征夷大将軍
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注釈
- ^ 鎮守将軍と同格。
- ^ 源頼朝以降は例外が無い。
- ^ 同時に佐伯石湯が征越後蝦夷将軍に任じられた。
- ^ 養老4年9月28日に陸奥按察使の上毛野広人が殺害され、翌29日に多治比縣守が持節征夷将軍に任命された。
- ^ 紀古佐美の場合、延暦7年7月6日の任命の際は、『続日本紀』では「征東大使」に、『日本紀略』では「征東将軍」になっている。
- ^ 将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。
- ^ 「征東大使」として、他に藤原継縄や藤原小黒麻呂などの任命例もある。
- ^ 他の征東・征夷の将軍は、大の付く付かないにかかわらず、天皇より節刀を授かり全権を委任されていたが、文室綿麻呂に限っては節刀を授かっていない。
- ^ 建久3年(1192年)の征夷大将軍就任で下文が「将軍家政所下文」に変わったが、建久5年10月以降に再度、文書の形式が「前右大将家政所下文」に戻る。これを頼朝が征夷大将軍辞官の意思表示をしたための変更と解釈する説である。一方で高橋富雄は「辞任ならば終官が最も重んじられ『前将軍』が使用されるはずだがそうではなく、『前右大将』が使用されたのは、その方が権威があるからに過ぎない」として辞任否定説を取る[10]。また、受理されたか否かも別問題でこれも論争があり、石井良助は『尊卑分脈』の頼朝の建久3年(1192年)7月将軍就任記述の後、同5年10月10日条に「辞将軍」とあることから、頼朝が実際に将軍を辞任したとの説を取る。
- ^ 『山槐記』(中山忠親の日記)と『荒涼記』(藤原資季の日記)から除目・諸行事・諸事について抄出したもの。『山槐記』からの抜粋に藤原定能の記事が多く、資季は定能の孫であることから、編者は定能・資季の子孫と察せられる。
- ^ 同時に、義仲が任官したのも『吾妻鏡』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『玉葉』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった。
- ^ 摂家将軍はそれに準ずる
- ^ 『多聞院日記』天正12年(1584年)10月16日条にある、公卿就任の際に、朝廷から征夷大将軍を兼任するよう勧められたが断ったという記述による。
- ^ 官位は、将軍補任時と解任時。及び没後の贈官位。
出典
- ^ なお平安中期に藤原忠文が征東大将軍に任ぜられたが、これは平将門討伐のためであって、蝦夷征討を目的としたものではなかった。
- ^ なお徳川三家、三卿の当主も同じく公卿(従二位〜従三位)に任じられた。
- ^ これは現代の叙勲では首相と本省課長、朝廷の役職でもそれに相当する格差である。
- ^ 将軍は補佐役以下に実権を完全掌握されて傀儡でしかなかった例も少なくないが、それでも形式上の権威は圧倒的であった。
- ^ 高橋典幸「鎌倉幕府の成立をめぐって」『文化交流研究 : 東京大学文学部次世代人文学開発センター研究紀要』第26巻、東京大学文学部次世代人文学開発センター、2013年、31頁。
- ^ 綱野善彦 1997, pp. 34–35.
- ^ 綱野善彦 1997, pp. 19–31.
- ^ 高橋富雄 1987, pp. 56–57.
- ^ 石井良助 『大化改新と鎌倉幕府の成立』創文社 1958年 p.87-91
- ^ 高橋富雄 1987, pp. 65–66.
- ^ 山本みなみ 2021, pp. 131–133.
- ^ 櫻井 2004.
- ^ a b 関口 2018, pp. 20–40, 下村周太郎「そもそも、源頼朝は征夷大将軍を望んでいなかった?」
- ^ 西田 2009[要ページ番号]
- ^ 川合 2009[要ページ番号]
- ^ 川合康「鎌倉幕府の成立時期を再検討する」『じっきょう地歴・公民科資料』76号、2013年。/所収:川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、277-278頁。
- ^ 北村 2005, pp. 137–194.
- ^ 山本みなみ 2021, p. 133.
- ^ a b c d 竹ヶ原康弘「親王将軍期鎌倉幕府祭祀・祈禱に関する考察」『年報新人文学』第11巻、北海学園大学大学院文学研究科、2014年12月、148-175頁、CRID 1050001337523315968、ISSN 1883-1524。
- ^ 山本幸司 2001, p. 169-171.
- ^ 竹ヶ原康弘「鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 : 摂家将軍頼経期を中心に」『年報新人文学』第10巻、北海学園大学大学院文学研究科、2013年12月、120-153頁、CRID 1050564287476724608、ISSN 1883-1524。
- ^ a b c 山本幸司 2001, p. 277-278.
- ^ 近藤成一 2016, p. 56-57.
- ^ 近藤成一 2016, p. 58.
- ^ 湯浅吉美「『吾妻鏡』に見える天変記事を読む : 鎌倉武士は天変をどう受け止めたか」『郷土神奈川』第51号、2013年、39頁。
- ^ 山本幸司 2001, p. 294-297.
- ^ 近藤成一 2016, p. 89-90.
- ^ 関口 2018, pp. 80–81, 鈴木由美「足利将軍家誕生は、「源氏の嫡流」の復活だったのか?」.
- ^ 今谷明 1990, pp. 110–168.
- ^ 今谷明 1990, pp. 198–203.
- ^ 今谷明 1990, pp. 203–204.
- ^ 今谷明 1993, pp. 174–175.
- ^ a b 木下 2014, pp. 359-361・363-364.
- ^ a b 堀新「豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったのか?」『偽りの秀吉像を打ち壊す』柏書房、2013年。
- ^ 堀 2010, p. 89.
- ^ 鈴木眞哉『NHK歴史番組を斬る!』洋泉社〈歴史新書y〉、2012年、154-155頁。
将軍職
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慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する。当初は慶喜みずから長州征伐へ出陣するとして朝廷から節刀を下賜されたが、小倉城陥落の報に接して出陣を取りやめて今度は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。 家茂の後継として、老中の板倉勝静、小笠原長行は江戸の異論を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、8月20日に徳川宗家は相続したものの、将軍職就任は拒み続け、12月5日に二条城において将軍宣下を受けてようやく将軍に就任した。この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった。 慶喜政権は会津・桑名の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した。一方、これまで政治的には長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。ただ寛文印知以来、将軍の代替わりの度に交付していた領知目録等は、最後まで一切交付できなかった。 慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・徳川昭武(清水家当主とした)をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。 しかし兵庫開港問題を強引に推し進めたことで慶喜への反発は強まった。慶喜の強硬姿勢、上京四侯による内政改革の糸口をつかむことの不可能さ、京坂以西の反幕的政治情勢の深化は、薩摩藩を武力討幕路線へ傾斜させ、薩長芸に土佐藩内の討幕派(土佐は全体としては幕府を含めた雄藩連合を目指す力の方が強かった)が加わる薩藩主導の討幕勢力の形成が進んだ。
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