幕府との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 15:50 UTC 版)
長享元年、9代将軍足利義尚は荘園横領を繰り返した六角高頼征伐で近江へ親征(長享・延徳の乱)、高頼は観音寺城から甲賀へ逃亡、幕府軍は長滞陣となった。土岐成頼と斎藤妙純は高頼の一味と見られたため参陣せず(成頼の次男は高頼の猶子になっていた)、美濃に留まった。やがて延徳元年(1489年)に義尚は陣没、親征は中止されたが、義尚の後を継いだ従弟の10代将軍足利義稙も延徳3年(1491年)に近江親征を再開、高頼は逃亡という同様の展開となっていった。成頼と妙純は義稙の下へ参陣、高頼との関係を解消した。 2度目の親征も高頼征伐は果たせず、義稙が明応の政変で管領細川政元に廃位され、高頼が混乱に乗じて幕府側の近江守護山内就綱を追放したため事実上親征は失敗に終わった。
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