永正の錯乱
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永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする、管領細川氏(細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。
- ^ 馬部隆弘「細川高国の家督継承と奉行人」(初出:『戦国史研究』第69号(2015年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P71-74.
- ^ 石井進編『中世の法と政治』(吉川弘文館、1992年)
- ^ 浜口誠至「戦国期管領の政治的位置」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P179-189
- ^ 澄元、之長が阿波に逃亡したのは岡山城の戦い後であるとする史料もある。
- ^ しかし、寝返り直後から晴元と不和になり、晴元の命を受けた木沢長政によって暗殺された。
- ^ 馬部隆弘「「堺公方」期の京都支配と松井宗信」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)ISBN 978-4-642-02950-6 p271-272/初出:稲葉継陽、花岡興史、三澤純編『中近世の領主支配と民間社会-吉村豊雄先生ご退職記念論文集』(熊本出版文化会館、2014年)
- ^ 馬部隆弘「「堺公方」期の京都支配と松井宗信」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)ISBN 978-4-642-02950-6 p272-274/初出:稲葉継陽、花岡興史、三澤純編『中近世の領主支配と民間社会-吉村豊雄先生ご退職記念論文集』(熊本出版文化会館、2014年)
- ^ 自害、暗殺など諸説ある。
- 1 永正の錯乱とは
- 2 永正の錯乱の概要
- 3 脚注
永正の錯乱
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詳細は「永正の錯乱」を参照 政元の後継者は一応澄元となっていたが、政元は、澄元を養子にした後に更に細川氏の一族である野州家より細川政春の子・高国を養子に迎えるなど、3人の後継者候補が並立する状態を作ってしまった。そんな中、永正4年6月23日、政元が香西元長や薬師寺長忠ら澄之の支持者によって暗殺されたことがきっかけとなって永正の錯乱が発生した。澄元も翌24日に澄之の家臣に屋敷を襲われ、三好之長と共に近江国青地城に逃れ、甲賀の山中為俊を頼って逃走した。そして近江の国人の力を借りて勢力を盛り返し、8月1日には京都に侵攻して澄之とその支持者を討ち取り、2日には将軍・足利義澄に対して細川京兆家の家督継承を承認させたのである。 ところが澄元は若年だったため、家宰であった三好之長の実力が逆に大きくなり始め、澄元は之長と対立して一時は阿波に帰国しようとした(『宣胤卿記』)。この時には足利義澄の説得もあって帰国はとどまっている。8月27日に家臣の赤沢長経を大和国へ派遣、大和を制圧した。 このような京都における一連の内乱が、周防国に流れていた10代将軍(前将軍)・足利義尹(義材より改名、後の義稙)のもとに知らされると、義尹は大内義興に擁立されて上洛を開始する。澄元は義興との和睦を画策したが、同じく政元の養子で澄之討伐に協力した細川高国が大内方に寝返ったため、決裂してしまった。高国離反の背景として、『不問物語』という軍記物語の永正5年条には、澄元が阿波時代以来の側近である三好之長・高畠長信・忠阿弥を重用することに対する反発があり、これに不満を持った細川氏の一門が澄元を廃して細川政賢を擁立しようと画策したところ、細川元治が高国の方が相応しいとする主張を述べて政賢らを納得させたと伝えられている。また、高国の擁立を聞いた京兆家の内衆も(家臣)高国側に寝返ってしまったという(なお、京兆家の内衆の中でも赤沢長経の一族のように澄元に従った者もいた)。更に三好之長のように阿波守護家から澄元に付けられて京兆家に入った家臣に京兆家の所領である讃岐国の所領が与えられるようになると、讃岐の内衆の中にはこれを阿波守護家による侵略とみなすものがおり、彼らも高国に協力するようになる。
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永正の錯乱
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之長は主君・政元の後継者問題においては澄元を支持、永正4年(1507年)には政元・澄元に従って丹後の一色義有攻めに参戦している。5月29日に政元が帰洛すると澄元と共に従ったが、6月23日に政元が香西元長や薬師寺長忠によって暗殺され、仏陀寺を宿所としていた之長は翌24日に元長らによって澄元と共に襲撃された。之長は澄元を守って近江の青地城に逃れ、甲賀郡の山中為俊を頼って落ち延びた。 元長と長忠は澄之を京兆家の当主に擁立したが、8月1日に細川一族の細川高国や尚春、政賢らの反撃を受けて全員討たれた。翌日の2日に之長は近江から帰洛し、澄元と共に11代将軍足利義澄を擁立して権勢を掌握した。この時、京兆家当主となった澄元より之長は政治を委任されたという。 だが、之長と澄元の仲は必ずも円満では無かった。幕政の実権を掌握した之長には増長な振る舞いが多かったため、澄元は13日に本国の阿波に帰国しようとしたほどで、16日には遁世すると言い出した。この時は澄元の帰国で将軍職を追われることを懸念した義澄の慰留と、澄元の命令に応じて之長が被官の梶原某を処刑することで収拾され両者は和解したようであり、27日に澄元が尚春の屋敷の能興行に招待された際、之長は太刀持ちとして従っている。またこの後、之長は剃髪して喜雲と号し、澄元の執事職は嫡男の長秀に譲っている。しかし、之長や高畠長信ら阿波細川家出身の澄元側近が京兆家の中で発言力を持つことに畿内・讃岐出身の京兆家内衆(家臣)や細川氏の一門の間で反発が高まっていった。
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