幕府での政争と暗殺とは? わかりやすく解説

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幕府での政争と暗殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:24 UTC 版)

赤松義村」の記事における「幕府での政争と暗殺」の解説

京の幕府で政元の死(永正の錯乱)後、永正4年1507年)から同6年1509年)の間に元服して前述通称二郎称したとされるまた、10代将軍足利義尹(のちの義稙)と11代将軍・足利義澄(※永正5年1508年)を境に将軍交替義尹将軍復帰)との間で権力争い起きると、赤松家先代の政則の代より阿波細川家細川澄元実家)と縁が深かったためもあり、当初は義澄側の味方をしたが、同8年1511年)の船岡山合戦で義澄が敗退した後は、将軍への返り咲き確定した義尹和睦し、その証として同9年1512年11月には義尹より偏諱官途与えられて「兵部少輔」と名乗った。その一方で義澄の子・亀王丸(のちの12代将軍足義晴)を引き取って養育したりするなど、中央への影響力依然として保持した成人し親政するようになった重臣浦上村宗小寺則職補佐を受ける一方で奉行制を導入し大名権力の強化もくろむものの、権力制約されることを嫌った宗達反発を受け、永正15年1518年)には、宗は居城備前三石城退去してしまう。これに激怒したは同16年1519年)、則職らとともに軍を率いて備前美作宗の根拠地攻撃し一時優勢になったものの浦上氏支持する国人達の抵抗配下名将宇喜多能家のため敗北重ね守護赤松氏権威失墜し逆に播磨への宗の侵攻許してしまう。この間、同15年1518年12月将軍義稙義尹より改名)より阿波逃れていた細川澄元およびその家臣らを成敗するように命ぜられ(『御内書案』永正15年12月2日条、同16年1519年10月澄元がに挙兵すると、11月3日義稙より細川高国味方するよう命ぜられている(『室町家御内書案』)が、宗と抗争のためか特に動きはなかった。 同17年1520年11月には側から要請により、嫡子才松丸(改め)を引き渡して隠居余儀なくされ、その後何回復権図ったものの果たせなかった。 永正18年1521年正月足利王丸奉じて挙兵するも宗に敗れ、のち側から和睦持ちかけに応じるも、謀られる形で和解の席で捕縛され播磨室津城に幽閉され同年元号変わり大永元年9月17日宗が放った刺客の手により暗殺された。 家督前述通り遺児才松丸(のち政、政祐、晴政と改名)が継いでおり、守護としての赤松氏名目上存続許されてはいたが、赤松家こののち衰退一途をたどることになる。 尚、名水播磨十水定めたのはこの義とされる

※この「幕府での政争と暗殺」の解説は、「赤松義村」の解説の一部です。
「幕府での政争と暗殺」を含む「赤松義村」の記事については、「赤松義村」の概要を参照ください。

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