綱修繕命令したが、修繕は困難であった。そこで信綱は、他のの戸を外し壊れた部分一時的に当てることによって修復したように見せかけようとしたが、利勝は、それは姑息なごまかし過ぎず、無理であれば無理であると率直に言上すべきであると信綱を叱責した。 利勝は、最上義俊最上騒動改易されて浪人となった際、義光以来重臣鮭延秀綱身柄を預かると、のちに召抱えて5,000石もの高禄与えた。しかし秀綱はこの5,000石を自分の家14人に公平に与えて自らは無禄客分となり、その14家へ日々順に転々として寄宿し余生過ごした。その14名は土井家では中級家士取り立てられ大半の家は幕末まで続くことになるが、延の没後、その恩顧報いるべく古河鮭延寺建立して供養努めた幕府実力者として諸藩より評価されており、依頼受けた場合は幕藩関係で事前根回し指南を行う取次の老中となって、その藩の指導行った

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オットー・シュニーヴィント」の記事における「人物・逸話」の解説

秀才型の有能な人物だと評価されている。 対英戦に備えた海軍拡張政策Z計画」ではヘルムート・ハイエ中将、ヴェルナー・フックス少将戦艦では英国には勝てないので、その通商破壊目的とした潜水艇Uボート主力とした艦隊構築すべきだ、との急進的な意見に他の提督達と同様に戦艦中心とした艦隊建造支持している。 堅実な性格部下失態口汚く罵る事は無かったと言うニュルンベルク継続裁判無罪になった彼だが、これは戦前アドルフ・ヒトラー隔意抱きヒトラー非難する主旨発言などをした事から、反逆罪軍法会議呼び出され死刑判決受けた事が、連合国から好印象与えた為と思われるワルキューレ作戦に関わっていたとも言われているが、ヒトラー暗殺計画捕まった海軍軍人ヴィルヘルム・カナリスのみだった。

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深緑夏代」の記事における「人物・逸話」の解説

日本シャンソン界の大御所中の大御所であり、宝塚歌劇団最長老OG日本最高齢歌手ひとりであった。 宝塚カルチャースクール教えた生徒の数はゆうに一万人を超えるといわれている。 シャンソン教室には、後の月トップスター古城都通っていた。(古城談) 1960年当時立教大学学生だったなかにし礼才能見抜きシャンソン訳詞依頼なかにし作詞家生活の第一歩作ったなかにし自身深緑からたくさんのことを教わったことを語っている。その当時回想しなかにしは「あの頃無かったら作詞家として自分は無い」「あの時は沢山アルバイト代を頂いて…一番裕福な時期でした」と語っている。深緑亡くなるまで親交続き葬儀では弔辞述べた

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斎藤利綱」の記事における「人物・逸話」の解説

連歌優れ作品が『新撰菟玖波集』に収められている。三条西実隆日記実隆公記によれば古今和歌集』『愚問賢注』の写本奥書染筆請うたり、十首歌を詠ずるなど文武両道武将であった故実にも通じ、『家中竹馬記』の作者であり、『土岐家聞書』の作者であるとも。

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大岡忠光」の記事における「人物・逸話」の解説

将軍言葉意のまま伝えることができたにもかかわらず決し奢ることや幕政口を挟むようなこともなかったという。遠縁同じく旗本から大名へ出世した大岡忠相に身のあり方などを聞いていたという。 当時の忠光を知る逸話として、当時オランダ商館長をしていたイサーク・ティチングが、忠光のことを著書将軍列伝』の中で次のように書いている。 「家重大岡出雲守という真実の友を持っていた。大岡出雲守はまことに寛大な人物で、他人過失咎めなかった。あらゆる点で大岡は上にあげた吉宗お気に入りの3人の家来吉宗御側御用取次であった加納久通小笠原胤次渋谷和泉の3人の事)をお手本にしていた。それで、その死後大岡について次のような歌ができたのである。『大方は出雲のほかにかみはなし』その意味は、要するに『出雲(=忠光)のような神はない云々ということであるが、詠み人は、出雲(=忠光)の立派な性質のすべてについていうことは皮相なことであるとつけ加えている。(なぜなら、)『我々は皆、そのこと(忠光の人柄業績)をよく見て知っている』といい、また、『そして涙を流して彼(=忠光)の思い出感謝捧げるのだ』ともいっている。」 — イサーク・ティチング将軍列伝幕府要人に対して忌憚なき庶民生の声が知ることの出来川柳では「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と世間謳われた松平定信のように幕政などへの批判少なくないが、この句から忠光が民衆好意持たれていたことが非常に良くわかる。また、この句の作者の忠光に対して尊敬感謝思い読み手にも伝わってくる。 家重春日園へ遊び行った際、忠光は所用で側にいなかった。このため家臣家重何を言っているのか聞き分けることができず、急使出して忠光に伝えた。人を介してのことにもかかわらず、忠光は家重言葉解し、「御上家重)は寒いから上着欲しいのだ」と答えた。それを聞いた家臣が忠光の言う通り上着家重差し出すと、家重喜んだという(『続三王外記』)。 宝暦6年1756年)に岩槻藩となった忠光は、その4年後に死去した。しかしその4年間オランダから伝わった木綿種を領内試植したり、砂糖種の蒔付け植樹奨励し産業発展尽くしたまた、家中領内70歳以上老人がいれば、全てに金を与えて人心収攬した。さらに忠光は家臣内海十郎に対して「民を治める道は重要で、精一杯取り計らい百姓難儀しないよう治めよ」と下命したという(『得祥院様御行状誌』)。

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堀親義」の記事における「人物・逸話」の解説

ケチ大名と言われた。どの大名でもよほどの理由がない限り古くなった自らの衣服家臣などに下げ与えるのが当たり前であったが、親義は家臣下げ与えることを決してせず、飯田土蔵には古着屋と思われるほどの親義の古着があったという。 嘉永元年1848年)に父・親寚が死去する寸前、親寚は愛妾の春との間に生まれたに対して鎧と太刀遺品として与えた。しかし父が死去すると、親義はその遺品強引に奪い取る暴挙行ない、春は親義を恨みながら自殺したという。 表 話 編 歴 堀氏信濃飯田藩11藩主 (1846年 - 1868年)小笠原家小笠原秀政1601-1613 信濃松本藩転封 1613年から1617年まで幕府領 脇坂家脇坂安元1617-1654 脇坂安政1654-1672 播磨龍野藩転封 堀家堀親昌1672-1673 堀親貞1673-1685 堀親常1686-1697 堀親賢1697-1715 堀親庸1715-1728 堀親蔵1728-1746 堀親長1746-1779 堀親忠1779-1784 堀親民1784-1796 堀親寚1796-1846 堀親義1846-1868 堀親広1868-1871 廃藩置県

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郝晷」の記事における「人物・逸話」の解説

370年12月王猛諸将属官とともに宴を開いた王猛は「人心は同じではない。梁琛長安前燕美化し楽嵩桓温強盛ぶりを述べ郝晷前燕疲弊ぶりを説くほどだ」と述べた参軍馮誕が「その三人は今、我が国の臣でありますが、誰の意見先に取られますか?」と問うた。王猛は「郝晷僅かな兆候を知ることができるので、彼を先に取るだろう」と答えた馮誕は「明公 (王猛) は丁公賞して季布誅するのですな」と述べた王猛大笑した。

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アル=アジーズ」の記事における「人物・逸話」の解説

マクリーズィーアジーズを以下のように評している。「アル=アジーズカイロにおいてかなり苦し状況にあり、財源不足していた。しかしながら彼はその民衆対す公正なふるまい寛大さ、それに親しみやすさから彼らに愛されていたのであるイマードゥッディーン・アル=イスファハーニーによればアジーズサラーフッディーンが最も贔屓にした息子であり、1179年アジーズ兄弟たち、および従兄弟たち(叔父アーディル息子たち)の割礼が行われた際は、7000頭の羊が屠られ、大量菓子振る舞われた。

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金森長近」の記事における「人物・逸話」の解説

永禄2年1559年)に信長初め上洛した際に長近は80名の随行者1人であった。この時、斎藤義龍からの指示信長暗殺しよう美濃衆刺客らが後をつけてきたが、丹羽という尾張からの使者道中これを看破し蜂屋頼隆と長近に通報した美濃衆刺客達面識があった長近は挨拶称して彼等宿所訪れ、事が露見している旨を宣告したという。 長近は蹴鞠茶の湯の才にも秀でており、秀吉伏見在城の時は伏見城下の自宅書院茶亭造りしばしば秀吉招いた茶の湯宗匠千利休弟子として茶会招かれたり、宗匠古田織部とも親交があった。家康秀忠父子からは「気相の人」と言われ信任されていた。慶長10年1605年)には家康父子が長近の伏見邸を訪れ風流楽しんでいる。 秀吉千利休切腹命じた時、嫡男である千道安飛騨高山隠棲させ、匿ったとされるその時に、照蓮寺明了金森重近(後の金森宗和)が、千道安からの手ほどきを受けたという。 晩年秀吉が、有馬温泉にて湯治行なった際、12(13)上の長近が秀吉背負って入湯したことが有馬温泉記』に見られる関ヶ原の戦いの後、徳川家康岐阜城天守閣に登った長近は、家康から戦功賞賛され、信長以来思い出話をしている。この時、論功行賞固辞した長近に、家康与えたのが、美濃の上有知1万8000石と河内国金田(かなた=堺市金岡町3000であった。長近亡き後息子金森長光没した時に上有知藩領地没収金田は、妻の久昌院寛永2年1625年)に亡くなるまで、彼女の知行地として残された。

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槇村正直」の記事における「人物・逸話」の解説

明治4年1871年10月開かれた第1回京都博覧会際し春季博覧会余興として祇園芸妓舞妓の舞を公開させたのが都をどり始まりとされている。 明治5年1872年)、「非科学的である」との理由五山送り火はじめとするお盆諸行事を禁止した離任後の明治16年1883年)に解除)。 明治9年1876年)、府令をもって撃剣稽古をなす者は国事犯嫌疑者として監禁する」とし、剣術禁止した

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山岡重長」の記事における「人物・逸話」の解説

伊達世臣家譜によれば朝鮮出兵の際、進軍途上で馬に乗って逃げ十二三歳の娘を発見した重長は、これを生け捕りにした。娘は愛姫侍女となり、慶長元年1596年)に愛姫勧めで妻を亡くしていた重長の後妻になったという。 宮城郡手樽統括していたころ、東北本線松島駅後方高台に、休憩所兼ねた念仏庵を造ったその後利府円城寺より僧侶招聘して帰命院を創設した創設当時高城町並みは海だったこともあり、松島絶景望め名刹として訪れる者が絶えなかったという。

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若狭和朋」の記事における「人物・逸話」の解説

つかこうへいとは幼馴染みでで、小学中学高校とも同窓であり、学年若狭が上だった。 元NHK会長籾井勝人とは、高校・大学同級生学寮でも同室だった。 経済産業省職員赴いていたドイツフランクフルトにて、研修修学していた。 友人一人ドイツ人フリッツ氏がおり、通産省時代フランクフルト滞在した以来友人であり、歳は一歳下であるが、学歳は遥に先輩であるという。 ドイツ在住期に日本残した妻が23歳若さ亡くなる。研修修学終え帰国する岐阜県在住教師になったのは深い理由があり、「・・・、大寺雲水一員になっていた。」との記載がある。 関市長の亀山一二によると、正眼寺おかしな坊主いると聞き訪ねてみる。近縁者を亡くした悲しみから通産省の職を放棄して帰国し、寺の雲水として暮らしている若狭和朋に対して亀山は「悲しい気持ちはわかるけども、どうだ、心機一転高校先生にならんか。」と諭し立ち直り切っ掛け与えた岐阜県下の公立高校社会科教師として、38年教鞭を執った。県立加茂農林高校など職業高校教師辞令受けた教師時代では、高校野球監督部長務めた。有力校ではない各高校野球指導行った16年間に夏の公式戦では1勝しかしたことがない弱いチームを勝つチーム変革させる。 生徒指導部部長15年務め続けた生徒たち善導することは大変な苦労要ったことだが、15年間は岐阜県下では、めずらしい記録だという。

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高力清長」の記事における「人物・逸話」の解説

三河三奉行称される際に、清長温順にして慈愛深く、重次は思いのまま言いたいことを言う、康景は寛厚にして思慮深いそれぞれ評され、「仏高力鬼作左、どちへんなしの天野三兵」という様に、「仏高力」として名が知られている。このように清長正直者知られていたが、それを示す逸話も多い。家康から岩槻2万石与えられた際、預け地1万石も与えられた。預け地とは事実上はその責任を伴う者の領地同然で、当然収入として上がる年貢役得として自分の物としてもさして問題ないのだが、清長預け地年貢1度自分の手にすることなく直接江戸へ運ばせた。文禄の役軍船建造担当し余った建造費である金20家康返上しようとした際も、その正直さ感激した家康そのまま褒美として与えている。 豊臣秀吉清長陪臣ながら寵愛して重用した秀吉岩槻立ち寄った際、その饗応秀吉感心し庭前萩の花詠んだ和歌清長与えた

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于栗磾」の記事における「人物・逸話」の解説

左右どちらからでも騎射ができ、武芸は人に過ぐる称された。 後燕との戦い勝利した後、祝勝の宴が催された。拓跋珪は酒を置いて「卿は我の黥布彭越である」と称え金帛下賜した。 拓跋珪は白登山において、熊が数頭の子引き連れているのを見た拓跋珪振り返って、あの熊らを素手倒せるかと于栗磾尋ねた于栗磾は「天地において、人は最も貴いものです。もしも素手挑んで勝てねば、壮士無駄に失うだけではありません。御前まで追い立ててもらえれば、坐したまま、これを制してみせましょう」と答えた于栗磾は熊らを尽く捕え、これを見た拓跋珪謝った。 黒矟を好んで用い于栗磾トレードマーク的な存在となっていた。劉裕于栗磾見て、これを興味深く思い、彼への書面題名を『黒矟公麾下』とした。宋書において、于栗磾は『黒矟公』と記されている。 若年から晩年に至るまで軍事携わり、事に臨んで善く決断し向かうところ敵無しであった目下の者にも謙虚に接し刑罰みだりに加えことはなかった。拓跋燾于栗磾の死を悼み、たいへんに惜しんだ後年、唐の詩人杜牧作品『東兵長句十韻』において、黒矟将軍の名で登場している。

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伊達晴宗」の記事における「人物・逸話」の解説

晴宗が正室久保姫娶った経緯については、当初久保姫は父・岩城重隆意向結城晴綱嫁ぐことになっていたが、久保姫美貌知って惚れ込んでいた晴宗が自ら軍勢率いて輿入れ行列襲撃し久保姫連れ去り強引に正室にしたとされている。晴宗と久保姫夫婦仲良く長男の親隆を岩城氏に入嗣させていたこともあって岳父・重隆との関係も改善され天文の乱に際して援助受けている。久保姫は晴宗没後出家し宝積寺建立して亡き夫を供養した。その後は、孫の政宗頼って宮城郡根白石移住し同地文禄3年1594年)に74歳没した黒嶋敏は、稙宗は6人の側室持って対外進出積極的で奥州諸家との婚姻養子縁組積極であったのに対し、晴宗の側室存在確認できず有力な一族家臣との婚姻進めて家中統制留意しているところから、天文の乱に至る背景として稙宗と晴宗の性格違いにもあったのではないか、と推測する同時に黒嶋は晴宗の子女の縁組でも蘆名氏佐竹氏との婚姻留守氏国分氏石川氏への養子縁組も輝宗期の成立で、稙宗と輝宗の政策共通性指摘して、稙宗と輝宗の外交政策における思考近さと晴宗と違い指摘している。 江戸時代伊達騒動経て元禄期に入った仙台藩では藩史編纂が盛んとなり、『伊達正統世次考』・『伊達治家記録』などが編纂された。その中で天文の乱で父と争い、子と争って元亀の変一因作った晴宗は「暗君」、それを支えた中野宗時桑折景長は「姦臣扱いされるようになるその背景として、藩祖伊達政宗の父である輝宗が顕彰対象になったに対してその輝宗と争った晴宗が否定的にみられたこと、2度にわたる御家騒動きっかけ作った晴宗が同様に大規模な御家騒動発展した伊達騒動引き起こした伊達綱宗政宗の孫)と同じよう否定的に扱われたことにあった。更に「姦臣」とされた中野宗時桑折景長の子孫が元禄仙台藩にはいなかった(桑折氏宗家宇和島藩仕え仙台藩残った分家は景長の曾孫にあたる原田宗輔伊達騒動における逆臣とされた影響断絶追い込まれていた)ことなどが挙げられる中野宗時桑折景長が「姦臣」と位置づけられた結果天文の乱は晴宗が彼らに唆されたとされ、元亀の変中野専横結果とする説明が可能となり、仙台藩伊達氏)の歴史観として確立されることになる。

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ヘンリー・チャップリン (初代チャップリン子爵)」の記事における「人物・逸話」の解説

社交的な性格であり、食通評論家として知られた。愛馬ハーミット種馬収入年間15,000ポンド)に助けられていたが、収入超える浪費続けた挙句不動産邸宅手放すこととなった自分と同じく太っていた自由党政治家とどちらがよりダイエットできるかを競い18ストーン(114.3kg)から16ストーン(101.6kg)の減量成功した

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毛利隆元」の記事における「人物・逸話」の解説

現存している文書によると、隆元温厚篤実性格持ち主で、絵画仏典書写などを愛す教養豊かな人物であったとされている。その一方で、父の元就のように超然とした態度取れない自分卑下したり、有能な弟達に対して劣等感抱き苦悩していた形跡数多くつかっている。 隆元教養豊かで穏和な仁将として名高かったが、その反面武将として気概機転欠け部分があり、文芸遊興費やす時間長かったことから、それを心配した元就や広良か再三わたって訓戒されることとなったまた、元就からは書状で、「能や芸や慰め何もかも要らず。ただ武略計略調略肝要に候。謀多きは勝ち、少なき負け候と申す」(『毛利家文書』、第413号「毛利元就自筆書状」)と度々叱責されている。 元就隠居表明には狼狽し、「父が隠居するなら、自分も幸鶴丸(輝元)に家督譲って隠居する」(『毛利家文書』、第660号「弘治3年8月15日 毛利隆元自筆書状」)と自棄的に嘆いたことがある。また平素から書状の中などで「自分生来無才無器量である」(『毛利家文書』、第761号「天文23年3月12日 毛利隆元自筆書状」)と自嘲的記している場面が多いなど、極めて自己卑下の強い人物であったことが窺える元就書簡の中で隆元を「優柔不断武将として資質欠けている」(『毛利家文書』、第413号「毛利元就自筆書状」)と評しており、隆元への実権移譲が行われなかった理由は、彼自身性格面の問題とされる元就の手紙の中ではその他の点として、正直すぎることや、親孝行信心には優れるが、武略計略調略などの面ではさらに努力が必要である旨が指摘されている。 偉大過ぎる父の元就存在は、隆元人格形成に最も大きな影響もたらした隆元もそれを自覚していた節があり、書状の中で「名将の下には不遇な子が生まれる」(『毛利家文書』、第762号「毛利隆元自筆書状」)と自嘲気味に記している。また同時に、父の偉業自分失墜させてしまうことを病的なまでに恐れており、隆元厳島神社寄せた願文には「ただただ父上武運長久無病息災を願う。そのためには自分身命をも捧げてもよい」と記されている。 内政財務能力長けていたと言われる彼の死後毛利家収入が2,000貫≒4,000石ほど減少した)。また政治面でも、元就直属重臣たちと隆元直属官吏たちとの間で意見対立生じたことなどから、自分独自の派閥組織できるだけ能力持っていた。隆元死後、彼がいかに縁の下の力持ちとして毛利家のために尽力していたかを知った元春と隆景は敬服し自家優先しがちだった彼らも隆元死後より一層毛利家のために尽くようになった三本の矢逸話影響もあって、現在では良好だったと伝わる三兄弟隆元・元春・隆景)の仲だが、実際所領分割三家それぞれの運営さらには三兄弟性格相違など、様々な問題抱えており、決し良好ではなかった。事実隆元は父の元就向けて近頃、元春と隆景の両弟は吉田郡山に来て長期滞在せず、それぞれの家のことばかり固執し相談事があっても私ではなく父上相手にする。これは二人が私を見下して除け者にしているようで、非常に腹が立つ」といった意味合い書状送っている。この書状によって、元就三兄弟不仲ぶりを痛感し、『三子教訓状』の発行毛利両川体制構築思い立ったとされる隆元正室尾崎局深く愛したとされ、生涯側室を持たなかった。戦場から妻にあてて「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻ると言うので手紙書いた」という律儀一文から始まる手紙残っている。なおこの時、尾崎局の父・内藤興盛から、船岡山合戦以来着用してきた嘉例重宝「縹糸胸紅白胴丸」(毛利博物館)を贈られており、娘婿である隆元対す興盛期待のほどが窺える大内義隆陶隆房討たれ大寧寺の変受けて、義隆を討った晴賢を「虎狼之心」と罵り、「いずれ陶軍は必ず毛利にも攻めてくる。受身になるより力のある時に戦うべきである(賢ヨリ仕カケラレ候テ、請太刀ニテ取相候ハンヨリ、只今此方力ノ候時破リ度候)」と語り、陶との交戦強く主張した防長経略後は自らが大内氏栄光受け継ごうともしていたようで、大内氏旧領統治するだけでなく、同家勘合貿易用いていた勘合割符)を山口入手し大陸との交易再開させるために、隆元主導商業取引進めていたことが明らかになっている 実戦指揮としての功績有名なものは豊前松山城近郊における豊後大友氏との交戦がある。この時、父の元就・弟の元春らは尼子氏交戦中であり、この方面は内政・軍事両面とも隆元担当していた。松山城戦いで大友軍が隆元指揮毛利軍撃退されたことにより、戦線膠着、後の毛利大友間の講和に繋がる。他に有名なものとして、防長経略の際の須々万沼城攻略戦がある。この時は元就から城攻め任されるが、大友多大な損害出して敗退した須々万沼城は弟・隆景も攻略失敗した堅城であり、最終的に元就が自ら兵を指揮して攻略したまた、他には天文21年1552年)に安芸国西条槌山城攻め落としている。 年不詳ではあるが、天文17年1548年)から永禄2年1559年)の間に秋月種実兄弟契約結んでいる(『毛利家文書』、第310号「年不詳6月8日毛利隆元自筆書状案」)。

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毛利元就」の記事における「人物・逸話」の解説

朝倉宗滴による評価 越前朝倉氏名将朝倉宗滴自身著作朝倉宗滴話記続々群書類従所収)』の中において、元就のことを「日本国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、今川殿(今川義元)、甲斐武田殿武田信玄)、三好修理大夫殿(三好長慶)、長尾殿(上杉謙信)、毛利某、織田上総介方(織田信長)、関東正木大膳亮方(正木時茂)…此等の事」と書いており、政務家臣掌握術において今川義元武田信玄と共に高く評している。 天下競望せず 尼子氏の滅亡後、中国地方覇者となった元就だったが、自身は「天下競望せず」と語り自分の代での勢力拡大これ以上望まない意志明らかにしていた(とはいえ大内氏支配圏だった北九州進出にはこだわり晩年まで大友氏激し抗争続けた)。またそれは息子や孫達の代に至るも同様であり、三男・隆景を通じて輝元の短慮諌めるようにたびたび言い聞かせ、これが元就の『遺訓』として毛利家浸透していったという。 三本の矢 死ぬ間際元就が、3人の息子隆元・元春・隆景)を枕元呼び寄せて教訓教えたという逸話がある。元就最初に、1本の矢を息子たち渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた息子たち誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟結束強く訴えかけたというものである。この逸話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名だが、実際に元就よりも隆元早世しているなど史実とは食い違う点も多く弘治3年1557年)に元就書いた直筆書状三子教訓状』に由来する創作とされる。 「三子教訓状」も参照 家臣周辺国人への気遣い元就はいつも餅と酒を用意し地下人などの身分が低い者達まで声をかけて親しくしており、家来が旬の花や自家製野菜などを土産元就所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらか上機嫌振舞った家来持ってきた土産はすぐに料理をさせ、酒が飲めるかそれとも飲めないかと尋ね、もし酒が欲しいです答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は言うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしになることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、もし下戸だと答えれば「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆に同じようにあげていた」(『吉田物語』) 後世に遺された数多くの手元就筆まめ人物であり、数多く自筆の手紙が残っている。明和4年1767年)に毛利家編纂された毛利氏訓戒集には手紙などに残され元就小言30近く羅列されている。また、前述の『三子教訓状』の紙幅は2.85メートルにもなり、同じよう内容繰り返し記される吉本健二、舘鼻誠など戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記している理由である。吉本元就の手紙を「苦労人であった為かもしれない説教となっている」と評したこのような手紙について元就自身は「思いのまま綴った」「急いで書いた」という趣旨釈明をしているが、実際に誤字脱字多くなく、手紙意図が伝わるように読み手意識した文章になっていることから、複数回の下書きをした上で入念に準備しているものと考えられている。 酒でのウサ晴らし戒め下戸で通す 元就嫡男隆元に、酒は分をわきまえて飲み、酒によって気を紛らわすことなどあってはならないと、節酒心得説いている。孫の輝元が元服済ませた際には、輝元の実母尾崎の局に小冷汁一杯か二杯ほど以外は飲ませないように忠告している。このような背景に、元就毛利氏歴代が酒に害されやすい体質であることを熟知しており、そのために元就自身節酒をしてその延命効果説いたのである

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最上義光」の記事における「人物・逸話」の解説

長らくよしみつ」「よしてる」等が名前の読みとしていたが、彼が実妹保春院宛てた書状において自らの名を平仮名で「よしあきと書いていたことから少なくとも郷土において、これが正し呼び名であることが判明した早くから集団戦術火器着目しており、酒田港経由上方より大量銃器火薬入手し、また堺から鉄砲鍛冶招聘していた。天正2年1574年)の伊達上山勢との戦闘や、寒河江城攻略においては集団射撃で敵を破っている。長谷堂城の戦いでも、上杉勢最上勢の射撃苦しめられた。 白鳥長久の娘(日吉姫)を嫡男義康の妻に迎える為として、蔵増天童市)から谷地河北町)へ至る「向去りむかさり)道」を蔵増親景(大膳亮)に命じて造らせる一方、その縁談破談となり白鳥長久山形城誘い出し暗殺すると、向去り道を一気攻め上り谷地城落城させた。 伊達輝宗嫁いだ実妹保春院とは殊更関係深く後世に残る文通多数あり、特に大崎合戦慶長出羽合戦においては保春院実家である最上家慮って伊達家との仲を取り持つように動いた書状複数存在する対して、その甥である伊達政宗とは一回り下の世代にあたる人物ありながら因縁深く縁戚としての文通少なくないながら敵対者として挑発的なやり取り複数見られ惣無事令の後も特に政宗第三者に義光を評する時などは皮肉めいた物言い書状が多い。 晩年体調を崩すまでは右筆をほとんど使わず自筆書状記していた。 義光には当時描かれ肖像画伝わっていない。広く流布している烏帽子姿の肖像画は、近世以降描かれたものと推察される。

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左卜全」の記事における「人物・逸話」の解説

映画では「根っから変人」と思わせる自然体演技人気を博すが、その芸は日々勉強裏打ちされたものであり、「私の芸はぶっ倒れそうになりながら絞り出たものであり、自分自身、芸の世界入ってからというもの毎日が死以上の苦しみであった」と後に回想していた。 実生活においても、芸能界一・二を争うほどの変人として知られ薬草摘んで楽屋干していて、「五種野草煎じた不老長寿霊薬」が入っているという水筒を首から提げ、いつも撮影所持ち込んで飲んでいた。 「脚が悪いから」と言って撮影所内では松葉杖をついて歩いていたが、土屋嘉男によると、バスに乗り遅れまいと二人で走った時には松葉杖小脇抱え土屋追い越してしまい土屋追いつけなかったという。 撮影所にはいつも妻の糸が同伴していた。糸は新興宗教教祖でもあり、信者は左だけだった。よく撮影合間には手を合わせてお祈りをし、すべてのギャラ教祖である妻に供えていたが、土屋によるとときどき欠伸をしていたという。 なお、撮影所では常によれよれモンペ姿で、同僚とも離れて過ごし周囲干渉しなかったので忘れられることが多かったが、土屋にだけはよく話しかけてきたという。土屋はちょう郷里土蔵をとり壊す予定だったが、これを聞いた卜全から「住まいにするから土蔵売ってくれ」と懇願されたという。 自宅に「若返り回転機」という、体を固定して上下回転するベッドのような機械据え付けていて、出かける前に必ずこれを自分操作して運動していた。それからゆっくりとお祈りし、水筒提げて出かけるため撮影中止になったこともあった。 役者になる前は浅草オペラオペラ歌手務めていた。「ムーランルージュ時代、「薔薇座」を主宰していた千秋実呼ばれて舞台出たが、段取り無視してシリアスな芝居ぶち壊し以来卜全は千秋から恨み買っていた。 服装基本的に着たきりで滅多に服を新調しなかったため、いつも身なりボロボロ浮浪者のようであったまた、突拍子も無い服装出歩く事も多かったと言いムーランでの同僚だった明日待子晴れた日に長靴を履き、雨合羽着た上に雨傘持って劇場撮影所出勤してきた卜全を見て驚き理由聴いたところ「夢で神様からお告げあったから」と答えた事に唖然とした語っている。 このような奇行飄々とした個性的な性格から芸能界随一変人として有名だったが、私生活でも独自の生活スタイル貫いた変わり者であったと言い芸能界何十年も在籍していながらプライベートでの芸能人友人一人もいなかったと言うまた、41歳時に患った突発性脱疽原因で脚が不自由になり身体障害者手帳持っていたが、卜全は障害者手帳持って外出する事はほとんど無く、さらに性格普段からの奇行原因世間から「身体障害者装っている」と思われる事も多かったと言う激痛に耐えながら仕事をする夫の事を何も知らず世間勝手に左卜全身体障害者振りをしている」と噂している事に深く傷ついて怒り抑えられなかった糸に対して卜全は全く動じず逆に何を怒っているんだ?逆だよ。そう言う噂があるからオレ助かっているんだよ。役者に病気があるなんて知られ同情なんかされたらそれこそ致命的だ」と糸に笑いながら話したと言う結婚きっかけは、舞台立っていた左のひどく汚い姿と、ふと見せた汚れき笑顔に、糸が気高く高貴なものを感じたからだったが、卜全と糸との夫婦仲は大変良好で、卜全が外出する時は必ず妻が付き添っていた。卜全は自身誕生日夫婦銀座出かけるのが恒例で、毎年とても楽しみにしていたと言う撮影の際も必ず妻が付き添っており、特に黒澤監督映画の撮影では卜全が重用されて『七人の侍』で何度も全力疾走したり、『生きる』で何十回もNG出して録り直ししたため、糸が左脚をマッサージした応急処置をするなど卜全を献身的にサポートしていたと言う。卜全も糸の事を大切に思っており、外出時は何かトラブルがあった時に糸を守れるよう、常に小刀などの護身用武器を懐に入れていたと言われている。糸は卜全逝去後1977年評伝奇人でけっこう 夫・左卜全』(文化出版局装画題字繫久彌)を著している。 夫婦墓所は卜全の出生地に近い埼玉県所沢市堀之内比良の丘、金仙寺近くにある三ヶ島墓苑にある。 生前東京都世田谷区若林在住していた。自宅は卜全が亡くなった後も糸が1996年亡くなるまで暮らしていたため存在していたが、糸が亡くなり老朽化重なったため取り壊され現存しない。ただし、その際自宅にあった門は墓所三ヶ島墓苑移設され、跡地には「左卜全偲ぶ会の手により「常道の芸では 先がしれてる されば 逆 遠き苦難の みちを求めん」と記された碑と解説板が立てられている。

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豊臣秀次」の記事における「人物・逸話」の解説

凡庸無能な武将として見られることがあるが、秀次の主たる失敗はわずか16歳時の小牧・長久手の戦い敗戦一度だけであり、その後紀伊四国攻め小田原征伐での山中城攻め奥州仕置などでは武功上げ政務においては山内一豊堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなした。これらが群臣支えられ結果だとしても、同様の境遇になった2代将軍徳川秀忠将軍職就任以前比して遜色はない。凡庸はともかくとして、少なくとも無能を示す史料論拠皆無である。秀次が本格的に統治行った近江八幡では、町割など行政活動積極的に行って発展させており、近江八幡では未だに尊敬されていることを考慮すると、相応力量はあり、文武両道人物であったようである。 古典収集励み、これを保護した小田原征伐後、奥州赴いた秀次は中尊寺大蔵経接収してこれを持ち帰った。このほかにも足利学校金沢文庫所収書籍持ち帰っている。また、かねてから蒐集していたとみられる『日本紀』日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』『類聚三代格』『実了記』『百練抄』などを朝廷献じている。 秀次は古筆愛し多く公家とも交流を持つ当代一流教養人でもあった。天正16年以前『源氏物語』書写させて所持していた。学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記が現存する一方在野学者である藤原惺窩などは秀次を低く評価し、「学問穢れる」と相手にしなかったといわれている。ただし藤原惺窩の父・細川為純秀吉によって見殺しにされているため、秀吉養子である秀次をあえて酷評した可能性否定できない養父三好康長茶人として有名で、連歌にも秀でていた。秀次は養子入ってからこれらを習い茶道連歌嗜む教養人であった15歳の頃から著名な歌人の集まる連歌会に名を連ね亭主務めたことがあった。上記古典収集文芸秀でていたという公家日記や、その他の史料の上からも文化的素養を持つ人物として秀次像を十分に再評価できるため、太田牛一著書以後広まった極端に粗暴な人物というイメージ間違いであると小和田哲男などは反論している。この反論の中では太田牛一以前には暴虐な振る舞いを示すような史料がなく、著書影響世間の秀次に対す見方変わったことが強調される一般に秀次は千利休弟子だったといわれており、神屋宗湛津田宗及利休らと茶会同席していた。また秀吉より(利休流台子点前秘伝受けた台子七人衆1人に秀次も数えられている。 秀吉をまねて秀次も能楽を自ら演じようになったが、彼は公家禅僧らに命じて最初謡曲注釈書である『謡抄』を編纂させ、後世文芸大きな影響与えた秀次事件のとき、秀吉古参家臣である前野長康さらには木村重茲渡瀬繁詮など多く人物たちが秀次の無罪主張し、『五宗記』によれば石田三成も秀次を弁護している。また、家臣小姓からは殉死者も多く出しており、別に徳のない人物ではなく家来から見放されたようなことはなかった。 キリスト教宣教師たちは秀次を「この若者叔父秀吉)とはまった異なって万人から愛される性格持ち主であった。特に禁欲保ち野心家ではなかった」「穏やかで思慮深い性質である」などと記している(ルイス・フロイス日本史』など)。また、次にキリシタンではなかったかという説がある。 秀吉同じく男色嫌っていた。 武術については、師匠である疋田景兼より剣術槍術学んだほか、長谷川宗喜や片山久安からも剣術学んだといい、切腹の際の介錯できるだけ腕前があったという。刀剣鑑定行っていた形跡もある。このほか吉田重氏から日置流弓術を、荒木元清からは荒木流馬術学んでいた。剣術試合見世物として楽しみ、聚楽第兵法者の真剣での試合を催すことがあった。秀次所用と伝わる「朱漆矢筈紺糸素懸具足」が、サントリー美術館所蔵されている。 大名の常として、秀次も有力な家臣の子などに偏諱授けている。偏諱受けた思しき武将には田中吉次織田長次、増田盛次らがいるが、秀次の偏諱他の武将異なり、下偏諱を諱の下の字として与えるという変わった形態取っている。これは「秀」の字が、秀吉偏諱よるものであるため、それを憚ったものと思われる。 秀次は「一胴七度」という村正所有していた。『今村押形』の第2巻13丁裏は「前関白秀次公ヨリ武藤長門守拜領之」と金象嵌銘のある村正作の打刀押形載せている。『甫庵太閤記』にも、秀吉遺物として堀内阿波守、赤松上総守加賀弥八郎の3名に村正与えられるなど、複数村正作の刀剣登場する試し斬りについて、小林千草仮説では、秀次は秀吉多数所持していた名刀鑑定任されており、名刀鑑定体制の中で試し斬り行っていたのではないか、といわれている。

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栃乃和歌清隆」の記事における「人物・逸話」の解説

唇が厚いことから、兄弟子舛田山に「Qちゃん」とあだ名された。その舛田山とは春日野部屋継承の際に不仲となってしまっている。 武蔵丸とは相性悪く23対戦して一度勝てなかった。また、千代の富士にも、やはり一度勝てなかった(14全敗)。だが、曙や若貴といった、後の横綱からは比較多く星を挙げている(曙には7勝12敗、貴乃花には9勝22敗)。 四股名をつける際に師匠栃錦)は自分四股名出身地和歌山から「和歌」を考えたこれでは栃若時代」と同じ音でまずいのではないか悩んでいた。それを知って助けたのは当時事業部長として理事長であった栃錦補佐役でもあった他ならぬ若乃花当時二子山親方)で「だったらワシ四股名から乃をやるよ」という助言栃乃和歌となった現役力士喫煙者珍しくなかった当時としても角界随一愛煙家であった36歳まで幕内維持し続けた本人は「喫煙相撲成績関係ない。」と考えていたそうであり、稽古鍛えた体は喫煙弊害をまるで感じさせなかった。 締め込みの色は若い時分には青色1990年5月から一時的に銀鼠締め込みもつけたが、力士人生中盤からは一貫して紫色締め込みをつけた。

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阿部正弘」の記事における「人物・逸話」の解説

幕末維新歴史詳細に綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘対し優柔不断あるいは八方美人表現使っている。『国民史』では歴史登場人物肉声としての様々な手紙仮名読み変換しているため、正弘肉声現代読者直接読むことができる構成から出発している。 『国民史』に所収書簡からは、攘夷論正弘国政担当する立場から、極論暴論繰り返す攘夷派抑えるために、本心隠して意図的に協調路線選択した点がうかがえている。教育研究機関設置するなど実利的洋学導入しながらも、自らは蘭方医治療最後まで拒んだとされ、祖法鎖国体制破った点も心に傷として残っていたとされる。 若すぎる死因に関して肝臓癌による病死外交問題による激務からの過労死など諸説ある。飛躍した説では、島津氏など外様雄藩幕政参加させることに不満を抱いた譜代大名溜間詰)による暗殺説まである外様などの雄藩、非門閥開明幕吏幕政参加させる姿勢は、譜代などからは弱気政治姿勢見られ、「瓢箪鯰」とあだ名されたという(小西四郎日本の歴史16 開国攘夷』、中公文庫)。 西洋学問理解示し勝海舟紹介正弘邸宅呼ばれた杉純道が、ドイツ版世界地理書を用い詳しく説明した正弘は「我が国は狭いな」と感銘しのため原書を何でも買ってやろうと約束した正弘は人の話を良く聞くが、自分意見述べることがほとんど無かった。ある人がそれを不審思って尋ねると、「自分意見述べてもし失言だったら、それを言質取られ職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて善き用い悪しき捨てよう心がけている」と笑いながら答えたという(松平春嶽の「雨窓閑話稿」)。 正弘肥満体であり、長時間正座苦痛だった。しかし、相手の話を聞くときは常に長時間正座をしていた。正弘退出後、茶坊主正弘座っていた跡を見ると、汗で畳が湿っていたという(木村芥舟の著より)。

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上杉憲政」の記事における「人物・逸話」の解説

甲陽軍鑑』では、大勢力を率いながらも家を滅ぼしてしまったと評価される。また北条氏康何度も戦い一度勝てなかったが、これは北条軽輩見下して配下任せて自身出陣しなかったためだと批判されている。 天文11年1542年)に常陸国鹿島神宮納めた願文には北条氏討滅を誓う文言記されている。 天文20年1551年3月には氏康の上侵攻遭い平井城落ち憲政関東放棄し領国から常陸佐竹氏の許に向い佐竹義昭関東管領職と上杉氏家名継承してもらう代わりに保護求めたが、これを拒否されたという(『佐竹氏物語』)。しかしこれは佐竹氏側の所伝しか見えず、また平井落城年が研究結果による年代矛盾している。なお類似の話として、上杉氏側の史料研究によって、その100年近く前の関東管領である上杉憲実佐竹義人の子・実定を養子迎えて関東管領職と上杉氏家名継承させようとして家中反対受けたことは確認されている。

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慕容垂」の記事における「人物・逸話」の解説

身の丈七尺七寸(約177cm)、手の長さは膝を過ぎるほどあったという。 王猛慕容垂排除苻堅進言した理由は「慕容垂聡明で龍や猛獣飼いならすことはできず、いつかは自立する」と見越していたためとされる苻堅取り合わなかったが、淝水の戦い後王猛懸念現実となり、慕容垂前秦から自立していった。ただし慕容垂自身苻堅恩義感じていたとされ、苻堅生存している間は群臣から称帝を勧められても常に拒否したという(実際、淝水の敗戦逃げ苻堅自軍収容した際も殺さなかった。また弟の慕容徳暗殺進言してきた時も拒否したという)。

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赤松満祐」の記事における「人物・逸話」の解説

満祐はその背丈低さから父と共に三尺入道などと呼ばれていたことから低身長症軟骨無形成症身長が120cm程)だった可能性もある。またそのコンプレックスゆえに、足利義持足利義教2代渡って将軍反抗したではないかとの説もある。 江戸時代身分制度固まった封建制の下で、満祐は「逆臣伝」(『野史』)で扱われている。また満祐こそが「真の下克上時代」を切り開いた人物という評価もある。 満祐は性格傲岸不遜横柄気性激しかったという。これには多く逸話もある。 満祐は弟の中でも乱暴者知られた則繁と特に仲が良く、満祐は常に則繁を伴って行動していた。則繁が細川邸で暴挙に及び将軍義持から切腹命令出ても弟をかばったとされており、このため義持義教2代わたって満祐は信頼されず、むしろ温和有能な庶流家を厚遇したという。 東寺の傍を通ったとき、壁越し見た一本が特に枝振り美しかったので使い送ってこの所望した。勿論、満祐はそのための代金出しているが、社寺成長した松の木私邸に移すなど当時常識では考えられぬことで、東寺では衆議開いて協議した赤松家幕府重職にあることを考慮してやむなく譲ったという(『東寺文書』)。 強力な独裁者足利義教突如失っただけでなく、義教遺児いずれも幼少だったことから大混乱した幕府では当面の間赤松討伐どころでは無くなった。かたや満祐は幕府からの討伐軍が派遣されるまで2ヶ月もの間、播磨など領有3カ国を保持し時間的余裕があったにも関わらず上洛して倒幕しようとすらしなかった。これは義教没後には、生前家督問題介入されていた諸大名家で再び内紛起こり、こちらが擁立した足利直冬の孫の御教書に応じて幕府謀反する大名が多いと満祐が過信していたためという。しかも、その目算確実にするような諸大名家への積極的な工作ら行わず、書写山東坂本にあった定願寺日夜酒宴猿楽芸能尽くして遊び呆けていたという(『赤松盛衰記』)。おかげで幕府軍追討準備整え機会与えただけでなく、惣領家庶流家で分裂し赤松一門すら結束させられなかった。そのため幕府軍衝突して半月勝負がついたのも、悪評高い将軍殺害したのだから自分同情して味方してくれる者もいると満祐が安易に考えていたためという。

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桓石民」の記事における「人物・逸話」の解説

若い頃から、才覚の高さで名を知られていた。 桓氏は長年荊州刺史地位にあり、桓石民才望兼ね備えていたため、荊州人々は彼を仰ぐように尊崇した。

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伊達重村」の記事における「人物・逸話」の解説

13藩主伊達慶邦随筆やくたいによれば仙台七夕かつては他所同じく7月7日行われていたが、忠山公伊達宗村)の代に「御さは(障)り」があってからこれ一日繰り上げて6日行なうようになったという。宗村末娘・珋姫が宝暦12年1762年7月7日亡くなっており(享年8)、「御さはり」とはこのことを指すと見られるが、この年は既に重村治世であり、重村妹の死悼んでこのように日取り改めたものと思われる穀田屋十三郎題材にした2016年の映画殿、利息でござる!」では、仙台出身フィギュアスケート選手羽生結弦重村演じた

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チャーリー浜」の記事における「人物・逸話」の解説

自分弟子以外の芸人「師匠」呼ばれることを非常に嫌い、呼ばれると「師匠言うな、馬鹿野郎!」などと激怒する。そのため「チャーリー」、「チャーリーさん」と呼ばれている。間寛平からは、「浜兄さん」と呼ばれている。 祇園花月楽屋片隅自分スペース持っており、そこからドアまでの動線荷物を置くと室伏広治ばりの大声張り上げて天井ぶち当たるぐらい投げる。また、楽屋出入口大量に並べられている靴で足の踏み場がないときは、靴を蹴散らすとのこと祇園花月空き時間は皆出払ってしまうた楽屋一人でいることが多い。 京都有名な老舗パン屋志津屋」で、カルネというフランスパンの間にハムとスライスオニオンを挟んだパン幾つか買って、それを新喜劇後輩達に与えているがなぜか一部漫才芸人ブラックマヨネーズ千鳥大悟ダイアンなど)には与えないすっちー曰く、「自分本物認めた芸人しかもらえない」。また、千鳥ノブカルネを「おい、そこのほら、漫才と言って渡され大悟は「お前にはやらん!」と言われもらうことができなかった。しかし、これはボケであり声のボリュームボケ聞こえないだけであるという。 兄がいる。兄が若手座員瀧見信行似ているという。 競馬趣味である。シャンプーハットてつじが競馬予想当てないことを怒っている。 清水けんじによると、楽屋パンツ姿になりながら「ワシ今日ズボン穿いてきたんかな」と言いながらとうろついていたことがある

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中村勘三郎 (17代目)」の記事における「人物・逸話」の解説

母方の祖父江戸歌舞伎の祖とされる中村勘三郎好んでおり、祖父聖司少年十七代目)に「お前は中村勘三郎継ぎなさい」と言っていたという。 息子の哲明(のちの五代目勘九郎十八代目勘三郎)は、十七代目を「怖い親父だった」と述懐している。たとえば少年時代39度の高熱倒れて家で寝ていたが、その状態で舞台密かに見に行ったことを知った父が激怒し寝ているところに氷水ぶっかけられたうえ、家からつまみ出されことがあるという。 二人の孫の雅行(のちの二代目勘太郎六代目勘九郎)と隆行(のちの二代目七之助)の初舞台門出二人桃太郎』では、二人母方の祖父七代中村芝翫とともに爺と婆を演じたが(なお庄屋の夫婦十三片岡仁左衛門中村歌右衛門、雉、松本幸四郎(のちの二代目白鸚)、娘婿澤村藤十郎中村福助(のちの梅玉)、巫女義兄尾上梅幸であった)、息子と孫2人祖父2人との5人の口上の席上孫たちは私をじじんちゃまと呼びますが、成駒屋さん(=芝翫)のことをパパ呼びます。それが気に入りません。わたしとあんた爺同士なのに」と発言し客席笑わせた息子の哲明がまだ五代目勘九郎襲名したての幼少期に父である十七代目藤山寛美舞台見たが、そのとき十七代目は「よく見ておけ、この男は必ず舞台で天下を取るぞ」と言いその実力を見抜いていたという。当時の寛美は人気スターではあったものの、二代目渋谷天外陰にあって後年喜劇王的な位置にはまだ達していなかった。この縁で勘三一家と寛美一家親交が現在も続いている。 妻の久枝帝国ホテルレストラン入ったときのこと、久枝前菜スープタートル海亀)を選んだが、十七代目は「タートルって、セーターみたいだね。亀のこと?おまえさん食べるの?やだね」と言ってメインディッシュ決め段階久枝は「熊?兎??あら雉もいいわ」と言い出したため、十七代目は「何だい、だ亀だ兎だ熊だ、って、お前さんそんなに悪食だとは知らなかったよ、ぼくは帰る!!」と激怒して久枝残したまま何も食べず帰ってしまったという。 東京神楽坂和菓子店・福屋堅焼きせんべい大好物で、自分用に「もっと焦がして焼いて」と店側に注文していたほどであった福屋がその十七代目仕様焦げ堅焼きせんべい店頭置いたところ、購入希望する客が現れたことから福屋ではこのせんべいを『勘三せんべい』として正式に商品化して販売することとなったという。 梨園きっての麻雀きとして知られ取材のために車で移動していた間も同行スタッフ車内で卓を囲んでいたほどであった息子である五代目勘九郎当時)はそんな父だからと葬儀の晩は霊前雀卓を囲もうということになり、十七代目親しかった森光子片岡孝夫当時)・十二代市川團十郎の3人を誘った。いざ始めようとした時に十七代目遺影倒れて卓のそばまで落ちてきた。途端に雀卓囲んだ4人は「(十七代目は)自分もやりたがってるんだろうね」と故人偲ぶことしきりだったという。 大腸がんの手術をして人工肛門使用していたが、そうした影響微塵も感じさせない精力的な舞台晩年まで務めあげた。 往時歌舞伎劇場に役者が入る大風呂があったが、十七代目持病のために入れなかったため、楽屋風呂桶入れさせて一人それに浸かっていた。なお、十七代目亡き現在では風呂楽屋備え付けとなっているものが主流となっている。 『髪結新三』にまつわる芸談一つ:吉右衛門の兄が、『加賀鳶』で私の道玄松蔵、『吉様参』で私の吉三に弁秀などにつきあってくれて、この次はお前が新三をおやり、おれが源七まわってやるよ、と云っていたのが果たせなかったことが、いまもって私は新三をやるたびに思い出されます。

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山田宗昌」の記事における「人物・逸話」の解説

匡得の号は、自ら「大江匡房兵法会得せり」と称したことによるという。 宮崎県日南市四半的弓道は宗昌が国境防衛策と娯楽兼ねて振興した物と伝わっている。 豊薩合戦の後、島津義久より300町の知行仕官誘われたが、自分伊東家家臣であるとしてこれを断ったという。また大友宗麟からも150町の知行示されたがこれも同様の理由断った。これを聞いた宗麟は宗昌の忠義心に感涙し、代わりに大友家秘蔵甲冑10領から1領を選ばせ与えたと言われる。 参陣した全ての主要な合戦勝利し何度も不利な状況下で奮闘し伊東家衰退期大友家客将時代にも多く戦功挙げているため、立花宗茂志賀親次と並ぶ「九州屈指の猛将智将」として宗昌の地元人気である。

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戸沢盛安」の記事における「人物・逸話」の解説

智勇優れ周辺諸大名から「鬼九郎」「夜叉九郎」と呼ばれ恐れられた。 総大将ながら常に陣頭立って単騎敵勢中に突っ込むという荒武者であったといわれる一方で捕虜兵士は斬らずに逃がしたり、部下大切にするなど慈悲深い面もあったといわれる。 盛安が小田原征伐参陣のため上洛しにへ向かう途中様々な逸話残っている。羽前の港の酒田到着したところで旅費尽きてしまい、酒田豪商加賀屋与助から七両を借りたという。盛安が金谷居た時、秀吉は既に島田におり、急いで引き返したが、途中大井川大雨増水し渡れないという状況遭う家臣は渡るのは明日にしようというが、盛安は「関白殿下忠義立て遠国から駆けつけて、一夜たりとも遅参してはならぬ思った次第増水などに負けぬ。」 と言って提灯掲げて根性泳いで渡った。そして体が濡れたまま対面し、「羽州角館住人戸沢治部大輔参陣仕ると言い秀吉はその行動褒めて太刀与えたという(『戸沢家譜』)(『新庄古老覚書』)。

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市来四郎」の記事における「人物・逸話」の解説

1857(安政4)年9月17日宇宿右衛門と共に島津斉彬ダゲレオタイプ(銀板)写真撮った廃仏毀釈に関して著書記録残している。

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佐竹義重 (十八代当主)」の記事における「人物・逸話」の解説

義重は智勇優れていた。かつて北条軍戦ったときなどは、7人の敵を一瞬斬り伏せたとまで言われており、その勇猛さから「鬼義重」、「坂東太郎」の異名恐れられとされるが、「鬼義重」という呼称江戸時代軍記物記録類にも確認することができず、『古先御戦聞書』には「天魔鬼神のような業」と記載されていることから、この部分転じて、「鬼義重」という呼称作られたのかもしれない指摘される詳細不明である。 就寝時に敷布団使わず、薄い布だけ敷いて寝ていたという逸話がある。出羽転封された後、「北国は寒いから」と子の義宣から寝巻き敷布団送られ使ってみたものの結局気に入らず再び敷布団を使うことはなかったという。 甲相同盟の破綻により相模後北条氏対決していた甲斐国武田信玄文書交わし甲斐源氏嫡流巡って議論したという逸話がある。 自らの子女を蘆名氏などの諸大名養子として送り込み巧みに勢力拡大している。 上杉輝虎(後の謙信)から名刀備前三郎国宗」を送られた。後にこれを義宣に譲るが、義宣が刀の切っ先削って脇差にしてしまった。愛刀家である義重はこれを嘆いたという。 愛刀南北朝時代鍛えられた「八文字長義」。北条氏政軍と戦った際に、この刀で北条方の騎馬武者を斬ったところ、その武者は兜もろとも真っ二つになり、八文字の形になって馬から落ちたという。

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赤松小三郎」の記事における「人物・逸話」の解説

佐久間象山にも学んだという俗説があるが、文久3年1863年)に蟄居中の象山手紙やり取りしたのみで、二人会ったことは一度しかなく、直接師弟関係存在しない門人大垣藩士で、後に陸軍少将となった可兒春淋は、赤松塾の講義内容に関して大正8年1919年8月17日に以下のように談話している。「講義毎日午前3時間、午後2時間午前専ら英国式の歩・騎兵の錬法と射撃に関するもの、午後世界最近戦史窮理学航海術のことでした。課外として時々世界政治組織についての講義があった。(中略先生は常に輿論政治主張して居られた『如何に賢明なる人とても神でない限り思ひ違い、考へ違ひがある。又少数の人が事を行ふ場合感情誤解憎悪附随するから失態がある。是非これは多数政治に據らねばならぬ――。』 先生は丁度今日議会政治主張しました。それは未だ開国するとかせぬとかかまびすしい時でしたから驚きました。(中略)『外国亡国の例を見るに、皆此の身分階級の為、人材を野に棄て貴族称する輩が自己の無能顧みずして専横振舞たにある。(中略多数選挙によって選んだものを宰相とするのである英国式を参考として日本国柄に合はせるがよい。』常に先生はかく説かれてゐた。それがやうやく25年の後にやっと事実となって現れたのであつた」。 また、可兒春淋は、赤松暗殺される薩摩藩犯行確信し、次は自分たちも襲われる考え、「若し薩摩藩襲来せば結束して応酬一戦すべし」と意気込んだが、その事はなかったと述懐している。 赤松教え子であった東郷平八郎上村彦之丞は、日露戦争勝利した翌年明治39年1906年5月善光寺における日露戦争戦没者慰霊祭出席帰途上田立ち寄り赤松墓参行った大正13年1924年)、赤松従五位追贈されると東郷平八郎赤松顕彰碑碑文揮毫した。その石碑東郷没後昭和17年1942年5月になって上田城跡公園建てられている。恩師繰り返し弔意示した東郷平八郎であったが、暗殺事件そのものついては生涯語らなかった。昭和8年1933年)には長野県教育家岩崎長思が、赤松暗殺事件究明のための取材東郷申し入れたが、東郷は「語りたくない」と伝え取材断っている。 なお、「右へ=準え」や「右向け=右」は彼の翻訳と言われることがあるが、安政4年1858年)の文献には既に用いられており、彼の翻訳ではない。なお警察予備隊時代に「頭=右」が「眼=右」に変更されことがあるが、「眼=右」を最初に用いたのは赤松である。但し警察予備隊の「眼=右」は翻訳の偶然であり、赤松翻訳とは関係がない。

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曽我町子」の記事における「人物・逸話」の解説

高校生時代理数系を得意とし、自ら化粧水調合なども行っていた。役者の道を目指したのは、化学発表会緊張から失敗犯していまい、これを克服するために歌や芝居習い始めたのがきっかけであったプロ意識高く仕事対す姿勢は非常に厳しかった台本衣装等でスタッフ手を抜いた思ったらすぐに注意促し用意され衣装納得がいかない自前用意するであったという。レギュラー出演した『恐竜戦隊ジュウレンジャー』では、台本納得できずに一度降板申し出たこともあったとインタビュー記事語っている。 悪役演じにあたっては、悪の魅力前面押し出すことを意識していた。後に『徹子の部屋』出演した際に曽我はこれらの特撮系の仕事触れ、「疲れるけど、楽しいわよ」と振り返っている。 『オバケのQ太郎』で主人公Q太郎の声を当てることになったきっかけは、番組企画された際に、事前告知兼ねてQ太郎イラスト登場する不二家キャンペーンCM製作され、そのアフレコ曽我担当したためである。後に声優オーディション催されたが、結局、このキャンペーンCM実績考慮される形で曽我アニメ版Q太郎の声もそのまま担当するになったという。 『オバQ音頭』のレコーディングの際、曽我風邪こじらせており、本来の声のコンディションではないことを理由に、日本コロムビアの製作サイドに一旦は「レコーディング予定ずらしてほしい」と願い出たという。しかし、共演相手石川進スケジュール空いていなかったほか、コロムビア社内ストライキ真っ只中であったことから、久々に現場参加できるとあって大乗りになっていたコロムビア幹部たち熱意押されるような格好渋々レコーディングに臨むことにしたという。結果、同レコード累計200万枚以上(公称)を売り上げるというアニメ番組子供番組出自楽曲レコードとしては異例大ヒットとなったのだが、曽我自身は「レコーディングずらしてくれたら、もっと面白く歌えたはずなんだけど」とインタビューの中で話すなど、その出来映えには晩年まで満足してなかったようである。 『オバケのQ太郎』で人気絶頂期迎えたのを機に、「Q太郎以外の自らの方向性模索する目的1970年代初頭一時芸能活動休業イタリア国美術学院への留学経て、約3年近くわたってイタリア・シリア・アフガニスタンなど欧州中東渡り歩く生活を過ごした。この時以来地中海方面への旅行とその旅行の中で巡り合った骨董品装飾品収集終生ライフワークとなり、後の「ステラ」開業繋がったという。 『新オバケのQ太郎 』のQ太郎役は当初初代曽我引き続き担当する予定であった曽我多忙であったこと、TBS系であった初代との差別化(『新オバQ』は日本テレビ系)などで堀絢子決まったという。 帰国後もなかなか「Q太郎」のイメージから抜け出せ思い悩んでいたところに舞い込んできた仕事が『5年3組魔法組』の魔女ベルバラ役であった。この役を演じたことで特撮番組魅力女優として本来やりたかった方向性見出すことができたという。 特撮作品魔女役が十八番であるだけに、それに対して格別愛着持ち自分の店「ステラ」では、演じてきた各魔女役にインスピレーション受けた香水を自ら調合し、その役にちなん商品名で客達に提供したりもしていた。 『TVチャンピオン』にも自分演じた役柄に関するクイズ出題者としてゲスト出演したことがある勝ち抜いた挑戦者のためにサイン色紙用意する敗退した挑戦者とも対面し言葉を交わすなど、演じた役もファン大事にした。 40代の頃までは深夜番組11PM内の定例企画芸能界酒豪番付」で三役常連として名を連ねるほどの酒豪として知られていた(一時新宿などの都内繁華街バースナック経営していた)が、50代半ばになってからは老後の健康が気になり断酒決行以後亡くなるまでほとんど酒類を口にすることはなかったという。 仕事対す厳しさ反面生来明る性格である曽我は、他の共演者達によく声をかけ積極的にコミュニケーション取っていたという。『ジュウレンジャー』で共演した千葉麗子は、曽我訃報翌日自身ウェブサイトで「何も分からない新人の私にも話をして下さった」と哀悼の意を表すコメント掲載していた。 曽我亡くなった日、テレビ等のメディアは「初代オバQ声優亡くなった」等とこれを広く報じた曽我経営していた「ステラ」ウェブサイトにある掲示板にはファンからの何件もの追悼コメント載せられステラ側から献花等を辞退する旨の声明出されている。 テレビ朝日を除く民放各局が「初代オバQ声優亡くなった」と広く知られ事例のみを以って紹介する一方NHKの『つながるテレビ@ヒューマン』では、「特撮女王」として番組コーナー訃報取り扱ったヘドリアン女王等のスチール写真や『電子戦隊デンジマン』のBGM流して紹介)[出典無効]。 『時空戦士スピルバン』に女王パンドラ役で出演していた当時、『ビートたけしのスポーツ大将』の100m走女王パンドラとして出演したことがある。この時は40mのハンデもらったが、衣装重さから見事に最下位になってしまい、劇中におけるパンドラキャラクターそのまま悔しがっていた。 『魔法戦隊マジレンジャー』曽我演じた天空大聖マジエル」の役は当初俳優岡田眞澄務め予定であったが、岡田体調不良理由辞退したため竹本昇監督推薦によりその代役として曽我依頼されたものであったという。しかし、実際に曽我もこの時すでに病魔闘いながらの撮影であった。なお、曽我死去から約3週間後の5月29日岡田も癌によってこの世去っている。竹本は「曽我町子演技指導する監督としての立場緊張連続であったと後に述懐している。 マジエル初登場編にあたる『マジレンジャー』の映画版魔法戦隊マジレンジャー THE MOVIE インフェルシアの花嫁』で曽我演じマジエルが、劇中終盤マジレンジャーの6人や地上界に住む人間達向けて述べたさて、地上界の者たちに素敵な魔法を送るとしようそれぞれの者に勇気と力を与えよ。」という台詞は、曽我本人映画館まで観にきてくれた観客に何か元気になれるメッセージになるような台詞最後に入れて欲しいと、東映側のチーフプロデューサー担当した塚田英明提案して急遽挿入されたものであるという。 『電子戦隊デンジマン』などで付き合いのあった小林義明監督については「とにかく変わり者」という人物評をしていた。 曽我自身役者続けるつもりは無かったが、アメリカ映画青い目の蝶々さん』に出演したことが、転機となって役者続けていくことを決めた同作品では当初エキストラとしての出演だったが、撮影当日に役を貰ったものの、英語の台詞巧く言えず、台詞減らしてくれるように頼むが、それをエドワード・G・ロビンソン咎められたことで、曽我自分が本気で役者という仕事をしていなかったことに気づいたとしている。 『電撃戦隊チェンジマン』アハメス役は当初曽我演じることになっていた。

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乳井貢」の記事における「人物・逸話」の解説

実学的な著述数多く執筆し安永元年1772年)には農業従事した経験活かした農業経済学の『陸稲記』や、天明元年1781年)には現在のそろばんと同じ珠の配置(地4+天1)を唱えた初学算法』などがある。4つそろばん全国普及したのは乳井考案から154年後(尋常小学算術)である。 当時武士の規範とされた朱子学考え方批判し社会有用な実学重んじた1780年代失脚した際には辺境川原平蟄居を命ぜられたが、拘束程度緩く取締役人に来ると牢に入っている形式)、新田開発する傍ら寺子屋開き村人読み書きそろばん教えていた。こうした活動から、乳井地域住民から慕わる存在となった昭和10年建立され顕彰碑西目屋村川原平にあったが、津軽ダム建築工事撤去されて現在はそこになく、津軽白神湖パーク移動させられている。

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桓石虔」の記事における「人物・逸話」の解説

幼少から才幹があり、身体の敏捷さ群を抜いて優れていた 。 荊州狩り行った際、猛獣数本の矢が刺さり地面伏していた。戯れ刺さった矢を抜くようにと命令下った桓石虔急いで猛獣元に向かい、矢を一本引き抜いた猛獣飛び跳ね桓石虔飛び跳ねて格闘の末、猛獣組み伏せた。桓石虔は再び矢を引き抜いて戻ってきた。 桓温に従って関中侵攻した際、桓沖前秦皇帝苻健によって包囲され討死危機にあった桓石虔単騎で赴き、数万の兵がひしめく中、桓沖救って帰還した敵兵桓石虔抗する者はなく、三軍感嘆し、その威名敵軍震わせた病人に「桓石虔が来るぞ」と言うと怖れのあまり多くの者が快復した。民衆桓石虔畏れるのはこれほどであった謝安桓石虔勇猛ぶりを慮り、これを御することは難しいと考えて豫州刺史任じた桓石民荊州刺史桓伊江州刺史任じられ、桓氏が三州拠ることになり、彼らは誰憚ることなく各州治めた

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慕容昭」の記事における「人物・逸話」の解説

才芸があり、父の慕容廆から寵愛されていた。これを慕容皝常々妬まし思っていた。

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松平宗衍」の記事における「人物・逸話」の解説

隠居してからの宗衍は奇行繰り返したため、それにまつわる逸話が多い。家臣命じて色白美しい肌の美女連れて来い命じその女性の背中花模様刺繍を彫らせ、その美女に薄い白色着物を着させて、うっすら透けて浮き上がってくる背中刺繍見て喜んだといわれる刺青入れられ女性は「文身いれずみ侍女」と呼ばれて江戸評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味失い、この侍女家臣与えようとしたが誰も応じず、仕方なく1000両を与えるからとしても誰も応じなかったという。 江戸赤坂にある藩邸一室に、天井から襖まで妖怪お化けの絵を描いた化け物部屋造り暑い夏の日は一日中そこにいた。見聞集江戸塵拾』、『当代江戸百化物』でも「雲州松江藩主松平出羽守」の名前が挙がっている。 参会者が全員、裸でを飲む裸茶会開催している。 『赤蝦夷風説考』などの著書知られる医師経世家経済学者)である工藤平助との交流の話が残る。 松浦清随筆『甲子夜話』正篇巻之五十一には、松平南海が退屈を紛らわすために長身力士釋迦ヶ嶽雲右エ門化物扮装させて、芝高輪(現・高輪)の貧乏医者からかった旨の記述がある。 月照寺にある宗衍の廟所寿蔵碑があり、大亀石像土台となっている。この石亀夜な夜な松江の街を徘徊したという伝説があり、後年松江滞在したラフカディオ・ハーン随筆知られざる日本の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan』(1894年)で紹介している。「月照寺 (松江市)#大亀伝説」を参照 隠居後の宗衍の奇行題材にして谷津矢車小説雲州下屋敷幽霊」(『オール讀物2016年12月掲載)を執筆している。

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盧淵」の記事における「人物・逸話」の解説

盧淵性格温厚で、学問尊び草書学んで平城宮殿によく題書した14歳のときに長安訪れ扶風の王伯達に顔相を見てもらって20年後に関右に命を制するだろうと予言された。 李沖と特に親密であった

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花満開 (お笑い芸人)」の記事における「人物・逸話」の解説

派手な花柄スーツ着ているのが特徴また、以前アフロヘアーだった。 以前は相当なギャンブラーだったらしく、パチンコ500万円借金したことがあるという。また芸人になる前スカウトマンをしていたときもある。 親交があるモノマネ芸人ミラクルひかる司会務めるくるくるミラクリング(GyaOにて放送)にゲストとして出演した時に、顔が大きいことなどを指摘されるなど、散々いじられた。また、初めミラクルイベント出会った際、花はミラクル対し「かわいい」思っていたそうだが、ミラクルは花を見て逆に気持ち悪い」と思っていたことを告白。 主にギター漫談をしており、ネタ代表作三十歳まつわる三十路の歌」がある。この他にも「ヨイショの歌」などもある。 前述通り、顔が大きい。それを確定するエピソードとして昔、新聞勧誘で家を訪ねてきた初対面の男にいきなり「きみ、舞台映えだね」と言われた。しかし、当の本人は、当時役者目指していたこともあって逆にうれしくなり、結局その新聞三ヶ月間とったらしいルックスがよく、西口プロレス試合の際には所属レスラーでゲイキャラのラブセクシー・ローズに襲われるデート誘われるのがほぼ定番となっている(あくまでネタ)。 モノマネが得意でなく、モノマネ番組オーディションで、番組プロデューサー相手ジョン・カビラモノマネをした際、あまりに似ていなかったためプロデューサーイスから転げ落ちたという逸話がある。

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北条貞顕」の記事における「人物・逸話」の解説

金沢文庫古文書中には彼の書状642通(書状復元作業などから566通とも)現存し、これは鎌倉時代後期末期情勢伝え上で貴重な史料となっている。 貞顕は当時では一流文化人であり、探題時代多く文化人交遊して書写行なったりした。鎌倉帰還後親王将軍をもてなすために京都銘茶道具類備えるなどしている。貞顕の政治家としての評価は「得宗家強大な権力にひれ伏した」として低い。しかしこれは貞顕が幕府滅亡時の7年前まで幕府中枢幕政仕切っていたため(幕府滅亡までも一定の影響力はあったと思われる)という結果論であり、実際の貞顕は先例理運重んじる常識人で周囲対す配慮怠らない調整役だったという。 また病弱な高時連署として盛り立てる一方で安達時顕長崎高綱という2人巨頭権力争いクッション役割務めて高時政権大過無く支えた功労者である。優秀な人物ではあったが、革新的な思考武断的な手腕には乏しく気配り調整によって政権維持する人物であった永井晋は以下のように評している。 「 成熟期入った組織運営をすることの難しさを知る者であれば、「おまえの苦労はよくわかる」と共感のもてる史料が多い。 」

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五味一男」の記事における「人物・逸話」の解説

小学校入学前にIQ150以上と判定された。 小学6年初めオリジナル戯曲書き学芸会演出をした。 早稲田大学時代前衛劇団を主宰していた。 日本大学藝術学部では君塚良一家田荘子とともに映画製作集団で『虚飾神話』『暗闇剥製』などの前衛映画作っていた。 鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』にもスタッフとして参加していた。 映画監督CM監督市川準師事しCMディレクターとして活躍していたが、1987年2000倍の競争率の中、日本テレビトップ合格。その採用かかった全額から「1億円の男」と呼ばれる入社試験時に「いまの日本テレビをどう思う?」と聞かれて「フジテレビにかなり遅れを取ってると思います」と答えたフジテレビと同じことをすることではなくフジテレビ華やかさ日テレ流にするため入社後クイズ番組興味はなかったが、社内立ち上がったばかりの『クイズプロジェクト』に参加当時日本テレビクイズ番組レギュラーヒット番組が1本がなく、王東順手がけるなるほど!ザ・ワールド』のスタジオから世界展開する派手で華やかな部分見習い、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』を思いついた。入社1年目にして“魔の不毛地帯”と呼ばれた水曜8時のテコ入れとして『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』を手がけて成功土曜日の8時の加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS)、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ)といった人気番組が並ぶ苦戦していた時間帯90年代代表するクイズ番組マジカル頭脳パワー!!』を手掛ける以後投稿!特ホウ王国』、『速報!歌の大辞テン!!』『週刊!ストーリーランド』『エンタの神様』などを企画・演出いずれも視聴率人気番組育て上げた。こうして次々とヒット番組産み出すことからテレビ業界では「視聴率男」「生涯打率 NO.1」と呼ばれ注目される存在である。番組放送中クライマックスシーンの所でCM挿入する手法山場CM)を取り入れたりスーパー多用したり等の今のテレビ番組では当たり前の様になった手法最初に取りいれた人物として知られるその手法現在のバラエティー番組ドキュメント番組等に多大な影響与えたまた、フライングスタート導入したことでも知られる。さらに、番組コンセプトから創りあげる「五味理論」はテレビ業界超えビジネス界」でも知られている。 1992年総合演出担当した24時間テレビ 15』ではメイン司会ダウンタウン起用数々の生チャレンジ企画や、初の24時間マラソン開始したことで話題集め視聴率獲得したその後1997年まで6年にわたり総合演出担当2006年から2011年まで監修務めたまた、SMAPシークレットX'masパーティー』など局を挙げた大型特番総合演出を何本も担当いずれも視聴率記録したこの頃五味は「日テレ天皇」と呼ばれるようになった。 『マジカル頭脳パワー!!』のヒット甘んじない五味正反対モノ作ろうと『頭脳王』を思いつく小学校1年生でもわからないダメな『マジカル頭脳パワー!!』と両極東大生でも分からないもの。加えて東大医学部首席」や異次元の人を作り上げることで、“びっくり天才ショー”に仕立て自ら築いたクイズ番組アンチ思いついた。 その後編成部企画部長に就任し、『ごくせん』の企画などを現場指示しヒットつなげた後、『エンタの神様』で現場復帰企画総合演出プロデュース担当青木さやか陣内智則アンジャッシュ波田陽区サンドウィッチマン摩邪小梅太夫桜塚やっくんカンニングスリムクラブ東京03ラバーガールヒライケンジにしおかすみこノンスタイルエド・はるみ、などの芸人次々と輩出し若手お笑いブーム牽引車番組にする。 ヒット生むための「五味理論」はテレビ業界だけにとどまらず、「リクルート」「アサヒビール」「Yahoo!」「バンダイ」「セブンイレブン」「ソフトバンクモバイル」など一般企業からも求められ各社講演の中で語っている。また「大前研一のアタッカーズ・ビジネススクール」にてメガヒット企画発想講座講師担当する秋元康とは数回トークショー行っていて、ユニクロ柳井正とともに最も尊敬する人の一人公言している。 数々番組成功国際的にも『マジカル頭脳パワー!!』や『SHOW by ショーバイ!!』などの番組フォーマット世界15カ国に販売した実績2007年6月28日付で、日本テレビ史上最年少執行役員就任。 「朝日新聞」「読売新聞」「毎日新聞」「産経新聞」などの新聞や雑誌コラムエッセイ連載した経験があり、作家として定評がある。 「週刊少年サンデー」では2013年17号から2014年31号まで推理漫画超推脳KEI 摩訶不思議事件ファイル」の原作担当している。 2008年6月27日付で最年少上席執行役員企画・演出指導育成担当)に就任2012年6月から日テレアックスオン取締役副社長就任2017年6月1日付でジェネラルクリエイター執行役員就任2018年11月3日AERA dotには日本テレビでの後継者育成について次のように紹介されている。『日本テレビ2014年から2017年まで年間視聴率3冠維持圧倒的な強さの鍵はバラエティ番組にあり『マジカル頭脳パワー!!』『エンタの神様』など数々の高視聴率番組を手がけてきた五味一男というプロデューサーがいる。彼は視聴率を取るための独自の理論持っていて、後輩たちにもそれを伝えている。五味のもとで育ったテレビマンが「五味理論」を駆使して徹底的に視聴者満足させるための番組作りこだわり続けたことで、根強い人気を保つバラエティ番組次々量産された。特に日曜ゴールデンの『ザ!鉄腕!DASH!!『世界の果てまでイッテQ!』行列のできる法律相談所』という並び圧巻である。日本テレビ王座保ってきたのはそれが理由である』 親戚五味廣文元金庁長官)、畑中浩一(元パナソニック社長)がいる。 2020年次長課長河本準一、タカアンドトシ・トシ、オリエンタルラジオ藤森慎吾自身YouTubeチャンネルで『#すごいぞ五味さん』特集として称して各自五味ロジック制作こだわり発表している。トシ漫才だった「欧米か!」をコントリメイクした美談藤森オリエンタルラジオ代表ネタ武勇伝」のフリツッコミの形は五味改良したもので「エンタの神様」で披露したネタ100%五味作ったものだと話している。河本厳しさ反面さりげない優しい言葉五味賞という芸人モチベーションをあげる気配りなど五味並々ならぬチーム作り采配評価している。

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師逵」の記事における「人物・逸話」の解説

師逵13歳のとき、母が病にかかり、藤の花求めたので、師逵は城を出て南に20里あまりのところでそれを得た夜更け帰ろうとして虎に遭遇した師逵驚いて天を呼ぶと、虎はかれを放置して去った。母の病はほどなく快癒した師逵陝西按察使となると獄中未決囚1000人の処分10日ほどのあいだで決定し全員有罪とした。 母が死去すると、師逵は官を辞して帰郷し、墓のそばの廬に住んで3年のあいだ酒を飲まず肉を食わなかった。 師逵湖広木材伐採監督することになると、10万人の民衆動員して山に入らせ、道路開き商人軍属召し出して物資調達し伐採事業進めた師逵監督すこぶる厳しく動員され民衆労役負担に耐えかねて、多く李法良の反乱合流した師逵吏部にあって蹇義を補佐すること20年師逵性格知られていたため、師逵に対して私的な請託行おうとする者はいなかった。 師逵産業を営まず、俸禄賜物はみな宗党に分与した永楽帝北京にいたとき、「六部扈従の臣のうち、貪欲でない者は師逵ひとりだけだ」と評した

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麻実れい」の記事における「人物・逸話」の解説

東京神田明神界隈刀剣金具製造業(鍔など)の父のもと三人姉妹末子として生まれる。幼稚園時からバレエ習い高校3年生時に宝塚ファンであった姉達の勧め音楽学校受験し合格した宝塚歌劇団退団直後1985年8月12日日本航空123便に搭乗する予定だったが、搭乗前仕事早く終わったため、1便早い飛行機振り替えてその墜落事故の難を逃れた 私生活では、1995年7月曙ブレーキ工業株式会社会長信元久隆結婚信元再婚であり前妻とは死別している。 1984年『風と共に去りぬ』退団することを決めていたが、偶然に相手役の遥も退団決めており、退団意思を遥が先に切り出した為、「雪組二本同時に出てしまうと土台ががたついてしまう」という理由で一旦自分退団予定取り下げた。遥を送り出した後は「多数若手娘役たちと組んだりして成長させてあげたい」という意思があり、後任相手役決めなかったという。

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佳子内親王」の記事における「人物・逸話」の解説

賜剣の儀天皇から授けられ守り刀は、隅谷正峯の作。隅谷は1991年平成3年)に眞子内親王守り刀始まり1993年平成5年)に皇太子妃雅子1994年平成6年)の佳子内親王と、皇室関係作刀4年間に三度行っている。 祖母である上皇后美智子が手がけていた皇后御親を母の紀子、姉の眞子内親王と共に手伝っていた。御親において採取された糸で織られた絹は、皇族儀式用い着物仕立てられ佳子内親王瑞鳥であるあしらった晴れ着仕立てた同様に1997年平成9年)から、眞子内親王とともに祖父にあたる明仁が行っていた稲作手伝っている。 上皇当時天皇)は、2010年平成22年12月23日誕生日会見で、「御所で、皇太子一家秋篠宮一家集まり大人同士話し合っているようなとき、佳子は、よく愛子悠仁面倒を見一緒に遊んでくれます佳子このような気遣いうれしく思っています」と述べ佳子内親王心配り謝意表した宮家当主ではないので宮号冠しないが、学校生活の他、スケート大会などにおいては、「秋篠宮佳子」の名で登録されている。スケート大会選手紹介では「秋篠宮佳子さま」と一般的な敬称呼ばれるフィギュアスケートは、学習院初等科2年から始める。所属明治神宮外苑FSC東京地方大会であるスプリングトロフィー・フィギュアスケート競技大会には2002年平成14年)-2003年平成15年シーズンから2008年平成20年)-2009年平成21年シーズンにかけて出場し2007年平成19年4月にはノービスBクラスにおいて優勝している。 2010年平成22年)に行われた学習院女子中・高等科学園祭では、5人のグループ少女時代AKB48などの楽曲ダンス披露した手芸が得意で、弟宮悠仁親王のためにフェルト玩具作ることもある。また、2007年平成19年秋に開催され宮内庁職員作品展には、軍手素材制作したぐりとぐら人形姉・弟との合作)を出品している。 赤坂御用地内でのジョギング日課としている。 2021年10月26日、姉の眞子30年過ごした赤坂御用地出発する際に最後に家族との挨拶で姉を抱擁した。。 それから9日後の11月4日には、母方の祖父に当たる学習院大学名誉教授川嶋辰彦が、逝去6日行われた家族葬一家出席。翌7日には母・紀子とともに都内斎場川嶋との最後別れ駆け付けた。現在は30日間服喪間中で、「慶事」などのお祝い事避けている。

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中村福助 (9代目)」の記事における「人物・逸話」の解説

ウルトラマンファンである。これは2006年に甥の二代目中村七之助が『ウチくる!?』(フジテレビ)に出演したときに、七之助によって明かされている。また、福助番組内のコーナー「う〜っ!チクる!?」でビビる大木訪問受けている。 阪神タイガースファンでもあり、タイガース優勝する役者仲間に「とらや」の羊羹配って回る程である。また、自身楽屋のれんもタテジマに虎のロゴ六甲颪歌詞刺繍した特注品掛けていた時期があった。福助自身阪神ファンになったのは、自身少年時代が丁度読売巨人軍V9時代であり、強い巨人軍対抗するタイガースへの判官贔屓の念からであったことを語っている。 宝塚歌劇団ファンでもあり、タカラジェンヌとも交友が深い。1989年歌舞伎座行われた俳優祭では、『ベルサイユのばら』のパロディ念願オスカル役を演じ、かつらを当時オスカル役を演じた涼風真世借りて挑んだという。他、2004年俳優祭でも宝塚パロディオスカル演じたが、この際真矢みきから演技指導受けたという。 若い頃プレイボーイで、週刊誌載ることもあったという。しかし、女形としての才能高く芸の肥やしとしてそれが生かされたとも言われている。

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桓彝」の記事における「人物・逸話」の解説

幼い頃から孤独で貧乏な暮らし送っていた。瓢箪の器で生活していたが、落ち着いて安らかに過ごしていた。 性格朗らかで早くから盛名得ていた。道徳的秩序物事本質見極めることに長け幼少の頃から才は抜きん出ていたす。 幼少から庾亮とは親交があり、雅で上品であったため周顗重用された。周顗は「茂倫の嶔崎歴落(人品高潔な様子)ぶりは、思わず笑う人がいであろう」と嘆いたす。 江南渡った際、桓彝司馬睿朝廷微弱であるのを見て、軍諮祭酒周顗に「私は中原混乱避け、安全を求めて来たというのに、こんなに弱々しくては、どうして事を成すことができようか!」と憂い懼れのため楽しめずにいた。軍諮祭酒王導のもとを訪れ、ともに世事のことについて語り合ったその後周顗に「管夷吾管仲)を見た。もう憂うことなどないぞ」と喜んだ皇太子司馬紹当時名臣呼ばれた桓彝王導庾亮温嶠・阮放等と親しくしていた。かつての聖人真偽について、司馬紹意見桓彝らは答えることができなかった。 占術者の郭璞親交結んでいた。桓彝はいつも郭璞の妻がいる間にやってきた。郭璞は妻に「卿が他所から来られたら、小道の前で迎えるように。ただし、廁に入っているときは様子を探らなければだめだ。必ず客や私に災い有るだろう」と告げた桓彝酔って郭璞の家にやってきて、廁で郭璞会ってしまった。郭璞は裸になって髪を振り乱し、刀を咥えて祭壇設けた郭璞桓彝見て、心をなだめつつ大い驚きあなたと私は友ではあるが、今、来てはいけなかった。もう少し遅ければ、このようにはならなかった!災いは私だけでなく、あなたも免れないだろう。これは天が成したことで、誰に罪があろうか」と言った郭璞王敦の乱で、桓彝蘇峻の乱いずれも殺害された。 桓彝敗れたのは、涇県県令江播が韓晃内通したためであり、子の桓温仇討ちのため、江播を狙った。しかし、江播は亡くなっており、桓温は江播の3人の子殺害して仇討ち果たした

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片岡亀蔵 (4代目)」の記事における「人物・逸話」の解説

歌舞伎きってのゾンビフリークとしても知られており、学生時代ジョージ・A・ロメロ監督製作の映画『ゾンビ』見てから好きになったと語っている。 2015年3月22日放送の『ウチくる!?』にて六代目中村勘九郎ゲスト回において亀蔵ゲスト出演した際には、亀蔵自身勘九郎六代目中村児太郎ゾンビ映画見物に連れて行ったことを語り勘九郎自身感銘受けたが、児太郎には怖がられたと語っている。 公称身長174cm・体重70kg(※2006-2015年当時)・O型舞踊音曲師匠音曲常磐津紫弘。好きな食べ物ナイルのムルギランチ。好きな色:赤。私の宝物学校時代からの友達趣味映画DVD鑑賞美術館巡り。今いちばん欲しいもの:時間好きな映画作品『ゴッドファーザー』『ゾンビ』

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劉季箎」の記事における「人物・逸話」の解説

陝西では脱税事件があったことから、役人厳し刑罰監督していて、民衆物資を運ぶことすらできなくなっていた。季箎が陝西参政着任すると、部下を州県に分遣して、逮捕されていた者たちを釈放し刑罰緩めた陝西では硇砂産出しないにも関わらず毎年納入義務づけられていた。季箎は朝廷言上して、これを廃止させた。 洪渠で洪水が起こると、季箎は堰の分水おこなった民間盗人引き入れたとして逮捕連行された者がいた。盗人がすでに死んでいたため、盗人妻子召し出して識別させた結果であった。季箎は事情聴取すると、逮捕された者を釈放した。 季箎は汚職官吏として無実の罪服していた1000人あまりを弁別して放免した河陽宿屋朱氏趙氏のふたりが別室寝ていた。趙氏殺され役人朱氏殺害したものと疑い拷問して無実の罪に服させた。季箎はひとり「怨恨があるわけではなく、そのやりかたには利がないだろうといって朱氏の刑を緩めさせ、ついに趙氏殺した真犯人を検挙した。 揚州の民の胡氏の家に盗人夜に入って家人殺し、刀が遺体のそばに残されていた。刀には被害者隣家氏の印が入っていた。官は隣人逮捕して追及した隣人は「この刀はなくなって久しいものです」と証言したが、拷問に耐えられず、無実の罪服した。季箎は人に証拠の刀を持ちださせてその里をひそかに調べさせた。ひとりの子どもから「これはわが家のものである」との証言得た。こうして真犯人盗人検挙された。

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梨本伊都子」の記事における「人物・逸話」の解説

筆まめで、1899年明治32年1月1日から1976年昭和51年6月3日までの77年間にわたって日記付け続けた。それを元に最晩年には自伝三代天皇と私』を上梓した。この他にも、多数の手記や回想録残している。 四尺九寸八分(約151cm)という身長低さには悩んでいたようで、1906年明治39年)に梨本宮守正王留学先フランス派遣され御用掛・日高秩父土産として「身長増加器」を持ち帰っている。 歌舞伎きとして知られ太平洋戦争大東亜戦争開戦間近1941年昭和16年)には、近衛文麿歌舞伎観賞便宜図ってもらおうとしたが、ラジオ我慢するように言われ、「一般人間は生のよいものをたべてもさしつかえないが、私たち罐詰でまづしんぼうせよ、といふのと同じではないか。」と憤慨した。この時は、松坂屋買い物中に贔屓市村羽左衛門と偶然出会い近衛がよく使う人目触れない部屋があると、羽左衛門取り計らい満足している。 ドーリットル空襲当日空襲警戒管制であった銀座買い物をしていた。松屋の前まで行くと銀色敵機低空飛んできたので地下避難してしばらく休んでから帰宅した当日日記には「敵機九機はおとした」と記したが、これは大本営作り話であった

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傅友徳」の記事における「人物・逸話」の解説

障害により、言葉発することができなかった。 武勇優れた勇将で「朱元璋軍勢の下で傅友徳の姿を見かけないときはない」とまで言わしめるほどの活躍見せた体を張って戦い続け多く戦いで死線戦い抜き将軍という高位のぼっても、必ず士卒先んじて戦った。 傷を負って力強く戦い数々功績立てた朱元璋何度も詔で労いの言葉をかけていた。 北伐の際、朱元璋からの詔で『薛顕傅友徳勇略軍中でも一番である』との言葉賜った嘉靖元年1522年)、雲南巡撫御史の何孟春傅友徳祀った祠を立てることを請うた。嘉靖帝はこれを認め、『報功』という名を贈った

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徳川家治」の記事における「人物・逸話」の解説

祖父吉宗から特に寵愛された孫であった吉宗家重のことは諦め代わりに家治期待寄せ、自ら帝王学武術などを教え込んだという。さらに家治に付け小姓などにも自ら養育施し後継者体制万全なものにしたという。 学芸才能恵まれ書画を得意としたという。 将軍起床6時となっていたが、50近くになった家治早く目を覚ますことが多くなった。そんな時は座敷の中の音を立てないように、行ったり来たりして、6時になるのをひたすら待っていた。厠に行く時も当番御小納戸役を起こさないように抜き足差し足廊下歩いたという。 祖父である吉宗のように名君たらんと、常に意識し食べ物にして変わったものが出ると「これは先々代様も食べられたものか?」と確認するほどだったという。また将軍として私生活においては、吉宗上の質素倹約努め大奥経費吉宗の頃よりさらに3割削減している。 ある激しい雨の日、家治一人近習が空を見上げ溜息ついているのを目にした。別の者にその訳を聞いたところ、「あの者は貧しく、家が朽ちて雨漏りがしており、今頃親が苦心していることを思っているのでしょう」と答えた。更に家治幾らあれば直せるのかと聞くと、「100両もあれば直せると思います」と答えた家治密かに溜息をついていた近習を呼ぶと「孝を尽くせ」と100両を渡したという。 徳川将軍家では例外的に愛妻家であった御台所倫子女王との間に2女を儲けるも(これ自体異例)、男子を得る事ができなかった。近臣側室薦めてもなかなか選ばず遂に田沼意次薦め側室を選ぶ代わりに田沼側室をもつことを条件にした。家基出産後家基倫子女王のもとで養育させた。また側室2人それぞれ男児産んだ後はお役御免かのように通わなくなった祖父吉宗同じく、よく鷹狩りに出かけていたという。 東インド会社オランダ商館長カピタンイサーク・ティチング家治謁見した。 将棋趣味としていた。七段を允許されている。棋譜残っており、関西将棋会館にあった将棋博物館サイト記述では「周囲若干緩めて対局している風が棋譜から感じられ、正直実力七段は疑問ではあるが、 非常に筋の良い軽い棋風現在のアマ高段の力は十分にある」と評価されている。 家治新し将棋用語考案し例え右上から「いろはにほへとちりぬるを」などと呼んだ詰将棋作成する才能優れ図式集『御撰象棊攷格』百番著している。詰将棋作家として名高いプロ棋士二上達也は、家治の指将棋については「所詮旦那芸」と切り捨てているが、詰将棋については「他の追随許さぬ名作・好作を残している」と絶賛している。 七国象棋好んだ一方でマナー悪く対局中難局場面で待ったをして、駒を元に戻したとも伝えられている。 大樹寺納められている位牌が、将軍身長とほぼ同じ高さであるとする説があり、これによると家治身長153センチ推測される。しかし、家重位牌151センチ実際身長156センチであることから、家治身長それよりも高い158センチとする説もある(大樹寺#歴代将軍位牌参照)。

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人物・逸話

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村井長世」の記事における「人物・逸話」の解説

屋漏堂禽譜」「屋漏譜」「屋漏堂木譜」など動植物図鑑編纂している。屋漏堂の号は、誤解から藩主前田綱紀切腹命じられ藩士佐々主殿の、貧しさから雨漏りする屋敷住まいながらも主家に大事が起こったときに備え武具軍資金用意していた逸話に、長世が感銘受けたことによる

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横山隆達」の記事における「人物・逸話」の解説

横山家に伝わる古文書調査で、江戸の父貴林から、馬術練習に励む藩主宗辰に馬を献上したことや、宗辰の馬に乗せてもらったことを国許隆達伝え延享2年1745年)に書かれ書状発見された。

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松平治郷」の記事における「人物・逸話」の解説

政治家としての治郷の評価は低いが、一説には財政再建して裕福になったのを幕府から警戒されることを恐れて、あえて道楽者演じていたともされる越前松平家系統親藩の雄として尊重される同時に過去の経緯から幕府に常に警戒されていた)。 年少の頃より石州流茶道参禅修行経験積み隠居したのちに『無門関』の公案百丈野狐」から取って不昧」を号するうになる茶人として才能一流であり、わび茶理念説いた贅言』や、『古今名物類従』『瀬戸陶器濫觴』など茶器に関する著書残している。 治郷によって築かれ茶室菅田菴寛政2年1790年)築、国の重要文化財)や塩見縄手明々庵安永8年1779年)築)に現存するこの他茶の湯つきもの和菓子についても、治郷が茶人として活躍するに伴い松江城下では銘品呼ばれるうになるものが数多く生まれたこのため松江地方では煎茶道発達して今でもお猪口状の湯呑で飲む風習残っている。 上記のように治郷の収集した茶器銘品銘菓山川若草菜種の里など)や庭、或いは松江名物ぼてぼて茶などは「不昧公御好み」として現在にも伝えられている。松江市今もって文化の街として評されるとなったことは、現代までに至る治郷の功績である。 武芸にも堪能で、松江藩御流儀である不伝流居相居合)を極め不伝流新たな工夫加えたまた、好角家とも知られ強豪力士雷電為右衛門士分取り立て召し抱えたことでも知られる金魚愛し部屋天井硝子張って金魚眺めた金魚色変わりについて藩士他国派遣してその秘法会得させた、などとも伝えられるまた、松江藩開発されさかんな金魚出雲なんきんがこの金魚思われるが、現在島根県の天然記念物指定されている。 「幕末百話」(篠田鉱造著)の「出羽道楽隠居」に不昧の孫、斉貴(なりたか)の事が記載されている。江戸好きで、期限来て参勤交代嫌がったため、家老二人切腹してしまい、出雲蟄居させられている。

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円谷皐」の記事における「人物・逸話」の解説

社長に就任した1973年以降円谷プロキャラクタービジネス成功を収める円谷エンタープライズ名義による借金藤沢市プール付き豪邸購入する他、豪華マンション・ゴルフ場の会員権買い込んだ。甥の円谷英明会社資産確保の面もあったかしれない語っており、第二次怪獣ブーム終焉とともに資金繰りとして豪邸買値の倍以上で売れた『ウルトラマン80』当初TBS側の意向教師ものとなったものの、様々な制約受けて路線変更となってしまい結果低調終わったことに対して「我々が作り育ててきたウルトラマンどうする気か」とTBSに不満を述べた結果、「TBS役員室に出入り禁止となってしまい、新作放送絶望的となってしまった。しかし皐本人はこの『ウルトラマン80』が一番プロデュース作品として印象深い述べている。 1984年休暇ハワイ行っていた皐に代わり資金繰りとして弟の粲が皐に電話相談した上でウルトラシリーズ(Q~タロウ)の番組販売・その窓口TBS販売したところ、帰ってきてから自分知らないと言い出し社内大騒ぎとなったしばらくして弟の粲が独立して円谷映像設立するが、援助は行わなかった。 東宝からの出向社員素行不良とがめられ辞めさせられ社員が、十数年ぶりに現れる幹部として採用したこともあった。 遺言では子飼い役員たちに、息子盛り立て、甥の円谷英明排除するよう述べたという。

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大友義統」の記事における「人物・逸話」の解説

九州諸家盛衰記』では「不明懦弱(ふめいだじゃく)」と書かれている。これは「識見状況判断欠け弱々しく臆病」という意味である。 天正遣欧少年使節帰国した際、宣教師たち棄教のことを謝罪したが、この中でもとより自分意志薄弱優柔不断な性分なので」と言及している。(『フロイス日本史』) 相当、酒癖の悪い人物であったらしく、多く宣教師資料に「過度飲酒癖やそれによる乱行が多い」と記されている。自身自覚していたのか、子・義乗に残した家訓に「下戸である事」と戒め記している。 父・宗麟がキリスト教傾倒し神社仏閣破壊したという話が知られているが、大友氏本拠である豊後国内や筑後国内での破壊は、当時次期当主であった義統が積極的に行っており、義統が主導した可能性もある。 島津氏一軍豊後府内侵攻してきたとき、義統は府内大友館捨てて逃亡している。さらにこのとき、寵愛する愛妾置いていたことを思い出して家臣1人救出命じた家臣1人命令に従って救出してきたが、それに対して義統が恩賞与えようとすると、「私は女1人助けたに過ぎません。このたび戦いで多く同朋死んだにもかかわらず、それには報いず、私にだけ恩賞与えるとは何事ですか。そのような性根を持つ主君は、我が主君にあらず」と述べて逐電したという。この家臣の名は「臼杵刑部」といい、のちに毛利輝元仕えたという。 文禄の役失態に関しては、同じよう小西行長からの救援要請小早川秀包黒田長政にも出されており、両者ともこれを拒否している。にも関わらず黒田小早川何の処罰受けず、義統(当時は吉統)のみが改易処分厳し処置取られたのは、秀吉家臣讒言受けた為とも、梅北一揆大友氏一族加担していたとの風説があった事などにより秀吉不信感前々から抱いていたという説がある。 父・宗麟との対立は、隠居後自由奔放にキリスト教極端に傾倒していった宗麟に対し反感抱いていた反キリスト教の家臣団と、離別後も強い影響力持った実母奈多夫人影響強かったとされる。特に奈多夫人は義統に対して影響力強かったようで、宗麟と後妻との間に子が出来た事を知ると、その子供が男・女関わらず殺すようになどと進言し、関係はさらに悪化したとされる耳川の戦いは父・宗麟主導よるものとされているのが通説であったが、宗麟は隠居後天正5年1577年)や天正6年1578年)は領国関係に関する文書史料発見されていないため、義統主導よるものとされている。

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桓秘」の記事における「人物・逸話」の解説

幼い頃から才気があったが、世の習わし外れたことを行っていた。 謝安とともに書や詩を十首作り、その言葉づかい見るべきものがあった。その文章司馬昱好まれ寵遇受けた

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朝倉宗滴」の記事における「人物・逸話」の解説

宗滴は貞景、もしくは孝景の時代から事実上朝倉家当主であった軍事的に軍奉行として朝倉軍を率いて数々武勲立てて朝倉家武威高めと共に越前に平和をもたらした政治的にも孝景時代出兵大半幕府要請よるものでこれが朝倉家家格上昇つながったわけであり、越後長尾為景長尾景虎上杉謙信)とも書状交わして音信通じるなど外交まで任されていた。この宗滴の存命中は周辺諸国朝倉家手出しはできず、朝倉家全盛期築いている。だが、宗滴の死で朝倉家には草創期功臣1人もいなくなり、また彼に代われるだけの器量持った人物朝倉家には不在であったこのため宗滴の死後朝倉家は義景の下で一族家臣の内紛一向一揆衆や周辺諸国攻撃などで衰退していくことになる。 宗滴が朝倉家名将であったことは彼の死後思い知らされることになる。後任総大将となった景隆は9月から10月にかけて加賀各所攻めたがほとんど戦果挙げられなかった。それどころ翌年になると加賀一向一揆越前侵入して各地焼き払い窮した朝倉家4月になって幕府仲介一揆衆と和睦している。 宗滴は織田信長才能見抜いていたという。臨終直前に「今すぐ死んで言い残すことはない。でも、あと三年生長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介行く末見たかったのだ」と言い残している(『続々群書類従』第83条、『朝倉家録』)。 庭でを卵から育て人工繁殖行っており、この養法は戦国武将中でも特異な例とされる

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馬敬徳」の記事における「人物・逸話」の解説

あるとき馬敬徳の妻は猛獣がこちらに向かってくる夢を見た馬敬徳草叢越えて逃げ、妻は地に伏せてあえて動かなかった。馬敬徳はこの夢を占って、「わたしが大官を得るだろうということだ越えるとは、九卿超えるということだ。おまえが地に伏せたのは、夫人となるということだ」といった。 馬敬徳のある弟子は「馬先生孔子に勝る。孔子は儀同の位を得ていない」といった。

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孔克仁」の記事における「人物・逸話」の解説

朱元璋自分を漢の高祖劉邦擬し、かつて「秦の政治暴虐で、漢の高祖無位無官から身を起こし寛大さ群雄を馭して、ついには天下の主となった。いまも群雄蜂起しているが、みな法度修めて軍政明らかにすることを知らないので、これは成すところがないであろう」と克仁にいった。また「天下に兵を用いる者、河北ボロト・テムルがおり、河南ココ・テムルがおり、関中思斉・張良弼がいる。しかし兵数はいても紀律がないのが河北であり、紀律があっても兵が振るわないのが河南である。道が途絶して通じず、兵糧補給続かないのが関中である。江南にはただわたしと張士誠がいるだけだ。張士誠奸計多く諜報盛んだが、兵士紀律がない。わたしは数十大軍率い軍政修め将帥任じ機会に応じて軍を動かせば、その勢い天下平定するのに不足ないであろう」といった。克仁は頓首して「主上神武ならば、天下一気平定するでありましょう」と答えた朱元璋『漢書』閲覧すると、克仁は宋濂とともに近侍した。朱元璋が「漢の治道不純なのはなぜか」と訊ねると、克仁は「王道覇道混ざっているためです」と答えた朱元璋が「誰がその原因となっているのか」と訊ねると、克仁は「責は高祖あります」と答えた朱元璋は「高祖創業時期は、秦の学問弾圧遭い民衆憔悴して息を吹き返したばかりで、礼楽のことはもとより講義されなかった。文帝皇帝となって、礼を制定して楽を作り三代の旧にもどそうとしたが、逡巡して暇がなく、このようにして漢の王業を終わらせたのだ。帝王の道は時機違わないことを貴ぶ三代の王はその時機に応じて礼楽作ることができ、漢の文帝その時機に応じて作ることができず、後周世宗その時機にないのに作ることができたのだ」といった。さらに「漢の高祖徒歩から身を起こして万乗の主となったのは、いかなる道に操られたからか」と訊ねると、克仁は「人を知ってよく任せ使ったことです」と答えた朱元璋は「項羽南面して孤と称し仁義を施さず、自ら戦いの功を誇った高祖は人を知って任せることを知っており、柔和へりくだった応対をし、寛大思いやり深く行動したので、ついには勝利をえた。いま豪傑一人ではない。わたしは江左を守り賢者任命して民衆安堵させ、天下の変を観望している。もしいたずらに勝負をするなら、速やかに平定するのは難しいだろう」といった。徐達らが淮東と淮西を下すと、朱元璋はまた「紅巾の乱により、人民塗炭の苦しみ味わった中原諸将のうち、ボロト・テムルは兵を率いて宮闕犯し倫理乱し紀律違反して、すでに一族皆殺しにされた。ココ・テムル皇太子アユルシリダラ擁して討伐名分立てているものの、私的な報復はやって、敵に対抗する志がない。思斉らは凡庸で、ひそかに一方割拠して民衆がその被害受けている。張士誠は外に元の名を借りながら、反覆両端持している。明玉珍父子は蜀に拠って帝号を僭称しているが、自らの権力用いるだけで満足して深慮遠謀がない。かれらのやっていることを見るに、みな大事を成すことはできない。予は天の時を計り人事審らかにし、時機定めることができる。いま軍を西方襄陽樊城進出させ、東方淮水泗水越えさせ、首尾あい応じてかれらを攻撃すれば、必ずや勝利する。大事を成すことができれば天下平定するのは難しくない天下平定した後にも、人民の生活にはなお困難があるが、思慮労するだけのことだ」と克仁にいった。

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斎藤利治」の記事における「人物・逸話」の解説

ウィキクォート斎藤利治に関する引用句集があります信長斎藤道三の婿に当たるため、道三の近親の利治を家臣として取り立て加治田城主とし、道三亡き後斎藤家跡取りとしたとの考察がある。また、名前から推定する土岐頼武と共に道三に追われ斎藤新五郎末裔で、家名存続のため忠能の養子にしたという考察もある。または、斎藤利直の子斎藤親頼が末孫斎藤龍興権子か弟とある。道三の子・孫・甥とまちまちであるが年代的に道三の末子であることが有力であるとされる。 利治は若くして織田家に寄し、美濃斎藤家跡取りとして信長信忠一生涯戦陣中に過ごし信長多くの有力武将と肩を並べ東征西伐の激し戦闘参加し加治田城主として本能寺の変までの15年間の生涯天下統一戦に捧げた平井信正京都御所から難を避けていた時、利治はその人物を惜しみ加治田迎え白華山清水寺口に住まわせた。信正の孫は元服の時、利治の治の字を賜ったという。 関・加治田合戦において、斎藤勢(関)の長井道利加治田城攻め寄せ衣丸において佐藤忠能の子・忠康(信氏)が討ち死にし加治田織田連合軍旗色悪くなった。加治田勢から湯浅讃岐が一番に関勢へ突き、それに続いた他の加治田とともに関勢を追い返した。その働き賞し、利治は自分の新の字を与えて湯浅新六とし、刀を授けた龍福寺位牌に「厳珠院殿天長運大禅定門天正十年六月二日、於二条城死」とある。 太田本郷城城跡一角は利治の菩提寺円光寺となっていて、少し離れた富山市立山室中学校そばに利治の娘(与)の皮膚病治したと伝わる「的場清水」がある。 利治を中心に福富秀勝菅屋長頼猪子兵助団忠正と共に数多取り勇勢を震い闘うが、信忠自害後「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と指違い忠死を顕けた。 本能寺の変時に利治が既に事態決したから逃亡するように信忠諭したのは、逃亡可能なことを把握していたためと考えられる。 『南北山城軍記』にて利治がひそかに家族正室院とその息子・娘)の心配をかけまい深夜加治田城出発したことから信忠御陣(二条城)に到着する様子書かれている毛利氏攻め上洛の際、信長信忠は利治の病気を心配し御供認めなかったが、利治は病気平癒したとし、妻と子最後別れ覚悟して夜中急ぎ加治田城打立て岐阜城打過ぎ京師向かったとある。 佐藤忠能一周忌は、施主斎藤利治忠次となっており、「或る時は却敵城守り、勝を千里決し或る時は諸仏地に入って、意を三辺投ず、僧を度し且つ精舎建立す。」と、香語七百字ほどの長文語録にある。 利治は生涯側室迎い入れなかった。佐藤忠能の娘である正室院のみ一人正室とし、一生涯夫婦契り行った加治田衆家臣団佐藤忠能養子となった斎藤家跡取である斎藤利治忠次)に皆従い主従関係の絆が大(切れない関係)であり、信長天下布武大い貢献する斎藤道三から織田信長への「美濃国譲り状」は、利治が信長渡した可能性が高い。 京都建勲神社御祭神 織田信長公)にて「織田信長三十功臣」で神社創建の折真先功臣36名のうち十八功臣一人として斎藤新五の額(絵画)が飾られている。 利治は、人物・人柄武名(軍術)・統治統率血筋優れており、特に信長信忠信頼絶大であり、斎藤道三血筋であること、親族衆・加治田衆美濃尾張家臣団にも強固な絆が影響し繋がっている。 利治は軍記物でも書かれてある通り、「天下輝かせ、忠志を全うし二条城中において潔く忠死して、恩君泉下報じ武名天下輝かせり。」と織田軍団中においても美濃斎藤氏として信長信忠信頼が一番であり利治の忠誠第一人物である。 父である斎藤道三夜話をまとめた書物については、利治が編者となっている。 織田信忠付き軍団の中での有力武将であるが、信忠専従せずに一軍独立した将(大名)として各地転戦し信長信忠から称賛されていた。 濃姫の弟であり、利治の立場織田家においても一門衆であった美濃国要地である加治田城大名となっている。他の織田軍団武将では領地移動数多く行われているが、利治は一度領地替えはない。 飛騨国大名公卿血筋を持つ姉小路頼綱とは同年齢であり、頼綱の正室斎藤道三の娘のため姻戚でもあった。心なる友ともされ信頼関係揺るぎなかった。飛騨出入口加治田城大名として役割は重要で、織田家姉小路家三木家)の同盟国として親族要地立場と共に深く繋がっている。 戦国三国司国司大名正室である姉小路頼綱正室斎藤道三末娘であり、年齢的に斎藤利治に近いとされる飛騨国姉小路頼綱大名として信長より領土認められ朝廷繋がっている事も織田信長正室濃姫深く繋がっており、親族大名同盟国であり、加治田飛騨街道出入り口位置する加治田城大名利治の一門衆としての立場大きく計り知れない程、信長信頼揺るぎないものとされる月岡野の戦いでは、飛騨出入口加治田城全軍集結し、旧飛騨街道沿い(武儀町金山町下呂市高山市飛騨市)を通り同盟国親族である姉小路氏三木氏支援を受け、越中国へ入る。月岡野の地にて上杉軍撃破し信忠信忠軍団から毛利長秀大将として援軍派遣とし、森長可坂井越中守佐藤秀方添えて派遣。だが信長北陸寒さ寒天)を懸念し利治に帰陣命じる。帰陣前に利治は越中国人衆の人質神保長住引き渡し帰国した味方した越中国人衆や越中斎藤氏斎藤信利信忠贈り物は利治が全て取次受け持っている。 信長義弟では浅井長政、他にも重臣家来裏切られたが、斎藤道三末子義弟である利治を寵愛し厚遇するほど信頼をよせており、利治も信長信義忠義恩義の義を行い嫡男である信忠も共に信頼関係絶大である。 本能寺の変において利治と利三が戦った事は、斎藤利宗に娘を嫁がせた親族関係美濃斎藤氏としての一族同士戦いとなった加治田城主(却敵城二代斎藤新五本能寺の変にあって京都二条城において討死忠死)したことはその地を治め人々にとって大きな衝撃であったとされる本能寺の変二条城防戦有様は、討死武将六十一名中に新五も名を列ねている。 織田家大名当主信長時の合戦において大勝利となった月岡野の戦い織田家合戦中でも比類なきものとされている。 利治は親衛隊である加治田衆をとても大切に統率し加治田城要地中心に領地維持管理内政から外交姉小路頼綱越中衆)を中心に東西南北治世安定と、平井信正加治田白華山清水寺招き加治田文化姉小路頼綱との朝廷との繋がり貢献をし、加治田要地拠点重要視し加治田城改築行っている。 加治田城改築として、斎藤利治による虎口石垣改修支配段階でされたとされる美濃国有力国国人衆佐藤忠能養子となり、二代目加治田城城主となり、斎藤利治佐藤忠次との名もある通り美濃佐藤氏親族衆となる。親族衆は、加治田城城主佐藤忠能一族鉈尾山城城主佐藤清信、板之東金城城佐藤秀澄、伊深村城屋敷佐藤信則蜂屋佐藤信連・堂洞城岸信周の子孫であり、加治田城中心において囲んでいる。それは中濃を完全に支配し国人衆をよりも強大な一族美濃斎藤氏美濃佐藤氏大名とされるまた、武芸八幡においての佐藤昌信もその一族である。 佐藤一族の岸信周一族合戦後、利治が佐藤一となった事で、追討される事なく、その子孫保護され美濃国繁栄し武士地主庄屋となり利治を支え、現在ま岸氏氏族繁栄している。 加治田城大名となった時より、利治の立場一門衆御供側近であるが、織田軍団長としては遊撃隊司令官であり、東西南北天下布武対応できる加治田位置加治田衆統率する不測の事態対応できる遊撃隊司令官大名)である。 月岡野の戦いよりは、遊撃隊軍団総司令官司令長官)となり、信長信忠より揺るぎない絶大な立場となった 本能寺の変にて忠死した利治の亡骸義兄斎藤利三により直ぐに拾われ明智光秀により丁重に扱われ美濃国斎藤利堯通じて加治田城菩提寺龍福寺運ばれ加治田衆にて手厚く葬られた。 甲州征伐においては参加せず加治田城本城中心に美濃斎藤氏留守居としての役を務めた朝倉討伐時に信長の側近大名一門衆として常に信長先取りし共に攻め、他の合戦においてもその活躍目覚ましい。 利治は信長濃姫により斎藤道三亡き後正統美濃斎藤氏後継者として加治田城本城とする。後に後継者信忠付きである側近信長御供となるが織田家直参家臣ではなく一門衆独立大名として立場であった

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王璡」の記事における「人物・逸話」の解説

王璡は夜の四鼓(午前2時ごろ)にろうそくを手に取って読書し音読の声が署外に聞こえた学課諸生たちが訪れるようになり、読み習って怠ることがなかった。 王璡寧波府内の淫祠破壊したが、破壊した中に三皇祠が含まれており、ある人がこれに異議唱えた王璡は「祀るきでない祠を淫といい、祀ることのできない祠を瀆という。ただ天子だけが三皇祀ることができるので、士人庶民参加できない破壊したことに何の疑義があろうか」といった。 王璡倹約の生活を守っていた。ある日供え物用の羹(スープ)があったが、王璡はその妻に「おまえはわたしが草の根食べたときのことを覚えているか」といい、命じてこれを埋めさせた。このため当時の人に「埋羹太守」と呼ばれた王璡捕らえられ連行され永楽帝に「戦艦造ったのは何のためだ」と問われた。王璡は「海に浮かべて瓜洲に進み、軍の南渡を阻もうとしただけです」と答えた

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十返舎一九」の記事における「人物・逸話」の解説

名香黄熱香」は十度焚いても香を失わないところから、「十返しの香」とも呼ばれる。後の筆名「十返舎」はここから、「一九」は幼名の市九から来ている。初めは十遍舎一九であったが、十偏舎、十偏斎、重田一九斎なども用い享和ころから十返舎一九定まった一九大坂時代材木商の家に入婿して、離婚した寛政8年1796年)頃、江戸長谷川町現在の東京都中央区日本橋堀留町二丁目)の町人入婿となったが、放蕩のためか、享和元年1801年)に離縁された。文化元年1804年)、お民を娶って通油町鶴屋裏の地本問屋会所暮らし一女育った。この会所住まい時期、『駿河屋藤兵衛』と称した亀戸深川佐賀町現在の江東区佐賀)に火災避けた時期もあったが、晩年通油町長谷川町住まいであった火葬にされた際、一九が予め体に仕込んでおいた花火点火し、それが上がったという逸話残されているが、これは辞世の句前出)にかけた初代 林屋正蔵による創作であるとされている。 父親元八王子千人同心重田八郎次男であるため、墓石過去帳には元八王子千人同心の子記載されている。

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人物・逸話

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高瞻 (前燕)」の記事における「人物・逸話」の解説

幼い頃から英武豪爽俊才であると謳われ身長八尺二寸偉丈夫であったという。

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ウィリアム・シャーマン」の記事における「人物・逸話」の解説

残虐なイメージ付きまとうが、実は嫌戦家であり、南北戦争以前から戦争虚しさ悲惨さ強調した手紙、文、スピーチなどを多く残したことでも知られる後年スピーチ発したWar is Hell」(「戦争地獄」)という文句 は特に有名。 第二次世界大戦時アメリカ陸軍開発したM4中戦車英国軍からシャーマン呼ばれ以来この通称定着している。

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間部詮房」の記事における「人物・逸話」の解説

真面目で信義篤い人物だったとされ、他の幕臣交代勤務あたったが、詮房は家宣昼夜片時も離れず勤務したため、家宣も詮房のことは特に信頼していたという。 白石は「身の暇がなく」「きわめて生質の美なところありて、おおかた古の君子の人にも恥じまじき」と詮房を評したまた、白石家宣死後政治に対して消極的になることも多かったが、そのような白石励まして能力引き出すことに尽力したという。 家宣死後大奥頻繁に出入りし月光院密会重ねていたとか、大奥月光院一緒にいるときの詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母言ったなどという逸話がある。さらに月光院と詮房は桜田御殿時代から深い仲であったとか、また詮房の旧姓が間鍋であることと家継幼名鍋松から、家継は詮房の子でないかという説がある。だが、これらはいずれも詮房を失脚させるための俗説過ぎず信憑性は低い。

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ハロルド・ロウ」の記事における「人物・逸話」の解説

女性優先徹底していた船員だった。14号ボートへの避難誘導をしている際、少年の域を出たばかりの若い男14号ボート紛れ込んで女性客の座席の下に隠れようとしたのを発見したロウは、拳銃引き抜くと船に戻るよう命じた。その青年泣きながらたいした所をとらないから見逃してくれ」と訴えたが、ロウはその顔に銃を突きつけ10数えるうちに降りろさもないと脳みそ吹き飛ばすぞ」と脅した青年はなおも泣きながら訴えたが、ロウが「おい、男らしくしろ。女子供助けなければならないんだ」と叱りつけると、男はようやく諦めてボート降りた。しかしこの騒動に気を取られロウは、三等船室乗客ダニエル・バックリー(英語版)が女物ショールかぶって14号ボート乗り込むのを見逃すことになった海中落ちた人々救出に戻るため乗客別のボート移している時にそれに気づいたロウは、ショールをはぎ取ったバックリーの顔を見たロウは何も言わなかったが、バックリーを別ボート突き飛ばしている。 14号ボート無理やり乗ろうとする一団ロウによればイタ公」)が迫ってきた時には、銃を船腹沿いに向けて乱射し一団後退させた。 気性の荒い船乗り気質の男であり、しばしば罵詈雑言浴びせたボート返すため、乗客別のボート乗せようとした際、女性乗客デイジー・ミナハンがボートからボートの間へ跳び移ることをためらっているのを見て跳べ馬鹿野郎跳ぶんだ!」と怒鳴りつけている。 白人至上主義者であり、「非白人は危険で目障りな動物のような連中」と常々語っていた。14号ボート非白人近寄ってきた際には、問答無用で銃を抜いた。またボート戻した際、ロウは木のドアの上乗って生存していた中国人男性発見したが、それが非白人であることに気付くと「どうやら死んでいるらしい。そうでなかったとしても、ジャップより救助する価値のある人々が他にいるだろ」と言って見捨てようとした(オール漕いでいた女性から説得され結局救出している)。ただし人種差別ロウ特有なのだったわけではなく当時白人社会における普遍的な考え方だった。

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石越 (前秦)」の記事における「人物・逸話」の解説

慕容農は『石越智勇合わせ持つ名高き者』と評している。 石越毛当並んで前秦驍将として誉れ高く故に苻堅は彼らに二人の子苻丕苻暉)の補佐委ねていた。それが相継いで戦死したため、前秦の民は衝撃を受け、盗賊あちこち群起するようになった

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中条藤資」の記事における「人物・逸話」の解説

家紋初め三浦氏の代表紋である「三引両」を用いていたが、南北朝戦乱足利尊氏属して功を挙げそのとき尊氏から戦功の証として傍ら生えていた酢漿草与えられた。これを記念して片喰酢漿草」に替えたと『中条家記』に記されている。繁殖力強く一度根付く絶やすことが困難であることが、「(家が)絶えない」に通じることから、武家の間では、家運隆盛子孫繁栄縁起担ぎとして家紋図案として用いられた。 合戦の際、軍旗には「山」という一字旗を用いた初期居館江上館だけでなく、資が普段過ごした思われる羽黒館跡からも、1516世紀のものと思われる明の陶磁器珠洲焼などが大量に出土した資は「壺収集家であった可能性が高い。 1535年本庄房長新発田綱貞らと羽前砂越城の砂越氏維宛に花押入り連名状を認めた際に資は花押入れていない。これについては同書中に資の事歓楽故に判形能わず候」と断り書きがあり、資は議論の席で酒に酔いつぶれて眠りこけてしまったと思われる

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富田長繁」の記事における「人物・逸話」の解説

長繁は武勇優れ、「樊噲が勇にも過たり」と前漢猛将なぞらえて評された。一方で「武を隠して人心捉えるべきであった」と人々意見聞き入れない領内統治拙さについても言及されている。 越前反乱起こって信長が対応出来ない事をある程度見越して桂田魚住殺したが、その後は弟を信長差し出して越前守としての支配権得ようとしているという噂が立つなど、一揆勢の意にそぐわない存在となりつつあり、これが対立一因となった

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水原親憲」の記事における「人物・逸話」の解説

兜に「風の神の神、火の神と書かれたうちわをあしらった前立てをつけていた。この兜は現存し宮坂考古館収蔵されている。 『米沢里人談』は親憲の容貌について「其長鴨居さえぎり、面は馬の如く黒子多くして黒大豆を蒔たる如く」と記している。 『上杉将士書上』は「水原常陸介親憲は風流者で、乱舞連歌をよくし、茶の湯数寄者でもあり、人の噂にのぼることの多い男であった」と記している。 『上杉将士書上』によると、いつも勝戦のときは寡黙をまもり、苦戦陥ったときには、「天下に敵と存ずる者なし、嵐の中の塵芥如きもの」と大音声味方士気鼓舞してまわったので、謙信から剛の者と讃えられた。 『上杉将士書上』によると、上杉家中酒宴のとき、顔に紅、白粉塗りたくり、真っ赤な頭巾被り棕櫚箒に紙をちぎってけたもの高くかげながら主君上杉景勝前に進み出て舞を舞ったところ、いつも無口な景勝表情が少し崩れたという。 『上杉将士書上』によると、戦場へ向かう際、馬にまたがって道を進むときも、付き従う下人世間話しながら大笑いして通っていくため沿道人々は「あれが、今から合戦に向かう武者か」と目を見張ったという。 上杉家出奔し新国貞通のもとに身を寄せていたとき、共に出奔した小島弥太郎蘆名家家臣から「越後の鬼小島会津では味噌小島」とはやし立てられたことがあったが、親憲が合戦大活躍を立て小島分の汚名返上した上杉家中で、関ヶ原の戦いにおける東軍徳川軍)の勝利を予見した数少ない武将のうちの1人と言われている。 大坂冬の陣で、「自分具足は古いので、諸将笑われると言って猿楽半臂(はんび)を具足の上から羽織って出陣した。これを見た徳川家康は 「上杉家古風だな。直垂着て出陣している者がいるぞ」と言ったという。 『常山紀談』によると、大坂冬の陣徳川秀忠から感状戴いた際に、秀忠の前で感状開封して読み傍ら本多正信を見やって「景勝のみならず陪臣の身である私にまでこんな名誉を戴けるとは、謙信以来の上武名あげられ嬉しいことです」と言ってから静かに退出したという。当時においては下賜され感状その場で開くという行為は、重大な儀礼違反であった。また退出後「こたびの戦は子供石合戦のようなもので、怖く骨折りとも思わなかった。謙信公の元で戦場駆け回っていた頃は、今日死ぬか明日死ぬかと思いながら必死に戦ってきたが、一度感状など貰えた事はなかった。こんな花見同然合戦感状いただけるとは、おかしなことだ」と大笑いして人に語り徳川による不義の戦を世間印象づけた。 墓石は瘧(おこり。マラリア)に効くとの噂が広まり人々削られていった。これは親憲には出陣時に震える癖(いわゆる武者震い)があったが、いざ合戦になるとその震え止まったとの言い伝えがあり、瘧の発熱性震え押さえるとの発想になったと言われている。

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色部勝長」の記事における「人物・逸話」の解説

長の生年について不明な点が多く明らかになっていない一説には1493年とも言われているが、1535年本庄房長新発田綱貞らと連名羽前砂越砂越氏維書状送った際に勝長の名前の下に花押の印がみられないために1535年時点では勝長は未だ元服前だったという可能性もある。 弘治3年1557年)の第三次川中島の戦いの際、謙信からの出陣要請始め断ったが、結局出陣している。 戦陣において勝長は、白地日の丸小旗用いていた。ところが平賀重資という者が全く同旗を用いているので、勝長はこの旗は自分謙信から授けられた紋であるのに、平賀ごときが使用するのは怪しからんと、永禄6年1563年)、奉行河田長親抗議した。これに対して平賀の方では、この紋を斎藤朝信家来使用しているので、自分もこれを用いたのだと答えた河田そのような次第なら、自ら相断るべきだと平賀叱責している。いろいろともめたようだが、結局長の主張通って平賀はこの紋の使用禁じられた。 謙信がまだ景虎名乗っていた頃は揚北衆割拠する下越地方本庄中条黒川といった諸豪族の間で御家騒動領地紛争絶えない状況であり勝長はこの問題に際して景虎から度々仲裁交渉依頼をされている。

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姚襄」の記事における「人物・逸話」の解説

姚襄若くしてその名を馳せ世に冠たる雄武さを誇り学問好んで博識であり、談論善くこなした。その為、江東士人はみな彼を重んじていたという。また、勇ましさ慈愛兼ね備えていたので、幾度か敗戦喫したものの、民は姚襄所在を知ると、老人の手取り幼子背負い、その下へと馳せ参じたという。洛陽敗戦した折には、桓温軍では姚襄戦乱の中で傷を負って死んだとの噂が流れており、桓温捕らえられていた許・洛の士女は、その殆どが北を望んで涙を流したという。姚襄人心得ている様はこれほどであった弘農出身楊亮姚襄帰順しており、姚襄は彼を客人の礼をもって厚遇していたが、姚襄敗れるに及んで桓温の下へ奔った。桓温彼に姚襄人となりを問うと、楊亮は「襄の神明器宇な様は、孫策匹敵します。雄武に関しては、これを凌駕しております」と答えた姚襄重く見られているのは、このようであったという。

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大塩平八郎」の記事における「人物・逸話」の解説

友人なりたい思った相手に対してなんらかの邪心抱いているならば、親しくすべきではない」との言葉から、極めて厳格な人間性窺われる。 非常に短気で、頼山陽からは「小陽明」とその学識ぶりを称賛される一方で君に祈る。刀を善(ぬぐ)い、時に之をせよ」とその直情的な性格忠告された。また、大坂西町奉行・矢部定謙宅に招かれ食事中幕政腐敗怒ったあまり、本来なら歯が立たないほどの硬いカナガシラ)の頭を噛み砕いてしまったことがある近藤重蔵大坂御弓奉行勤めていた時に会ったことがあり、互いに「畳の上では死ねない人」という印象抱いた講義厳格そのもので、門人たちは緊張のあまり大塩の目が見られなかったという。 ストイックな生活を送り夕方には就寝午前2時に起床天体観測潔斎武芸の後に朝食午前5時には門弟集めて講義その後出勤というサイクルであった自他共に厳しく神経の張り詰めた生活を送り10日余りも眠ることが出来なかった時があったという。

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生方大吉」の記事における「人物・逸話」の解説

議場では鋭い野次をとばし臨席していた昭和天皇が「あの無礼な男は何者か」と訊ねるなどして「野次将軍」と称された。また1947年には泥酔して本会議出席した挙げ句議場内で放尿してしてしまい、これが原因議員辞職追い込まれている。 あまりに政治のめりこみ、父から「政治没頭し家督相続適さない」と相続人廃除訴訟起こされたことがあった。

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緑川希星」の記事における「人物・逸話」の解説

特技は常に笑顔でいること。 趣味メイクショッピングお箸を使うのが上手。ミクサポで共働した荒井つかさは、月愛がミクサポに就任した際「ご飯食べ方から教えていた」と『ギャルズ・パラダイス』のインタビュー明かしている。 モットーは「人生楽しんだもん勝ち」。 好きなアーティストTWICE3年間のミクサポ在任期間中に行われた海外ラウンド2019年タイ戦のみであったが、この年のミクサポでタイ遠征したのは宮越愛恵のみで、10代だった月愛はGTでの海外遠征出来ないままミクサポを卒業した

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岩崎弥太郎」の記事における「人物・逸話」の解説

失敗した事業として、樟脳事業製糸事業東京水道がある。 日本初めボーナス出した人物である。明治9年世界最大海運会社である英国のピー・アンド・オー社との競争社員給与3分の1返上し経費削減実行しビジネス戦争勝利したため社員年末賞与支給した

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孫亮」の記事における「人物・逸話」の解説

建興2年253年)、少帝孫亮一振り宝剣製造した小篆で「流光」と銘じた孫亮親族思い優しい人物とされ、以下の逸話がある。 甥の孫基孫亮治世宮中仕えた孫亮御馬盗んで乗ったという事で、獄に下され裁判付された。孫亮刁玄に「皇帝の馬を盗んで乗った罪はいかほどか?」と尋ねた刁玄は「その罪科死刑にあたります。ただ父王(孫覇)さまも早く亡くなっておられますので、どうか陛下にはお哀れみ垂れられ、孫基さまをお赦しくださいますように」と答えた孫亮は「法というものは天下すべての者に平等に適用されるものだ。どうして身内だからといって特別の配慮してやることができよう。おまえは彼の罪を赦しやることのできる法的な道を考えるべきであって、どうして私に感情論迫ろうなどするのか」と言った刁玄は「元来恩赦にはその範囲大小ございます。ある場合天下全体に及び、また千里五百里といった範囲恩赦もあって、その及ぶ範囲陛下御意のままなのでございます」と答えた孫亮言った。「人を納得させるには、そうでなければならぬ」。そこで孫亮宮中範囲恩赦行い孫基はそのため刑を免れることができたという。 兄の孫奮は、諸葛恪死に乗じて政権奪取してやろうと考え建業進出しようとした。諫言行った謝慈を殺害したため庶民落とされた。後に孫亮孫奮許してやりたい考えた。「斉王奮は前に吏の殺害坐し廃され庶人となり、赦令連なって独り赦されていない。たとえ未だに復た王とするのが妥当ではなくとも、どうして侯としないのか?また他の兄弟部将となって江渚に列在しており、孫奮だけがどうして問題とされるのだ?」と言い孫奮章安侯に封じた神童であったという噂もある。 皇帝在位中のある日孫亮梅の実蜂蜜につけて食べたくなったので、宦官倉庫から蜂蜜取ってこさせた。宦官蜂蜜倉庫から取ってくるが、その蜂蜜中にはネズミの糞が入っていた。宦官は「倉庫役人がこれを渡したと言い倉庫番役人は「渡していない。それは宦官用意したものだ」と言う双方言い分異なるので、裁判沙汰になるところであったが、孫亮は、「その様な事はいちいち裁判にかけなくてもすぐに分かると言い蜂蜜中に入っていたネズミの糞を2つ割ってみせた。そして「もし初めからこの糞が蜂蜜中に入っていたのなら、糞は中まで湿っていたはずだ。しかしこの糞は中は乾いており、今になって中に入れられたものである事は間違いない。つまり宦官言っている事がおかしい」と推理し、それを聞いた宦官倉庫番陥れるために自分がやったと認めた。また『江表伝によれば孫亮倉庫番役人呼びつけるが、役人詰問するではなく、「この容器がある上に、さらに覆いがかけてあって、ネズミの糞が入るようなものではない。お前はなにか宦官恨み持たれているのではないか?」と尋ねた役人は「以前、その宦官宮中用いている敷物横領持ちかけましたが、宮中で使う敷物の数は決まっているので渡しませんでした」と答えた。そこで孫亮宦官詰問し全て白状させた。

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尼子誠久」の記事における「人物・逸話」の解説

『陰徳太平記』『雲陽軍実記』といった軍記物では、誠久の傲慢な振る舞いを表す逸話見られる。 晴久の祐筆秘書書記)の末次讃岐守は鼻が大きかった、それを見た誠久は「お前は武名高くないくせに、役に立たない鼻だけが高い」として暴行加え、鼻を砕いた。 誠久は「館前、目の届く限り乗馬無用」(自分の目の届く範囲内では下馬せよ)という命令下し尼子領内の者たちが大変迷惑した。それに反発した熊谷右衛門という武将が、牛の背に鞍を置いてまたがり鷹狩り最中の誠久の前を通り過ぎた。誠久が家臣通じて下馬命じると、熊谷は「下馬の事は知っているが、だから馬ではなく牛に乗っている」と平然と言い放ち太刀の柄に手をかけてにらみ返したので、誠久の家臣たちは引き下がるしかなかった。 中井平蔵兵衛尉という、髭が立派な事を自慢にしている武将がいた。ある日尼子誠久呼びつけられると、その髭をなじられ、暴行受けた翌日尼子晴久前に出仕した中井は、髭を片方だけ剃っており、晴久がそのふざけた態度大い怒った。それに対して中井は、誠久に髭の事で叱られたので剃り落す事にしたが、晴久も知っている立派な髭をすべて剃るのは晴久に対して無礼になるとして、片方だけ剃った述べたいずれも後世の創作であろう思われるが、誠久の傲慢な態度に他の尼子家臣らが辟易しており、あるいは晴久と新宮党二頭政治状態によって弊害生じていた事を、よく表している。

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後廃帝 (南朝宋)」の記事における「人物・逸話」の解説

劉昱の母の陳妙登明帝の妃となる前は道児の妾であったことから、劉昱道児の子であるという噂が絶えなかった。劉昱自身李将軍自称した劉昱残虐な性格であり、幼い頃から自分命令従わないものは殴打するという調子だった。皇帝即位した後も、殺人好み毎日のように街に出ては自ら凶器持ち歩いて手当たり次第に人を殺し殺人をしなかった日は悶々としていたという。ある時、ニンニクばかりを食べている人間の腹はニンニク臭いのかを調べるために人間の腹を割いたり、たまたま通りかかった妊婦の腹が気になり切り裂こうとしたり(これは医師の徐文伯という人物針治療により早産成功し未遂終わった)と子供ながらにして残虐極めた人物であったしまいには蕭道成の腹を矢の的にしようとした。 以上の逸話から、後廃帝劉昱中国史屈指の暴君とされているが、これらは蕭道成による奪正当化するために暴虐ぶりが誇張されている可能性はある。

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一柳直末」の記事における「人物・逸話」の解説

直末の母らくには、直末の死を悼んだ豊臣秀次から800石の知行地与えられた。この際所領宛がい状は、女性相手というためか漢字がほとんど使われておらず、主にひらがな構成されている(『一柳文書』)。 岐阜県関市富之保一柳にある一柳城大洞城)は、信長の命によって一柳直末愛宕山新たに築城したと伝えられる兵庫県小野市磐代神社は、小野陣屋創設時氏神として大山祇命祀ったものであったが、宝暦年間1751年 - 1763年)に藩主一柳末栄が、一柳家基礎築いたとして一柳直末磐代明神)と、その子松千代真栄霊神)を合祀した。同神社は直末戦死の日に当たる3月29日例祭日としている。 天正7年1579年)、秀吉姫路城改修行っていた際に、秀吉と直末が縄張りめぐって言い争いになったといい、直末の意見通り作られ曲輪は「市助曲輪」と呼ばれたという(ただし現代伝わっていない) 鎌倉時代粟田口吉光の作になる短刀厚藤四郎」(現在は国宝)を所持していた。厚藤四郎室町時代には足利将軍家伝えられていたが、流出したものを本阿弥祐徳が購入し、祐徳から直末に譲られたという。直末ののち黒田孝高の手渡り豊臣秀次献上された。

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徳川家慶」の記事における「人物・逸話」の解説

松平春嶽慶永)は『逸事史補』で家慶を「凡庸の人」と評している。趣味没頭し幕政疎く家臣意見聞いても「そうせいと言うのみであったことから、「そうせい様」と渾名された。ただし、父・家斉大御所時代には実権無かったためにそう答えるしかなかったとも言われる確かに家慶は自ら政治行なうことは乏しかったが、人材を見る眼と登用する時期見極める時勢判断優れていた。家斉50年長きにわたる治世幕政腐敗弛緩したが、父の死後その腹心である三悪人らを一掃して水野天保の改革実行させ、改革2年失敗すると、その後任に当時24歳阿部正弘大抜擢するなど、電光石火の人事断行しており、また庄内藩などに対す三方領知替え中止決断するなど、将軍としてある程度指導力発揮していることなどから、暗君とは言い切れない側面もあった。 『続徳川実紀』では「性質沈静謹粛にして、才良ましまし」と評されている。 子女家定、慶昌ら1413女を儲けたが、ほとんどが早世し、20歳超えて生きたのは家定だけであった。さらに家定病弱実子を残さなかったため、家慶血筋断絶している。 『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体によれば家慶歴代将軍中でも推定身長は154.4センチメートル小柄で独特の体つきであった。頭が大変大きく、6頭身で顎が長かった。ゆえに、現存する肖像画家慶生前特徴をかなり忠実に描写したものと推定されている。 毛髪などの調査結果血液型B型であった[要出典]。 ミトコンドリアDNAハプログループM7aであった墓所発掘の際、絹製の敷布団2枚が見つかっている。絹生地甲斐国谷村山梨県都留市谷村)で生産されていた「郡内縞」である可能性が高いと推測されている。 父・家斉とは不仲であったと言われる家斉日蓮宗信仰していたのに対し家慶浄土宗信仰していたこと、家斉大御所となってからも権力握り続けたこと、家斉寵臣たちが家慶の四男である家定毒殺しようとしているとの噂が流れていたことなどからも、2人関係性窺える日光社参および巡見使派遣行った最後将軍である。 家慶将軍職在位期に琉球王国から派遣され慶賀使謝恩使が、江戸時代最後のものとなった絵画優れていたと伝わり直筆の絵が残されている。 ある家臣が腰に差した大小の刀が重いと嘆くのを見て武芸奨励し、4か月の間に8回も武術上覧会を開催している。 側室お琴の方は、水野忠央幕政参加するための糸口として大奥挙げ家慶当時50代達していたもの寵愛した。しかし生まれた2男2女は夭折した家慶死後お琴の方は落飾し、桜田門屋敷過ごしていたが、しばらくして改修工事が行われた際に大工の町男と密通し、後に死去した病弱障害のあった家定ではなく正室の甥にあたる慶喜将軍したがったという。 家定障害治そうと、今日でいうリハビリやらせていたが、思わしい効果得られなかった。 家斉死後家斉派によって家慶嫡子家定排斥動きがあった。このため家慶水野忠邦と共に家斉派を粛清した。 父・家斉同じく焼き魚添え物になる生姜大好物で、天保の改革の際に生姜倹約のために食膳に上らなくなったことについて憤慨したという。 個人の紋は、丸ではなく、外は八角内側が円で囲った三葉葵である。

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脇坂安治」の記事における「人物・逸話」の解説

賤ヶ岳の七本槍の中では最年長武将である。 中務少輔時代京都伏見宇治川支流の島のような場所に下屋敷構えた中務少輔唐名で「中書」と呼んだことから、脇坂には「中書ちゅうしょ)さま」という別名がつき、下屋敷のあった一帯を「中書島」と呼ぶようになったといわれる安治が父・安明のために建てた京都妙心寺塔頭隣華院は、4代脇坂安照まで脇坂家菩提寺となった龍野神社では、安治祭神として祀っており、安治賤ヶ岳の戦い使用した伝えられる十文字槍収められている。 2004 - 2005年製作され韓国ドラマ不滅の李舜臣』では、主役李舜臣日本側における最大敵役(「日本水第一名将」「日本軍最高の名将扱い)として登場する

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品川弥二郎」の記事における「人物・逸話」の解説

戊辰戦争の際、新政府軍歌ったトコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、品川作詞をしたとされる[要出典]。 松陰品川を「温厚正直で人情厚く、うわべを飾らない抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評している[要出典]。 同時代ジャーナリストである鳥谷部春汀は、明治24年1891年)の選挙干渉における品川の手段を全く公正明大欠いたのであると難じ、選挙干渉以後言動陸奥宗光への嫉妬復讐私情制せられ「堂々たる大丈夫の気象なし」と評する。さらに品川の師である吉田松陰比較して同じく多感であり「怒りやすく泣きやすき奇癖あり」とするが、誠実さという点では「未了疑問なり」と書く。 維新亡くなった志士たちを顕彰するため、京都尊攘堂建立して京都帝国大学寄贈した[要出典]。品川死後山口県下関市功山寺にも建立されている[要出典]。 東京都千代田区九段南田安門前(九段坂公園内)に銅像がある。高村光雲監督によるという[要出典]。 大日本山林会初代幹事長務めた[要出典]。 大日本水産会 第一次幹事長初代会長に相当)を務めた任期明治15年1882年2月12日 - 同19年1886年4月26日)。 大日本農会初代幹事長務めた[要出典]。 1885年明治18年)に、塩原温泉塩釜の地(栃木県那須塩原市)に別荘建てた。この別荘は、塩原温泉における別荘建築として最古属し、現在は「品川弥二郎の旧念仏庵」として、市の有形文化財指定されている。

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足利義尚」の記事における「人物・逸話」の解説

美し顔立ちから「緑髪将軍」と称された。古記録によると「御容顔いとも美しく、すきのない玉の御姿」とある。 一条兼良から政道和歌などを学ぶなど、文化人としての評価は高い。和歌に熱心で、文明10年1478年)頃から盛んに歌会主催した文明15年1483年10月には『新百人一首』撰定し、さらに姉小路基綱三条西実隆飛鳥井雅親宗祇などの歌人結集して和歌『撰鈔』の編纂試みたが、義尚陣没により未完終わった文明16年1484年)には、摂津国多田院に、『多田院廟前詠五十和歌』を奉納した。他に『常徳院集』など数種の歌集が伝わる。 小川剛生により2013年、『金槐和歌集』の貞享本を編集した柳営亜槐」に比定された。 母・富子は義尚諸事に関して過度なまでに干渉したため、義尚は富子を避けようになった伝えられる文明8年1476年)の室町御所焼失後に富子とともに父の隠居であった小川殿移って将軍御所とするが、間もなく父・義政とは側室徳大寺公有の娘)をめぐって対立したため、義尚政所執事伊勢貞宗屋敷へ移る。その後義政文明13年1481年)に別の山荘移って14年1482年)に東山山荘慈照寺)を造営、これを知った義尚小川殿に戻るが、母との対立翌年には再度伊勢邸に戻るなど、足利家家庭内不和であったと見られる将軍就任当時幕府権力回復邁進して名君期待されたものの、晩年結城政胤・尚豊兄弟大館尚氏二階堂政行一部側近幕政委ねたため、側近専横将軍権力弱体化招いた一条兼良は、義尚側近重用危惧持ち、「近習者をえらばるべき事」と諫めたとされるまた、晩年酒色溺れてと酒ばかりを飲んで生活をする不思議な……」と雑事記には記されている。 死後遺体管領細川政元や母・富子に護られ京に帰還したが、さながら凱旋将軍のような隊列であった記録されている。 義尚淳和奨学両院別当就任しているが、左記した両院別当とともに任じられる源氏長者任命宣旨受けていないため、正式に源氏長者には就いていない。 義尚出生に関して後土御門天皇落胤との噂があったと伝えられる応仁の乱当時天皇将軍御所避難するために同居しており、義政不仲だった日野富子との関係が噂されことによる義尚資性温厚にして文武練達す。不幸有為の才を抱き早世す。天下これを惜しむ。 葬儀に際して遺骸腐臭を防ぐ目的で、口と目と鼻に水銀注入された。

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井伊直弼」の記事における「人物・逸話」の解説

井伊家庶子には他の大名家養嗣子家臣養子領内古刹法嗣となった者もあり、直弼にもそういった養子縁組の話はあった。天保5年1834年)、弟・直恭とともに他の大名家養子候補となり江戸呼ばれて1年間滞在した。直恭は日向延岡藩内藤家養嗣子となったが、直弼養子入りはかなわなかった 天保14年1843年)、坂田郡長浜大通寺から直弼法嗣として迎えたいとの願い彦根藩出されており、直弼大い乗り気になっていた。しかし、藩では直弼実子の無い世嗣井伊直元養子にとの案が浮上しており、この願い聞き届けられなかった。直弼同年9月24日付の家老犬塚正陽宛の書状養子志願思い止まった旨を記している。 部屋住み時代国学曹洞宗の禅、絵、和歌兵学居合槍術などの武術茶の湯能楽など修練没頭していた。居合では新心流から新心新流開いた茶の湯では「宗観」の名を持ち石州流中に一派確立した著書茶湯一会集巻頭には有名な一期一会」がある。 能楽方面では新作狂言『鬼ヶ宿』の制作や、廃曲となっていた『狸の腹鼓』の復曲(いわゆる彦根』)を試みるなど、狂言作者としての才能持っていた。 歌人としては私歌集廼四附』(やなぎのしずく、国の重要文化財井伊家文書」のうち)を残している。 直弼養父となった兄・直亮との仲は決し良好とは言えなかった。直亮は直弼を疎んでおり、また直弼も直亮を警戒して、藩の重役彦根友人たちの手紙の遣り取り控えるなど、非常に気を使っていた 弘化3年1846年)に直弼彦根にいた側室侍女たち彦根から江戸呼び寄せたいと願い出た際、江戸に来た侍女人数希望より少なかったため、直弼は直亮の圧力疑っている。 弘化4年1847年正月26日行われた徳川家斉七回忌法要井伊家は「御先立」役の順番当たっており、直弼世嗣として参列する予定であった。「御先立」は衣冠着用義務付けられていたが、装束新調許されなかった直弼亡兄・直元の装束着用することにしたが、直前になって直亮から使用差し止められたため、瘧(おこり)と称して引きこもらざるを得なかった。 直弼正室松平昌子縁組願が幕府提出されたのは 弘化3年1846年10月13日だが、この直前9月幕府から12代将軍・徳川家慶養女・精(あき)姫(有栖川宮韶仁親王第3王女)を直弼正室にという縁談持ち込まれていた。井伊家はこの縁談持ち上がった直後から直弼昌子縁談進め将軍家との縁組辞退している。吉田常吉は、辞退理由将軍姫君輿入れによる多額出費藩主・直亮が嫌がったためではないかとしている。

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上村彦之丞」の記事における「人物・逸話」の解説

同郷東郷平八郎が「彦之丞ほど感情激しい男は居らん」と称したように、上村短気喧嘩早く尚かつ酒豪であった海軍内では多少浮いた存在ではあったが、情に厚く部下思いであった日清戦争当時殴り合い演じた相手気に入り、後にイギリス留学できるよう取り計らっている。第二艦隊司令長官時代先任参謀務めた佐藤鉄太郎はかつて干戈を交え庄内藩第一艦隊司令長官時代参謀である今村信次郎常盤盛衛それぞれ米沢藩会津藩出身である。そして軍事参議官時代副官一人会津松平家当主である松平保男であった東京都目黒区に「上村坂」と云う地名があるが、これは上村屋敷があった事に由来する

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吉田稔麿」の記事における「人物・逸話」の解説

謹直重厚な人物であったといわれ、その秀才ぶりは松下村塾でも有数のものであった。 以下、牧野謙次郎著『維新伝疑史話』より 山県有朋自分は稔麿に比べてどの程度劣っている高杉晋作尋ねると、晋作笑って、「(人として比べられるくらい)同等というのか、吉田座敷にいるとすれば、お前は、玄関番すらない味噌も糞も一緒にするとはこのことだ」と答えた。 稔麿が、戯れに、放れ牛の絵を描き、それに烏帽子木刀棒切れ添えて描いた。有朋が、それは何かと尋ねると、稔麿は、「高杉俗事こだわらない俊才で、誰もつなぎとめることはできない、これは、野に放たれた牛のようなのである久坂玄瑞雰囲気立派なもので、烏帽子をかぶらせ、大きな屋敷に座らせれば絵になるだろう。入江九一は、(彼らに比べれば少々劣るところもあるが、まあ、木刀くらいのものではある。斬ることはできないが、脅しには使えると言った。有朋は、残り棒切れは何かを尋ねた。稔麿は、「それはお前だ、凡庸で、何のとりえもない」と答えた

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沢島忠」の記事における「人物・逸話」の解説

美空ひばり加藤喜美枝母子信頼され人物家族ぐるみ付き合った。また萬屋錦之介親友岡田茂の子分、弟分のような人だった。 沢島は、天皇呼ばれた渡辺邦男監督可愛いがられたが、渡辺組のスクリプター渡辺右腕とも言われ高松冨久子熱烈な恋に落ちた当時年間10本の映画撮り早撮り名手として知られ渡辺は、助監督の沢島に高松持っていかれて仕事にならないと、烈火のごとく怒り二人結婚猛反対した。渡辺天皇激怒にもひるまない二人に、渡辺後見人ヤクザの大親分まで出て来て「渡辺天皇逆らった映画界生きていけないぞ」と脅され遂に渡辺から破門され映画界から去って二人でシナリオでも書いて生きて行こうとした。ここで「何もかも俺に任せろ」と出て来たのが当時東映京都撮影所製作部課長だった岡田茂岡田二人結婚させて沢島を萩原遼チーフ助監督配置転換させ、以降一年半16本の萩原作品担当させた。 沢島の現代的センスあふれる演出力を岡田買われ1957年忍術御前試合』で監督デビュー1958年萬屋錦之介主演江戸の名物男 一心太助』の試写を観た加藤喜美枝が、沢島の演出力を高く買い、岡田に『ひばり捕物帖 かんざし小判』の監督に沢島を起用するよう申し入れ、沢島は初めてひばり映画手掛けた。この映画で「時代劇ミュージカルやらせて下さい」と岡田願い出て全員反対する中、岡田がこのアイデア採用しそれまで時代劇とは違うスピード展開のミュージカル調沢島時代劇仕立てた本作同時公開され大映オールスター映画忠臣蔵』を凌ぐヒット飛ばし、「巡洋艦が敵戦艦破った」といわれた。この映画成功により、ひばり母子気に入られ以降13本のひばり映画任された。ひばりは東映京都撮影所での仕事の時は、高級ホテル常宿にしていたが、部屋サンマ焼いて食べホテルから苦情出て以後、沢島宅に寝泊まりするようになったその間、沢島夫妻ホテル住まいをした。 この後ヒット作出せず、不調に陥っていた1963年岡田プロデュースによる『人生劇場 飛車角』の監督抜擢され斬新な演出大ヒット導き以降10年続いた東映任侠路線」の魁となった本作は沢島、岡田の他、鶴田浩二佐久間良子代表作としても知られる加藤泰代表作として知られる真田風雲録』(1963年)は、福田善之戯曲の映画化で、舞台を観に行った中村錦之助(萬屋錦之介)が気に入り、沢島とのコンビ想定して会社企画提出したものであったが、沢島が福田脚本揉め監督加藤交代になった1964年、ひばり母子岡田新宿コマ劇場座長公演演出を沢島にお願いしたい無理難題言ってきた。新宿コマ東宝系の劇場で、沢島は当時東映専属契約結んでおり他社仕事出来ないしつこく頼んでくるので岡田弱り果てやむなく東宝から淡島千景東映借りその代わり沢島を新宿コマに貸すというバーター案で話をまとめ、沢島の貸し出し決めた美空ひばり神戸芸能社入っていた浅草国際劇場での興行をやめ、新宿コマ劇場座長公演切り替えたのだが、加藤喜美枝がこの契約田岡一雄山口組組長内緒してしまい田岡逆鱗触れた新宿コマに移るということは神戸芸能手を切ることになる。加藤田岡怒り鎮めてもらおう岡田泣きつき、二人で療養中田岡訪ねて何とか田岡怒り収めた。 沢島は親友萬屋錦之介共々時代劇が大好きで、平和主義者で、愛妻家の沢島はヤクザ映画が嫌いで、撮影所暴力団常時徘徊する雰囲気に耐えられず、さらに岡田ヤクザ加えエロ路線切り換えたことから、東映居場所失い東映退社東宝系の東京映画移り以後22年間、亡くなるまでひばりの舞台脚本演出など、舞台演出を主に活躍した東映歴史からは消えたが、岡田との師弟関係61年続き晩年岡田話し相手になり、岡田告別式後の出棺では、降旗康男伊藤俊也八名信夫らと岡田担いだ

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皆川睦雄」の記事における「人物・逸話」の解説

東北人らしい、物静かでまじめ、粘り強い性格だった。 皆川人となりを表すエピソードとして以下の話がよく知られるアンダースロー転向した1956年西鉄ライオンズとの試合で8番打者和田博実を3ボール0ストライクにした際、皆川は「どうせ打ってこないだろう」と真ん中に軽いストレート放ったが、主審二出川延明に「ボール」と判定される捕手である野村当然のこと皆川も「ど真ん中なのになぜボールなのか」と猛抗議したところ、二出川に「気持ち入っていないからボールだ!」と一喝された。この無茶なジャッジ野村憤慨したものの、当の皆川逆に感銘を受け、以後投球で一球たりとも手を抜かないようになり、色紙にも「一球入魂と書ようになったという。 まじめ、摂生ぶりを示すエピソードとして次のような話がある。 登板の日は自宅で必ず餅を食べ、「腹持ちがいいんだ」が口癖だった。 車の運転はせず夫人送られ球場入り勝てば次も同じ道を通りゲン担ぎをした。 夫人特製長袖パジャマを夏も離さず冷房もかけなかった。 薬師寺管長高田好胤知遇を得、高田講演会では皆川行動共にする機会多かった皆川長男の結婚式には高田駆けつけ祝辞述べたという。 豊田泰光とは妙にウマ合い食事をよく共にしたという。豊田は、「山形出身皆川東北人無口という昔のイメージ通り人間で、酒も飲まない弾んだ会話というものもなかったが、それがよかった。とにかく一緒にいるだけでほっとした」「万事控えめな男と私(豊田)の組み合わせを、周囲は不思議がったものだ」と語っている。

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彭超」の記事における「人物・逸話」の解説

376年鄄城県城南に魏の征西将軍鄧艾の廟を建てた

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神保長治」の記事における「人物・逸話」の解説

長治家系神保相茂系統紀伊神保氏)や神保氏張系統とは別系統である。『寛政重修諸家譜によれば系譜山城守弾正忠周防八郎対馬守八郎─政長─長利重利─長賢 と続く。さらに呈譜(神保家幕府提出した系図)では周防八郎対馬守八郎の間に惣右衛門長誠がいて、これが神保長誠であり、その子対馬守八郎長重であるとしているものの、長誠が応仁年中の人であることなどを理由にこの家説を「とらず」としている。 系図上は甲賀流忍術中心となった甲賀二十一家」の流れを汲む長治神田小川町屋敷構えたことから、そこを通っていた小路が「神保小路」と呼ばれるようになり、明治入って辺り一帯神保町名付けられることになった

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徳川治貞」の記事における「人物・逸話」の解説

名君誉れ高い熊本藩8代藩主細川重賢並び紀州麒麟肥後鳳凰」と賞され名君で、紀麟公と呼ばれた紀州藩財政再建するため、自ら綿服粗食望んだ。冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄え築いたという。このことから「倹約殿様」ともいわれる

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松井かれん」の記事における「人物・逸話」の解説

趣味ショッピングエレクトーン硬筆特技長距離走アナウンサー目指すようになったのは、野球部試合場内アナウンス聴いたことがきっかけだったという。スリーアローズ関連のイベント鈴鹿8時間耐久ロードレースプロモーションイベントではMC務めたことがある鈴鹿サーキットクイーン同期だった中橋舞とはFMなばり(現:adsFM)のナビゲーターという共通点がある(松井2008年6月 - 10月地域ナビゲーターとして出演中橋2014年10月からで、いずれも出演期間異なる)。なお、在籍していた鈴鹿サーキットクイーン33期生は5人全員2年間で卒業したが、誰一人活動辞退する者もなく2年間の任期終えたサーキットクイーン33期生が最後となっている。

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斯波高経」の記事における「人物・逸話」の解説

足利一門中最高の家格持ち将軍家同格自負する斯波家当主として非常に誇り高かったとみえ、細川清氏後任として幕府執事(後の管領)職に推された際に、「執事家人高氏外戚の上杉氏などがなるべきであって当家には相応しくない」と難色示したという。しかし、結局は自身の子である義将執事職に就ける形でこれを受け入れ幕府実権握った『太平記』において新田義貞藤島にて討ち取った際、鬼切鬼丸の二振り名刀手に入れたとされる後日尊氏が「それは源氏重代家宝だから」と引渡し求めたが、高経は「焼けてしまった」と言って焼けた太刀渡した尊氏真相を知ると非常に機嫌損ねたという。後年、高経が失脚する鬼丸足利将軍家の手渡り鬼切斯波一族最上氏伝来した。 高経が政権掌握していた時期佐々木道誉任せた五条橋架橋工事遅々として進まないのを見かね、高経が全て終わらせた。道誉面目潰されたと思い後日将軍邸で行われた高経主催花見が行われる際、初め出席するとの返事をしたが、当日になってこれを違え自邸盛大な花見催した。それは将軍邸での花見むほどで、今度は高経が面目潰され格好になった讒言受けて窮地陥った高経が義詮向かってこの道朝(高経)を除くのであれば刺客一人我が邸宅送り込めば済む事ではないですか。何故わざわざ軍勢以って討とうなされるのか」と切実に訴えたが、義詮返事は「今の世の中は余の思いのままにならぬのだ。ここは穏便に越前帰国してくれまいか」と頼りないものであった。これに憤慨した高経は越前下向決意し黙して都を落ちるのを潔しとせず、自邸火を放ち将軍邸を襲う振りをして堂々と帰国したという。 これらの真偽の程はともかく、高経が足利一門名家として非常に誇り高く尊氏道誉決して仲が良くはなかった事を伝え逸話である。 その一方で『太平記』では、高経が政権掌握した際に「道朝入道(高経)殿はなんといっても鎌倉幕府全盛期生きた御方であるから昨今バサラ連中とは違って礼節法度弁えている」と、高経政権武士達から期待以って迎えられた事や、その失脚の様が名臣屈原重ねあわされているなど、同情的描かれている。

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問田大方」の記事における「人物・逸話」の解説

夫・隆景は、黒田如水官兵衛)と親交があった。『黒田家譜』には、隆景のことも記載されており、内室問田大方)と接するときは、肩衣・袴着けて、賓客をもてなすよう態度をとり、平生余り戯言も言わなかったとされる。だか、小早川隆景と妻とは、仲がよかったと言われているが、婿養子であることの気遣いから礼人のごとくであったという。。また、子がなかった理由について「(隆景は)いかなる考えからか、一生妻や妾を近づけなかったので、子がなかった」との記載がある。さらに、「(隆景の)内室早く亡くなりその後再婚しなかった」とある。しかし最後記述に関しては、内室問田大方)よりも隆景の方が先に亡くなっているため信憑性問われる

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前田孝貞」の記事における「人物・逸話」の解説

可観小説』によると、生母安見氏は前田利常が、佐久間右衛門の姉に産ませた子で、内密に安見元勝養女とした。そのため孝貞は利常の外孫であるという。 藩主前田綱紀の娘豊姫養育任された。豊姫孝貞の孫の孝資に嫁いでいる。また、祖母祖心尼の墓を立て墓石に孫前田考貞修造刻まれている。 医師儒学者向井元升が、動植物食品400種について解説した本草書庖厨備用倭名本草』は、藩主綱紀の健康を心配した孝貞求めで、食膳食品の良毒について執筆し寛文11年1671年献上したもの。 茶道宗和流2代金森方氏の門人であった

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北畠具房」の記事における「人物・逸話」の解説

かなりの肥満体であり、馬に乗ることも出来なかったといわれる。父・具教と大河内城篭城した際には、敵方織田軍から「大腹御所の餅喰らい」とからかわれている。このような具房に、塚原卜伝高弟・具教は不満を感じていたらしく、『勢州軍記』は具房は父から疎外されていたと記している。 昌教という落胤があったとされており、昌教の名は北畠氏系図でも確認できる。ただし具房には嗣子無く、そのために中院通勝次男・親顕を養子迎えたとされていることから、昌教の実在には疑問もある。 丹波柏原藩系図拠ると具房には一女があり、信雄に養われ織田高長寵臣中山正就に嫁いで一男一女生んだとされる

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人物・逸話

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アーガー・モハンマド・シャー」の記事における「人物・逸話」の解説

アーガーは残虐な一面があったと伝わる。自らを去勢したアフシャール朝と父を殺したザンド朝最後君主いずれも捕らえて拷問にかけた後に処刑している。また、チフリスケルマーン市民虐殺した大量に奴隷にしたりしている。 表 話 編 歴 ガージャール朝君主 アーガー・モハンマド・シャー1796-1797 / ファトフ・アリー・シャー1797-1834 / モハンマド・シャー1834-1848 / ナーセロッディーン・シャー 1848-1896 / モザッファロッディーン・シャー1896-1907 / モハンマド・アリー・シャー1907-1909 / アフマド・シャー1909-1925 典拠管理 FAST: 1804967 GND: 124384951 ISNI: 0000 0000 5505 0882 LCCN: n85046640 TDVİA: aga-muhammed-sah VIAF: 30469576 WorldCat Identities: lccn-n85046640

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津軽為信」の記事における「人物・逸話」の解説

弘前城東門近く弘前文化センター正面入口前には、津軽為信銅像がある。戦前まで弘前城本丸にあった銅像は、戦時中金属供出により撤去され銅像出陣といわれている。2004年新たな銅像が今の位置設置された。 嫡男・信建が京に在番中に病に倒れた際、津軽にいた為信は、自身も病に陥っていたにもかかわらず、信伴って京まで見舞い訪れそのまま同地没している。親子兄弟最期別れがしたかったから、という見解もあるが、信建が診察受けていた名医自分診てもらいたかったからという説もある。いずれにせよ、その年の10月に信建は在京のまま死去しその2ヵ月後に為信も京で死去した大浦津軽)氏を1代で大名引き上げた為信は、当時からその実力を高く評価されており、「天運至り武将其の器に中らせ給う」(『津軽一統志』)とある。 岩手県久慈市では地元出身偉人とされており、久慈秋祭りには津軽為信題材とする山車が出る。 為信が着手して完成させた弘前城には、「館神」という守り神の社があった。この社は稲荷社であったが、実はその稲荷様の後ろ厨子があり、その厨子一度開かれることがなく、「館神」はその中に安置されていると言われていた。明治になってその「開かずの宮」の扉が開けられると、中には豊臣秀吉木像入っていた。為信は、幕府による改易危険を顧みずに、津軽家大名にしてくれた秀吉城内祀っていたのである肖像画銅像などから見て取れるように、立派な髭や兜の前立て錫杖トレードマークである。 豊臣秀吉から太刀友成」を拝領した。この太刀歴代藩主受け継がれた後に、最後藩主津軽承昭高照神社寄進2020年現在神社横に建設され高岡の森弘前藩歴史館収蔵されている。

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ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の記事における「人物・逸話」の解説

カトリック教会公用語ラテン語、また常用語のイタリア語もちろんのこと母語ドイツ語の他にも、フランス語・英語・スペイン語での会話ができ、片言ながらポルトガル語素養もある。また古代ギリシア語古典ヘブライ語文献読解することもでき、フランス語第一外国語だったこともあり特に堪能で、1992年以来フランス倫理学アカデミー会員でもある。 趣味ピアノで、特にドイツ語圏の作曲家であるモーツァルトとベートーヴェンの曲を好んで演奏する。またサッカー好きで、ドイツFC バイエルン・ミュンヘンファンクラブ会員であることも知られている。 映画『スター・ウォーズシリーズ』登場する悪役イアン・マクダーミド演じ銀河帝国皇帝パルパティーン外見がそっくりなことが、2005年ニューヨーク週刊紙The Village Voice』で取り上げられた。ネット上には多くの「指先からフォースライトニングを出すベネディクト16世」「ライトセーバーを持つベネディクト16世」などパロディコラージュが作られた。 異例自発的理由による退位表明した日の夜、落雷サンピエトロ大聖堂バシリカ尖塔直撃した2020年9月4日生後93年4か月16日になり既存レオ13世超えてローマ教皇経験者史上最高齢となった

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蒲生賢秀」の記事における「人物・逸話」の解説

信長岐阜拠点にしていた頃は各地合戦に賢秀・氏郷親子お供させていたが、安土拠点にしていた頃になると、毎度出陣の度に賢秀を安土城留守居として残していたという(『氏郷記』)。 明智光秀勧誘拒絶した律儀さにより「日野頑愚どの」との異名受けた。しかし一方で安土城に火を放たず財物そのまま残し退去したので、明智方に日野城まで攻め込まれるのを恐れてそのままにしたと、臆病者小心者との評価もある。『老人雑話』に「日野蒲生殿は陣とさえ言や、下風おこる」(戦と聞いただけで臆病風にふかれる)という小唄紹介されている。臆病者説について、作家海音寺潮五郎六角家最後まで忠節尽くし日野城僅かな兵で籠った賢秀が臆病であろうずがない否定している。 神戸具盛の妻・関盛信の妻はいずれも賢秀の姉妹にあたる人物であり、その縁から両者織田信長によって追放された際は、身柄預かっている。

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ハイアン・グレイシー」の記事における「人物・逸話」の解説

カーウソン・グレイシー門下生であったヴァリッジ・イズマイウとは犬猿の仲であり、ナイトクラブ大喧嘩をしフロントチョーク絞め落されたこともある。 ハイアン曰く「我々一族マフィアと同じ。ファミリー人間負ければ必ず借りは倍以上にして返すとのことホイス・グレイシーDynamite!吉田秀彦との試合で、納得いかないレフェリーストップ負けになった際、先陣切って吉田討伐名乗り挙げた

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称光天皇」の記事における「人物・逸話」の解説

称光天皇行状問題多く後小松上皇足利義持をたびたび悩ませたと伝わる。主なものでは、天皇太刀や刀、弓の扱い好んでそれをもて遊ぶ事に拘泥し、金の鞭で近臣女官打ち据えたため、その行状聞いた義持上皇苦情を提している(『看聞日記応永23年6月19日条)。また、応永25年1418年7月天皇寵愛受けた内侍懐妊したのを自分の子では無く貞成親王の子だと騒いだため、上皇義持密かに調査依頼しその結果義持より事実無根として処理されるなどしている(『看聞日記応永25年7月14日条から19日条)。いずれにせよ男子恵まれなかった天皇後光厳流の断絶重圧感じていたらしく、それが父帝との確執繋がっていった。

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中村なん」の記事における「人物・逸話」の解説

幼い頃冨樫義博『HUNTER×HUNTER』が好きでその影響バトル漫画描いていた時期があった。とある出版社ネーム送り唯一「また持ってきてよ」と言われてしばらくバトル漫画描いていた。その出版社向けに「ワニの顔をしてワニ能力持った生徒先生と戦う」というバトル漫画描いたボツになった。 親に退職したことを打ち明けてなかった時があり、時々親から「仕事は順調?」という電話が来るようになり、その度に「めちゃくち頑張っているよ」と伝えた大学まで行かせてそして退職したことと「漫画家になる」と言った怒られるため、試行錯誤していた。しかし、退職から約3年後に親のもとに税金関係書類送られて来たことで「資格勉強している」と言った新人漫画賞入賞したことをきっかけに親に告白した。親には連載決まっていないものの「もうすぐデビューできるから」や「連載決まったと言って誤魔化していた。親からは「どうせすぐに打ち切られる」と言われた。 親に打ち明けた後も毎週のようにネーム送り続けた。そこから5ヶ月連載決まった。 『いじめるヤバイ奴』の内容過激さから周りに「頭おかしくなった?」と聞かれるようになり友人減った

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到漑」の記事における「人物・逸話」の解説

到漑身長八尺あり、行儀作法美しく立ち居振る舞い良く清廉潔白を志とした。節倹簡素を旨として、音楽美色を好まなかった。部屋には寝床があるのみで、女性侍らすこともなかった。自ら車輿礼服外して華美派手なことはしなかった。冠や履物10年1回変えるだけで、朝服は穴が開いたところを繕った。清路で呼ばれると、朝章を示すのみであった到漑温厚篤実人物だったため、特に武帝厚遇された。武帝囲碁対局するたびに、夕方から明け方及んだ到漑の邸の庭には奇石があったが、武帝戯れにこれを賭けて、『礼記一部とともに到漑与えたものであった到漑家族は仲が良く到漑到洽兄弟は特に仲睦まじかった。かつて到漑到洽一部屋に同居していた。到洽死後到漑は家を寺にして、生臭断って終身菜食した。到漑別に小室作り朝夕僧徒に従って誦経した。 蔣山に延賢寺があり、到漑俸給喜捨して創建されたものであった到漑交遊好まない性格であったが、ただ朱异・劉之遴・張綰とは志を同じくする親密友人であった到漑が家で病に伏せり、門に閑古鳥が鳴くようになっても、3人は相連れ立って到漑の家を訪問し、酒を置いて生平叙し、歓を尽くして去った当時の人は到漑到洽兄弟陸機陸雲兄弟喩えた。湘東蕭繹は「魏のときには双丁が重んじられ晋代には二陸が称揚されたが、今代の両到をどうしたものだろうか。また寒竹凌ぐ似ている」と詩を贈った

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劉顕 (梁)」の記事における「人物・逸話」の解説

劉顕幼くして聡明鋭敏で、王思遠や張融に賞賛されて「神童」と呼ばれた劉顕学問好み広く諸書渉猟した。任昉一篇の簡書を入手したが、文字欠落多く人々示して理解できる者がいなかった。劉顕はこれを『古文尚書』の逸篇の一部主張した任昉が『尚書周書調べると、その説のとおりであったため、任昉劉顕激賞した沈約経書史書10事を質問すると、劉顕はその9に答えた劉顕が5事を質問すると、沈約その2答えた陸倕はこれを聞いて「劉郎はとんでもない人だ。たとえ我が家陸機張華訪れたとしても、王粲蔡邕会ったとしても、このような解答はないであろう」と感嘆した劉顕が「上朝詩」を作ると、沈約はその美しさ傾倒して沈約居宅郊外新しく作ったときに、書人命じてその詩を壁に書かせた。 劉顕裴子野・劉之遴・顧協らと宮中同僚であり、お互いを師とし友とした。 劉顕博覧強記裴子野顧協上回った。あるとき北魏の人が古器献上したことがあり、隠され最初の字を当てる出題がなされ、正解できたものはいなかった。劉顕問題を読むや、遅疑なく解答し一字の差もなかったため、武帝はかれを賞賛した。

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安見元勝」の記事における「人物・逸話」の解説

鉄砲の技では稲富と名を等しくしたが、稲富違い強力の者だったという。大坂の陣右手の3指を失った後に人と手綱引きをしても、親指小指のみで負けることがなかった。 最も長じていたのは砲術であるが、和歌や書にも通じていた。 主君・利常の命でその娘を養女とし、この娘が後に前田対馬の妻となったと言われる。ただしこの娘が利常の娘というのは事実ではないとも考えられている。

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北条氏直」の記事における「人物・逸話」の解説

生存していれば翌年には秀吉より伯耆一国与えられ国持大名としても復活予定されていたと軍記物記載があるが、裏付ける史料等はない。但し、赦免後大阪において元国持大名であった織田信雄邸を与えられているので、将来的には国持大名への復活想定されていた可能性がある。 『北条記』では、「五世の氏直君はずいぶん判断力にも富んでいたが、惜しいかな虚弱な体質であったため、みずから裁決せず、人まかせにするあやまちおかしたために、ついにその家を失うこととなった」とある。 現在のところ、氏直発行文書家督相続以前の物も含めて264通が確認されているが、何故か北条」を名乗った文書は1通も存在していない(左京大夫氏直、見性斎氏直などと署名している)。 氏直は秀吉使者として小田原城開城説得あたった黒田孝高感心したとされ、家宝の「日光一文字」の太刀北条白貝などを贈っている。 浅倉直美は以下の理由から氏直の母が黄梅院ではなく側室の子であったではないか?とする説を唱えている。その根拠として、①黄梅院の父である武田信玄は娘が懐妊するたびに安産祈祷行っているが、氏直が生まれたとされる永禄5年にはその記録がない。②もし、氏直が黄梅院生んだ嫡子であるならば、元亀12年当時、(兄の死去により)事実上長男で、かつ他にも側室の子がいたにも関わらず今川氏真猶子となっているのは不自然である。③氏直の幼名国王丸」は、祖父・氏康の幼名伊豆千代丸」、父・氏政の幼名松千代丸」のいずれも受け継いでいない上、通説では異母弟とされる「国増丸」(後の太田源五郎)と共通する名乗りで、国増丸同母兄とみる方が自然である。これらの点から氏直は黄梅院所生ではなく、後に国増丸生んだ側室生母であろうとしている(浅倉黄梅院離縁されずに小田原に留まっていとすれば、後から男子を産む可能性もあるために国王丸こと氏直が養子出されるのは不自然ではないとする)。この浅倉に関して黒田基樹は「平姓北条氏系図」で黄梅院所生とされている氏房・直重・直定が、今日では側室の子であることが確定しているため、氏直に関して確実に黄梅院の子であるとは断定できないとした上で、①に関しては氏房らが黄梅院の子考えられていた時代には無視されていたが、現在では信玄祈祷黄梅院出産相関性があるとされている中で、氏直が生まれたとされる永禄5年安産祈祷がないのを記録欠落単純に考えて良いのか?という問題点はある。②に関して北条氏今川氏との関係から黄梅院生んだ嫡子猶子として送り込んだ可能性もあるが、庶長子猶子としたと考えた方が自然ではある。③国王丸と庶出である国増丸の名前の共通性軽視できない。として、浅倉説の成立する可能性が高いとしている。なお、浅倉は氏直と源五郎母として源五郎太田氏入嗣以降にその補佐をした笠原康明の妹であった可能性指摘している。

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周撫 (東晋)」の記事における「人物・逸話」の解説

意志強固さは父の周訪思わせるが、将帥としては及ばなかったと評されている。 周撫は益州30年余も滞在し威光恩恵をもって治めた司馬勲益州割拠する野望があったが、周撫の存在怖れ実行できなかった。周撫の死後憂いなくなった司馬勲反乱起こした書聖として名高い王羲之親交結んでいた。草書書かれた『十七帖』『遊目帖』は周撫に宛てた書翰多数占め内容からかなり打ち解けた間柄だったことが窺い知れる

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鄧遐」の記事における「人物・逸話」の解説

意気盛んで力は人並み外れており、当時の人は樊噲再来評していたという。 襄陽城の北にある沔がいて、人々危害与えていた。これを聞いた鄧遐は、剣を持って入った鄧遐の足にまとわりついてきた。鄧遐は剣を振るって退治した

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王舒」の記事における「人物・逸話」の解説

永嘉元年307年12月王敦秘書監任じられ洛陽帰ることになった。しかし、経路険しく寇難が予想されたため、王敦は妻の襄城公主親族らに委ねて軽騎洛陽向かった輜重には王敦荷物財宝多く残っており、親族らは競ってこれらを取り合ったが、王舒だけは見向きもしなかった。王敦は後にこの行為知り王舒高く賞した王敦の乱の後に、王含らは逃走先を決める際、王含荊州刺史王舒がいる荊州、王應は江州刺史王彬がいる江州主張した王含王敦王彬の間に諍いがあり、荊州に行くのが最善だと述べた。王應は強き者流され強さ王彬にあり、王舒規律厳しいため、自分らを匿えないと述べた結局王含らは荊州に赴き、王舒によって長江沈められた。王彬王含らが来ることを予期して、船を用意して待っていたが、事の顛末知り、これを非常に残念に思った会稽国内史に任じられた際、王舒会稽の『会』が父の名重なるため、他郡への赴任上疏した。朝廷会稽を鄶稽と改めたため、王舒やむなく従った王敦司馬睿上表して、王舒人品正にして、真に風雅な人であり、弟の王邃より優れている評した『世説新語』注釈した南朝梁文人劉孝標は識鑒編15において『親族売って身の安全を図るとは、王舒人間ではない』と酷評している。

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趙壱」の記事における「人物・逸話」の解説

ひげが美しく眉は太く身長が9尺あり、容貌魁偉人物であった才能たのんで傲慢だったため、郷里人々排斥を受け、「解擯」を作った。後に罪に問われて、死刑処されそうになり、友人救われ赦免された。その恩に感謝して、「窮鳥賦」を作った。また「刺世疾邪賦」を作って時勢への憤り表した178年光和元年)、漢陽郡推挙され上計吏の任を受けるため、洛陽到着した。このとき趙壱数百人が司徒袁逢面会して計吏の任を受けた。計吏たちはみな庭中に伏礼して仰ぎみようとしなかったが、趙壱はひとり頭を下げるだけであった袁逢趙壱見て珍しく思い側近趙壱ところにやって「郡の計吏に過ぎない者が三公頭を下げるだけとは、どういうことか」と責めさせた。趙壱は「むかし酈食其は漢王(劉邦)に頭を下げて拝礼しなかった。いま三公頭を下げるのに、何を怪しむことがあろうか」と答えた袁逢は襟を正して堂を下り趙壱の手取って上座導き西方事情訊ねる大喜びして、一座人々に「この人漢陽の趙元叔である。朝臣にかれを超える者はいない」と紹介した趙壱退出すると、公卿の中で名を託するに足る者は河南尹の羊陟しかいない見定めて、その邸を訪れて面会求めた。羊陟は趙壱邸内に通すことは許したが、まだ寝床から起き出してこなかった。そこで趙壱上堂入りこみ、「西州隠居するわたくしめは、羊公の立派な人柄慕ってまいりました。いま面会することがかないますなら、すぐに死んでかまいませんと言って号哭したため家中大騒ぎになった。羊陟は尋常な人物ではないと知って起き出し趙壱語り合った。羊陟は翌朝車騎従えて趙壱の名を通してやった。ときに計吏たちの多く車馬帷幕飾り立てていたが、趙壱はひとり粗末な車で、そのそばに寝泊まりしていた。趙壱が羊陟の前にその車を引いていくと、羊陟は車の下に座り込んだので、そばにいた人々はみな驚いた。ふたりは夕方まで歓談し、羊陟は去るときに趙壱の手取って、「良玉は分かたれるとがない。涙と血がお互いに証明するだろう」といった。羊陟は袁逢とともに趙壱推薦した趙壱の名は洛陽広く知られるようになった趙壱は西に帰る途中弘農郡立ち寄って太守皇甫規挨拶しようとしたが、門番通そうとしなかったため立ち去った門番がこのことを報告すると、皇甫規趙壱名声聞き知っていたことから、謝罪の手紙を書いて追いかけさせたが、趙壱かえりみなかった。 州郡は争って趙壱を招こうと礼を尽くし10たび公府の辟召があったが、趙壱はいずれ就任せず、家で死去した。 かれによって著された賦・頌・箴・誄・書・論および雑文合わせて16篇あった。また文集2巻があった。

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林紗久羅」の記事における「人物・逸話」の解説

2017年 エアレースクイーン特別賞 林紗久羅クリスチャン・ボルトン 璃波ミカエル・ブラジョー 立花はるカービー・チャンブリス 引地裕美マティアス・ドルダラー 有馬綾香マイケル・グーリアン 宮越愛恵マット・ホール 河瀬ニコラス・イワノフ 村山久美ペトル・コプシュタイン 太田麻美フランソワ・ルボット 優勝 清瀬まちピート・マクロード 藤木由貴室屋義秀 森紗羅ピーター・ポドランセック 川崎あやマルティン・ソンカ 比良祐里フアン・ベラルデ 2015年2018年2019年大会はエアレースクイーンが設定されなかった。 表 話 編 歴 スーパー耐久イメージガール Super Girls 20002000年初代)相原りな - 榎木らん - 遠藤ゆう - 北川えり - 酒井みよ スタイルコーポレーション時代2001年 - 2015年2001年Baccara Five澄谷薫 - 山口由紀子 - 内田亜紗子 - かわいかおり - 大鳥みゆき 2002年morostar相沢沙頼 - 加藤綾乃 - 日向美穂 - 山木まこ - 諸岡愛美 2003年大和撫子」たかひさともこ - 小口亜紀 - 白川きみよ - 山本渚 - 水嶋真希 2004年桜三世斉藤優 - 篠崎まゆ - 浅見薫 - 三浦2005年桜三世05晴菜あい - 神谷あん - 篠崎まゆ 2006年St.Cherish黒沢琴美 - 藍原ももよ - 小田島ゆい(脱退2007年Vanilla佐々木綾美 - 塚本麻里 - 水野桃子 - 戸田奈々 2008年JEWEL栗原海 - 小林麻衣 - 伊藤友美 2009年 - 2010年JUICY2009年栗原海 - 有村亜加里 - 渕脇レイナ - 木村亜梨沙 2010年有村亜加里 - 桃川祐子 - 木村亜梨沙 - 渕脇レイナ 2011年 - 2014年S*CREW2011年西山未織 - 安枝瞳 - 山岡実乃里 - 湯原さき 2012年安枝瞳 - 吉口加奈子 - 胡南侑里 - 双月南那 2013年安枝瞳 - 双月南那 - 小田原れみ 2014年安枝瞳 - 双月南那 - 岬ゆうか - 朝陽しおり 2015年Nextyle.葉山か - 青山愛 - 白倉有紗 - 三上夏奈 D'stationフレッシュエンジェルズ2016年 - 2021年2016年日野礼香 - 清瀬まち - 森園れん - 堀尾実咲 2017年小越しほみ - 安藤麻貴 - 森園れん - 中村比菜 2018年林紗久羅 - 小越しほみ - 霧島聖子 - 中村比菜 - 宮本りお 2019年林紗久羅 - 太田麻美 - 一瀬優美 - 宮本りお - 横田りか 2020年林紗久羅 - 霧島聖子 - 引地裕美 - 宮瀬七海 - 阿比留あんな - 水瀬琴音 2021年林紗久羅 - 織田真実那 - 引地裕美 - 宮瀬七海 - 阿比留あんな - 水瀬琴音 SDGsアンバサダーSwish』(2022年宮瀬七海 - 阿比留あんな - 松田蘭 表 話 編 歴 A-class東京オートサロンイメージガール) 2000年代 2003年米山理恵子 - 石川加奈子 - 菅谷はつ乃 - 吉田千晃 2004年横須賀まりこ - 丹野友美 - 大石里沙 - 山川敦子 2005年伊織 - 渋谷千賀 - 三苫千景 - 福山安奈 2006年内田さやか - 西村紗也禾 - 松林菜々見 - 絹川麗 2007年※1渡部由起子 - 堀井沙織 - 渡辺奈緒美 - 則島奈々美 - 志摩夕里加 - 冨永亜矢乃 - 村岡沙耶香 - 外咲来未 2008年志摩夕里加 - 松林菜々見 - 大矢真夕 - 黒沢琴美 - 山内智恵 - 村岡沙耶香 - 稲垣慶子 - 柴田菜月 2009年大矢真夕 - 稲垣慶子 - 相川友希 - 古崎瞳 - 永作あいり - 高橋千咲姫 2010年代 2010年小林梨沙 - 沢口けいこ - 永作あいり - 新田梢恵 2011年葵ゆりか - 春菜めぐみ - 永井麻央 - 沢口けいこ 2012年柏木美里 - 清水恵美 - 前田真麻 - 加藤遥 2013年前真麻 - 桃原美奈 - 遠野千夏 - 橋本雪乃 2014年つのだ香澄 - 前田ゆう - おのののか - 森脇亜紗紀 2015年竹田愛 - 森脇亜紗紀 - 坂本くるみ - 菅原樹里亜 2016年渡辺順子 - 日野礼香 - 有馬綾香 - 石黒エレナ 2017年※2早瀬あや - 荒井つかさ - 日野礼香 - 清瀬まち 2020年代 2021年林紗久羅 - 中村比菜 - 小林唯叶 - 美月 - 苗加結菜 2022年沙倉しずか - 日南まみ - 松田蘭 - 北川美麗 - 黒木麗奈 - 米倉みゆ 関連項目エイベックス・グループ - 東京オートサロン - 福岡オートサロン - 福岡カスタムカーショー - 札幌オートサロン - 札幌カスタムカーショー - TOKYO AUTOSALON presents EVOLUTION公認CDアルバム) - 東京モーターショー - MFGエンジェルス ※1:ビジュアルチーム(渡部堀井渡辺、則島)とエンタメチーム(志摩冨永村岡、外咲)に分割※2:公式イメージガール早瀬荒井)とavexイメージガール日野清瀬)で構成

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浅野吉長」の記事における「人物・逸話」の解説

正室節姫は、加賀藩主前田吉徳の姉で、吉長よりも年長者いわゆる姉さん女房)で気も強かった。しかも、嫡男の宗恒が彼女との間に生まれていたため、吉長側室を持つことも許されず、意見もできなかった。しかし、吉長40歳を過ぎると次第若い女性を望むようになり、あるときにお忍び吉原行って気に入った遊女2人愛妾にしようとした。これを知った節姫は、吉長への抗議のために切腹し諫めたという。吉長はこれに驚いて愛妾2人遠ざけ節姫厚く弔い吉徳相談の上幕府に対して節姫急病死と届け出て改易減封免れたという。 浅野吉長は、豊臣秀吉正妻北政所高台院の妹である長生院の子孫であり、また祖母九条道房女)を通じて秀吉の姉日秀尼の子孫である。つまり、秀吉高台院傍系血統である。また吉長は、徳川家康前田利家血統受け継いでいる(母の貴姫尾張藩2代藩主徳川光友の娘、曾祖母満姫前田利常の娘で前田利家の孫かつ徳川秀忠外孫曽祖父浅野光晟徳川家康外孫)。特に家康の血は3つの流れ受け継いでいる。

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蒲生貞秀」の記事における「人物・逸話」の解説

歌人としても知られており、『新撰菟玖波集』に5首が選ばれているほか、家集に『蒲生智閑和歌集三巻がある。飛鳥井家の雅親・雅康・雅俊・三条西実隆などと交わり連歌師宗祇宗碩とも交流持った宗祇から古今伝授を受け、歌書贈られたようである。三条西実隆とは毎月20日月次会を催し飛鳥井雅綱からは『雅俊百首』を贈られた。なお『貞秀朝臣集』は別人歌集である。 出家した後も隠居せずに戦場出向いており、阿弥陀仏先にかけて念仏唱えながら戦に臨んでいた。信楽院本尊阿弥陀仏がこの時貞秀の使っていたものであると伝わっており「かけ本尊」と呼ばれている。 民衆は「知閑が念仏、持是院(斎藤妙純)が頭巾申して無益、して無益」と出家してなお武を誇る貞秀を揶揄した歌を残している。 日野の地で発見された根が淡紅色の珍しい野菜漬けたところ美味であったので、飛鳥井雅親贈ったところ、雅親もこれを気に入り後柏原天皇にも献上された。後柏原天皇は「近江なる檜物の里の桜漬け これや小春のしるしなるらむ」との歌を貞秀に贈った以後、この野菜は「日野菜」、日野菜の漬物は「桜漬」と呼ばれるようになり、蒲生氏上洛の際には必ず献上するになった元禄8年1695年刊行の『蒲生軍記』は「武芸はいふに及ばず歌道にも達したり」と文武両道を讃えている。宝暦2年1753年刊行奇談集『新編奇怪談』に言及されるなど、江戸時代までは歌人としてそれなりの知名度あったようである。

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蒲生定秀」の記事における「人物・逸話」の解説

六角家重臣の中では重鎮中の重鎮であり、永禄5年1562年)には徳政令独自に発布している。 六角定頼とは主従の絆で結ばれていたが、六角義賢時代からは主従の力が逆転してむしろ定秀の力のほうが上であり、永禄7年1564年)には観音寺騒動居城追われ生活苦にあえぐ義賢に対して金銭貸ししっかりと返済約束取り付けたりしている。

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郤正」の記事における「人物・逸話」の解説

名利こだわらず文章の美を追求し司馬相如班固張衡らの文・篇・賦や同時代優れた論など、益州にあるものにはほとんど目を通していた。 100篇にも及ぶ詩・論・賦を書き姜維高く評価した論文や、『釈譏』という自身への批判対す弁明文が残っている。 秘書郎であった頃、郤正はたびたび孟光訪ねて教えを乞うていた。あるとき孟光郤正皇太子劉璿性格能力訊ねると、郤正慎重な受け答え終始した孟光はこれを評価したものの、皇太子あるべき姿論じて郤正を感心させた。 降伏後劉禅司馬昭に「ときには蜀のことを思い出されますかな?」と問われると「ここは楽しいので思い出すことはありません」と答えた郤正はこれを聞き次に同じ質問をされたならば『先祖の墓が遠く隴・蜀にあり、一日とて思わない日はありません』とお答えなさいませ」と進言した。劉禅進言従ったところ、司馬昭にそれを見抜かれ物笑いになった。 表 話 編 歴 陳寿『三国志』 に立伝されている人物 魏志魏書巻1 武帝曹操 巻2 文帝曹丕 巻3 明帝曹叡 巻4 三少帝紀曹芳 曹髦 曹奐 巻5 后妃武宣卞皇后 文昭甄皇后 文徳郭皇后 明悼毛皇后 明元郭皇后 巻6 董二袁劉伝董卓李傕 郭汜 袁紹袁譚 袁尚 袁術 劉表 巻7 呂布臧洪呂布張邈 陳登 臧洪 巻8 二公孫陶四張伝公孫瓚 公孫度公孫康 公孫恭 公孫淵 陶謙 張楊 張燕 張繡 張魯 巻9 諸夏侯曹伝夏侯惇 夏侯淵 曹仁 曹洪 曹休 曹真 曹爽 夏侯尚 夏侯玄 巻10 荀彧荀攸賈詡荀彧 荀攸 賈詡11 袁張涼国田王邴管伝袁渙 張範張承 涼茂 国淵 田疇 王修 邴原 管寧12 崔毛徐何邢司馬崔琰 毛玠 徐奕 何夔 邢顒 鮑勛 司馬芝13 鍾繇華歆王朗鍾繇 華歆 王朗王粛14 程郭董劉蔣劉伝程昱 郭嘉 董昭 劉曄 蔣済 劉放孫資15司馬張温賈伝劉馥 司馬朗 梁習 張既 温恢 賈逵16鄭倉伝任峻 蘇則 杜畿 鄭渾 倉慈17 張楽于張徐伝張遼 楽進 于禁 張郃 徐晃朱霊18臧文呂許典二龐閻伝李典 李通 臧覇 孫観 文聘 呂虔 許褚 典韋 龐悳 龐淯 閻温19 任城王伝曹彰 曹植 曹熊20 武文世王公曹昂 曹鑠 曹沖 曹據 曹宇 曹林 曹袞 曹玹 曹峻 曹矩 曹幹 曹上 曹彪 曹勤 曹乗 曹整 曹京 曹均 曹棘 曹徽 曹茂 曹協 曹蕤 曹鑑 曹霖 曹礼 曹邕 曹貢 曹儼21 王衛二劉傅伝王粲 衛覬 劉廙 劉劭 傅嘏22二陳徐衛盧伝桓階 陳羣 陳矯 徐宣 衛臻 盧毓23 和常楊趙裴伝和洽 常林 楊俊 杜襲 趙儼 裴潜24 韓崔高孫王韓曁 崔林 高柔 孫礼 王観25 辛毗楊阜高堂隆辛毗 楊阜 高堂隆26 満田牽郭伝満寵 田豫 牽招 郭淮27 徐胡二王徐邈 胡質 王昶 王基28 王毌丘諸葛鄧鍾伝王淩 毌丘倹 諸葛誕 文欽 唐咨 鄧艾 鍾会29 方技華佗 朱建平 周宣 管輅30 烏丸鮮卑東夷伝烏丸 鮮卑 夫餘 高句麗 東沃沮 挹婁 濊 韓 倭 蜀志蜀書) 巻31 劉二牧伝劉焉 劉璋32 先主劉備33 後主劉禅34 二主妃子先主甘皇后 先主穆皇后 後主敬哀皇后 後主張皇后 先主子永 先主子理 後主太子璿 巻35 諸葛亮諸葛亮諸葛喬 諸葛瞻 董厥36張馬黄趙伝関羽 張飛 馬超 黄忠 趙雲37 龐統法正龐統 法正38 許糜孫簡伊秦伝許靖 糜竺 孫乾 簡雍 伊籍 秦宓39劉馬陳董呂伝董和 劉巴 馬良馬謖 陳震 董允陳祗 呂乂40 劉彭廖劉魏楊伝劉封 彭羕 廖立 李厳 劉琰 魏延 楊儀41 霍王向張楊費伝霍峻霍弋 王連 向朗向寵 張裔 楊洪 費詩42 杜周許孟来尹譙郤伝杜微 周羣 杜瓊 許慈 孟光 来敏 尹黙 李譔 譙周 郤正43馬王張伝黄権黄崇 李恢 呂凱 馬忠 王平 張嶷44 蔣琬費禕姜維蔣琬蔣斌 劉敏 費禕 姜維45張宗楊伝鄧芝 張翼 宗預廖化 楊戯 呉志呉書) 巻46 孫破討逆伝孫堅 孫策47 呉主伝孫権48 三嗣主伝孫亮 孫休 孫皓49 劉繇太史慈士燮劉繇劉基 太史慈太史享 士燮50 妃嬪武烈呉皇后 謝夫人 徐夫人 大帝歩皇后懿王皇后懐王皇后 大帝潘皇后 廃帝全皇后 景帝朱皇后 昭献何皇后 末帝滕皇后51 宗室孫静 孫賁 孫輔 孫翊 孫匡 孫韶 孫桓52 張顧諸葛歩伝張昭張承 張休 顧雍顧譚 諸葛瑾 歩騭53 張厳程闞薛伝張紘張玄 厳畯 程秉 闞沢 薛綜54 周瑜魯粛呂蒙周瑜 魯粛 呂蒙55 程黄韓蔣周陳董甘淩徐潘丁伝程普 黄蓋 韓当 蔣欽 周泰 陳武 董襲 甘寧 凌統 徐盛 潘璋 丁奉56 朱治朱然呂範朱桓朱治 朱然朱績 呂範呂拠 朱桓朱異57 虞陸張駱陸吾虞翻 陸績 張温 駱統 陸瑁 吾粲 朱拠58 陸遜陸遜陸抗59 呉主五子伝孫登 孫慮 孫和 孫覇 孫奮60 賀全呂周鍾離賀斉 全琮 呂岱 周魴 鍾離牧61 潘濬陸凱潘濬 陸凱62 是儀胡綜是儀 胡綜63 呉範劉惇趙達呉範 劉惇 趙達64 諸葛滕二孫濮陽諸葛恪 滕胤 孫峻 孫綝 濮陽興65賀韋王蕃 楼玄 賀邵 韋昭 華覈

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仙石久勝」の記事における「人物・逸話」の解説

剣豪であったといわれており、二十人斬りなどの多く武勇伝語り継がれている。 高知県高知市愛宕山200段近い石段を登った所)にある愛宕神社は、寛永6年1629年)に久勝が山城国から火伏せの神である愛宕権現勧請したのが始まりといわれている。 島原の乱では同時期に着陣した幕府老中松平信綱戸田氏鉄攻め口所望する断られ、信綱から相談役として遇され子息三人毛利久八は最後の総攻撃参加している。

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桓振」の記事における「人物・逸話」の解説

果断気性荒く品行悪かった桓玄桓振粗暴を嫌い、重用しなかった。桓振は「公(桓玄)は我を用いなかった。その結果此度敗戦である。我を前鋒用いていれば、天下定めることもできた」と嘆いた酒食溺れ自分勝手に誅殺行ったり、各所暴虐無道な行為を繰り返した桓振淮南にいたとき、夜に寝台寝ているとき、声が聞こえるとの事案起こった。これを聞いた桓振は、声が聞こえる方へ向かった。火で照らして見てみると、そこには夥しいほどの血溜まりがあったという。

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荘田教高」の記事における「人物・逸話」の解説

高田藩剣法師範荘田三郎を教高の子とする見解もあるが、時間不一致見られる

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楊亮」の記事における「人物・逸話」の解説

貞幹な人物であると評されていた。 姚襄仕えた際、賓客の礼をもって遇された。桓温降った際、姚襄人物について問われ姚襄器量は神のようであり、孫策の輩である。その雄武はこれに勝るだろう」と評した桓温楊亮言葉重く受け止めた

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高儼」の記事における「人物・逸話」の解説

武成帝并州赴くときには高儼は鄴の留守任されたが、父帝見送り出て道半ばあるいは晋陽まで見送って帰ることすらあった。 武成帝後主に何かを与えると、高儼にも同じものを与えていた。兄の後主先に新奇なものを手に入れると、高儼属官工匠を必ず罰した高儼は喉の持病患っていて、医者に針を打たせたが、目を見開いて瞬きもしなかった。 高儼が「気の弱い兄に臣下たちを率いることができましょうか」と武成帝にいうと、武成帝は「これは聡明な子だ。きっと成すところがあるだろう」と言い後主廃立考えるほどであった

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武田信廉」の記事における「人物・逸話」の解説

画家としても知られ甲府大泉寺所蔵される「武田信虎像」(重要文化財)、長禅寺所蔵される「武田信虎夫人像」(重文)といった肖像画のほか、同じく長禅寺の「渡唐天神像」などの絵画残している。また、永禄10年1567年)、信玄家臣団から起請文提出させて生島足島神社奉納しているが、この中には信廉直筆のものが現存している。 『甲陽軍鑑によれば骨相似ている信玄影武者務め側近ですら見分けがつかなかったとされる元亀4年1573年)に西上作戦中の信玄病死すると、死を内外に隠すために信玄成りすまして軍の甲府への引き揚げ成功させた。また、北条氏政信玄死去確かめるため、使者として板部岡江雪斎甲斐派遣したが、そのとき影武者としてこれを欺いたという逸話もある。

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山家公頼」の記事における「人物・逸話」の解説

公頼の死後宇和島藩内では怨霊騒動などが続いた政敵桜田元親変死し、宇和島襲った大地震台風飢饉などの凶事をはじめ、秀宗の長男・宗実と次男・宗時、六男・徳松早世、秀宗の発病などは全て公頼の祟りとして恐れられた。 このため承応2年1653年)に秀宗の命により和霊神社創建されることとなった和霊騒動)。ただし怨霊伝説がある一方で、公頼には殺害首謀者であった秀宗の夢枕に立って火事事前に伝えたなどとされる忠臣伝説もあり、宇和島では公頼は「和霊様」と呼ばれている。 公頼は財政難宇和島藩において質素倹約を旨とし、領民に重い年貢を課そうとせずできるだけ負担軽くようとしたため、領民からは慕われていた。ただ、そのために軍費厳しく削減したため、桜田元親武功派には恨まれた。 遺骸は公頼を慕う領民により、金剛山大隆寺西方約60mの場所に密かに葬られた。また、公頼は蚊帳四隅切断され殺されたことから、命日などは蚊帳吊らない風習近代まで残るなど、領民慕われたことが伺える。

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原坦山」の記事における「人物・逸話」の解説

坦山は学問厳しかったが、権威を嫌う豪放磊落自由人らしい逸話も多い。 酒好きであり、仏前でも意に介さず飲んだ戒律厳し釈雲照訪ねて来た時、坦山は酒を勧めたが釈は「いけない」と断った。すると、坦山は「酒も飲まんようなものは人間じゃない!」と放言した。釈が「人間なければ何者か」と返すと、「仏さまじゃ」と答えた服装頓着せず本堂をどてら姿でうろうろしたり、洋服の上から袈裟着けることもあった。法衣を着るように促されると「法衣はもともと中国の衷服だ。衷服が何になる!」と一喝した。 死の寸前自分自分死亡通知葉書親友知己一人ひとりに書き全て書き終えた30分後に眠るように亡くなった原坦山の僧の修行時代諸方善知識求めて周遊していた際、狭い悪道歩いていた少女助けるために、それを抱えて足場良いところ移してあげた。それを見た同行僧侶が「僧侶あるまじき破廉恥」となじるのを 坦山は平然として「君はまだかの少女を(こころに)抱いていたのか? わたしはその時限りなのに」と言い返した 原坦山大雄山最乗寺住職中。仏前肉鍋をつついたり、洋服袈裟掛けたりなど、その破天荒な行動周囲から心配されていた。ある時、その侍僧たまりかねてさようなことではご信用が墜ちてしまいます」と諫言したところ、原坦山呵々大笑して「この坦山はイツ信用得たものか」(得ぬ信用を墜とす心配はない)とまったく意にかえさなかった 原坦山は、最晩年自身死期覚り、「即刻臨終」の旨の死亡通知書いたその後泰然として没したという

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内藤忠興」の記事における「人物・逸話」の解説

江戸在府中の忠興国元から大根漬物取り寄せていたが、塩辛くない浅漬け欲しいとか、塩辛くなくシワあるよう漬けて寄こせとかの注文をつけていたが、何度注文して塩辛い漬物ばかりを送って寄こすので「沙汰の限り」だと怒り出してしまった。この古文書明治大学博物館保管されている。 恐妻家だったといわれ、それを示す逸話がある。正室酒井家次の娘であるが、気の強い女性であった。あるとき忠興は、正室内緒家中でも特に美女といわれる女性呼び寄せた。すると正室はこれに怒って薙刀振りかざして忠興追い回したという。このため以後女性関係を慎み藩政に関しても常に正室意見聞いたといわれる

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毛利秀頼」の記事における「人物・逸話」の解説

織田家中でも武功をもって知られ武将であり、名将言行録には信長長篠の戦い直前家康加勢を送るべきかを、武辺誉れある秀頼と分別の厚い佐久間信盛両人召して相談したという逸話収録されている。 1592年名護屋城に向かう道中豊前国小倉での宿取りきっかけ佐竹氏との間に遺恨生まれ、これを解決するために佐竹義宣直談判しようと少人数宿所訪れたところ、佐竹家臣衆に腕をつかまれ制止された上、地面突き倒されるという狼藉働かれた。挙句の果て馬印踏みつけられ、原因となった家臣が斬られたため、這う這うの体退いたという。この時、仙石秀久真田昌幸をはじめとした信濃国中の大名らが秀頼に同心して報復加えようとしたというが、結局陣営ともが自重したためにそれ以上抗争には発展しなかった。 佐賀県に残る名護屋城跡と秀頼の陣を含む23箇所の陣跡が国の特別史跡指定されている。

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庾詵」の記事における「人物・逸話」の解説

経書史書諸子百家大要把握し讖緯解釈囲碁の上手さでは当時冠絶していた。 平易質朴尊び山林泉石を特に愛した。かれの10畝の宅は山池半分占めていた。 庾詵菜食粗末な衣を着て暮らし産業経営しようとしなかった。 庾詵が舟に乗って田地から帰るにあたって、米150石を載せ、ある人に30石を預けた帰宅すると、荷物預けた者に「君は30斛、わたしは150石だ」と言われた。庾詵黙って何も言わず、その欲しいままに取らせた隣人盗人として誣告され、裁判かけられた。庾詵はその無罪であることを確信して書物質に入れて銭2調達し門生隣人の親と偽って保証金代納させた。隣人赦免され庾詵感謝述べると、庾詵は「わたしは天下無辜を誇るもので、感謝期待したわけではありません」と答えた庾詵仏教帰依するようになったころ、夜中に願公を自称する道人現れて、庾詵のことを上行先生と呼び、香を授けて去った532年庾詵昼寝をしていたところ、突然に驚いて目を覚まし、「願公が再び来た。長く生きることできまい」といった。言い終えると亡くなった庾詵死去すると、部屋にいた人々は「上行先生はすでに弥陀浄域生まれ変わった」という声を空中から聞いた

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顧憲之」の記事における「人物・逸話」の解説

建康に牛を盗んだ者がおり、持ち主訴えられたが、盗んだ者もまた自分の牛であると主張した両家証拠がなかったため、前後県令たちは解決することができなかった。憲之建康県令着任すると、牛を解き放ってその行きたいところに行かせた。すると牛はもとの持ち主の宅に帰ったので、盗んだ者はようやくその罪を認めた当時の人は憲之神明呼んだ憲之建康県令として権力者請託官吏蓄財を法によって摘発し容赦をしなかった。また清廉倹約を旨として、強力な統治おこなった。このことから都の酒飲みたちはコクのある酒に「顧建康」と名づけた。 憲之衡陽郡内史となったころ、衡陽郡境では連年疫病発生し死者多さのために木が高騰して遺体はむしろにくるまれ路傍捨てられる有様であった憲之は属県に命じて遺体家族を探させ、全て葬らせた。 衡陽郡境の山民には先祖祟り起こすと言って、墓の開いて枯骨水洗いし、祟りを除くと称する土俗があり、これが病の原因となっていた。憲之山民生死の別を述べて説得すると、この風俗改められた。 王奐が湘州刺史として着任すると、衡陽郡訴訟がないことに驚き、「顧衡陽教化ここまでのものなのか。もし管轄下の9郡がこのようであれば、わたしは何をすることがあろうか」と感心した南朝斉の武帝重用されていた呂文度が余姚に邸を建てて好き勝手をやっていた。憲之会稽郡着任すると、上表してその邸を撤去させた。呂文度が母を葬るために帰郷すると、郡県の守令たちは争って弔問訪れたが、憲之消息尋ねこともしなかった。呂文度は憲之深く憎んだが、ついに傷つけることはできなかった。 南朝宋のとき、祖父顧覬之吏部尚書となると、庭に嘉植えて、「わたしは憲之の種となるのみだ」と人に言った。はたして憲之吏部の職についた憲之豫章郡太守のとき、貞婦晞という者がおり、若くして寡婦となって子はなく、その舅や姑に孝事した。父母実家奪い返して再嫁させようとしたが、晞は死を誓って許さなかった。憲之晞に束帛を与えてその節義を顕彰した。 憲之は郡の太守内史歴任していたが、石ころひとつ持ち帰らなかったため、引退して帰郷すると、飢え寒さ耐える生活を送った

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裴諏之」の記事における「人物・逸話」の解説

あるとき裴諏之は常景から書100巻を借り10日ばかりで返した。常景は諏之が読んでいないのではないか疑い、巻ごとに問題出してみると、残らず応答してみせた。常景は驚嘆して応奉が5行まとめて読み下す速読を得意とし、禰衡一度読むと暗記してしまったというが、いまこれを裴君に見たぞ」と言った。 楊愔の一門改葬することとなり、諏之にとつぜん十数点の墓誌の製作を依頼したが、完成した墓誌文章はいずれ見るべきものがあった。 諏之は兄の裴譲之皇甫和の弟の皇甫とともに洛下で名を知られた。当時の人は「諏之は譲之に勝り、和は亮におよばない」と評した

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真田志ん」の記事における「人物・逸話」の解説

松代における八橋流幕末真田幸貫藩士銘じて譜本を作らせ、真田勘解由家が三冊を伝承していた。 夫は五明亘。婿養子として真田姓となる。 祖母の由婦とその妹横田亀代(横田秀雄小松謙次郎和田英の母)から八橋流箏曲学んだ八橋流箏曲は娘の叔子に伝承されたのち、叔子の死去により八橋流宗家はとして消滅したが、その門下生による八橋流筝曲保存会によって伝承されている。

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范元琰」の記事における「人物・逸話」の解説

父が死去したとき、元琰はまだ子どもだったが、哀慕して礼を尽くした成長する学問好み経書史書広く通じ仏教解釈にも詳しかった謙虚な性格で、他人に対して驕ることがなかった。 祖母腫れ物患っていたため、元琰はいつも口で吸ってやっていた。 家は貧しく菜園営んで生業とした。あるとき人がかれの家の野菜を盗むところを見て、元琰は逃げ帰ってきた。母がその理由を問うと、元琰は詳細に答えたが、母が盗人は誰なのかを問うと、元琰は盗人の恥になるのを恐れて、その名を秘密にしたいと答えた。 あるときかれの家の筍を盗む者がいた。元琰は木を伐って作り盗人渡してやった。このため盗人大い恥じ入り、その郷にこそ泥は出なくなった。 元琰は常に家にいて城市に出ることなく貴賓対するように独座していたため、かれを見て態度改めない者はなかった。 劉瓛は元琰をたいへん重んじて上表してかれを讃えた。

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盧義僖」の記事における「人物・逸話」の解説

若くして学問尊重し見識態度落ち着いて立派であり、僕射李沖賞賛受けた幽州刺史の王誦とは厚い交友関係結んだ黄門侍郎李神軌子女婚姻求められたが、義僖は将来の禍を恐れて拒み、娘を他族にとつがせようとした結婚の日の夕方霊太后中常侍の服景を家に派遣してその結婚をやめさせた。周囲の人は恐れおののいたが、義僖は平然としていた。 義僖が若いとき、幽州旱害のために穀物数万石を民衆貸しつけていたが、年期過ぎて豊作ならないのを見ると、契約書焼き捨ててしまった。 あまり人と交際しなかったが、魏子建とは隠しへだてのない友情結んだ節倹資産増やそうとはせず、高位ありながら粗食甘んじて困窮することもしばしばあった。

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宮田光次」の記事における「人物・逸話」の解説

羽柴秀吉創業における初期功臣1人として数えられており、後年史料ではあるが、山鹿素行は『武家事紀』で神子田正治戸田勝隆尾藤知宣と光次の4人を列挙しているが、宮田武勇絶倫とするものの、この中では勇功は神子田第一と書いている。 『老人雑話』には、「太閤豊臣秀吉)の臣に宮田喜八(光次)とて武勇第一の人あり」と記されていて、晩年まで秀吉はその死を悼んだという。 中国退治遠征のとき、宮田八郎戦功著しかったが、ある日将士戦功詮議した際に秀吉が喜八郎多く入札をして評したところ、喜八郎その場逃げ出したが、(皆からの)多く入った秀吉がいうには、信長公の家臣にも林新三郎というものが同じようその場逃れたが(不在でも戦功ありとする)が7入ったので、信長公は自ら新三郎称賛されて、臆病者どもはその身の言い訳のために戦功詮議出席するがお前のような殊勲者はその場遁れてさえても7入札されるのだから入札するでもないといって笑ったということがあった。秀吉は喜八郎もその気持だろうといって与えて賞したという。 以下の逸話は光次没後翌年天正7年1579年))のことといわれている。 秀吉家臣集めて酒宴開いていたとき、「我が家弓矢の勢(家臣団)、昔と較べて随分盛んになったと思わんか」と質した多く家臣は「三倍なりました」「五倍になりました」と述べ有頂天秀吉は「いやいや十倍になった」と大笑いした。すると秀吉参謀だった竹中半兵衛は「弓矢、昔に劣れり」と反論した秀吉驚いて問い詰めると、「宮田喜八死して以来甚だ劣れり」と静かに述べた。それを聞いて秀吉もかつての勇者思い出し、「半兵衛の申すとおりだ」と言って嘆息漏らしたという

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姚紹」の記事における「人物・逸話」の解説

姚紹胡僧召して後秦行く末について問うた。胡僧材料求めて直径一丈大きな胡餅を作ると、その上に座り込み、まず西側部分食べると続いて北の部分食べ、更に南の部分食べてから残り巻いて呑み込んでそのまま立ち去った姚紹が軍を率いて函谷関河南省新安県)を攻めたとき、料理人が飯を炊いたところ、流れた蒸気が血に変じてひどく生臭くなった。姚紹はこれを知ると、ひどく不快がって、以降は飯を炊くのをやめさせ、味方のお軍から飯を分けてもらうようにした。その後80日して姚紹病死したという。 敵軍から「姚紹の気は関右を蓋う」と恐れられた。 南燕慕容超は、後秦国内拘束されることを恐れ奇矯振る舞い世間の目欺いた人々馬鹿にしていたが、姚紹だけは彼の才覚見抜き姚興言った。「慕容超姿形立派なもの。彼は狂人装っているだけです。彼へ爵碌を与えて繋ぎ止めましょう」これを受けて姚興慕容超謁見したが、その席で、慕容超的外れな事ばかり言った会見後姚興は「『見かけ立派なら、中身備わっている』とゆう諺があるが、あれは誤りだな。」と、姚紹言ったその後慕容超解放された。

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大庭恭平」の記事における「人物・逸話」の解説

戊辰戦争戦後処理で会津側の戦死者に「殉難之霊」と記した墓碑建立しようとしたが、明治政府から殉難という言葉嫌われて「戦死墓」と改めざるを得なくなったという。 戊辰戦争越後戦線戦っていたとき、味方だった新遊撃隊長坂本平弥が酒に溺れているのを見て(一説には脱走し与板藩士に入婿ようとしていた事を知って)怒り一刀両断斬殺したといわれる

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加納直恒」の記事における「人物・逸話」の解説

軍学者由井正雪紀州藩家老渡辺直綱を介して紀州藩仕官求めた際、渡辺仕官希望藩主の頼宣に話したところ、直恒と協議するようにとのことで、渡辺が直恒に意見を問うと猛反対されたため、由井正雪仕官見送られた。後に正雪慶安の変引き起こすと直恒は、「仕官反対したのは、このようなことを懸念したからであり、反対したのは一世一代忠勤であった」と語った。(『加納五郎左衛門行状記』) 頼宣の寵臣家老牧野長虎が、対立する堀部佐左衛門退けるため、大坂の陣戦功虚偽申告で磔にするよう訴えた際、直恒はこれに反論し口論となった故に頼宣は長虎の言を容れず、恨んだ長虎は出奔して、頼宣に陰謀疑いありと幕府訴え事件起こした。長虎は後に紀州藩の手捕らえられ田辺幽閉された。(『加納五郎左衛門行状記』) 長保寺徳川頼宣墓所家臣達が献じた石灯籠中に、直恒父子献じ加納五郎左衛門藤原直入道快遊」「加納平治右衛門藤原正直」と刻まれ灯篭がある。

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建文帝」の記事における「人物・逸話」の解説

永楽帝となった朱棣は自らの簒奪隠蔽するために建文帝即位事実抹消し建文年号なかったことにした。その後、明が終わるまで建文帝正統議論消えることが無かったが、結局明朝には建文帝の名誉は復活しなかった。年号のみは、万暦帝によって万暦23年1595年)に復活された。清の乾隆帝時期に、恭閔恵皇帝追諡され、ようやく明の正統皇帝として認められた。 建文帝最期に関しては「都城陥るや、宮中より火起り、帝終る所を知らず。(略)或はいう。帝、地道により出亡す」(『明史』「恭閔帝本紀」)とあり、自殺場面確認されていないという。 死後38年たった正統5年1440年)に雲南から広西にかけて放浪していた僧侶が「我は建文帝なり」と自称した当時皇帝である正統帝はこの僧侶逮捕して調査したが、全く根拠の無い偽者であった。この偽者獄死したという。 雲南貴州四川にかけて、建文帝皇位追われた後に僧侶として往来したとされる旧蹟いくつも存在しているほど、生存説根強くある。 靖難の変が起こると将軍らに「朕に叔父殺し不名誉を成さしめないようにせよ」と訓令したり、敗戦責任者である李景隆太子太師地位授けたり、側近斉泰黄子澄らを敗戦に応じて解任したり復帰させたりと政略能力には欠けていたが、拷問廃止重税軽減宦官重用禁止実施したため、民からは慕われたという。 日本の小説家幸田露伴作品運命』では名君として描かれ、また逃亡説が採られ数十年の余生過ごしたとされている。

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劉賛 (前燕)」の記事における「人物・逸話」の解説

経学通じ性格清廉潔白貞節重んじた非礼動じることなく弟子らもこれに従い劉賛授業を受ける者らは常時数百人いたという。

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王歓」の記事における「人物・逸話」の解説

貧乏暮らしにも不満はなく、学問専念して仕事にも就かなかった。常に食べ物乞い、詩を謳い蓄えがない家といえども意に介していなかった。これを患った妻が、王歓所蔵している書物焼き考え改めるように求めた王歓笑って「卿は聞いていないだろうが、朱買臣前漢会稽太守)の妻が人々から嘲笑されることはなかった」と述べた王歓は志を守りついには前燕官吏となった

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高商 (前燕)」の記事における「人物・逸話」の解説

剛毅厳重で学問好んだという。

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封回」の記事における「人物・逸話」の解説

滎陽の鄭長秋劉騰賄賂送って安州刺史の任をえた。鄭封回のもとを訪れ安州統治コツ訊ねると、封回が「商売人になったとがないので、教えることはできません」と答えたため、鄭恥じ入った霊太后臨朝すると、百官召し出して統治方策訊ねた封回は「むかし孔子司寇となると10日して少正卯処刑し魯国粛然として詐欺行為なくなりました周公旦兄弟さえ遠慮せず討伐し、周は興隆しました徐偃王仁義行いもっぱらにして、その国を滅ぼしました。いにしえから今にいたるまで、刑罰用いずしてうまく統治できた者はいません。近頃官吏怠けて民衆から侵奪し、反乱者が多数蜂起してます。刑罰厳しくして、犯罪根絶させるようお願いします」と答えた霊太后は肯いたが、採用することはできなかった。

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艾朗」の記事における「人物・逸話」の解説

慕容暐前秦游撃将軍郭慶捕らえられ、鄴へ送られた。前秦天王苻堅会見した際、慕容暐艾朗孟高忠義行動語った苻堅艾朗孟高手厚く埋葬しその子らを郎中抜擢した

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裴開」の記事における「人物・逸話」の解説

才知計略長け、その考え奥深く図り知れなかった。度々、奇策献じ慕容廆はその策を数多く容れたという。

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マルセル・タビュトー」の記事における「人物・逸話」の解説

ストコフスキーと強い信頼関係持っていたが、後任オーマンディとは、特に後期には軋轢生じた退団の際に今後の楽しみを訊かれ、「これからオーマンディ指揮演奏しないで済む事が余生最大の楽しみ」と公言し最後リハーサル後で挨拶では、皮肉に満ちたスピーチ行なったため、いたたまれなくなったオーマンディ席を外すといったエピソードもある。この二人齟齬は、タビュトーの後任者であるジョン・デ・ランシー時代まで引き継がれ華やかなフィラデルフィア・サウンド影の部分物語経緯である。

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柳慶」の記事における「人物・逸話」の解説

柳慶幼くして明敏で、度量があった。広く書物渉猟したが、章句暗記しなかった。飲酒好み受け答えゆっくりしていた。 西魏大統年間北雍州白鹿文帝献上したので、群臣たちは祝賀の上表文起草しようとした尚書蘇綽柳慶草稿を書くよう勧めた柳慶書き上げた文章素晴らしかったため、蘇綽笑って才子と讃えた。 西魏広陵王元欣の甥の孟氏がたびたび悪行をおこなっていた。ある人が孟氏に牛を盗まれたと告発した柳慶が孟氏を逮捕して取り調べたが、孟氏は後ろ盾をたのみにして恐れ様子もなく、かえって柳慶脅そうとした。元欣もまた人を派遣して孟氏の無罪弁論させた。柳慶同僚属吏たちを集めて、孟氏が権威をたのみに犯した暴虐数々列挙し、孟氏を鞭打たせて殺した。 ある商人が金20斤を持って上京し、ある人のもとに身を寄せた出かけるときには、いつも鍵をかけておいた。どうしたことか鍵には異常がなかったにかかわらず中身の金が紛失していた。商人身を寄せた先の主人盗んだものみなされ、郡県が訊問したところ、主人は罪を認めた柳慶はこれを聞いて疑わしく思い商人召し出して「卿はいつも鍵をどこに置いていたのか」と訊ねた商人は「いつも自分携帯していました」と答えた柳慶が「同宿していた人はいるか」と訊ねると、商人は「いません」と答えた柳慶が「與人と酒を飲んだことがあるか」と訊ねると、商人は「日中にある沙門2度酒盛りしました酔って昼寝してしまいました」と答えた柳慶は「主人拷問受けて罪を認めただけで、盗人ではない。かの沙門こそが真の盗人だ」と断定した沙門逮捕しよう官吏派遣したが、沙門は金を持って逃亡していた。後に沙門は捕えられ、紛失していた金は回収された。 ある胡人の家が強盗遭った。郡県が捜査したが、犯人判明しないまま、近隣の者が多く逮捕された。柳慶犯人複数犯で、被害者旧交のある者ではないとにらみ、犯人騙して捕まえることにした。そこで匿名書面作って多くの官門に掲示させた。その文面は「わたしたち共同胡人の家を襲った者だが、仲間が多いので、秘密が漏れることを恐れている。いま自首したいのだが、死罪免れないことを恐れている。もし先に自首すれば免罪すると布告してほしい」というものであった柳慶その後免罪掲示貼り出した。2日後広陵王元欣の家奴が自首してきたので、かれを糾問して仲間全て捕らえることができた。 宇文泰安定国の属官王茂に対して激怒して、かれを殺そうとした。朝臣たちは王茂の罪ではないことをみな知っていたが、あえて諫めようという者もいなかった。そこで柳慶進み出て、「王茂に罪はないのに、どうして殺そうとなさるのですか」と諫めた宇文泰はますます怒り、「王茂死罪に当たる。卿がもしその無罪をいうのであれば、また罪に問わねばならない」と罵り柳慶捕らえて前に引き立てた柳慶は「諫言聞かない君主不明といい、諫争しない臣下不忠いいます。慶めは謹んで愚誠を尽くし、死を惜しみません。ただ公が不明君主となることを恐れるのみです。深くご賢察願います」と抗弁した。宇文泰誤り悟って王茂を赦そうとしたが、時遅く王茂はすでに処刑されていた。翌日宇文泰は「わたしは卿の言を用いず王茂冤罪死なせてしまった。王茂の家には銭帛を与え、わたしの過ち明らかにするきだろう」と柳慶にいった。 晋公宇文護北周政権掌握すると、柳慶をその腹心として引き立てようとした。しかし柳慶固辞して、その意に逆らった柳慶宜州赴任すると、楊寛柳慶の元部下たちを捕らえて柳慶の罪を探させた。過酷な取り調べ60日あまり続き部下たちのうちには獄死する者まで出たが、柳慶不利な証拠出て来なかった。 柳慶の兄の柳檜が黄衆宝らに殺害され残された子3人はみな幼弱であったが、柳慶手厚く養育した。後に黄衆宝は北周帰順し朝廷は黄衆宝を優遇した。数年後柳檜次男柳雄亮白昼長安城中で黄衆宝を斬殺した。晋公宇文護がこれを聞いて激怒し柳慶その子弟たち全員捕らえた宇文護が「国家決まり君たちのやったことで破られた。私怨のために勝手な殺人許されようか」と柳慶責めると、柳慶は「わたしは父母の仇とは同じ天を戴かず、弟の仇とは国を同じくしないと聞いてます。明公が孝をもって天下治められるなら、どうしてこのことを責められるのでしょうか」と答えた宇文護はますます怒ったが、柳慶態度変えなかったため、免官された。

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アンドレ・ジダ」の記事における「人物・逸話」の解説

尊敬する兄弟子ヴァンダレイ・シウバのことを実の兄のように慕い日本でのデビュー戦では髪型坊主頭三本線刈り込み)をシウバ同じにした。 親交のある桜庭和志同じように、覆面被って入場することが恒例となっている。 マウリシオ・ショーグントレーナー務めていた事がある

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トウ嶽」の記事における「人物・逸話」の解説

王敦実権握った際、鄧嶽らは驕り高ぶり相手煽りたてては、思うがままに殺戮行った人々の家や田畑侵し古人の墓を掘り起こし市道掠奪行った識者はこれを知り鄧嶽らは皆、敗れるだろうと予見した。 東晋東部地域賦役多く、これに耐えかねた多く百姓らが広州移ってきた。鄧嶽大い貨幣器物鋳造させ、これにより周囲異民族兵器製造方法知った安西将軍庾翼上表して「東部国境他国の侵攻止まず逃亡する者も徐々に多くなり、夷狄はその隙を伺ってます。もし、鋳造の利を知れば侵攻止めることはできません」と、憂慮した。

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三木国綱」の記事における「人物・逸話」の解説

国綱神官としても地元住民慕われていたとされる三沢の乱では乱の頭として、牢人衆である江馬時政鍋山高・鍋右近大夫広瀬宗直等と共に一揆行った山下城居館国綱築城した。1577年築城された居館と、詰の城である背後山城がある。山城頂上番城からは三木姉小路氏松倉城見え、西の尾根には狼煙台があり、すなわち連絡役割として築かれた。城跡には山下城址の石碑夫婦松がある。 娘婿になるにあたり水無神社神職の座は一族森氏譲った

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イマードゥッディーン・アル=イスファハーニー」の記事における「人物・逸話」の解説

イブン・アル=アシールはイマードゥッディーンについて「彼は傑出した政庁書記官であり、言葉用いることに熟達していた」と述べる。 イブン・ハッリカーンによると、彼は死期悟った晩年、誰であれ来客があると以下の詩を吟じたという。「私はあなたの住まいに客として訪れた。おや、主人はどこだ? 私の知人はもはや私を知らず、私が知っている人たちは亡くなったサラーフッディーンもう一人側近、バハーウッディーン・イブン・シャッダードがサラーフッディーン仕官した際、バハーウッディーンにサラーフッディーンが何か要件あるようだ伝えたのはイマードゥッディーンであった

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王固」の記事における「人物・逸話」の解説

王固仏教篤く信仰して生母死後終身菜食守った夜に座禅組み、昼に経典を読む生活を送った王固西魏使いしたとき、西魏の人は饗宴開いて王固もてなした。1匹の羊を殺そうとしたところ、その羊は王固の前で拝跪した。また昆明池で宴が開かれた西魏の人は南人嗜む聞いていたので、網を張ってを捕ろうとしたが、王固仏法をもってしたため、1匹も捕ることができなかった。

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王騰 (前秦)」の記事における「人物・逸話」の解説

王騰毛興は、苻氏一族婚姻結んでおり、氐族衆望集めていた。

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井伊直中」の記事における「人物・逸話」の解説

弓術馬術など武芸優れていた。特に砲術秀でており、一貫流という流派を自ら興している。 実子恵まれ、その多くは他藩の養子となって他家継いだため、幕末政治情勢大きな影響与えた人数が多すぎたこともあって、十四男の直弼のように養子先が決まらず部屋住みで過ごす者も出たが、直弼にはこれが幸いして三男・直亮の跡を継ぐことになった腰元不義の子を身ごもったと知り激怒した直中はこれを重く罰したが、後にその不義相手自身息子であったことを知り深く嘆き腰元その子供養のために天寧寺建てて手厚く供養した。この寺は五百羅漢の寺として広く知られている井伊氏では歴代藩主中でも名君一人として数えられている。側室の中では直弼・直元の生母であるお富を特に愛しお富若死にしたときには身分の差から葬儀参列できず、秋空に消えてゆく荼毘の煙を見ることしかできなかったという。また晩年の子供(直中数え50の子)のためか直弼愛したという。 松平定信老中就任すると、定信は、当時英明知られていた井伊直中酒井忠徳庄内藩9代藩主)に老中職に就くように再三説得をしたが、2人談合の上定信勧告には応じなかった。(「贈従三位酒井忠徳公」大正13年発行

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人物・逸話

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任讓」の記事における「人物・逸話」の解説

幼少から軽薄かつ無法者であった当時、州大中正を務めた恒はやむなく任譲追放した任譲蘇峻の将となり、勢い乗って多く人々誅殺したが、恒を見ると一転して彼を慎み敬い決し凶暴な行為をとることはなかった。劉超鍾雅殺害した際、逸は恒も処断ようとした。しかし、任譲心を尽くして助命保護努めたため、恒は難を逃れることができた。

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安宅冬康」の記事における「人物・逸話」の解説

冬康は平素は穏健かつ心優しい性格で、血気に逸って戦で殺戮繰り返し傲慢になっていた兄・長慶対し鈴虫贈り、「夏虫でもよく飼えば冬まで生きる(または鈴虫でさえ大事に育てれば長生きする)。まして人間なおさらである」と無用な殺生諌めたという逸話残っている。 『南海治乱記』には、「三好長慶智謀勇才を兼て天下制すべき器なり、豊前入道実休は国家謀るべき謀将なり、十河左衛門督一存大敵挫くべき勇将なり、安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり」と記されている。 冬康は和歌優れ安宅冬康句集』『冬康長慶宗養三吟何人百韻』『冬康独吟何路百韻』『冬康賦何船連歌百韻考証』など、数々歌集残し、「歌道達者」の異名持った中でも代表的な歌は、「古を 記せる文の 後もうし さらずばくだる 世ともしらじを」である。この歌には冬康の温和な性格がよく現れている。歌の師は里村紹巴宗養長慶である。なお、細川幽斎著書耳底記』の中で、安宅冬康の歌を「ぐつとあちらへつきとほすやうな歌」と評している。 冬康と、兄の三好実休和歌やりとりをした逸話は、『足利季世記』『続応仁後記』『三好記』『阿州戦記』『三好家成立之事』『十川物語』など、いくつかの軍記史料残っている。中でも、実休が恩人細川持隆殺したことを悔やみ、「草枯らすまた今朝の日に消えて 報いの程は終(つい)にのがれず」と歌を詠んだのに対し、冬康が「因果とは遥か車の輪の外を 廻る遠きみよし野々里」と歌を返したという話が知られる。ただし、この歌は、「報いの程は終にのがれず」が「因果は斯(ここ)に廻りに来にけり」であったりするなど、歌の内容史料によって差異があり、またその逸話についても、実休が夢の中で父・三好元長出会い、彼からこの歌を聞かされて、冬康に話したところ、冬康が返しの歌を詠じたという話にしているものもある。

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姚緒」の記事における「人物・逸話」の解説

姚萇同母弟であることから、彼に大変愛された。 姚興領域内及び朝廷文武諸官対し叔父姚緒及び姚碩徳の名を犯してはならぬ布告出して特別な礼遇尽くしていることを示した姚興姚緒権威大きいことから、彼が小人惑わされることを恐れ、特に清廉な人物選んで補佐させた。 姚興姚緒に会う度、家族としての礼を尽くし、名ではなく字で呼んだ姚興車馬服玩の類は全て姚緒及び姚碩徳のものを優先して自身はこれに次ぐものを用い国家大事に関して二人諮ってら行った。 姚興河東やって来ると、姚緒は城を出て出迎え臣下ではなく家族としてのをもって遇した

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板倉重宗」の記事における「人物・逸話」の解説

父の勝重が重宗と弟の重昌に、ある訴訟是非について答えよと言った。重昌はその場返答したが、重宗は1日猶予求めたうえで翌日に弟と同じ結論答えた周りものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論早く出していた、ただ慎重を期すためにあのような振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量上であると評したという(名将言行録)。 京都所司代として訴訟審理をする際は、目の前に「灯かり障子」を置き、傍らにはお茶用意した。心を落ち着かせ、当事者の顔を見ないようにすることで(人相などによる)いらぬ先入観持たないようにし、誤った判決をしないよう心掛けたという。 所司代として公務にあたって私心無く公平に処し正直に決断することを常に心がけ、良臣として人々広く高い評価受けていたという(徳川実紀)。 重宗は死刑判決下した罪人を常に呼び出し明日に刑を執行するが、申し開きあれば申せ」と述べた。そして罪人申し開いたことは死刑延期して何日もかけて調べ全て言い分無くなってから刑を執行したという(名将言行録)。 父・勝重から所司代推挙されたとき、重宗は固辞したという。だが父と秀忠の強い薦めがあって断りきれず、父に「なぜこんな大任を」と述べた。勝重は笑いながら「爆火を子に払うため」と答えたという(責而話草)。 重宗が所司代退任した際、難し訴訟をわざと5つほど判決せずに残し、それらについて自分存念書いたものを添えて後任牧野親成預けた牧野は重宗の添え書きに従ってその通りに裁いたが、京都町衆は「周防守(重宗)さえ裁けなかったものを新任牧野がすぐに裁いた」と褒め称えそれまで侮っていた牧野信頼したという(名将言行録)。 京の油小路に賀部屋寿幸という貪欲な男がいた。二百両の持参金で嫁を迎えたが、他に五百持参の話が持ち上がる離縁したくなった。しかし、持参金返したくないので、家内一同と嫁の乳母籠絡して狂言姦通謀り、嫁の鼻を削いで不義の妻として実家送り返した実家訴え受けて重宗は乳母下男拷問にかけて白状させ、寿幸夫妻と乳母下男など事件関与した者を一人残らず「都の上中・下引き回し磔」にした。寿幸の財産没収し、嫁に与えた。 重宗が京都所司代の時、叡山禅院住僧留守中に強盗入り寺宝什物盗まれた。所司代訴えたが、犯人不明だった三年後、ある僧が坂本泊まった時、その宿で出され夜着緞子なので不審思い、端を返す紙札寺名記されていた。そこで所司代訴え出て重宗が宿の主人捕らえ拷問にかけたところ、十七人が共謀して盗んだことを自白したため処刑された。名奉行でも拷問必要だったということである。 京都に鉈屋某という富豪がいた。ある罪で重宗に牢舎申し付けられ、その子二人が父を救おう江戸訴願した。江戸幕府から老中書状届いたが、重宗は読まず即刻鉈屋を処刑させた。書状内容は「子が云うには父の罪科死刑にするほどのものではない。もう一度吟味せよ」というものだった。重宗は老中対し、「京都の御政務のことは私に委ねられました。裁判のことについて京都差し置いて江戸訴え江戸から指図あっては京都法令は立ち難く京都難渋したことは江戸へ江戸へ下向されるのでは、とても私としては今後裁許できません。京都成敗不当とされるなら速やかに退任しましょう。他の者に御役を命ぜられますよう」と答えた老中たちは驚き、「そんな意味で本件関与したのではない。だから、これから京都のことは周防守(重宗)の心任せにせよ」と応じた。このことを聞いた松平勝隆は、「鉈屋の子供は孝行しようとしてかえって不孝をした。父に代わって牢舎願い出るのが誠の孝道だった。はるかに関東下って訴願するなどは所司代軽んずる行動であり、どうして周防守が許容するだろうか」と評した茶の湯古田織部学んだ茶人でもあった(茶人系譜)。

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板倉重昌」の記事における「人物・逸話」の解説

父で京都所司代の勝重が、重昌と兄の重宗と対し、ある訴訟是非について答えよと問うた。重昌はその場返答したが重宗は1日猶予求めたうえ、翌日に弟と同じ結論答えた周りものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論早く出していた、ただ慎重を期すためにあのような振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量上であると評したという(名将言行録)。のち勝重は京都所司代職を(嫡子ではあるが)兄の重宗に譲っている。 福島市杉妻町には重昌を祀った板倉神社があり、また同市では、重昌の訃報届いた1月7日門松片付け習わし続いている。 大坂冬の陣における豊臣方との誓紙交換の際、豊臣方誓書宛名大御所家康将軍秀忠のどちらにするか迷って重昌に質問した。すると重昌は迷うことなく家康にするように述べた帰陣した後、家康そのこと問われると「私は二君使いではなく家康公の家臣です」と述べた。その忠誠心家康誉められたという(『寛政重修諸家譜』)

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各務元正」の記事における「人物・逸話」の解説

戦での武功多き武将陪臣身ながらその武勇織田家中でも知られており鬼兵庫異名取った三木合戦の際に元正負傷した際には織田信忠から直に医者派遣され、長可が毎晩のように見舞い訪れたという。 高遠城攻めの際には長さ九尺(約2m70cm)に及ぶ鳥毛の長指物指して現れ信忠より賞賛された。 この長指物高遠城敵陣攻め入った帰り、城の壁に挟まってしまう。元正焦ったため転倒し敵中入ってしまった。主君·長可は足軽ドジ踏んだ勘違いしていたが、元正であると分かる助けるべく突撃し敵を蹴散らした。この一件織田信忠本隊到着する前の出来事であり、軍令違反として、戦後織田信長より注意受けている(但し謹慎処分等はなく、武勇に関して称賛されている。)。 森忠政大井宿にて蒲生氏郷馳走したことがあり、その饗応役を忠政から命ぜられた。その際、氏郷にねだられ往年の武功話を語って聴かせた。 蒲生氏郷各務元正大層気に入り蒲生家中元正引き抜こうとしたことがあった。氏郷が元正一万五千石待遇勧誘使者送ったところ、元正がそれを断ったため、氏郷は二万石にして再度勧誘使者送った元正はついに怒り発し使者対し二君仕へず」の理を説き、氏郷の手紙も読まず追い返したという。 『兵庫覚書』という自伝的な書を残している。 子孫嫡流元正あやかり代々各務兵庫」を称した。また庶流ではあるが、赤穂浪士横川宗利元正玄孫にあたる。

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シール・クーフ」の記事における「人物・逸話」の解説

イブン・アル=アシールは、ヌールッディーンシールクーフの関係を以下のように記している。 「ヌールッディーン他者には無いシールクーフ勇猛さ見ぬいており、彼と懇意にし高い地位与えたヌールッディーンシールクーフの上褒美多く与え、彼はホムス、ラフバ、その他の土地を持つまでになり、常備軍司令官をも務めた」「ヌールッディーンアイユーブシールクーフ兄弟信用し、彼らはその国で最も強力なアミールとなっていった。ヌールッディーンエジプトへ軍を送ることを計画した時、彼はシールクーフただひとりがこの重要事任せるに足ると判断した第一回エジプト遠征の際の逸話として、イブン・アル=アシールは以下のようなものを伝えている。ビルバイスを退去する際、シールクーフは自ら戦斧かついでしんがり務めていた。海外からやってきた十字軍兵士一人彼に声をかけ「十字軍エジプト軍あなた方裏切可能性想定してはいないのか」と訪ねたところ、シールクーフ次のように答えた。「私はむしろそうなることを望んでいる。そうすれば貴殿らに私がいかなる戦いをするかお目にかけることができる。神にかけて、私は己の剣を振るう。私の部下たちは自らに倍する数の敵を倒して死ぬだろう。そしてアル=マリク・アル=アーディル・ヌールッディーンは、お前たち戦い、その指導者討ちお前たちを破るだろう。我々はお前たち領土をうばい、生き残る者は誰ひとりとしていない。神にかけて言うが、部下たちさえついてくれば最初の日にお前たち突撃をかけるつもりだった、彼らは私を止めたが」。十字軍兵士は「我々(海外からきた新参西洋人)は、この地の西洋人貴殿のことを大げさ言い恐れることを常々不思議に思っていた。だが、どうやら彼らに謝らねばならぬようだ!」と言って去っていったという。 第三回エジプト遠征後の逸話として次のものがある。 シールクーフエジプト乗り込んできた際、シャーワル宴会かこつけてシールクーフシリア軍アミールたちを殺害するという計画立てた。しかし、シャーワル息子カーミルはもしシャーワルそのようにするというのなら、自分計画シールクーフ告げと言って反対した。シャーワルシールクーフを殺さねば確実に自分たちはシールクーフ殺される説得しようとした。しかしカーミルは、仮にシリア軍排除してしまえばエジプト十字軍占領される他なく、そうなればシールクーフらに自分たちが殺されるよりもより不名誉であるとして考え変えなかった。シャーワル殺害後(マクリーズィーによればシャーワル殺害された際にカーミル殺されているが、イブン・アル=アシールはそれに触れていない)、シールクーフはこのやり取り知っていたので、しばしば「もしカーミル生きていてくれたなら、彼の行い厚く報いることもできたのだが」と漏らしていたという。

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大久保忠隣」の記事における「人物・逸話」の解説

改易言い渡されたのは慶長19年1614年1月19日で、忠隣はこの時、京都藤堂高虎屋敷将棋指していた。そこに前触れ無く家康の上使として京都所司代板倉勝重現れたのを聞いて全て悟り、「流人の身になって将棋楽しめぬ。この一局が終わるまでお待ちいただきたい」と告げると、勝重はそれを承知したという。また、忠隣の改易を知るや、京都市民大慌てし、「洛中洛外物騒がしかりしに、京童ども、忠隣罪蒙る聞きて、すはや事の起こるぞとて資財雑具ここかしこ持ち運び以ての外騒動す」と『藩翰譜』にある。 井伊直孝が、家康死後大久保忠隣冤罪将軍秀忠嘆願しようと図ったところ、忠隣は家康対す不忠なるとして、これを断ったとされる関ヶ原の戦いの後に、家康重臣集めて後継者に関する相談をした時に秀忠の兄の結城秀康や弟の松平忠吉の名前が挙がる中、忠隣が秀忠推薦した逸話知られる(『台徳院殿実記』)。 秀次事件の際、豊臣秀次秀忠人質にして家康仲介してもらおう画策した。しかし忠隣は秀次が送ってきた2度使者巧みに追い返しその間秀忠伏見屋敷に避難させて難を逃れたという(『藩翰譜』)。 茶の湯好み古田織部学んだ茶人でもあった(『茶人系譜』)。数寄屋植え込み工夫凝らし上方大名との接待用いていた。また使者にも出した上、馬も与えていた。このため忠隣は奥州より馬を大量に購入し江戸小田原置いていた。正信はこれらの行為異議唱え小田原からの転封申し出るべきと助言したが、忠隣は自身小田原拝領するのは当然と答え、その発言問題になったとある(『石川正西聞見集』)。

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唐鐸」の記事における「人物・逸話」の解説

あるとき洪武帝侍臣たちと歴代興廃論じて、「朕の子孫を周の成王康王のように、輔弼する臣下周公旦召公奭のようにして、王朝命脈の永からんことを天に祈るべきだろう」といった。唐鐸進み出て大善至徳人物太子教師とし、側近選んで輔導させれば宗廟社稷万年の福を享受できるでしょう」といった。洪武帝はまた「人には公私があり、そのため言葉には正邪がある。正し言葉諫言忠告につとめ、邪な言葉誹謗阿諛につとめるものだ」といった。唐鐸は「誹謗は忠に近く阿諛は愛に近しいものです。それらに目を眩まされることがなければ、人を中傷してへつらう人物は近づいて来ないでしょう」といった。 唐鐸有徳人物で、性格は慎重細心であり、みだりに取った与えたりしなかった。 洪武帝は「唐鐸とは友として君臣として今まで三十数年つきあいになるが、人とつきあって顔色を変えることはなく、また人の悪口を言うこともない」と評した洪武帝はまた「都御史の詹徽(詹同の子)は剛毅果断で悪を憎み、かれのおかげで胥吏市場で不正をおこなうこともできないが、かれへの不満や誹謗朝廷満ちている。唐鐸重厚で、臆病と言われるほど何もしない人心古びないとは、このようなことか」といった。後に詹徽は罪に問われ処刑されたが、唐鐸への洪武帝恩遇は変わらなかった。

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ジム・パーマー」の記事における「人物・逸話」の解説

愛称の「Cakes」は、登板日の朝食に必ずパンケーキ食すことから言われた。 現役時代監督アール・ウィーバーとの確執は有名で、ウィーバーをして「パーマーおかげでこんな白髪になってしまった」と言わしめる程だった。 前述にもある通り選手生活の晩年チームメイトとなったカル・リプケンとは長い親交がある。新人時代リプケンの父カル・シニアが監督務めていたA級マイナーチームでプレーしていたが、その時幼少時リプケン見ていたことがある。この縁で高校生時代リプケン相手スプリングトレーニングパーマー投げリプケン打ったこともある。 ハンサムな顔つきから、下着メーカーコマーシャル出演していたことがあった。

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侯君集」の記事における「人物・逸話」の解説

君集の性格について外面飾りたてて、人に威張るのを好んでいたと伝える。弓矢おもちゃにして弓術できない技はなく、武勇誇っていた。 君集は兵隊出身だったので、もともと学問がなく、任官されるようになってから、読書始めた。それでも人材選挙つかさどり考課定め出て将軍となり、入って朝政参画し、いずれも時の栄誉をえた。 君集は西域功績挙げながら、ひとたびは獄に落とされたため怏怏として楽しまなかった。張亮太子詹事として洛州都督となることを知ると、君集は激怒して張亮大げんかした。 君集は李承乾の乱が発覚する直前画像が凌煙閣に置かれたため、二十四功臣列することができた。君集が処刑されるとき、太宗は「公とは永の別れとなるかな。今後は、ただ公の遺影を見るだけだ」といってすすり泣いた

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斎藤龍興」の記事における「人物・逸話」の解説

父の義龍祖父の道三に謀反起こした際、義龍はその母方一色姓を称したというが、龍興自身一色姓を用いていた。木下聡は(織田信長一色姓への改称を完全に無視したこともあり)「一色名義記され多く龍興関係の史料認識されていない指摘している。また、美濃国時代には足利将軍家より偏諱受けて「義棟」を名乗っている。 斎藤氏以来家臣団一色氏家臣団名字改名させた。(日根野弘就一色氏守護代延永氏を名乗るなど) 前述越中富山県)に土着した説と関連して富山市には九右エ門(龍興)が教えられ開いたとする由来を持つ鉱泉があり「霊源泉」と称している。経力の湯といって長年続き、のちに浦上四番崩れ捕らえられ隠れキリシタン預けられた、などの歴史がある。大正6年1917年)に廃業し、霊鉱泉祀られていた木造薬師如来像は現在、本誓寺富山市経力)に安置されている。富山藩第9代藩主前田利幹所蔵していたとされる経力の湯の冬景色描いた図が石川県金沢市に伝わる。 龍興畿内在住時、キリシタン目指した。その記録幾つか残っている。ルイス・フロイスからキリスト教宗儀世界の創造などについて説かれる聴聞した事を逐一書き留め次に教会へ姿を現した際にはその全て明白に流暢に一言一句間違いなく反復することが出来たといい、教会信者達はとても驚いたそうである。 ガスパル・ヴィレラに対して人間デウスによって祝福され万物の霊長であると保障されて居ると師は言う。ならば、なぜ人間界にかくも多くの不幸が満ちており、戦乱の世は終わらないのか。万物の霊長たらんと創造されたのなら、なぜ人間意志に世は容易に従わないだろうか。こんな荒んだ世の中一生懸命善良に生きている者達が現世では何ら報い受けられないのは、何故なのか」と質問したヴィレラ龍興疑問対し、その全て納得がいく様な道理上げて説明した記録されている。 ルイス・フロイスは『日本史』に龍興について、「非常に有能思慮深い」と記録している。

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島津義久」の記事における「人物・逸話」の解説

徳川家康義久興味あったらしく、本多忠勝命じて島津豊久義久の甥)を大坂招き耳川の戦い顛末聞いた豊久かくかくしかじかと話をし、やがて退出した後、家康は「いやはや義久はかねて聞いていたより恐ろしい大将である、いにしえ楠木正成勝るとも劣らない采配ぶりである」と感心したという。 ある時、義久家康合戦の手柄話を乞われた。義久は「弟たち家臣団遣わせ合戦し、勝利をおさめたというだけであって自分働きなどひとつもない」と答え家康は「自ら手を砕くことなく勝利を得ることこそ源頼朝に並ぶ大将の道」と感心している。 江戸時代初期国分地方(現鹿児島県霧島市国分)においてタバコ生産奨励したのは義久といわれる(『大日本農功伝』)。貧し土地柄換金性の高い農産物乏しかった南九州において、タバコ収入以後貴重な薩摩藩収入源となった自室歴史上大悪人の肖像画飾っていた。不思議に思った家臣が、なぜ悪人肖像画飾っているか問うと、「良い行いは、自らがしよう思えば出来る。だが、悪い行いというのは知らず知らずのうちにしてしまうものだ。常にこの連中の顔を見て、こいつらと同じ真似するまい、そう心がければ、道を誤まることはない」と答えている。 この時代武将には珍しく義久本人当時肖像画残存していない。『要用集』下巻に「御画像御影・御牌所は妙谷寺で、御廟所福昌寺」とあり存在していたのは間違いないようだが、廃仏毀釈により同寺が廃寺となった際、またはそれに伴い大平神社移管された際に失われたようである。そのため容貌に関して不明である。鹿児島県薩摩川内市泰平寺義久降伏銅像がある。 細川幽斎から古今伝授受けたり関白近衛前久との親交厚かったなど、教養人でもあったと言われている。 ある日義久居城城門あまりにも質素なので、弟が「他国使者が来た時に恥ずかしいのでは?」といったところ、「小板葺きにして立派になっても、百姓疲れきっているようでは、使者国主政治良くないことを見抜くだろう。使者になるほどの者は、様々なことに気付く者だ。途中当国の地を通って風俗、生活を見て富み栄えているか、城門粗末であろう何の問題もない。むしろ、城門立派なのに民衆疲労している方が問題だ」と言い返した天正14年1586年)、義久豊臣秀吉から直書をもって大友宗麟との和睦豊臣氏への臣従迫られたが、1月11日出した書状では宛名細川幽斎にして和睦臣従拒むという返信送っている。この内容は秀吉出自低さ厳しく指摘する内容であり、その後島津氏対す秀吉心証を非常に害した可能性がある。 沖田畷の戦い豊後侵攻戦などで出陣するときにはくじで吉凶を占うなどしている。特に豊後侵攻においては幾度もくじを引いたため、家臣の上井覚兼には日記で「兎角愚慮の外の由也」と記され嘆かれている。また、豊後侵攻に於いて幾度もくじ引きしたのはこの戦によって豊臣政権全面衝突するのを何とか避けようとした策ではないかとの指摘がある。 義久末弟島津家久正室産んだではなく妾腹生まれた子であり、またその母は高貴な身分ではなかった。兄弟四人連れ立って鹿児島吉野馬追行った時のこと。馬追終わり当歳駒を一緒に見ていたとき、歳久が義久義弘向かって「こうして様々な馬を見ておりますと、馬の毛色は大体が母馬似ております人間も同じでしょうね」と言った義久は歳久の言わんとすることを察し、「母に似ることもあるだろうが、一概にそうとも言い切れない。父馬に似る馬もあるし、人間同じようなものとは言っても人間ではないのだから、心の徳というものがある。学問をして徳を磨けば不肖父母よりも勝れ、また徳を疎かにすれば、父母に劣る人間となるだろう」と言った。それからというもの家久は、昼夜学問武芸にのみ心を砕き片時も無為に日々を過ごすことはなく、数年の内に文武の芸は大い優れ知力の深いこと計りがたいほどとなり、四兄弟能力優劣なくなった(『日本戦史 九州陣』)。 義久への殉死者で「之丞(肥後盛秀)」という者がいた。ある日立ち入り禁止である義久狩場で雉狩りしてた之丞は、義久が来たのを見て逃げ出したが、之丞は追われる最中に笠を落としてしまう。義久が笠を見てみると持ち主姓名書いてあった。しかし義久微笑して、名前の部分消した之丞はこの行為により命拾いし、この事を恩に感じて殉死した

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賈玄碩」の記事における「人物・逸話」の解説

賈玄碩容貌美しかった。あるとき、苻生が妻とともに楼上のぼったとき、賈玄碩庭中にいるところを見て、妻が「あのお方はどなたでしょうか?」と尋ねた苻生は「お前はあの男欲しいのか」と言ったその後賈玄碩誅殺されたとある。

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ベルニダ・ボーマン」の記事における「人物・逸話」の解説

ジョン結婚することは、日本に行くこと。不安は何一つなかった。」と言う。父に反対された時も「私はジョンの妻。結婚したら夫にどこまでもついていく。」と日本へ行く決意揺るがなかったと言うあゆみの家建設にあたり、ベルニダは「生活は楽じゃなかったけど、みんなで一丸となって前に進んだ楽しかった。」と振り返る。 ベルニダさんは「もう年ですから。100円200円の小さなお金大きなお金になったのは奇跡大きなことは小さなことから始まる、ですね」と話した。 「あゆみ」について「楽しかった1人ではできなかったが、手伝ってくれたスタッフお客さんなど多くの人に支えられてやってこられた」と謝辞述べた

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久保田万太郎」の記事における「人物・逸話」の解説

浅草ゆかりの文人たちの遺作通して東京下町文化継承していこうと、「みつわ会」という劇団結成され公演が行われている。 一人息子長年同居していた事実上の妻に先立たれ本妻との関係は破綻していたことから、自身の作品著作権含め一切母校慶應義塾大学譲渡している。慶應義塾では現在も「久保田万太郎記念講座」があり、内外著名人招いている。 急死した妻の通夜の席で盗み酒をして畏友水上滝太郎から怒り買ったり、弟子川口松太郎を、大衆作家として長い間不遇に扱い泣かせるなど身近な対人関係不器用な面が多くあった。 1952年昭和27年)に永井荷風文化勲章受章したが、その時選考委員会荷風強く推薦したのが久保田であった1955年文部大臣賞選考委員であった戸板康二武智鉄二受賞反対その足で久保田のもとに赴き「唯今武智文部大臣賞つぶして参りました」と忠勤励んでいたと武智自身が「私の貰えそうな演劇賞」で書いている。戸板はこの話は武智交際していた女性からだが真実ではないとしていた。 1956年日中文化交流協会派遣した初の作家代表団として周恩来総理謁見した久保田は、その時印象を「周総理 小春の眉の 濃かりけり」という俳句詠んでいる。 1959年青江舜二郎戯曲一葉舟」を盗用(ただし青江作品自体も、著作権消滅後とはいえ樋口一葉作品日記を基にした二次創作である)したとして、東京地方検察庁著作権侵害による損害賠償請求訴訟起こされるも、菊岡久利仲裁和解読売新聞1959年12月5日)。

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徳川斉昭」の記事における「人物・逸話」の解説

諡号の「烈公」にも示されるように、まさに幕末をその荒々しい気性生き抜いてきた人物であった[要出典]。 斉昭は生涯男女あわせて37人の子供をもうけたが、その多く各地藩主になったり、藩主嫁いだりしている[要出典]。 礼儀作法厳し性格であるため、幼い頃寝相悪かった息子慶喜が寝る際に、両脇剃刀立てて寝かせていた。 幼少期から水戸学影響受けたため、開国には猛反対していたが、西洋物品に対して大い興味示したといわれるまた、越前藩松平春嶽あてに、本当開国しかないが私は攘夷派頭目攘夷派人々思われているため、開国と言えないので貴君らが開国計らって欲しいとの手紙を書いている。 幕末期人材少なかった徳川家では唯一のカリスマ性行動力持ち合わせ人物であり、その死は幕府にとって痛手となった。斉昭の死後水戸藩では内紛起こり、彼が見出した人材ことごとく自滅することとなる。 系図上の先祖である徳川光圀と共に茨城県常磐神社祭神として祀られている。 斉昭の詠んだ歌を刻んだ歌碑前段詞から、水戸藩中屋敷址に弥生という地名生まれたため、弥生時代間接的な名付け親である。 斉昭は寵愛していた側室地位引き上げた。その側室大喜びして金を無心したので斉昭は理由尋ねた。すると「今までより地位上がりましたので、衣装費用多くかかりますから」と答えた。斉昭は「それには及ばぬこれまでの衣装我が前に務めよ」と申し渡したが、側室は「それでは体面保てず、奉公が務まりません」と答えた。すると斉昭は激怒しこのようなときにおねだりするとは心違い甚だしい。奉公が務まらないというならば出仕無用だ」と述べて出て行ったその後、斉昭はその側室目通りを許さなかったという。 水戸家毎年幕府から1万両の援助金受けていた。だが斉昭は「祖公以来35万石で暮らすことが本意であり、倹約するのはこの石高で暮らすためである。以後奢侈固く禁止し節約心がけ拝領した石高で暮らすべきであるその事始めとして、1万両は幕府返上し持高応じた忠勤に励むよう。諸役人はこの趣旨沿って生計をたてよ」と述べた水戸家相続し間もない頃、家臣らは先代藩主の兄斉脩が食べていたものと同じ食事用意した。斉昭はそれを見て「余はこれまで日陰者であったが、兄が亡くなってはからずも水戸家継いだ御三家格式は非常に重いので表向きのことは変更できないだろうが、内向きのことである食事などには金などかけることはない」と述べ翌日から部屋住みの頃の食事変えさせた。 武術にも堪能で、自ら神発流砲術常山薙刀術創始し弘道館指導させた。 大の肉好きとして知られており、彦根藩から近江牛贈られ時には返礼の手紙を書いている。 自らの庭にて乳牛飼っており、健康のため、牛乳ギヤマンの器に入れて飲んでいた。斉昭の著書である「菜食録」では、牛乳精力剤であるとの説明がある。 水戸藩領内景勝地水戸八景』を選定した藩政改革の際、農本主義唱え農民五穀への感謝から、農民かたどった人形をつくらせ、食事始め前に人形の笠の中に一飯供えることを習慣としていた。その遺徳しのんで明治末期から素焼き木彫りの「農人形」が作られはじめ、水戸市郷土玩具になった

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藤堂はな」の記事における「人物・逸話」の解説

アイドルユニットアリス・マーブル学園』(2011年 - 2012年3月31日)に所属していたものの、2012年3月31日解散2012年7月より「ドードーひなぎく主催 藤堂はなとして都内ライブハウス中心に、アイドルライブへ出演している。アイドルライブではよく球体関節ストッキング愛用している。看護師として働いているため、医療関係のトークネタが多い。 少女遊会『お嬢様学校少女部』では「ついんて組 天野花名義活動モデル写真家造形作家コスプレイヤーとして活動するマルチクリエイターアイドル。クリスチャンプロテスタント)でもある。 ウラダイコク☆シャバダバBAR公演「シャバダバ・ロケット」にて架空アニメ魔法少女 めぽりん」の主題歌初めフルコーラス歌唱した。 バラエティ番組ヒルナンデス!」にてイルミネーションマニアとして出演しイルミネーションについて解説を行う。 ソロ活動開始して平均10回のペースライブ出演行い、「第100いたずらぷりんせす」(2012年12月18日)においてソロ復帰50回目ライブ(5ヶ月50突破)を達成

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明帝 (南朝宋)」の記事における「人物・逸話」の解説

明帝人柄は穏やかで、読書好み即位前には『江左以来文章志』や『論語注』などの著作があった。即位時に四方反乱頻発したが、討伐軍の指揮官親族反乱荷担しても、彼らを疑わず信任し続けた。乱が平定されると、反乱荷担した者たちの大半赦し能力ある者は任用して旧臣変わらない待遇とするなど、寛仁態度取った。その一方で、弟や甥など、自らの息子地位を脅かす皇族たちを次々処刑したまた、治世末年には迷信深くなり、不吉な言葉を口にしたり、文書書いた者を処刑することもあった。 肥満した体格で、前廃帝には「王」と呼ばれていた。前廃帝命令で裸にされて、泥水張った大穴入れられ、飯と雑食混ぜた直接口から食わされたこともあった。晩年肥満から性的不能となり、諸王側近愛妾妊娠すると、彼女ら密かに後宮入れて自分の子供として生ませたという。

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柿崎景家」の記事における「人物・逸話」の解説

上杉将士書上』によると、謙信は『和泉守分別があれば、越後七郡に敵う者があろうか』と評価していたという 勇将揃いの上軍でも屈指の戦上手であり、上杉軍戦いでは常に先鋒務め、その名を聞いただけで敵は逃げ出したともされている。 謙信若いころ40歳ころ)、敵将の娘である伊勢姫恋仲になった聞いた景家は、抗議して関係を絶たせ、伊勢姫その後出家し自決した。これがきっかけとなり、謙信生涯妻を娶ることはなかったという説話がある。 死罪原因となったとされる信長内通疑惑顛末は、景家が不要な馬を交流有った上方馬市売り出したところ「越後の馬は上質である」との理由信長高値でその馬を買い取り、贈品と共に礼状送った。景家はこうした経緯謙信報告していなかったために、景家が直接信長に馬を売った思われ謙信は景家が内通していると疑って殺したというものである柿崎氏は代々越後名山米山薬師信仰してきた由緒がある。景家在世当時信仰心は篤かったとされる謙信時代初期には筆頭格であったとされるまた、家格高く古式理解し機知教養に富むものでなければ務まらない重任外交使節接待供応など)を拝していた。

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高橋竜彦」の記事における「人物・逸話」の解説

妻の牛渡葉月女子プロゴルファーで、髙橋キャディ務めることもある。

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市川左團次 (4代目)」の記事における「人物・逸話」の解説

歌舞伎俳優の中で逸話が多い人物として知られ紳士録アンケート冗談半分趣味は「覗きと書いたらそのまま載せられことがある。たとえば実際に南座顔見世出演中楽屋の窓からアベックラブシーン覗いてしまったことがあり、後にトークショーなどでこの一件巧み話術披露している。2011年9月9日関西テレビ快傑えみちゃんねる』では「SM」も趣味で、再婚2006年)の寸前その道具捨てた語っている。 身長が180cmあり、歌舞伎役者の中では坂東彌十郎並んで長躯人物として知られている。この高い身長から、少年時代プロ野球選手志していたが、父・三代目左團次と親交があった小西得郎から『君には無理だ』と諭されたことがある。後に、実際に三代目左團次が小西説得頼んでいたと知らされている。 学生時代典型的な不良だったと自著記しており、五代目男寅時代には十七代目中村勘三郎恐れられたこともある。 歌舞伎演じる役は敵役老役を主にするが、トークにおいてもいやらしく聞こえないのは自身人柄によることも大きく歌舞伎役者襲名披露などの口上登場する時も、必ず笑いを取る口上をするため、これを楽しみにするファンも多い。加えて隔年開催される俳優祭という歌舞伎役者イベントでは、必ずと言っていいほど「とんでもないこと」をやるため、これ目当てで来る人も多いという。 5代目中村勘九郎十八代目中村勘三郎襲名した際の襲名披露公演での口上では、『昔、端役だった頃に勘三郎(勘九郎)の前にいた自分オナラをしてしまった』という話で場内爆笑となっていたが、その刹那真顔戻り「まずは、お祝い申し上げます次第ござりまする」とガラリと変わるのがまた面白く場内には割れんばかりの拍手巻き起こったまた、2018年1月高麗屋三代襲名披露興行口上では、暁星学園後輩である新・白鸚(九代目松本幸四郎)が在学時代勉学励み級長や副級長等を勤めながら舞踊長唄稽古励んでいた、という逸話披露した後、『彼の勤勉さには、わたくしはとても及びませぬ。わたくしは、高校生なりますと、踊り長唄稽古は脇に置きましてキャバレー・クラブに通うお稽古専念しておりました次第ござりまする』と述べ会場大笑い誘った2014年2月21日テレビ東京たけしのニッポンのミカタ!出演した時には食事買物には並んだとがない」が、「パチンコ屋開店の9時半に並ぶ」と語っている。

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徳川頼貞」の記事における「人物・逸話」の解説

日清戦争当時海軍戦死者葬列水交社出て青山斎場に向かう途中紀州徳川家本邸前を通っており、頼貞はしばし家職に連れられて葬列見送り出ていたという。一個小隊軍楽隊葬列先頭立って演奏していたこともあり、幼少期から西洋音楽親し機会恵まれていた。 1918年大正7年)、ロシアから米国へ亡命途次にあったセルゲイ・プロコフィエフ東京箱根会い日本滞在記念としてピアノソナタ新曲注文したが、この作品実現しなかった。プロコフィエフは、同年7月8月日記の中で繰り返し頼貞の名に言及している。 フランス贔屓ハイカラ趣味持ち主でもあり、一流ホテルからコック引き抜いて毎日本格的なフランス料理食すなど、本邸別荘フランス式通していたといわれるまた、東京市品川区大崎洋風大邸宅を新築して「パレス・クイーン・エリザベス」と名付けパーティーを開く際には金色制服着せた使用人玄関に立たせて接客させていた。 クライスラープッチーニサン=サーンスエルマンハイフェッツ親交持ち1926年大正15年)の国際現代音楽協会1929年昭和4年)にパリ開かれた第1回世界演奏家連盟会議などに日本代表として出席している。 戦前屈指の富豪華族として知られたが、華美な散財昭和恐慌影響終戦前の時点で既に経済的に破綻していた。1934年6月には、4月解雇され庭師11年長きわたって日当の中から積立金として毎日徳川家事務所預けていた計800円の返還求めたが、積立記録通帳示し再三請求したにもかかわらず無視され続けたとして候邸で服毒抗議自殺図った戦後財産税課税のため財産売り尽くし、妻の為子が池袋西武デパートお子様食堂経営していたこともあった。 国際文化振興会理事として頼貞との親交深かった上田辰之助によると、頼貞は「私は日本の二大経学者上田貞次郎小泉信三)の教え受けました。たゞし、私自身経済財産管理)はお恥しい次第です。」と語っていたという。 旧領地の和歌山県には父の葬儀戦時中疎開含めて数回か行ていないが、父祖の城である和歌山城には相当愛着持っており、1945年昭和20年7月9日和歌山大空襲和歌山城焼失したことを聞いて暗然とした気分になったという。戦後和歌山市長高善一らによる再建計画聞き付け長保寺残されていた大量戦時献木と新たに寺内山林伐採した木材寄付しているが、再建され和歌山城を見ることなく死去した

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藤原時平」の記事における「人物・逸話」の解説

『大鏡』には、道真仕掛けた史(役人)の放屁に思わず大笑いして仕事に手が付かなくなってしまった話が残されている。また、時平華美な装束参内すると、醍醐天皇怒り買って退出したその後自邸閉じ籠って誰とも面会しなかったところ、その噂が広まって都では贅沢が治まった。これは時平天皇があらかじめ打ち合わせをしていたことであるという。『大鏡』では時平の「あさましき悪事」によって、一族早逝したとしている。また道真の才を高く評価する一方で「才もことのほか劣りたまへり」としながらも「やまとだましひなどは、いみじくはしましたるも」と政治力評価している。また『大鏡』や『古事談』では時平評したものとして、容貌才覚ともに日本国には過ぎている、「日本のかために用いるにはあまらせたり」という評が伝えられている。 『寛平御遺誡』では、「先年、女のことにして失てるところあり」と時平女性関係で問題起こしたことが言及されている。『今昔物語』や『大和物語』、『十訓抄』でも時平好色な一面描かれている。時平伯父藤原国経在原業平孫娘北の方(室)としていたが、その類い稀な美貌の噂はすぐに時平の耳に届くところとなり、時平はそれが気になって居ても立ってもいられなくなってしまう。そこである日国経の邸を訪れて酒宴を開かせ、高齢の国経が酔い潰れた隙に北の方の許を訪れ、彼女を「自分の妻にしてしまった」。この北の方時平の間に生まれたのが三男・敦忠で、国経との間に生まれたのが滋幹である。 政治的には自らが権門勢家頭領だったにも関わらず荘園整理令を出す等意欲的に施政取り組み有能な政治家ではあったが、その能力発揮できた期間は短かった時平早逝後、政治実権は弟・忠平及びその系統移り時平系統いつしか中級下級官位甘んじる家格となって歴史埋もれる事となった。角田文衛は忠平とその子師輔が道真怨霊強調することによって、時平の子孫らを圧迫したではないか見ている。また師輔の兄藤原実頼の子藤原頼忠時平の娘を母とし、時平嫡子藤原保忠養子でもあり、師輔にとってはこれも圧迫対象であった『大鏡』時平伝や『北野天神縁起絵巻』では、雷神となって清涼殿で威を奮った道真に対して抜刀し、「生きてもわが次にこそものしたまひしか。今日、神となりたまへりとも、この世には、我に所置きたまふべし。いかでかさらではあるべきぞ。(生きている間は私の次席にあったではないか今日、神となったとしても、いまこの世では私に遠慮するべきである。)」と道真にらみつけ一度怨霊鎮めたとされる。ただし、『大鏡』においては時平威厳によってではなく王威限りなくはしますによって」道真理非をつけた、つまり道真官位秩序について、道理道理反す事とケジメ示した為である、と附記されている。ただし、実際に清涼殿落雷発生したのは時平死後11年経過した後の清涼殿落雷事件ただ一例である。 また、扶桑略記』では、時平は、道真祟り鎮めるために浄蔵和尚頼み祈祷してもらうも、道真現れ祈祷制止したので浄蔵調伏辞退したその後ほどなくして時平死去したという逸話語られている。 鎌倉時代以降成立した天神説話などでは、時平讒臣極悪人として取り扱われている。北野天神絵巻等では、自らより才にすぐれた道真重用されることを妬んで讒言したこととなっており、御伽草子では内裏放火させ、その罪を道真なすりつけるなど悪役としての時平像が形成されていった江戸期安永6年 (1777年) には、並木五瓶の作による歌舞伎天満宮菜種御供』(てんまんぐう なたねの ごくう)が上演され人気博した悪役として時平登場し、『時平の七笑』(しへいの しちわらい)という別名で知られている。また昭和25年 (1950年) には、谷崎潤一郎時平逸話題材とした『少将滋幹の母』を上梓している。その一方で時平祭神として地域存在している(後述)。

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胡僧祐」の記事における「人物・逸話」の解説

僧祐若くして決断力があり、軍事才能持っていた。 僧祐読書好んだが、文章作ることができなかった。公の宴会があるたびに、無理をして詩を賦した。田舎ことば並べたため、多く嘲笑浴びたが、僧祐平然としていた。 僧祐は巴陵救援のために出立するに当たり、息子に対して「おまえはふたつの門を開いておきなさい。ひとつの門をなぞらえもうひとつの門は白になぞらえよう。吉のときには朱門から、凶のときには白門から。わたしは勝利せずには帰らないと言い残した蕭繹はこのことを聞いてその勇ましさ認めた

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鈴木美重子」の記事における「人物・逸話」の解説

身長163cm。血液型AB型陸上競技経験がある。 父親ゴルフ練習場経営していた。 車好き日本女子プロ優勝副賞優勝賞金 (250万円) の2倍以上、550万円イギリス高級車だった。 白いポロシャツに紺のパンツ姿がオーソドックスだった時代街歩きさながらメイク、爪にマニキュア、耳にピアスというスタイル持ち込んだ

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佐々木マサ子」の記事における「人物・逸話」の解説

身長168cmと創成期日本女子ゴルフ選手としては大柄だった

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秦叔宝」の記事における「人物・逸話」の解説

叔宝の母が亡くなると、来護児使い立ててこれを弔問した。役人がいぶかしく思って士卒死んでも、将軍弔問することがありませんでしたのに、今ひとり叔宝を弔問するのはなぜですか?」と尋ねた来護児は「あいつには武才があり、志節もそなわっている長く卑賎な身分ではおるまい」と答えた張須陀下邳盧明月討ったとき、敵は十万あまり、張須陀の兵はわずか十分の一にすぎなかった。堅く守って進まず食糧尽きたので、撤退しようとした張須陀は「賊はわれらが退却するのを見れば、必ずこぞって追撃をかけてくるだろう。精鋭をもってその陣営を襲えば、勝利をえられよう。誰かわたしのために行く者はいないか?」と尋ねた諸将答える者のない中、叔宝と羅士信だけが奮いたって行くことを望んだ精兵千人分かって草むらの間に伏せ張須陀退却入った盧明月追撃をかけてきた。叔宝らは敵営襲い、門が閉じて入れなかったので、上って敵の旗を引っこ抜き敵営内を混乱させ、門を守る兵を斬って外の友軍導き火を放って敵営焼き尽くした盧明月が引き返すと、張須陀も軍を返して攻撃し、これを大い破った。また孫宣雅と海曲戦い先陣立った前後の功により建節尉に抜擢された。 李密黎陽の童山で宇文化及戦ったとき、李密流れ矢受けて落馬した。叔宝はひとりで李密守って奮戦したので、李密捕縛免れ宇文化及も兵を撤退させた。 叔宝には功が多く高祖李淵黄金の瓶を賜り、「卿は妻子かえりみず自分帰順してきた。さらにまた功を立てたからには、朕の肉を食わせたって惜しくはない。どうして子女玉帛惜しもうか」とねぎらって言った晩年に病が重くなると、「わたしは若い頃から戦馬の間にあり、二百あまりの戦を経て重傷負ったことも数あり、出血は数斛におよんでいる。どうして病にかからないことがあろうか?」と言った

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小林法子」の記事における「人物・逸話」の解説

選手のみならず役員としても競技運営委員会初代委員長、トーナメント・プレーヤーズ・ディビジョン初代部門長副会長歴任した

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川路聖謨」の記事における「人物・逸話」の解説

生まれ極度貧困の中、両親極めて厳格な教育受けて育った後年、弟の井上清直とともに両親愛情苦労偲んで2人して泣いたという。 子供時に疱瘡患い、あばたを沢山残す。眼は金壺眼で、引っ込んでいる。後年半身不随になってしまう。 日課超人的である。午前2時に起きて執筆読書をし、夜が白んでくると庭に出て、刀の素振りのすごきを平均2千回行う。その後来客相手をし、午前10時江戸城登城午後5時まで勤務する(この時代役人勤務は普通10時から2時まで)。家に戻ると既に客が待ち構えているので、一緒に晩飯食べながら話を聞く。酒は飲んだが1合までで、それ以上絶対に飲まない。客の応接が済むのが午後10時頃で、それからまた執筆読書をして12時に寝る。睡眠時間はわずか2時間、気が張っていたため平気だったと言われている。 佐渡奉行時、佐渡金山採掘従事する鉱夫人足悲惨な情況について記録している。 5年奈良奉行勤めたが、その間川路呼びかけにより、苗木数千東大寺から興福寺中心に植樹したという。それを記念する石碑奈良市興福寺近くに「植桜之碑」として残っており、碑文川路自筆と言われている。また貧民救済尽力している。 奈良奉行時代川路聖謨日記『寧府紀事』の嘉永元年1848年1月25日に「宝蔵院昨日稽古はじめなるに古格にて狸汁食するよし也 いにしへ真のにて稽古場精進なかりし今はこんにゃく汁を狸汁とてくはするよし也」と記されている。 日露交渉応接ロシア側は川路人柄に魅せられて、その肖像画書こう写真をとろう)とするが、それを聞いて川路ロシア人に「私のような醜男日本人の顔の代表と思われては困る」と発言し、彼らを笑わせた。この時、プチャーチン随行していたイワン・ゴンチャロフ次のように書いている。「川路私達はみな気に入っていた。(中略川路は非常に聡明であった。彼は私たち反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。彼の一言一句一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼けいがん)と、練達顕していた。明知はどこへ行っても同じである。」 プチャーチン帰国後に「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィット知性備えた人物であったと書いている。 この後1887年明治20年)、プチャーチン孫娘のオリガ・プチャーチナ伯爵所縁の地戸田村訪ね、そこに100ルーブル寄付をしている。その後歴史激動中にも両家交流続き2008年平成20年)にも日露修好150年祝っている。 日本でのピストル自殺第1号といわれている。 三代目桂米朝口演による落語鹿政談』では根岸肥前守の代わりに奈良奉行時代川路主人公となっている。 徳川慶喜一橋家相続及び改名前は松平昭致)が一橋家入った際に、平岡円四郎小姓として推薦した

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乃木保典」の記事における「人物・逸話」の解説

兄の勝典と違い両親良い面を受け継いだ人物といわれる父親似て前向き明るく人懐こい性格学才母方似て秀であり、難関である陸軍士官学校入学試験にも1発で合格している。兄の勝典は陸軍士官学校入学試験2度落ち、「3度目の正直」で漸く合格。それに対して勝典は僻むともなく2人の兄弟間の仲は良かったといわれる。 兄の勝典の負傷知らせ受けた保典は比較的近い場所(203高地)を攻めていた為、進軍しながら幾度か勝典の様子を見に見舞っており、生きている勝典と最後に会った時、母・静子のことを頼まれた。しかし、この約束は後に保典が戦死したため、果たされることはなかった。 森鷗外は、詩集うた日記』に収録した詩「乃木将軍」の中で、希典が保典の死を知らされた際の反応について将軍睫毛ひとつさえ動かさなかった」と記している。

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人物・逸話

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岩田昭弘」の記事における「人物・逸話」の解説

「がん太」では、「利狂人麺」「談合ラーメン」「総理言い訳ラーメン」を創作しテレビマスコミ新聞取り上げられた。 愛知県一宮市「嵯山 SAZAN」経営では、あれ麺”確変あり”や創作メニュー多くあった(細かい所ではティッシュの箱が、「北斗の拳」で、演出笑いもあった)。 病気ラーメン屋をやめた後、おカネができたら奥さん迎えに行く伝えたニート引きこもり若者たちとも接しNPO法人仕事工房ポポロ中川健史代表は、「紙芝居手伝った彼らには、舞台になると瞬時に変わるプロ根性仕事に向かう意識触れて変わり始めた者もいる」と言うボランティアについては、「1年くらい前からボランティア介護施設への慰問始めたんだ。エア料理といってね。エアギターヒント得て考案したとか野菜の絵を見せながら料理の話をするの。お年寄りからけっこうリアクションがあって、ボケ防止になるって好評なんだ。ボク人生波瀾万丈いろいろあったけど、このトシになってようやく平穏な生活を送らせてもらってるよ」と言った2010年11月中日ドラゴンズVS茨城ゴールデンゴールズ試合師匠本と再会。「子どもたち喜ばれる素敵なじいさんになれよ」と励まされた。

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柳生宗厳」の記事における「人物・逸話」の解説

医師曲直瀬道三親交があり、道三が宗厳窓の両人相手健康管理あり方問答形式語った養生物語』がある。 松永久秀家中ではフロイスから「偉大な剣術家」とも評され結城忠正親交があり、柳生家に伝わる「左太刀」という構えは忠正から伝えられたもので、上泉教えにはなかったという(『柳生連也自筆相伝書』)。

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相応 (僧)」の記事における「人物・逸話」の解説

同時代学者菅原道真とは親交深く道真大宰府向う際に淀川にて、道真自ら彫ったという小像と鏡一面渡され後々のことを託されたという。道真薨去後、それらを自身出生寺である来生寺、その隣の北野社それぞれ祀ったとされる

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松平頼恭」の記事における「人物・逸話」の解説

藩政尽力した頼恭を、高松藩中興藩主として領民称えたという。 本草学詳しく参勤交代途中で大坂立ち寄る時に平賀源内命じて薬草を探させ、幾日滞在して参勤費用多くなってしまったという。また、頼恭の命によって魚類などを描いた『衆図』、鳥類図鑑『衆禽画譜』、植物図鑑衆芳画譜』などが製作されている。 源内田沼意次召し出されると知った頼恭は大変怒り今後源内召し抱えることは絶対に認めないという内容回状全大名に回したといわれる奉公構)。

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姜紀」の記事における「人物・逸話」の解説

南涼禿髪傉檀姜紀愛重するのを見て禿髪利鹿孤は「姜紀確かに才覚がある。しかし、その挙動を見ると我が国長居するとは思えない。ならば、殺してしまった方が良いぞ。もしも姜紀後秦行けば後々患いとなってしまう」 と忠告した禿髪傉檀は「臣は布衣の交わり姜紀接しているのです。姜紀は私を裏切りません」と言って聞かなかった。しかし、姜紀南涼から後秦逃亡した。 『十六国春秋』で、姜紀呂氏叛臣であり、阿諛姦詐媚びへつらい悪だくみ偽り)を好み、たびたび人々仲を裂いた評された。

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松平忠固」の記事における「人物・逸話」の解説

日米和親条約調印後吉田松陰による密航事件起こり松陰とその師の佐久間象山投獄された際、開国派の忠優は2人同情し、何とか救済しようと尽力国元蟄居という軽い罪で穏便に処理した2度目老中就任際し、忠固は佐久間象山赦免しようと動いた安政4年7月松陰のもとを上田藩士の櫻井純恒川八郎訪れ象山赦免しようとしている忠固の意向松陰伝えている。松陰その事実を知り、忠固を深く敬慕する共に、櫻井恒川通して象山赦免を忠固に重ねて働きかけている。安政4年10月29日桂小五郎宛て書簡の中で、「而して獨り上田侯に眷々たる(思い慕うさま)ものは、櫻井・恒二子の言猶耳に在るを以てなり」と記し、忠固を敬慕する心情吐露している。

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兪通海」の記事における「人物・逸話」の解説

冷静沈着人物であり、軍律厳しくしながら将士恩徳与え、その辛抱厚かった水戦を得意とする巣湖諸将の中で最も水戦が得意であった

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徐成」の記事における「人物・逸話」の解説

徐成らの殺害知った姚萇は「徐成らは秦朝前秦)においていずれも名将であった天下未だ定まっておらず、我はいずれそれを彼らに任せようとしていたのに、どうして誅害してしまったのか!」と怒り露わにしたという。 誠実で素直な性格であり、その行動理に適っていた。身長六尺満たず容貌はひどく醜悪だったという。

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苻雅」の記事における「人物・逸話」の解説

その権略は並ぶ者がおらず、雄毅にして重厚な人柄であり、人々より良将の才があると称賛された。 前涼涼州張瓘前秦からの使者である閻負・殊へ、前秦にはどのような名臣名将がいるかと問うた時、閻負らは雄毅重にして権智果てが無い人物として李威と共に苻雅の名が挙がっている。 苻雅施し好み、これを頼って食糧求めるものが門を埋めるほどだった。苻雅は「今日天下物品は常に我の下にあるが、どうして後日貧しくならない事があろうか」と述べ一日たりとも施さずにいれば安心出来なかったという。当時の人々は「権翼の富は何も為さないが、苻雅の貧は寧を作る」と述べ、その振る舞い称賛した

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石本秀一」の記事における「人物・逸話」の解説

日本刀刃渡りあまりにも有名だが(ただし、実際に行ったのは1930年一度だけと言われている)、中学生に真剣の刃の上歩かせるという衝撃的な練習は、当時広島商の実力根幹をなすものだとして喧伝された。このため精神野球重視指導思われがちだが、実際この人ほど対戦相手対し研究・分析徹底的にして、練習の時から取り組んでいた人はいない、と言われており、近代野球基本早くから実践していた。広島商業監督時代最大ライバルである広陵中(現:広陵高校)の方が戦力上でも、大事な試合では必ず広陵倒した広陵出身濃人渉は、子供のときから広陵先輩石本カタキのようにいわれ、何の根拠もなく石本毛嫌いしていた。ところが、石本一緒になると、自分間違いということに気づいた。濃人は後に日鉄二瀬江藤愼一古葉竹識などを育てたことでも知られるが「指導法石本から教わったもの。石本式です。石本さんの野球です」と述べている。 タイガース1936年8月に、夏のシーズン不手際理由初代監督森茂雄解任し、石本二代目監督据えた電鉄本社当初成績振るわないの上石本総監督に置き、試合経験乏し中学出の選手二、三石本鍛えてもらい、一人前になったすべての指揮権返したらよい、ぐらいに考えていた。球団は、母校早大野球部OB組織である稲門野倶楽部了解求めたが、これに佐伯達夫らが反発球団への不信感もあって退団し自動的に石本監督就任決まった。この時、佐伯後任として名乗り挙げたが、石本敗れたために、それ以来プロ野球ぎらいになったといわれる東京六大学リーグ全盛時代に、石本関西学院大学出身だった。加えて早稲田大学出の前任者森茂雄解任対す同情が、タイガース内に石本への反目空気醸しだした。悪口あからさまに口に出す選手もいたが、豪気石本このような風潮にも臆せず時代比べて遥かに厳し練習厳しルール選手たち課し、やがてタイガース第1期黄金時代築き上げた広島商業監督時代から「野球学歴いらない要は力のあるなしが問題だ。序列は力を基準にしてつける。力があれば過去野球歴無視して使っていく」という信念一貫して抱き続けた創設間もない大阪タイガース時代には、一つポジション複数選手で争わせれば、お互い励みあって技術の向上期待できると、この競争原理チームにして、新しチームづくりを行ったタイガース創設され1936年は、勿論広島カープ創設されていなかった事も有り広島出身野球人が多く集結した初年度1936年は、監督石本の他、藤村富美男門前真佐人小川年安平桝敏男岡田宗芳と、選手19人のうち、5人。2年目1937年は、これに広田修三塚本博睦原一朗上田正奈良友夫加わり小川1年退団)、全26人中9人と出身県別最多数えた広島出身者なしではチーム結成できない程で、その後石本藤村門前らの中学後輩タイガース入りした。さらに出目広島に持つ若林忠志田中義雄堀尾文人合わせる阪神創設期主力広島出身者関係者多かった速球投手対策に、他の投手マウンド1歩手前から投げさせる練習一般的に行われる練習だが、これを初め行ったのは、リーグ創設2年目1937年阪神キャンプでの石本と言われる松木主将助言を受け 前年完璧にやられた沢村栄治打倒すべく、この年2月甲子園キャンプで、球場の門を閉め新聞記者シャットアウトして秘密練習をした。この時の石本の執念は凄まじく、寒い甲子園速球連投課した若手有望投手二人潰したという。もっとも、この年沢村24勝4敗、防御率0.81でこの年から制定された“最高殊勲選手MVP)”第1号になっており、阪神ノーヒットノーランを許すなど攻略出来たとは言えなかった。しかし年度優勝決定戦では、3度先発した沢村打ち込み初め阪神の年度優勝タイトルを手にしている。 沢村対決した1937年阪神主力投手が、沢村終生ライバルといわれた西村幸生であったが、前述のように1937年の年度優勝決定戦西村の3勝がモノをいい打倒沢村打倒巨人果たした後、沢村軍隊にとられ目標失った為か、腕が落ちた西村1939年には度々打ち込まれ石本との鬱積した確執表面化した(元々西村練習嫌い大酒飲みで、練習命の石本とはそりが合わなかった)。ノックアウトされベンチ戻ってきた西村石本が「なんであんとな中学生みたいな球、あがいなとこに投げるんなら!(なぜあんな中学生みたいな緩い球を、あんな甘いコース投げるんだ!)」と激怒。すると西村は「誰が中学生なら! 文句があるんやったワレ投げんかい!(誰が中学生だ。文句があるんだったらあんたが投げろ!)」と反発両者険悪な空気となり、西村夜ごと飲み出て門限破り、これを石本注意したことに西村逆襲企てる案の定その夜門限を過ぎると監督部屋から激し振動始まったため、主将松木謙治郎若林忠志部屋飛び込み西村押さえつけようとしたが馬乗りになっていたのは41歳石本方だった。しかし、一夜明けた翌日巨人戦石本何食わぬ顔西村先発させた。西村何食わぬ顔先発し自責点1で完投勝利した西村自身エースプライドから、石本に「いけるか?」と言われれば「俺は監督勝てと言うのなら必ず勝つ」と返事をして石本感激させることもあったという。西村はこのシーズン終了後自主的に阪神退団し1945年フィリピン戦死している。 東京セネタース主力選手だった苅田久徳は、自著に「セネタース内紛ごたごたし始めた頃、タイガース若林忠志から内々入団歓誘を受けた当時タイガース石本監督のもと、びしびし若手鍛えチーム内に情熱ほとばしり、それが生き生きとした強さにもなっていた。プロ野球チームは、かくあるべし。そんな魅力いっぱいだった」と記述している。当時は、現在のような野球協約もなく、球団選手への拘束曖昧で、苅田大いに心を動かされ行こう」と若林だけに意思表示し半金として5000円受け取っていたという。しかし苅田この後監督横沢三郎対す反抗勢力リーダー担ぎ上げられ、セネタース選手兼任監督昇格したため、タイガース入り実現しなかった。 戦前の大投手野口二郎著書『私の昭和激動日々』にも石本の件が出ている。1942年秋に明治大学から中上英雄藤本英雄)が巨人入り大活躍した。これに対抗するため当時大洋軍監督だった石本が、フォークボールのような握りボール教えてくれた。このボールお陰で最多勝40出来た、とある。人さし指親指の間に挟んでフォーク投げるように投げる、フォークより投げやすく、ひねりをかければカーブになり、真っ直投げればスーッと沈む。しかもフォークよりコントロールしやすく、打者からは握りボール放す瞬間まで分からない、という利点がある、初めて見る投げ方だった、とある。1979年野口二度目近鉄コーチとなり、フロリダのパイレーツキャンプに行った時、そのパイレーツのピッチングコーチが、石本教えてもらったボールと同じ握り投げ方ボールは、自分メジャーリーグ初め投げた投手だ、と言ったよくよく聞いてみるとこのコーチ投げた年より自分石本教わった時の方が早かった石本はどこでこのボール知ったのか改め思った、とある。なお野口コーチ時代に若い投手にこのボール勧めたが、取り組む選手はいなかったとの事。 石本あだ名は「とっつぁん小僧」といった。これは体型ずんぐりむっくりしていて、スタイル垢抜けないが、向こう気強くて審判抗議のため、ベンチ飛び出して行く時、チョコチョコと走る姿に特徴があって付けられた。猛抗議審判判定覆る事がよくあったという。 選手捻挫筋肉痛に対して、「エントウ」なるに何か粉末を溶かしただけの湿布薬信頼して使っていた。選手試合中捻挫をすると、このエントウ毎回ベンチ帰ってくるたびにかけた。その他、ニンニク按摩勧めたり入隊選手次第少なくなっていく中、選手故障気を配っていた。 どこでも煙草の灰をまき散らしユニフォームに下はいつも同じ毛糸の上下で、ストッキング表裏逆に履く等、身なりは全く気にせず、顔は渋紙色年季入った漁師といった風情で、色の黒さは垢だと噂された。稀代風呂嫌いで、ごく稀に風呂には入ったとしても石鹸タオル使わず湯船に入ると体湯船押し当てて擦りその後さっと出て入浴済ませた典型的なバンカラで、これらは数々文献取り上げられている。 広島市原爆投下され1945年8月6日は、広島市から北に30km向原町疎開中で、当日朝は畑で耕作中のため無傷済んだ戦後金策奔走した石本だが、戦前セネタースの頃はお金有ったようで、試合活躍した選手賞金出していたそうである。大きな財布を、ひもで首にかけ試合が終わるとすぐ、「〇〇君、はい」と名前を呼んで渡したヒット1本につき2円(当時コーヒー1杯が15銭だった)、タイムリーヒット1円プラス、という具合で、金の出どころは分からなかったが励みになったこういうことは石本初めてだろう、と前述野口二郎著書にも書かれている白石勝巳著書中には広島カープ監督助監督の関係になって遠征先の旅館相部屋になると、寝る前にソロバン弾き計算をしていたという。三原脩からもの話を聞いた事があったそうだが、実際にをやっていた野球人は石本くらいではないかという。 国民リーグ解散後石本金星リトル・スターズ監督になったとされるが、鈴木武樹著「批判的日本プロ野球史」(1971年)の中に東急フライヤーズ大映球団合併して急映フライヤーズになったほか、同じく経営難に陥っていた金星スターズ国民リーグ加盟していた大塚アスレチックス合併している。急映金星2球団は、2チーム併合一躍大世帯になったため、連盟この年から≪準登録制度≫を設け25名の登録選手以外の余剰選手15以内限り、準登録選手として認めることにした。その結果金星急映は、それぞれ真野春美石本秀一監督第二チーム金星リトル・スターズ≫と≪急映チック・フライヤーズ≫をそれぞれ編成し帯同して地方巡業を行うことになった、とある。金星リトル・スターズ急映阪急混成二軍チーム帯同して地方巡業したとされ、これは二軍チーム一軍別に興業行った初めてのケースともいわれる広島初代監督時代は、試合中でも作戦そっちのけで金策作戦考えていたといい、チーム強化白石任せだった。チームは元々、広島県内の市が球団資金を出すという約束のもとに発足したが、白石の話では公費使われたのは創立の時だけで、結局その約束果たされなかったという。そこで、資金集るため石本発案したのが後援会結成だった、石本後援会による球団運営考えていた。一時後援会員が4万人ぐらいになり、会費一人200円で、当時お金数千万円集めて創立3年目には小鶴誠金山次郎三村勲というスター選手獲得始め創成期チーム支えた3年半は死にもの狂い金策駆けずりまわりほっと一息ついたのは1953年頃だったという。この頃逸話は多いが、小鶴らの後、銭兄弟日系人選手を呼ぶのに「毛唐を呼ぶには金が要ります」と連呼したという。 高松一高中西太惚れ込み中西元へ足繁く通い広島地理的に近いこともあって広島入り決定寸前までいったといわれたが、高松刑務所看守をしていた中西長兄口説くという作戦功を奏した宇高勲三原脩コンビ逆転され西鉄ライオンズへの入団決まった西鉄三原脩三顧の礼監督迎えたにもかかわらず優勝候補だった3年目1953年優勝出来ずBクラス沈んだ古手選手整理して優勝させられない三原地元ファン福岡財界激しく怒り三原の「クビ」を迫った西鉄首脳も「反・三原」を打ち出し三原監督バッテリー経験がないため投手起用失敗した」と専任バッテリーコーチとして石本招聘された。さらにチーム指揮権三原から奪い三原を含む幹部話し合い試合運営進めるという「合議制」の導入三原突き付けた。この条件を飲まなけれ解雇されかねない状況まで三原追い込まれていたが、石本動きに「三原さんを辞めさせちゃ、イカン」「三原さんを辞めさせるぐらいなら、俺も辞める」と球団社長進言したと西村貞朗話している。また、石本コーチ就任2年目1955年西鉄球団は、監督の最も重要な仕事というべき投手起用運営石本全権委任させようとまでしたという。1952年までは日本コーチ制度はなく、同年巨人初めコーチ制度設け、それにヒント得た西鉄が、アメリカ流の専門コーチを置くことを考え1953年石本招いた指導細かく特にボール離し方をやかまし指摘。「あんたぁ、ボールをもう一寸3.3 cm)前で離せ」「指先から離すとき、もっと力を入れにゃあ」と繰り返すセリフ河村英文著書原文のまま)。しかし教えられ通り出来ない投手陣業を煮やした石本は、ある日大学ノート持参して捕手後方に立ち、1球ごとに何かを記入し始めた。「ミーティングボロクソに言うつもりだろう」「あのノート三原さんに見せるつもりかも知れない」と、それぞれ勝手な解釈をした投手陣自分から努力するようになったある日河村英文石本部屋呼ばれリリーフ転向頼まれた。リリーフ投手難しさ長くレクチャーされた後、石本トイレ立った隙に大学ノートをめくると全部白紙だった。そこへ石本入って来て「あんた、そのノート見たろう?」「このことはだれにも喋っちゃいけんで。あんたが黙っておってくれたら、悪いようにせんからのう。頼むぞ」と言われ悪知恵の働く河村は「わかっております」と意味ありげ笑って見せた。この事件以来河村石本のことを"私の後援会長"と呼び何かと石本に目をかけてもらい、人よりたくさん起用されじゃんじゃん稼がせてもらったという。 1954年西鉄初優勝貢献したが、日本シリーズでは中日杉下茂快投敗れたこの年秋、西鉄入団した和田博実は、三原指示ですぐ広島赴いた石本広島自宅鵜狩道夫有吉洋雅らを泊めて指導行い和田石本の家の前の道路捕手練習行った判定の辛い二出川延明とは反り合わず、ついに怒り爆発させ「おどりゃカバチたれるな。お前が日本で一番下手クソじゃ」「あんたには抗議権がない。僕がボールと言ったボールなんです」と怒鳴り合いになった形勢不利になり、ベンチムード暗くなった時に先頭立って野次浴びせるのが石本で、石本ユーモラスな広島弁野次選手気分がほぐされ、チーム一致団結見せた島原幸雄ノーコンで、おまけに西鉄で一番気が弱く石本はしびれを切らし「わしが2年教えてきたが、あんたは何も覚えとらん。野球やめて田舎帰って百姓でもせんかのう。なんぼ投げて一緒キャッチャーがかわいそうじゃ」と怒り爆発。これには島原も本気で怒り「くそッ」と、いつもならオーバースローなのにヤケクソアンダースロー投げると素晴らしボール外角低めに見事に決まり「あんたぁ、あの球じゃ。いまからアンダースロー投げんさい。げんに(本当に)ええボールよのう」と石本褒め島原アンダースロー変えた。この1955年で、石本三原との意見食い違い大きくなったこともあって退団するが、翌1956年島原躍進遂げ、さらにルーキー稲尾和久活躍で、河村西村貞朗らで組むピッチングスタッフは投手大国幕開けと言われ同年から日本シリーズ3連覇原動力となった西鉄黄金時代稲尾以外は、強力打線語られることが多いが、投手大国築いたのは石本だった。 広島監督になっても、石本のもとに濃人渉藤村富美男鶴岡一人他球団主力選手首脳陣がよく自宅訪問し指導乞うた。また、石本弱小球団であった広島強豪南海ホークスとのオープン戦をよく組んだ南海監督鶴岡広島商業後輩であったので、先輩指示従ったのであるが、広島選手たち石本人脈の凄さに感心するばかりであったNHK広島放送局製作のドキュメンタリードラマシリーズ被爆70年 ヒロシマ 復興支えた市民たち 第1回昇れ、焦土空へ」』(2015年2月7日放送)では、イッセー尾形石本役を演じている。

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姉小路信綱」の記事における「人物・逸話」の解説

姉小路家を頼綱から継ぎ、宣綱の名に改めた考えられており、旧古川氏の勢力圏配されていた。 18歳亡くなっているという記載がある。

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フランク・ロビンソン」の記事における「人物・逸話」の解説

背番号前述ドジャース在籍時のみ『36』をつけたが、それ以外現役監督通じて常に『20』をつけた。 オリオールズ移籍後1966年5月8日の対インディアンス戦で当時本拠地メモリアル・スタジアム場外ホームラン放つが、同スタジアム閉場するまで場外ホームラン打ったのはロビンソンけだった公民権運動賛同しており、オリオールズ時代には全米黒人地位向上協会にも参加していた。 インディアンス監督時代主力投手で後に野球殿堂入りするゲイロード・ペリーに「あの黒人監督上のサラリー貰えなかったら俺はこのチームを出る」と言われ本当に移籍されたことがあるナショナルズ監督時代交代命令に対して不満な態度あらわにした大家友和に対して罰金命じたことがあり、後日別の試合代走起用した際、「罰走」と報じた日本のメディアがあったが、登録枠日本一軍よりも少な25人で、引き分けがなく長い延長イニング行なうこともあるメジャーでは、控え選手枯渇してくると投手代走起用されたり、野手投手として登板するケースが年に数回はある。大家代走起用されたのも「罰走」と報じられ試合含めて3回目で、大家自身後日この「罰走」報道対し、「そのために取材来て僕の話聞いたわけでもないのに、MLB公式ウェブサイトや何かを見て『罰走』なんて勝手に決めつけて書いたりするのはどうかなと思う」と否定する発言行なっている。 ロビンソン指揮指導受けた日本人選手では前述大家のほか、2002年にエクスポズに在籍した吉井理人もその一人で、ロビンソン没後インタビューでは生前ロビンソン振り返りつつ「良い意味オールドスクール監督だった。アメリカにもこういうタイプ指導者がいるんだとびっくりした。昔の高校野球監督みたいな監督さんで、一般常識とかにも厳し監督で、チーム内のルールとかもすごく厳しくて…(中略選手間違った態度をとった時にはビシッと言うことも必要だなと思い出して参考になった。言わなきゃいけない時は、しっかり言わなきゃいけないとロビンソン監督から学びましたね」と述懐している。

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井上士朗」の記事における「人物・逸話」の解説

住所は安隆の代より名古屋新町中程北側(旧鍋屋町二丁目1314番地)である。天明2年1782年)の大火後住居東に新道作られ、専庵横町通称された。現在の名古屋市東区泉二丁目4、5番と6、7番の間に当たる。士朗没後、同住所には医業門人宇都宮尚山が住んだ。 専庵(士朗)の医術名古屋城下では有名で、ある時1万石を領するという藩の重臣が病に罹り、専庵が呼ばれた治療口を出さないことを確約した上で熱湯入れた塗盆新鮮な馬糞から液を絞り出し与えた患者嘔吐すると、これを用いるには及ばないとして、別に調合して与え病勢薄らいだという。 建中寺方丈が病に罹った時、専庵が呼ばれ治療成功した。これに対し多額金幣贈られたが、これを受けず再三問答の後受け取り、米に換え門前貧民配ったという。 長崎画家勝野范古三の丸屋敷長屋差し置かれた時、画を学んだまた、平曲荻野検校学んだ

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長宗我部信親」の記事における「人物・逸話」の解説

信親文武優れ礼儀正しく、父・元親は信親将来大い嘱望し、また家臣土佐国の民からの人望厚かったといわれる。元親は信親のために一流学問・武芸の師を畿内など遠国から招いて英才教育施し長宗我部家さらなる覇業託していた。立派な若武者成長した信親を元親は、「樊噲前漢初代皇帝劉邦腹心豪傑)にも劣るまい」と自慢し期待寄せていたという。織田信長信親の噂を聞いたとき、自らの養子迎えたい述べたという逸話もある。 身長は「背の高さ六尺一寸(約184cm)」、容貌は「色白柔和にして」「詞すくなく礼儀ありて厳ならず」と記され知勇兼備武将であったといわれる(『土佐物語』)。走り跳びで2間(約4m)を飛び越え飛びながら刀を抜くこともできたという。『フロイス日本史』によると、キリスト教入信考えていたとされる。 元親の信親への期待大きかったため、戦死したことの打撃大きく岡豊帰った元親の生活は、これ以後一変したとされる信親早すぎる死は、後継者として育て上げていた元親にとって悲嘆強く変わり果てた姿で父の元へ帰ってきた信親直視出来ず泣き崩れたという。また信親だけでなく、長宗我部家背負って立つ若い人材の多く戦死した事もあり、これより後、長宗我部氏戦死した家臣団再建における家臣間の諍い後継者騒動によって徐々に衰弱していくことになる。元親の信親対す愛情並々ならぬものがあり、信親にあった唯一の女児(盛親にとって姪にあたる)を、新たに後継者とした盛親の正室として娶わせることで、信親血統長宗我部氏当主に続かせようしたほどである。

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人物・逸話

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張翰 (晋)」の記事における「人物・逸話」の解説

賀循任官を受けるため洛陽向かった。その途中、呉の閶門に入ると、船中で琴を弾いていた。張翰賀循面識がなかったが、琴の音聞きつけて語り合いお互い知り合って喜んだ賀循洛陽に行くというので、自分用事があると嘘をついて、家人告げず同船して出発した。 ある人が「きみは好き勝手に振る舞っているが、死後の名のことは考えないのか」と、張翰訊ねた。かれは「わたしに死後のあらしめるのは、いまこのときの一杯の酒に及ばない」と答えた張翰同郷顧栄と仲が良く、たびたび語り合った顧栄亡くなって葬儀おこなわれると、張翰慟哭して感きわまったあまり、霊前台上にあった顧栄遺愛の琴を取って数曲かき鳴らした弾き終わると「顧彦先、これを褒めてくださるか」と言ってまた慟哭し、喪主挨拶もせずに退出した『晋書』顧栄伝)。 母が死去すると、礼の規定超えて自らの体を損ねるほどひどく悲しんだ

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人物・逸話

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松野泰己」の記事における「人物・逸話」の解説

趣味読書映画観賞、スポーツ観戦料理キャンプスノーボード舞台鑑賞音楽は主に洋楽を好む。フィクションで料理実際に創作する事もあり、イベント等披露する事もある。愛猫家としても知られTwitterには自身を「にゃん」と呼称投稿をしている。 個人的に笑いあり、涙あり、踊りあり、愛あり、エロスありといった陰鬱な作風とは逆のゲーム作りたいとのこと。 『ファミ通』のクロスレビュー40満点記録した15作品のうち2作品は、松野開発携わったベイグラントストーリー』、『ファイナルファンタジーXII』である。 オンラインゲーム造詣深く『ファイナルファンタジーXI』以外にも『ウルティマオンライン』を5年上続けていたという。これ以前にも、アマチュアによる『タクティクスオウガ』についてのインタビューパソコン通信回答したり、自身の作品ネット上で評価を気にしていたりと、オンラインゲーム一般的に広まる以前からインターネット積極的に用いていた様である。 現在の愛車ジープ・ラングラーである

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人物・逸話

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深沢紗希」の記事における「人物・逸話」の解説

Luceでの担当カラーは赤。 キャッチフレーズは「しゃべると出る出る紗希ちゃんワールド最初から最後までクライマックスで~決めちゃうゾ!」 姉が1人いる。 お肉クラゲが大好きである。 同じLuce Twinkle Wink☆メンバーである桧垣果穂とは誕生日一日違いで、通っていた高校同じだった。この二人同級生には声優の日里菜がおり、Luce主題歌担当したテレビアニメ『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』日高ヒロイン声優担当した際、出演したAnimeJapan2016で再会し2ショットブログアップしている。

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爾朱文略」の記事における「人物・逸話」の解説

琵琶弾き横笛吹き歌謡作詞し飽きると寝転びながら輓歌を歌うなど、多芸多才であった高澄が章永興命じて馬上で胡琵琶を弾かせ、十数曲を演奏させた。試みに爾朱文略真似させてみると、そのうち8曲を弾きこなしてみせた。高澄が「聡明な人は長生きしない人が多い。梁郡王もほどほどにするといい」とふざけて言うと、爾朱文略は「命の長いも短いも、みな公しだいです」と答えた高澄憮然として「これは考え足らずだった」と言った魏収大金贈って、父のために良い伝を書いてもらった魏収が『魏書』で爾朱栄を豕韋・大彭・伊尹霍光例えているのは、このためである。 高歓遺令爾朱文略には10回の死罪を許すようあったため、これをたのんで横柄な振る舞い多かった。 平秦王高帰彦・武興王高普汝南王高彦理と邸宅豪奢競い各々賄賂贈りあった。 あるとき、自身粗末な衣服着て歩き奴隷50人に駿馬に乗らせ侯服を着せて従えてみせたことがあった。

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桓宣」の記事における「人物・逸話」の解説

桓宣襄陽に鎮した以後刑罰簡素化威儀略し、民に農業養蚕奨励した小型馬車に鋤などの農具載せ、自ら指揮して民衆工芸得たりした。襄陽在すること十余年後趙軍の侵攻対し桓宣は衆の人心得ており、寡兵弱兵守って撃退してきた。桓宣力量祖逖周訪亜ぐものと称えられた。 南中郎将であった桓宣は、戴洋という人物参軍任じていた。桓宣従い襄陽に行くところを陶侃留め武昌に住まわせた。戴洋は占術長けており、陶侃吉凶を問うた。戴洋は石勒死後北方災い起き北方進出すれば成功できる予言した陶侃北伐の志があり、これを聞いて大い喜んだ。しかし、病状重くなり、志を果たせずに亡くなった

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堀秀政」の記事における「人物・逸話」の解説

名人左衛門佐」(『武家事紀』・『名将言行録』)、「名人太郎」(『常山紀談』)と呼ばれたが、それは下の者を使う心を用いたため(『常山紀談』)、あるいは天下指南して落ち度あるまじき人だったからだという(『名将言行録』)。 山崎の戦いの際、天王山を取るため、第一陣の堀尾吉晴がまず山を登りその後を秀政が続いて登ろうとしたとき、家臣の堀七郎兵衛が「山上味方がもし敗れたら、必ずや崩れとなりましょう。道を替えて登り下さい」と諌めたため、道を替えて登ったところ、果たして堀尾勢は崩れ、秀政はその横から攻め込み敵将松田政近鉄砲討ち散らしたという(『名将言行録』)。堀七郎兵衛は、従兄弟堀直政の兄・利宗(あるいは道利)と推定され利宗は、最初足利義輝仕え義輝死後織田信長仕えていた人物小牧・長久手の戦い時に銃声がして、続いてがしないので不審思っていると、 田中吉政一騎でやって来て、「後ろで戦があるから急ぎ備え詰めよ」と言い捨てて先へ通った。秀政は「その方旗本小姓頭だ。そのような使いは単使か若者務めるべきことで、自ら来る場ではない」と言い、「銃声続いてがしないのは、味方敗軍違いないと言っていると、果たし味方敗れ大須賀榊原らの敵が掛かってきたという(『名将言行録』)。 九州征伐の際、近臣山下甚五兵衛という者が乱心して、秀政に背後から切りかかった。秀政は振り返りざまに山下を斬ったが、そのとき山下後ろ歩いていた直政も、山下背後から斬った。秀政は直政に「自分が先だった」と声を掛けた。事が急だったのに、早くそのような言葉を掛けたことこそがすごいと人は皆言ったという(『名将言行録』)。 あるとき、奉行従者と荷を持つ者とが荷物軽重を争うのを聞いて、秀政は自らがその荷物背負って歩いてみた。そして「自分はあの者より力が勝っているが、一里ばかり背負った疲れるだろう。持てないというのももっともだ」と断を下したという(『常山紀談』)。 あるとき、行軍中に旗持ちが遅れ出し咎められたのを、秀政は自ら旗を背負って試み「さては自分馬の脚良いいだろうと言って、脚の弱い馬に乗り替えたところ、旗持ちは遅れなくなったという(『常山紀談』)。 上記堀秀政像(長慶寺所蔵)は秀政自身描いた自画像と言われている。

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市橋長勝」の記事における「人物・逸話」の解説

大坂の陣の際には天満川深さ戦前測量して家康報告するなど世渡り上手であり、家康からの覚えめでたく譜代同様に扱われたという。 『老人雑話』で「放狂の者」と記されており、それを示す逸話紹介されている。 信長のもとに武田元明使者がやって来たとき、使者信長が来るのを部屋待っていた。名門守護使者であるため、室町時代以来礼儀弁えていたが、それが美濃田舎武者として馬鹿にされていると思った長勝は信長来訪前に部屋訪れると、突然使者の前で足を放り出して仰向け寝た。そして自らの陰嚢取り出していじくりながら、「御使者殿、これほど大きさの餅をいくつ食べられますか。言われるだけ用意いたします」と述べたという。使者はあまりのことに驚き後でこれを知った信長は怒るどころか大笑いしたという

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和田英」の記事における「人物・逸話」の解説

英は17歳故郷離れ富岡着任するが、工女募集責任者である父・横田数馬影響をうけ、国益家名のために自ら進んで工女となっている。 『富岡日記』の前半伝習生として、後半技術者として記録であるが、どちらも国家的視点から展開されている。新版はちくま文庫2014年6月)、ほかにみすず書房大人の本棚〉、中公文庫などで刊行された。 長野市松代町生家は「旧横田家住宅」として国の重要文化財指定され保存公開されている。 富岡製糸場工女姿のキャラクター「おエイちゃん」(現:富岡市イメージキャラクターお富ちゃん」)のモデルとなった

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静岡浅間神社」の記事における「人物・逸話」の解説

風姿花伝によれば能楽始祖観阿弥今川氏氏神である当社に能を奉納し、この地で死去した。そのため当社能舞台観阿弥終焉舞台として知られ境内には26世宗観世清和氏による顕彰碑建てられている。 当社海外雄飛有名な山田長政産土神としても知られ長政奉納戦艦図絵馬(写)が残されている。 元NHKアナウンサー山川静夫父親は、当社宮司務めていた。

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黒田一誠」の記事における「人物・逸話」の解説

冷泉為村師事した歌人で、福岡藩士石松元啓が編纂した山里和歌集」に一誠作の和歌収録されている。また、安永年間1772年から1781年)に、福岡藩士加藤一純によって編集され和文集「抹残玉集」(宮内庁書陵部)に、一誠作の「長崎紀行」が収録されている。

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ジェームズ1世 (イングランド王)」の記事における「人物・逸話」の解説

de Lisleによれば7歳までまともに歩けなかったという。チャールズ1世歩き出すのが非常に遅かったため、何らかの遺伝病可能性もある。 幼い頃枢密院玉座座っていた際、屋根に穴を発見し「この議会には穴がある」と言ったところ、直後重臣一人暗殺され予言者との評判得た。[要出典] 「ブリテンソロモン王」の異名をとったが、それはソロモン王のように賢いというほめ言葉であると同時に父親がダーンリーではなく母の秘書のデイヴィッド・リッチオ(英語版)だろう(デイヴィッドソロモンの父ダビデのこと)という悪口でもあった。この発言者フランス王アンリ4世と言われている。また、「最も賢明愚かな王」という発言アンリ4世、あるいは彼の側近であるシュリー公マクシミリアン・ド・ベテュヌ(英語版)の物とされる男色愛人をしばしば重用スコットランド王時代ではレノックス公イングランド王時代ではブリストルジョン・ディグビーサマセット伯バッキンガム公愛人挙げられる彼等存在深刻なトラブル招きレノックス公場合はリヴァンの襲撃バッキンガム公宮廷議会派閥抗争サマセット伯至って殺人事件引き起こしている(ブリストル伯のみ特に問題起こしてはいない)。 『バシリコン・ドーロン』で君主振る舞い人々判断左右させることを指摘中庸を主とした質素な食事テーブルマナー礼儀正しさ服装にも気を使うことを忠告している。反面ジェームズ1世自身振る舞いはそうした助言とは程遠い物で、礼儀作法が無い野蛮な言動同時代人記録されている。しかし人々優雅な振る舞い惑わされること、礼儀人々の意識植え付けることが秩序維持に役立つことを熟知しており、『バシリコン・ドーロン』は後世において参考にされるほど政治において重要な作品になっていった。また、服装だらしなく男色にふけり派手な宮廷生活に汚職スキャンダルの噂が絶えないにも関わらず意見率直に語り家臣には親しみやすく信頼されていた(対すチャールズ1世は父と全く違う性格で、妻子大切にする家庭人で、質素な宮廷生活を送り汚職厳しく取り締まり寡黙近寄りがたい人間だった)。 当代随一知識人フランシス・ベーコンイングランド王即位直後から目にかけ、ナイト叙爵きっかけに翌1604年特命学識顧問官抜擢1607年合同論争注目して法務次官任命した最終的に大法官まで昇進させ、爵位子爵まで与えたベーコン国王側近として忠実に働き、しばしば議会との協調呼びかけコークコモン・ロー法律家対立して国王大権擁護、法改革など助言提案重ね1620年著作ノヴム・オルガヌム』を国王贈り1621年子爵叙された時は国王感謝言葉述べている。ただし1621年議会ジェームズ1世バッキンガム公を守るため、庶民院弾劾されたベーコンスケープゴートとして見放したため、完全に信頼していたとは言い難い(それでも弾劾されロンドン塔監禁されベーコン短期間釈放させ、罰金分割払い済ませるなど失脚後ベーコン便宜図っている)。 1611年オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ学寮長の選挙が行われた際、学長英語版)のエレズミア男爵トマス・エジャートンから候補者ウィリアム・ロードカルヴァン派訴えているという話を伝えられたが、選挙実施承認した結果ロード当選した。それからは大学改革邁進するロード後押ししたり、猟官運動に励む彼を引き立て出世させたりしたが、内心ロード急進的思想高教会派)を懸念していたという。ロードジェームズ1世からはあまり信頼されなかったがバッキンガム公後援得て次のチャールズ1世の下で更に出世することになる。 ヴェネツィア大使本国総督送った手紙ジェームズ1世性格対外観が書かれ即位直後1603年6月送った報告ジェームズ1世カトリックとプロテスタント調停者目指しカトリック諸国、特にスペインへの接近計画していることを記した一方で財政難であることも見抜かれ1621年4月ヴェネツィア大使から総督への報告ジェームズ1世軍資金が無いことを認めたことが書かれている。またジェームズ1世ベーコン失脚した収賄習慣化していることを大使話し政府高官収賄習慣無しには生きていけない現状語っている。 1601年4月15日にスコーン・ロッジのフリーメイソン加入している。 1613年ジョン・セーリス船長務めクローブ号ジェームズ1世からの書簡贈呈をもって日本長崎、ついで平戸到着した当時将軍職退いて駿府城にいた徳川家康には望遠鏡アジア望遠鏡が伝わるのはこれが初めてだったとも言われる)、江戸にいる将軍徳川秀忠には金のカップカバーイングランド製の布地贈られた。セーリスには、返礼として秀忠から2組の鎧、家康から金屏風託された。またセーリスは家康顧問務めていた英国人ウィリアム・アダムス三浦按針)の協力得て家康から朱印状貿易許可証)を得て平戸イギリス商館開設している。1613年クローブ号帰国の途に就き金屏風と鎧はジェームズ1世届けられた。これをきっかけジェームズ1世アジア関心持ち、セーリスの航海日誌を5回も読んだといわれる

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井伊直政」の記事における「人物・逸話」の解説

容顔美麗にして、心優にやさしければ家康親しく寵愛し給い」との記録あるように、美男子として知られ(『甫庵太閤記』、『塩尻』、『徳川実紀』など)、家康豊臣秀吉従属する前に家康懐柔策のため人質として送られてきた秀吉の母・大政所やその侍女達が、直政惚れ込んだという。また、直政もてなしがとても丁寧だったという理由もある。 直政家康の寵童だったといわれている。また、家康自邸の庭近く直政家居を作らせて折々通っていた(『徳川実紀』、『天元実紀』)。 直政がまだ家康小姓だった頃、大久保忠世陣中招かれ他の武将とともに芋汁振舞われた。戦場の事であり味噌糠味噌、具は混ざったものであった他の武将芋汁食べているのに、直政の食は進まず、忠世がどうしたのかを尋ねると、直政は「醤油はありませんか」と応じた。このことを聞いた他の武将達は「ここは戦場と言うのにそのような物があるわけがないだろう」と口々に直政非難した。忠世は直政に「同僚の者たちは皆、同じものを食べている。兵士達このような物でも満足には食べられないましてや農民達の中にはもっと苦しい生活をしている者達もいる。一軍将になりたいであれば、このことを絶対に忘れてはならぬぞ。そのためにここへ呼んだのだ」と諭した新参ありながら若くして選抜され部下にも厳しかった直政対す周囲の目は厳しかった。これ以後直政よりいっそう自分にも部下にも厳しくなっていく(『名將言行録』卷之五十・大久保忠世の項)。 伊賀越え直政小姓組として従い勇壮な働き見せて家康守ったという。この時の働きへの褒美として家康から孔雀の羽織った陣羽織授かった。この陣羽織は現在、新潟県長岡市与板町与板歴史民俗資料館保管されている。 人質大政所豊臣返す際に、大政所懇願警護任された。直政の手厚い保護秀吉は大変喜び、自ら立てて直政疲れを癒そうとした。そこには、かつては家康の家臣であったが、今は秀吉の下に寝返って家臣となった石川数正同席していた。このことに我慢ができなくなった直政は数正に向かって、「先祖より仕えた主君背いて殿下に従う臆病者同席すること、固くお断り申す」と怒鳴った。なお、数正が秀吉の下に去ったのは天正13年1585年)で、この事件起こったのはその1年後の天正14年1586年)である。この時期内外における名声は、「ほまれ日本ひのもと)に覆(はばか)る威光無疑(うたがいなし)」(『甲陽軍鑑抜書後集』)というものだった小田原征伐の時、秀吉陣営の手薄なのを覗い知り家康に「いい機会ですから秀吉討ち取りましょう」と進言したが、「その時有らず」と戒められたともいう(『常山紀談』)[信頼性検証]。また、唯一城内攻め入り四百人の北条方を討ち取り万事ぬきんで合戦し、天下に誉を得後代に名を残せり」(『北条五代記』)と称揚される働きをした。 直政徳川家中の中では外様ありながら徳川家随一領国与えられていた。このため三河譜代からの家臣から嫉妬反発されたが、直政はそれに対して常に家康奉公することで退けたという[信頼性検証]。ただし、そのあまりに厳しすぎる奉公ぶりは自分だけにとどまらず周囲にも強要するほどのものであったという。そして直政自身気性激しく家臣わずかな失敗許さず手討ちにすることも少なくなかったため、「人斬り兵部」とも称されたという。また、家臣気安く声を掛けることも殆ど無かったという(元来寡黙な性格ではある)。しかし、政治的手腕は非常に優れていたため、箕輪城主の頃は、城下民衆から慕われていた。 大身になる前の頃、直政がどうしてもとねだるので家康数ある愛馬の中から、特に栗毛名馬直政与えた。これを聞いた本多重次がわざわざ直政のいるところで、「あのような名馬万千みたいな子倅にくれてやるとは、殿も目が暗くなったのではないか」といった意味のことを放言した。年が下って家康関東に移ると直政家中一の大身となったのに対し豊臣秀吉怒りにふれた重次は家康から3,000石しか与えられず、上総国古井戸小糸)(現在の千葉県君津市)にて蟄居命じられた。そして、大身になった直政は重次と顔を合わせた時、「昔、殿が名馬下さった時に子倅だの何だのと馬鹿になされましたが、このような大身になれたのは、名馬違わぬ働きをしたからでございます。目が暗かったのは本多殿の方でありましたな」と言い放った(『井伊年譜』)。 毛利家重臣である小早川隆景直政武勇政治的手腕に関して直政小身なれど、天下政道相成るべき器量あり」と評価したことがある。これは直政がその気になれば、天下を取るともできるということ意味している。また、隆景だけでなく、地方武将達も同じようなことを噂していた(『名将言行録』[信頼性検証])。 関ヶ原の戦い終結し西軍与した立花宗茂征討軍議佐和山落城後に行われた時に鍋島勝茂から、直政作法容儀勢い言葉にも述べられないほど見事であった賛辞呈され天下無双英雄勇士百世の鑑とすべき武夫なり」と評された(『葉隠』)。 井伊家家臣中には直政による厳しい軍律に耐えられなくなり本多忠勝の下に去る者達も多かったという。近藤秀用庵原朝昌どのように出奔してしまった例もある。筆頭家老である木俣守勝ですら、直政の下にいるのが怖くなり、家康旗本戻してくれるように頼んだ。だが、家康自分支え軍団育成直政期待し直政武田氏旧臣付けられ背景でもある)、そのために初期井伊家重臣人事軍の編成には家康意向直接介入し直政家康許可なく家中人事が行えないなど主君としての権限制約され重臣たちは家康許可なく勝手に直政の下を離れられなかったとされている。 生涯参加した57回の戦で軽装であったにもかかわらず一度も傷を負わなかった本多忠勝に対して直政重装備であったが、戦で常に傷を負っていたという。直政と忠勝は度々比較対象となることがあり、2人お互いにライバル同士であまり仲が良くなかったとされる記述によっては忠勝だけが直政ライバル視していたとされることもある)。忠勝と同年齢の榊原康政とは、最初はあまり仲が良くなかったとされるが、家康関東入国してから共に行動をすることが多くなり、段々と仲が良くなっていったとされている。家康筆頭家老である酒井忠次家康同じよう直政に対して暖かい目で見守っていた。ちなみに忠次直政がまだ一軍将になったばかりの頃に康政がそのことを妬んだために叱ったことがある(『武功実録』[信頼性検証])。 榊原康政は「大御所家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」と語り常々自分直政先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政先立てば、自分の死も遠くない」と語り直政従軍するとあれば、康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政安堵したという(『武備神木抄』、『名将言行録』)。 他人評価することが少な家康秀忠夫人であるお江宛てた戒めの手紙の中で、「井伊直政という男は日頃冷静沈着口数少なく何事も人に言わせ黙って聞いているが、局面では的確に意見述べる。特に自分考え違いをしている時は余人がいない所で物柔らか意見をしてくれる。故に何事もまず彼に相談するようになった」と高く評価している(『庭訓状』[信頼性検証])。 正室である唐梅院に対して恐妻家で、誰よりも負けず嫌いであった直政も彼女だけには頭があがらなかったという。唐梅院自身侍女直政の子(直孝)を孕んだと知ると彼女をその父・印具徳右衛門元に帰してしまった。印具が松平康重家臣であったため、関東移封時にその城地私市騎西)へと移る途上藤枝宿で直孝は生まれたその後、直孝は母の元で育った。直孝が6歳になると、母は箕輪城直政外出時を待って彼を引き渡したが、直政はすぐに箕輪のとある庄屋に直孝を預け置き養育託した12歳でやっと直孝は秘密裏直政召し寄せられ、直政所用采配授けられたが、翌年直政他界した生前直政働きは、家康幕府を開くにあたっての一番の功労者であると江戸幕府編修系譜集(『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』)に記録されている。

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人物・逸話

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相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「人物・逸話」の解説

伊達政宗初陣となった天正9年1581年)の矢野目の戦以来、鉾矢形陣備好んで用い人数揃え自ら先頭進み馬首敵中突っ込んで戦った天正16年1588年)義胤が三春城入り損じたとき、相馬派の田村家臣・大越紀伊守(顕光)の小舅甲斐守が伊達派の田村月斎刑部橋本顕徳)の妻子人質取れば城を明け渡すはずと進言したが、義胤は「男のいない屋敷押し入って女子供人質に取るのは恥である。敵が襲ってこれば潔く切腹するまで。」と言ってこの進言退けた。義胤の武士道精神伝え逸話である。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いのとき、政宗相馬領を通過するが、その前日政宗お迎えとして片倉小十郎現在の南相馬市鹿島区へ、七・八百人ほどの兵を引き連れて乗り入れ、宿を取っている。このとき小十郎は盛胤付家老加藤左近会談しお家は大事であるので殿(盛胤・義胤父子)をよく諌めて徳川方に付くように話している。加藤左近承諾した慶長7年1602年5月改易受けた義胤は三春領内大倉田村市一時移住することにしたが、この時三春城であった蒲生郷成と「御入魂」の間柄になったという。(相馬藩世紀戦国時代相馬) 義胤が最晩年80代)の頃に江戸城登城した折、城内入って下馬した時に丁度政宗退出してきたが、政宗はすぐには輿に乗らず暫く立って義胤を見送った。義胤はこれを見て初対面の後、宮森城見舞に来た政宗自分嚇して試そうとしたことを思い出し、孫の虎之助に向かって若い者朝夕交わる仲でも、気を抜かずに用心すべきである。」と忠告したという。この逸話大将たる者はいついかなる時も動じてはならないという教訓親しき仲にも礼儀ありという二通りの意味語られる場合がある。 同慶寺住職の話や『相馬歴史民俗から』岩崎敏夫、「義胤朝臣御年譜一」寛永12年11月16日によれば、その遺体遺言により甲冑着せ武器持たせ伊達氏勢力圏である北向き埋葬されたという。この気迫信念相馬守り寸土をも許さなかったと言われ岩崎氏は義胤を強いばかりでなく武士道権化であると評している。 義胤の書状19通ほどしか発見されていないこのため非常に多く書状残した筆まめ政宗に対して冗談からかい筆不精の義胤と呼ばれている。

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岩室重休」の記事における「人物・逸話」の解説

太田牛一はその著書である信長公記において、重休のことを「隠れなき才人であり、その死を信長大い惜しんだ」と記述しており、信長織田家中の評価高かったことがわかる。

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斯波義将」の記事における「人物・逸話」の解説

義将高潔な人格寛大な性格持ち正道を誤る事無く雅に通じていたとされ、以下のような逸話も残る。 将軍義満がある時人罰してその人物の邸宅までも取り壊そうとした。これを知った義将が「昔、鹿ケ谷の陰謀首謀者である平康頼藤原成経俊寛らが罰された時、その者達の邸宅壊されることはありませんでした。罪があるなら人を罰すれば良いだけのことで、その者の邸宅取り壊すというのは(天下将軍行いとしては)いかがなものでしょうか」と諌めたとされる越中にて桃井一族戦い繰り広げていた時の事、ある大雪夜に義将月光照らされを肴に酒を嗜み、その身に迫る寒さ忘れたという。後に越中平定して都へ帰還するとこの時の事を思い返し雪が降るたびに酒を温めこれを鑑賞した。またこれにちなみ自身を「雪渓」と号した和歌好んだ義将は「源氏物語研究第一人者であった四辻善成師事していた。義将旧皇族四辻宮家にも関わらず閑職甘んじていた師を後援し、やがて善成は左大臣にまで昇進した。しかし増長した善成が皇籍復帰親王宣下まで望むようになると、それまで後援していた義将態度一転させ、「そのような事は無益なことです。お止めください」と師を諌め、さっさと善成を出家させてしまった。 義満死後太上法皇尊号贈られることになった時、将軍義持相談受けた義将が「将軍家にとって大変名誉なことではありますが、臣下の身でそのような待遇得た前例はございませんので、ご辞退されるのがよろしいでしょう」と義持進言したという。 禅宗深く帰依した義将は、春屋妙葩といった禅僧たちと親しく交わり五山禅林整備協力したといわれる。また連歌和歌長け勅撰和歌集である『新後拾遺和歌集』と『新続古今和歌集』に選ばれた他、豊原信秋より笙を学ぶなど文化には大きな理解示した逸話ではあるが、このような正道にかなった義将行い世の人々は褒め称えたという。 一方で義将は、戦功著し優れた武将であり、手熟れた政治家でもあった。 応安復権後、越中守護に復した義将は、未だ幕府勢力下に無い同国平定尽力することとなる。この時、義将前に立ちはだかったのが長年同国勢力を張って猛将として知られ桃井直常・直信兄弟であった。特に直常は、かつての直義直冬党の最有力武将として長年わたって幕府軍苦しめた強敵だったが、義将はこれを自ら軍勢率いて討ち破り越中の完全平定成し遂げた。この越中平定が後に義将を反細川勢力旗頭押し上げる契機一つとなった細川頼之とはかつての因縁もあって政敵間柄であった諸侯の頼之への不満が溜まると、その機を逃さずにこれを纏め上げ将軍邸を囲んで将軍義満に頼之の管領更迭迫り、ついに頼之を都から追い落とすことに成功した(ただし後年頼之は復帰し再び義満腹心として幕政主導することになる)。その他に細川であった九州探題今川了俊更迭関与したり、子の義重、孫の義淳をそれぞれ管領据えて自身は裏からその実を握るなど、少年時から政治表舞台立って浮沈繰り返した熟れた政治家としての顔をのぞかせるまた、義将鎌倉公方内通した罪で義満討伐されるとの風聞洛中流れた折、義将嫡子義重を義満元へ赴かせ申し開きをさせた。己が義将から疑われていると思われ驚いた義満義将邸宅赴いて慰撫し、その関係改善努めたといわれるこのように義将空前権力手に入れた日本国王義満意見できる細川頼之以外では唯一の存在であった

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大久保長安」の記事における「人物・逸話」の解説

ほとんど外様に近い立場から老中加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯多くフィクション対象となっている。 無類女好きで、側女70人から80人も抱えていたと言われている。 金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後自分遺体黄金の棺入れて華麗な葬儀行なうように遺言したという。 一説長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え政宗幕府転覆計画賛同していたと言われている。

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本田史郎」の記事における「人物・逸話」の解説

座右の銘は「少な言葉多くを語る」。

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本多正好」の記事における「人物・逸話」の解説

幼少より学問励み祖父・正純と父・正勝墓参り願い出るが、幕命により果たせなかったという逸話がある。

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蕭眎素」の記事における「人物・逸話」の解説

南朝梁武帝蕭衍)に銭8賜ると、蕭眎素一朝のうちに親し友人たちにばらまいてしまった。 静穏な隠棲生活を望んで世俗的な欲に乏しく学問好み清談を得意とし、名利関わることを口に上らせず、喜怒顔色に表さなかった。 王倹の娘を妻としたが、長らく別居しており、子はなかった。

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袁昂」の記事における「人物・逸話」の解説

袁昂晋安郡から建康に入ると、武庫保管されていた父の首級返還された。袁昂号哭して血を吐き、息絶えて蘇生した喪服着替えて墓の傍に廬を結んだ袁昂生涯にわたって音楽を聴かなかった。 袁昂はもとの名を千里といったが、南朝斉の永明年間武帝が「昂昂たるは千里の駒、卿にあってはこれに有り。いま卿の名を昂と改め千里を字とせよ」と命じたことから、名を改めた南朝斉の明帝即位すると、「むかし卿に美名があったものだからお互い往来しあったものだ」といった。袁昂が「陛下が野にありし日に、わが草廬に三たびおいでくださいましたな」と答えたので、明帝喜んだ袁昂豫章郡内史のとき、生母死去したために辞職し、母の守って帰郷することにした。このとき長江暴風荒れ乗船転覆のまぎわになった袁昂衣服縛り転覆ときにはともに沈んで溺れようと誓った。風が止むと、ほかの船はみな沈没したにもかかわらず袁昂乗船だけが無事であった

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陶季直」の記事における「人物・逸話」の解説

陶愍祖が4つの箱を前に並べて孫たちそれぞれ取らせたことがあった。季直はこのとき4歳であったが、ひとり取らなかった。人がその理由を問うと、季直は「もし賜りものがあれば、まず父や伯父先にすべきで、行き渡らないうちに孫たちに及ぶことはありません。このため取らなかったのです」と答えた5歳のときに母を失い、その喪に服したが、哀哭すること成人のようであった。 褚淵が死去すると、尚書令王倹が褚淵に文孝公の諡を贈ろうとした。季直は「文孝は司馬道子の諡なので、よろしくありません。文簡としていただきたい」と願い出た王倹はこれに従った。さらに季直は褚淵のために碑を立てたい王倹願い出た武帝は季直について「天下領有しているが、この人のような者を他に見ない」と評した

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佐竹義昭」の記事における「人物・逸話」の解説

天文15年1546年)、河越夜戦にて関東管領上杉憲政北条氏康大敗した憲政は、当時常陸勢力拡大して勢いに乗る義昭に、関東管領職と(山内上杉氏家名継承してもらう代わりに保護求めたという(山内上杉氏から佐竹義人第12代当主)を婿養子迎えて以降佐竹氏上杉氏男系子孫となっていた)。しかし、義昭父系代々世襲した関東管領職にこそ魅力感じたようだが、系譜上(母系)として清和源氏義光流の末裔としての佐竹氏誇りからか、上杉氏家名継承する気にはなれず、これを拒否したという(なお、これと似た話として、義人の甥である上杉憲実と息子である佐竹実定の間で行われて実際に上杉家中反対内紛になったことが知られている)。 若くして隠居した理由不明で、35歳死去していることから、病弱だったではないか思われる

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島津貴久」の記事における「人物・逸話」の解説

貴久は悲願旧領三州薩摩大隅日向)の回復こそ果たせなかったが、彼の遺志息子達受け継がれていた。義久翌年には日向の伊東氏木崎原で撃破。さらに次の年には肝付氏服属させ、島津家は薩・隅・日三州の太守としての地位確立させている。後に九州制覇成し遂げた戦国大名島津家基礎形成したという意味で、父の忠良とともに中興の祖」と並び称されている。 島津家室町時代から明や琉球交易をしており、貴久も琉球尚元王修好を結び、ポルトガル船などから銃や洋馬を輸入し産業事業興したまた、貴久は永禄インド総督親書を送るなど外交政策にも積極的に取り組んだ鉄炮種子島氏より献上される数年後には実戦利用している。天文18年1549年)に来日したフランシスコ・ザビエルキリスト教布教許可出している。しかし寺社国人衆反対激しかったことや、期待したほどに南蛮船訪れなかったことから、後に布教禁止している。 史料上、鉄砲実戦初め使用した戦国大名は貴久であるとされており、入来院氏との戦い初見とされている。

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内藤昌豊」の記事における「人物・逸話」の解説

武略長け武田信繁と共に武田副将格として評された。『甲陽軍鑑』にも、山県昌景が昌豊のことを「古典厩信繁内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評した記している。 昌豊は信玄代表的な戦争全て参加し、常に武功立てていたが、信玄からは一度として感状をもらうことが無かった。このことについて『甲陽軍鑑』で信玄は、「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と評して敢えて一通感状も出さなかったという。一方の昌豊も、「合戦大将軍配に従ってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことよ」と感状貰っていないことなど気にもかけなかったという。これは信玄と昌豊の信頼関係厚さを示すものである

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毛盛」の記事における「人物・逸話」の解説

徐成らの殺害知った姚萇は「徐成らは前朝名将だった。私はいずれ彼らを用いようとしていたのに、何故殺してしまったのか!」と怒った

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公孫瓚」の記事における「人物・逸話」の解説

公孫瓚武勇優れ白馬乗っていた。また公孫瓚降伏させた烏桓族から、騎射のできる兵士選りすぐって白馬乗せ白馬義従」と名づけたので、異民族から「白馬長史」と恐れられた(魏志袁紹伝」が引く『英雄記』)。 公孫瓚役人家の子弟に優秀な人材がいると、決まって故意困窮に陥れ、凡庸な者を重用した公孫瓚は「役人家の子弟や立派な人物取り立てて、彼らを富貴にしてやったとしても、自分そのような官職につくのは(名声実力から見て当然だ考え、わしがよくしてやっていることに対して感謝しないだろう」と理由挙げている。特に元・占い師、絹商人、その土地豪商ら3人と義兄弟契りを結び(この3人は巨万の富を有した大金持ちであった)、彼等姻戚関係結んでいた。公孫瓚敗死迫害した名士層が袁紹付いたためでもある。 公孫瓚寵愛する商人たち至る所悪事働いたので、百姓たちに怨まれ、代郡広陽郡上谷郡右北平郡公孫瓚反逆してその長吏殺し鮮于輔らと合流した『後漢書』公孫瓚伝)。 鮮于輔袁紹によって易京追い込まれ公孫瓚は、常軌逸脱した憂慮をするようになり、の門を構えて高台住み、七歳以上の男子は立ち入り禁止にした。側妾だけが公孫瓚侍り文書全て下から縄で汲み上げて読み大声を出すよう訓練した女性たち数百離れた距離から報告させ、それで命令伝えることにした。賓客遠ざけ誰も信頼しようとしなかったので、部下たちは少しずつ離叛ていった『後漢書』公孫瓚伝)。

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中原淳一」の記事における「人物・逸話」の解説

活動範囲多岐にわたり、ファッションデザイナースタイリストヘアメイク作詞家など様々な顔を持ち若い女性憧れ装い提唱し続けた優れたリーダーでもあった。それらは敗戦ショック打ちのめされていた当時少女たちに夢を与え大いなる慰めとなった人気高くなると共に雑誌掲載小物などを求めニーズ応えひまわりや」を開店し自身の手による商品販売した社団法人日本デザイナークラブファッションショー出品している。 雑誌モデル髪型化粧淳一本人がしていた。また、淳一自身も「汚いより綺麗な方がいい」と薄化粧していたという。 妻は宝塚歌劇団男役トップスター葦原邦子雑誌宝塚をとめ』の表紙淳一手掛けたことが縁で知り合う当時、彼女は戦前宝塚レビュー黄金時代代表する男役スターであった。この時期画風は妻の容貌似た挿絵多く淳一葦原への思い入れうかがえる。 『少女の友』に掲載された「夏の便り」は、木陰腰を下ろす着物姿少女。その顔は長い睫毛大きな瞳。まるで西洋人のような顔立ち当時少女雑誌挿絵浮世絵流れ汲んだ日本画的な絵が主流だった。中原の絵は異彩を放っていた。幼い頃からひそかに育んでいた美意識がそこに投影されていた。作家田辺聖子当時淳一の絵の大ファンであった中原作品から多大な影響受けたという漫画家池田理代子は瞳の魅力を「目線特徴焦点があっていない微妙にずれていることによって、どこを見ているのかわからないよう神秘的な魅力。瞳の下に更に白目残っていて、これはやはり遠く見ている目で今みたいなことを考えている。瞳が人間心を捉えるという法則をよくご存知だったのではないか」と語る。中原の絵は少女たちの心を奪った遠い世界に憧れ夢見るようなその瞳。それは同時代生きる少女の心を映し出していた。中原の許には少女たちから多く反響寄せられ、それは彼にとって大きな自信となった。 『それいゆ』は、戦後荒廃から脱し女性の「美し暮らし」を演出するための雑誌目指した。キャッチフレーズは「女性のくらしを新しく美しくする」。 『ひまわり』は、『それいゆ』の目指す女性になるための少女時代にふさわしい雑誌としてつくられた。 『ジュニアそれいゆ』のキャッチフレーズは「十代のひとの美し心と暮らし育てる」。 戦時中から戦後すぐにかけて「ニセジュン」と呼ばれる作風真似たイラスト用いた商品出回ったヒマワリ社はこれに対して注意を喚起するおしらせ掲載する事態となった

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横島亜衿」の記事における「人物・逸話」の解説

キャッチフレーズは「しいたけ、しめじ、あえりんぎ!」。ドラフト会議では「笑う亜衿に福来る!天真爛漫少女横島亜衿です。」と言っていた。 愛称は「あえりん」だが、ニコ☆プチ同僚だった小西梨花や元NMB48の磯佳奈江は「あえちょ」 と呼んでいた。 モノマネ趣味だが、あまり面白くないモノマネが多い。 生まれてから血液型を全く知らずプロフィール上で血液型不明としていたが、AKB48卒業間近に控えた2017年4月4日B型判明した。 『ハヤルンダモン宮殿』の2009年5月23日放送分では、SKE48リハーサルスタジオ潜入するシーンがあり、当時メンバーだった松井玲奈高井つき奈紗雪インタビューした他、「大声ダイヤモンド」をメンバー一緒に踊っていた。 2017年6月15日下北FM放送された『DJ Tomoaki's RADIO SHOW!』では、後にプラチナム同僚となる26時のマスカレイド共演している。 大和田南那とは同じ高校日出高等学校通信課程) の同級生であり、親友である。また15期生大川莉央とも仲が良かった

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池田光政」の記事における「人物・逸話」の解説

様々な資料により数多く逸話残されているが、それらの資料江戸時代光政名君説を強調するために書かれたものが多いことを付記しておく。

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折戸伸治」の記事における「人物・逸話」の解説

退社後にLeafアレンジCDorange」に曲を提供したことがあるテクノ調の音楽好み作品中一つテクノ調の曲が存在する事が多い。 Key内でのボーカル楽曲制作においては作曲のみ手掛けることが多いが、一部自身編曲行った曲も存在する影響受けた作曲家に、久石譲古代祐三挙げている。 好きなものは、ラーメン唐揚げジャンクフード2007年12月から2010年8月まで樋上いたる・ちろと共にインターネットラジオKeyらじ』のパーソナリティ担当していた(番組中では「オリト」と名乗っている)。

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竹中重治」の記事における「人物・逸話」の解説

自己の理想込めた「千年」という字を形象化した花押使用していた。 活躍は『武功夜話』や、江戸時代軍記物である『太閤記』、子の重門江戸時代記した豊鑑』などによって描かれている。江戸時代講談などで、黒田孝高とともに天才軍師人物像固まり現在の人気至っている。しかしながら信長公記』などに記されている記述少なく実態はよく分かっていない。また、秀吉正式な家臣であるという記述一次史料には見当たらず織田家から秀吉に付けられた与力武将一人であると見られている。 『太閤記』や『常山紀談』などによると、体が弱く見た目痩身女性のようであり(「その容貌婦人如し」と記録にはある)、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという。容貌婦人のようであったことから、主君斎藤龍興はじめとする斎藤家臣団から侮られ、龍興寵臣である斎藤飛騨守の上から嘲弄され小便を顔にかけられたことがあった。数日後飛騨守龍興居室宿直務めていたとき、重治は稲葉山城詰めていた弟・重矩の看病のためと称して武具隠した箱などをもって入城し、そして重矩の居室武装して宿直部屋居た飛騨守斬殺して稲葉山城乗っ取ったとされている。 長篠の戦いで、武田勢一部向かって左側に移動した秀吉回りこまれるではないか焦ったが、重治は織田勢の陣に穴を開けるための陽動ではないか進言した。秀吉は重治に従わず迎撃のため兵を動かしたが、重治は反対した挙句手勢と共に持ち場離れなかった。まもなく武田勢は元の位置戻って秀吉不在地点攻め寄せた。重治が守っている間に秀吉あわてて帰還し、重治が正しかったことが証明された。中国攻め陣中病死する際には秀吉は京で養生するように戒めたが、重治は「陣中で死ぬ事こそ武士の本望」と断ったとされる(『竹中家譜』)。また最後の策として、三木城兵糧攻め秀吉授け別所長治降伏させている。この無血開城戦法は、後の備中高松城水攻めにも通じている。 黒田孝高秀吉約束した知行加増いつまでたっても実行しないことに不満を覚え秀吉花押入った書状持って秀吉前に現れて不満を述べたことがあるそのとき秀吉の側にいた重治が書状を手に取り破って燃やしてしまった。驚く孝高に対して、「こんな文書があるから不満を感じるのだ。それに貴殿の身のためにもならない」と述べたとされる。 重治が息子左京(後の竹中重門)に軍物語について教えていると、左京急に席を立ってしまった。重治が理由聞くと、小用だという。これに重治は怒り、「たとえ小便垂れ流そうとも、軍談の席を立ってならない竹中の子軍談聞き入って座敷汚したと言われれば、竹中家面目であろうと言った伝えられる(『武辺咄聞書』)。 いつも貧相な馬を買っては、それに乗馬していた。秀吉が「貴殿身分でその貧相な馬はなかろうと言うと、「名馬を買うと、いざ戦おうとする時にその名馬他人に盗まれはしないかと惜しんで馬を下りられずに戦機を逃がすことになりますから、馬は乗り捨てる覚悟なのでこれがいいのです」と述べたとされる『名将言行録』)。 秀吉が重治の功績報いるため、加増約束した書状渡そうとしたが、「このような物は不用です。もし私の子自身不覚悟忘れ、父にはここまで殿は懇意にされていたのに、なぜ私にはと恨み思うようなことがあっては災いとなります」と述べて破り捨てたという(『武功雑記』)。

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宋訥」の記事における「人物・逸話」の解説

宋訥慎重な性格で、学問広く通じていた。 あるとき宋訥寒さのため火を使っていたが、火が下着燃え移り皮膚焼けるまで気づかなかった。洪武帝学問熱中しすぎないよう宋訥警告した。 ときに功臣の子弟たちはみな国子監就学し、年にその学生数千人に及んだ宋訥国子監厳しい学規を立て一日中正座して経書解釈講義し夜に学舎とどまった宋訥が病にかかったが、洪武帝は「訥には寿骨がある。心配ない」といった。ほどなく快癒した洪武帝画工命じて宋訥肖像を描かせた。描きあげられたその肖像画正座して怒った様子であった翌日宋訥が帝と対面すると、帝は「昨日は何で怒っていたのか」と訊ねた宋訥驚いたようすで「学生中に走ってつまづいて、茶器砕いた者がいたのです。臣は教育失敗したことを恥じて、自らを責めていただけです。陛下はどうしてこのことをご存じなのですか」と答えた。帝は肖像画出して見せた宋訥頓首して陳謝した。 洪武帝辺境政策について意見求めると、宋訥砂漠遠征するのは費用がかかるばかりで効果が薄いとし、東西五百里を制として分屯し要害布陣して連絡呼応し、敵が攻めてくれば戦い、敵が退却すれば屯田を耕すよう求めた1390年2月宋訥は病が重くなったが、なおも学舎に留まっていた。長男の宋麟が私邸帰るよう求めたが、宋訥は「ちょうど丁祭の時機だ。孔子敬意示さないわけにいくか」といって叱った。丁祭が終わると、宋訥は家に帰って死去した

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池玉瀾」の記事における「人物・逸話」の解説

大雅夫妻有名な逸話に、大雅難波へ出かけた際に筆を忘れていったのを玉瀾が見つけるとこれを持って走り建仁寺の前で追いついて渡すことができたが、大雅は筆を押し頂くと「いづこの人ぞ、よく拾ひ給はりし」と答えて別れ、彼女も何も発言することなく帰宅した、というものがある。 玉瀾は栄誉恥辱ものともしない大雅行い付き従い、彼が三弦演奏して歌えば彼女は筝を弾いて歌った二人で一日中紙墨向き合い音楽や酒を楽しみ、釜や甑が埃をかぶって落ち着いており、その様後漢の妻・孟光たとえられた。夫婦ともに欲の少な性格で、他人から謝礼金受け取って紙包み開かぬまま屑籠入れておき、必要な時にそこから取り出して用いていたという。また、大雅の家に宿泊し、その晩に垢で汚れた甲斐絹布団提供され客人が、夫妻部屋見てみると、大雅毛氈にくるまり、玉瀾は反故紙の中で眠っていたとも伝わる。和歌を学ぶために夫とともに初め冷泉家参上した際、場所柄から、同家女房らは「玉瀾」という名の美しさからどのような婦人だろうか待っていたところに、糊の強い木綿着物着て魚籠提げた、裸足大原女のような姿をした玉瀾が現れたため、人々大い驚いたという話も伝わる。 大坂文人木村蒹葭堂は、13歳のときの寛延元年1748年)に大雅面会したことを後に回想しているが、玉瀾については「年の頃二十二三歳にして顔は丸顔のさして美しといふ程にもあらねど、人並勝れた面色何処となく気高き処ありて、さすがは百合の娘と思はるるばかりなりし、後年玉瀾女史とその名天下高く聞え大雅堂と共に人に称せらるるやうになりたるは、珍しき事と謂ふべし」と振り返っている。

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人物・逸話

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譙周」の記事における「人物・逸話」の解説

身長八尺、誠実で飾り気はなく頭脳明晰だったが、不意の質問上手く答えるような機転はなかった。幼くして父を亡くしたため家は貧しかったが、勉強熱心六経精細に研究し書簡巧み天文にも明るかった楊戯譙周がまだ周囲から認められていなかった頃から「我らの子孫は譙周及ばぬであろう」と高く評価した262年宮中大木何の前触れもなく折れてしまった。譙周大層配したが、相談する相手もいなかったので、次のような文章書き記した。「衆(おお)くして大なれば、その下に集まる。徳備わって天命降れば、再び動かし得ず」つまり、曹とは衆(おお)いという意味であり、衆くて大きいのだから、天下人々はその下に集まるということであり、曹氏に「徳が備わって天命が降」ってしまえば誰も帝位就けなくなる、という意味である。蜀漢滅びた後、人々は皆譙周予言当たったのだと考えた

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王翦」の記事における「人物・逸話」の解説

秦王政11年初め史書登場し同僚楊端和と共に鄴を攻めてさまざまな計略用いてこれを陥落させている。これ以降、政に重用されていたが、老年になってからは重用されなくなった。 趙を破った後、秦の覇業妨げうるのは、もはやのみとなった。その平定に当たり、政から諸将見通し問われた際、王翦は「広く兵も多い。兵60が必要でしょう」と慎重な意見述べたが、政は若い将軍李信の「兵20で十分です」という積極的で勇猛に聞こえ意見採用しへの侵攻任せた。ここで王翦は自ら引退申し出て隠居する。しかし、侵攻した秦軍は、楚軍奇襲受けて大敗した楚軍はその勢いのままに秦へ向けて進軍し平定どころか秦が滅亡しかねない程の危機となった。政は破れるのは王翦かいない判断し王翦邸宅を自ら訪ねて将軍の任を与え王翦先に述べた通り60の兵を与える。これは秦のほぼ全軍であり、反乱を起こすには十分過ぎる数だったため、臣下には疑いを抱く者も多数いた。 王翦は、楚軍迎撃に出るが、政自ら見送った席で「秦王様、戦勝褒美には美田屋敷賜りたいと言った。政は「何を将軍に不足させようか」と答えたが、王翦は「今まで戦功上げて美田賜ったものはおりません。この機会得ておきたいのです」と返し、政はこれを聞いて笑い改め確約した王翦はその席のみならず行軍途中ですら、勝利後の褒美何がいいか、一族今後安泰は確かかなどを問う使者を政に逐一送った。そして国境付近に到着すると、堅固な砦を築いて楚軍待ち受けた楚軍もここへ到着し砦を攻め始めたが、その堅牢さに手を焼いた一方秦軍防御徹して砦から出なかったため、膠着状態となった楚軍は、攻めて挑発しても秦軍出てくる気配が全くなく、砦も堅牢なため、これでは戦にならない引き上げ始めた。しかし、これこそ王翦待っていた機会であった追撃戦楚軍を破るために、砦に篭る間も兵達に食料休息十分に与え英気養っていたのである英気余って遊び興じる兵達を見て王翦は「我が兵は、ようやく使えるようになったぞ」と喜んだという。王翦指揮執る秦軍は、戦闘態勢になかった楚軍背後から襲い掛かり散々に打ち破った王翦は更に侵攻し翌年にこれを滅ぼした王翦は、政に逐一送った使者について、部下から「余りに度々過ぎます。貴方はもっと欲の無い人だと思っていましたが」と訊ねられた際、「お前は秦王様の猜疑心強さ知らない。今、私は反乱起こそう思えばたやすく秦を征し得るだけの兵を指揮している。秦王様は自ら任せたものの、疑い絶えないだろう。私は戦後恩賞頭が一杯であると絶え知らせることで、反乱など全く考えていないことを示しているのだ」と答えた王翦は政の猜疑心強さ冷酷さ良く理解していた。引退申し出たのも、政は役に立つ人間には丁重だが、役に立たない判断した人間には冷淡で、特に権勢があるものはどれだけ功績があろうとも些細な疑い処刑一族皆殺しにしかねなかったためである(樊於期という実例もある)。自分意見採用されなかったことで、政が「王翦老いて衰え弱気になった」と思っていると察し素早く将軍の座から退いた実際に引退申し出た際、政は「許す」と言っただけで全く引き止めなかった。このため、政本人から将軍請われ、ほぼ全軍与えられてもいい気にならず、猜疑打ち消す心配りを絶やさなかったのである王翦は、平定後も政に疑い持たれることなく天寿を全うすることが出来たと言われる

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日吉久美子」の記事における「人物・逸話」の解説

日吉より若い世代煌びやかな経歴であったのに対しプロテスト合格から初優勝まで11年歳月費やしていたことから「雑草」と表現するメディアもあった。 優勝こそないが東洋水産レディス北海道自身のベストスコア673度記録

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伊達吉村」の記事における「人物・逸話」の解説

吉村性格について性格的に物事深く考え思慮深く政治対す取り組み人並みに優れ以前の姿に戻したいという志を持ち仁愛をもって人に接しうる人柄であるが、他方理詰め考えすぎとかくする理屈に過ぎることが欠点であると評価している。 吉村和歌書画など芸術面にも優れた才能示した。絵は大和絵習った繊細な画風特色があり、専門絵師でもあまり描かない自画像すら手掛けるほどの画力をもっていた。享保9年1724年)には長谷川養辰に命じて伊達氏初代朝宗から自分に至るまでの歴代当主21人の肖像画集『伊達家歴代画真』を制作させているが、その下絵吉村手ずから描いている。 元文2年1737年10月5日吉村の娘・和姫の夫である岡山藩主池田継政使者称する旗本江戸仙台藩上屋敷訪問し、和姫と継政の関係の悪化と彼女の病気理由離縁絶交通告した対応した仙台藩家老責任全て和姫にあるよう使者言い分反発して、継政にその説明求めたい述べた使者はその件に関しては継政に伝えるが、離縁届は既に老中提出済であると述べた報告受けた吉村は既に離縁届が出されてしまったのであれば離縁止むを得ないが、本来は離縁届は共同幕府に出すものなのに事前挨拶話し合いもなく一方的に離縁届を出されたとして伊達家側から絶交通告した当時慣例では離縁原因として当事者双方の家が絶交したとしてもほとぼり冷めた頃に和順和解)が成立するものであったが、池田家側の態度を「無礼」とみた伊達家反発は収まらず、仙台藩岡山藩絶交状態は47年後の天明4年1784年)まで続いた(「元文離婚事件」)。

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長野業正」の記事における「人物・逸話」の解説

武田信玄は、「業正ひとりが上野にいる限り上野攻め取ることはできぬ」と嘆いたと言われるほど業正は信玄をてこずらせた。彼の死を知ると信玄大い喜び、「これで上野手に入れた同然」と述べて、すぐに軍を上野向けたとされる。[要出典] 後世に「上州の黄班」といわれるほどの猛将だった。[要出典]

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ムカリ」の記事における「人物・逸話」の解説

ボオルチュチラウンボロクルと共にチンギス・カン四駿数えられるチンギス・カンからは特に信任されて「国王」の称号与えられたため、四駿中でも筆頭といわれている。 チンギス・カン国王という称号与えられたとされているが、実は彼の侵攻悩まされていた金王朝ムカリ王の称号与えることでチンギス・カン彼の離間図ろうとしたとされている。しかしチンギス・カンムカリ対す信任揺らぐことは無くそのまま王の称号用いることを許したとされている。 軍事能力だけではなく政治力にも長けており、モンゴル人口不足を解消するために無駄な殺戮決して行なわず、労働力の確保努めたといわれる

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山名時氏」の記事における「人物・逸話」の解説

幕府敵対しながら5か国の領国安堵されたため、『太平記』では「多く所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかりけれ」と人々噂し合ったという。かつて敵であった時氏が大勢力を保持したまま帰順したことが皮肉られたと思われる。 『難太平記』では時氏は自分体験子供達語り道理弁え自分でさえ上意おろそかにする時があるため、子孫は度を過ぎて上に警戒されるのではないかと心配したという逸話もある。真偽不明ながら、時氏の死から20年後に山名氏明徳の乱において将軍家から追討されることになり、勢力削減されてしまった。

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韓晃」の記事における「人物・逸話」の解説

韓晃南城攻めたとき、守っている毛宝が姿を現し数十人を射殺した。これを見た韓晃が「君が毛廬江か?」と問うと、毛宝がそうだと答えた韓晃が「君は勇猛名高いのに、なぜ城門から出ないのか!」と問うた。毛宝は「君は健将で名高いのに、どうして城門入ってこないのか!」と答えた毛宝答え聞いた韓晃笑って引き退った平陵山で追討軍と戦った際、張健らは下山しない中、韓晃はただ一人下山した。両方に矢を入れる筒を帯び胡床座って追討軍を待ち構えた。反弓で追討軍と戦い多数の兵を殺傷した。矢が尽きた後、韓晃討ち取られた。

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桓偉」の記事における「人物・逸話」の解説

情に厚く誠実であり、桓偉治めていた領民から慕われていた。 桓偉殷仲堪捕われたと聞いた桓玄は、殷仲堪優柔不断な性格見抜き桓偉の身は心配ないと論じた殷仲堪死後桓偉は無事で桓玄言う通りになった桓偉死後桓玄喪に服すにあたり楽曲作った。曲が始まると、桓玄歌いながら慟哭した。涙を抑えると、大い楽しんだ桓偉桓玄唯一親任されていた存在であり、桓玄親任する存在がいないことを危ぶんだ。 桓玄桓偉葬られた日、朝は慟哭して晩は大い楽しんだ或いはたびたび外へ出て、馬で駆けるほど、桓偉の死を悼んだ

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趙胤」の記事における「人物・逸話」の解説

咸和8年333年)、司徒王導趙胤護軍将軍任じた左僕射孔愉は「中興以来、この官にあった者は周伯仁周顗)・応思遠(応詹)のみです。どうして、才に乏し趙胤がなれましょうか」と反対した。王導はこれに従うことはなかった。 咸康4年338年)、政権担っていた王導は、軍事面については趙胤・賈寧ら諸将委ねていた。彼らは法を守らない行為多く大臣らはこれを疎ましく思っていた。これに憤慨した征西将軍庾亮は、太尉郗鑒王導討伐持ちかける郗鑒は従わなかった。

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荀崧」の記事における「人物・逸話」の解説

荀崧志操清純文学愛好し荀顗・王済・袁侃といった人々高く評価された。 荀崧王敦顧栄陸機らと交友した。 従弟の荀馗が早く亡くなりその子に荀序と荀廞がいて、年齢それぞれ数歳であった荀崧はふたりを自邸迎えて養育し実子同様に待遇した荀顗後裔断絶していたため、東晋朝廷荀崧の子に襲封させようとしたが、荀崧は荀序に嗣がせるよう申し出た

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沈充」の記事における「人物・逸話」の解説

幼い頃から兵書好み雄々しく強き者として呉興では非常に有名だった沈充銭鳳は、媚びへつらい巧く悪賢い人物であった評されている。 王敦実権握った際、沈充らは驕り高ぶり相手煽りたてては、思うがままに殺戮行った人々の家や田畑侵し古人の墓を掘り起こし市道掠奪行った識者はこれを知り沈充らは皆、敗れるだろうと予見した。 沈充の子である沈勁は、連座して誅殺されるところを同郷人の銭挙に匿われた。その後、沈勁は呉儒の一族滅ぼした

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銭鳳」の記事における「人物・逸話」の解説

銭鳳沈充は、媚びへつらい巧く悪賢い人物であった評されている。 王敦実権握った際、銭鳳らは驕り高ぶり相手煽りたてては、思うがままに殺戮行った人々の家や田畑侵し古人の墓を掘り起こし市道掠奪行った識者はこれを知り銭鳳らは皆、敗れるだろうと予見した。 王敦討伐の詔に『銭鳳凶悪で乱を起こそうと、繰り返し反逆煽った。朕は諸軍率いて銭鳳を討つ。銭鳳殺し首級送った者は5千戸侯に封じる』と乱の首謀者として名指しされた。 王敦の乱平定された後、温嶠銭鳳の母が80歳と高齢で、何も知らないため、許すようにと上奏して容れられた。

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大内義興」の記事における「人物・逸話」の解説

永正9年1512年)、嵯峨野西芳寺において「かくばかり 遠き吾妻不二がねを 今ぞみやこの 雪の曙」とうたった記録がある。 義興は父・政弘ほどではないが文人一面があったとされる和歌に関して後柏原天皇以下多く公卿から賞賛され、連歌では宗祇弟子宗碩招いて古今伝授受けた

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鄧嶽」の記事における「人物・逸話」の解説

王敦実権握った際、鄧嶽らは驕り高ぶり相手煽りたてては、思うがままに殺戮行った人々の家や田畑侵し古人の墓を掘り起こし市道掠奪行った識者はこれを知り鄧嶽らは皆、敗れるだろうと予見した。 東晋東部地域賦役多く、これに耐えかねた多く百姓らが広州移ってきた。鄧嶽大い貨幣器物鋳造させ、これにより周囲異民族兵器製造方法知った安西将軍庾翼上表して「東部国境他国の侵攻止まず逃亡する者も徐々に多くなり、夷狄はその隙を伺ってます。もし、鋳造の利を知れば侵攻止めることはできません」と、憂慮した。

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土井利位」の記事における「人物・逸話」の解説

大阪市天王寺区にあった鏡如庵きょうにょあん)の通称であるどんど大師語源は、利位が大坂城代在任中(1834年 - 1837年)の大坂城代屋敷鏡如庵近くにあり、利位が鏡如庵祀られている弘法大師空海)を深く信仰して折々参拝していたために、「土井殿大師」(どいどのだいし)の名前が起こり、やがて「どんどろ大師」へ転訛したと伝えられる鏡如庵明治初期廃寺となり、その跡地には現在、どんどろ大師 善福寺高野山真言宗)がある。利位との関連はっきりしていないが、現在、境内土井氏刻まれ五輪塔残っている。歌舞伎傾城阿波の鳴門』『国訛嫩笈摺くになまりふたばのおいずる)』に「どんどろ大師 門前の場」がある。 日本初め雪の結晶顕微鏡観察した人物として知られている。蘭学者であった家老鷹見泉石協力の下、20年にわたり雪の結晶観察し雪の結晶を「雪華」と命名して、観察結果を『雪華図説』『続雪華図説』にまとめ出版した。この書には、14か条の効能86種の雪の結晶図が刊行された。『雪華図説』『続雪華図説』は私家版出版数も少なかったが、掲載されている結晶図はテキスタイルパターンとして取り入れられ雪華模様衣装流行した。そのため、庶民から「殿様」の愛称親しまれた。雪華模様の別名「大炊模様」は、利位の官名からとられている。所領があった茨城県古河市では現代でも、市立小学校校章歩道などに使われている。

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宋思顔」の記事における「人物・逸話」の解説

朱元璋東閣政務をみていたとき、暑さのため汗で衣を濡らした側近たちは着替え勧めて、たびたび衣を洗濯させていた。思顔は「主公率先して節倹模範となるべきだ」といって諫めた朱元璋はその直言褒めて幣を賜った。 思顔は「句容県で虎が害をなしていたところ、捕獲されました。駆除すべきところ、いま民間養われているのには何の益があるのでしょうか」と進言した。朱元璋喜んですぐさま虎を殺すよう命じた

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荒尾成裕」の記事における「人物・逸話」の解説

嘉永5年1852年)、米子城四重櫓大改修の際に尽力した城下豪商鹿島家称える成裕作の俳句短冊2011年鹿島家資料調査発見された。

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近衛尋子」の記事における「人物・逸話」の解説

和歌優れ学識高く光圀との仲は睦まじかった。光圀仕えた和学者安藤年山著書年山紀聞』の中で、「御生質の美なのみならず詩歌をさへこのみ玉ひて、古今集、いせ物語はそらにおぼえ、八代集源氏物語などをよく覚えたまひしとぞ。また三体詩をも暗記したまひけるとぞ」と記している。また儒学者・辻了的は、その容姿について「天姿婉順」と評している。 家集として『香玉詠』がある。また、漢詩二首が伝わっている。

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銀河万丈」の記事における「人物・逸話」の解説

山梨県立甲府南高等学校成蹊大学文学部文化学科卒業以前テアトル・エコー所属趣味謡曲流派喜多流)で、20代の頃から続けている。 大学時代放送研究会所属しラジオドラマ作り夢中になっていた。将来ラジオドラマ関わりたいとは思っていたが、ラジオドラマ職業として成立するものでもない考えラジオドラマ作れる場所が分からなかった。それに近いことをやっていたのは劇団くらいしかなかったため、テアトル・エコー養成所入所するその後退所し、仲間劇団作っては潰すということ繰り返しながら、フリー舞台活動をしていた。 舞台活動通じてやっぱり音の仕事やりたい」という気持ちはっきりしその分野の仕事をするために青二プロダクション自分の声のサンプルテープを持ち込むそのことが声の仕事をするきっかけになり、28歳声優デビューする。青二プロでの同期井上和彦水島裕三ツ矢雄二。他の同期声優に、玄田哲章若本規夫がいる。 新人の頃は、経験不足で自分できないこと対す悔しさ歯がゆさが随分あり、歳下の同期に対して焦燥感覚えることもあった。セリフ受けられなくて、相手役先輩から台本投げられたこともあったという。また、富田耕生などの厳し先輩に、色々と教えてもらっていた。ある時プロデューサーから「将来何になりたいのか知らないけど、君にギャラ払いたくない」と言われて、「認めてただくまでは、絶対に辞める訳にはいかない」という気持ちになったこともあった。 デビュー後数年間は本名田中崇」で活動していたが、『戦闘メカ ザブングル』『太陽の牙ダグラム』出演していた1982年誕生日より「銀河万丈」に改名その子供向け番組登場人物のような名前のため、当初は「もう洋画はやらないのか」と聞かれたという。芸名名づけ親尊敬する先輩である王麗華銀河曰くプレゼントされた」とのことで、名前の由来は、王による「銀河という大宇宙大い泳いでください宇宙より愛を込めて」というメッセージからきている。名づけ親富野由悠季とも言われていたが「『無敵鋼人ダイターン3』主人公破嵐万丈混合したでしょうね」と、否定している。 妻・高島雅羅は、『新スタートレック』ディアナ・トロイ吹き替え担当銀河同作品ではウォーフ吹替担当しており、最終シーズンあたりでは恋人同士になっている。 『FNS地球特捜隊ダイバスター』では毎週博士演じている銀河サイン入りアイテムプレゼントするコーナーがある。その際番組キャラクターのユリッペが、銀河プライベート暴露している。詳細は「FNS地球特捜隊ダイバスター#銀河万丈の私事」を参照2012年9月8日放送の『A&G 超RADIO SHOW〜アニスパ!〜』に事務所後輩である神田朱未と共に出演した。この時、物腰柔らかい敬語交えた紳士的かつ丁寧な話し方番組臨んでいる。事務所が同じ神田浅野真澄は、「常にこういう話し方接して下さる」と発言している。番組ちあきなおみの「黄昏のビギン」をリクエストしており、その希望叶えられ実際にオンエアされた。アニメ・ゲーム特撮声優の4ジャンル特化した番組としては、異例選曲である。 2020年11月5日PCR検査結果から新型コロナウイルス感染症COVID-19)の陽性判明したことが青二プロダクションから発表された。同日早朝喉の痛み感じたことから検査至ったものだが、発熱や咳等の症状はなく無症状だった。11月16日同事務所より行政機関および医療専門家指導にて治療続け厚生労働省基準満たされたことから、体調考慮して復帰するという。

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福島正則」の記事における「人物・逸話」の解説

出生地現在の愛知県あま市では英雄視されており、1889年明治22年発足正則村由来にもなっている。正則村は現在合併により消滅地名として残っていないが、地域には正則保育園正則小学校現存し近く大江川架かるは「正則」と名付けられている。また、あま市二ツ寺屋敷生誕地を示す石碑設置されており(■画像あり)、その近くにある禅院正則菩提寺である。 一般的には武勇長ける智謀乏し猪武者」というイメージ強く乱暴者としての逸話には事欠かない幼い頃父親桶屋家業を継ぐために修行していたが、大人喧嘩をして鑿(のみ)で相手殺害した安芸広島入国する際に船に地嵐呼ばれる風が吹いたため、「国入り初めに地が荒れてよきものか」として何の罪もない水主船頭)を斬り捨てた(『遺老物語』)。 関ヶ原の戦いでは第一武功賞されたが、関ヶ原ではたびたびそれをなげうつことも辞さない言動をしている。戦い関連した次のような逸話研究がある。岐阜城攻め落とした際には城主織田秀信助命嘆願した。その直後家臣徳川家足軽侮辱され自害し、その上司である旗本伊奈昭綱切腹正則要求した際にも「聞き容れられなければ城地立ち去るのみである」と啖呵切っている。この事件原因のためか、徳川方史料で「この人正則資性強暴にて、軍功にほこり」(『台徳院殿御実紀』)と記されている。 武断派印象が強いが、慶長6年1601年)の検地知行高498,000であったのを元和5年1619年)に515,000石まで増加させており、領主として行政面でも結果残している。 自らはキリシタンではなかったが、清洲城であった頃から一貫してキリシタン保護政策堅持していた。宗教に対して寛容政策を採っていたとされる大酒飲み酒癖悪かった泥酔して家臣切腹命じ翌朝になって間違い気付いたがもはや取り返しがつかず、その家臣の首に泣いて詫びたという逸話もある。 酒席で、黒田長政使者として来ていた黒田家家臣母里友信に酒を大杯勧め断られた(友信は家中でも有名な酒豪であったが、使者役目断った)が、「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」とさらに勧め、そのうえ「黒田武士は酒に弱く酔え何の役にも立たない」と罵倒した家名貶められた母里友信は、それならばと酒を見事に一気飲みし、褒美秀吉から拝領した日本号」を所望した。正則狼狽したが、武士である以上前言を覆すことができず、不覚にも家宝呑み取られることになった幕府の命で名古屋城の手普請従事している際、「江戸駿府はまだしも、ここは妾の子の城ではないか。それにまでこき使われたのでは堪らない。」とこぼし、池田輝政に「お前は(家康の)婿殿だろう、我々のためにこの事を直訴してくれ。」と迫った。輝政が沈黙していると、それを聞いていた加藤清正怒りながら「滅多な事を言うな。築城そんなに嫌なら国元帰って謀反支度をしろ。それが無理なら命令通り工期急げ。」とたしなめたという。 元和元年1615年)の大坂城落城後、妙心寺石川貞清の元を訪れ面会した正則は、貞清か妙心寺内の土地一部譲り受けて海福院を建立し死者冥福祈った。貞清は関ヶ原の戦い西軍与して戦後茶人商人となっていた人物で、その妻について石田三成の娘、大谷吉継の妹、真田信繁幸村)の娘などの諸説がある。 家康重病死の床に就くと、正則駿府訪れて見舞ったが、家康は「一度安芸帰られるがよい。将軍家徳川秀忠)に不服があれば、遠慮せず兵を挙げられるが良い」と冷たく言い放った御前退出した正則は「今日までご奉公努めて来たにもかかわらずあのようなされよう情けない限りだ」と嘆き人目憚らず泣いた。それを聞いた家康は「その一言吐き出させるために、あのように言ったのだ。」と安心したという。 あるとき細川忠興に「なぜ武勇もなく得体の知れない茶人千利休のことを慕っている」と尋ねその後忠興誘われ利休茶会参加した茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵向かって怯んだ事は無かったが、利休殿と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休感服したかなりの恐妻家であったらしく、ある時は女性問題嫉妬狂った夫人昌泉院)に薙刀斬りつけられて、戦場では臆しことはないと自負した彼もこれには逃げ出したと言う逸話残っている。 信濃国高井野藩転封され検地新田開発奨励した新田開発許され久保田家の子孫である6代目久保田右衛門久保田春耕)は、小林一茶門人一人一茶経済的支援者となった

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滝川一益」の記事における「人物・逸話」の解説

織田家仕官前の逸話 若年の頃河州堺に出て鉄砲射撃製造技術学んだとされ、百発百中腕前披露することにより信長召抱えられたという話があり、朝倉家における明智光秀共通点がある。 織田家臣時代逸話 伊勢水軍率い水軍の将でもあり、九鬼嘉隆長島一向一揆鎮圧から蟹江城合戦まで多く海戦を共にしている。第二次木津川口の戦いでは白い安宅船参戦しているが、これが鉄甲船試作兼ねた白木船かは定かではない武田氏追討恩賞として、信長より拝領し佩刀していたと伝わる刀が現代伝えられている(古備前高綱太刀朱塗打刀拵こびぜんたかつなのたち つけたり しゅぬりうちがたなこしらえ)(重文)。鎌倉時代初期作刀された質実剛健刀身に、桃山時代流行した桃山拵ももやまこしらえ)」と呼ばれる華美な刀装組み合わせたもので、往時武将装い現代伝え貴重な逸品である。現在は静嘉堂文庫美術館所蔵されている。 晩年逸話 失明出家した一益が、京都の寺から領国越前大野郡への帰途越前今立大滝という地に立ち寄ったここから山を越えて大野郡帰る一益を、かつて信長越前一向一揆攻めの際に滝川軍に焼き討ちされたことを恨みに思う大滝村民(大滝神社中心とする、平泉寺傘下在地勢力)が襲撃し、一益は惨殺されたと大滝地元では伝えられている。遺体近隣の味真野霊泉寺葬られた。一益の鐙と伝わる品が大滝神社伝わっているが、この話は、「信長配下武将で、晩年失明し越前一揆勢に惨殺された」という点まで前波吉継の話と酷似しており、混同推測される下総国円福寺観音堂境内にある「早器居士の墓」と呼ばれた古碑は、昭和初期までは滝川一益墳墓思われていた。

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グリゴリー・ラスプーチン」の記事における「人物・逸話」の解説

祈祷僧名乗っていたが正式な肩書きではなく、どの宗派にも所属していなかった。リリー・デーンは「ラスプーチンシベリア訛り酷く話の内容はほとんど理解出来なかった」と述べている。歴史作家アンドレイ・アマルリク(英語版)は、「ラスプーチンは満足な教育を受けなかったため文法誤った文章しか書けなかった」と述べている。 漁色家イメージ強く、「皇帝一家貴族のために祈り捧げた直後売春宿出かける二面性持っていた」という逸話がある。しかし、この逸話ニコライ大公による創作可能性指摘されている他、漁色関わる逸話半分近く政敵による創作と言われている。こうした指摘があるにも関わらず、「ラスプーチン漁色家」のイメージ強く残っており、ロシア各地に「ラスプーチン」の名を冠したストリップ・クラブ存在する金銭に対して無頓着であり、金銭受け取ってもすぐに他人に譲ってしまうことが多々あったという。また、街頭托鉢劇場レストラン・カフェなどで気前よく大金支払うため、「金銭執着しない無私の男」という評判得ていた。 アレクサンドラ息子アレクセイ血友病治癒できるラスプーチン強く依存していた。歴史家ジェラード・シェリーによると、ラスプーチンはその立場活用してロシア再建のための政策実施計画していたという。また、ラスプーチン周囲にはロシアの重要情報目当てヴィクトル・チェルノフなど様々な人物出入りしていた。 存命中は右派からは「皇室の名誉を傷付けた男」として、左派からは「民主主義の敵」として嫌悪されていた。ラスプーチン敵対者は彼を「ドイツ代理人」と糾弾していたが、実際ラスプーチン平和主義者であり、ロシア参加する全ての戦争反対の立場取っていた。 娘マリアによると、ラスプーチン暗殺未遂事件以降胃酸過多に苦しみ砂糖飲んで難を凌いでいたという。また、事件以降デザートワインを飲むようになったという。彼女は回顧録の中で、「父ラスプーチン悪評敵対者による中傷であり事実反す捏造」と主張している。 現代のロシアでは、ロシア正教会のニコライ・グリャノフ(英語版や一国民から義人扱い受けている。ラスプーチン義人とする意見に対してアレクシイ2世は「ラスプーチンイヴァン4世ヨシフ・スターリンと同じ狂人である」と反論しラスプーチン聖人にしようとする動き否定した

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月丘夢路」の記事における「人物・逸話」の解説

女学校に入るのに受験難だった当時ご褒美東京に連れて来てもらったときに宝塚小夜福子松竹少女歌劇水の江滝子ステージ見て感激し中退して宝塚入った戦前宝塚轟夕起子らと並ぶ、男性ファン多大な支持集めた美人娘役ひとりとして語り継がれる夢路いとし芸名の姓は月丘にちなんだと、いとし本人談話していた(詳細夢路いとしの項目参照)。 「容姿端麗」が入学条件美女揃い宝塚歌劇団中でも、他のタカラジェンヌ達から妬まれ深刻ないじめにあっていたほどの類稀な美貌持ち主。「ツメ自分美貌を鼻にかけている」「男の先生色仕掛け接して、いい役を貰っている」などと身に覚えのない中傷をされ続けていた窮状救ったのが同期越路吹雪だった。越路は「ツメ、あんたは三枚目お笑いキャラ)で行き!」と助言してくれたと後に月丘は語っている。 統一教会と関係の密接な一和高麗人参TVCMに月丘が出演し、夫・井上統一教会系の国際勝共連合後押し制作された『暗号名 黒猫を追え!』で監督・脚本担当するなど、統一教会との関わりの深い芸能人である。霊感商法問題にされた際には教会員支持者集まりで月丘を目撃したという情報寄せられたことなどから、統一教会会員との疑惑持ち上がったが、月丘自身は「私はローマ・カトリック信者洗礼記録残っている」と否定している。 1953年上記日活移籍でも、映画1本の出演料はすでに当時日本映画界のトップクラスで、また、大手映画会社松竹専属だったが、『原爆の子』を原作とする日教組プロ制作映画ひろしま』に故郷広島への郷土愛からノーギャラ出演して教師役を演じた爆心地にあたる現在の中区大手町には、実家薬局店があった。 月丘が第一線活躍していた頃、美容整形において「目は月丘夢路の目で」という希望が多い時期があった。 宝塚歌劇団コンビ組んだ事もあり、月丘の上生にあたる男役トップスター春日野八千代も彼女の類稀な美貌について語っている。 日活所属時に当時の映画衣装担当者が森英恵であり、プライベートにおいてもマタニティードレスなどの衣装製作オートクチュール)を依頼している(宝塚歌劇団で月丘の下級生新珠三千代も同様)。 月丘が出演した日活移籍後第1作目映画『あした来る人』(1955年)では、原作者井上靖から「(小説を)書いてるうちに、また月丘さんみたいな人が出てちゃったの」、と月丘のイメージ原作書いたことを告白されたと語っている。 宝塚後輩淡島千景映画界転向は月丘の勧めという。 仲代達矢本格的映画デビューは、月丘が仲代舞台幽霊』を見て気に入り、月丘の相手役指名した1956年日活『火の鳥』。「準主役に抜擢という形で映画俳優への道を拓いてくれた月丘さんには一生足を向けて寝られないです」と仲代話している。月丘と仲代その後1974年の『華麗なる一族 (映画)』(山崎豊子原作)でも母と息子役(万俵寧子万俵鉄平)で共演している。 2012年1月31日『徹子の部屋』出演した時のトーク内容からこのようなことが明かされている。娘・絵美は月丘を「台所宇宙人」と称している。過去台所のことが出来人がいないときに客がきて、もてなせなかったことを娘に非難されたためである。まともに料理できないのに客を呼び、「よくこれで人を呼んだな」と言われたこともある。月丘が料理をできなかったのは、夫・井上家事などをしないでよいと言ったためである。井上自立した女性認める人であり、月丘自身絵美料理勉強するためにフランスリヨン留学した際には背を押している。 若いイケメン好き。市川海老蔵が最もお気に入りで、赤ん坊写真もらったという。またダルビッシュ有石川遼髙橋大輔らも好きだという。娘には顔が良ければ良いのかと言われているが、彼らは一芸秀でているから好きだと語る。

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藤原敦敏」の記事における「人物・逸話」の解説

世間評判も非常に良かったが、天暦元年947年)に流行した疫病にかかり、祖父・忠平や左大臣昇進した直後の父・実頼に先立って早世した。死後東国より敦敏のために献上された馬が届き、それを知った実頼が悲嘆の歌を詠んだという。 敦敏から見れば菅原道真失脚させた藤原時平大伯父であると同時に外祖父にあたる。時平血を引く者は多く短命であり、それは道真怨霊よるものだと喧伝されたが、敦敏も例外ではなかった。 藤原北家嫡男ありながら祖父や父達の影に隠れ政治的には目立たなかったが、『後撰和歌集』に和歌が1首残っている。

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松平春嶽」の記事における「人物・逸話」の解説

幕末期鋳造発行され貨幣文久永宝」の文字は、当時幕府上位閣僚のうち能筆とされた3人の手よる。この一部は、春嶽の筆である[要出典]。「文久永寳」の寳の字が「宝」と略されている硬貨が春嶽の筆である[要出典]。 『続再夢紀事』、『孝明天皇紀』さらに『逸事史補』には「元治」への改元の際、朝廷幕府示した元号案の中で「令徳」を天皇推していると主張した。「令徳」という言葉に「徳川命令する」という意味を読み取った幕閣や一慶喜らはこれを嫌い、春嶽に相談持ち掛けるが、春嶽は「もとより天下最高位にあるのは朝廷である」という趣旨発言をしたが続いて「『令』という文字年号使った先例はない」として元号案の一つにあった元治」(「元に治まる」の意で「王政復古の意味合いが強い)を妥協点とすることと提案慶喜らに懇願され春嶽が説得した朝廷側の中川宮朝彦親王関白二条斉敬もこれに同意。無事、新元号は「元治」に決定したという。 『明治天皇紀』や『岩倉実記』、『逸事史補』といった資料によると「明治」への改元にあたり菅原家等の学者複数元号案を提出、それらを岩倉具視意を受けた春嶽が「佳号」と判断した2〜3号絞り込み最終的に籤引きによって決定されたという。 西洋リンゴ初め日本導入したとされる文久2年1862年)、春嶽はアメリカ産のりんごの苗木入手し、それを江戸郊外巣鴨福井藩下屋敷植えたのが最初とされる(ただし遡ること数年前巣鴨近隣板橋にあった加賀藩下屋敷にて先行栽培記録がある)。 島津斉彬薩摩藩主)、山内豊信土佐藩主)、伊達宗城宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯称された。しかし、慶永後世において世間では四賢侯などと言われているが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬お一人であり、自分もちろんのこと水戸烈公山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語ったといわれる[要出典]。 島津斉彬島津久光山内容堂伊達宗城のほか、勝海舟大久保一翁秋月種樹とも交友関係持った[要出典]。 維新後腹心だった橋本左内について「何も殺すほどの罪はなかったのだ」とその死を惜しんだ

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北畠具教」の記事における「人物・逸話」の解説

具教は剣術好み修行旅をする剣客保護援助していた。自身塚原卜伝に剣や兵法学び、彼は卜伝から奥義である一の太刀伝授されといわれる。他にも上泉信綱からも剣を学んだ。具教は大和柳生宗厳とは剣を通じて親交があり、上泉信綱に彼や宝蔵院胤栄紹介するなど、剣豪たちの交流一役買っていたといわれる織田氏刺客襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵斬り殺し100人に手傷を負わせたという(刀の刃が腹心佐々木四郎左衛門尉により潰されており、抵抗できずに斬殺されたとも)。 父の晴具と同様に和歌好んでいた。 暗殺され20年後、上三瀬の具教の末裔名乗る住人が具教の菩提を弔うために現在の大台町にある北畠神社の場所に国司堂を建てたとされる三重県飯高町野々口御所尾山には具教ものとされる首塚存在する。 諱の具教は高祖父北畠教具あやかってけたものとされている

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西園寺公望」の記事における「人物・逸話」の解説

政治家となることをすすめたのはフランス留学時代恩師アコラスだったが、西園寺は「政治家は常に思うところをいうことはできず、時に嘘を言わねばならない」と否定的だった。するとアコラスは「日本の政治家時に嘘をつくだけでいいのか、フランスの政治家は常に嘘をついている」と大笑いした二人の関係極めて親密であり、西園寺はアコラスとクレマンソー極秘政治的パンフレットフランス国内に持ち込む必要があったときにはその運び屋役を務め、またアコラスの旅行時にはその世話をしたという。 伊藤博文邸宅尾崎行雄訪れた際に、伊藤席を外すと、「政治などというものは、ここの親爺のような俗物やることだ」と吐き捨てるように言ったという。 明治天皇西園寺首相就任を「公卿から初め首相出たと言って喜んだという。 参内する時以外はほとんど常に和装だったという。 伊藤博文井上馨負けず劣らず大変な女好きであり、花柳界では「お寺さん」として有名な通人であったという。 明治2年1869年)、フランスへ留学生推薦してくれた大村益次郎礼を言うため彼の旅館訪れ直前親友万里小路通房駆け込んできて長談義となり、その間に益次郎襲撃されるという事件が起こっている。 フランスで盲腸炎以来多病となり、たびたび大病悩まされたという。慢性的なリウマチ糖尿病持病であった。しかし逆に体に気をつけることになり、長寿恵まれたという。 非常に美食家であり、教皇庁訪問時には接遇担当者料理通であると賞賛されている。西園寺家には高級料亭なだ万から料理人派遣されていたが、たいてい一年続かず4年続いたものが珍しがられるほどであったという。ステーキバター焼などが好物であったが、庶民的なサンマも好きであったという。北大路魯山人も「たべものにはなかなかやかましい人」「通人」という観測行っている 私生活では極めて頑固で怒りやすい性格であり、家族が同じことを二度聞いてくると怒鳴り散らした。「妻」の一人小林菊子は「叱られいとすれば並大抵苦労ではなく、よくできても口でほめるようなことはせず、それがあたりまえだ思っている人」と回想している。 大変な読書家でもあり、近衛文麿は「漢籍についてはそこらの学者でもかなわない」と評している。またフランス語・英語の書籍に関して蔵書としており、現在は立命館大学西園寺文庫収められている。 ただし伝統的な公家基礎教養である和歌余り得意ではなく、『蜻蛉集』の際に翻訳した和歌にも基本的な事実誤認複数含まれている。 護身用長大補強され使用していたという。

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岩倉具視」の記事における「人物・逸話」の解説

「公は身長五尺三寸(約160cm)。日本酒好み、その量も中人以上に譲らなかった。蟄居時代には一日三回とも五勺づつ欠かさなかったが、その下物湯豆腐野菜もしくは魚類に過ぎなかった。幽居中、毎日魚類食膳上すことは出来なかったため、具定、具経が川魚釣り、これを料理して公の食膳に共した。公もまたこれを無上馳走として喜んだという」『岩倉具視公』より 食事好みは牛肉類よりも、野菜もしくは魚肉風味好んでいた。平生京都料理好みなかでも料理を最も好んでいた。 喫煙好み日本煙草を愛喫していた。維新後葉巻煙草喫煙していたが、西洋煙草は口にしなかったという。 謡曲と能仕舞趣味として好んだが、声が小さかったので技量はあまり高くなかったという。 1951年昭和26年発行開始日本銀行券五百円紙幣B号券、および1969年昭和44年発行開始五百円紙幣C号券岩倉肖像採用された。C号券1982年昭和57年)の五百円硬貨登場後も、1985年昭和60年)まで製造され1994年平成6年4月1日支払停止日まで日本銀行から払い出しされていた。なお、B号券C号券共にキヨッソーネ描いた肖像画左右反転させ、服装大礼服から蝶ネクタイ背広変えたものを使用している。 岩倉設立した私鉄日本鉄道は、東北本線山手線常磐線高崎線やそれらの駅(上野駅新宿駅青森駅など)として、JR東日本受け継がれ現在でも多くの人に利用されている。また鉄道界の発展大きく貢献した恩人として、上野鉄道学校岩倉鉄道学校改称している。 晩年自力起き上がれぬほど病状悪化明治天皇見舞い受けた際は布団に袴を置いて礼装代わりとし、合掌して出迎えたとされる

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ルイ7世 (フランス王)」の記事における「人物・逸話」の解説

幼少期から口数少な読書好きで思索にふける子供で、修道院で培われた生真面目信仰心篤い性格生涯変わらずアリエノール結婚した時点では女性へ接し方も知らず結婚後も性を忌避して夫婦交わり少なくして、妻よ祈り優先してアリエノール失望させた。しかし勇敢な一面見せ結婚直後アリエノール勧めタルモン=サンティレール訪問した際、誘拐狙ったタルモン城主ギヨーム・ド・ルゼの部隊襲われ無我夢中抵抗撃退してアリエノール喜ばせた第2回十字軍でもカドモス山の戦いで奮戦劣勢の中でセルジューク軍に抵抗してフランス軍壊滅避けた。 父の代から始まった国王パリ長期滞在ルイ7世時代でも続いたことで、パリフランス首都位置付けられ統治機構整備サン=ドニ修道院パリ大学存在もあり、パリ政治宗教・文化中心地として発展した一方ルイ7世アリエノールが北フランス広めた南フランス文化を嫌い、離婚した後は払拭取り掛かり十字軍国内疲弊して文化人雇えない財政問題もあった)、騎士道物語恋愛詩が宮廷から追放され文法・論理学修辞学など修道院教育宮廷主流になっていった。アリエノールとの間に出来た2人の娘には厳しく教育アリエノール奔放な気風に染まるのを恐れ長女マリー結婚1164年まで許さなかったが、皮肉にもマリー結婚した後はポワティエ行き母と再会文芸パトロンとして大成した母と同じ道を歩むことになる。 内政では堅実に足場固め王権強化取り組み都市コミューン承認する証書与え王権味方増やして貴族牽制した。これも父の代から始まった政策継続だが、王領の外に限定したコミューン王領内部都市でも認めて範囲拡大した。また第2回十字軍参加王権司教座影響力及ぼしやすくなり、司教座国王証書発給し、王から司教座へのレガリア(俗)の取得義務付け役人近親者司教補任して司教座支配の強化図った一方家政機構特定の家門セネシャル主膳長)、シャンスリエ(官房長)、コネターブル(英語版)(主馬長)などの役職世襲独占するようになり、王の直轄領役人であるプレヴォ世襲業務請負見られ家政機構整備国王会議専門組織分離合わせて次のフィリップ2世課題となったアリエノール離婚する前と後でルイ7世行動変化見られ積極的で無謀な軍事行動繰り返した1140年代とは対照的に、慎重かつ執拗な戦略でもってヘンリー2世対抗する姿勢へと変わっていった。これはルイ7世心境の変化表れ見做されアリエノールとの結婚生活敢行した出兵は、妻に夢中で彼女を振りかせたいがために張り切った行為で、離婚してからは本来の自分取り戻した推測されている。離婚至った理由は、成長して自意識芽生えたルイ7世アリエノールの間に生じた相性悪さの他、ルイ7世王朝存続のため男子継承者望んだからと思われる将来アリエノール男子産んだとしても、彼女は十字軍醜聞まみれたため男子出生疑惑生じ危険性孕んでいた)。 アンジュー帝国対抗するため外交手腕発揮プランタジネット朝家族仲の悪さ利用して内乱煽った1152年戦争ではヘンリー2世ジョフロワ兄弟対立便乗して出兵1159年ヘンリー2世トゥールーズ伯遠征では宗主権活用大陸ではヘンリー2世自分臣下である関係を利用して妨害した1173年戦争では父子不仲に付け込んで対立介入し1169年会見ヘンリー2世の3人の息子たち臣従誓い交わしたことを利用元妻アリエノール若ヘンリー王リチャードジェフリー味方につけ、フランス諸侯スコットランドなども加えてヘンリー2世包囲した。しかし、軍事では十字軍以後精彩欠き、しばしばヘンリー2世敗れ好機逃し1173年戦争でも勝てなかったため、最終的にヘンリー2世和睦せざるを得なかった。 フランス王国最初の王令を発布し王室修史事業発端始められるのもルイ7世治世であった。「ルイ7世には武人としても政治家としても非凡なところは何もなかった。そのような君主のもとでの王権増大は、ますます特徴的である」というのは、歴史家アンリ・ピレンヌ評価である。 イングランド作家ウォルター・マップとの対話語った次の言葉ルイ7世の素さと単純さ表している。「インド諸国の王は宝石ライオンヒョウ、象に取り囲まれて暮らす富裕な王だ。ビザンツ帝国皇帝シチリア王誇りは、金と絹の衣装だ。そなたの主人イングランド王には、欠ける物は何一つ無い。それに引き換えフランス王といえば持ち物パン葡萄畑ささやかなお祭り騒ぎぐらいなものだ」。ルイ7世姿勢当時歴史家好意持たれウォルター・マップルイ7世謙虚ながらも裁判厳格な姿勢評価イングランドの歴史家ウィリアム・オブ・ニューバラ(英語版)もルイ7世騙され易い単純さ指摘しつつも敬虔さ優しさ称賛している。

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王神念」の記事における「人物・逸話」の解説

若くして儒術を好み仏教経典に最も明るかった。 神念の性格剛直で、州郡においては必ず淫祠禁止した。ときに青冀二州東北に石鹿山が海に臨んであり、そこに神廟があって、妖巫が人々惑わしていた。遠近から祈祷求めたため、民間出費は非常に多かった。神念が赴任してくると、その神廟叩き壊して、州の風俗改めた。 神念は若くして騎射を得意とし、老いて衰えなかった。かつて武帝の前で二刀を手に執って左右に振り回しながら、馬を駆って往来してみせたことがあり、その技術は軍の部隊中でも抜きん出ていた。

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陶晴賢」の記事における「人物・逸話」の解説

西国無双侍大将」と呼ばれる一方で厳島の戦い際し弘中隆包の「元就狙い大内軍を狭い厳島誘き寄せ殲滅ようとするものだ」という進言入れず出陣し敗れるなど、器量乏しい面も覗かせる直情型で独断専行多く、義隆と対立については晴賢自身性格原因という説もある。また冷酷な一面もあり、厚狭弾正という人物無罪訴えていたとき、笑み浮かべながら火あぶりにした。直後合戦で晴賢は落馬したが、このとき晴賢の家臣弾正亡霊が晴賢を突き落とすのを目撃した伝えられる疑り深い一面があり、配下江良房栄才覚恐れた元就が、房栄が内通しているという噂を流すと晴賢は他の家臣が「元就謀略だ」と言うのも聞かずに房栄を誅殺している。一方で臣下小者思いやる逸話もあり、出雲遠征から敗走する際に自分兵糧護衛与え、自らは干鰯食べて飢え凌いだという。 現在、廿日市洞雲寺にある晴賢の墓所であるが、江戸時代の歴史書『芸藩通志』が初出であり、元和4年1618年時の佐方村下調帖によれば、「往古より有る墓所厳島教親(藤原教親)、厳島友田)、毛利元清穂井田元清)と妻、大江元澄桂元澄)と記載されており、晴賢の墓については記載されていない。晴賢の自害の地は厳島山腹とされており、毛利方に討たれたのでは無い事から、上記合わせて毛利方の首実検訝る指摘もある。

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崔亮 (明)」の記事における「人物・逸話」の解説

1369年洪武2年)、崔亮洪武帝朱元璋)の父の朱五四陵墓を英陵とよび、祭礼を行うよう請願した太常博士の孫吾与は漢や唐で初代皇帝の父の祭礼行なった者がいないと反論した崔亮は「後漢光武帝皇祖皇考陵墓を昌陵とよび、宋の太祖高祖父陵墓を欽陵とよび、曾祖父陵墓を康陵とよび、祖父陵墓定陵とよび、皇考陵墓安陵とよびました。けだし創業君主はその父祖尊んでおり、その陵墓尊崇しております。その陵墓尊ぶからには祭礼を行うべきものです。礼はもとより人をつなぐ情から起こるものだからです」といった。朝廷議論崔亮意見を是とした。 崔亮は「『礼記』礼運に『礼は郊において行い、そこで百神が職を受ける』といいます今は天下の神祗壇を圜丘の東、方沢の西に増やすのがよろしいでしょう」といった。 崔亮は「『礼記』郊特牲に『器は陶匏を用いる』といい、『周礼疏』に『外祀は瓦を用いる』といいます。いま祭祀磁器用いているのは、古意合致してます。しかしたらいや鉢のような器は古代異なってます。いずれも磁器換えたかつきにだけ竹を用いるのがよろしいでしょう」といった。 洪武帝郊社の諸祭祀において、壇に家屋がなく、突然の衣服濡れることを心配した崔亮1016年大中祥符9年)に宋の真宗南郊遇い太尉庁で祭祀観望した故事や元の『経世大典』から壇垣内外の建屋風雨避けた故事引いて上奏した。洪武帝は壇の南に殿を建て、遭遇したときにはそこで祭祀観望すると、詔勅出した洪武帝ある日「朕が天地郊祀するとき、真ん中位置して礼拝するが、百官たちは東西分かれて並んでいるのはどうしてか」と崔亮訊ねた崔亮は「天子が天を祭るのに、午陛より昇り北向きになるのは、答陽の義です。社を祭るのに、子陛より昇り南向きになるのは、答陰の義です。群臣たちは君上の尊を避けるべきで、このため昇降は卯陛からで、東西の列に分かれて馳道避けているのです。その義は同じではありません」と答えた

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里見義堯」の記事における「人物・逸話」の解説

五公」の二字印文とした印判用いる。五公五官、公とは官衙のことであり、五つ公儀を行うことをあらわしている。また、世の秩序正し伝統的な鎌倉体制保持することを願って入道名「正五」を用いる。 天文14年1545年)には安房鶴谷八幡宮で自らを「副将軍」(関東管領の意とも言われる)として願文納め後北条氏関東覇権めぐって争い続けている。北条氏康義堯崇敬しやまない僧侶日我通じて和議申し出た事があるが、義堯上人日我)の申し出でそれだけ出来ない答えている。 義堯明らかに自国より強大である氏康と争い続けることができたのは、里見軍の精強さ、特に上総安房海賊衆基盤とした水軍勢力保持していたためである。ゲリラ戦に非常に長けた里見方の海賊衆は、たびたび北条氏領土略奪働き領民恐れさせた(北条水軍も同じことをやっていたが、里見のほうが上手だった北条氏支配下にあるはずの三浦半島々では、あまりに里見略奪され回数多かったため、年貢半分北条へ、残り里見へと収めることで安全を保証して貰っていたという)。このため、氏康も一時上総大半制したものの、容易に安房には侵攻することはできなかった。 義堯の「堯」の字は、古代中国三皇五帝1人堯に由来するものであり、また息子にも義舜と名づけている(舜に由来)。このことから、義堯故事基づいた施政布き、民にも「万年君様」として慕われていたという。 義堯人柄勇気は敵である後北条氏からも認められており、「仁者必ず勇あり」と称えられていたという(『北条五代記』)。

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三好之長」の記事における「人物・逸話」の解説

等持院の戦い大敗した時に逃亡せずに捕縛されたのは、京都医師である半井保房の記録である『聾盲記』によると之長が肥満して10歩も歩けなかったためという。 高国態度急に翻して之長を斬った理由は、尚春の遺児である彦四郎強請よるものであるといわれる。そして之長が斬られた日は前年永正16年に尚春を殺害したであった処刑された時、『聾盲記』において「合戦には三好申して大強のものなれども、天罰にてかくのごとし一時に滅するなり……いまの三好は、大悪大出(最高)なるものなり。皆の人々悦喜せざるはなし」と記されている。 之長は成り上がり他国者の権力者として京都の人々には嫌われており、『大山寺縁起』には建設工事嫌々働く人々描かれ、『細川大心院記』や『瓦林政頼記』には当時の之長を風刺する落首いくつも残されている。

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大内義隆」の記事における「人物・逸話」の解説

幼少時逸話として、子どもたちが銭を玩具にして遊んでいたのを見て、義隆も銭で遊びたい守役杉重矩言った。すると重矩は「主君となるべき人が、銭のような汚らわしい物を見るのは恐れ多い」として銭を黄金の笄(こうがい)で突き刺し、そして笄と一緒に銭を汚物中に投げ捨て、それを義隆に見せていかに銭が武士にとって賤しいかを認識させたという(『武者物語』)。 大内氏家督継承の度に内乱発生していたが、義隆相続のときは数少ない例外である。父・義興の力もあるが、歴代で義隆の政権初期が最も安定していたことも窺える。 義隆は文化的関心強く文治主義的な戦国大名として知られている。三条西実隆などの文化人とも交流し和歌連歌芸能など公家文化への関心を示す。また、朝廷への進物行って官職望み束帯姿で牛車乗るなど貴族趣味持っていたと言われる学問においても古道を好む事や花押形式などから、復古主義的な性格持った人物であった考えられている。しかしそれは大内氏歴代見られる傾向であり、またこの時代山口西の京として繁栄極み迎えた政策においても保守的で、奢侈禁止令段銭徴収に関する法令発布する寺社復興寄進し、大宰大弐となると大府宣布告した。さらに義隆とその家臣団官位も他の戦国大名のような自称官位ではなく朝廷奏請して賜っている本当官位である。このように復古的な政治多く見られる中国の明や李氏朝鮮交易行い大内氏管領家細川氏抗争して日明貿易勘合貿易)を独占する朝鮮からは『大蔵経』などを典籍輸入し独自に大内版出版する。義隆は山口京都のような条坊制都市整え城郭構えず大内館居所とした。キリスト教宣教師来日していたイエズス会士 フランシスコ・ザビエル招いて山口における布教許可するなど、開明的人物であった。義隆が冴え失ったのは武断派である陶隆房らが強行した尼子攻め敗北原因でもあるとされている。 陶隆房との対立の原因は、文治武断対立のほかに、陶氏がかつて横領した東大寺旧領返還しようとしたからだともされている。ここにも義隆の復古な行動が見られる嫡男死亡後文弱傾向溺れたことされることが多いが、実は文治派形成することで大名自身近臣からなる家臣団による大名権力の強化を図るなどしている。このため政治的権力強化されたが、軍事面守護代豪族一任していたため、逆に守護代独立性強化することにもつながってしまった。ただし、一方においては租税徴収などの行政権限の大半山口にいた奉行人や彼らに派遣され郡代文治派構成する人々)によって掌握され、かつ軍事活動低調になっていくと、軍事的権限背景とした守護代大内氏家中における発言力喪失してしまう結果となり、これによって陶隆房守護代の方が却って追い詰められていったとする見方もある。 義隆は衆道好みザビエルキリスト教立場から男色非難する発言をすると、激怒してザビエル退出させたという逸話がある。 義隆が陶隆房寵愛していた頃、馬で五時間もかけて会い行ったが、隆房が深く眠っていたために和歌残し帰還したという話がある。 『陰徳太平記』などには「又四郎隆景は、容姿甚だ美なりしかば、義隆卿 男色寵愛浅からずして」との一文小早川隆景が義隆と衆道関係にあったことが記されているが、同書文学としての側面強く信用のおける資料とは言い難い。また隆景・陶隆房の他にも清ノ四郎安富源内などが義隆の寵愛受けた人物とされている。 存命中は周辺国武士には畏怖されていたが、箱崎宮再建した厳島神社宇佐神宮など多く寺社手厚く保護したことから僧侶からの評判高く文化人公家にも「末世道者」と称えられていた。 当時博多祇園山笠の舁(か)き山は12本あったが、義隆が山口祇園会に6本を分けた為に博多山笠の舁き山が6本になった。

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金易二郎」の記事における「人物・逸話」の解説

関東棋士とあまり交友がなかった坂田三吉唯一心を許した人物と言われ上京してきた坂田世話等は金が担当した大阪の舳人権歴史館にある阪田三吉記念室には坂田と金仲良く写った写真等身大パネル展示されている。また弟弟子木村高く評価し木村さん付け呼ぶほどであったという。一方で一時期袂を分かったこともあって兄弟子土居とはあまりソリが合わなかったともいわれ、対局ではお互いに闘志むき出しにして争ったという。 長考派の受け将棋で、同じ棋風の西の重鎮木見金治郎並び称されたこともある。兄弟子土居早見え天才肌将棋であり、この点でも対照的であった持ち時間制導入され直後対局中盤時間切れになってしまった逸話も伝わる。 喜怒哀楽はっきりした性格で、「勝つと小遣いを(棋譜取りをしていた僕に)くれるんですが、負けるとくれないんです。機嫌悪くて」と弟子述懐されている。お酒下戸で全く飲めずあんみつなど甘いものが好きであったという。

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董遵誨」の記事における「人物・逸話」の解説

趙匡胤若いころ地方遊歴して漢東にいたると、董宗本のもとを頼った董遵誨は父の権力笠に着て居丈高であったので、趙匡胤はかれを避けた。あるとき遵誨は、城の上紫雲がおおい、百尺あまりの黒蛇が龍に化けて東北飛び去った夢の話をして、趙匡胤意見求めたが、趙匡胤答えなかった。趙匡胤即位すると、遵誨はかつての無礼謝し、地に伏して死を願い出た趙匡胤側近たちに命じてかれを助け起こさせ、「卿は過日紫雲と化龍の夢のことを覚えているか」と訊ねると、遵誨は再拝して歳をとなえた。まもなく遵誨の部下がかれの不法十数条を訴えたが、趙匡胤不問付した。遵誨はますます恥じいって罪罰を課すよう願い出たので、趙匡胤はかれをなだめさとした董遵誨読み書き知らなかったが、闊達な性格軍略通じ武芸は並ぶ者もなかった。通遠軍におよそ14年在任して、諸族を威服させた。

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北条泰時」の記事における「人物・逸話」の解説

泰時人格的に優れ武家公家双方からの人望厚かった肯定的評価をされる傾向にある。同時代では、参議広橋経光などが古代中国聖人君子(堯、舜)にたとえて賞賛している。 泰時政治当時鎌倉武士の質実剛健理想体現するとされ、彼のすぐれた人格を示すエピソード多く伝えられる。『沙石集』は泰時を「まことの賢人である。民の嘆き自分嘆きとし、万人父母のような人である」と評し裁判の際には「道理道理」と繰り返し道理適った話を聞けば道理ほどに面白きものはない」と言って感動して涙まで流すと伝えている。 例え次のような話が『沙石集』にある。 九州忠勤の若い武士があった。彼の父は困窮のため所領売り払う破目陥った。彼は苦心してそれを買い戻し父に返してやった。しかし父は彼に所領与えず、どういったわけか全て彼の弟に与えてしまったため、兄弟の間で争論があり、泰時の下で裁判となった立ち会う泰時は、初め兄の方を勝たせたいと思った。しかし、弟は正式の手続き経ており、御成敗式目に照らすと弟が明らかに有利である。泰時は兄に深い同情寄せながらも弟に勝訴判決を下さざるを得なかった。泰時は兄が不憫でならなかったので、目をかけて衣食世話してやった。兄はある女性と結婚して、非常に貧しく暮らした。ある時、九州領主欠けた土地見つかったので、泰時はこれを兄に与えた。兄は「この2、3年妻にわびしい思いばかりさせておりますので、拝領地で食事十分に食べさせ、いたわってやりたい思います」と感謝述べた泰時は「立身する苦し時の妻を忘れてしまう人が世の中には多い。あなたのお考えは実に立派だと言って旅用の馬や鞍の世話してやった。 ある地頭領家争論した際、領家言い分聞いた地頭直ちに「負けましたと言った泰時は「見事な負けっぷりだ。明らかな敗訴でも言い訳をするのが普通なのに、自分敗訴認めた貴殿は実に立派で正直な人だ。執権として長い間裁判をやってきたが、こんなに嬉しい事は初めてだ」と言って涙ぐんで感動した源頼家仕えていた19歳の頃、頼家蹴鞠凝って幕政顧みないことを憂い諫言したことがある。寛喜の飢饉の際、被害激しかった地域百姓に関しては税を免除したり、米を支給して多く民衆救ったという逸話がある。この際には民衆慮って質素尊び、畳、衣装烏帽子などの新調避け、夜は燈火用いず酒宴遊覧取りやめるなど贅沢を禁止した晩年行った道路工事の際には自ら馬に乗って土石運んだ事もある。 このように誠実に仕事こなしたため公家民衆からも評判がよく、泰時植えた日陰で休む旅人泰時感謝する逸話もある。 しかし一方で近衛兼経などは承久の乱後の朝廷に対す厳正な措置恨み泰時平清盛重ねて悪評下している。このような公家一部悪感情反映して泰時死に際しては後鳥羽上皇祟りを噂するものもいた。 鎌倉幕府滅亡後北条氏対す評価皇室対す処遇を巡る大義名分論中心に行われ北条高時などが暗君として評価されているが、泰時徳政を讃えられる傾向にある。南北朝時代には南朝方の北畠親房『神皇正統記』において、江戸時代には武家専横批判する新井白石肯定的評価をしている。一方で江戸期国学振興においては本居宣長頼山陽などの国学者泰時批判するようにもなった。 また鎌倉幕府北条氏による後世編纂『吾妻鏡』には、泰時に関する美談数多く記されているが、中には他人エピソード流用している作為見られる吾妻鏡#得宗家の顕彰参照)。それ以外にも泰時不都合な事実隠蔽曲筆がされていることを窺わせる指摘もある。例えば、『吾妻鏡』には暦仁元年6月5日藤原頼経将軍就任御礼をするために奈良春日大社参詣した際に泰時と時房が同行したことが記されているが、頼経実父である九条道家日記玉蘂』には、泰時三浦泰村宇都宮泰綱と共に京都留守守っていたことが記されており、何らかの事情泰時同行したかのように曲筆されたと推定される(なお、三浦泰村宇都宮泰綱『吾妻鏡』には同行した記されている)。 『承久記』によると、承久の乱の際には慎重論であった即時出撃論者大江広元促され従者18人のみを連れて鎌倉発向したという。上横手雅敬は、泰時主張通され場合幕府側の団結崩れたこともあり得たであって、この時の泰時態度彼の生涯における最大過誤であったとしている。 五味文彦は、「実朝に最も直接的な影響与えたのは北条泰時であった泰時実朝より約十歳年上で、頼朝徳政学び実朝徳政支えてきたことから、その徳政延長上で武家法典御成敗式目」(貞永式目)を制定した武家政権泰時段階定着したが、幕府草創担った頼朝や、後鳥羽上皇推進した政治文化学び武家政治文化の礎を築いた意味において、実朝存在もっと高く評価されるべきであろう」としている。

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宮内幸平」の記事における「人物・逸話」の解説

声種バリトン小銭ポケット入れて持ち歩く癖があったため、アフレコの際それがノイズを出すことが多かった。そのため野沢雅子に「ノイズの宮」というあだ名付けられた。 飴が大好きで、収録中もつねに舐めていたという。田中真弓は「自分出番になると、椅子に飴を置いてそのまま存在忘れて戻ってきてしまい、ズボンの尻に飴玉くっついたままうろついていた。そして『真弓、お前俺の知らないか?』と盗み食いしたと言わんばかり目つき口調迫ってきたことが多々あった」と語ったこともある。 荘真由美は、『ドラゴンボール』収録時に宮内から丁寧に演技指導受けていたことを忘れられないエピソードとして語っている。 趣味特技スキー旅行関西弁東北弁

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塩崎恭久」の記事における「人物・逸話」の解説

高校時代学生運動学園紛争全盛期にあたり塩崎革命的共産主義者同盟全国委員会系の社会科学研究会所属して東京都立新宿高等学校では生徒会長務めたが、学生運動への参加を嫌う学校側対し自由な運動の容認要求し校長室数人占拠して10日間のストライキを行うなどした。高校時代American Field ServiceAFS)で1年間アメリカ合衆国留学経験その際ベトナム戦争反対する集会にも参加していた。帰国後は一つ下の学年在籍し同級生坂本龍一音楽家)や馬場憲治写真家)、那須恵理子ニッポン放送アナウンサー)や野中直子元文放送アナウンサー)がいる。 新宿高校での学生運動中心塩崎坂本馬場で、3人でバリケード封鎖等を行った坂本から「どうせ、おまえはそのうち自民党代議士になるんだろうから、そのとき応援行ってやるよ」と言われていた。その後坂本とは学生時代女性問題めぐって袂を分かっていたが、坂本アカデミー賞受賞した際に塩崎祝い送り交流再開坂本塩崎応援演説駆けつけた。 元日共産党参議院議員筆坂秀世とは参議院議員時代清水谷参議院議員宿舎大浴場でしばしば談笑した文字通り裸の付き合い間柄だったという。 内閣官房長官時代午前5時に起床し各方面電子メール指示を出すスタイル知られ土日返上閣僚官僚打ち合わせを行う等、初入閣ながら精力的に仕事こなした官僚依存から脱却するための行政改革推進し事務方上げた人事案を度々ひっくり返し年金記録問題でも厚生労働省社会保険庁の尻を叩き続けたため、「官僚嫌いの長官」と恐れられていたといい、塩崎本人も「霞が関で最も嫌われる政治家」を自認していた。塩崎このような姿勢政策立案能力については、国・地方行政改革担当大臣渡辺喜美と共に公務員天下り規制強化取り組み自民党内の慎重派官僚相手粘り強い交渉展開して男を上げた」との評価がある一方、「安倍お友達内閣」の代表格との批判なされた日本共産党機関紙しんぶん赤旗報道によると、製薬大手武田薬品工業株券を3630時価総額1680万円保有している。なお、2014年10月28日参議院厚生労働委員会塩崎への質疑において、「厚生労働大臣所管業務にかかわる企業の)株式保有するのは問題」との指摘小池晃が行っている。 「年金積立金管理運用独立行政法人GPIF)の塩崎」のイメージ払拭するため、児童養護施設社会保障にも取り組んできたと強調しているが、衆議院厚生労働委員会における労働者派遣法改正案質疑では、何度も答弁窮し野党から批判浴びたまた、2014年11月5日衆議院厚生労働委員会で、厚生労働省資料とは異な答弁繰り返したことなどに反発した野党が、11月7日審議欠席する事態となり、塩崎答弁について謝罪した第193回国会提出された「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律精神保健福祉法改正案」について、厚生労働省改正要旨掲げた相模原市障害者支援施設事件では、犯罪予告通り実施され多く被害者を出す惨事となった二度と同様の事件発生しないよう以下のポイント留意して法整備を行う』など数カ所を2017年4月13日参議院厚生労働委員会削除する異例事態発生野党が「法案中身変わっていない」と共闘して反発し4月20日塩崎が「混乱招きご迷惑掛けたことをお詫びする」と、改正法案の趣旨説明やり直し謝罪する事態となった。これは、相模原事件受けた措置入院在り方について、厚労省審議会出した中間取りまとめを、塩崎指示して自分意向に合うよう大幅に書き換えさせてから、最終報告書受け取った経緯があったためである。改正法案は、参議院可決されたものの、衆議院では可決されないまま国会会期終了し9月28日衆議院解散によって精神保健福祉法改正案廃案となった

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今川義元」の記事における「人物・逸話」の解説

武勇に関して幼いころから仏門に入っていたため、武芸を学ぶ機会恵まれず優れなかったと伝えられているが、桶狭間の戦いでは信長の家臣服部春安真っ先斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の膝を斬りつけ撃退、さらに毛利良勝斬りつけようとした時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした良勝の指を食い千切って絶命したと伝えられており、武芸素養無かった訳ではない公家文化精通し京都公家僧侶交流して京都流行取り入れて都を逃れた公家たちを保護した山口大内氏一乗谷朝倉氏と並ぶ戦国三大文化築いたさらには自らも公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたことから、貴族趣味溺れた人物とされることもある。しかし公家のような化粧をした話は後世の創作であるという説もある。また、たとえ事であったとしてもそれは武家では守護大名以上にのみ許される家格の高さを示すことこそあれ軟弱さの象徴とは言い難い武士戦場に向かう際に化粧をしていくことは、珍しくないばかりか嗜み一つであったという説すらある。 父・氏親三条西実隆和歌添削指導受けてたように義元駿府流寓していた冷泉為和直接指導受けていた。歌会は、毎月13日、のち11日に行うのが定例になっており、このように月次会を定期的に行うのは全国的に見ても珍しい。ただ、義元連歌は好まなかったようで、連歌会の記録はほとんど残っていない。今川家中の和歌レベル実際はあまり高くなかったらしく、同工異曲似たような歌が頻出しそもそも歌合題目をよく理解していない作品が多い。義元自身例外でなく、為和から厳しく指導され記録残っている。 『信長公記』では義元桶狭間の戦いの際の出で立ちを「胸白の鎧に金にて八龍打ちたる五枚兜被り赤地の錦の陣羽織着し今川家重代の二尺八松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字脇差帯し、青の馬の五寸計(馬高五尺五寸青毛の馬)なるの金覆輪鞍置き紅の鞦かけて乗られける……。」と伝えている。[要出典] 永禄3年1560年)の尾張侵攻は、上洛目的説と織田信長討伐尾張攻略説とがある。ただ、浅井氏六角氏北畠氏といった道中大名に対して外交工作行った形跡がなく、年内軍勢もろとも上洛ようとしていたという説にはやや無理がある。 義元討死し、岡部元信主君の首と引き換え織田方に鳴海城明け渡した際に、義元の首とともに引き渡された兜が岡部家伝わり三の丸神社大阪府岸和田市)に奉納され、今に伝えられている。 桶狭間の戦い直前義元夢の中花倉の乱家督争った異母兄玄広恵探現われ此度出陣をやめよ」と言った義元は「そなたは我が敵。そのようなことを聞くことなどできぬ」と言い返すと「敵味方感情言っているのではない。我は当家滅亡案じているのだ」と述べたため夢から覚めた義元駿府から出陣したが、藤沢玄広恵探の姿を見つけて刀の柄に手をかけたという(『当代記』[要ページ番号])。

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三浦為春」の記事における「人物・逸話」の解説

歌人文化人としても知られており、書道文学にも造詣深かったとされる。ある年には女子のために仮名草子の『あだ物語』を作り大覚寺門跡空性法親王後陽成天皇の弟)がこれを甥の後水尾天皇見せたところ、後水尾天皇感心して跋文奥書)を書き入れたという。他にも紀行文の『太笑記』や俳諧集の『野奸集』、『犬俤(いぬおもかげ)』などの作品現存している。 日蓮宗の熱心な信者であり、晩年には常に法華経読誦し、題目書写日課としたという。元和9年1623年)に亡父正木頼忠菩提を弔うために紀伊国那賀郡上野山村現在の和歌山県紀の川市)に了法寺建立し寛永4年1627年)には江戸麻布桜田町現在の東京都港区)に妙善寺建立している。なお、両寺の開山日蓮生誕地にある誕生寺の第20住職・日為が務めた

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姉小路季綱」の記事における「人物・逸話」の解説

季綱と秀綱が信州逃れたのは、徳川家康元に身を寄せ再起を図るつもりだったのではないか推測されている。 鍋山城は八賀の重要拠点となる事から、頼綱は血縁者(顕綱・季綱)を城主とした。

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姉小路秀綱」の記事における「人物・逸話」の解説

姉小路秀綱正室関わる綱神社由来が遺されている。 松倉城落城の際の伝承として、「馬の足跡(岩)」の話が残る。この巨岩現存し保存されている。 島々神社には三木秀綱の方の遺品残されていた。同地には「秀綱公と奥方伝説」の案内看板がある。 現在、秀綱と奥方遺品松本市安曇資料館展示されている。 秀綱遺品とされる三池典太」の太刀初代信国がある。 秀綱と奥方最期逸話残されている。秀綱の妻の慰霊碑徳本峠にある。 秀綱の兄弟には、尾張藩仕えた直綱、末子旗本になった三木近綱等がいる

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人物・逸話

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木戸孝允」の記事における「人物・逸話」の解説

身長五尺八寸(174cm) 江戸着いてからの小五郎には国元和田家桂家からの送金があり、彼はその包み無造作に藩邸もしくは練兵館の)大部屋放り上げていた。それが紛失して包み紙だけが残されたとき、小五郎は平気で「鼠が引いていったのじゃろう」と言った。金の必要な男が持って行くなら仕方がないと、ごく自然に思っていたようである。 小五郎が真剣を用いた数少ない記録としては、『木戸松菊遺芳集』(廣戸正藏昭和7年1932年6月発行 出石郡教育會出版)に、小五郎従者であった廣戸直藏小五郎本人から聞いた話として、文久3年1863年)に京の四条通において捕吏1人切り捨てたとある。この逸話信憑性について村松剛は『醒めた炎』の文中で「つまらない法螺を吹く性癖小五郎にはなく、また廣戸直藏回想おおむね正確なので、これは事実譚と受け取ってよいかもしれない本当とすれば神道無念流教え忠実だった小五郎珍しく其の禁を破ったことになる」と書いている。ただ、同時に村松廣戸直藏作り話という可能性指摘している。 維新後、「大業を成すまでに、幾回となく死生の間に出入りせられたるならんが、その中にて最も危険なりしと思召さること何事なりしや」の問いに「我ながら実に危かりしと思い、今に至るまで忘るること能はざるは、維新前池田屋騒動一件是なり」と答えている。 他人に住所尋ねたときは、必ず筆記し記録していた。 後輩に対して、非常に親切であった木戸の家では、彼の在宅日には10人位集まって夜食をとるが、その時さまざまな料理提供されていたと有地品之允回想している。 立場拘らず目下の者の家を気軽に訪ねる一面があった。有地品之允永田町住んでいた頃、木戸彼の家を訪れた際には、有地だけでなく彼の家族とも面会したある日木戸有地家を訪れた際に有地継母歯痛のため面会出来なかったため、木戸はすぐに歯医者差し向けたという。 平田東助渋沢栄一らも同様のエピソード語っている。以下の同時代人の評価参照のこと。 木戸岩倉江藤推挙した翌日、「抜擢の論」を談じた後藤に対して木戸は「得人難し、一旦挙人俄に退之、於政事甚害あり、故に容易に人を抜擢する恐る抜擢するときは必全任せずんは其れ益なし、其人有て抜擢する元より公論なり、故に能く其人を知て抜擢する可なり、不然ときは却て国家大害を残す」と述べたという。人材登用育成に熱心だった木戸心がけであった剣術だけでなく柔術心得もあった。三浦梧楼回想によると、ある年の正月年始の挨拶木戸のもとを訪れた黒田清隆散々に飲酒した果て暴れ出した木戸宥めて聞かずついには彼に飛びかかってきたが、木戸黒田大腰投げ飛ばし上で喉を締め上げ黒田降参したので駕籠乗せて送り返したことがあるという。 土佐勤皇党弾圧した山内容堂とは維新後意気投合し飲み友達になっていた。酒豪である容堂と飲み続けた挙句に酒の失敗もしていて、明治元年1868年9月16日日記によると、明治天皇御前にて酒肴賜りそのまま容堂と飲みながら話し込んで大酔数十杯を重ねた挙句そのまま江戸城内の御廊下倒れ込んで前後不覚になったという記述がある。 一方で伊藤博文は、「木戸孝允一週間不眠不休で、酒色執務続けてビクともしなかった」と語ったことがある明治3年1870年)、靖国神社当時東京招魂社)の奉納競馬場ソメイヨシノ植えた、という逸話があるが、この時植えられたのはソメイヨシノとは別のであって、後にソメイヨシノ植え替えられたのではないかという説もある。 明治4年1871年)、保守的な弾正台廃止された時、開明であった木戸始め伊藤博文井上馨大隈重信らの行動私生活内偵した文書発見され大隈らはその文書押収することが出来た。「我々(開明派)の大勝利」と喜んだ大隈であったが、それを聞いた木戸逆に「そんな書類見れば無益な恨み醸すのみで、何の益するところもない」と叱りつけ、一切目を通さず焼き捨てさせた。大隈は「私情から言えば木戸公も見たかっただろうに、一に君国為に断然私情斥けてこれを焼かせた。我輩真に木戸公の大精神大度量に敬服したのである」と、木戸処置感嘆した大隈はこの逸話紹介すると共に独り我輩敬服すべき政治家は、一に木戸公、二に大久保公で、いずれも日本における偉大な人物、否な日本のみならず世界的偉人として尊敬すべき人物である」と激賞している。 維新後何度対立提携繰り返した木戸大久保関係性について、徳富蘇峰次のように表現している。「木戸大久保とは互いに畏敬していた。(中略大久保木戸との関係は、維新以来、両龍相い随うと言うよりは、寧ろ相い対立していた。恐らく大久保眼中には、岩倉以外には、木戸一人であった大久保は自らを信じることが非常に篤く、自らの居を決し卑しくしていなかったが、木戸に対して畏敬する所があった。木戸もまた大久保に対しては、幾多苦情抱きつつも許す所があった」 「両人の関係は、性の合わない夫婦のように離れれば淋しさ感じ会えば窮屈を感じる。要する一緒にいる事もできず、離れる事もできず、付かず離れずの間であるより、他に方便がなかった」 晩年木戸現在の東京都文京区本駒込5丁目豊島区駒込1丁目の別宅親し友人招き過ごしたと言われる当時庭園維持されていたが、2014年現在はほぼ庭園部分造成され、湧水量の多い池のみが保存されている(ただし隣接マンション囲まれているため事実上見学不可となっている)。山手線駒込駅から別邸までの間に木戸坂と命名された坂が残されている。 木戸孝允油彩肖像画現存する3点のうちの1点で、1878年イタリアローマでレオポルド・ヴィターリ描く)がお茶の水女子大学寄贈されている(2008年)(郷通子木戸孝允教育あけぼの学士会会報2008年6月号)。 木戸には、「逃げの小五郎」という異名があるが、当時呼ばれたものではなく司馬遼太郎の「逃げの小五郎」に由来している。 残した名言として、以下のものが知られている。「死而後已(ししてのちやむ)」 死ぬまで努力続けるという意 出典論語才子恃才愚守愚 少年才子不如愚 請看他日業成後 才子不才愚不愚」 才子は自らの才を過信して努力怠るが、愚者はおのれの愚かさ知って人一倍努力するという意 「大道行くべし、又何ぞ防げん」 「人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う」 「人民病人なり。政府医者なり」 「夫法律人民ありて而後に生ず法律ありて而後人民あるに非ず。然側法律人民適するを貴ぶ、美喜の法律なるも苟も人民適せずんば以て美喜と為す足らず」 「御一新に付確乎基礎之相据り候事、戦争より良法は無御座太平は誓て血を以ての外買求不相成ものと愚考仕候」 「世の中の下の相撲かな」 以下のものは名言として紹介されることもあるが、創作作品中での台詞である。「事をなすのは、その人間の弁舌才智ではない。人間魅力なのだ」(竜馬がゆく) 「己れの生き方関わるような大問題を他人に聞くな」(龍馬伝)

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来敏」の記事における「人物・逸話」の解説

書物広く読み漁り、『三倉』・『広雅』の訓詁学に最も詳しく文字校正することを好んだ。 『左氏春秋』に通じ、『公羊春秋』を好んで左氏春秋』に批判的だった孟光とは、たびたび激しい論戦繰り広げていた。 244年来敏出陣直前費禕訪ねて囲碁対局申し出た出陣準備終わって勝負夢中な費禕見て来敏は「この度胸の据わり具合ならば、いざ前線にあって何の心配も要らないだろう」と感嘆の意を表した果たし費禕見事に魏軍撃退した言葉節度がなく行動が異常であったため、たびたび免職降格にあった。 しかし、来氏は荊州名族であり、劉禅太子だった頃からの臣下であったため、そのたび復職することができた。 陳寿は「来敏博学知られ徳行称賛を受けることはなかったが、一代学者であった」と評している。

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小嶋花梨」の記事における「人物・逸話」の解説

元メンバー チームN彩華 松田篠原栞那 横山由依兼任解除 福本愛菜 小笠原茉由 與儀ケイラ 山内つばさ 山岸奈津美 河野早紀 柏木由紀兼任解除 村重杏奈兼任解除加奈子 小谷里歩 西村愛 岸野里香 上西恵 薮下柊 須藤凜々花 松村久未 溝川実来 市川美織 山本彩 日下このみ 萌々三田麻央佳奈大段舞依 武井紗良 太田夢莉 谷川愛梨 大田莉央小林莉奈 森田彩花 西澤莉奈 吉田朱里 村瀬紗英 中川美音 南羽諒 チームM小鷹狩佑香 藤田留奈 太田里織菜 肥川彩愛 山本ひとみ 小柳有沙 島田玲奈 三浦亜莉沙 村上文香 山田菜々 高野祐衣 近藤里奈 上枝恵美加 木下百花 中野来 安愛璃 岩田夏 川上礼奈 久代梨奈 古賀成美 山尾梨奈 佐藤亜海 明石奈津子 堀ノ内百香 溝渕麻莉亜 井尻 梅山恋和 山崎亜美チームBII梅原真子 赤澤萌乃 小林加子 高柳明音兼任解除 照井穂乃佳 門脇佳奈子 梅田彩佳 渡辺美優紀 植田碧麗 木下春奈 松岡知穂 黒川葉月 山口夕輝 藤江れいな 村中有基 矢倉楓子 沖田彩華 植村 城恵理子 内木志 山田寿々 メンバー由樹BII 坂本夏海元N 山本彩加BII 横野すみれBII 小川結夏BII 北村真菜元M 清水里香元N 三宅ゆりあ元BII 白間美瑠元M 石塚朱莉元M 南波陽向元N 河野奈々帆元N 菖蒲まりん元N 安田桃寧元M 杉浦琴音元M 研究生岡田梨紗子 瀧山あかね 他 作品 シングル1.絶滅黒髪少女 2.オーマイガー! 3.純情U-19 4.ナギイチ 5.ヴァージニティー 6.北川謙二 7.僕らのユリイカ 8.カモネギックス 9.高嶺の林檎 --.イビサガール配信 10.らしくない 11.Don't look back! 12.ドリアン少年 13.Must be now 14.甘噛み姫 15.僕はいない 16.僕以外の誰か 17.ワロタピーポー 18.欲望者 19.僕だって泣いちゃうよ 20.床の間正座娘 21.母校へ帰れ! 22.初恋至上主義 23.だってだってだって 24.恋なんかNo thank you! 25.シダレヤナギ 26.恋と愛のその間には アルバム1.てっぺんとったんで! 2.世界の中心は大阪や 〜なんば自治区〜 3.難波愛〜今、思うこと〜 参加作品 シングルEveryday、カチューシャ 抱きめちゃいけない 風は吹いている 上からマリコ GIVE ME FIVE! 真夏のSounds good ! ギンガムチェック UZA 永遠プレッシャー So long ! 掌が語ること配信 さよならクロール 恋するフォーチュンクッキー ハート・エレキ 鈴懸の木の道で「君の微笑み夢に見る」と言ってしまったら​僕たちの関係はどう変わってしまうのか、​僕なりに何日考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの 前しか向かねえ ラブラドール・レトリバー 心のプラカード 希望的リフレイン 春風ピアニッシモ Green Flash 僕たちは戦わない ハロウィン・ナイト 唇にBe My Baby365日の紙飛行機 君は今までどこにいた? 君はメロディー 翼はいらない LOVE TRIP/しあわせを分けなさい ハイテンション 逆さ坂 シュートサイン 願いごとの持ち腐れ #好きなんだ 11月のアンクレット ジャーバージャ Teacher Teacher センチメンタルトレイン NO WAY MAN ジワるDAYS サステナブル 失恋、ありがとう アルバムここにいたこと 1830m 次の足跡 ここがロドスだ、ここで跳べ! 0と1の間 サムネイル 僕たちは、あの日の夜明けを知っている 選抜イベント 選抜総選挙第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 じゃんけん大会第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 ユニット 第2回ユニット メディア出演(○は放送中、△は番組継続中だがNMB48メンバー出演終了テレビ番組スター姫さがし太郎 AKBINGO!おはよう朝日です やかせて!ソーセージ真夜中パンチィ土曜はダメよ! どっキング48 なるほど!ハイスクール AKBと××! なにわなでしこ ザ・狩人 ブレインアスリート しゃかりき駐在さん 流行りん♥モンロー! あるあるYYテレビ NMB48 げいにん!げいにん!!2・げいにん!!!3 ブラックミリオン NMBとまなぶくんユタンポ アォーン! よしもとミッドナイトコメディ 3年2組ポンコツの唄 NMB48密着ドキュメンタリー -てっぺんへの道- 放課後ぶかつ部 エブリのまち AKB映像センター AKB観光大使 ワケあり!レッドゾーン AKB48 SHOW! NMB48山本彩のM-姉 〜ミュージックお姉さん〜 ミラクルマジカル宣伝部 NMB48のナイショで限界突破! 恋愛総選挙 NMBのめっちゃバイト ※AKB調べ 僕らが考える夜 トップ目とったんで!りりぽん さえぴぃ △ プロ野球No.1決定戦!バトルスタジアム AKB48の今夜はお泊まりッ虎バン OHA OHA アニキ NMBのミタイ!シリタイ!大阪府議会NMBの教えて!大阪府議会 NMB48○○出来るようになりました! PRODUCE 48 第1話かまいたちの机上の空論城渋谷音いたちNMB48の#エモスト Kawaiian TV天竺鼠NAMBAかっ!Kawaiian くらびぃー! NMB48のくらびぃー! NMB48がとにかく1時間費やすTV NMB48のやったんでぃ チューズディ NMB48 アイドルらしくない!! 夕方NMB48夜方NMB48 ロケ方NMB48 月刊 アニ愛でるTV!二次元同好会 NMB48 5期生密着 2016ぽくぽく百景もぐもぐ旅 NMB48研究生密着2017 シンラバンゲー NMB48 ドラフト3期生6期生密着2018 NMB48研究生密着2019 ラジオ番組NMB48のTEPPENラジオ NMB48学園 NMB48のりっすんぷりーず! AKB48の"私たちの物語"よしもと祇園花月Presents GIONラジオNMB48のじゃんぐる♥レディOh!NMB48しんしんとダレカのガールズ☆ト〜クおやすみNMB48 AKB48のオールナイトニッポン NMB48 りぃちゃんのがんばり〜な! ラジオNMB48 NMB48ここちゃんの志ん中 NMB48 井尻&上枝恵美加 UnlimitedNMB48 井尻&加藤夕夏 Unlimitedよしもとラジオ高校〜らじこーあもーれ!マッタリーノNMB48の「10しかないッ!」 ○ ハートコレクトNMB♡ supported by Joshin 映画作品げいにん!THE MOVIEげいにん!THE MOVIE リターンズ 道頓堀よ、泣かせてくれ! DOCUMENTARY of NMB48 よしもと新喜劇映画 女子高生探偵 あいちゃん テレビドラマSo long ! だんらん マジすか学園シリーズ4 5 キャバすか学園 マジムリ学園 AKBホラーナイト アドレナリンの夜 AKBラブナイト 恋工場 豆腐プロレス ネット配信新YNN NMB48 CHANNEL古賀成美の「あまからさんが通る」 AKB48総選挙スキャンダル アキバ文書 AKB48の明日よろしく! 魔!淀川キャッチボール部 ソーシャル探偵 XXXXNMB48のしゃべくりアワーNMB48ゲームで、てっぺんとったるで! 4方8方美人 ゲームAKB1/149 恋愛総選挙 AKB48グループ ついに公式音ゲーでました。 AiKaBu ○ NMB48麻雀てっぺんとったんで! 派生ユニット(○は活動中自前ユニット俺ら TORACO応援隊長 カトレアさやみるきー ふぅさえQueentetだんさぶる!LAPIS ARCH 参加ユニットDIVA NO NAME てんとうむChu! チームサプライズ 虫かご じゃんけん関連項目 AKB48グループAKB48 SKE48 SDN48 HKT48 NGT48 STU48 JKT48 BNK48 MNL48 AKB48 Team SH AKB48 Team TP SGO48 CGM48 DEL48 MUB48 * SNH48 MUM48 人物企業秋元康 剱持嘉一 かまいたち NMB48劇場 吉本興業グループ吉本興業ホールディングス 吉本興業 KYORAKU吉本.ホールディングス Showtitle よしもとミュージックlaugh out loud! records ソニー・ミュージックマーケティング 「誰かのために」プロジェクト 一覧・子記事楽曲一覧 公式ショップ この項目は、アイドル(グラビアアイドル・ライブアイドル・ネットアイドル・レースクイーン・コスプレイヤーなどを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(ポータル:アイドル/プロジェクト:芸能人)。

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ソン・ヨンテ」の記事における「人物・逸話」の解説

宗教キリスト教プロテスタント)。 康翎タルチュムの全公演出演しながら舞台テレビドラマにも出演しているが、「仕事は楽しいから多忙な事は苦にならない」「仕事をしていないとかえって病気になる」「引退した棺桶直行すると思う」と話している。 舞台で女装をする事などに抵抗は無いのかという質問には、「逆に変身が楽しいんだよ。お客さん笑ってくれて、あれこそが役者の姿だと思ってくれれば嬉しい」と答えている。 ミュージカルプロデューサーズ』で、興行悪用し詐欺目論むプロデューサー演じる際には、逃亡したプロデューサー過去多くいた事や出演料踏み倒され経験語ったが、この公演では無事、主演男優賞獲得している。しかし、2016年シン・グ、キム・ジンテと共にトリプルキャストでミッキー役を務め予定だったミュージカルロッキー』は直前になって運営側都合開催中止となっている。 KBSドラマ大祚栄』では唐の太宗李世民演じネット掲示板では「甥の死や、兵や臣下失って悲しむ姿を演じソン・ヨンテ見て敵国皇帝ありながら泣きそうになった」「李世民の後も、唐の皇帝役はソン・ヨンテ演じれば良いのに」という賞賛意見相次いだまた、KBSドラマ逃亡者 PLAN B』の僧侶役は韓国ネットユーザーの間で“キューティー僧侶”と渾名され話題になった康翎タルチュムについては、「最初に学んだ当時はつらい事が多かった。面が家の中にあると鬼が出て行かないので先祖供養できないと、家の大人達からあらゆる侮蔑をもうこれ以上無いってくらいに受けたんじゃないかな。元々大海原航行する船乗りになる夢があったから、やめよう思った事も時々あった。でも私達文化直々に伝えるという大事な責任捨てる事はできなかった」と語っている。 二人の師匠金實と金正順は実の親上の関係としている。 兵役中にタルチュム応用した銃剣道編み出して、周囲教えていた事もあったという。 韓国文化財団インタビュー動画では、2014年起きたセウォル号沈没事故犠牲者遺族に対して哀悼メッセージ送っている。

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伊達輝宗」の記事における「人物・逸話」の解説

政宗晩年家臣木村可親に対して懐旧談を語った際に、父・輝宗の名を「てり宗公」と訛って発音していたことが、木村書き遺した覚書(『木村宇右衛門覚書』)から判明している。 嫡男政宗教育にはとても熱心であり、元亀3年1572年)に甲斐国から快川紹喜弟子である臨済宗虎哉宗乙禅師招いたのを始め多く高名な儒学者・僧を伊達家居城である米沢城招き政宗川村重吉などを他国から招いている)、さらに片倉景綱屋代景頼湯目景康多く有望な若手家臣家中から選んで早くから政宗仕えさせた。 天正2年1574年)の間を直筆記した日記残されている(天正弐年御日日記/通称伊達輝宗日記 仙台市博物館)。日日記(ひにっき)とはその日天気主題出来事添えたもので、輝宗は変わり行く天気模様書いた後になおも補筆訂正まで加えており、筆まめ一面見受けられる。 この日日記において出来事記載簡素であるが、奥羽一円政治軍略もとより織田信長との外交佐竹義重との合戦家臣一門衆先君宗と交わり催し等々伊達家当主暮らし向き多面的に窺い知れる貴重な資料となっている。一例年頭の挨拶返答2月末にも行われていること、使者書状来着合戦自軍討ち取った数、着到した首級遠藤基信邸宅にて茶湯談合申待ち、能を行ったこと、神社鳥居や城の石を曳く作事をしたこと、弓矢訓練軍馬試乗から品定め購入まで数日掛けていること等。 公事比べ私事記載極めて少ない。梵天丸竺丸への言及一度もなく、妻・義姫居所対の屋)との交流も5回のみである。 文中での自称は某(それがし)、父への尊称杉妻杉目の上様、人名は略称を多用する傾向にある(例:遠内/遠藤内匠助基信、佐衆/佐竹の衆等)。 同年8月21日の八ツ時(14時16時頃)、天正最上の乱において楢下陣中野駆け出て何者かの狙撃受けた同行のうち一人被弾(名、生死ともに不詳)、西大枝某(大條氏)の中間パニック起こした馬に踏み殺されている。 能を好んでいた。上記1年だけでも二日がかりの勧進能を2回、明神前1回遠藤邸で複数回の観劇記録されている他、お抱え能楽師堀池清による謡本存在から自身稽古勤しんでいたとみられる落命凶事起こった二本松市には輝宗公下馬立札された萬人子守地蔵尊現存する。社の縁起によればの子供が地蔵持ち出して河原忘れたことで亘理郡荒浜まで流れ着き彼の地疫病流行った際に祈祷師地蔵由縁気付いて帰還を為さしめたという。また一説によると政宗小浜城中、輝宗が我が子身体堅固武運長久朝夕祈願したという。

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鳥居耀蔵」の記事における「人物・逸話」の解説

同時代人人物評残っている。 栗本鋤雲刑場死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。鳥居のような人物とは刑場のようなのである木村芥舟「若いときから才能があったが、西洋学問を嫌い、洋書を学ぶ者を反逆者として根絶やしにしようとした天保の改革推進するためには邪魔者陰険な手段追い払った。この点は鳥居にとって大い惜しむ所である」 勝海舟残忍酷薄甚しく、各官員怨府となれりといへども、その豪邁果断信じて疑わず、身をなげうつてかへりみる事なく、後、罪せられて囹圄にある事ほとんど三十年、悔ゆる色なく、老いて益勇。八万子弟多くかくのごとき人を見ず。亦一丈夫と謂うべき者か」 残され日記詩文から、耀自分退けて開国したことが幕府滅亡原因であると考え当時流行した洋風軍隊民衆軍事教練批判的な目を向けているのがわかる。実際にこれらの軍制改革武士中心従前軍事制度ひいては幕府を含む封建制否定するのである。また最晩年、昔の部下訪ねてきたとき「昔、自分幕府に“外国人を近づけてはならぬ。その害は必ずある”と言い続けたのに誰も耳を傾けなかった。だから幕府滅んだのだ。もうどうしようもない」と傲然と言い放ち部下は何も言え頭を下げて辞したという。これらの事例から、耀頑迷な人物であった事がわかる。蛮社の獄により日本多く人材失ったが、実行に際しては耀なりの信念持っていたとも考えられる。ただ、上司水野忠邦の裏切り行為同僚矢部定謙への讒言行為などは、彼の評価大きく下げている。政敵そりが合わない者に対す敵意憎悪すさまじくそのひとりである阿部正弘訃報聞いた折には「快甚し」と日記記述している。 遠山景元当時江戸庶民人気同情集め遠山=善玉鳥居=悪玉図式ができ上がったここから、後に講談小説映画テレビドラマ人気を博することになる『遠山の金さん』の素地、及び時代劇における悪役としての鳥居イメージができ上がったといわれる

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種市篤暉」の記事における「人物・逸話」の解説

実家の隣が海という環境育ったので、釣りが好きである。プロ入団後ロッテ球団施設から比較的近い外房などによく釣り出かけるとのことである。同時期、フグ釣れることが多いのでふぐ調理師免許の取得考えているという。海産物全て好きで、嫌いな海産物一切無い。 2019年4月29日楽天戦で種市プロ入り勝利を挙げたが、その試合パシフィック・リーグとして「平成最後公式戦であり、当日開催リーグ公式戦3試合ウイニングボール野球殿堂博物館寄贈されることがあらかじめ決まっていた。そのため、種市プロ勝利ウイニングボール記念に手にすることが出来ずその代わり交代前の5回の三死目を取った際の試合球プロ勝利記念として種市へと贈呈された。 ロッテチームメイト鈴木昭汰は、生年月日が同じ。

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平岩親吉」の記事における「人物・逸話」の解説

秀吉黄金贈与 伏見城築城祝いの後、豊臣秀吉井伊直政本多忠勝榊原康政平岩親吉歳末祝儀として密かに黄金百枚ずつ与えた直政と忠勝はそのまま黄金拝受し家康には告げなかった。康政は「どうしたらよいでしょう」と家康告げ家康は「下し賜れた物は受け取るものだ」と言った。そして親吉は黄金受け取らず、「臣は関東奉公の身にて、その禄を受け衣食は常に足りている。今主君賜り物貪っておいて、受け取ることなどできはしない」と、黄金使者返し渡したこのように私欲がなく正直な心の持ち主であったので、家康は親吉を信康義直後見として附け八男・仙千代養子にしたのである『名将言行録』 平岩右衛門 平岩親吉の弟は名を平右衛門といった。ある時、彼は榊原康政口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩止められた。この時の親吉は宿老で、康政は若く小身であった喧嘩一件聞いた親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君御用には立たずに禄を費やす者である」と言って、弟は武道止めさせて押し込め、康政はしきりに執り成し昇進させた。果たして康政は天下英傑称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服した『名将言行録』 毒まんじゅう 慶長16年1611年)の徳川家康豊臣秀頼二条城での会見直後会見場で秀頼を護衛した加藤清正急死する。それを受けてまことしやかな毒饅頭暗殺説」が巷間ささやかれ、後に歌舞伎題材にもなった。それによると、家康会見場において秀頼の毒殺図り意を受けた腹心平岩親吉遅効性の毒のついた針を刺した饅頭を、自ら毒見した上で秀頼に勧めたが、それを察した清正は自ら毒饅頭食べてしまい秀頼を守ったという。史実において平岩会見から9ヶ月後に死去している。また、この会見から2年ほどの間に浅野幸長池田輝政など、会見参加した豊臣氏恩顧大名死亡しているが、これらについても毒殺であるという憶測たてられることがある

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小島時光」の記事における「人物・逸話」の解説

姉小路小島宗家小島時光三木姉小路氏姉小路頼綱は、姉小路家名跡近衛氏朝廷への働きかけもあり、常に好関係であり仲が良く最後まで頼綱と姉小路氏としての態度をくずさなかった。 八日町の戦いにおいて、江馬氏拠点姉小路小島氏が攻めて滅亡させたことが、文献にて記載がある。 姉小路氏小島家当主だった小島時光着用したとされる赤兜である「冬瓜兜」が現存し保存されている。

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姉小路頼綱」の記事における「人物・逸話」の解説

三木氏姉小路家簒奪僭称したが、頼綱は京に縁のある姉小路家当主として振る舞い様々な対応をしていた。1579年天正7年)には禁裏小番名を連ねている。国司として朝廷忠誠尽くし、常に公家社会交流保っていた。姉小路小島氏の小島時光は、近衛家朝廷姉小路氏名跡入れ知恵し、姉小路氏三木氏)とは仲が良く宗家親族衆であり、娘婿には姉小路向氏に娘を嫁がせた。幕府との関係においては室町将軍家臣書きならべた永禄年間名簿永禄六年諸役人附」に伊達晴宗朝倉義景北条氏康今川氏真上杉景虎武田信玄織田信長毛利元就大友宗麟島津貴久とともに姉小路中納言飛騨国司(良頼)同宰相姉小路(頼綱)と載せられている。 姉小路氏となった姉小路良頼次の当主である姉小路頼綱斎藤道三娘(姉小路頼綱正室)の親族として織田信長接近し信長飛騨国司の称号を持つ、姉小路氏三木氏)を客将同盟国として遇する。 頼綱の母は、良頼の継室である姉小路向氏姉小路高綱室)とされており、三木氏姉小路氏近衛家親族の血も併せ持ち正統後継者であると認められた為、朝廷にて正式に姉小路名跡継承許可されとされる。 頼綱の正室斎藤道三の娘(姉小路頼綱正室)であるが、側室史料では確認されていない織田信長とは上洛時より関わり深く斎藤道三相婿同士である。また織田家大名である斎藤利治とは同い年で、親族として結びつきが深い。天正3年1575年)の越前一向一揆滅亡後、頼綱は上洛し、10月23日に「飛騨国姉小路中納言卿」として信長栗毛馬を進上した。『信長公記』には「一段駿馬にて御秘蔵斜めならず」と記している。信長11月大納言右大将任じられ、頼綱もそれを祝した。 頼綱(自綱)の絵画千光寺にて保存されている。また飛騨禅昌寺では姉小路頼綱肖像画や、三木氏累代位牌保存されている。

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石田卓也 (俳優)」の記事における「人物・逸話」の解説

趣味は旅、読書特技居合い 撮影自体映画蟬しぐれ』が最初であるが、放送は『青春の門筑豊編〜』のほうが早いドラマ青春の門筑豊編〜』の主人公である信介(1318歳)のキャスティング難航している際に、「『蟬しぐれ』の新人俳優がすごい」と聞きつけて面接の上選ばれた[要出典]。 中学卒業後に造園業働いていたが、出入りしていた美容院従業員が「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」に応募して受賞つながった[要出典]。

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上杉治憲」の記事における「人物・逸話」の解説

元来頑丈大病でも病床についたことはなかったようである。 着衣木綿食事一汁一菜基本とし、木綿使用羽織や袴だけでなく、下着にいたるまで着衣全て使用していた。食事内容朝食に粥を2膳ほどと香の物漬物)、昼食夜食に千などの肴類を添えてうどんやそばを食べていた。酒は飲まず、冬になると甘酒を一ずつ飲んでいた。結果的に倹約ができて健康に良い粗衣粗食であった上杉家養子入りする際、高鍋藩老臣鷹山傅役であった三好太夫重道より訓言記した一書手渡されているが、鷹山生涯これを近辺より離さず、また鷹山業績はこれに基づいているとされる。この書は現在、米沢市の上杉神社保管されている。 米沢名産である笹野一刀彫の「御ぽっぽ」は鷹山象徴という。 煙草愛好していた。また、酒はあまり飲まなかったが、薬用酒はときどき飲んだという。 一時期の飼育を趣味にし珍しいを何匹も飼っていたが、倹約令を出すにあたりきっぱりとやめ飼っていた全て野に放っている。また、隠居後煎茶凝り最上の味を求めてかなり上達したが、他人に入れてもらったお茶不味く感じようになったのを申しわけなく思いやめたと言われる有名な「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」(『上杉家文書国宝抜粋上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん、『書経』太甲下篇)に由来)の歌は「伝国の辞と共に次期藩主伝えられた。 「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬ捨つる人のはかなき武田信玄(1521-1573)の名言模範したもの伊勢津藩主・藤堂高兌藩政改革一環として、津に藩校有造館を、伊賀上野に支校崇廣堂設立した。これに当たって当時既に名君誉れ高かった治憲の徳を慕って崇廣堂扁額揮毫依頼した扁額裏には治憲の署名文政4年1821年)とある。 当時米沢藩奸臣と見なされていた直江兼続[要出典]の200回忌法要香華料を捧げたという。このことから、20世紀入り一転して兼続称揚されるようになると、鷹山兼続再評価したとされ、鷹山施政多く兼続事業模範したものとされた。 江戸時代大名隠居後にはほとんどが江戸屋敷暮らしたが、上杉家では隠居生活米沢で送るのが慣例であった近年の研究では、治憲の30歳代での隠居参勤交代気にせず改革専念する理由あったからという考察がある。[要出典]なお、幕府諸大名隠居後領国定住するのは好まないというのが建前であったが、上杉家では常々、脚痛治療のための長期間湯治名目幕府老中届出出していた(幕閣わかった上で許可出している)。 藩主称号謙信以来御屋形様であり、隠居した先代大殿であった。治憲は早く隠居したため先代の重定が健在であり、中殿様と呼ばれている。 天明7年1787年8月実父秋月種美危篤の報を受け江戸へ出立し長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参し30日間かかさず看病続け臨終看取った。その直後江戸で服喪中に今度養父の重定が重病との報があり、実父四十九日法要後すぐさま米沢帰国した翌年2月までの80日間看病続けて快癒させたが、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜看病したという。

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カーロス・ニュートン」の記事における「人物・逸話」の解説

日本の漫画アニメ文化にかなり詳しく自身ファイトスタイルドラゴンボール柔術名乗り試合後のパフォーマンスで「カメハメ波」を行う。 愛読書宮本武蔵の「五輪書」と鳥山明の「DRAGON BALL」。 日本2年生活したことがあり、日本語堪能で、WOWOWUFC中継では現地リポーターとして選手インタビューしその場通訳したほどである。

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矢野さとる」の記事における「人物・逸話」の解説

猫好き知られTwitter写真を度々投稿している。過去には自身稼ぎについて「サーバ代とのえさ代だけあればいい」と発言していた。 優れたプログラミング技術持ち主。例として、松江Ruby会議協賛回文作成プログラミングコンテスト2015年)ではC#以外の主要言語で5位入賞果たしている。そのうちPHP、Python2、C、C++Javascriptでは1位を記録した2ch.sc管理者西村博之とは仲が良く共同サイトのアタックテスト等を行っている。おーぷん2ちゃんねる新機能を実装する度、本家でも使って欲しいと報告しているが、「お、おう」「うほほ」等、つれない返事し基本的に貰えないという。 おーぷん2ちゃんねる実装されている強制博多弁機能において、「管理人と書き込むと「明太子」と変換される

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北条時政」の記事における「人物・逸話」の解説

名もない東国の一豪族に過ぎなかった北条氏一代鎌倉幕府権力者に押し上げた時政だが、畠山重忠謀殺実朝暗殺未遂晩節汚したためか、子孫からは初代義時として祭祀から外されるなど、あまり評判良くない人物である。 時政の孫で第3代執権北条泰時清廉知られ頼朝政子義時らを幕府祖廟として事あるごとに参詣して歳末年中行事も欠かさなかったが、時政のみは牧氏事件実朝殺害しようとした謀反人であるとして仏事行なわれずに存在否定されている。

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柴田秀勝」の記事における「人物・逸話」の解説

声優とは、俳優一部」および「声優前に俳優であれ」との考えを持つことから、これから声優目指す若人には「心を演じる、人を演じるような俳優になれ」と教えており、「自分役者であることを自覚すればやっていけるだろう」とのことである。他者声優目指すことに抵抗は無い一方で近年若手声優に対しては「映像に声をあてることだけは僕らよりうまいが、心と人間演じきれていない」「若い人たちの演技はどうしても底が浅いような気がしてならない」と苦言呈している。 RME会長務める他、東京都新宿区歌舞伎町新宿ゴールデン街にある会員制バー突風」のマスター務めている。同店は新宿ゴールデン街最古参で、役者業界の関係者集う店で有名である。就職先だった関西歌舞伎倒産し意気消沈して新宿歩いていて見つけた売り店舗購入役者活動開始とほぼ同時期の1958年4月に「スタンドバー TOPトップ)」として開店その後劇団未来劇場仲間たち店名を「突風」にしてリニューアルする。1965年3月28日1992年5月6日2003年6月15日過去3回もらい火遭っている。次原隆二漫画レストアガレージ251車屋夢次郎』、辻真先小説迷犬ルパンシリーズ』に登場する。なお、柴田は『翔んだパープリン』にスナックマスター役で出演していた。 キートン山田声優誘ったのは柴田である。山田アルバイトしながら役者生活をしていた時期アルバイト先のスナック店主柴田知り合いだったため、柴田が店によく訪ねて来ていて、山田面識ができた。ある日柴田が「声専門プロダクションができるから、履歴書書いて来い」と山田言い創立したばかりの青二プロダクション預かり所属させた。 柴田『水戸黄門』2527部)のナレーションをしていたころ、大塚周夫が『水戸黄門見てるぞ! いいよ、なかなかいい! でも、ターゲットが広すぎるよ。テレビの前で見ているのは1人だ。そんなイメージしゃべってごらん』と言われ今までテレビ前に何人いるか”なんて考えたことがなかったので、衝撃受けたそれ以来マイク前に立つときの心持ち大きく変わった。 元内閣総理大臣福田康夫麻布中学校・高等学校同級生である。

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坂東彌十郎」の記事における「人物・逸話」の解説

梨園一の長身(183cm)で、その偉丈夫押し出し使った力強い芸風を持つ。 趣味海外旅行で、とりわけヨーロッパ方面の旅を好んでいる。語学も英語、仏語堪能で、歌舞伎海外紹介積極的で国際性豊かな歌舞伎役者目指している。 酔寿(すいす)という俳号を持つ俳人でもあり、折に触れて自作俳句専門誌など発表することもある。 同世代十八中村勘三郎とは少年期より交友があり、生前勘三郎の企画名を連ねることも多かった猿翁(三代目之助)に自主公演「やごの会」ヨーロッパ公演報告行った際に「やっとだね」と声をかけられた。実は猿翁彌十郎を気にかけ、一門離れた後もテレビなど出演している番組は必ず見ていたことを周囲から聞かされたという。

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関智一」の記事における「人物・逸話」の解説

演じる際には口調話し方考えて声色は特に考えず演じているが、スネ夫やメップルのような大人の声がそぐわない役の場合などはやむをえず声を作らざるを得ないとのこと大学には推薦入学入学するも、自らの意志よるものではなかったため、入学式行ったきりそのまま中退した俳協時代から現在に至るまで同じ事務所に所属している長沢美樹とは19歳頃から4年ほど交際があったものの破局、現在では腐れ縁的な親友関係である。当初自動車運転免許持っていなかったが、『頭文字D』の高橋啓介演じたことを機に触発され運転免許取得した自身出演作以外のアニメは「この役は自分がやりたかった自分ならこうする」など、出演声優自分演技比べて色々と考えてしまうためあまり見ない、とインタビュー回答している時代多々あったが、2010年以降雑誌インタビューでは、「脇役研究為にアニメ見られる時はアニメ鑑賞している」という回答が多くなっている。 喫煙者である。 主催する劇団ヘロヘロQカムパニーでは関自身が脚本書くこともある他、同劇団定期公演以外にも他劇団客演をすることもある。また、横溝正史作品である金田一耕助シリーズ演劇版取り組んでおり、これまでに『八つ墓村』(2008年)、『悪魔が来りて笛を吹く』(2010年)、『獄門島』2012年)、『犬神家の一族』(2017年)を舞台化関自身も金田一耕助演じている。 目標とする人物として俳優声優山路和弘挙げており、山路演技について関は「山路さんは演技をしているときに呼吸止まらない呼吸止めず演技をするというのは高度な技。息をするようにお芝居されている。あの域に行きたい。」と述べている 。

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前田利為」の記事における「人物・逸話」の解説

陸士同期ありながら、利為より4年遅れで陸大卒業した東條英機とはそりが合わず、利為が東條を「頭が悪く先の見えない男」と批評し東條が利為を「世間知らずお殿様」と揶揄する間柄であった。利為は首相になった東條を「宰相の器ではない。あれでは国を滅ぼす」と危ぶんでいた。 利為の戦死後葬儀委員長東部軍司令官中村孝太郎大将副委員長参謀次長田辺盛武中将陸軍省軍務局長佐藤賢了少将(すべて石川県出身)。参列者は、林銑十郎阿部信行小栗大将氏家中将伍堂中将らの旧加賀藩士。弔辞生前互いに反目し合っていた東條読んだ。「英機、君ト竹馬ノ友タリ陸軍士官学校ニ於テハ寝食ヲ同シ、日露ノ役ニ於テハ同一旅団死生ヲ共ニセリ。爾来星霜四十年、相携ヘテ軍務鞅掌シ、交情常ニ渝ハルコトナク、互、許スニ信ヲ以テシ巨星南溟ニ墜チテ再タ還ラズ哀痛何ンゾ譬ヘン。英機、君ノ声咳ニ接スルコト長ク、今、霊位咫尺シテ猶生クルガ如キ……」と、ここまで読み上げた後、東條慟哭絶句したという。 剣道家中山博道有信館)の高弟である羽賀準一は、1932年昭和7年)頃から武道家合気道家)の植芝盛平道場数えきれないほどの回数訪問していた。 ある日、昔なら加賀百万石殿様当時陸軍少将だった前田利為さんが稽古にこられ、書生が「前田閣下お見えなりました」とわたしと対談中だった老先生植芝盛平)に知らせてきました。しかし、話に花が咲いたのか、老先生は立ち上がられない。そのうちまた書生が「前田閣下がお帰りなります」と報告にきたが、それでもまだ立ち上がられない。わたしがびっくりして前田閣下お送り申しあげなくてもよろしいのですか」といったところ、老先生言下に「あなたはお客さん前田さん弟子だ。お客ほっといてなんで師匠弟子玄関に送らねばならんか」と申された。さすがの強情者のわたしもこの一言には返答できず、ただ頭を下げたことでした。 — 堂本昭彦編著羽賀準一 剣道遺稿集』、島津書房 124-126

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武則天」の記事における「人物・逸話」の解説

武則天女傑として長く人々関心集めてきたため、人柄伝え多く逸話残っている。この項で記したもの以外に、本記事注など参照のこと。

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徳川家綱」の記事における「人物・逸話」の解説

嵐寛寿郎映画である『文武太平記』に拠れば家綱温厚な人柄絵画魚釣りなど趣味好み政務酒井忠清をはじめ老中らに任せ自らは「左様せい」で決裁していたことから「左様せい様」という異名付けられたという。この逸話家綱自身幕政指導者としての指導力発揮できず忠清の専制を示すものとしても引用されているが、辻達也福田千鶴らは幕政意思決定における将軍上意重要性指摘している。ただし、一般的な殿様決裁の際言うべき言葉は「そうせい」「考え直せ」「もってのほかじゃ」の三つしか言わないように教育されており、他の殿様にしてもあだ名そうせい公や、よかろう公などのエピソード多々あり、基本的に主導権積極的にとる殿様少なく、むしろそういった殿様ではないよう教育をするのが普通である。 家綱元服するまでは、保科正之家光時代遺産ともいうべき人材恵まれていたのが安定した時代築け幸運でもあった。『徳川名君名臣言行録』では「吾、幼年なりといえども先業承け継ぎ、大位に居れり」とある。 新井白石著の『白石手簡』では、家綱中国の唐時代政治書である『貞観政要』を好み幕政運営参考にしたという。 『武野燭談』に拠れば家綱将軍就任から間もない幼少期のことだが、江戸城天守閣へ登った際に近習の者が遠眼鏡勧めたが「自分少年ながら将軍である。もし将軍天守から遠眼鏡四方見下ろしていると知れたら、恐らく世人嫌な思いをするに違いない」と遠眼鏡を手に取らなかったという。 遠島となった罪人の話を聞き家綱は「彼らは何を食べているのだろう」と近臣の者に尋ねた誰も答えられず、それに対し家綱は「命を助けて流罪にしたのに何故、食料与えないのか」と言った。それを聞いた父の家光喜び、「これを竹千代家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣命じ流人食料与えようになったという。 家綱食事していたとき、汁物飲もうとしたところ髪の毛入っていた。家綱平然とその髪の毛を箸で摘まんで取り除いたが、小姓慌てて新しい物と交換しようとした。家綱はその小姓に「その汁は途中で捨てを空にして下げるように」といった。これはを空にすることにより普段おかわりと同じ様に扱えということで、咎められる者が出ないようにと家綱配慮したであった明暦の大火焼失被害にあった江戸市中武家屋敷神社仏閣など資金援助し、復興助力したという。明暦の大火教訓に、両国橋架設したまた、両国橋のたもとに「火除地」を設けた橋のたもと建造物建設することを禁じているが、すぐに取り壊せることを条件建設一部許可した。「すぐに壊せる」という条件から、さかんに土俵作られた。これが発端となり、両国相撲の街として知られるようになった前述通り殉死禁じた家綱だが、家綱亡くなった聞いた下総佐倉藩主の堀田正信自害した正信家綱命令改易にされていたが、正信の父の堀田正盛また、家綱の父である徳川家光殉死した人物である。

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徳川家継」の記事における「人物・逸話」の解説

生来聡明にして、父家宣似て仁慈心あり立居振舞い閑雅なり」とある(『徳川実紀』)。 側用人間部詮房から「上様何事もこの詮房にお任せ下さい」という言葉を受け、詮房や白石路線そのまま政治行った家継埋葬され増上寺徳川将軍家墓地改葬された際にこれに立ち会い被葬者遺骨調査行った鈴木尚著書骨は語る 徳川将軍・大名家の人びとによれば家継開けた時、長年雨水中に入り込み、骨を分解し流し去ったためか家継遺骨存在せず家継のものと思われる遺髪と爪、及び刀等の遺品があったのみだった。家継血液型A型であった。 父・家宣死去により、わずか4歳将軍就いた家継にとって、側用人間部詮房は父のような存在だったという。詮房が所用で出かけて、戻って来たときには越前(詮房)を迎え出ようといって外で待っており、帰ってくると喜び、詮房へ抱き付いたという。また、逆に他の家臣遠慮して言えないようなことでも、詮房ははっきりと、時にはきつく叱った。詮房からは厳し教育受けていたと伝わっており、家継がわがままを言ったりぐずったりしたときには近くの者が「越前殿(詮房)が参られます」と言うと、すぐおとなしくなったという。 日光輪王寺宮江戸城訪れた際、深々と頭を下げる彼に対して子供ながら家継軽く会釈して見送った。その姿はとても自然で大人顔負けだったという。 愛知県岡崎市大樹寺にある徳川歴代将軍位牌は、各将軍臨終時の身長合わせて作られていると言われるが、家継本人はわずか6歳満年齢)で亡くなったにも関わらず彼の位牌135センチメートル現在の日本人男子の9~10歳平均身長に近い)もあるため、生前の彼は巨人症であったとする説がある。

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斎藤利三」の記事における「人物・逸話」の解説

月下斥候』 - 山崎の戦い前に偵察赴く堅田浦の月』- 山崎の戦い敗れ堅田逃れた 月岡芳年の『月百姿』より2点 利三は、堺の豪商津田宗及等と茶の湯嗜むなど、高い教養兼ね備えていたとされる徳川家光乳母春日局は、利三の娘である。また、利三の妹は、永禄6年長宗我部元親の妻となり、嫡子長宗我部信親など九人の子供を出産している。 本能寺の変にて二条新御所義弟となる同じ美濃斎藤氏斎藤利治と戦う。最後は利三が利治を攻めて利治は討死忠死)した。利治は病で加治田城において静養していると考えていたようであるが、二条新御所において見事な防戦奮戦)をしているのを確認し降伏勧告をしたとされるが、利治は忠死選んだ

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島津斉彬」の記事における「人物・逸話」の解説

斉彬により着手され殖産興業一部尚古集成館鹿児島市)に展示されている。特に、ガラス製品製造のうちガラス工芸品は薩摩の紅ビードロとして珍重され大名間の贈り物としても用いられた。 日本人初め写真撮影された人物が斉彬であるとされ、その日日本写真協会により「写真の日」として制定されている。日本写真渡来したのは嘉永年間とされ、最初に斉彬を撮影したものが、尚古集成館保存されている。また撮影技術自体にも興味をもち、城の写真を自ら撮影するなど、好奇心富んだ人物であったといわれている。斉彬が撮影した写真は、当時技術では上出来であった伝えられている。 松平慶永山内豊信伊達宗城らと並んで幕末の四賢侯称された。 西郷隆盛ら後の維新志士らから慕われ西郷などは斉彬の死去を知ると号泣し、後を追って殉死しようとしたほどである。斉彬の功績明治時代を築くことになる人材育て上げたこともその一つといえる。 斉彬はお由羅を大変嫌っていたが、お由羅及びその一派粛清までは考えていなかったという。異母弟久光との仲についても嫌っていないどころかむしろ良く家督相続後重宝すらしていた。 理化学基づいた工業力こそが西洋列強の力の根源であることを見抜き自身アルファベットを学ぶなど高い世界認識をもっていた。 『島津斉彬言行録』には「君主愛憎で人を判断してならない」、「十人十人とも好む人材非常事態に対応できないので登用しない」など、近代的な人材登用策を示していたことが覗える記述もある。 嘉永6年11月新暦:1853年12月)に先に大石寺帰依していた年下大叔父八戸藩主・南部信順の強い勧めにより、養女である篤姫とともに現在の日蓮正宗総本山大石寺遠信坊静岡県富士宮市)の檀越となったが、大石寺教義随順切れたかどうか研究余地を残す。 薩摩藩には天保改革調所広郷事業で「にせ金造り」もあり、この事業を「お金方」と言った調所広郷金メッキ銀メッキ一分金二分銀を造ったが、どれほど藩外に出たかは不明。しかし、斉彬は幕府寛永通宝天保通宝改鋳同一貨幣価値25倍増加)する利益莫大さに目をつけた。極秘江戸鋳物師西村道弥を招きお金事業推進。斉彬急逝計画頓挫したが、薩摩藩は、幕府から2割を幕府献納条件百万両鋳造承認得て同事業を再開した124貨幣60文が藩の純益となり、一日2千名働き3年間に290万両鋳造した収益多く倒幕軍資金となった。[要出典]

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小越しほみ」の記事における「人物・逸話」の解説

趣味イラストを描くこと。2014年にはイラストレーター&シンガーソングライターの“はぎのゆきえ”と共にクリエイターズユニット「LUNOSUNO」(ルノスノ)としても活動していた。 コスプレ好きで、撮影会ニコニコ超会議東京ゲームショウでもコスプレ披露している他、日野礼香天野由加里と共にコミックマーケット訪れることもある。 姉が1人いる。 本人曰く、一番悩まされていたのは熱中症で、フレエン時代2018年ライブステージ一部欠場したり、2019年SFもてぎ戦では相方鈴木と共に日曜日決勝欠場する等、これ以上熱中症になるのは危険と医者診断された事がRQ卒業遠因とされている。しかしコロナ禍卒業発表するタイミングが合わなかった為、最終的に先述B-MAX Glory Girls区切り付けた

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徳川慶光」の記事における「人物・逸話」の解説

若い頃中華文化傾倒し45円の初任給全額宮内省出入り書店への支払い遣ってしまうほどだった。 陸軍病院入院中に高松宮宣仁親王義弟(姉は宣仁親王妃喜久子)であることが判明した途端、第6方面軍司令官岡部直三郎陸軍大将や旧水戸藩藩士の子孫の櫛淵鍹一陸軍中将見舞いに来たり、旧幕の子孫の支那派遣軍総司令官岡村寧次陸軍大将から無線電信届いたりするなど、急に病院内慌ただしくなったという。病院側は軍高官による見舞いを受ける都度掃除シラミ駆除軍服での送迎をすることになり、慶光は「ご迷惑をかけてしまった」と述懐している。 晩年には料理趣味としたが、これは友人フランス料理の本を出版したことに由来し友人本に載っていた料理片っ端から作っていた。また、高松宮家野菜作り見てからは野菜作りにも精を出しこの他にも朱肉自作したり、長男の慶朝に影響され梅酒作ったりしている。

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人物・逸話

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岸信介」の記事における「人物・逸話」の解説

ウィキクォート岸信介に関する引用句集があります

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有馬豊氏」の記事における「人物・逸話」の解説

茶道嗜む文化人で、利休七哲一人数えられることもある。 若年の頃から深く禅に帰依しかたわら儒学学んだとされる質素な逸話残されているという。 本願寺東西分裂に対して東西両派のどちらにつくかは門徒の自由としていたが、晩年寛永14年1637年)、東本願寺派排斥転じた。これは、幕府有力者から藩内門徒の東本願寺帰属要請された際、藩政への介入とみて強く反発したものとされる。なお、2代藩主・忠頼は逆に西本願寺排斥している。 豊氏は築城土木詳しかったとされ、慶長11年には江戸城本丸普請慶長12年1607年)には駿府城建築慶長16年1611年)には禁裏造営元和4年1618年)には大坂城修繕工事にあたっている。一方でこれらは藩財政圧迫した久留米入部後も、城と城下町建設加えて島原の乱負担重なり下記のような増徴を図る一方で領民人心掌握腐心している。 久留米藩では増徴のため、年貢徴収基準として拝領高の1.5倍にあたる32万石を「内検高」として設定した同様の政策横須賀福知山でも行っており、「玄蕃高」と酷評されたという。 姉婿家老から21万石大名まで躍進した豊氏であったが、同時に多様な出自を持つ家臣団を持つこととなった渡瀬家から引き継いだ横須賀衆」、父の三田藩から引き継いだ梅林御代衆」、豊氏が福知山召し抱えた「丹波衆」、そして久留米新たに召し抱え家臣などである。これらの派閥は、後年に至るまで久留米藩政争影響を及ぼすことになった

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石原伸晃」の記事における「人物・逸話」の解説

父は参議院議員環境庁長官運輸大臣東京都知事日本維新の会共同代表歴任した石原慎太郎慎太郎が衆議院議員旧東京2区選出在職中、伸晃は旧東京4区から出馬しており、慎太郎の元々の地盤であった品川区大田区及び島嶼部を含む選挙区からの出馬経験はない。弟にタレント気象予報士石原良純衆議院議員石原宏高画家石原延啓がいる。父の慎太郎の旧東京2区地盤事実上、弟の宏高が継承したまた、父の慎太郎の葬儀の際には喪主を伸晃が務めた小泉政権主要政策一環である道路公団民営化任せられ脚光を浴びたが、道路族猛攻抑えきれず、妥協重ねて屈したとする評価が多い。これに対し石原は「最終報告には実現不可能な部分もある」とのコメントをしている。 「政策新人類」として若手の頃から経済・金融政策通じた議員として注目される一方週刊文春に「チャンス打てない中軸打者」、「“お坊ちゃま特有の打たれ弱さ抜けそうにないお坊ちゃま」と批判され党内からは「攻撃力欠ける」との声や、「打たれ弱さ」と「のん気さ」ばかりが目立つとも指摘された。 2000年11月の「加藤の乱」では、自民党からの除名覚悟のうえで、血判状誓い立てて党執行部への反乱側に参加した森内閣不信任案採決が行われる本会議出席する直前石原岸田文雄根本匠塩崎恭久とともに4人だけで出陣式行った。その乾杯の酒に選んだのがドライマティーニであった以後毎年同じ時期その4人で『ドライマティーニの会』を開催し最初一杯は必ずドライマティーニである。 2012年自民党総裁選では当時谷垣禎一自民党総裁仕え立場幹事長ありながら自ら立候補し結果的に谷垣不出馬追い込むことになった石原は「谷垣総裁支えてきたが、谷垣さんを支えるために政治をやってきたわけではない」と述べた谷垣は「総裁選には当然、出るつもりでいました。普通の流れでいけば、そうでしょう。だけど、党執行部から何人も出るのはおかしい。悠々与党であるときなら「勝負しようぜ」でもいいのかもしれませんが、野党のときに一心同体ぐらいのつもりでやってきた人から「出る」と言われたわけですから、言われ瞬間に「これはもう私は辞めた方がいいな」と即断しました。「私は執行部の中も統一できないんだ。頼むに足らず批判されているんだな」という思いでしたね。それでは党をまとめていけない。私の不徳極みです。」と述べた。これに対し麻生太郎元首相は、「平成明智光秀だ」、「人間としてどうか」、「あんな奴を支援する人の気が知れない」と批判したことがある2016年東京都知事選挙立候補した山口敏夫は「伸晃はもうすぐ60歳大臣もやってる。それが5歳10歳の子供じゃあるまし、『父ちゃん俺たち担いだ候補負けそうだから、ぜひ応援して下さい』と応援ベンチ引っ張り出した」と都連会長の手腕に疑問呈した2021年1月22日新型コロナウイルス感染判明し都内では症状出ていても入院できず自宅待機余儀なくされている感染者数千人いるにもかかわらず入院した。「発熱やせきなどの症状はなく、いわゆる無症状感染〟だが、不整脈などの持病があるため、大事をとって、即日入院した」ことに対して、「特別待遇」や「上級国民」との声が上がった1月8日から新型コロナウイルス対策の特別措置法に基づく緊急事態宣言出されている中、21日には自身率いる「近未来政治研究会」の派閥総会出席し、さらに同派閥所属している野田毅国家公安委員長坂本哲志一億総活躍担当相らと会員制レストランで約40分間派閥運営話し合いながら昼食とっていた。1月12日西村康稔経済再生担当相が「昼間外出自粛お願いしたい。昼に皆とご飯食べていいということではない」と語り自民党内で昼食時に弁当を配るのもやめて、夜だけでなく昼の会食控えるよう申し合わせしていた中での21日昼食だった。

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高橋紹運」の記事における「人物・逸話」の解説

度量寛大にして、高義真実の士なり、此人こそ英雄なるべし。 『高橋記』は紹運について「文武通じ智謀達し諸人に情深く忠賞も時宜応じ私欲無く古今稀なる名将であり」、数百人の侍が岩屋城で共に戦死した理由がそこにあると記し、また紹運の人となりを義に於き「義に生き義兵を以て義に死んだ家中の勇も仁義の勇である。」、「賢徳の相有りて、衆に異る。器量の仁にてましませば」と評価している。 立花道雪並んで風神・雷神称される風神高橋紹運雷神立花道雪)。 『筑前国続風土記』では「紹運 平生深かりし故 且は其の忠義に感化せし故 一人節義うしなわざるべし」と評価されるルイス・フロイス本国宛の報告書で、紹運を「希代名将」と絶賛した斎藤鎮実の妹(一説には娘ともいわれる)・宋雲院との結婚決まっていたが、度重なる戦で婚儀延びその間に鎮実の妹は疱瘡を罹い、容貌悪くなってしまった。鎮実は破談申し出たが、紹運は「私は彼女の容姿惚れて婚約決めたのではない、心の優しさなど内面惹かれ婚約決めたのだから、容姿変わろうとも問題はない」と、そのまま正妻として迎え二男四女儲けた。紹運の菩提寺である柳川市天叟寺に祀られている紹運の位牌は現在、宋雲院との比翼位牌となっており、墓所夫婦合葬されている。 長男の統虎の婿入りの際、紹運は統虎に対し「道殿を実の父と思って慕うように」と言い聞かせたまた、備前長光与え「道殿とわしが争うことになったならこれでわしを討て」と訓戒したといわれている。 愛用太刀仁王三郎清綱、のちに次子・統増に譲った耳川の戦いでの大敗機に、前当主高橋鑑種の頃からの筆頭家老北原鎮久は紹運に大友氏見限るよう説得したが、紹運はそれを拒絶した秋月種実はこれに目をつけ鎮久を籠絡し、主君・紹運を放逐させるよう画策したが、企みは紹運に露見し失敗。鎮久は岩屋城登城するところを誅殺された。その後紹運は、経緯知らない鎮久の子北原種興に誅殺仔細説明し、種興を不問付して遺領を継ぐことを認めた一方秋月種実は鎮久の内応確約受け取り内田五郎命じ岩屋城を奪うべく300名ほどの軍勢派遣するが、この内確約は紹運と示し合わせた種興の策略であり、紹運率い軍勢待ち伏せされ内田戦死軍勢生きて帰れたのは30余名ほどだったと言われる(龍ヶ城夜襲戦と血風奈須美の陣)。汚名雪いだ北原種興はその後高橋家重臣として用いられることとなった秋月氏筑紫氏原田氏周辺の反大友勢力と常に数の上では劣勢となる戦い強いられたが、敵陣援軍到着虚報流し退路見せかけの援軍の旗を立たせて混乱を誘うなど、武勇だけではなく智将としての活躍伝えられている(柴田川戦いや血風奈須美の陣)。 岩屋城の戦い最中島津方の武将新納忠元城方矢止め請い「なぜ仏法軽んじキリスト教狂い人心惑わす非道大友氏尽くされるのか。貴殿武功は十分証明されました。降伏されたし」と問いかけた時、紹運は中の上から「主家隆盛しているときは忠勤励み功名競う者あろうとも、主家衰えたときには一命掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身島津の家が衰退したとき主家捨てて命を惜しむのか。武家生まれた者として恩・仁義忘れるものは鳥獣以下である」と応え敵味方双方から感嘆の声あがったと言われている。 岩屋城の戦いにおいて、紹運以下全員玉砕することになるが、島津軍にも戦死傷者3,000人とも言われる甚大な被害与えた島津軍軍備立て直しのため時間がかかり、豊臣軍九州上陸許してしまう。紹運らの命を賭した徹底抗戦結果的に島津軍九州制覇打ち砕くことになった岩屋城落城後、般若坂の高台にて紹運以下の首実検が行われた。攻め手総大将島津忠長床几離れ地に正座し、「我々は類まれな名将殺してしまったものだ。紹運殿は戦神化身のようであった。その戦功武勲は今の日本に類はないだろう彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに」と諸将とともに涙を流し手を合わせた伝わっている。 天正15年1587年)、豊臣秀吉薩摩国入り島津氏降伏させる帰途太宰府観世音寺(後の山王の社)に立花統虎呼び、父・高橋紹運忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西九州)にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世咲いた乱世)である」とその死を惜しんだ伝わっている。 岩屋城甲の丸跡には、家臣の子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑がある。 岩屋城下に石で築かれた塚がある。この塚は島津軍に金で雇われ水の手導いた老婆落城後、紹運を慕う領民責められ生き埋めにされたと伝わっている。 紹運以下、高橋家家臣団命日7月27日には、現在でも縁者による岩屋城犠牲者追悼法要が行われている。

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徳川家茂」の記事における「人物・逸話」の解説

遺骨から、面長極めて鼻が高く、歯は反りであったことが分かっている。肖像画の顔はそうした特徴をよく表している。 羊羹氷砂糖金平糖カステラ懐中もなか、三色菓子など甘いものを好んだ勝海舟は「若さゆえに時代翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれぬ。武勇にも優れていた人物であった」と賞賛し、訃報接した際は悲嘆のあまり、日記に「徳川家今日滅ぶ」と記したほどであった晩年家茂の名を聞いただけで、激動の時代重責背負わされた家茂生涯に「お気の毒の人なりし」と言って目に涙を浮かべたという。 幼少の頃風流好み、池の籠の鳥可愛がるのを楽しみとしていたが、13歳将軍として元服してからは、文武両道修めるように努めたささやかな楽しみすら捨て良い将軍であろう心がけていた姿は、幕臣たちを没後感激させたという。 文久元年3月24日日付けで、アメリカ合衆国大統領リンカーン宛の将軍・家茂の直書送られその後リンカーンから家茂宛て返信なされた文久3年1863年4月家茂朝廷命じられ攘夷実行への準備として、幕府軍艦順動丸」に乗って大坂視察行っており、艦を指揮していた勝から軍艦機能説明を受け、非常に優れた理解力示したその折に勝から軍艦動かせる人材の育成直訴されると、即座に神戸海軍操練所設置命令した。さらに同年12月上洛の際、勝の進言を容れて順動丸を使うことを決断した。その理由として、前回の上洛において往路だった陸行では22日要したのに対し帰路順動丸使った際にはわずか3日江戸帰れ事実がある。そのことが勝への信頼感つながったとする説がある。さらに航海途中で海が荒れて船に酔う者が続出したため、側近から陸行への変更奨められたが、「海上のことは軍艦奉行任せよ」と厳命し、勝への変わらぬ信頼表した。これらの信任に勝は感激し家茂対す生涯忠誠心中深く誓ったという。 和宮とは政略結婚ではあったが、2人の関係は良好であったという。家茂和宮以外の女性を傍に置こうとしなかったため、側室1人もいなかった。家茂和宮心から愛していたこともあって、少しでも時間できれば和宮雑談交わしかんざし金魚などを贈った和宮家茂好きな茶菓子をよく差し入れたり細やかな気配りを欠かさなかった。その夫婦関係良さは、和宮側近仲睦まじい2人のことを日記記していたほどであった。 書の達人として知られていた幕臣戸川安清70歳過ぎた老人ながら、推され家茂習字先生務めていた。ある時、教えていた最中に、突然家茂安清の頭の上から墨を摺るためのをかけ、手を打って笑い、「あとは明日にしよう」と言ってその場出て行ってしまった。同席していた側近たちがいつもの家茂らしくない事をする嘆いていると、当の安清泣いていた。将軍振る舞い情けなく思ってのことかと尋ねると、実は老齢のため、ふとした弾み失禁ししまっていた事を告げたその頃慣例として、将軍教えている真っ最中粗相をしたとなると厳罰免れないので、それを察した家茂はわざとをかけて隠し、「明日も出仕するように」と発言することで不問処することを表明したのである泣いたのは、その細やかな配慮感激してのことだと答えたという(安清親戚である戸川残花が『幕末小史』の中に記している)。 『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』によると、四肢骨からの推算身長は156.6cm、血液型A型であった欧州における絹の産地として知られフランスイタリアでは、1850年代にノゼマと呼ばれる原生動物原因とする伝染病流行し両国養蚕業壊滅状態になった。これを知った家茂は、の卵を農家から集めてナポレオン3世寄贈したフランスではルイ・パスツールジャン・アンリ・ファーブル助言元に贈られ研究して病気の原因突き止めるとともに生き残った同士かけあわせて品種改良行ったナポレオン3世謝礼として慶応3年1867年)に、幕府に対して軍馬品種改良のためのアラビア馬26頭を贈呈した。飼育の伝習同時に行われ小金牧(現千葉県松戸市)で大切に飼育される予定だったが、戊辰戦争混乱散逸した将軍就任に当たり慶福から家茂改名したのは、前将軍家定が家祥から改名したのと同様、偏の付く将軍家綱綱吉家継家治)が子供がいなかった、あるいはいても早世して不吉とされたので、それを避けるためだった考えられるまた、別家から将軍になる際の改名6代目綱豊から家宣改名した前例があるため問題はなかった。しかし、家茂家定同様、子に恵まれず短命だった。

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島津義弘」の記事における「人物・逸話」の解説

家康だけでなく秀吉島津氏恐れ、その弱体化を図るために義弘優遇し逆に兄の義久冷遇する事で兄弟対立を煽ろうとしたが、島津兄弟義久義弘、歳久、家久)の結束固く微塵も互いを疑うことは無かった。この流れ義弘17代目当主という見方出来たとされるが、義弘は「予、辱く義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久戦功を妬む様は総大将相応し振る舞いではない」と人間くさい一面紹介されている。 敵に対して情け深く朝鮮の役の後には敵味方将兵供養塔高野山建設している。 祖父島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。 許三官仕込み医術茶の湯学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣大切にしていたので多く家臣から慕われ死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。 義弘主従分け隔てなく兵卒一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった。 義弘家臣らに子が生まれ生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れてその子自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生祝した。また元服した者の初御目見えの際、その父親手柄のある者であればお主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人声を掛けて励ましている。 三ツ山城攻めたときに重創負いその湯治場として吉田温泉えびの市)を利用して以来島津家湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。 九州平定後、義弘秀吉から拝領した播磨国領地管理する際、現地井上兵衛尉茂一という人物検地などで義弘協力した。そのお礼として、義弘井上島津姓と家紋授けた。この井上が、島津製作所創始者初代島津源蔵祖先であると島津製作所歴史記されている。 秀吉への降伏の際に島津家本拠である薩摩一国以外の領土全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉あたった石田三成取りなしにより大隅一国日向一部島津領として残った。この事から義弘三成に対して深く感謝しその後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加主張するものが主流派であった義弘自身三成対す恩義親交理由西軍積極的に参加したとも言われており、最初東軍参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代島津家徳川将軍家臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる愛妻家であり、家庭大事にする人情味溢れ性格だったといわれている。朝鮮陣中に妻に送った手紙中に、「3年朝鮮陣中苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前に多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのために強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘家族心から愛する人となりが窺える武勇実直な人柄から、福島正則武闘派武将たちに大い尊敬されていたようである。その為、関ヶ原撤退戦においても松平忠吉井伊直政徳川譜代のみが追撃行い直政自身深手を負う結果繋がった。 若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年1557年)の蒲生城攻めの際、23歳義弘真っ先攻め入って一騎討ち制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷負ったしたほど決死勇戦見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の突きうたわれた柚木崎正家討ち取っている。 慶長4年1599年)、剃髪入道し惟新斎と号したがこれは祖父忠良の号・日新斎にあやかったものである木崎原の戦いにおいて伊東祐信柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間年齢にして83歳まで生きた姶良市に墓と墓碑建てられている。 慶長の役の際、義弘正確な時を知るために7匹の戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻読みとったとされ7匹のうち2匹日本生還した。この2匹祀った神社鹿児島仙厳園にある「猫神神社」である。 晩年は体の衰え顕著になり、1人立ち歩き食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣昼食摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き1人普段からは考えられないほどの量の食事平らげたという。 関ヶ原敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘薩摩への早期帰還勧めた。しかし義弘大坂人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城人質になっている者を捨てどの面下げて国に帰ることができようか」と述べ妻子救出向かったという(『惟新公関原合戦記』)。 義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘小姓らが主君不在いいこと囲炉裏端火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘素手囲炉裏落ちていた火箸拾い顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた後で家臣が「大丈でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した家臣義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容逸話加藤嘉明にも存在するため、島津家加藤家どちらか模倣した可能性が高い。 戦陣医術詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年1584年10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長上井覚兼に対して金瘡医術の伝授行い秘伝医書与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病扱った医術のことである。 茶の湯千利休古田織部学んだ茶人でもあり、書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼茶入指導受けた書状が残る。

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直江兼続」の記事における「人物・逸話」の解説

江戸時代後期講談明治時代以降講釈本などを中心に兼続謙信才気美貌見出され小姓近習として近侍し、その寵愛深い衆道相手かつ信頼篤い近臣であったといわれている。しかし実際には、生前謙信兼続関わりを示す信憑性のある史料一切確認されておらず、青少年期の兼続謙信近侍していたか否か不明である。 天正8年1580年)の樋口氏時代書状は、当時兼続景勝配下としてその意思代行していたことを示すものであるとされて、若年期よりの兼続景勝関わり実証し得るものとされている。 米沢への転封の際に、上杉家大変な財政難のため、老臣中には家臣減員提案した者もいたが、兼続断じてこれに反対し、「かくの如き際は人程大切なるものはいない、一同協力して復興計るべきである」として新季奉公牢人連の去る者は追わなかったが、旧来の家臣一人も去る事を許さなかった『天雷子続』。米沢はかつての領国4分の1石高の地で、上杉家待っていたのは厳し暮らしであった。しかし、兼続はここで家臣家族3万人養おうと、自らは質素な暮らししながら国造り取り組む米沢市郊外には、兼続指示土地開いた武士の子孫が今も暮しており、その家の周りにはそして生垣にはウコギ植えられている。いずれも食べられる食用の木である。兼続実用的な植物植えさせることで、人々暮らし助けになるよう心を配っていた。この様農業振興尽力した事から、後の元禄年間著された「四季農戒書」(「地下人上下身持之書」)の作者仮託されている。 関ヶ原の合戦後、非常時備え米沢墓石格子型にするよう命令した。これは兼続発案伝えられ墓石格子に棒を通し並べることで強固な石塀とするものである今でも米沢寺社墓所にはたくさん格子型の墓石並んでいる。また兼続墓石も同様である。 正室直江大和景綱の女で名は「おせん」である。兼続側室はいない。 伏見城にて、伊達政宗同席していた諸大名金銭回覧させ、末座兼続にも、これ見られと言った時に、それを素手ではなく扇子で受け撥ねるようにして表裏見た政宗陪臣である兼続に「遠慮をすることはない」と直接手に触れて見るように勧めたところ、兼続は「賎しき物を取れば汚れるので扇に載せています」と(『常山紀談』)、政宗の下へ投げ返した徳川政権下の頃、あるとき直江兼続江戸城廊下伊達政宗すれ違うも、会釈すらせず素知らぬ顔素通りした。政宗がこれを咎めると、直江兼続は「政宗公とは戦場では幾度もお目かかっておりましたが、いつも(負けて逃げる)後ろ姿しか拝見したことが無かったため、一向に気がつきませんでした」と返答をした。 『最上義光記』『家忠日記』によると、長谷堂城の戦い撤退戦での兼続采配振り敵将最上義光感心している。 南化玄興西笑承兌などと親交があり、文化人蔵書家として有名であった兼続若い頃から漢文学親しみ、自ら漢詩詠んだほか、連歌もよくし、当代一流文化人連歌会に名を連ねている。江戸中期儒学者新井白石は、「その詩才は疑うべくもない」と賞賛している。また古今東西歴史書医学書仏教典籍書写蒐集している。兼続蔵書である宋版史記『漢書』前漢書』は、南化和尚から贈られた物であり、いずれも国宝指定されている。また木活字による『文選』(直江版)の出版や、米沢藩学問所である禅林文庫(後の興譲館現在の山形県立米沢興譲館高等学校)を創立している。 兼続朝鮮の役の際、肥前名護屋城滞陣中のわずか2ヶ月間に300巻の医学書書写させている。また渡海後は士卒略奪戒めるとともに兵火さらされ漢籍救い出し日本持ち帰っている。また江戸初期儒学者藤原惺窩姜沆与えた書中で「近世、文を戦陣の間に好む者は、上杉謙信小早川隆景高坂昌信直江兼続赤松広通のみ」と評している。 「愛」という字を前立あしらった兜が兼続所用として米沢市の上杉神社稽照殿に伝わっている。これは、謙信愛宕神社武田信玄および北条氏康打倒戦勝祈願した文書歴代古案に集録されており、一般に愛宕の愛からとする説が有力である。この前立(愛の字瑞雲前立)の三日月状台座は銀板で瑞雲象ったもので、当時白銀色輝いていた。白雲乗って顕現する神仏表現である。この瑞雲乗った神仏肖像文字あしらった形式前立は、伝上杉憲政甲冑宮坂考古館所蔵)、上杉謙信景勝甲冑上杉神社宮坂考古館所蔵)などの上杉家当主の兜前立によく見られるもので、兜のつくりも上杉家独自とされる二重であった。この兜と前立兼続自身作製させたものではなく謙信もしくは景勝拵えたものを兼続下賜したもの考察されている。また、この兜鉢には「上州八幡」の銘があり、関越の諸武将愛用された上州甲冑師一人よるものである。この銘は確認される限りで、兼続所用兜愛の字瑞雲前立鉄錆地六十二筋兜)、村上市郷土資料館所蔵本庄繁長所用兜(鉄錆地六十二間小星兜)、ドイツ、ベルリン・サムライアート博物館所蔵の小星兜三点のみである。 『常山紀談』、『北越軍記』によると、あるとき兼続家臣三宝寺庄蔵)が下人五助)を無礼討ちした。すると、その遺族たちが兼続に「あれの粗相は何も無礼討ちにされるほどのものではなかった」と訴え出た兼続調べてみると遺族訴え通りだったので、兼続遺族白銀20支払うように命じた。しかし遺族たちは下人返せと言って譲らない兼続様々に言ったが、聞きいれようとしなかったので、すると兼続は「地獄行って迎え行けと言って遺族3人の首をはね、その首を河原晒してその横に高札立て、そこに「この者ども使いに出すから死人返せ 慶長二年二月七日 直江山城守兼続」と閻魔大王への嘆願書書いたという。この逸話は、会津への国替え抵抗する勢力兼続処断し、それ以来国中騒動治まった史実投影している可能性があるとされている。 『常山紀談』によると「大男にて、百人にもすぐれたもったいにて、学問詩歌達者才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」とあり、それに続いて長高容儀骨柄並びなく弁舌明に殊更大胆なる人なり」と兼続高く評価している。それを受けた『名将言行録』では、「背が高く容姿美しく言葉晴朗であったとされている。 御館の乱の頃の兼続は、史料においても正確な行動が明らかではなく春日山城近侍していた顔ぶれ中にも兼続入っていない。ましてや景勝家督継承主導したとは、全くの妄説である。 兼続死後主君を誤らせ徳川家康刃向かう上杉家窮地に陥れた奸臣とされていたが、米沢藩第9代藩主の上鷹山兼続手本藩政改革行なったことから次第再評価高まった

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任亨泰」の記事における「人物・逸話」の解説

亨泰が礼部尚書だったとき、日照県の民の江伯児が母の病のためにその3歳になる子を殺して泰山祀った役人がこのことを奏聞した。洪武帝はその倫理そむいた行為怒り、江伯児に杖罰100加え海南島兵役につかせた。洪武帝は亨泰に命じて孝行事例について顕彰する基準定めさせることにした。亨泰は「人の子が親に孝事するには、同居して親を敬愛し養って親を楽しませ、親に病があれば医薬に気を配るものです。氷に臥し自分の股を割いてその肉をとするのは、孝行として普通のことではありません。股を割くのみならず自分の肝を割いてとし、肝を割くのみならず、子を殺めてしまうにいたっては、道を違えて生を傷つけること、これより極端なものはありません。宗祠を祀る者がいなくなるのが不孝最大のものであり、厳に戒められ諭されるべき行いです。もし愚昧無知にも再びそのようなことが報告されましたら、顕彰する例となさいませんように」と意見した洪武帝はこれをよしとした。

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伊達宗興 (一関藩嫡子)」の記事における「人物・逸話」の解説

伊達騒動引き金となった仙台藩3代藩主伊達綱宗隠居原因酒井忠清伊達宗勝陰謀よるものとする説があり、この説では最終的に両者は宗興を仙台藩主据えるつもりであったとされている。この説は小説など用いられることも多く広く一般に流布しているが、その出所天保5年1834年)に編纂された『茂庭家記録』で、同書編者も「このような噂話があった(伝えて云う)」という形で紹介しており、これを事実と見るには無理がある。

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蓋勲」の記事における「人物・逸話」の解説

ときに武威太守権勢たのんで貪婪横暴ほしいままにしたので、従事正和がその罪を調べて立件した。涼州刺史梁鵠は貴戚をおそれて正和殺して恨みを買うのを免れようと、蓋勲相談した蓋勲はもともと正和仇敵間柄だったため、ある人がこれによって仇を報じることができると蓋勲勧めた蓋勲は「いけない。良人殺害を図るのは忠ではない。人の危難乗じるのは仁ではない」といった。そこで蓋勲は「や鸇(ハヤブサ)を繋いで養うのは狩りをさせるためです。狩りをさせて煮殺してしまっては、何の役に立ちましょうか」と梁鵠諫めた梁鵠はその言に従った正和は命が助かったことを喜び蓋勲訪れて感謝伝えようとした。蓋勲会わず、「わたしは使君のために謀ったので、正和のために謀ったわけではない」といい、怨むこと初めのとおりであった184年黄巾の乱が起こると、もとの武威太守の黄雋が召還されたが、期日に間に合わなかった。梁鵠が黄雋の処刑上奏ようとしたが、蓋勲口添えして取りやめさせた。黄雋は黄金20斤で蓋勲謝意示したが、蓋勲は黄雋に「わたしはあなたの罪が減免条件にあたるとみたため、あなたのために発言したのです。わたしがどうして評を売りましょうか」といい、ついに受け取らなかった。 蓋勲夏育救援するために羌と戦ったとき、蓋勲軍勢は羌の精鋭騎兵挟み撃ちにされ、兵士たち多く戦死した蓋勲は3か所に傷を負ったものの、踏みとどまって動かず、木を指さして標とし、「必ずわたしをここに葬るように」といった。句就種の羌の滇吾はもともと蓋勲厚遇されていたので、「長史賢人であるので、おまえたちがかれを殺しては天に背くものとなる」と麾下の兵たちにいった。蓋勲は「死んで捕虜にはならない。おまえが何を知っているというのか。早く来てわたしを殺せ」と罵った兵士たちは顔を見合わせて驚いた滇吾は馬を下りて蓋勲与えたが、蓋勲騎乗しようとはしなかった。蓋勲はついに反乱軍捕らえられたが、羌族たちは蓋勲義勇慕っていたため、あえて害を加えず漢陽郡送還した。 蓋勲漢陽太守のとき、飢饉起こったため、蓋勲穀物徴発して分配し真っ先自分の家食糧供出した。このため生き残った人が1000人あまりいた。 霊帝蓋勲召しだして「天下はどうしてこのように反乱苦しんでいるのか」と諮問すると、蓋勲は「寵臣の子弟たち天下乱しているのです」と答えた。このとき宦官の上校尉蹇碩が座にいたので、霊帝蹇碩顧みてこれについて訊ねると、蹇碩恐れて答えることができなかった。このため蹇碩蓋勲恨んだ霊帝がまた「わたしは平楽観に軍を整列させて閲兵し、宮中財物供出して兵士分配したことがあったが、どうだろうか」と蓋勲に問うと、蓋勲は「臣は『先王は徳を輝かせて兵を見ず』と聞いてます。いま反乱軍遠くにあるのに、近場軍陣設けるのは、強い意志明らかにする足らず、武を汚すだけです」と答えた霊帝は「よろしい。君と会うのが遅かったことが恨めしい群臣たちにはかつてこの言葉がなかった」といった。 蓋勲京兆尹であったとき、長安県令の楊党はその父が中常侍であり、勢威たのんで貪欲放縦にふるまい蓋勲調べたところ1000万あまりの不正な財産隠していた。貴族たちはみな楊党のために運動したが、蓋勲聞き入れず詳細奏聞して楊党の父も連座させた。霊帝の詔が下って事件徹底追及されると、洛陽震撼した。 小黄門の高望尚薬監であり、皇太子寵臣であった太子蹇碩通して高望の子高進孝廉挙げさせたい伝えてきたが、京兆尹蓋勲拒否した。ある人が「皇太子は副主であり、高望太子寵愛されています。さらには蹇碩皇帝寵臣です。あなたがかれらの要望違背すれば、いわゆる三怨成府(3人の恨み集めると、災いから逃れるのは難しい)というものです」と忠告したが、蓋勲は「賢者選んで挙げるのが国に報いることである。賢くない者を排除できれば死して何の後悔があろうか」と答えた霊帝死去し董卓洛陽入って少帝廃位し、何太后殺害した蓋勲は「むかし伊尹霍光功績立てて権力握りましたが、それでもなお細心の注意払っていましたあなたは小人物であるのに、どうしてかれらのように終われましょうか。祝う者が門にあるとき、弔う者が廬にあるのです。慎しまないでいられましょうか」と董卓信書送った董卓その手紙を見て蓋勲を嫌うようになった。 あるとき河南尹朱儁董卓軍事説いた董卓は「わたしは百戦百勝。心に決めたことは実現する人間だ。君は妄説してはいけない。わたしの刀を汚すことになるぞ」と朱儁脅した蓋勲は「むかし殷の武丁賢明なであったが、それでもなお諫言求めてやまなかった。どうして君のような者が人の口ふさごうとするのか」と訊ねた董卓は「冗談をいっただけだ」と答えた蓋勲は「戯れながら怒言とは聞いたとがないが」といった。そこで董卓朱儁謝罪した

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島津斉興」の記事における「人物・逸話」の解説

斉興時代行なわれ改革薩摩藩経済発展果たし幕末期財産となったといえる。 斉彬を嫌ったのは、正室弥姫周子)と仲が悪かったためとも言われている。反対に弥姫との仲はよかったとも言われている。斉興は周子との間に4男1女を儲けており、うち3人目の諸之助は久光と同じ年の生まれである。文政2年1819年)に諸之助は死去する同年に4男の珍之助を生む翌年珍之助は死去する。実は周子にはお由羅を含む側室たちよりも多くの子を産ませているが、これは薩摩藩では異例なことであった。 斉彬の急死に関しては、幕府対立姿勢強める斉彬の姿勢に対して不満を持つ斉興による毒殺ともいわれるしかしながら、斉彬が幕府いいなりになっていることに不満を感じていた資料存在している。 斉興がなかなか隠居しなかったのは従三位への官位昇進狙っていた為という。このため隠居して官位昇進可能だと知るとあっさり隠居したという。 隠居後も斉彬を後見すること宣言しており、これをやめさせるのに半年かかったという。 薩摩切子の名で知られる薩摩藩ガラス製造は、斉興が製薬館を設置した際に、江戸からガラス職人招いて薬瓶製造させたことから始まった若い頃から密教対す関心強く文化7年1810年以前大覚寺門跡・亮深より「亮忍」の法諱授けられ文政5年1822年6月には在俗のまま大僧都法印免状受けている。また、文政4年1821年)には寺社奉行通じて領内全域寺社に『法華経』の「普門品」を与えている。

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福地源一郎」の記事における「人物・逸話」の解説

文久3年1863年)、小笠原長行入京クーデター計画関与していたが、事件首謀者である水野忠徳機転により、処罰免れている。 明治8年1875年1月14日紙面で「社会」を「ソサエチー」のルビつきで掲載し、これが「社会」という日本語使われ最初と言われている。 明治34年1901年2月福澤諭吉死によせて書いた記事「奮友福澤諭吉君を哭す」(日出新聞 2月5日)は、福地文章中でも会心の出来映えで、明治期でも指折り名文とされる福澤の死の際に両者人物比較され福地は才において優る。しかし意思強固さでは福澤数等上であると評された。 遊び好きであり、吉原大門に「春夢正濃 満街櫻花 秋信先通 両通燈影」の揮毫をした。 芸妓落籍させて妾としていたが、やがて肺病死去看病中、彼女が懐中時計開閉する際の音が好きだったため、時間の許す限り時計開閉続け、彼女が亡くなった際、枕元には壊れた懐中時計が、20個以上並んでいた。

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加藤紘一」の記事における「人物・逸話」の解説

2010年8月19日日韓併合100年契機に「植民地支配過程被害にあった韓国人その子孫たちに対して日本政府十分な賠償促す」ことを目的とした「韓日過去史の解決未来向けた和議会議」に民主党斎藤勁衆議院議員土肥隆一衆議院議員首藤信彦衆議院議員相原久美子参院議員今野東参院議員那谷屋正義参院議員日本共産党山下芳生参院議員社民党阿部知子衆議院議員社民党党首福島瑞穂参議院議員無所属糸数慶子参議院議員と共に自民党議員中で唯一の自身代理人参加させ、韓国の国会議員とともに日本による韓国併合違法性戦後補償慰安婦問題在日韓国人地方参政権問題などの解決方法について議論した 防衛庁長官時代自衛官防衛官僚報告よりも農官僚報告聞くことを優先しており、防衛施設庁長官として加藤補佐した佐々淳行著書『私を通りすぎた政治家たち』で、「加藤防衛庁長官にとっては、国防・安全保障よりも山形の米の問題など優先順位として高かった」と批判している。 1992年10月まで日本の政治家記者会見をする時は着席して記者会見いわゆる着席記者会見)を行っていたが、1992年10月30日官房長官だった加藤紘一日本の政治家として初め立ったままでの記者会見いわゆる起立記者会見)を行った。これは支持者から「座っているとテレビ映りよくない」等と指摘されたのがきっかけ加藤が行動に移したのが始まりである。加藤起立記者会見行って以降、他の日本の政治家起立記者会見を行うようになった官房長官時代定例記者会見番記者との懇談の際、重要な情報記者一切漏らさずに「それは○○省に聞いてください」などと答えていたことから、記者からは「ブリキ」と呼ばれていた。 党幹事長時代1996年前年東京協和・安全二信組乱脈経営絡んだ大蔵省官僚への接待問題大和銀行NY支店不祥事引き続いて住専国会最中にあり、旧大蔵省バッシングの的となっていた。同年2月4日、『JNN報道特集』の番組中「金融証券できるだけ自由化して、大蔵省銀行局国際金融局証券局金融庁として分離させ、日銀一緒に大阪持っていく」事を話した。この発言受けて翌日新聞各紙が“大蔵省権限分散強調”と大きく取り上げたこれをもって田原総一朗は、一連の大蔵省改革始まりだったことを述べている。 自身著書などで「2ちゃんねらーである」と公言していた国会議員一人であった同様に2ちゃんねらー」を公言している国会議員には、鳩山由紀夫麻生太郎がいる。 聖学院大学総合研究所客員教授務めていた。

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鍋島直正」の記事における「人物・逸話」の解説

岩倉具視鍋島閑叟出会い、のちに久米邦武に「松平春嶽山内容堂較べて意外に傑物だった。大名として珍しく寛容で、誰にも親しみ感じさせ、議論にも気力があった。惜しむらくは病身だったことだ」と感想漏らしている(『久米博九十年回顧録』)。 イギリス外交官であるアーネスト・サトウは「一般に二股膏薬さんと呼ばれていた老人」と皮肉っている(『外交官より見た明治維新』)。サトウは「松平閑叟は四十七歳だが、年より老けていた。顔つききつくて、たえず両眼をしばたたかせながら、時々思い出したようにぶっきら棒調子しゃべった」とも述べている。 大隈重信は「閑叟は成すべからざるときは大いにその力を使い、成すべきときはその力を用いざるものなり」と批判している(円城寺清の『大隈昔日譚』)。 大隈対立して処罰されており、かなり誇大に批判されている可能性もある。確かに閑叟は親幕的な行動を取りつつも幕府一定の距離を保ち明治維新まで佐賀藩主導権握れなかった一因になった。だが、そのために佐賀藩では他藩のような騒動はほとんど起こらず平和が保たれている。また、藩政改革における閑叟の人材育成登用西洋化軍隊育成などは高く評価されている。なお、反射炉日本最初に築いたのは閑叟である。戊辰戦争では佐賀藩40名ほどが他藩の1000名に匹敵するとまで評されており、佐賀藩西洋軍隊強さ窺わせるのである(『鍋島直正公伝』)。 徳川慶喜後年回顧録である『昔夢会筆記』の中で直正を「俗に言ったらこすい人、善く言えば口才子という人だ。」と評している。

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中村鴈治郎 (2代目)」の記事における「人物・逸話」の解説

最後まで若々しい芸を見せ、『曾根崎心中』で舞台を共にした長男二代目扇雀(→三代目治郎→四代目藤十郎)が人気集めると「嫉みますがな」とライバル意識むき出しにしていた。 庶民的な気さくな面を持ちパチンコ競馬が好きで、人間国宝認定されると「国宝なったら競馬したらアカンのか」と本気で心配したまた、当時孤軍奮闘していた三代目市川猿之助可愛がり彼の一座によく参加するといった義侠心併せ持つ人物だった。 小心なところがあり、戦時中空襲警報発令される真っ先自宅防空壕駆け込んでいた。終戦直後ヒロポン常習したこともある。 科白覚え悪かったものの、新作新し役柄には進んで挑戦する精神富んでいた。科白うろ覚えも本番では観客悟られることなく役をつとめることが出来特技持っていた。ある新作稽古で、原作者から「治郎さん、科白覚えて下さい!」と駄目を出された時は、今まで見せたことのない怒り表情になり、後々までもこのことを恨んでいたという。また、黒澤明の『どん底』に出演した時は、黒澤から「歯を全部抜けますか。」と聞かれ希望通り全部抜いてしまうほどの熱の入れようだった。 また、妹背山婦女庭訓』「金殿」の七をつとめたとき、周囲荒事七を和事治郎ができるのか、いかにもニン違い過ぎはしないかと案じた。しかし治郎は二代目尾上松緑から役の性根教えてもらい、自身なりの七を見事につとめあげ賞賛浴びた。これには、お三輪役で舞台を共にした六代目中村歌右衛門が、以前から「成駒屋治郎のこと)の七はすごいわよ」とその芸力を認め強く推薦していたからだった。 晩年病魔悩まされながら舞台勤めた最後の舞台1982年昭和57年京都南座顔見世の『新口村』の忠兵衛で、息子扇雀梅川友人好敵手でもある十三代目仁左衛門孫右衛門との共演であった治郎の死後仁左衛門はその千秋楽の日、最後告別場面で成駒屋いつまでも私の手を離さへんのです。」と感慨込めて証言した十代の頃は少年雑誌春虎のペンネーム投稿をおこなっていた。

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北条綱成」の記事における「人物・逸話」の解説

綱成は若い頃から武勇秀で毎月15日は必ず身を清めて八幡大菩薩戦勝祈願したといわれている。常に北条軍先鋒としてその無類強さ見せつけたため、近隣には常勝軍団としてその名がとどろいたといわれる合戦では、朽葉色染めた6尺9寸の練り絹に「八幡と書かれた旗を指物としていたので、その旗色から「地黄八幡」と称えられた。これは「直八幡(じきはちまん)」の発音通じるため「自分八幡直流である」というアピールであった。。 綱成の「地黄八幡」の旗指物は現在、長野県長野市松代真田宝物館現存する。これは、武田氏後北条氏対立していた元亀2年1571年)、綱成が守備していた駿河深沢城を、武田信玄対し開城して小田原去った際、城内放置されていた物である。信玄は「左衛門大夫(綱成)の武勇あやかるように」と、家臣真田幸隆息子源次郎真田信尹)に与えたとされる(『寛政譜』巻655)。 少年期には評判芳しくなかった氏康の代わりとして、北条家当主擬する動きであったという。 氏康とは同年齢であり義弟でもあったことから信任は非常に厚く、氏康の名代として外交軍事全権与えられることもあったとされる戦場では常に勇敢で、特に野戦では大将であるにもかかわらずに常に先頭立って勝った勝った!」と叫びながら突撃したとされる。その武勇には上杉軍武田軍恐れ深沢城戦いで圧倒的な兵力差であるにもかかわらず武田軍は綱成に苦戦したとされる武勇だけでなく、白河晴綱長尾当長蘆名盛氏らとの外交交渉など、外交使者として活動することもあった(白河古文書長尾当長家臣小野寺氏文書など)。

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藤原彰子」の記事における「人物・逸話」の解説

二代国母として摂関政治全盛貢献し後世あやかるべき吉例として長く景仰された。 『紫式部日記』には彰子の肌が透き通るように美しく、髪もふさふさとして見事な様が記されている。 敦成親王出産後彰子11月17日内裏参内予定だったが、一条天皇は「待ちきれないから自分訪れる」と10月彰子滞在する土御門殿行幸した。彰子内裏に戻ると、一条天皇はすぐ彰子御座所渡り、夜は彰子天皇の夜大殿に昇った。翌年敦良親王誕生聡明優しくライバルとされる中関白家にも贈物など礼儀援助かかさず生涯面倒を見た栄華極めながら思慮深く『賢后』と賞された(小右記)。 一条天皇とは最期まで一緒におり、一条辞世の句彰子傍ら読まれ彰子書き留めた。 局に藤壺飛香舎)が割り当てられたため、『栄花物語』では彰子のことを「かかやく藤壺」と賞している。

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前田直正」の記事における「人物・逸話」の解説

藩主前田利常は、兄利政の娘を養女として直正に嫁がせようとしたが、過分に過ぎると辞退している。

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中井弘」の記事における「人物・逸話」の解説

井上馨の妻の武子新田俊純の娘)は当初中井の妻であったが、ゆえあって離別し大隈重信あずけられた。間もなく井上武子をみそめ、大隈伊藤博文らの世話結婚することになった。式の当夜中井大隈邸に顔を出したため、関係者大い慌てたという。ただし、武子中井の妻だったという話は史料上で一切確認できない昭和以降創作考えられ武子井上馨との結婚初婚である。 中井の娘(二番目の妻との子)・貞子は、原敬最初の妻である。そのため原は中井と気が合ったらしい。貞子は、天津領事任命され原敬1883年15歳結婚朝鮮赴任から帰国した1896年より別居し1899年に再び同居するが、貞子が他の男の子供宿したため、1905年離婚離婚後原は15年来の愛人再婚した岩倉具視大久保利通囲碁をやっていた際、碁盤転覆させたり、樺山資紀公衆面前大声叱責したり、宴席にて明治天皇御前西村茂樹ビール瓶殴打するなど、奇行多かった幕末・明治期著名人写した写真アルバム残しており、その中に唯一写っている女性立ち姿写真楢崎龍龍馬の妻)ではないかと言われ平成20年2008年)に高知県立坂本龍馬記念館警察庁科学警察研究所鑑定依頼したところ、立ち姿写真晩年写真とをスーパーインポーズ法により写真比較した結果、「同一人物可能性がある」との鑑定結果出された。しかし、この結果受けて立ち姿写真が「若き日お龍の写真」として扱われるようになったものの、科警研人物比定方法問題があるとの意見があり、また同様の写真は他にも見つかっており、今では否定されている。

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熊谷直実」の記事における「人物・逸話」の解説

蓮生は、九条兼実邸へ行く法然に自ら押しかけ従い邸宅の外で法然待っていた。邸宅内から法然法話の声がきこえた。それを聞いて大声で「あはれ穢土ほどに口おしき所あらじ。 極楽にはかゝる差別あるまじきものを、談義 の御こゑもきこえばこそ」と言ったため、兼実が蓮生邸宅内へ招くと、挨拶もせずに邸内入り法話聞いた蓮生京都から関東にもどるとき、西を背にすると、浄土阿弥陀仏背を向けと言って、鞍を前後さかさまにおいて、西に背を向けずに関東下ったという。「浄土にもがうのものとや沙汰すらん、西にむかいてうしろみせねば」(直実の歌)。 源智所持していた、法然から授与された「南無阿弥陀仏」の金字六字名号を、力づく蓮生奪ってしまったが、後にその六字名号を源智返還することを蓮生諭す法然書簡である『源空、証空自筆消息(2通)』(重要文化財清凉寺)が残っている[要ページ番号]。

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大友勝将」の記事における「人物・逸話」の解説

父の度を越えた広島カープきのせいで、母親は勝将が小学生のときに大友家去っていったらしい。 体は頑丈というのを通り越してバケモノ並み回復力持っているナイフ刺されても、次の日には元気になっている。銭湯全裸になった際に、体のあちこち傷跡残っているのが見てとれる。股間イチモツ超弩級前作から登場している性欲女王一目見て気絶し一時大人しくなった ナイフなどで刺されることが多い。本作確認できるだけでも、昇喜郎に6回、壮吉に2回、合計8回刺されている。未遂ではあるが、太に1回刺されかけたことがある単車操作ヘタクソであり、単車乗せてもらっている。 少年時代友達と遊ぶことができなかった為か、ゲームやベイブレードなど子供向け遊びを好む。しかし乱暴かつ下手糞周り被害が出る事が多く、勝将が遊び出た際のお付き連合内では「勝将ちゃんのおもり」と呼ばれ重要な仕事である。「カッショーさんのライバル」と呼ばれる子供遊び相手をする事も多くメンバーもこの仕事に関して子供頼りにしている。子供が「カッショーさんのライバル」を卒業してからはますます歯止めが効かなくなった子供から役目託された昇喜郎が相手をするようになった

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三好義興」の記事における「人物・逸話」の解説

高槻市霊松寺墓所があり、自然石作られ墓石は「三好カンカン石」と呼ばれている。 義興は足利義輝年齢近く教養武勇もあったためか、義輝と厚い親交があった。義輝からすれば政略目的もあったろうが、義興は20代前後長慶とほぼ同等優遇を受け、永禄4年2月23日に義興が金閣見物の際には義輝と共にあり様々な下賜を受け、その返礼3月には義輝御成求めたりしている。一方長慶芥川山城から飯盛山城への移動を義興への家督継承一環とみる天野忠幸も、三好氏義輝との和睦にあたって義輝対立し続けた長慶が(将軍権威取り込まれるのを避ける意味もあって)距離を置き、義興が義輝擁立する体制新たに構築した推測している。

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上坊良太郎」の記事における「人物・逸話」の解説

ノモンハン戦では、1939年8月3日I-16撃墜したのが上坊曹長最初戦果で、11日後さらに1機を撃墜した8月21日のタムスク攻撃では、錯綜した格闘戦の中で2機のI-16撃墜したが、上坊機も何度も被弾し破片顔面に傷を受けた1942年10月29日桂林進攻では、上坊2度目出撃で1機を撃墜その後2機目を追って急降下射撃中、気圧変化で右耳の鼓膜破裂してしまった。それでも上坊は、低空敵機4機編隊追尾し、その最後尾機を射撃せずに桂林付近の山頂上激突させるという戦果をあげている。 1944年末ごろからカルカッタ基地とするB-29マレー半島への来襲始まった11月5日の初来襲迎撃した第1野戦補充飛行隊は、一式戦闘機ではB-29撃墜は困難と判断、それからは二式単座戦闘機四式戦闘機使用して迎撃した。上坊は、ホ301(40mm砲)装備二式単座戦闘機搭乗し、「失速反転攻撃法」と呼ばれる戦法考案しB-29撃墜戦果をあげた。1945年昭和20年6月初旬シンガポール上空単機飛来しB-29二式戦迎撃上がった上坊機銃死角胴体直下を平行に飛びながら垂直上昇射撃繰り返し4度目射撃エンジンから黒煙吹いたB-29降下していくのが確認された。 上坊良太郎大尉は、一時期(特に昭和30年代)の出版物のなかで「公式記録」という名目撃墜76機と紹介されていた。上坊同期生樫出勇大尉は、上坊76撃墜していると確信しており、石川貫之空将もこれに同意していた。上坊謙虚な性格のため自身撃墜数を誇示することは控えていたが、彼の回想記によればノモンハンでの18機、中国でのP-40・2機、シンガポールでのB-29・2機を含めて30機とされている(自身著書『わか「九五九七戦大陸の空を制霸す』では64撃墜著している )。このほかに10機のB-29不確実撃墜または撃破している。

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松平信輝」の記事における「人物・逸話」の解説

元禄3年1690年時点全国大名評判記である『土芥寇讎記』では、信輝は善智で邪智が無いが、「此ノ将耳遠キハ、何ヨリ大将之疵ナリ。襲ズンバ祖父信綱ノ役儀ナリ共、勤メラルベキ程ノ器量ナルニ可惜也」と信輝耳が遠いことを惜しんでいる。信輝武芸尊び家臣武芸に励む人が多かった公儀大切にし、忠を専ら心がけたという。 一方で、父の輝綱が死去してわずか13歳要地川越継承したとき、必ず国替えがあると家臣世人思っていた。しかし祖父・信綱の余慶おかげで「たとい祖父信綱の忠勤を上に思食さるると雖も、当伊豆守信輝其の器に非ずんば、争か御膝下之城に差置せらるべきや」とある。つまり信輝には器量無く老中なれない大名であるにもかかわらず川越在城を許されたのは祖父余慶のおかげというのである。なお、この『土芥寇驟記』成立4年後に信輝古河移封された。

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王廣 (前秦)」の記事における「人物・逸話」の解説

姚興らが王広らを殺した聞くと、姚萇は「王統兄弟は州里を同じくする仲であり、怪し意図など抱いてはいなかった。徐成らはかつての秦朝における名将であって、わしは天下少しく定まった任務委ねよう考えていたのだ。どうしてこれらを誅して気落ちさせるのだ」と、怒って言った

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徐嵩」の記事における「人物・逸話」の解説

幼少から清らか汚れのない性格人々称賛集めていた。 長安としての徐嵩仕事ぶり苻堅大い評価して叔父徐成に 「人は長吏となれば当然に成すべき事かもしれない。この少年優れた才を持っているな」 と褒めた

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斎藤清太郎」の記事における「人物・逸話」の解説

美濃斎藤氏斎藤道三斎藤利治斎藤義興から子孫岡山藩士)の末裔である。

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大條道直」の記事における「人物・逸話」の解説

小野寺谷『東藩野乗』には、文政10年11月西暦では翌1828年1月)に第11藩主伊達斉義死去した折に、以下のような話があったと伝えている。斉義が死去した時点で、実子の穣三郎(慶邦)はまだ御目見済ませておらず、嗣君未定の状態であったため、仙台藩では斉義の死を秘して次期藩主選定にあたっていた。この時江戸藩邸詰めていた道直は、とある幕閣屋敷呼び出され(『仙台叢書』の編者鈴木省三は、この幕閣水野忠成だとしている)、将軍徳川家斉の子を斉義未亡人芝姫第10代藩主伊達斉宗の娘)の婿に迎えて仙台藩継がせるように願い出よと勧められた。これに対して道直は「我が主君重病だがまだ存命であるし、姫様年少13歳といえども既に現藩主嫁いだであって養子となる次期藩主から見れば母にあたる。その母を妻にするなどというのは道理反し我が藩にはそのような前例も無い。それに藩主一門の中から選ぶのが決まりであって他姓の者に継がせることはできない」と答えてこの計画差し止め一門登米伊達氏から斉義の従弟・幸五郎(斉邦)を藩主迎えたという。

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荒井盛従」の記事における「人物・逸話」の解説

昭和8年1933年)の菊田定郷『仙台人名辞書』では、盛従を「仙台大岡の称ありたる名町奉行」と記し、「其の町奉行の職に在るや、聴断流るるが如く訟廷冤枉なし、断獄の明、後世模範となすべきもの多し」と評している。 江戸在勤の折に松下烏石師事し、書を能くした。

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陶興房」の記事における「人物・逸話」の解説

大内家臣団の中で戦功随一とされる名将だが、和歌にも優れた教養人という一面もあり、公卿飛鳥井雅俊らとも交流があった。 船岡山の戦いでは、「先陣になれば敵の兵、全て葬ってさし上げようと言った尼子経久対し、興房が「大内軍は夜襲は苦手でな」と述べて経久を退けたという。 九州では大友氏少弐氏にしばしば苦戦強いられたが、最終的に少弐氏一時滅亡へ追いやる武功挙げた。また大友軍と戦った勢場ヶ原の戦い大友軍の戦略的勝利とされるが、この戦いで興房は虚報流して大友軍を翻弄し一時大勝収めそのことから「戦術的に引き分け」と評される長男の興昌には享禄2年1529年)に先立たれているが、興昌と義隆の関係が険悪であったために興房が殺害したという説もある。興昌の墓は、興房の兄・興明と同じ山口県周南市海印寺存在する死の直前、隆房の性格将来災いするではないか案じていたと言われる

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前田玄以」の記事における「人物・逸話」の解説

織田信長豊臣秀吉配下の中では、ある程度ではあるが、京都公家・諸寺社との繋がりを持つ数少ない人物と見なされ、このような要素にも所司代起用理由があった。 かつて僧侶だった関係から当初キリシタンには弾圧行っていたが、後年には理解示し秀吉バテレン追放令出した後の文禄2年1593年)、秘密裏京都キリシタン保護している。またポルトガルインド総督ともキリシタン関係で交渉したことがあったとされるちなみに息子2人キリシタンになっている。また僧侶出身のため、仏僧不行状目撃することが多かったらしく、彼らを強く非難している(『フロイス日本史』第69章)。

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康絢」の記事における「人物・逸話」の解説

康絢若くして才気と志が高かった康絢身長が8尺あり、容貌群を抜いていた。顕官上ってからも、なお武芸練習していた。 武帝徳陽殿で馬遊び催したとき、康絢騎射命じられて、弓の弦を撫でるや的を貫き観る者を喜ばせたその日武帝画工康絢肖像を描かせ、宦官使者にその絵を持たせて派遣し、「卿はこの絵を知らないか」と康絢に問わせた。 康絢温厚感情を表にあらわすことが少なく朝廷でも寡黙であったため、「長厚」と呼ばれた康絢施し好み、寒い冬に省官が襤褸着ているのを見ると、襦衣をその省官に贈った

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一柳頼徳」の記事における「人物・逸話」の解説

詩歌秀で書家として諸侯随一とされ、多く墨跡を遺した。その書は手本として将軍家納められたという。 宝永6年1709年)、因幡叙任に際して描かれた「一柳直卿公寿像」(一柳家所有小松温芳図書館寄託)は、2007年平成19年3月西条市有形文化財指定された。小松藩主の肖像画としては唯一ののである

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郭銓」の記事における「人物・逸話」の解説

郭銓梁州刺史の頃、馬に角が生え現象起きた郭銓はこの馬を桓玄送った431年郭銓娘婿の劉凝之の前に郭銓現れた。郭銓は罪を免れるため、僧侶らを集めるように頼んだ郭銓は娘の夢に現れ自分罰される罪がある。夫とともに斎場設けてくれないかと頼んだ。娘は斎場をどこに建てるかと聞くと、郭銓自分屋敷であると答え姿を消した人々郭銓・劉凝之の言葉信じ僧侶集めて祈福した。

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エヴァンゲリスタ・サイボーグ」の記事における「人物・逸話」の解説

カリフォルニア州サンディエゴジム、The Arenaトレーナーとして働いている。

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大島常久」の記事における「人物・逸話」の解説

大島流派は、江戸初期大島吉綱始めた槍術一派である。 大島氏大島光義の子より、一族の結束代々強かった

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羽川義稙」の記事における「人物・逸話」の解説

秋田矢島戸沢仙北といった他領攻め入って一般住民旅人から財産奪っていた。 戦に破れ、船で落ち延び羽川地区漂着した畠山義則の部下助命配下にした逸話を持つ。 周辺の土地荒らし回った盗賊武将ありながら他領である神宮寺八幡宮に「悪賊州県を討つ」との願文奉納し領主である小野寺義道激怒させている。

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延沢満延」の記事における「人物・逸話」の解説

義光は満延が剛力であることを知ってその力を試そうとし、家中力自慢の者7・8人を庭に集めて待ち伏せさせたが、満延は飛びかかった男どもを即座に振り払った驚いた義光は逃げようとして太さ2尺ほどの桜の木しがみついたが、満延はなおも義光を引っ張ったため、両者もみ合ううちに桜の木根から引き抜かれて、義光ごと倒れてしまったという。

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竇衝」の記事における「人物・逸話」の解説

383年8月苻堅姚萇龍驤将軍都督二州諸軍事に任じた苻堅は「昔、朕は龍驤将軍であったとき建業した。以来この位授けたことはなかった。よく努めるように」と、姚萇言った竇衝は「王者戯言はありません。これは不祥兆しになりましょう」と、苦言呈した苻堅黙ってしまった。 慕容暐長安城内にいる数千鮮卑族と共に苻堅殺害しよう目論んだ北部の人の突賢はこれに参加するため、妹に別れ告げた。妹は竇衝の妾で、彼女は竇衝内容話し、兄を思い留まらせるよう請うた。竇衝急ぎ苻堅報告した苻堅慕容暐一族及び城内鮮卑族長幼婦女別な皆殺した。

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中馬重方」の記事における「人物・逸話」の解説

重方は大男で、戦いで余多の人を斬ったが、自分は傷を薄手も負わなかったという。また、三州一の大力で、強弓射手と言う。 重方は島津義弘気に入られていたようで、重方が蒲生蟄居中に義弘内密に毎年米2俵を与えたという。また朝鮮出兵が始まると、重方を呼び出して活躍の場与えた本藩人物誌)。少なくとも重方は蟄居中でも戦い時に呼び出されるほど、島津義弘お気に入り家臣であった。「薩藩旧伝集」では「中馬大蔵殿は惟新公別して御秘蔵の人」とまで言わしめている。 慶長5年1600年)、関ヶ原の戦いの際に、上洛して西軍味方についた島津義弘勢は僅か200程度であった安定しない国内事情のため、国許義弘へ送る兵は無く島津豊久等の一部将兵無断上洛する有様であった。重方は畑で農作業をしている最中にこの大事を知り、急ぐあまりに同様に上洛する武士から鎧櫃強奪して上洛した。 関ヶ原敗戦後島津の退き口兵力消耗した島津義弘一行疲労空腹のため、身動き取れなくなってしまった。そこで馬を殺して食べる事になり、その馬肉の塊を家臣義弘献上しようとして目の前に差し出したところ、重方は「義弘様の輿を担ぐ者が優先」と、その肉の塊を奪い取って食べてしまった。 元和偃武が過ぎ、戦いの無い平和な時代へとなりつつあった。関ヶ原数少ない生き残りとなった方に戦いの話を聞こうと、鹿児島から若い藩士訪ねてきた。重方は「関ヶ原と申すは…」と話し始めたものの、とめどもなく涙が溢れ出て、それから先、一言も語ることができなかった。若い藩士達は関ヶ原の話はこれまで何度も聞いたが、そのどれよりも優れていたと語り合った

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内藤弘矩」の記事における「人物・逸話」の解説

陶弘護暗殺後陶氏家督争いには、弘矩が暗躍したともいわれている。一方で、弘矩が殺害され原因として弘矩を讒言したとされる陶武護とともに反抗企てたとする逆の説も伝えられている。また、この説では弘矩を殺害したのは当主である義興ではなく隠居していた先代当主の政弘であった記されている。このため藤井崇は大内政弘が自らの権力を脅かす陶弘護排除するために吉見信頼殺害させたところを内藤弘矩口封じさせたのが本来の計画であったが、後日陶武護反抗きっかけに更に内藤弘矩殺害して真相隠そうとしたとする説を提示している(陶武護が弟の興明を殺害して陶氏家督奪ってから15日後に弘矩が殺されている)。 また、文人として活動しており、当代屈指の連歌師宗祇とも交流した記録がある。

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伊達秀宗」の記事における「人物・逸話」の解説

秀宗は宇和島藩祖であるが、宇和島では余り崇敬集めておらず、宇和島市内には顕彰碑銅像無く、「秀宗公」と尊称する人もいない。これは幕末・維新期藩主宗紀と宗城が名君だったためにその陰にかくれたためとされている。ただし秀宗も名君だったと伝わり参勤交代の際に宇和島帰国途中で海が荒れて船が転覆しそうになった時、秀宗だけが泰然自若、少しも騒がなかった。あるいは豊臣秀頼組み討ち遊びの時、年長の秀宗は秀頼を組み敷いたが、踏みつける際に咄嗟に懐紙取り出し直に踏まなかったので豊臣秀吉淀殿夫妻をはじめ豊臣家面々は秀宗に大い感心した、と伝わっている。 秀宗は支藩扱いされるのを嫌い、将軍徳川家光との御成之間で対面の際、異母弟忠宗より上座着座して政宗長男として、宇和島藩仙台藩風上に立つ事を示している。秀宗は政宗似て和歌堪能だったと伝わる。そして時代流れて幕末朝廷および明治新政府活躍した伊達宗城らの功績により、宇和島藩藩主家侯爵に列せられ、奥羽越列藩同盟連座したため伯爵どまりとなった仙台藩藩主家上回る家格として遇されることになった後述のように宇和島藩江戸時代前期仙台藩から養子入ったため、それ以降藩主血統上は忠宗の男系子孫である)。

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大槻太郎左衛門」の記事における「人物・逸話」の解説

太郎左衛門という名前は何代かにわたって受け継がれているが、「大槻」の姓を名乗ったのは太郎左衛門政通(行綱)のみである。 政通の父は太郎左衛門高行であり、先祖佐原義連である。 義連の息子・盛連が6人の息子たち会津盆地周辺所領分配しその時北田の地を治めた次男の広盛が政通の先祖である。 北田の姓は後に兄弟分家により大庭改められその後大槻改められた。 政通は主君であった蘆名盛氏現在の福島県耶麻郡西会津町野沢蟄居命じられ近隣武将たちと協力して盛氏への謀反企てた

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蕭昌」の記事における「人物・逸話」の解説

蕭昌は酒を好んで飲酒後には多く過失犯した。州郡にあっては酔って人家出入りし、あるいはひとり草野さまよった酔って人を殺しては、醒めてその人求めるようなこともあった。御史弾劾受けて建康蟄居しては、鬱々として楽しまず、酒を欲しいままにして精神荒廃させた。石頭の東斎で刀を引いて自らを刺し周りの人がかれを助けたこともあった。

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阿古姫」の記事における「人物・逸話」の解説

侍女時代に、能書家として知られていた主君政宗揮毫請い、『拾遺抄所載清原元輔の歌を書き与えられている(古歌「ふたより」。個人)。

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斎藤義興」の記事における「人物・逸話」の解説

天城池田家銃隊長として活躍した斎藤小十郎光近も一族である。斎藤小十郎光近の墓碑文に「君姓斎藤道三山城守之裔也諱光近通称小十郎 世世仕旧備前藩太夫池田勢州食禄百八拾石為鉄砲頭 自祖父兵法」とある。斎藤光近の功績により、明治政府から官修墳墓指定される東京帝国大学教授斎藤清太郎その末裔である。 家系としては、久兵衛(義興の子)、弥三郎久兵衛の子)、久興(弥三郎の子)、一興(久興の娘婿本姓上阪氏)、隆興一興の子)、善興(隆興の子)、一太郎隆興の子)、清太郎一太郎の子東京大学歴史学教授)と連なる[信頼性検証]。 天城池田家は、池田元助の妻が斎藤道三の娘であり、岡山藩池田家家臣繋がり全て美濃斎藤氏繋がっている。

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畠山義綱」の記事における「人物・逸話」の解説

北陸能登という地方ありながら六角義賢足利義昭とも交遊があり、中央の政権にも関わっていた。 永禄九年の政変後に一時、「義胤」(よしたね)と改名したが、数年で元の「義綱」に名を戻している。また、近江坂本同行した側近の富来綱盛(とぎ つなもり)はこれに倣って富来胤盛(- たねもり)と改名している。 『長家家譜』などの後世書かれ書物には「義則」(よしのり)と記されることが多いが、古文書などの良質な一次史料に「義則」の名は見えない花押は、祖父畠山義総に非常に似ているものを書いている。 近臣飯川光誠がいる。義綱政権にあっては年寄衆務め義綱を補佐し近江亡命した後は、義綱のために外交などで常に一線活躍している。 二人の息子である畠山義慶畠山義隆は、傀儡君主として重臣たちに擁立され、そのうえ父より早く死去した

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梶田直繁」の記事における「人物・逸話」の解説

姓を加治田名乗り、子の繁政から姓を梶田改める。 抄き書きに、蜂須賀加治田、州の股一戦一夜城建設働き事と記述がある。

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本多政和」の記事における「人物・逸話」の解説

天保9年1838年加賀藩松本藩交渉して、塩の提供を条件に、黒部奥山の木材江戸搬出するために松代領を通行する密約結んだことが、残され政和覚書により判明した

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張率」の記事における「人物・逸話」の解説

張率12歳文章作ることができ、1日に詩1篇を作った進歩して賦や頌を作るようになり、16歳になるとその作品2000首ほどに達した張率は陸少玄と仲が良く、陸少玄の家にその父の陸澄の蔵書万余巻があったが、張率はその書を読みつくした。 同郡出身陸倕とは幼な友達で、いつも一緒に衛将軍沈約のもとを訪れていた。任昉沈約のもとにいたとき、沈約張率陸倕付き合うよう任昉勧めたため、張率任昉交友するようになった武帝張率詩について張率東南の美、劉孺雒陽の才」と評した張率の父の張瓌には侍妓が数十人おり、その中に歌を得意とする美女がいて、儀曹郎の顧玩之が求婚したが、女はこれを拒絶して出家してとなった。顧玩之はこの当てつけ張率姦淫したとの怪文書流し、南司がこのことを奏聞した。武帝張率の才を惜しんで、その上奏を無視した張率官職歴任したが、実務的記録には関心がなく、あるとき別駕として奏上したことについて武帝質問すると、張率は「文書にあるとおりです」と答えるだけだった張率は酒をたしなみ、細かい事は寛容許し、とくに家のことは忘れがちであった新安郡にいたとき、張率家僮に米3000石を託して呉県自宅持ち帰らせたが、到着する大半失われていた。張率がその理由を問うと、家僮は「雀や鼠にやられたのです」と答えた張率笑って壮なるかな雀鼠」といった。結局詳しいことを追求しなかった。 張率は『七略』や『漢書』芸文志載せられ詩賦でその文を亡失したもの補作した。

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河合宗元」の記事における「人物・逸話」の解説

養嗣子宗孝が建立した墓石には、容貌魁梧で、性格激烈終始尊攘大義を以て自任していたと刻まれている。藩校教員務めた様に学問優れ傍ら武術にも秀でていたらしく、宗元在世当時使用人勤めていた人物の家には、襖を締め切った八畳間の中で八尺柄の自由自在に使いこなしたとする話が伝わっていた。 刀剣鑑定好み良い品を売る者が有れば千嚢を傾けてでも購入した物頭在職中には一日配下の士を集めて佩刀を検め、鈍刀帯びた数名にその刀では功を挙げる足らない諭しそれぞれに蔵していた刀を贈ったという。 婿養子の宗貞が同志と共に城下商人児嶋政光を暗殺し興奮して帰宅した際には事情聞き、政光を斬った事よりも武士一人を斬っただけで狼狽した事を叱責しとされる文久3年8月17日発生した鳥取藩同士暗殺事件の際には、知恩院に於いて自殺しようとしていた河田景与らを同院に駈け付け説得したとされるまた、自身の収獄までの謹慎中、景与(一説には長州藩士佐々木男也)より幾度も書状鳥取藩逃れる事を奨められたが、自分脱藩すれば、老母危害が加わる事かも知れず、獄に在る同志死地置いて自分だけ助かろうとすることは出来ないとして断ったという。 自殺の際には普段如く談笑して喫し、筆を乞い辞世認めて死に就いた一説には刀で自ら首の少し後ろ側を突き刺して両手で刃を前へ押し、その殆どを切り落としたとする。

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陽耽」の記事における「人物・逸話」の解説

清廉にして正直であり、物静かにして頭の回転が早い人物だった。 妻の李氏博学で、母の模範たる威儀有していた。慕容皝表座敷に入るたび、彼女への拝礼を欠かさなかった。 陽裕若い頃親族でその才能気づく者はいなかったが、唯一陽耽は「この子我が一門優れているだけでなく、時代助け良器と言えよう」と語った陽裕陽耽の子陽騖とともに前燕活躍した

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真田信之」の記事における「人物・逸話」の解説

93歳と当時としては非常に長寿であった信之だが、30代の頃から病気がちであり、40代以降は「手の痛み」「疲れ」「腫れ物」などで病に臥せっていることが多かった元和2年51歳の時にはマラリア病み徳川家康病気見舞い行けずに、代わりに長子信吉駿河遣わしている。翌年5月16日にも江戸へ参勤一日延ばしており、周期的にマラリア発作起こしていたとみられる76歳の寛永18年2月には腫物苦しめられている。 前田利益とは懇意の仲であり、信長の死も利益から聞かされたという。その時、信幸は大将となって佐久・小県をおさえるため軍勢率いて進んでいたが、敵か味方かも定かではない真田軍相手信長の死を明かした利益態度感心し軍勢引き上げた『加沢記』滝川一益事書』)。 天正10年1582年10月離反した真田氏征伐の為、北条氏沼田へと軍を向ける。当時17歳の信幸を大将とし真田軍800手子丸城救援為に駆けつけるも、時既に遅く城は陥落城主大戸真楽斎とその弟(子とも)・但馬守自害してしまう。信幸は真田氏家臣唐沢玄蕃命じて北条軍前衛挑発誘導し伏兵によりこれらを掃討する真田軍巧妙な戦術対応しきれないまま、北条軍兵力消耗恐れ篭城選択した正面比べ警戒の薄い北の丸着目した信幸は工作部隊を派遣北の丸より侵入した工作部隊は「裏切者出た」と叫びながら放火し、不意を突かれ北条軍同士討ちを行う程の混乱陥った。信幸はこの機を逃すことなく50人の決死隊率い、自らも取って突入する。前備の鎌原幸重を失うも正面展開していた兵100名が挟撃し、ついに手子丸城本丸奪取成功した世に平穏訪れたのち、かつて手子丸城の守将であり、徳川将軍家旗奉行となっていた富永主膳自身打ち負かした信之の采配絶賛し昔話として幾度も語ったという。 第一次上田合戦の頃、徳川軍連携して塩田平土豪杉原四郎兵衛一揆起こし冠者ヶ嶽城などを根拠として真田氏抵抗した際、敵方の城を巡見した信之は、身分の低い大蔵という馬丁意見を容れて城を攻め落とし出には褒美与えた後年、信之はこの時のことを振り返って出は馬丁立場出過ぎた行動だったかもしれない。しかし彼は、あの地域のことを良く知っていた者である。戦場ではまず人の区別なく意見聞き道理従い行動すべきである身分が低いからといって相手侮り出の献策用いなければ、あの城は一時で落とすことはできなかったであろう」と述べており、相手身分に関係なく有用な意見用いようとしていた。 豊臣政権時代、信之が最も親しく交流していた秀吉家臣真田氏取次担当していた石田三成であり、その交友関係は他の大名にも知られるところであった。「真田家文書」には14通もの三成からの書状残されている。家康に対して決起した三成は当然信之も味方付いてくれると予想していたが、結局信之は徳川方付いている。 いわゆる真田の赤備え」は弟・信繁大坂の陣用いたのが有名だが、文禄2年(1593年)に秀吉から「武者揃」を命じられた信之が「いつものことくあか武者赤備え)たるへく、指物はあかね」という指示家臣出しており、既に文禄年間には真田氏甲冑指物には赤を使用していた。 2度の上田合戦や大坂の陣において真田家徳川軍苦しめたことや、大坂の陣の際には上田藩内から豊臣方付いた弟・信繫に内通したり、信繫の下に馳せ参じた者がいた(信之はこれらの者を厳しく断罪している。)ことから幕府睨まれることが多く、そのために献身的に幕府の公役務めたといわれる松代への転封不服持ち検地資料などの重要書類焼き捨て上で、さらに上田城植木燈籠などを全て引き抜き持ち去ったと言われる。しかし、これらの逸話出典はっきりしておらず、実際は後に入った仙石氏には引継書類引き渡されている。原則として転封の際の引継書類は前の藩主一度幕府提出し検分受けてから次の藩主引き渡される幕府への引き渡しがないと、家の存続にかかわる重大な事態なりかねない)ため、重要書類破却したのは事実ではない。また松代への移封加増されているとは言え徳川秀忠嫌がらせ1つとされているが、実際松代城祖父・幸隆が参戦した川中島ゆかりの城で、信之以前家康の子松平忠輝越前松平氏松平忠昌左衛門尉酒井氏酒井忠勝といった親藩譜代名門配され要衝であることから、むしろ秀忠が信之を要地任せるに足る人物だと評価していたことを示すものである。信之自身重臣出浦昌相に「誠に家の面目であり、何も言うことがないほど光栄なことだ(「誠家之面目外実共残無仕合ニ而」)」と書き送っている。ただ、同時期に小野お通初代)当てた手紙では故郷の地を離れる心細さ吐露されている。 信之は書や詩歌通じていた京都才女小野お通初代)親交があった。信之が上田から松代転封になった際、お通から見舞状受け取った信之は、返書松代藩領の川中島西行が歌に詠んだ地であり、他にも姥捨山更科の月、善光寺といった名勝領内にあるので、ぜひとも松代下って来てほしいと綴っている。信濃の自然や名所旧跡への思い入れ深く、信之にとっての癒しの元といえる。 信之の保養法は、湯治信濃の自然鑑賞で、療養江戸詰めの後などにしばしば草津温泉利用している。効能熟知していたとみえ、知人らにも勧めて幕臣島田利正湯治計画するや、その面倒をみている。 明治になって真田家伝来家康拝領短刀入っていると思われていた長持に、三成からの書状など真田家にとって不利になる危険な機密書類納められていた事実判明した生前から叔母の夫である三成とは懇意の仲で手紙やり取り多かった。これらを寝ずの番付けてまで保管しており、松代移封不服思い藩政の重要書類焼き捨てた信之が、徳川対す反骨の意味隠したものだと言われている。ただし、上述のように松代への移封を信之が不満に思っていたというのは事実ではない。 徳川頼宣は信之のことを尊敬しており、自邸招いて武辺話を熱心に聞いたという。後に信之は頼宣の子具足親になったとされる逸話残っている。 老境入った信之はしばし隠居願を幕府出していたが、そのたび酒井忠世酒井忠勝から「将軍徳川家綱幼少なので、隠居せずに幕府支えて欲しい」と慰留され、結局91歳になるまで隠居できなかった。隠居認める際、家綱は信之を「天下飾り」と表現している。しかし、後継者となった信政いつまで家督譲られないため父に恨み抱き家督相続後間もなく死去した際の遺言でも残った老父のことには一切触れなかった。この遺言読んだ信之は、大い立腹した伝えられている。 信之が死去した際は、家臣のみならず百姓までもが大い嘆き周囲制止振り切って出家する者が続出したという。百姓町人思い思い冥福を祈る仏事行ったとされ、家臣領民にも慕われる名君であった伝えられている。

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陽休之」の記事における「人物・逸話」の解説

休之は若くして学問励み文章愛好して、名を知られた。 537年天平4年)、高歓汾陽天池赴くと、池のそばで一個の石を拾ったが、石の上に「六王三川」の字が盛り上がっているように見えた高歓は「この文字はどんな意味だろうか」と帳中で休之に訊ねた。休之は「六は大王の字(賀六渾)であり、王は王が天下所有することを示してます。これはつまり大王受命の徴となる符瑞であります天池においてこの石を得たからには天意が王に命じたというべきであり、吉徴であるのは言うまでもないことです」と答えた高歓はまた「三川とはどんな意味か」と訊ねた。休之は「黄河洛水・伊三川し、また渭水洛水三川とするともいいます黄河洛水・伊洛陽です。涇渭水洛水は今の雍州です。大王がもし天命をお受けになれば、関右をも領有することがかないましょう」と答えた高歓は「世間の人は私が常道背いていると非難しているところ、今このことを聞けばますます興奮するだろう。妄言は慎まなけれならないと言った北斉孝昭帝はたびたび休之のもとを訪れて政治手法について諮問した。休之は賞罰明らかにし、役所新設抑え浪費禁止し民衆負担軽減することを政治優先事項とするよう回答した。 休之は中山郡太守西兗州刺史の任にあったとき、善政布いたので、官吏民衆親しまれた。休之が離任すると、人々頌徳碑立てた。 休之は祖珽説いて御覧』の編纂事業をはじめ、書が完成すると、特進の位を加えられた。しかし祖珽左遷されると、休之は祖珽以前から仲が悪かったように朝廷言い触らした。 休之は鄧長顒や顔之推とともに文林館を新設するよう奏上した。顔之推はこの文林館を高齢貴人居場所にしたくはなかったが、休之は双方顔を立てて、若い奉朝請や参軍といった者たちとともに老人たちを文林館の待詔として入れさせた。 魏収が修国史の任につくと、高歓本紀立てて、爾朱氏平定した年を北斉建国とみなす叙述をおこなおうとした。これに対して休之は天保初年建国年として叙述するよう主張した魏収存命のあいだは、両者議論決着しなかった。魏収死後、休之の意見聞き入れられた。 武平末年に休之が中書監兼ねると、「わたしはすでに3たび中書監となっているのに、またこれに任用されるとはどういうことだ」と漏らした

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張悕」の記事における「人物・逸話」の解説

幼少の頃、孤貧であったため、母とともに母の兄弟の家で養われた。学問好み牧牛世話しながら母に孝行尽くした牧牛世話合間木二束と二本毎日母に与えた書物持っている人に頼み、昼に折木合わせて学書とし、夜は学書所有者読んで聴かせたという。

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乙逸」の記事における「人物・逸話」の解説

移動の際、乙逸夫婦は鹿車に乗っていたが、随行していた子の乙璋は数十騎を従え豪奢な服装をして、路傍人々出迎えをさせていた。乙逸は大怒して、車内閉じて一言も話さなかった。城に至り乙逸は乙璋を責めたが、乙璋は改めようとしなかった。乙逸は「私は幼い頃から学を修め、自らの欲に打ち勝ち道理守ったからこそ僅かな才でも罪を免れた。乙璋は質素倹約ができず、豪奢なことを好んでいる。どうして乙璋が幸せになれるだろう、今の時代次第衰え廃れるだろう」と嘆いた。乙璋は中書令御史中丞歴任したという。

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阿部正武」の記事における「人物・逸話」の解説

土芥寇讎記』では大久保忠朝戸田忠昌並んで善人良将」と評されている。 学問好んだ人物で、古記録類の収集家臣命じ2年10ヶ月余りをかけて『武徳大成記30巻を著したまた、綱吉はしばしば正武の邸宅訪れ、諸講義交えたという。

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アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ」の記事における「人物・逸話」の解説

2004年12月31日PRIDE 男祭り 2004出場予定の兄ホドリゴ会場入り大幅に遅れたため、そっくりの容貌という一卵性双生児特徴生かしオープニングセレモニー遅刻したホドリゴ影武者務めた

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アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ」の記事における「人物・逸話」の解説

親日家で、好きな日本食寿司好きな街は六本木コメントしている。 趣味サーフィンリングス時代ブラジルのサッカークラブであるCRヴァスコ・ダ・ガマテーマCOME WITH ME」を入場曲にしていた。PRIDEでは、ZZの「NO WAY OUT」を入場曲にしていた。これは、PRIDE王時代に彼を称えるために作られた曲である。また、2002年8月28日Dynamite!でのボブ・サップ戦ではDragon Ashの「Revolater」を入場曲として使用した一卵性双生児の弟アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ総合格闘家である。2人外見的な見分け方は、ホドリゴの方が若干体格大きく向かって右耳がホジェリオより湧いている点にあり、また背中傷跡有無2人見分けるポイントである。加えてスタンドでの構えホドリゴオーソドックスであるのに対し、ホジェリオはサウスポーである。ほかに、肩に刺青があるのがホドリゴで、胸に刺青があるのがホジェリオである。 2006年5月頃より右眼の黒い部分白濁発見され眼疾懸念されていが、治療完了し、まったく問題はないとノゲイラ自身インタビュー語っている。 母国ブラジルでは自身ニックネーム冠した「Minotauro Fight」を主催しており、後進育成にも非常に積極的。将来の夢には、恵まれない子供たち選手育成する道場構えることを挙げている。 アンデウソン・シウバとの親交深く、アンデウソンにブラジリアン柔術教授しブラジリアン柔術黒帯授与している。 2004年から2005年にかけて日本テレビ放送されバラエティ番組アフリカのツメ」に、旅館勤め外国人板前ノゲイラ」役で準レギュラー出演した

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滕胤」の記事における「人物・逸話」の解説

容貌色白美しく行状立ち居振舞いが見事であったため、正朔朝賀毎回大臣のうち見た者で驚嘆せぬ者は無かった孫権滕胤のために公主への賜物を増重にし、しばしば慰問加えた諸葛恪孫権から「卿は滕胤比べてどうか」と問われたため、これに対し「私は殿中において滕胤に及びません。しかし謀略では滕胤が私に及びません」と答えている。

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マキシモ・ブランコ」の記事における「人物・逸話」の解説

レスリング始めたキッカケとして、バク転していた先輩見てレスリングをやれば自分もできるようになる思ったからだと述べている。試合勝利すると、バク宙バク転)することが恒例である。 仙台育英高校留学する際に、「日本ジャッキー・チェンブルース・リーがいるような国」と思い込んでいたという。 好きな選手ヴァンダレイ・シウバであり、自身シウバのようなパワー溢れるアブレッシブなファイトスタイルを持つ。

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桂岩院」の記事における「人物・逸話」の解説

四辻氏とその存在自体、そして景勝が彼女を寵愛したことは上杉家臣たちの好意好感得られていなかったといわれる四辻氏米沢城入り直後地震起きたことを、景勝正室菊姫差し置いて側室である女を城内入れたことへの天罰としたり、彼女があまりにも早く死んだ原因菊姫怨霊祟りとする俗説もあるという[要出典]。この俗説に関しては、菊姫政略結婚によって上杉家嫁いだ女性であるにもかかわらず複数史書才色兼備謳われている程、上杉家中一同の深い敬愛集め存在であった伝えられることから、四辻氏という女性存在自体認めたくない家臣などが少なからずいた可能性否定できないとの説もある。しかし、当時世継ぎのいない大名家幕府次々と改易していた事実考えると、四辻氏世継ぎを得るために家臣たちの了解勧めのもと、景勝が自らの側室として納れた女性であった可能性が高い。『上杉家御年譜によれば定勝誕生直ち当時景勝滞在であった伏見伝えられ伏見在中家臣たちは悉く参賀慶祝したと記録されている。 その後上杉家四辻家には、四辻氏の甥であるキリシタン公卿山浦光則処遇などを巡る幕府との軋轢などもあった一方で景勝四辻氏の孫にあたる3代藩主綱勝は、継室として又従姉妹にあたる四辻公理の娘富姫迎え四辻家との縁をさらに深めている。

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池田治政」の記事における「人物・逸話」の解説

治政老中松平定信が行なった、倹約統制を主とした寛政の改革反対し、豪勢な大名行列編成して江戸参勤した。このため江戸市民は「越中定信官位)が越されぬ山が二つある。京で中山中山愛親)、備前岡山治政のこと)」という落首詠んだという。治政定信失脚後翌年45歳隠居しているが、これは定信後継者として幕政主導していた松平信明報復受けたためとされている。 隠居後は、島津重豪薩摩藩隠居)や徳川治済一橋徳川家隠居)らと交流があった。 天明4年1784年)、盗賊田舎小僧新助岡山藩邸に忍び込んだ際、寝所寝ていた治政発見された。治政家臣呼ばず、自らの鞭を振るって追い回し新助夜闇紛れて辛うじて逃げ延びた。翌年に捕えられた新助は、この時ほど慌てたことも恐ろしかったともない供述している。

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後藤理沙子」の記事における「人物・逸話」の解説

キャッチフレーズは「強化ガラスハート持ち主」。 愛称は「りさちゃん」「ごりさ」。但し松村香織からは「ごりちゃん」、梅本まどかからは「ごりりー」と呼ばれていた。ちなみにSKE48HKT48田中菜津美とのコンビは「ごりチル」と呼ばれている。 兄が1人いる。 大学では映像制作学び卒業研究では大木亜希子(元SDN48)の著書参考文献使用していた。ちなみに7期研究生だった川崎成美とは大学同期である。 チームS先輩である大矢真那や、2期生加藤智子同期阿比留李帆山田恵里伽とも仲が良い所属事務所公式YouTubeチャンネルでは、後輩4期生)の高木由麻奈と共に「うさぱに」としてYouTuber活動不定期に行っている。

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石井一二」の記事における「人物・逸話」の解説

チェス歴はないが、日本チェス協会から七段を進呈されている。来日中の女子世界チャンピオン・謝軍(Xie Jun・・シェジュン)と対局して88手指し後引き分けとなったことを根拠として当時日本チェス協会松本会長授与した趣味ゴルフでは、日本名門と云われる広野ゴルフクラブのシニア・クラブチャンピオンを1996年に獲っている(当時HPSは6)。 著書多数あるが「徳州会は如何にして日本最大医療法人となったのか」(アチーブメント出版)が有名。 崇教真光の神組み手信徒)。1992年秋季大祭出席し祝辞の中で「我々神組み手は、全世界全国大・中・小各レベル修験道場での修養通じて手かざしの業をもって健康を賜わり、またみ教えを基にして色々と精神的に研鑽重ねておるわけでございます。私は全世界に、今、拡がりつつあるこの崇教真光精神通じて大きく世界我が国として貢献できる日が近からんことを信じておるものでございます。」と篤い信仰心披瀝している。

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人物・逸話

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佐伯惟治」の記事における「人物・逸話」の解説

智勇兼備良将であったと伝わるが、一方で春好という怪僧寵愛して家臣諫言聞かず領民苦しめていたという説もある。

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薛顕」の記事における「人物・逸話」の解説

北伐の際、朱元璋からの詔で『薛顕傅友徳勇略軍中でも一番である』との言葉賜った

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樫本学ヴ」の記事における「人物・逸話」の解説

自画像上半分のミカンの皮の形をした帽子被った姿で、自身の作品にもしばしば登場する最初に作品内登場したのは『爆走!ダッシュクラブ』。アニメ化された作品内で声を充てている声優伊崎寿克また、妻と娘一緒にいることがある浜田省吾大ファンで、漫画背景商品名などに略称である「ハマショー」の文字用いており、彼のライブ感想告知書いている。また、作品内フレーズにもその影響がある(『嵐のJボーイ ぶっとび闘人』の校名や『コロッケ!』の技など)。読者コーナーの「コロコロFC」では、「ハマショーの意味について質問寄せられたことがあった。 藤子・F・不二雄憧れ中学高校時代同級生合作作って藤子不二雄賞応募しており、漫画ではない絵物語送ったこともあった。 高校時代生徒会長務めており、卒業に際してスピーチで「私は東京行って漫画家なります」と宣言していた。 学生時代ブレイクダンス趣味であった第12回藤子不二雄賞授賞式典ブレイクダンス披露して業界人唖然とさせたことがある徳田ザウルスアシスタント経験があり、当時お金困っていたという。 同じ『コロコロコミック誌上活動している漫画家沢田ユキオと仲がよく、互い作品内モブキャラクターとして登場させ合ったことがある。 『コロコロコミック誌上では長らく毎月2作品執筆していた。『嵐のJボーイ ぶっとび闘人』と『やったね!ラモズくん』を同時に描いた時に始まり、1作品終了ごとに『学級王ヤマザキ』、『ヨシモトムチッ子物語』、『ぞくぞくヒーローズ』と交代し、さらに一時期には『別冊コロコロコミック』の番外編と『コミックGOTTA』の『超番ワニオ』も同時に執筆していた。しかし、『ぞくぞくヒーローズ』の終了後、『学級王ヤマザキ連載末期からは1作品のみとなった。 『コロコロコミック掲載時に広告載っていた部分に、コミックスでは描き下ろし漫画を描くことが恒例となっている。内容自身思い出話近況など自伝的なものが多い。 コミックス後書きでは、収録されている話を細かく解説自己評価し、話に関連付けイラスト添えている。納得しない話の場合は「失敗作」などと筆ペン殴り書きし、反省点を挙げることがある最後に総評として、自身決意などを述べる。また、学級王ヤマザキ』の連載後期に、このコーナースランプに陥っていることを吐露していた。 作品の新連載開始前号では必ず予告漫画執筆している。また、その内容は前の連載作品コミックス最終巻に掲載されることが多い。

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蕭循」の記事における「人物・逸話」の解説

9歳で『論語』に通じ11歳文章作ることができ、鴻臚卿裴子野賞賛された。 12歳のとき、生母の徐氏が死去して遺体建康葬るために荊州から長江下ったが、途中で暴風遭遇した前後船舶多く沈没するなか、蕭循抱えて号泣し血涙を流すと、大波揺られながら、無事に帰着できた。母の遺体葬ると、墓のそばに廬を建てて喪に服した以前は墓のある山中には猛獣多かったが、その痕跡見られなくなった野鳥蕭循馴れて、かれの住む廬に巣を作った蕭循姿かたち美しく、かれが衛尉として兵を引き連れて巡回するたびに、武帝は車に移ってかれを眺めた蕭循宮城宿衛して夜間巡回したが、それを人に知られないようにした。 蕭循漢中にいたとき、秋に長史の范洪冑の田地発生した蕭循は自ら田地視察すると、自らを深く責めとがめた。功曹史の王廉が捕まえるよう蕭循勧めたが、蕭循は「これは刺史不徳のいたすところで、どうしてこれを捕まえようというのか」と答えた言い終わるや、突然に飛鳥の千の群れ太陽を覆うようにやってきて、またたく間虫たち食べ尽くして去っていったが、何のかは分からなかった。 武陵蕭紀従事中郎の固を蕭循のもとに派遣して当世事情諮問し、蕭循考えを測ろうとした。蕭循泣いて忠臣孝子の節を語ったので、蕭紀蕭循敬愛するようになった。 ある夕方蕭循寝台うずくまって寝ているのが見つかった蕭循は「これは戦争予兆か」といって城塁大規模な修築はじめた

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王紘」の記事における「人物・逸話」の解説

王紘若い頃から弓と馬を好み騎射を得意とし、すこぶる文学愛した王紘13歳のとき、揚州刺史の郭元貞会った。郭元貞王紘の背を撫でて「おまえは何の書を読んでいるのか」と訊ねると、王紘は「『孝経』を読んでいます」と答えた。郭元貞が「孝経何を言っているのか」と訊くと、王紘は「上にあっては驕らず、下にあっては乱れないということです」と答えた。郭元貞が「わたしは刺史となったが、驕っているのだろうか」と訊くと、王紘は「公は驕ってはいませんが、君子発生しないうちに防ぐといいます願わくはご留意くださいと言った。郭元貞王紘褒めた王紘15歳のとき、父に従って北豫州にいた。行台侯景が衣を着る方法は襟を左前とすべきか、右前とすべきかを人と論じあったことがあった。尚書敬顕儁は「孔子が『管仲がいなければ、わたしは髪をざんばらに襟を左前にしていただろう』(『論語』 憲問)と言ってますから、襟を右前にするのが正しのでしょうと言った王紘進み出ると、「国家の龍が朔野を飛び中原を雄歩して、五帝儀式異にし、三王制度別にしているのですから、衣の襟の左右など、どうしてこだわるに足りましょうかと言った侯景少年聡明珍しく思って名馬賜った文宣帝側近たちと酒を飲んでいたとき、「快きかな、大楽あり」と言った王紘は「また大楽あり、また大苦あり」と答えた文宣帝は「大苦とは何のことだ」と訊ねた王紘は「長夜に荒飲して悟らず、国は滅びて家は破れ、身は死して名は滅ぶことが、いわゆる大苦でございます」と答えた文宣帝憮然とした。後に「おまえと紇奚舎楽は同じく我が兄に仕えたが、舎楽は死んだのに、おまえはどうして死んでいないのだ」と王紘責めた王紘は「君主亡くなると臣下が死ぬのは、もとより平常決まりです。ただし反乱者が弱小なりと立っている場合には、臣下死なないものなのです」と答えた文宣帝燕子献に命じて王紘を縛らせ、長広王に頭を押さえさせ、文宣帝自ら刃を下そうとした。王紘は「楊愔と崔季舒逃走して難を避けながら、位は尚書僕射にいたりましたが、死の危険を冒して直言する士がかえって殺戮されるとは、昔からこのような例はありません」と言った文宣帝は刃を地に投げ捨てて、「王師羅は殺すことができないと言って釈放させた。

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高浚」の記事における「人物・逸話」の解説

王氏高歓の家に入り、その月に妊娠して高浚産んだので、高歓自分の子ではないと疑い高浚愛そうとはしなかった。高浚幼くして聡明なところをみせると、後に愛されるようになった高浚8歳のとき、「(『論語』八佾第三にある)『祭神神在』(神がいるかのように神を祭る)とは、神がいるのか、いないのか?」と博士の盧景裕に問うと、盧景裕は「おります」と答えた高浚は「神がいるのであれば祭神神在』というべきだろうに、なぜわざわざ『如』の字をつけるのか?」と訊ねると、盧景裕は答えることができなかった。 高浚成長すると、悪ふざけ好んで節度がなく、部下請託受けたため、杖罰受けて、府獄に拘禁された。後に態度改めて、読書いそしむようになった高浚豪快な性格で、騎射を得意としたため長兄高澄愛された。次兄高洋(後の文宣帝)はひ弱な性格で、高澄のもとを訪れるたびに泣き出したため、高浚が「どうして次兄の鼻を拭わないのか」と高洋側近たちを責めると、高洋高浚のことを嫌うようになった高浚狩猟好み聡明情け深かったため、北斉人々はかれを畏れ敬った文宣帝末年、帝が酒におぼれた生活を送っていたので、高浚が「次兄はむかしから我慢をしない人であったが、即位後はますますひどくなった。いまは酒のために徳を失っているが、朝臣にはあえて諫める者もいない」と側近漏らした。これを文宣帝密告した人がいて、またさらに憎まれた。 高浚高渙地下牢籠の中に収監された。文宣帝側近たちを引き連れておもむき地下牢の前で歌をうたい、高浚唱和させようとした。高浚らは恐怖悲痛で声が裏返って合唱どころではなかった。文宣帝悲しみ覚えて泣きだし、ふたりを赦免しようとした長広高湛はかつて高浚と仲の良い間柄であったが、「猛獣を穴から出すべきでしょうか」と進言すると、文宣帝黙ってうなづいた。高浚らはこれを聞くと、高湛小字呼んで、「歩落稽、皇天は汝を見ているぞ」と叫んだ文宣帝高浚高渙信望の高さを恐れて殺害を決意した。文宣帝は自ら高渙刺し、また壮士の劉桃枝命じて籠の中をめった刺しにさせた。高浚高渙は天を呼んで号哭した。さらに火を投げこんでふたりを焼き殺しその上に石と土をかぶせた。後に遺体掘り出すと、皮や髪はすべてなくなって遺体の色は炭のようであったため、天下人々心を痛めた高浚死後文宣帝高浚の妃の陸氏を儀同の劉郁捷と再婚させることとした。劉郁捷は文宣帝の元奴隷であり、軍功により任用され、命令受けて高浚殺害したことから、陸氏を妻として与えることにしたのである数日後、陸氏が高浚寵愛受けていなかったことを口実に、高浚離別させて再嫁させた。

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坂東三津五郎 (10代目)」の記事における「人物・逸話」の解説

私生活では二度の結婚離婚経て独身だった。初婚1983年で、相手宝塚歌劇団雪組花組男役トップスター務めた寿ひずるである。生を含む女児ふたりと、二代目巳之助を授かるが後に離婚当時三津五郎実家の家族らと寿との結婚以来諸々確執や、近藤サトほか三津五郎複数女性関係があるとの噂などが取沙汰された。また3人の子親権三津五郎が、養育は寿がもったエピソードもあるが、これは寿が離婚で子の姓が変わるといじめなど不利益にならないかという心配や、寿が若くして実父死別宝塚在団中)した経験から子を手放したくないことを三津五郎申し入れていたためとされる。 寿と離婚成立後1998年近藤サト再婚したが、2000年離婚近藤との間には子はない。 生まれ日本橋小伝馬町だが、育ち青山で、少年時代近所根津美術館青山都電車庫(現在その跡地こどもの城建っている)などでよく遊んでいたと自著記している。 また、同い年幼馴染十八代目中村勘三郎との交友ぶりはよく知られ勘三郎の企画名を連ねることが多かった2012年12月5日勘三郎の訃報聞き無言の帰宅をした勘三郎宅に駆けつけ盟友死に人生半分をもぎ取られたようだ」というコメント残している。 自他共に認める大の城郭建築好きで知られ三津五郎も「日本国内行ったことのない城は、ひとつかふたつだけ」とコメントしていた。その城好きが買われBS朝日日本名城案内する自身冠番組持っていたり、城に関する著書発表したほどであった祖父八代目三津五郎フグ毒死去したことから、自身フグを食さなかった。 誰に対しても威張らないインスタントコーヒーCM出演している時期に、出演したテレビ番組コーヒー飲んでやっぱり本物コーヒー美味しい」と発言した慌ててインスタントでも美味しいのがありますよ」と取り繕ったが、CM出演期間が来ると更新されることなく降板した。

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和田耕治」の記事における「人物・逸話」の解説

匿名短期間だけ開設していたブログには、次のような言葉を残している。 「法律社会許さないといっても、そんなもの無視してよい・たとえ罰せられても医師としての覚悟の上だ・国や法律ができる前から医療存在してるんだいうのが私の信念です」

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姚碩徳」の記事における「人物・逸話」の解説

率いた私兵集団は『後秦最強部曲』と称えられ精強さを誇った姚萇死後配下の者が姚興殺されることを危惧して「公は威名高く部曲最強であるため、必ず朝廷から猜疑目を向けられましょう秦州に奔って事勢を観望するべきです」と勧めた姚碩徳はこれに答えて太子は寛明な性格なので、理由なく疑うことなどあるまい未だ苻登滅びていないのに、互いに争うというのは敵を利するだけではないか。わしが死ぬことになっても、そのようなことはせぬ」と一蹴した姚興領域内及び朝廷文武諸官対し叔父姚緒及び姚碩徳の名を犯してはならぬ布告出して特別な礼遇尽くしていることを示した姚興姚碩徳権威大きいことから、彼が小人惑わされることを恐れ、特に清廉な人物選んで補佐させた。 姚興姚緒姚碩徳に会う度に家族としての礼を尽くし、名ではなく字で呼んだ姚興車馬服玩の類は全て姚緒姚碩徳優先して自身はこれに次ぐものを用い国家大事に関して二人諮ってら行った。 姚碩徳上邽から来朝すると、姚興領域内に大赦施行した姚碩徳上邽帰る際、姚興途中まで見送ってから帰還した姚碩徳の軍は軍令徹底されて、これを僅かたりとも違反する者なく、掠奪を行わなかったため、民衆らはこれを喜んだ姚碩徳先賢祀り、儒哲を礼遇したことから西方の人々はこれをよろこんだ。

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