蝦夷
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蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東国(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道、千島列島、樺太)などに住む人々の呼称である[1]。
注釈
- ^ 高橋崇は蝦夷の自称とは言わないが、中国側が呼んだものとしてこの説に傾く[15]。
- ^ 工藤雅樹もこれを支持する[21]。
- ^ 下線部「「毗」は田へんに「比」の一文字、「儾」は「亻」(にんべん)に「嚢」の一文字。
- ^ ただし中世の蝦夷に含まれる渡党という集団は、文化的には近世アイヌに酷似しているが、その実体については諸説あり、青苗文化人の後裔とも、和人が土着化したものとの説もある。渡党の出自が何であれ、かれらは道南で和人の支配体制に取り込まれ、次第に和人化していったとも言われる。
- ^ 北海道渡島半島の住民で、津軽海峡を往来する交易集団。
- ^ 北海道太平洋側(近世の東蝦夷)の住民で、千島方面の産物をもたらした交易集団と推定される。
- ^ 北海道日本海側(近世の西蝦夷)の住民で、樺太(唐太)とつながり、中国の産品をもたらした交易集団と推定される。
出典
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- ^ 高橋 1974, p. 23; 高橋 1969, p. 49; 工藤 2001, p. 33.
- ^ 高橋 1974, p. 23; 高橋 1969, pp. 49–50.
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- ^ 高橋 1974, pp. 32–33; 高橋 1969, p. 50.
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- ^ 中道等『奥隅奇譚』、郷土研究社、昭和4年、p.3
- ^ 金田一 2004, pp. 116, 127.
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- ^ 熊田 1986, pp. 162–165.
- ^ 蝦夷は、倭・高句麗戦争直後から日本へもたらされた馬および騎射の技を、和人よりも高度に習得し磨いた。
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- ^ 熊谷 1986, p. 90.
- ^ 熊谷 1986, pp. 87–90.
- ^ ただし渡嶋については、北海道南西部は、考古学的に古代の馬の骨は発見されておらず詳細は不明である。
- ^ 『類聚三代格』巻19
- ^ 森嘉兵衛『県史シリーズ』 3巻、山川出版社、1972年、38-41頁。内容:岩手県の歴史。
- ^ この頃、オホーツク人が南下し、道北・道東へ居住した。
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- ^ a b 小泉保『縄文語の発見』青土社、1998年。ISBN 4791756312。[要ページ番号]
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- ^ 古田史学の会 編『古代に真実を求めて』 第7集、明石書店〈古田史学論集〉、2004年。ISBN 4750318981。[要ページ番号]
- ^ 直正, 大石; 秀人, 辻; 公男, 熊谷; 進, 榎森; 嘉美, 守屋 (1998). 歴史のなかの東北―日本の東北・アジアの東北. 河出書房新社. ISBN 978-4309223254
- ^ 保男, 北構 (1993). 古代蝦夷の研究. 雄山閣出版. ISBN 9784639010319
- ^ 『吾妻鏡』貞応3年(1224年)2月29日条にある難破した高麗船の荷物の調査記録では、高麗の弓について「(本朝の弓と比べて)短く、夷弓(蝦夷の弓)に似ていて、皮製の弦である」と記されており、長弓を用いる和人に対し、短弓を使用していた。このような蝦夷の武器(短弓、毒矢)や戦術(騎射、軽装甲)はモンゴル系民族と類似している。なおアイヌも短弓と毒矢を使用する。しかし、北方系の騎馬民族には刺青の風習はなく、日本在来馬の起源も蒙古馬から対州馬を経て、拡散されたものであり、この説は空想の域を出ない。北米のネイティブ・アメリカンの例でもある様に、渡来した集団(この場合白人)から馬を手に入れ、文化に組みこまれたものと思われる。
- ^ “オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー”. 北海道新聞. (2012年6月18日)
- ^ 福崎孝雄「エミシ」とは何か(現代密教第11・12合併号)
蝦夷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:19 UTC 版)
アテルイ 実在の人物。史実では天皇に対する反逆者として排除されたため、詳しい人物像などは不明。 倭人の侵略に抵抗する蝦夷たちの長で、チキサニの異母兄、阿高の伯父。アベウチフチと共に、チキサニや阿高の力を倭人との戦いに利用しようと考えている。 ニイモレ 蝦夷だが倭人に通じる人物。かつては倭に敵対していたが、蝦夷の将来を考えた末に倭へ寝返った。チキサニを深く愛していたが故に、倭人の勝総を愛したチキサニを憎み、巫女の力を受け継いだ阿高も「チキサニ」と同一視し強く憎んでいる。 アベウチフチ 「蝦夷の火の守り神」とされる蝦夷の老巫女。倭人の侵略に対抗すべく、チキサニや阿高の力を利用しようと目論み、チキサニの本来の力を歪めてしまう。 リサト 蝦夷の里に連れてこられた阿高を世話する女性。まだ若いが未亡人で、幼い娘がいる。かつて母プトカがチキサニに仕えており、秘められたチキサニの真実を母から託された。ニイモレは叔父。 チキサニ/ましろ 阿高の亡き母で、「蝦夷の炉端と火の女神」とされる蝦夷の巫女。100年以上前に海を越えて蝦夷に拾われた宝玉の女神「チキサニ」の力を受け継ぎ、蝦夷たちからはチキサニ女神と同一視されている。アテルイの異母妹で、巫女になる以前の俗名は不明。 蝦夷との戦いで瀕死の重傷を負った勝総を助け、チキサニを巫女や女神ではなく一人の娘として扱う勝総に惹かれるようになる。勝総には「ましろ」と言う倭名で呼ばれる。後に勝総から家宝の明玉を託され、生まれた息子に明玉と巫女の力を継がせて亡くなった。 ちびクロ 乳離れしたばかりの蝦夷の仔犬。オオカミの血が流れており、決して主人を変えない忠実さを持つ。蝦夷の里で出会った阿高に懐き、阿高たちと共に旅することになる。
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蝦夷(えみし / ドワーフ)
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「装甲悪鬼村正」の記事における「蝦夷(えみし / ドワーフ)」の解説
今でいう北海道を本流とする一族で、褐色の肌に長い耳、金色や銀色の髪を持つ。
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蝦夷
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詳細は「蝦夷」を参照 朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあったが、アイヌと古代の蝦夷との関連については未だに定説はなく、日本史学においては一応区別して考えられている。北海道、樺太は遅くとも平安時代末に和人の定着が見られるまでは、多種多様な種族部族のアイヌが分散、集落での対立が多く、統一した民族ではなかった。また、文字が無く、どのような統治状態なのか全く分かっていない。 東北地方の蝦夷(えみし)は和人により古代から征討の対象とされ(蝦夷征討)、平安時代の民夷融和政策により、平安時代後期までには東北地方北端まで平定され和人と同化した。 中世以降、アイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた。 また、黒竜江(アムール川)下流域や樺太に居住する他の諸民族から、樺太アイヌは骨嵬(クギ)などと呼ばれていた。
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蝦夷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:29 UTC 版)
詳細は「蝦夷」を参照 歴史上、蝦夷と呼ばれる人々がどのような人々であったのかはいまだにさまざまな論があるが、何であれ中華思想に基づいた律令国家にとっては、「自らの支配下の外側にある人々という概念」でしかなかった。 しかし、奈良時代になると平城京の造営や軍団の整備により財政が悪化したことから、それまで支配下とは考えていなかった蝦夷からも徴税するため、大規模な侵略を始めたことで戦いが激化した。7世紀半ばに阿倍比羅夫らが現在の秋田や津軽地方、さらにその北方に至ったとされるが、8世紀初頭に律令国家に安定的に組み込まれていたのは、今の山形県庄内地方や宮城県中部以南までであった。当時は城や柵(城柵官衙と呼ばれる施設)が作られ、その周囲に柵戸と呼ばれる民が関東や北陸地方から移民させられて耕作に当たっていた。郡山遺跡(宮城県仙台市)は当時の中心的な官衙であったとみられている。平城遷都の前後から政府は急速な拡大政策をとる。708年には越後国に出羽郡をおき、712年には出羽国とした。また東海・東山道諸国の民を城柵に移す。農耕や防衛に当たらせた。これに対して蝦夷は709年および720年に反乱を起こすと、720年の時には陸奥按察使上毛野広人が殺害される事態となった。政府は大軍を発してこれを鎮圧、新たに郡と柵、さらにこれらを統括する施設として多賀城を建設した。一方日本海側では733年に出羽柵が現在の秋田市に移設された(後の秋田城)。 その後政府は蝦夷の首長を郡司に任命して部族集団の間接的な支配を行い、また個別に服属してきた者は俘囚として諸国に移民させられたりした。こうして東北地方南部は徐々に律令制の内部に組み込まれていくが、東北地方北部以北は依然として律令国家の支配外であった。しかし文化・経済の交流は続き、擦文文化には出羽地方の古墳の影響を受けた末期古墳が築造され、また恵庭市では和同開珎も出土している。 藤原仲麻呂政権は対蝦夷政策も積極的に行った。757年(天平宝字元年)に仲麻呂の子朝狩が陸奥守となり、新たに勢力外だった土地に桃生城および雄勝城を建設した。また762年多賀城を改修し、蝦夷への饗給(きょうごう)を行うにふさわしい壮大な施設へと変えた。774年(宝亀5年)には桃生城が蝦夷に攻撃されて放棄され、780年(宝亀11年)には伊治呰麻呂が陸奥按察使紀広純を殺害し多賀城を焼き払うという事態に至り、これ以降三十八年戦争といわれる果てしない戦いへと突入する。戦いは奈良時代の間には決着がつかず、坂上田村麻呂の登場によりようやく終息する。後に藤原緒嗣により「今天下の苦しむところは軍事と造作なり」と指弾されることとなる対蝦夷戦争は、「天皇の政治的権威の強化に大きな役割を担っていた」のである。
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蝦夷(えみし)
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古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団や敵対した集団が記録に残っている。しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。 「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一なアイデンティティーは無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。
※この「蝦夷(えみし)」の解説は、「蝦夷」の解説の一部です。
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蝦夷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:37 UTC 版)
蝦夷(えぞ): 東北地方。「つぼのいしぶみ」は坂上田村麻呂が彫ったとされる石碑。みちのくの いはで忍ぶは えぞしらぬ かきつくしてよ つぼのいしぶみ(『新古今和歌集』、源頼朝)
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蝦夷
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